2011年11月28日  厚い雲の日。空気は湿って暖かい。


人のやったことではなく、
その見つけ方をこそ知りたい。
創造そのものではなく、
そこへの辿り着き方を学びたい。


もう11月も終わりそうだが、やっと時間ができた感じ。この前更新した12日、心臓血管外科の検査から帰ってすぐだったが、実は、僕は南三陸の中学生を美術館にバスで連れてくるという活動のため、バスの添乗員として気仙沼往復をしているはずだった。
実際は、そんなに無理してどうすんのと考えて、その日の仕事は同僚のO島君にお願いした。僕は美術館に残って美術探検や美術館探検をしていた。

添乗員は、朝4時起きで岩沼を出発し、富谷町のバス会社(そこの会社がボランティアでバスを出してくれる)に車で行き、大型バスに添乗して9時過ぎに気仙沼に着き、応募した子供達を載せて美術館に向かい、高速を走るバスの中で様々解説や何かをしながら美術館に12時過ぎに着き、2時半には美術館を出て再び気仙沼に戻るというスケジュールだった。
中学生で応募した人計50名の子供達は、美術館に着いたら、用意されたモーツアルト(美術館のカフェレストラン)のランチを食べ、フェルメール展を見て、時間の許す限り常設展を含むその他の展示も見て、暗くなる前に帰る。何しろ美術館にいられる時間がかぎられているので、説明やなんかはバスの中でしてしまおうというわけなのだ。いやはや、忙しいことだ。

というようにその時は他人事のように思っていたのだが、その日以来、僕の方もほぼ同じようにやたら忙しい毎日がずうっと続いた。休みはあることはあるのだが(公務員は規則通り休みを取らなければいけない)日数を合わせるためになんだか変な感じなのだ。普及部のスタッフに良い休みを取ってもらうため、ここ数週間僕は一日おき休みが続いている。出勤してやたら忙しく動き回り、次の日休み、直また出勤。休んだ気も働いた気も感じられない毎日。その合間に、退職後の再任用の手続きや人生設計のセミナーなどが入って来る。歳をとると切り替えがうまくなくなるので、基本的な生活が全く異なる人と話を合わせるのはこういう状況だと凄くストレスフルだ。再任用を(心から)お願いする作文を書かされた/書いた。いやはや僕も大人になったものだ。

添乗員の活動は毎週土曜日。実際募集したら、予定の人数は超えてしまい、結局19、26、27日の3回行った。東松島と石巻だったから、気仙沼よりは余裕が持てたが、つい、一生懸命、ガイドさんまがいの行動をしてしまって、だいぶ疲れた。何しろ、バスの前に立って、子供達の方を向き、話をしてしまうのだ。そして信じられないような高速道路有料区間での渋滞。運転手さんが凄く気の効く人だったので、2回目以降は、どんどんショートカットの道を見つけてくれて何とかなった。帰る時間も、予定は気にせず毎回3時出発として、だいぶ余裕だった。ただそのかわり、帰りもバスにのって子供達を送り届けに行き、それからバス会社に戻る僕は、だいぶ帰宅が遅くなったけれど。

僕は教師の経験が全くないので、こういう機会でもないと、今現実の学校の状況を「感じる」機会を持てない。そういう意味では、大変に意義ある時間だった。美術や、フェルメールの話もしたけれど、それ以外の時間はズウッと子供達と付き添いの美術教師達の話に耳を傾けていた。
極端に言えば、ううむ、もう日本(というか人類はと言った方が良いか)は駄目かもしんないな、という感じだったけれど。僕は最近すぐにペシミスティックだ。ドライバーも含めて、「運転されているバス」は、何かプロの道具をそばで見続けているようで大変面白く、楽しかったけれど。

明日は午前中県庁に行って、再任用に関わる面接を受ける。僕は心から退職後も働き続けたいと思っている人ではないので、複雑な気持ちだ。早く寝よう。

2011年11月12日  朝真綿のような雲、少しの青空。空気はまだ暖かい。


歩き続けないと前に進まない。
前に進みながら、
出来るだけよそ見をすること。
美術の極意。


一昨日昨日と、心筋梗塞の定期検査入院で仙台厚生病院へ。1年ぶり。手首からのカテーテル挿入時再び気を失いそうになって途中で気付け薬投入。この歳になっても、相変わらず弱虫なのが自覚できて嬉しい。結果はほぼ完治。もう定期検査は今回で終了ということになった。
とは言えこれからも気を抜かずに、いつ死んでも良いように、しかししぶとく生き続けることにしよう。

フェルメール展は、期待?した程には混んでいない。人は入っているが、回転が良いのだ。見るなら今のうち。終わりにむけてどんどん混んでくるのかな。今日は震災地中学生招待事業の第1回目気仙沼の子供達がバスでやって来た。美術館から迎えに行き、途中説明をして来ることになった。美術館にいられる時間があまりないのだ。本当は僕が迎えに行きたかったが、大S君が無理をしないでと変わってくれた。あと2回毎週土曜日行われて、それは僕が行きたい。
こういう美術館の活動を巡って、展示の合間を縫って様々事業や会議や打ち合わせが行われ、いまさらながら、そういう行政上の仕事に対応する僕の状況判断や態度が何回も揺れ動いて、僕の行政面に関する無能さ/非常識さが浮き彫りになった。基礎になる物の見方や決定の優先重要度順位が、行政関係の人とだいぶ違う。

どうも僕は、この30年をかけて、社会や教育で失われて来たものだけを蓄積して来たのではないか。行政の人達とは、大切なものや、伝えるべきものや、見えるもの、見るべきものや、その伝え方などがここに来て全く違っていることが、何かにつけて表面化して来る。行政的な思考は多分この社会を運営して行くには大切なのだろうが、もうそれは失敗だったのがわかっているのではなかったか。
そういうもの凄く基本的な所が違うので、その表面に出てくる活動が違って来る。そこが僕のオリジナルな所だと言われている/きただけなのではないか。20世紀中は、まだ、そこに気付く人達が、美術や美術館に関わる人達には少しいて、そういう人達に支えられてここまでやって来られたけれど、ここに来てそういう人達が途絶えて来たのではないのかなあ。だから、本当は僕がそういう人達の立場に居なければいけないのに、何だろう、上手く切り替えられなかったのかなあ。根が美術家だったのかなあ。やや、ストレスフルな反省。今更、様々遅いけれど。早く退職したい。

2011年11月3日  高い薄曇り。ホンワカ暖かい乾いた空気。


自分が他人と違うことこそが
みんなそこにいるということだ。
みんなと少し変えてみる。
そういう世界が普通の社会。


10月の初め頃に書いて以来の更新だ。前に書いて以降、今日まで、もちろん連日忙しく様々な状況が起こった。美術館は通常運営を続けてみる練習のような展示をして10月の末からフェルメール展。フェルメール展が美術館で始まって、始まったことによってそれを巡る様々な状況が起こり、気の弱い素直な僕?はいちいち動揺していた、のかなあ?今の所、体調は良い。が、気分はあんまりUPではない。ふと老人性鬱かなどと思う。本当にそうなってしまって、お医者さんに行ったりしている友人もいるから、あんまり大きい声では言えないけれど、という程度だが。

古い友人の家に行って、ゆっくり昼ご飯を食べた。彼の家はアイランドキッチンで、そこでおかみさんと一緒に、様々料理をしながらお話をしつつ、出来た物を皆で食べ話をした。ううむ、こういう時間が僕の家では作れない。テレビがなくても充実した時間が自分の中で過ぎて行く状況。しばらく忘れていた。

何回か市民センターの老荘大学によばれて行って、フェルメールを巡って、美術の見方のお話をした。ソアト(SOAT)というNPOの理事になった。理事会に出て、それまでの理事の人達と美術を仲立ちにもっと社会的な部分の多い話をした。来年度の人事を巡る様々な打ち合わせや相談をいろいろな人(主に僕より職業上の地位が上の人)とした。それを巡って普及部の同僚と話をしたり聞いたりした。今書いてわかったのだが、要するに、僕以外の普通の(と言ってもそれぞれはそれぞれの専門家なのだが)人達と話をしたということだ。数日前、自分が最近作ったジュエリーをなんとか世間に売り出したいのだがと言う、ものすごく純真で素朴な質問をしてきた、高校の同級生のSa君(彼も物凄い人生経験と実践体験の人だ)と、曖昧な世界をクリアに話す、とどめのような話をした。
すべてほぼ仕事なのだが、なんだかゲッソリ疲れた。今まで気にしていなかった、何かに気付いたのではないか、と直感的に思う。ここしばらくそれ(気付いたもの)は何だろうと考えているのだが、うまく言葉になってこない。

普通の人?にとって、美術はほとんどなんでもないことなのだなあ、と思う。ましてや、その教育なんて。ふと頭を上げて考えると、僕にとって美術は宗教のような部分にあって、困ったり悩んだりした時にそこに戻ると、たいてい答えが既にもうそこにある物だったりするのだが、皆には、まったく違う物が(ある特定の神様との関係という意味ではなく)宗教だったり、又は、宗教的な意識とは関係のない生活ですべてうまくいっていたりしている様なのだ。ということが見えたということか?

僕はここ30年ずうっと美術と生きてきて、なんだか知らないうちにどんどん謙虚に慎ましく、正直真剣真摯、という方向にたどり着いた/着いてしまったということなのか。

2011年10月4 晴。乾いた空気。秋。


9月の末にやっと遅い夏休みが何日か連続で取れた。

僕は特に夕日に思い入れがあるわけではないし、センチメンタルだったりロマンティックであたりするわけではないと、自分では思っている。でも、最近の僕達の国の状況から始まる、地球全体に対する人間の在り様について、何か違和感を感じている自分が、何か宇宙全体を見渡す機会を探していた。
で、やっと機会ができたので、夕日を見に日本海に出かけた。ああ、もちろん本当は酒田大松屋でのおいしい昼飯と、家具を作っている若い友人の新潟県新発田市での個展を見るという名目はあった(そしてそのそれぞれは充分に満足でき楽しんだ)のだけれど。

夕方、海が見える6階の部屋の大きな窓から、長い間、海に沈む太陽を眺めた。

あの白く光る小さい玉が、僕らすべてのもと(元/基/素)なのだという想いが深くわいた。比べてみたが、沈む間際の太陽は、伸ばした手の先につまんだ10円玉よりはるかに小さいのだった。

あそこで今も起こっている原子の爆発から僕達のすべてが始まったのだ。始まって、ここまで来てしまったのだ。もう充分なのではないか。すべてのものやことが便利になった。便利になるということはどういうことだったのだろう。何がどうなると、どのように便利になるのだろう。ほとんどの便利はもう充分なのではないか。

もし、もっと便利にならなければいけないと人間が考えるのなら、もう地球は、人間がそこにいる必要がないくらい便利!になってしまった所まで来ているように、僕には思える。今の便利はそこまで来ているのではないか。

もし、人間が地球の上での便利を考える事ができるのなら、太陽がしていることは太陽に任せ、地球の上で生きる自分が、しなければいけないことをきちんとやればいいことに気付ける。そういう状態は不便というものではなく、普通というものではないか。普通以上を自分でやってしまう生き物を、地球は求めていないのではないか。

これは年寄りの意見に違いない。でも、年寄りはこういうことに気付けるので年寄りなのだ。たぶんどこかで教育が失敗したことに僕らは気付かなかったのだ。自分の今のコピーを作るのではなく、その時々に、人間として自分で考えることのできる人間を作るための教育こそ必要とされている/たのに。

反省するおじいさんの想いは深い。反省は後悔とは違うことを、これからの人間に見たい。

2011年 9月19日  厚い曇。霧雨。今年初めて寒い日。


先週まで、仙台写真月間という連続展覧会をSARPを中心にやっていた。仙台に関係のある何人かの若い写真家が、ほぼ1ヶ月間連続で1週間毎の個展を開く。毎週、人が変わるごとに僕は美術館からの帰り、SARPに寄って彼らの作品を見た。

一番最初の3人の中にM木D作がいた。彼は僕の親戚の中につい最近入ってきた若い男子なので、珍しがっていれ込まないように注意しながら見た。最初なんだか普通のスナップ写真の展覧会だった。でも何枚かへんな!見え方のする作品があった。一枚へんだなと思ってしまうと、その他の普通の写真もなんだか怪しくへんに見えてきた。ううむ、うまい言い方が出来ないが、彼の作品はなんだかやたら異常に生き生きしていたのだ。

見終わって、君は荒木経惟とか好きなの?と、聞いた。彼は(暗く見えるほど)真面目な顔で、高校生!の時に「アラーキー」の洗礼を深く受たのだ、と答えた。高校生の時に見たアラーキーから、彼は写真を表現の手段に使う人になろうと決めたのだという。いやはやそうだったのか。僕は何か不思議な感慨を覚えた。
高校生の頃、僕には、今僕のおかみさんになっているガールフレンドがいて、なんかヘンテコリン(と自分では思っていた)な、(でも皆とは違うんだという感覚の)人生を(無自覚のまま、しかしこれこそ格好いい?ことなんだと信じて)踏み出し始めていた。そのような時間の流れの中で、それまでの想いとは関係なく、僕は突然美術の世界へと針路を修正した。アラーキーという衝撃的な「物の見方」を知った時は、もうお父さんになっていて、かつ美術館の人になってしまっていた。もう充分大人になっていても、又はなっていたので、アラーキーは単なる現象ではなく、基本的な物の見方に衝撃的影響を与える写真だったのだと、今は思う。
そうかこの人(達)は高校生の時にこの物の見方を知った(感じた)のか。あの、物がすべて可能性に満ちて見える、あの時期に。

ポストモダンは、こういう風にすでにもう始まっていた/るのだ。

だから、僕はよりいっそう注意深く、その他の人達の作品を見た。彼の作品を観る前だったら、それらの作品は毎回見るたび、僕に深い自己点検の時間を与え、それまでの世界観の肯定と、これからの世界観の拡大をもたらしてきた物だった。
でも、こちらが、それ(自分が意識的に読み取っていること)に気付いてしまうと、その静かで、こちら側の想いが優先できる作品群は、突然つまらなく見えてきた。見る側が意識的に読み取ることの出来る範囲が多い作品は、こちらがその作者の(たとえば)年齢を超えてしまうと、読み込みにややムリヤリ感が出てきてしまう。だから彼以外の人達の作品は(もちろん一人一人違うのだが)すまぬ、つまらなかった。画面に(両方の極端さを様々含んだ)面白味が見つけ出せなかった。あれらは、極端に(21世紀になってしまったので)20世紀的だったのではないか。モダン(近代)の最終章の最後の文章としての20世紀の後半という意味で。
僕は、いろんな場面で何回も言うが、20世紀は失敗だったと決めてしまったほうが、話はわかりやすいのではないかと思っている。その上で、で、私たちはこの後どうするのかを考えたい。そうしたら僕たちには何が見えてくるのか。1ヶ月かけた連続写真展を見て、僕は、大丈夫、ポストモダンは始まっている、の意識を感じた。20世紀の論評なんて、もう何の足しにもならないのではないか。いやはや、本当にいい時期に僕は退職するのだなあ。

2011年 9月15日  蒸し暑い曇。でも風は乾いて涼しい。


いやはやなんともの毎日がずーっと続いて、ふと頭を上げるともうお彼岸だぜ。

ほぼ毎日、このブログの量では書ききれない程のことを、あれこれウジウジ考え、まとめ、決断し、それをあんまりそのことを考えたくない人に説明し、話を聞き、相談し、修正し、妥協し、文章にして、なおす、というようなことをしていた。普通の会社なら、例えば「もうける!」というような目標が見えやすいので、話の方向が見つけ易いような気がするがけれど、30年も続いて来た公立の美術館を巡るお話は、そう簡単には動かない。使われる言葉の概念が曖昧な上に、社会状況によって大きく変化しているのが最も大きな問題だし、まず、そのこと(概念が変化しているということ)自体を議論しなければいけなかったりする。

ここまで書いて来て、ふと、前のブログを読んだら、ほぼ同じようなことを8月20日にも書いていて、深くうんざりした。よし楽しかったことだけ書こう。あんまりないけど、少しはある。

8月末に博物館実習が1週間あって慌ただしく終わり、9月にはいってすぐの2日間、全国美術館会議の教育普及研究部会が宮城県美術館であった。ごくかいつまんで開き直っていえば、僕が今年度で退職なので、いなくなる前にみんなで見に行こうという会だった(ようだ)。僕の活動は一緒に同じ時間を過ごさないと上手く伝わらないようなので、来て見て話すほかない。古くから会員の人は知っているが、新しく会員になった人は話だけしか聞いていないので、(齋が生きているうち)ぜひ見ておこうということになった、と聞いた。実際の探検をして質疑応答。間の夜は、東京なんかだと居酒屋で懇親会ということになるのだが、仙台は、僕と大嶋君(二人ともほぼ下戸)が幹事なので、「カフェモーツアルト-アトリエ」貸し切りということになって、ビールやワインも出たけれど、僕には大変有意義な会だった。でも一層、ワークショップを伝える/広めるのは難しいなとも思う毎日だった。

前にも書いたが、9月10、11日は仙台市定禅寺通ストリートジャズフェスティバルだった。そのうち10日土曜、美術館の中庭でNHKFMの公開生放送サバトセーラ東北収録。様々有名な演奏家がきて、主催者発表1500人!集まった。でも、そのことより、僕が驚いたのは、実況中継をするためにラインを開きたいとNHKがいってきて、その説明を聞いたら、美術館には美術館の管理の人さえ知らなかった、NTTの電話線や光ファイバーのラインが、すでに施設されていて、それを使ってすぐにそういうことが出来るんですよということがわかったことだった。いやはや、社会はもうそういうことに誰も知らない(俺だけか)うちになっていたのだった。

そういう騒動の合間をぬって、岩沼グリーンピアの山道をぐるっと4時間ほど歩き回り、その帰りホテルに併設してある温泉に入ったのは、しばらくぶりのヒットだったかな。

2011年 8月20日  薄厚曇り。暑いが涼しい。なんという天気だ。


たぶん一つ一つは薄いのだろうなあと思われる雲が、厚く重なっている。だから明るいのだが重苦しく曇り。朝、出がけに昨日までのアロハシャツの上に長袖のジャケットを着ていこうかどうか、一瞬迷い、決心して、持って/着て来なかったぐらいは暑いのだが、もう空気は一気に秋だ。という天気。

本当にあっという間に時間が過ぎる。今年仙台七夕は七日から八日だったので、八日月曜日も美術館は開館。前のブログに書いたように5日まで連日活動をし6、7、は予約の活動はなかったけれど、様々個人的な相談があり、8日も出勤。

やっと9日休みだったのだが明美さんの病院が朝一で予約されていていつもと同じ電車で仙台へ。明美さんは最近もう凄く覚醒していて「私一人でできるのになんでこの人がついて来て、やいのやいのいわれなければいけないんだ」という感じにズウッと機嫌悪し。僕はやいのやいの言っている気は全くないのだけれど、歩くスピードとか、先を読む早さとかが違うので、彼女にしてみると、もう、一緒にいるのがそもそも煩わしいようなのだ。この次からは一人で来てもらえば良いのだが、先生からのコレステロールを巡る食い物の話とか、もらう薬の使い方の話とかを聞いていると、やっぱり一緒に来た方が良いのかなとも思う。でも、もうそういうの気にしない方が彼女には良いのかもしれないな。という休み?の一日。

開けて10日11日は、県教育研修センター夏期美術科研修会@美術館。2日かけて鑑賞の研修なのだが、僕は最近一番最後のグループ毎成果発表の時に出て講評。自分で先生達に直接講習するのではなく、僕と毎朝話をし、僕の活動を見聞きしている先生(スタッフ)達が講習をして、その結果を聞く。結構ストレスフルだが、僕にとっては様々新たに気付くことも多くて気が抜けない。一日で一番眠くなる時間帯にそれをするのは本当に疲れる。特に、今年は張り切った(=自分の考えを点検せずに出そうとする)先生がいて、僕にはちょっと大変だった。自分のしていることをこれでいいのだと確認するためだけに他人の話を聞く人には、僕のする話/考え方は凄くわかりずらい物のようだ。僕の方もなんとか折伏しようと話をしているのではないので、より捩れてわかりずらくなる。ということはこちらにはわかるが聞いている人にはますますわかりずらい。凄く大変な感じの一日だったので、帰りセールの始まっていたパタゴニア仙台に寄って、ジップオフパンツを一本と、180サウスというDVDを購入。だいぶ前から持っていたジップオフ(ジッパーで裾が切り離せるパンツ)が、この夏そのジッパーの上から生地ごとさけてしまったのだ。普通ならパタゴニアに頼んで直してもらえるのだが、生地自体がもうヨレヨレになってしまっていたので、もういいだろうと新たに購入。

12日定期休日。一日かけて胞夫さんの初盆準備w道明(一番下の弟)。しばらくぶりに組み立てた盆提灯の電気ロウソクを仏壇屋に買いにいく。仏壇も裏まで拭き掃除。今年は和尚さんには椅子でお経を上げてもらう(14日に来るという連絡あり)ことにして準備。一日アッという間に過ぎる。

13日出勤。美術館探検。お母さんが子供の頃に来たという家族2組。
14日午前中休みを取って和尚さんを待ち、午後出勤して美術探検。午後から武蔵美の学生S水君来る。

今年は、お盆忙しかったのだろうと思う。和尚さんは、僕がまだ上着を着る前(朝飯を食い終わったばかり)に、袈裟を着たまま(僕の記憶では家に来てから部屋ありませんかと聞いて着替えをしたはずだから、そのときはこの部屋でとか考えていた)来て、ソソクサとお経を上げてサッと帰っていった。今年はお盆凄く忙しいのだろうな、というふうにシミジミ感じられる塩梅だった。弟達は午前中とはお昼前のことだろうと思っていたらしく、もう終わったからと連絡したら驚いていた。明美さんも呼んだけど、彼女が決心して部屋を出てくる前に、お経は終了していたので、今回一緒に礼拝したのは僕だけだった。お父さんお母さん、日本はアッという間にこういう状況になっています。凄いね。

確かもうだいぶ長い間ノンビリした一日というのやっていないなあと思いながらも、15日の定例休日月曜日、今度は僕の診察のため仙台東脳神経外科へ朝一で。血液検査や診察をして薬をもらう。さすがにこれはあまりにセカセカしすぎてると感じて、帰り多賀城遺跡付近で少しうろうろして深呼吸。とは言え、回りは広く震災の瓦礫置き場になっていて、深く深呼吸はできないのだった。

18日、朝から出勤電車を乗り継いで本線塩竈駅前塩竈エスプへ。千賀の浦大学という名前の老人(65歳以上の人達なので老壮ではないよね。最高齢の人は92!歳だった)大学で美術の話。午前中で終わって、帰り歩いて、古い塩竈の裏道をあっちこち見ながら、行ってみたかった菅野美術館によったりして昼飯食いながら仙石線で帰宅。菅野美術館は、大変不思議な古い町の奥の斜面に隠れるようにあって、再び歩いていけるかどうかわからないなあというぐらい、面白かった。塩竈は、再びきちんとノッツオをせねばなるまい。千賀の浦大学からは謝金が出るので、この日は休みを取るように管理から指示され休日を移動。でも、これ休みの日の活動か?

19日は、県の新任教員研修で、社会教育-美術館の話。ほぼ午後一杯、熱心な高校の新任教師45名を相手に美術探検。帰りバーニャでパン(カンパーニュはもう売り切れていた)を、岩沼生協に寄って洗濯石けんスペアを買い帰宅。テレヴィを見て10時前に寝る。
書いていて疲れるなあ。来週には子供達が帰って来るけれど、今度は、退職やソーラー関係の書類集めや、夏休み終了間際の職員研修とかが連日始まってくる。ああ、博物館実習もだ。そうこうしているうちにジャズフェスがあって、アッという間に年末だ。いやはや。その前に今年最大イヴェントフェルメール展だし。

2011年 8月 7日  暑く薄い曇り。でも、暑いの続くのしばらくぶりだから嬉しい。僕は7月生まれだ!


この前のブログ7月29日の写真に僕が写っている。玄関前の庭に折りたたみの椅子を出して娘にメールを打っている所を、2回の物干ベランダから、その日ハウスキープに来てくれていたK子さんが撮った。うしろから撮った写真を見ると、まるで自分でないように見えるが、僕以外の人にはこう見えているんだね。自分がそこにいるという自覚はあるときふわりと陽炎のように揺らいで再点検を迫る。でも、いったいここはどこのリゾートだ?

自分ではそんなに気にしていないと思っていて、聞かれた時にはみんなにもそう話していたのに、ここ何回かの文章を読み返すと、僕は毎回60歳になる、60歳になると繰り返していた。結構何か来てんのかしら。人ごとのように書いているが、来てるんだろうなあ。様々な意味と深みで、普通に人生を送る人にとって「還暦」という概念は大変上手くできたシステムなのではないかと、最近考えている。

30年同じ仕事をしていると、その仕事を巡る、社会の仕組みや動き、そしてそこでの自分の立ち位置などが、ある日突然、ピントがあってくるように見えて来る。こちらは30年ほとんど同じことを繰り返していても、回りはどんどん変化していくから、その変わらない仕事の意味が外側から変わって固定されてくる感じ。今僕が30~40歳だったら、ええい、ここからが仕事だとかなんとか、訳のわからないことを声高に叫びつつどこかへ突っ走っていきそうな気もするが、上手い具合に今僕は60歳になっていて、「ここ、仕事、訳、わかる、わからない、声高、叫び、どこ、突っ走る」などなど、すべての言葉一つ一つの概念が、複雑にしかしはっきり有機的に絡まった具体的なイメージになって僕の脳に出現する。ということが気付けるようになった。そしてほぼ同じボリュウムで、今の自分の身体と脳の動き具合、それらを使って動く自分の具体的実践的な行動も見えて、そうはしない自分を見る。静かな広い感じがして来る。そういえば今年は胞夫さんの初盆で、この次の休みの日に仏壇の掃除をしようかな、なんてことを思い出す。歳とるのはこういうことだったのだ。なんと面白い。

最後の週末から思い出せることを書いておこう。
7月の末、昨年末ヒートポンプをつけてもらったオール電化の会社と再び相談をして、この際のこの時期だから、もうあまりお金のことは顧みずに、法律いっぱいまでソーラー発電を強化することにした。今年中に僕の家は(晴れていれば)ほぼ自分の家で作ったエネルギーだけで(直接ではないのが残念だが)ほぼ動くようになる。M-SAI日光発電所。この作業を通して、日本のエネルギー政策の、表面にあまり出て来ない根本的な問題を考える/感じることができた。どちらが正しいとは決められない。ある決まりを決めるとき、その時点で最善であろうと、みんなで知恵を出し合って決めて来たことが、実際の社会についていけず、むしろどんどん陳腐になっていくことの具体例を見る思いだった。とは言え、原発を取り巻く状況含め、それが陳腐だと気付けない大人が多くなりすぎているとは言える。儲かるかどうかを基準にしてものを決めるのは凄く恥ずかしいことだ。

なかなかゆっくり会う時間の取れない若い女友達がいる。彼女は7月生まれだということがわかった。なんだ僕と同じだったんだ、では7月中になんとかしましょうと、合同誕生会を7月最後の土曜日に決行した。朝遅く仙台を車で出て、北の方にある農家レストランで野菜と玄米の昼食を食べた。帰り、その近くの山の麓のダムのほとりの林の中に、車から小さいタープを張って降り始めた霧雨をよけ、お茶を点てて飲んだ。彼女が小さな真鍮の口琴を持って来ていて、二人で遠くに見える雲の沸き立つ山を巡って、いっ曲ずつ即興で演奏した。
こう書くと、なんと素朴で馬鹿みたいなことを良い歳をした男女がしているのだろうと自分でも思ってしまうが、でも、実際にそうして、しばらくぶりの凄く充実した、リラックスした時間が過ぎた。今書いていても嘘みたいな良い時間だった。

開けて8月1日。かねてから予定していた、いつもの小学校教師有志団体との8月のノッツオ@山形市。朝8時に仙台駅集合、山形行き仙山線快速で北山形駅下車。その日の山形は、涼しくはなかったけれど全く暑くなく、全員少しホッとする。この時期の山形としては異常気象と言って良い天候、高曇り。お散歩には絶好だ。ガランとした駅前から、こっちの方に行けばたぶん近くには出るんじゃないのという態度で、あちこち寄り道しながらダラダラ歩いて、旧県庁舎へ。文正館だっけ?ああ、文翔館だ。名前忘れるなあ。という態度。今回は山形出身の人がいるので、名所案内になりかけるのをなんとか食い止めながら行く。とは言え、この辺りは地元の人でないと普段は来ない所だ。そして、山形は小さい街にぎっしりと歴史が残っていて、今でも生きて使われている感じの町だ。着くまで忘れていたのだが、そういう公共の所は、普通月曜休みだよね。だから、僕今日来れたんじゃなかったか。で、そこはもちろん休館。こういうとき地元出身者がいると有利で、すぐそこの裏通りにある大福饅頭屋へ。饅頭屋は冬だけで、夏はかき氷屋。みんなで歩道のあちこちで昔風かき氷を食う。山形は、充分に手入れされた古い家屋や町並みやお地蔵さんや、お寺や神社や何やかやが途切れなくあって、なかなか先に進めない。又これに、みんな丁寧に一つ一つお賽銭あげていくんだな。僕は、帽子とってコンニチワするだけ。12時少し過ぎという、最も混んでいる時間に、折り返し目標地点の梅蕎麦(山形出身者推薦蕎麦屋)到着。しばらく外のベンチで待って全員奥の小上がりに上がって(あたりまえだが)おいしい山形蕎麦を食う。帰りは迷い(元々迷っているようなものなのだが)ながら、山形芸工大卒業生のやっている灯蔵というレストランにたどり着くも、ここも月曜休み。いやはや。ここでも地元出身者の助けで近くのお茶屋カフェに行ってみんなでデザートのパフェを食う。一息後、寄り道をしながら(山形は仙台の一番町みたいな繁華街の中に新たな蔵屋敷通りのような場所を贅沢に作っていたりする)山形駅へ。1時間に1本しかない仙台行き仙山線なので、最後は少し慌てながら乗って(帰りは各駅停車だった)帰仙。僕はそのまま常磐線に座って帰ったが、元気な先生達は駅の中のビアホールで乾杯を2杯して解散したと、後で聞いた。
山形市内のほとんど人通りのない裏町の十字路で、地図を拡げながらどちらに行こうかと話を始める(我々は決して迷っているのではない)と同時に、どこからともなく(たいてい)自転車に乗ったおばさんが寄って来て「どうしたの?大丈夫?」と聞いて来る。そして大変詳しく(ほとんどよけいなことまで)教えてくれる。ありがとうございましたと、僕らがぞろぞろ移動し始め数ブロック進んで振り返ると、たいていまだ見守っていてくれる。何人かは自転車に乗っていない、ということは、いっぺん家に着いて再び歩いて見に出て来たのだ。なんという街なのだろう。山形の人って全体に美人が多いと思っていたが、そうか、こういう風にして本当の美人になっていくのだなあ。皆で行くノッツオはいつも新たな視点が広がるが、今回も様々感慨深いノッツオ(野走)だった。

翌2日、生活文化大1年生60名に美術探検。友人の瀬戸君の生徒。だからというわけではないが大変熱心な人達で2時間ぎっちり常設展示室で絵を見ながらお話。終わると立っていられない程疲れるけど深く嬉しい。良い質問をしにくる学生が終わってからもいた。嬉しい。

次の3日、10時から4時まで昼休みを挟んで、美術館レストラン/コーヒーショップ出店希望者プレゼンテーション。面白かったけれど、居眠りするわけにもいかず、若干へばる。向こうのペースで進む活動は僕を心から疲れさせる。でもとにかく心も頭も休む暇のない時間だったが面白かった。世の中にはいろいろな人が一生懸命生活をしている。この中から一社だけ選ばなければいけないのが残念だ。

4日。予約されていた多賀城のある幼稚園の子供アトリエとの純粋充分な美術館探検。小学校低学年(OB,OG)数名を含む、幼稚園の人達と親。初めはみんな緊張していたけれどゆっくり丁寧に動いて行くとどんどん顔が変わってきて、最後は皆で小さい木の舟を造って終了。解散前のまとめのお話の時僕の膝の上に自然に座っていた男の子が一人。解散してから丁寧に挨拶をしにきた家族が2組。良い活動だった。

5日。仙台市小学校図工部会夏の研修会。事務局の人達との打ち合わせ時、とにかく先生達は準備をしすぎるのが問題だから、今回は何も用意をせず、出たとこ勝負で授業(活動)を組み立てる所から公開しよう、ということにしていた。いつもはせいぜい集まって30名前後の集まりだ。今回ふたを開けてみたら、109名来た。なんなの皆な?一応塗りつぶしをするつもりで各自好きな鉛筆と紙(B5一枚)を持ってくることにはしてあったので、参加者と相談しながらフロッタージュに変更。でもせっかく大人が美術館でするんだから、出来るだけ平らに見える所の擦り出し。床とか机とかの広い表面。5人一組で繋ぎ合わせて平面として提出、という活動。2時間ぎっしり。僕は面白かったけれど、参加者もなんだか興奮満足に見えた。教師側でなくそっち(生徒)側に主体を置いた教育の視点。やる方もやらされる方も簡単安心で深い活動になる。

さすがに、6日7日は予定された活動なし。でも、個別に深く簡単に考えてはいけない相談あり。今日は早く寝ようと思うのだが、テレビで面白い映画がある。そして明日月曜は本来休館の所、七夕開館で出勤。代わりに火曜休館なのだが、その日は明美さんの病院に朝一で診察予約してある。それが終わったら、胞夫さんの初盆だ。やること次々あって嬉しい。本当かな?

2011年 7月29日 曇り。暑いが風あり。


書き始めたらハエが来た。うるさい。みんな感じているのだろうが今年はハエが多い。今日は休みで岩沼にいる。ここは津波のがれきなどからはだいぶ離れているのに、これらはどこから来るのだろう。

あっというまに時間が過ぎる。普通は火曜午前館内調整会議。水曜から日曜まで通常活動出勤。時々「探検」などの団体活動。個別の様々な相談。月曜定休日。というパターン。本人は特に忙しいという気はしていないのに、会う人会う人、連絡をくれる人くれる人、みんな忙しそうだねと言う。日中、つい居眠りなんかしてしまっていたりするからか?

出勤日は朝5時半に起き、カンパーニュとカフェオレと林檎ジュースとヨーグルトの朝飯を食って岩沼用父親形見の古い自転車に、ノーヘルで背筋を伸ばして乗って駅へ。7時15分前後の電車で仙台駅に出て、地下通路経由仙台駅西口北駐輪場。自転車用ヘルメットをかぶり(仙台市の公務員で自転車通勤を真剣にしている人は居るのだろうか?それを楽しく真剣にしている人が考えないと、とても自転車に適した都市なんてできっこない。仙台市は形は割とできてると思うのに、上手く使えていない。ヘルメットかぶっている人も少なすぎる)、仙台市内用小径ホイール自転車に前傾姿勢で乗って、西公園で若干のオフロード走行をしながら(簡便に早く着くために自転車に乗るのではなく、それに乗ることを楽しんで通勤を遊びに拡大する意識)8時半前美術館着。まずコンピューターを立ち上げて出勤登録をし、今日の分のハンコ類を机の上にある書類に押し自分の活動の準備を始める。
5時15分に帰っても良いことになっているけれど、ほかのスタッフは毎日何だかなかなか帰らないので、率先して15分に館を出る。帰りながら幾つかの所に寄る。本屋やギャラリーやなんか。僕は酒を飲む習慣を持たないので、行きつけの店とかはなにもない。でも知っている人とかにあって話をしたり聞いたりすると、6時台はすぐすぎて普通7時台の電車で帰宅。何もない時でも、家に着くのは7時を過ぎる。帰ると、最近は覚醒している明美さんが、夕食を作っているので、できるだけ問句をいわないように出たものを素直に食べる。食事の時にテレビで今日のニュースをチェックすると、ついそのままほかの番組を見てしまう。その中に何か気になる画面があると真剣に見て、気がつくともう11時だ。風呂に入って寝る。頭蓋骨を開けて以来、ほぼ毎週木曜日夜体調リセットのため(以前はゆっくり長く泳ぐ水泳だった)に鍼灸に通っているが、その鍼灸院の先生も「そろそろ定年なので」と少しシステムが変わり、時間は同じにしてもらったが毎週水曜日になった。だから最近は水曜日だけカングーで出勤し夜少し遅く車で帰る。夜車で帰る途中たいていうどんを食べることにしている。

恐ろしいことに、ほとんど同じこのパターンでここしばらくの毎日/毎週が過ぎている。ブログの更新が途絶えている間全くこのパターン。こういうの忙しいっていうんだろうか?
仕事が人と話をすることなので、オフになると僕はあまり話をしない。仕事ではどうしても話を聞かせるような感じが多くなるので、オフの時は話を聞きたい(そういえば最近NHKラジオの落語の時間が無くなってしまった。どうしちゃったの?)のだが、みんな質問をしてきて、それが良い質問だとつい仕事の延長のような、わかったような話をしてしまい、あとで少しゲソッとする。全然ストレスフルでない毎日なのに、何だかストレスたまるぜ、という感じが重なるのは最近良い?セックスをしていないからか?

2011年 7月 9日  暑い。


今朝、通勤途中、仙台駅に着いて駅の中の便所に寄って小便をしている時、僕の目の前の壁を、もう透明に見える程もの凄く小さい羽虫が、動いていた。僕はおしっこをしながらそれを見ていた。

基本的には上の方に行きたいようだったが、途中でクイと右に頭から急転回してしばらく高度を下げ、しばらくしてこれは基本の方向ではないと気付いたか、再び上向きに軌道修正したりしながら、とにかくなんだか一生懸命せわしなく、目に見えない程の小さい脚をコマゴマと動かし続けていた。こういうとき、これはいったい何を考えているんだろうなあ、と考えた。

ううむ、この頭の大きさだと何か考えるというのではないな。何かのその必然が彼(一応彼ということにして話を進める)をそういうふうに動かしている。彼は飛べるのかもしれないが、今は歩いて移動している。見る限りでは、何だか一生懸命移動している。
今、ずうっと切れ目なく続いている中のこの時間の、彼にとっても僕にとってももの凄く広い空間を持つ地球の上の、たぶんもの凄く偶然なごく近くのこの場所で、僕は小便をし彼はどこかに移動しながら、一緒にいる。僕はこういうことを考え、彼は何を考えているか僕にはわからない。でも、僕も彼も同じ時間にほぼ同じ場所に居る生き物だ。僕は3/11を体験した人間で、彼も3/11を生き延びた生き物だ。そして二人は、ここにそれぞれ居る。僕はその体験をどういう風に発言をすればいいのかなかなかわからないなあというようなことをウジウジと考え続けてここに居る。そして、彼も何か考えて。

いやはや、いったいどうしてこうなったんだろうねえ。存在はほとんど同じなんだと思いたい。いや、同じなんだろう。宇宙的な時間軸で見れば、彼と僕との差違などいかばかりのことか。そういう/こういう長い時間をかけて、僕達がものを考え得ることになった、ということは、こういう風になることだったのか。そこの壁の上で一生懸命脚を動かしているもの凄く小さい羽虫と、ここでそれを見ながら出の悪い小便をしている僕と、地球上の生き物としてはそんなに違う状況ではないという自覚を忘れないように生き方を組み立てたい。難しいけど。明日僕は60歳になる。

2011年 7月 3日  暑く厚い雲の日。汗が出るが乾かない。


この週末はしばらくぶりで続きの休みだ。そしてふと気付くと7月に入っていた。7月10日が来ると僕は60!歳になる。

毎日このブログが書けないほど忙しかったというわけでは決してない。でも、なんだか毎日忙しかったのだ。確か忌野清志郎の歌にあったが、大人になると人には言えない知ってることばかりが増えていく。大人の毎日は本当にこういうふうにある。でも、こういうのはどうもいけない、僕は本質的に苦手。若いというのではなく甘いのではないかな。自分の存在とJOBとのずれが見えてきている。いやはや、早く退職したい気持ちが募る。

今、友人の石彫家NO女史が帰って行ったところだ。震災で歪んでしまった家の北西角と敷地境の側溝壁を、格好よくかつ強力に直してもらったのだ。初めは自分で、若い友人等を動員し、ブロックを積んで簡単に直そうと思っていた。で、どう直そうかと真面目に考え始めたら、せっかくだから格好良くした方が良いにきまっているということになった。あたりまえだけど。特に敷地の北西角というのは、なんとなくきちんとしておきたいなという感じがする。特に何宗とかいうのではなく、僕はそういう人生を送りたいのだ。で、これまでの経験の中で気になっていた形を思い出し、友人のその石彫家の作品をひとつ置けないかと相談をした結果、6月の最終週からこの週末にかけていくつかの作業がテキパキと進んで、今日最終仕上げ。側溝は綺麗にかつ強力に真直になり、北西の角には小さな祠がひとつ立ち、奥の入り口にも阿吽の可愛い狛犬が出現という新たな齋家の入り口ができた。阿吽の狛犬は、しばらく前に花巻のルンビニー美術館によばれて行った時にもらってきた物で、そうか君たちはこの日のためにあったのか。

この家はだんだん人が住んでいる感じになってきた。住んでいる人がわかる感じになってきた。僕はこういう風に住んでる人なんだ。ううむ、60歳だなあ。

2011年 6月27日  細かい雨がずうっと降る寒い一日。湿度も高い。


本当は、何か書く(書きたい)ことが幾つかあったはずなのだが、よしと思って書き始めると、思い出せない。最近、物を落としたり、固有名詞を思い出せなかったり、身体のコントロールが意識についていけなかったり、様々脳が縒れてきているような感じが意識される回数が増えている。

ここ数週間の間に、気になる工芸家の個展が続けてあって、物を増やさないという決心について何回か書いているのに、毎回作品を買ってしまった。

彫金の香炉。僕は家にいるとき良くお香を焚く。街中のアジア雑貨の店で手に入る安いやつ。そのための香炉や線香立てを幾つか持っている。震災で仏壇が倒れて直したとき、普段開けない引き出しから栄子さんの使って(しまって)いた白檀が出て来た。カッパービーターのSaga君が作る彫金は大変な技術の積み重ねで、僕がこれは凄いと思った物はすぐ120万円とかするのだが、今回小さい王蟲(あのナウシカに出てくる)のような形の香炉が3万円だったのだ。ううむ。高いけど、この後死ぬまで彼の作品を買う機会はないだろうなあと思って、後ろを見ないで買ってしまった。さっそく栄子さんの白檀を炊いてみたが、それはもう長い間しまってあったので、ごくほのかな香りしかしないのだった。それとも本当のお香のかおりはこういう物なのか。とは言え、これで焚く香はどこで手に入れれば良いのか考える楽しみができた。一番町の新しいビルの奥にコソッとある格子戸のお茶屋さんに、今度行って相談してみなければなるまい。うふふ嬉しい。

靴を履くための木の小さな椅子。僕の家の玄関は土間になっていて、僕はまずそこに降りて靴に履き替える。靴を履いたら散歩に行く。僕はだいぶ前から散歩には杖を愛用している。イギリスの羊飼い用の長い棒のやつとレキの伸縮するアルミポールの古いやつは普通にいつも。それと、月山登山で使った焼き判付き杉杖と両親が四国で使った遍路杖もある。靴を履きかえるとき腰掛けるために、キャンプ用折りたたみベンチを使っていた。普通のベンチより微妙に低いその高さが、僕が(オジイサンが)靴を履き替えるのにぴったりだった。
Saga君の後に同じギャラリーで木の椅子展をやっているのをその香炉を受け取りにいったとき見てしまった。なかなか良い手作りの椅子が列んでいた。岩手県の広葉樹で作った物だという。展示に詰めていたオジイサン(たぶん作った人だろう)が誰も来ないので自分の作った椅子の上で眠りこけていた。深い親近感がわいた。僕の家の家具は、家を新築したとき酒田にいる友人の若い家具作家に頼んで一セットあつらえてもらった。今でも彼が練習や習作で作った椅子を少しずつ持って来てくれたりして、もう何も要らないのだ。ギャラリーの出入り口に、履き替え用椅子(杖立て付き)という名前の座面の低い肘掛けのついた椅子があった。ううむ。普通日本のフロアリング用の椅子は(家の中では靴を脱ぐので)座面の高さが40センチだということを僕は知っている。それは38センチだった。ううむ。あそこで居眠りをしている、僕と同じぐらいの歳の、親近感がわくあの人が作ったのだ。ううむ、でも僕はもう椅子は要らないのだ。値段は3万円だった。ううむ、ううむ。普通、中国で全部機械で作っても、木の椅子はどうしたって5万円以上することを僕は知っている。これはもうけ無しなのではないか。それともどっか手を抜いているのではないか。つい膝をついて裏側まで見てしまった。完璧だった。誰も買っていなかった。これ誰か買わなきゃいけないでしょう。誰か買ってあげて。あ、俺が買えばいいのか、杖立て付きだし。で、取り置きをお願いしてしまった。ううむ、いいのか。いいな。

野菜や萩の絵の描いてあるうどん用ドンブリ。もうこれで散財はお終いにしないとと強い決心をした次の週、いつも世話になっているギャラリーで、中学校の同級生の女子が陶芸展をした。彼女はイギリスやドイツで修業をまとめて、今は益子に住む陶芸家のお母さんだ。原発反対の運動なんかをしながら普段使いの日用品をこまめに作る。3月の震災と4月の余震とで、僕の普段使っていた陶器類はほぼ全滅した。特にドンブリ。朝のカフェオレ用に、余震のすぐ後ニトリで買って来なければいけない程ほぼすべてのカップが割れた。身の回りの植物の絵柄のはいった軽い色使い。普段使いだから、一つ一つの値段は安い。ただ、彼女は身長が僕よりだいぶ低いので、手の大きさが小さいのだ。彼女のドンブリはたぶん僕のご飯茶碗で彼女のサラダボウルが僕のドンブリ。なんだかんだで、2万円分買って、でも量的には山(おおげさ)のようになり、後で車でとりにいくことになった。ううむ。これらは無駄使いなのだろうか。

こういうのって、今ある物でまにあっているわけで、なくてすむ物たちではある。様々な状況に無理矢理理詰めで辻褄を合わせてなんとなく自分を納得させつつ毎日のJobをこなしてサラリーをもらう。その結果、脳内出血になったりする。そのサラリーで身の回りにある物を、自分の気に入った物にしていく。こういうのって上手くつじつまは合っているのだろうか。後しばらくは自分の気に入った物を使いながら、しかしどちらにせよどうしたって確実に人は死んでいく。ううむ、なになんだろうこの感じは。

2011年 6月16日  快晴。乾いた空に白雲少し。


最近、下の娘一家が東京に移動したことは書いた。最近少し落ち着いて、電脳手紙でやや長く現状とその感想を送ってくる。手紙に孫の自転車を新しくした連絡があった。

僕が、仙台にいた頃彼にあげたクロームメッキのBMXはたぶん12インチかそこらの大きさで、その時の彼にはちょうど良い大きさだった。けれどもう今の彼には小さくなっていて、そろそろ買い替えだねという話が仙台を離れる前から出ていた。今度の彼女の連れ合いはライフスタイルが自転車の人で、きちんと考えて、それを使う人の自転車を決める人のようだったから、僕は何も心配していなかった。もし必要ならお金は出してあげるから、きちんとしたやつを買ってねとだけ話していた。余計なお世話は、オジイサンの嬉しい仕事だ。

彼女は新しい自転車に乗った彼と散歩に行った時の写真を数枚貼付して来てくれた。そこには彼の新しい自転車が写っていたのだが、散歩の途中に撮った写真だからほぼすべて後からか斜め後からで、色さえはっきりわからなかった。ここからが今回の話題だ。前置きが長い。

自転車がはっきり写った写真はツイッタに添付して送るとのことだった。ほとんどの人はそれで「ああ、そう」と次に進むのだろう。僕は「ええっと、それ何?」。ちょうどその日、いつも家事手伝いに来てくれているK子さんがいて、「それ」をやってくれた。僕は自分の電脳の脇で、テキパキ進む「それ」をみていた。最近の話はこのように始まり、このように展開し、このように着地する、を見る思いだった。で、なんとなく、それが僕はいやだった。

10年若かったら、何も考えず喜んだのだろうか。喜んだか?頭の動き方が、もうユックリになっって来たのだろうか?頭が働いていないのか?ううむ、そういうような問題ではないと思う。では、この状況が嫌いなのか?写真をすぐ見られて良かったと思っていたのではなかったか?何なのだろう、この態度を決めにくい感じは?
あることが起こってそれに反応したことがごく短い時間で公表される。誰が見ているかわからないので、注意深く固有名詞や特定できる場所は、曖昧にされる。そうでないこと(特定の人用に送ること)もできるけれど、それにはああしてこうしてそうすればいいらしい。僕は途中で始めの方の操作を忘れ始めるけど。
そういう風にして目の前に、ほぼ瞬時に、伝えられてくる情報は真実なのに、なぜか嘘くさい。「くさい」。すると、それを読んでいる「僕の見ている真実」の方もくさくなってしまう。気がするのかな?短い言葉の羅列は。読む人の方にあらかたのイメージを任せてしまう。日本のみんなは、イメージを組み立てる練習を基本的にあまりしていないのは、美術館に居るとしみじみ思うことなので、この方法は日本にいて活動している僕にはあまり向いていない気がする。ツイッタの情報だと、僕の頭はものすごく動きすぎて、むしろ広く深くイメージを拡大し続ける、ということか?なんか「くさく」なるのは僕だけなのだろうか。

驚いたのは、僕が自覚していなかったのに、僕もツイッタの人に登録されていて、既にそれをフォロウしたい人が身内以外にも数名いることがわかったことだ。何だろう、ここに、僕の今を知りたい人は、この前出た僕の本買って読んでっていう情報をのせればいいのか?それで伝わって広がる情報(のようなもの)は、誰かの意思が(誰も気付かないうちに)どこかで入ってしまう情報のような気が僕はする。僕の本は文章が長くてそんなに面白いという物ではない。国民全員がぜひ読んでという物でもない。普通の人生はそういうもんだ。でも、みんな一人一人深い人生を送る(送らざるを得ない)。そういう生き方に対する見方や態度が気付かないうちに無くなってしまっているような、感じが怖い。ううむ、凄く20世紀的だ。

2011年 5月28日  深い曇空。梅雨には入ってないが似たようなもんだ。


仙台市内に住んでいた下の娘が、東京の山の手に移動した。いいねえ、僕の娘さん達はどんどん親からはなれて行く。良くできた種ほど元の木から遠くへ飛ぶのは道理だ。だからこそ元の木はそれでもきちんと立ち続けなければいけない。遠くに親戚が増えると、遊びにける所が増えて嬉しい。もちろん普段は少し静かで寂しくなるけれど。最近彼女は新しい同居者と一緒に朝のお散歩をしているという連絡が来た。孫の希野は自転車でついてくるという。そうか、彼は遂に自転車に乗るようになったのか。

僕が、一番最初に意識的に買った自転車は、ミヤタの、その当時は珍しかった太いアルミフレームのマウンテンバイクだった。だいぶ長い間、ハンドルをトライアスロン用みたいな形に大きく改造したりして(そういえば、もうああいう形のハンドルは見かけなくなってしまった)楽しく乗っていた。それは、その当時創作室の手伝いをしていてくれた若い男子に譲って、気仙沼に行ってしまった。次に手に入れたのは、ゲーリーフィッシャー(世界で初めてマウンテンバイクという概念を立ち上げた何人かの人達の一人)のCR7という、本当にこれがそもそものマウンテンバイクなんだというように基本的なマウンテンバイク。正確には僕には一サイズ小さい大きさのフレームを選んだ。最初から大きいサイズのは扱いにくいという体験がそれまでに何回か決定的にあったのだ。凄く気に入り、その当時モーターサイクルにも入れ込んでいたのに、家の回りの田舎道や山道をバシバシ走り回った。元気が有り余っていた時代。その結果、ある日、そのバイクのヘッドチューブ(ハンドルを支えている部分)にひびが入ってしまい、危険で乗れなくなってしまった。直せないかと様々やったのだが、アルミの溶接は元どうりというわけにはいかないのだった。しかし何でも一生懸命やっていると、上手い具合に世界は動いてくれるので、そのフレームをあきらめたとほぼ同時に、同じ機種の一回り大きいサイズのモノ(ということは、僕にピッタリのサイズということだ)が中古で出て、僕はそちらに乗り換えることができた。

その後、様々あって、今、僕はイエティというフレームの運動用マウンテンバイクと、岩沼市内用松下電器自転車の後部荷台の無い、凄く古い、父の形見のパパチャリと、仙台市内用キャノンデール街乗り用小径自転車フーリガンを持っている。凄いなあ持ち過ぎだと思っている所に、その一番最初に持っていて、今は若い友人の所に引き取られて幸せに暮らしているとばかり思っていたCR7が、「すみませんどうも相性が合わないのでお返しします」と戻ってきてしまった。もういらないってば、と言ってもしょうがない。今、創作室を手伝ってくれている若い女の人は、上背も僕とほぼ同じくらいあるので、彼女に聞いたら、欲しいと言ってくれた。よかったよかった。彼女に譲ろう。

引き渡しの日、乗って帰る気満々で来た彼女の前で、しかし、僕のそのCR7は上手く動かなかった。後変速機を動かす為のワイヤーが経年変化でカバーがはじけとんでしまい、ワイヤーが動かなくなってしまったのだ。ううむ、人生、色々ある。今この時期、自転車屋さんはやたら忙しい。僕の見る所、たぶんハンドルステムと、変速機そのものと、そしてワイヤーとたぶん鍵なんかも換えた方が良いのではないか。彼女への引き渡しは早くても来週半ば以降になりそうだ。その間、僕は様々楽しんで部品集めができる。悪いけど嬉しい。

2011年 5月22日  雲が厚い。日中雨。昨日半袖出勤。今日は長袖上着。


何だか気候があんまりキッパリしないうちに、夏突入の感じ。しばらく前に、市内移動用小径(ホイール径20インチ)自転車を買った。主に通勤に使う。駅前の駐輪場に止めておいて、朝美術館まで走り、日中は美術館に置いておいて、帰り又駅まで戻る。夜は地下の駐輪場。
前に持っていたデジタルカメラをもっと良く使う/使える人にあげてしまった。すると、このブログを編集する時に困ることになるという理由で、新たに一つ手に入れることにした。

昨年末に地震保険をかけ直し、家屋と家財両方にかけることにした、とたんに震災が来た。今回の地震関係保険支払いは国庫補助があるので(ということでもないだろうが)、査定と振込は迅速で甘い。だから今、私は少し!保険成金なのだ。ううむ、じわじわとモノが増えていく。僕は貧乏症なのだなあ。

最近あるよんどころない理由で僕の親族圏に入って来た若い男子は、理想的にモノを持たない人で、うらやましい。そういうのが身近かに出て来たので、いっそうモノを買ってしまう自分の残念さが身にしみる。思えば高橋貴和さんが死んだ時、脳内出血から生き延びた時、栄子さんが死んだ時、心筋梗塞が見つかった時、胞夫さんが死んだ時、その度ごとに僕は、身の回りを片付けておかなければと思い続けて来た。今回も、僕は生き延びた。震災だから、ストレスと折り合いを付けながら、身の回りを意識的に整理しようと再び思う。

2011年 5月 6日  薄ら寒い曇り空。湿気った空気。


もう九日になっってしまった。この文は6日に書き始めたが、一日では書き終えられまかった。一文字一文字にしばらく考え込んだことを忘れずにいよう。

だいぶ家の中が片付いて来た(3/11本震と4/7余震以来、結局ずうっと後片付けが続いている)ので、集めていた震災(を巡って出て来て決心を迫られた、両親の遺品や引っ越しや自身の身の回りや何やかにやの、ひょっとして人生の整理整頓)ゴミを捨てに/出しにいくことにした。
調べてみると、岩沼の震災ゴミ置き場は海べりの南浜中央病院の東側の空き地だと言う。南浜中央病院は、津波で施設が(人は全員無事)全滅した病院だ。震災津波以来、小心者の僕は仙台東道路(今回の津波ではこの高速道路が津波の防波堤になった)から東(海)側には行かない/行けないようにしてきた。何でもきちんと見るのが基本だと言っているのに、今回は見るのが怖かった。いや違うな、つらかったが正しい。見てなくても聞いているだけで心が萎んでいく。だとしても否応無く、そこに行かなければいけない日は、ここに生活している限り、いつか来る/来た。何気ない顔をしながら、しかし実はそうとう決心して東道路の高架を海側に抜けた。良い天気の日だった。お日様がきちんと照っていると、なぜかもっと怖い。
(何時も、何回も行って散歩した)知っている場所を、(メディアを通して見、聞きした)知っていることを確認しながら見る。ううむ。ううむ。ううむ。

表現する美術はほとんど何もできないだろう。そこに広がる状況は現代美術を、鼻で笑って超えている/いた。
でも、インスタレーションを見る力の方は、そこにある状況をより深く心に刻む力になる。というようなことは、ま、どうでもいいんだなということがすぐに圧倒的に解る。私の想像力なんて、笑っちゃうしかないのだということがすぐに圧倒的に解る。そうか、こういう感じを持つことができる為に、歳を重ねて来ていたのか。勉強をしてきていたのか。

なんか、みんなこれからの(人間社会)復旧復興をどうするかなんて話を、あちらこちらで一生懸命しているようだが、地球(自然)の復旧復興は大丈夫なんだろうか、ここまで地球をやっつけてきてしまっているのに。というようなことを言うのも、何だか違う。地球の上にいる生物の一種の生き残りとして、僕はどういう態度を取るべきなのか。なんて言うことを、マッキントッシュの小型コンピュータで書いているというのは、どういうもんなんだろう。もう戻ることはできないんだということを自覚するとしても。

今、6日の午前9時過ぎで、僕はこれから自転車で長町まで行き、地下鉄と徒歩で、旭が丘の鍼灸院に体の調子を元に戻してもらいに行ってくる。何しろ、まず、自分が自分に戻ることからだ。

2011年 4月22日  厚い曇り空の春の空気の中を冬支度で出勤。 吹雪になりつつある桜。


3/11のすぐ後、家に手伝いに来てくれた女友達が、長丁場になるとふんで自分の家からコタツも運び込んで来た。僕の家にセットされたコタツは、虚をつかれたような不思議な感覚を僕に与えた。僕の家には畳がない。なのでコタツも(ここしばらく)ない。僕はコタツは嫌いだ。ただ脚を突っ込んでみると、大変不思議に落ち着き、だいぶ生活のリズムが普通に戻ってき始め、特に何もすることが無くなった日の午後、ほぼ半日ぼおっと、コタツの中でとりとめのない話をしていたりした。僕は特にコタツ嫌いというのではないんだったのだなあと思った。ふと思い返してみると、僕がこれまで住んでいた家には、結構ずうっと昔からコタツがないことに気付いた。

ごく小さい頃、僕の記憶の一番最初にあるコタツは、掘ゴタツだ。その頃の僕の家は、ごく普通の街の中にある家(と言っても普通に外便所だった)で、玄関に続く板張りの部屋にコタツはあった。本来ならコタツではなく囲炉裏がある部屋だったのだろうと思う。冬にはウスベリ(薄縁/畳表に縁の付いたござ)を敷き、夏は堀ゴタツの上に板を敷いて、全面板の間になった。コタツは普段食事のテーブルとして使われていて、(相当)寒くなってくると中に豆炭を焚きその上にコタツ布団を描け、布団の上にテーブル天板をおいた。だから冬にコタツになると、テーブルは水平ではなくなり、ちゃんとしないと、すぐ味噌汁とか、とき卵とか、納豆とかがこぼれるのだった。というような記憶がコタツを巡って、僕にはある。コタツに入って食事をしながら、みんなでラジヲを聞いていた。一丁目一番地とか。
祖母(たり)が亡くなるだいぶ前、母(栄子)が家事をコントロールするようになって、僕の家はテーブルで椅子に腰掛けて食事をするようになった。たぶん昭和30年代で、栄子さんは公民館の生活改善運動とか4Hクラブとかの活動に深く関わっていたのだろうと思う。テレビで名犬ラッシーとかが始まっていたのではないか。家にブラウン管の前に小さい緞帳のついたテレビが来たのは、僕が小学4年生の頃のはずで、町内ではそんなに早い方ではない。それまで、月曜夜の月光仮面や日曜昼の七色仮面は「家のむかいの本家」に見せてもらいに行っていた。テーブルは早くからあったが、ご飯を食べながら家族でテレビを見る習慣が始まったのは、僕の家ではだいぶ後からだったように思う。僕の基本的な生活習慣はこのような、コタツのない生活をベースに組み立てられ始まったと、今は言うことができる。僕の意思ではなく、僕の親が、そういう方がハイカラだと思っていて、そういう生活をしたいと思っていたのだと思う。
確認したことはないが、大正時代の後半に生まれた栄子さん達の年代にとって、コタツのない生活=アメリカみたいな生活だったのではないか。

そういう風にして始まったので、物心ついてからの僕の家の「畳のある和室」は特別に作った部屋で、それはそれまで堀ゴタツのあった茶の間のように、生活の基本になる部屋ではなかった。そうなると生活の基本になる部屋はリビングとしか呼べないのだが、アメリカで言うリビングとはまた異なるものだったのだということは、そのだいぶ後にアメリカで生活し再び日本に帰って来てしばらくしてからでないと気付けなかった。「個室を持つ個人が集まって家族を作っている家」という考え方が基本に(何気に)ないと、リビングとは何かの感じは上手く説明できない。コタツの中で脚がふれあって始まる他人との深い関係というような関係の作り方を僕はあまり好まない。この関係を上手く維持できない人は、日本では変わった人と呼ばれてしまうのではないか。僕はそう呼ばれてもかまわないという決心でここまでやって来たのだったなあと、今回コタツを見て新たに自覚した。

栄子さん(たぶん達)が家はコタツなしで行こう(子供の頃家にコタツなかったよという友人は結構多い)と決心したときから、日本は西洋的な個人主義に大きくシフトしたのだろう。でも、コタツは無くならなかった。僕は善し悪しとは関係なく日本人だ。コタツに入ってぼんやりできる感じは、だから大切だし、たぶん自然なのだ。

たぶん、コタツは「自立する個人を自分の生活の中でどのように位置づけるか」という違いの象徴なのではないか。そしてこの感覚の違いは、僕の場合、相当意識的に行われたうえでの無意識が2世代約60年をかけて普通のことになった。具体的には、今回のような大震災が起こった時に、僕が何だか呆然と動けなくなってしまうような違和感を、今の日本の社会に対して持ってしまうというような、今回の今の僕の状況は起こるべくしてこうなったのだ。

実行できるかできないかとは別に、日本人であることはどうしようもないが、日本は意識的に辞められるという自覚と立ち位置を鮮明にしておきたい。その上で、ここにいるということを。

2011年 4月14日  ごく薄い春霞の晴。ゆっくり動く暖い空気。


数日前にMacBookに接続して充電中だった ipod shuffle を、机の角に引っかけて突然急に外してしまった。以後、様々やってみたが、どうしても電脳が読み込んでくれない。この震災の影響でアップルショップ一番町は休店中。音楽を聴かないで通勤するはめに陥った。音楽を聴かないで比較的長い時間歩いていると、僕は聞きながら歩いていた時には何も考えていなかったのだということが解った。春の匂いのする空気の中をトボトボ歩いていると、本当にいろんなものが見えてきて、いろんなことを考える。頭を上げて良く見よ!と自分の中の誰か(俺か)が言っている。気がしてくる。

3/11震災以降、様々なメディアで言われている様々なコメントについて、僕が何だか上手く言えない違和感を感じているのは、これまでのブログに書いた。このやりきれないような不思議な気持ちは何故なのかについて、ずうっと考え/気にしてきた。音楽が頭の回りから消えたら、ふと思い当たる言葉が浮かんで来た。

もちろん「頑張ろう○○!」を始めとしたスローガンや、その他震災を巡るすべての意見やいろんな人の行動に、僕は反対だ!や、違う!と思っているということでは、決してない。ああいうことをする/できる人達を僕は心からいいなあと思うし尊敬もする。でも、僕はしない方が良いと思い、できないでかまわないとしてきた。関西での震災の時、僕は「あそこではないここ」にいいて、今回は「実際のここ」にいる。しみじみ少しやはりうろたえながら、実際のここにいる。とにかく、「そういう事ではなんかないようだ」という思いは確信に変わり、いっそう発言しにくくなった気がしていた。何なんだろうなあ、こういう状況に対するこういう自分の態度は?

今朝、ふとひらめいた言葉は「タテマエ」。「本音と建前」のタテマエ。タテマエは、僕、本当に嫌いなんだと確信した。前にもどこかでたぶん何回も書いたように思うが、ある友人が死んだ時に、あなたは葬式に何を着ていくか決められるか?というような生活を土台に持つ人生。その行為がタテマエだと少しも思わずそうできる人生を送れる人を、僕はビックリもし、かつそのため尊敬もする。でも僕は、自分が生きている間は出来るだけ本音で/だけで生きていきたい。歳をとってくると、たくさんのタテマエだと若い頃は思っていたことが、実は深く広く、人間としての本音から出来ていたのだということがわかってくる。だからよく考えるとタテマエに戻ることはママあるだろうが、そういうことを心にとめつつしかし、出来るだけ、出来るなら、本音だけを漏らしたい。本当にそう思うことだけを丁寧に漏らしたい。しなければいけないコトが見えてきているとき、自分で考えて決めると、そのあまりの凄さに、その時の自分では、ただすくみ上がって何もできないでしまうことも起こる。いつでも、どんなにしても、起こることがあるということも肯定できる人でいたい。泣きたい時は泣いてもいいから、でも涙でよく見えなくなってしまっていても、しかし、目を見開いて見続ける人生を送りたい。

あまりの凄さというのは、なんと自分の世界は限定的だったのかと思う、常により広い世界に対する深い反省なのだと思う。
今回、自然は映画で見たことのように想像を具体的に超える。映画で見ていたはずなのに。人災だと言われることだって、僕達はヒットラーをみんなが選挙で選んだのだったということを知っていたはずなのに。人災はたいてい、みんなが、正しい選挙で選んだ結果なのだ。
こういう時、僕はどういう態度を取り、どういう反省ができるのか。反省は後悔ではない。反省は次にどうするのかを常に問いかける態度だ。いったい、お前はどうするんだよ、本当に。と、僕が僕に聞いている。今はまだその答えをヘラヘラ言う時期ではないように思う。

2011年 4月 7日  暖かく動かない空気。曇り空。


今日はすでに14日なのだが、4/7日から8日にかけて書いた文をアップしておこうと思う。再び大変だったのだから。

創作室に通常出勤が始まって数日たった。創作室の東向きの窓から見える空は、放射能さえ見えなければ(見えないけれど)もうすっかり普段のとおりだ。

今日の帰り、いつものパンをもらいに、四郎丸の渡辺さんちに寄る必要がある為に、今日はハンターカブで出勤。様々な意味で良いだろうと思ってモーターサイクルにしたのだが、間違いだった。この前地下鉄で出勤しようと長町まで来た時で、充分懲りたはずなのに、4号線は大丈夫だろうという読みは間違いだった。今回は渋滞にはまってすぐ、恥も外聞もなくすり抜けを敢行。僕のバイクはみんなのより少し(この少しが重大なのだが)幅が広いので、見切りが難しい。歳とってくると幅の見切りはそもそも鈍くなってくるし。着いた時はコタコタになっていた。

この日の夜11時30分過ぎ、強い余震があって、家は3/11に戻った。でも、電気と水はつながったまま。いやはや。明日は休んで土日をかけて再び片付けだ。この前生き残った瀬戸物がほとんど壊れてしまったし、電子レンジも壊れた。だから今度は棚に戻さないで、床に積んでおくことにしよう。順番に始めよう。

今日は4月11日だ。電車は8日から再び不通になったので今日はカングーで来た。ハンターカブにするかカングーにするか迷ったのだが、帰りに雨が降りそうだという予報と、早く出れば大丈夫だろうという見通しで、車にした。で、朝6時50分に出てきたのに、名取に入ったあたりから大渋滞、ほとんど動かない。美術館に着いたのが9時半過ぎ。うんざりだが車で行こうと決めたのだからしょうがない。この震災を僕の中でどうとらえるのか、考えは未だまとまっていない。
僕の中でどうとらえるのか、なんて言葉が何だかなじまない。何かを考えようという感じではないなあ。既に何かは解っているのにその言葉や感じはこれまでの経験の中からは紡ぎ出せない/紡ぎたくない感じ。テレビやラジオや新聞などで様々な話が述べられているのだが、どうもすり寄れない。同じ様に思ったり良い考えだなあと思ったりすることはままあるのだが、なんだろう、本当は違うと思ってしまう。こんな感じは、僕が、地震にはあったが津波にはあってなくて、ライフラインや通勤はもとに戻ってしまったあたりにいる人だからだろうなあ。

2011年 4月 1日  空気が暖かい。穏やかな高曇り。


今日から出勤した。出勤するぞと意識的に起きて準備をし、CT(ハンターカブ)で長町まで行き地下鉄で広瀬通に出て徒歩。意識的に起きて、というのがしばらくぶりだ。仙台の人達は、もうみんなほとんど通常通りの生活のように見える。僕はまだ少し呆然としていて考えがまとまらない。通勤で歩いていたり普通の話をしている途中で突然涙が出てきたりする。俺も、結構繊細だったんだと自分で驚く。
美術館は5月初めから忠良館と創作室を再開する予定。後1ヶ月で普通の生活に戻るのだ。聞いた所によれば、明日から鉄道が岩沼までは動くということだから、来週からは電車通勤にしたい。今朝、せっかくカブで来たのに西中田から凄い渋滞で、最後は/遂にはもう恥も外聞もなく列ぶ車の間を左右にすり抜けを敢行して、やたら疲れた。車で来て半分あきらめつつ渋滞でガソリンを消費するより精神的にも体力的にも疲れがひどい気がした。一番良いのはやはり自転車だと思う。というようなことを言いつつ、明日明後日は土日で、美術館は休館中だから通常休日で、僕らも休み。明日は朝一でガソリンスタンドに列ぼうなどと考えている。ことが落ち着いたら、絶対にスーパーカブ50(何しろ燃費が110キロ/リットルなのだ)を手に入れようと思っていたりする。でもそういう無駄はもうできないだろうとも強く思っている自分もいる。それより紅子に買ったような良いミニベロを手に入れる方が先だ。というふうに混乱している。

放射能の状態を含め今回の状態は、未だ僕の中で上手くまとまらないでいる。

こういう最中「仙台文庫」から、古くからの友人の深ZWさんから注文が来ましたよという連絡が入った。「大きな羊の見つけ方」を書いたことで様々はっきりしたことがあって、その後武蔵野美術大の教科書用に書いたワークショップとファシリテーションの文を一緒に読んでもらうと、美術館教育を巡って、僕がこの30年間考えて来たことは、大体話し尽くしたのではないかと思っている。ここに、その文を添付しておこう。あと、ホームページのアバウトミーにも、遅きに失している感じもするが、付けておこうと思う。

この文を書いているのはすでに、4月2日だ。今日から電車が走るはずだったのが、何か不都合が見つかって、しばらく岩沼までは来ず、南仙台折り返しになったとラジオで言っていた。いやはや。やっぱりしばらく自転車か。

ワークショップ実践
教育研修センターの人が、「新任研修で、教育についてお話をしてくれる人はいないだろうか」と相談してきた。さて、あなたが新任教師だったら、誰のどういう話が聞きたいだろうか? 教育や教師はこうあらねば、というようなお話を、新任の教師という人たちは、眠くならずに聞くことができる、または、聞きたいと思う、ものなのだろうか。教育というモノは、私たちの国では、このような、そしてそのような、モノとしてこれまで何の点検もされずに、ここまで来てしまったのではないか。
教育は、本来、教育を受ける側の人にのみ存在する。

本来、美術館のような博物館施設は、継続的な研究施設として、まず、存在する。だからそこには、膨大な量の知的情報が集積される。現代の博物館施設は、西洋的近代博物館を意味するから、そのすべてが、自立した市民の相互理解による、デモクラシ−を基盤とした社会の上に存在する。近代の博物館施設というものは、だから、デモクラシーの維持のためにも存在することを、始まった当初より、大切な要素として持っている。故に、そこに集積された知的情報というものは、市民によって有効に活用される必然を持つ。そもそも博物館施設や、公共の学校というようなものは、文化、文明、知恵や知識の公平化、平等化、一般化のために始められたものなのであって、その施設を運営する人が自覚しようがしまいが、市民に対して常に開かれた存在として、その初めから(うまくいっていたかどうかは別にして)存在していたのである。

さて一方、私たちの知っている公教育も、同様の理念に基づいて始められた。なぜ勉強をしなければいけないか。デモクラシーという概念を理解できるくらいの、普通の大人になるためである。地球という星の上に生存する霊長類人間という動物の普通の成体になるために、私たちは、ここしばらく前から、まとめてだいぶたくさんの共通する情報を知っていなければいけない方向へと進化してきてしまった。だから、普通の人間になるために、各個人は、教育を受ける権利を持つ。それは社会の役に立つためとかではなく、自分のためなのである。自分を取り巻くほとんどすべてのモノやコトには、それがそこに存在する確かな理由があり、それらの理由のバランスの上に、私が、今、いる、と言う自覚を持つために、私たちは、様々な機会と施設を、とことん利用して、自我の形成を行ってゆく。それが、勉強する、ということだ、ということを、ワークショップを組み立てる側にいる人が、まず、自覚したい。

現在日本で使われているワークショップという言葉についての概念規定は、この本のほかの部分で書かれていると思うが、その始まり方、使われ方、アルタネイティブスクールや、美術ならDBAEとの関係、人間の視覚表現についての発生とその理由、そして、近代という時代の捉え方などについて、ワークショップをめぐって様々考えなければならない人は、是非ざっとした概論を頭に入れておいた方がよい。なぜなら、ワークショップは、各自の知識を有機的に組み立てなおす一つの方法であって、その実践について山のように知っていたり、その活動を美しく組み立てられることが、ワークショップそのものをうまく伝えたということにはならないからである。むしろ、その活動を支える、または生み出した、文化について理解することが、よりよい理解を得る。
だから、宮城県美術館の教育普及部が日常的に行っている様々なワークショップの実践についての説明は、ここではしない。なぜ、それが行われるのかについて述べた。基本を押さえ、実践は、各自が考えて、勝手に行う。このやり方自体が、深くワークショップなのである。

さて、というようなことをふまえた上で、宮城県美術館で行われている活動から見えてきた、ワークショップを行うにあたって、注意すべき、または知っておくべき、要点について述べる。

1 ワークショップという特別な活動があるのではない。
 ワークショップは、授業や、講座など、教育的な配慮をともなう事業を行う場合の「システム」のことだから、それによって行われる活動は、既存の内容のもの(たとえば、油絵講座とか、特別展講演会とか、春のお茶席とか)で、まったくかまわない。
 問題は、前に述べてきた教育に関わる意識(教育の実質は受ける側に存在する)を、その作業を組み立てる人が、持っているかどうかである。教える(ティーチ)ではなく、助ける(フォロー)で行う教育。個人が、この言葉から、どれだけのイメージを広げられるかに、そのワークショップの展開の是非は、かかっている。

2 学校でできることは学校に任せる。
教育の中で学校の占める位置は、ごく特殊な領域である。同年齢の人たちを、ある量、強制的に集め、その個人の必然とはあまり関係なく、一方的な情報の伝達を行い、教える側の基準で評価する、という形態が、教育というものなのだろうか。教育は、その人を健全な人格を持つ人にするために行われるもののはずで、大変個人的な活動である。学校というシステムは、ある方面には大変効率の良いシステムではあるが、それに個人の人格の形成に関わるすべてのことを任せようとしたり、そもそもそうであるものの修正(一方通行でない授業とか、少人数での授業とか)で、その全体が何とかなると考えるのは無理なのではないか。
学校でできることは、社会教育機関ではしない、学校的教育活動で、私がいやだったこと(かつ、大人になっても、そのいやだったことの正当性が説明できないことやもの)は、社会教育機関ではしない、という決心に立った活動の組み立てこそが、ワークショップというシステムを生かすことにつながる。さて、学校でできることはしない、私がいやだったことはしない、とすると、たとえば、あなたは、美術館で、どれくらいの活動を組み立てられるだろうか。そして、それは、教育なのだろうか。または、それこそ(活動を組み立てようと頭をひねること)が、教育なのか?

3 準備をしない。成就を目指さない。
私の経験では、活動で、もっとも面白いのは、何かを企画して、各方面の専門家に話を聞き、いろいろ必要なものをそろえ、買い物に行き、仲間と意見をかわし、部屋の準備をして進行順序を決め、わかりやすい言葉を使ったチラシを作ってみんなに知らせる、というようなあたりである。こここそが、その活動の流れの中で、もっともダイナミックで、ビビットな現場である。なぜ、ここを、私たちは、こちら側だけで準備してしまうのだろうか。それは、たぶん、活動の成就を目指すためには、時間が足りないと思うからではないか。
活動の目標は、それをやり遂げることではなく、その活動によって伝えたいことなのであって、それはたいてい、その経過にある。そもそも、人はみな違うのだから、器用不器用があるのはあたりまえなのである。早くできる人と、遅くなってしまう人がいるのはあたりまえのことなのであって、問題は、その各々が肯定されることにある。できない人は、続けてやればいいのだし、終わった人は違うことを始めていいのである。一般的な社会ではごく普通に行われていることなのに、教育的な活動になると、なぜか早く、みんなで、同じに、してしまう。それは、教育の、そして美術の、大きく、大切な、目標であっただろうか。

4 この感動を伝えたい、ということはできない。
私の感動は、私のもので、もっと深く、とか、それはちがう、とか、他人にいわれることは、まったくよけいなお世話である。感動のような、ごく個人的で、かつ曖昧で移ろいやすいものを、教育の活動の中で、直接扱おうとすること自体が、誰にもできないことだったのではないか。同じ対象から発したとしても、それによって起こる私の感動と、あなたの感動は、まったく違うもので、それ自体をどうこうする事は、大変難しいし、してはいけないことなのではないか。しかし、私たちはある事柄に関して似たような感慨を持つことは事実で、そのことは伝えられる。感動そのものではなく、そのようなことがあり、それは、様々な所と事で起こる、ということは、むしろきちんと伝えておくべきことである。また、感動がおこるための練習という活動も組み立てられる。しかし、感動そのものをこれだと取り出して、それを作り出すことの練習は、できない。このような誤解は、ほかにも様々ある。感動そのものを教育するのではない。それがおこる事の確認と、おこる、又はおこすための練習はできるのだという視点からの活動の組み立てを考えることは、共通の話題にできる。

さて、おおよそこのような意識を基に、参加者各自の教育目標のクリアを目指して、ワークショップの組み立てが行われる。教育の実践は、ごく個人的な資質によるから、その実践は、みな違う。しかし、その活動の中で個人が出会い、他人との関係を使って自己の確認を行い、再び周囲にその変化を送り出すというような、ごく基本的な教育の動きは、参加していれば、感じることができる。うまくいったワークショップは、おおむね、このように、終了する。

  ファシリテーションの実際 100923開始@Win.(1万2千字)

1 まず、教育の概念を点検する。
 私達の国で、ワークショップを巡って話をする時、初めに確認しなければいけないことがある。この文で、私は教育の方法について話そうとしている。私たちはこれまで充分な教育を受けてきた、と普通は思っている。教育に携わろうとする人は、ここで我に返らなければいけない。私たちは、教育を「受けてきた」のではなく「受けさせられてきた」のではないか。
 これから考え学ぶことは、「教育をする側」の理論及び技術である。私の経験では、教育をしようと思うと、知らないうちに、被教育体験(受けさせられてきた教育の経験)に基づいた動きをしがちになる。自分が受けて来た教育をあまり点検なしに(確か、受ける側にいた時には様々な好き嫌いがあったはずなのに、する側に回ったとたん何も意識せず無批判に)そのまましてしまいがちだということだ。意識していないとついそうなる。これまで受けてきて、いやだったことはきちんといやだったと自覚し、それをした人の立場にたって考えてみて、その理由が理解できず教育を受ける人(その当時のあなただ)のためにならない/ならなかったと思うことは決してそのままにせず、絶対同じにはしないと決心することがこれからの教育をする側の人には大切だ。文化や智識を伝え拡大する作業(教育)に当たる時、これまでの自分の教育(された)経験を無批判に使わないと決心したあなたには、そこで初めて新たに(自分が納得できなかった)それに変わる方法を提示できるかが問われる。ワークショップ、しかもそのファシリテーションの方法を学ぶということは、そのあたりに関わり、学ぶということなのだ。
 ワークショップという教育の技術は、これまでのやり方と似ているところも沢山あるが、たぶんその考え方や教育をする側の立つ位置がこれまで考えられてきた教育とは違う。受けてきたのではなく受けさせられてきたのではないかという意識を持って、自分がこれからしようとする教育という活動を考えること。ワ−クショップを巡る学習では誰のために何をしようとしているのかいつも意識していることが、普段にまして大切になる。実践の時には様々な問題が起こるが、常にここまで戻って考えれば、ほとんどの問題は解決できるように、これまでの経験から思う。
 ワークショップは、教育を受ける人が意識的に自分の認識を確認し拡大するための「手伝いをする」仕事だ。これまで学校でして/させられてきた教育のように、あなた(先生/教育指導者)の「知っていることを伝える」のだけが目的ではない。だからこそ美術が大きく関わることができるのだ。なかなか難しい活動だが、常にこれまでの教育とは何か違うことをしようとしているのだという自覚を忘れないでいきたい。

 私たちがこれまで受けて/してきた教育は、ほとんどがスクーリング(学校教育/ほぼ強制的に集めた同年齢集団に、一方的に、教える側が使いやすく教えやすい情報を流し、教えた側が評価する教育)と呼ばれるものだったということを自覚しよう。それはある時期/年齢にいる人間には大切で必要で充分な作業ではあるが、エデュケーション/教育という概念のなかでは特殊な一部分に過ぎないと思った方が良い。ましてや「教育そのものである」などとは到底言えない。
 学校教育(スクーリング)は教育という概念(エデュケーション)のごく一部で、教育そのものはそれを取り巻いてより広く深くある。私たちが学ぼうとしているワークショップは、スクーリングとは違う方法で教育を組み立てる仕組みだということを意識しよう。

 元々人間が人間になって以来してきた教育は、なんとかして子供を早く大人と同じ生産活動に従事できるようにするする作業だったはずで、生きるということはすなわち生産活動で、いかにして今日食べ、生き延びるかと同じ意味を持っていた。地球の上で生きている生物としてはごくあたりまえの生き方で、人間以外のほとんどの生物は今でも普通にしていることだ。ついこの前まで、ほとんどの人間にとっても今日を生き延びるのはたいへん難しいことだった。いかにして生き延びるか。その理論と方法を次の世代に伝えるのが教育の最も大きな目的だといえる。今、と言ってもここ数百年程のことだが、私たちはだいぶ本来の生き物らしい困窮からは離れた生活ができるようになったかに見える。そのため現在、私達のような国での教育は「人生を豊かにするため」にあるようになった。豊かな(個人の)人生が積み重なった上での豊かな社会の構築。教育は現在おおよそそのあたりを目指して行われる。教育は、その個人が入学試験をパスするため/即物的で刹那的なその時の競争に勝つためだけにあるのでは決してないということを、これから教育に関わろうとする私たちは、あえて強く意識したい。本来(私達がワークショップという概念を通してこれから学ぶ)教育は、「個人が健全な人生を豊かに送るため」にこそ、行われる。

2 美術から見る教育目標の変遷。 
 普段何気なく使っている「私はここにいる」という意識は、そんなに昔からあったものではないことを歴史は語る。「私」が意識的に語られることによって「近代」も目に見えるようになる。初め、王様や教会から解放されることによって自己を見つけた私達(それまでは世界中どこでも、私達は多かれ少なかれ、誰かの奴隷だったのだ)は、すぐに神様からも!自立できることに気付く。どちらが先だったのかはこの際おいておく。それまで、向かい合って立っていた神という概念(ある特定の神様という意味ではないということだ)と私は、そのことに気付くことによって、その存在とほぼ同じ方向を向いてならんで立つことになる。困った時に、何でも「正しく」教えてくれた「神(とか天)」という概念がやってくれていたことを、私達は個人でなんとかしなくてはいけなくなった。誰が美人かは、それまでのように王様(象徴的に神様の代理人、他に様々な名称で呼ばれる)に聞いて無批判に納得することではなくなり、各自が自分で決めていい/決めなければいけないこととなった。何が美かは、それ以来、世界中の人間を悩ます問題になっている。そういう(誰か絶対の人やものが決めてくれていた)事を巡って、私達はとにかくみんなと話し合うほかなくなった。近代の社会はそれをなんとか解消する様々な方法を持つことによって成立してきた、ことになっている。とにかく一生懸命、真剣に、自分以外の人とお話をする他、今の私達をまとめることはできないようなのだ。

 美術の世界では、神様がいた頃は自分の外側に見えたもの(神の創造物)を描くことだった絵画(だから、修道院での修業になれた)が、自分の内側に見えた/見えるもの(頭の中)を描いていたことに気付く人が出てくる。正しく言えば、絵を描く時、私達は対象物ではなく描いている紙を見ている。紙だけを見て私達は絵を描いていたのだ。では私達は何を見て/何が見えて、それを描くことができたのだろう。人間が描いてきたものはすべて、それを描いている人の頭の中にあった/見えた世界だったのだ。頭の中は、その人以外の誰にも見えない。それまでは、みんな同じものが見えているとまったく少しの疑問もなくみんな納得して思って/信じていたのだと思う。そこまでわかれば時間が進むのは一気に早くなる。頭の中(だけ)に見えるもの「印象」が描けることに気付く人たちが出てくる。印象を描く人たちが沢山出てきて、私達は、どうも他人が見えているものは、私が見えているものとは違うところもあるようだということに気付く。頭の中は、その人以外誰にも見えない。より自分の頭の中に分け入った一握りの人たちの決死的な(そんな事をしたら神の罰がくだされるのではないかの恐怖を無視する程の)決意によって、私達人間は抽象画が描けるようになる。人間が絵を描く歴史は途方もなく長く続いてきていたのに、それまで誰も!頭の中のグチャグチャ(抽象)を(模様でなく)「絵として」描こう/描けると考えつかなかった。ちゃんと見つめてみると、私達の頭の中は全員違って、かつ実は(常には)具体的な形にはなっていなかったのだ。ただ、そこまで描き出してみて初めて、すっかり違うと思っていた個人どうしの頭の中も、私達は大きな「人間」という枠でくくることができることに気付くことができるようになる。美術では、近代はこのように始まり展開する。そして今、21世紀に入り、私達は近代後(ポストモダン)にいるという。

 少し引いた広い視点で眺めると、人間の歴史の中で、美術は常に、こういう仕事をする係だったのだ。各自が異なる世界を、各自が各自の頭の中に持っている。普段その世界は言葉で組み立てられているが、世界はとても言葉では言い尽くせないものやことに満ちている。百聞は一見にしかず。絵を描く(各自の世界を見えるようにする)仕事は実はその個人の世界を語ることだったのだ。そしてそれが語られることによって、人間としての大きな世界観は拡大深化することができる。
 ワークショップに美術が深く関わるのは、この、各自の世界を、共有できる土俵に出してくる力があるからだ。上手い下手などではもちろんなく、各自の違いが自然に出てくる/見えるようになるというあたりこそが、美術がワークショップに深く関わることができる部分なのだ。

 このように近代が始まり進み展開したことによって、私達は「神をも恐れず、自分で決める事ができる人」が近代の人間だと思えるようになった。そういう人間になるため、それまでごく少数の人たちに握られていた美の決め方や様々な知恵智識を、私達は全員が平等に持てるようになるための仕組みを公共で持つことにした。公共の美術館博物館や、公教育はこのようにして始まった。私達は自立した個人が形作る社会を目指して、文化や教育を皆がほぼ平等に受けられ、享受できるような社会を作ったのだと言える。教育はその個人の(近代的な自我に基づく)自立を支援するためにある。しかし、それまで長く続いてきた常日頃のものの見方(誰かはっきりしない上位概念(神様とか)に善悪美醜を決めてもらうというような)は、そんなに簡単に変わることはできない。様々な試行錯誤や後戻りなどを何回も繰り返しながら、しかし私達は人間全体の力を合わせて、教育を真剣に考え続けてきた。その結果、20世紀の中頃を過ぎたあたりで、ワークショップと呼ばれる教育の方法をやっと見つけ出した。

3 教育する方の目線の変化。
 さて、遠回りをした感じがするかもしれないが、ここまでの視点を押さえておくことはワークショップの実践、特にファシリテーションを使ったワーリショップを組み立てる上で、大変大切なことだ。このあたりを押さえてさえおけば、もしかすると、教育はこれまでの方法だけでも充分なのではないかと思える。たぶん、近代の教育が始まったばかりの頃は、同じような内容が教育を巡って話されていたのではないか。しかしその後200年、極端に経済的な思考が私達の世界と生活を取り囲み、飲み込んだ。21世紀に入った今、私達はあえて再び、ワークショップというごく基本的な教育の方法について、学ぼうとしている。

 近代的な教育における伝達方法はおおよそ次のように変わってきた。
   教育の形   実践する人
 1 ティーチ ⇔ ティーチャー
 2 インストラクション ⇔ インストラクター
 3 インタープリテーション ⇔ インタープリター
 4 ファシリテーション ⇔ ファシリテーター
 近代になり、教育を受ける側の「自立の自覚」がどれだけ深まるかに従って、名称、すなわち教育のやり方の形が変わってきた。
 1から3までは名称が変わる―個人の自立度は高まる―が、教育の形―先生(智識/情報のプール側)から生徒(変化したいと思っている側)へ、伝えるべき事柄は一方通行で動く。一方通行でしか動かない。教育は一方通行で行われることに誰も疑問を感じなかった。
 名称に従って様々やり方―教育する側の立ち位置―は変化するが、しかし先生はその人の知っている貴重(だと、その人/社会が考えている)な情報を、まだ一人前で無い(自覚していないと先生が考えている人間としての)生徒に伝え、試し、評価して改善し、なんとか自分と同じぐらいに(は)すること、に努める、という形だ。今、私達は、子供の時からライツRights(人権)というものが私達各々にあることを知っている。そしてそれらは何にもまして尊重されなければいけない、らしいと感じている。概念(言葉)として私達は、精神的な意味での奴隷的環境を初めて自覚できる状態になったのだと言える。私達は生まれてこのかた、ずうっと誰でもない自分自身で、物事を考え、決めてよいのだ、できるようになろうと育てられて来た/来るようになった。生まれながらに自立について自覚できる人間の集団。ここに来て初めて、私達はファシリテーションという概念に基づく教育の方法を考えられるようになった。

 気付いた人がいると思うが、だから教育のやり方は、何もワークショップでなくてかまわないのだ。その人の必要に応じて教育は様々な形をとる。教育は常に一つでは決してない。人間のある年齢までなら、学校教育は充分にして必要な教育だと言える。これまでなされてきた様々なやり方で充分な時も多い。実際、私/私達は、今ここにこうしていて、この文章を読んでいる。いつでもワークショップをしなければいけないことはないことを自覚しよう。未だティーチの方がそのグループのその状況にとってベストであることは多い。その時はそれをやることをためらってはいけない。形はティーチでも、やる側の心の中にワークショップについての想いがあれば、同じ話でもその内容や伝え方が変わってきて、当然その結果も変化してくる。時間はかかるが、文化が伝わるとはそういう事のように思う。

4 ワークショップの実際
 最初に端的に言ってしまえば、ワークショップとは「教育の主体をあくまでも受ける側においた教育の方法」のことである。何回も言うが、近代の教育ではごくあたりまえの教育概念だと言える。
 「教育の主体」は、ここまで述べてきたとおり「近代的に、自覚し変化したいと考えている個人(以後生徒と呼ぶが、これまでの生徒とは違うことを意識し続ける事)」のことだ。個人なので、自覚や変化欲はものすごい個人差がある。1のティーチから3のインタープリテーションと分類される教育方法の場合、「相談に乗る方(以後教師と呼ぶが、こちらもこれまでの教師とは違う事を意識し続ける事)」は生徒と対面して立っている。だから見ている方向は(実は)正反対だ。ティーチでは、生徒は教師の後ろを見、教師は生徒の後ろを見ている。彼らは離れて立っていて、お互いの視線の焦点も合っていない事が多いように思える。インストラクションになると教師は生徒に近づき、その顔の辺りに視点を据え、生徒が自分を見ていない事に気付き、生徒が何を見ているのか気にして少し自分の後ろを振り返ってみる。しかし立ち位置はまだきちんと対峙していて、自分の知っている事/智識をなんとか生徒に聞かせようとする。だから話を聞かない生徒は(先生の基準で)悪い生徒だ。インタープリテーションになって初めて、教師は生徒が何を見たがっているのか(自分が見せたいものとは関係なく)気になり始める。教師は生徒の正面から脇によけ、斜めになって生徒の見たい方向(自分の見たい方向も一緒に眺めながら)の視界を確保してあげる。しかし主な視線は生徒の方を向いている。初めて視界の開けた生徒は、そこに初めてクリアに(自分で)見えたものを使って先生に質問する。ただしかしこれも、先生によって確保された視界なので、先生は予習してきた智識を使って、余裕を持って答える事ができる。だから、そこで行われる教育をあらかじめ組み立てる事が可能だし、様々な操作を加える事ができる。20世紀、このインタープリテーションという教育の方法は、ワークショップの究極の形だと思われてきた。しかし、生まれて以来、ずうっと自覚する個人(であるかのよう)に育てられてくる(少し前まで、子供の自主性や人権は今ほど尊重されていなかったように思う)21世紀の人間は、何か自立に足りないものがあるように感じはじめた。ここまで来て、私達は初めて、ファシリテーションという教育の方法について述べる事ができるようになる。

 ファシリテーションになると教師と生徒は(意識的に)最初から、同じ方向を向いて立っている。各々の見えるもの(問題)は同じだが、各々が何を考えているのかは、(顔が見えないので)実はわからない。他人の頭の中は見えないことはみんな初めから了承している。二人同時に見えているものが問題なのだという認識も、あるかどうかを含めて、実はわからない。
 ファシリテーションでワークショップが行われるとき、そもそもの問題は参加者(生徒)の方に、既に、(ないという状態も含めて)このようにある。先生は生徒とともに、同じ方向を向いて立っている。同じ方向を向いている個人どうしなので、人の頭は覗けないからどこに問題があるのかは、この際この二人の間の問題ではない。問題は、あなた(先生)の方にだけある。あなたが何かしたいのだ。でもそれはそこに(列んではいるが)いる生徒とは関係がない。生徒と何もしないで同じ方向を向いて立っているという状態から、ファシリテーションを使ったワークショッップは始まる。実は近代の教育はこのような状態から始まるのだ。

 ファシリテーションを使ったワークショップ(以後ワークショップ)では、到達すべき目標や、こうあるべきという基準のような既に決まっているものやことは、最初はない。そもそも、何かを教える(到達すべき目標とされるものを参加者全員が目指す)為にその活動が行われるのではないのだ。教えたり伝えたりするために行われるのではない教育。ティーチから最も離れたエデュケーション。ファシリテータにできることは、その人の相談に乗ることだ。

 二人が同じ方向を眺めている。このときファシリテータは二人を包む大きな方向は見えているが、参加者(生徒)は関係ないことを考えていてかまわない。というより何も考えていない。何か先生が動いてくれる/指示してくれると思っている。しかしこれはティーチではないのだから、何も始まらない。しばらくすると参加者が動く(ことが多い)。動かない時は、ファシリテータが話しかける。問題はファシリテータ側にあるのだから。たとえば「何もしてないと暇じゃないですか?」「ええと、今日は何するんでしたっけ?」。そこからの会話の動きによって、本質に直接絡む深い活動が突然始まる。先に述べたように、問題は既にその人にある。だからたとえば「いやあ、今話題になっているこれこれについて、何か教えてもらえるんだろうと思って今日来たんですけどねえ。何も始まりませんねえ」。私達はここで、今問題になっているこれこれについて、参加者がどのように問題だと思っているのか、又は思っていないのかについてわかり、相談から始まる近代的な教育をスタートできる。ファシリテーションはティーチではないので方向はあるが目標はない。目標は参加者にのみある。ファシリテータは自分が考える予定調和を目指してはいけない。話を聞き、参加者の考えの基本を読みとり肯定し、意見を述べ、スコア(楽譜/手順)にまとめ(参加者のスコア。あなたのスコアではないことを強く意識し続ける)、実践し、見えるものになった結果を見ながら再び相談をし、向かう方向を確認しながら必要であればスコアを変え、再び実践する。ワークショップの原理と進め方は、このように使われる。実践結果がファシリテータの考えていたものと違っていても、それはその問題を巡る参加者の表現なのだからその時点ではしょうがない。もちろんファシリテータは意見を述べる事ができる。それに対する反論も、大きい教育の中に含まれる。しかしあなたの目標をその人の目標にしてはいけない。あなたの(その活動全体が目指す)目標の方向は、あなたによって意識され続けなければいけないが、そちらが先にあるのではない。その活動をとおして何故そこに行きつきたいのかの、事前の把握がこちら側に、深くひろく必要になる。

 このようにして展開される、違う人の脳との智識の共有化が、たぶんファシリテーションの大切な点である。その個人の世界を深めるための相談(話し合いでの教育)は、これまでのティーチで知っているような智識/情報の単なる増加ではなく、それらの智識情報をどのように有機的に組み合わせ使うかという知恵の共有とでも言うべき、他人と自己との経験の共有化という体験になる。

5 ファシリテータの立ち位置
 1981年に開館した宮城県美術館には、開館中常時開いている創作室と呼ばれる美術実技の作業スペースがある。そこでは基本的に「個人を対象」とした美術を巡る「何でも相談」というワークショップが行われてきた。実技講座のようなクラスが開かれているのではない。例えば、絵を描く行為はごく個人的な作業で、何人かまとまって同じものを見ていっせいに2時間で行われる作業(図工でよくとられる方法)で、できるものではない。こういうことはみんななんとなく知っているのに、なぜか絵画教室は、そういうふう(図工でやったよう)に自然と行われてきた。その結果、日本人のほとんどは学校で図工美術を勉強しているのに、美術が苦手で、抽象画はよくわからないという人になってしまっている。美術はきわめて個人的なものやことを肯定するはずではなかったか。ファシリテーションをベースにしたワークショップは、このような現状に素直に直接対応する。ここまで述べてきた考え方はそこでの約30年に渡る私の個人的な経験からまとめたものだ。それぞれのワークショップで使う技法/技術をよく知っているかというようなことより、そこに関わる人のライフスタイルのような、答えを出してくる基本になる生活を、どれだけ美術的?にできるかのような部分こそが、問われる。

 私は1970年(学生運動が最も華やかだった頃だ)、大学に入り、その後宮城教育大学美術科(ということは私の美術の基礎は美学にしろ実技にしろ、学校教育用のものだ)を卒業し、その後1976年から3年間ニューヨークブルックリン美術館付属美術学校で彫刻(非具象現代彫刻)を学んだ。そこでの日常の生活を含めた経験が今の活動の下敷きになっている。ベトナム戦争が終結(1975年)したばかりのニューヨークの、美術系社会教育の学校では、やっている人たちが意識していたかどうかはわからないが、ここまで述べてきたような(ワークショップが基本の)教育が行われていて、スクーリング(学校教育)に首までどっぷりと浸り、それにみじんも気付いていなかった(=普通に元気な若い日本男児だった)私の目を無理やりこじ開けるに充分な教育活動が行われていた。ニューヨークで子供を生んだ(もちろん本当に生んだのは私の妻だが、自然分娩の立ち会い出産だったので、つい生んだと言ってしまう)時の経験も含めて、私はほとんど毎日驚愕し続けて、今日に至っている。なんでもないように見えることに、ビックリし驚く心は、ワークショップに関わる人間にとって最も大切で基礎的な準備/訓練である。
 たぶん幼児期の基礎的な教育が、「皆と違っても自分に自信を持ち、自立できる個人を作る」のか、「言われたことを素直に聞き、皆と同じになろうとする個人を作る」のかで、違って来るのだ、と今はわかる。本来、学校(基礎)教育はよい子供を作るためにあるのではなく、よい大人を作るためにこそある。基本的に基礎的な教育がそのように行われていないと、本当はワークショップは凄くしずらいはずなのだ。しかしそんなことを今の日本で言っていても何も始まらない。私達は、既にそうしてここにいるのだ。私達はそこのあたりを充分にふまえた上で、ワークショップを活用するしかない。

 ファシリテータとして活動する時の、幾つかのこつをメモしておきたい。
□深い個人が多々いることを肯定できるようにしておく。
 ハンディキャップの人も含め、人はただ生きていてもそれだけで経験になる。描かれている図形は小学校2年生と同じもののように見えても、そこに使われている一本の線はその人の何十年かの生活をうしろに背負って引かれている。謙虚に真摯に丁寧に見れば、それが見えてくるようなものの見方を身につけたい。だから先に生きている人の話は聞くほかない。両親の話も、親という枠を外して聞くと面白いことがあるように、しきいが高いのではなく、たいていはこちらに「高いしきい」がある。
□方向はあるが目標はない。目標はその人にのみある。
 する人(ファシリテータ)が考える予定調和を目指さない。そうすると準備はこちらには無くなる。ワークショップは準備することから既に活動(相談)が始まっている、という意識。準備する段階で既にこちらの予定調和に沿った活動が組み立てられ始めている。準備をワークショップ化することで得られるもの。準備をしてしまっていたことで失っていたもの、から点検し活動化する。
□作業の終了目標を決めない。
 そうするとどこが終了かが曖昧になるし、もっと大変なのは、活動の進行も見えなくなる。しかし、ふと我に返れば、その進め方、進み方で、たいていの活動は様々問題が起こっていなかったか。終了の様々が決まっていると、そこまでの経過がおろそかになりやすい。そしてワークショップの活動で、最も大切なのは経過だということはみんな知っている。ワークショップの基礎はふまえた上で、結果ではなく過程を楽しみ拡大できる方法を相談(決めるではなく)できるのがファシリテータ。だから、作業の終了目標を恐れない。あなたの終了とその人の終了は違う。終了はその人だけが知っているのだから、そこでファシリテーションとしてのワークショップが始まる。というような大きな時間の概念を意識できる普段からの生活を心がける。

6 まとめ
 会社がつぶれそうになると、銀行から経営の専門家という重役がのり込んできて、あっという間に本当にその会社がつぶれてしまう例を、20世紀中私達はいやという程見てきた。その会社がそれまで、その社会の中で生きてこれたのは何故だったのかについての点検自覚より先に、経済的な点検が始まってしまい、経済的な方向からその活動は終了して/させられてしまう。ワークショップやファアシリテーションは、そういう考え方から最も遠い位置に、しかし実はその(つぶれそうになっている)会社のすぐ側に立っている。同じ方向を向いて立っている。
 この文章は、実践の話のはずだったのに、何も実践について書いていない。これまでの私の経験では、一寸でも実践の具体的なやり方を話すと、すぐ、それをそのままそっくりまねしようとする人が多かった。そして上手くいかない、違うということになる。そういう現象は、最近学校教育でも取り入れられ始めた「対話を使った鑑賞」の授業などでも起こっている。

 ファシリテーションを使った教育では、先にやった人の実践のまねはできないのだ。なぜなら、あなたはその(先にやった)人ではないし、参加者は(先にやった人とやった人ではない)今そこにいる参加者だからだ。ファシリテーションを使ったワークショップでは、そこにいるあなたと同じ方向を見ているその参加者の、頭の中の世界観が、どのような体験を通して、どのように(共通/有)経験化できるかが問われる。だから、ワークショップを巡る授業では、何故それをするのか、しなければいけないのかだけが、学ぶべきこととなる。実際の場面で起こる実技技術的な問題は、この授業ではないところで各自が学ぶ。としても、実技技術的にわからないこと/知らないことは、ワークショップではそんなに怖く困ることではない。その場面で、自分だったらどのようにしてその問題を解決するか(できるかではなく)と働く意識のバエリエーションをどのくらい持てるかだけが、その場面で問われることだ。

 文の最初で述べたように、ファシリテーションを使ったワークショップの勉強は、教育の原理に深く関わり、かつ、又はだから、美術と美術教育の原理にも、大きく関係してくる。このあたりを意識し続けることが、21世紀に入ったこれからの教育を変える力になるのではなかろうか。

      以上、約1万1千6百字

2011年 3月29日  高曇りの穏やかな晴。少し強い風。


明美さんは、今日もまったく普段通り、自分のスケールで朝から動いていて、一見物を頼めそうな覚醒している感じなのだが、頼むと僕の考えていたのと違った、様々な意味で彼女の疲れないような方向の結果になっていったりするので、結局僕がしたい/しなければいけないことは全部僕がしてしまった方が早くすみ、かつイライラせずに済む。と、僕だけが思っているのではないかと思ってしまう程、アッケラカンだ。精神のハンディキャップの人といると、こういうことが震災の最中に起こる。僕に取って震災はまだ最中だ。
電気と水道は復活し、昨年末、原発反対なのにソーラー発電を含めてオール電化したわが家は、もう、まったく普通通りの生活が出来て、今日カングーと、CT(ハンターカブ)のガソリンもほぼ満タンになり、電車は4月2日からだけれど動くメドが見え、なのだが、下水と放射能が残っている。これらのどちらかが、顕在化したなら、今の/今までの快適で安逸な生活は根底から崩れて、強制避難になるから、節水/節電とトイレに物を流さない、洗濯物を出さないは、大切なのに、明美さんにはそう言う僕がひどくいじわるをしているように見えるようなのだ。

僕はこれまで普通の時一日中NHK第1を聴いていた。時々NHKFM。震災が起こって岩沼に引っ込んでからは、FM岩沼。地元の給水場なんかの情報はこれで確認した。地震以降NHKはあまり聞かなくなった。原発の伝え方が、どうも気にに食わない。僕の美術探検なんかのお話の仕方と、最も離れた物の言い方のような気がする(ということはいわゆる学芸員風ということか?)のだが、自意識過剰かな。聴いていると、理由もなく心配になって来るのに、判断するための情報には乏しい。こういう風に話した方がみんな心配しないだろうと考えて、話してますよという声が、ニュウスを読む声の合間に聞こえてくる。聴いていると、気がめいってくるので聞かなくなった。でも、様々な所から様々な情報は入ってくる。忙しい時は気が休まる暇もなく忙しいのだが、そういう時は何もしなくても良い時間もふと出来たりして、地震から1週間を過ぎた辺りからは、ぼんやり考える時間も結構できた。

造形は様々使い道があった(あっという間に快適な外便所を作ったり、水確保のための様々な容器の工夫とか)けれど、美術そのものは、具体的にはあんまり役立つ機会がないなあというのが、今の感想。ものすごく基本的な深い所で、僕の美術は大変力強く僕を支えてくれている(だから造形も生きてくる)けれど、そこにすぐ見える所では、何とも頭でっかちで弱々しい感じだった。生きるためにギリギリの所を、なにげに余裕に変える、なんてことは、生きていて余裕があるから言えるのであって、さ、生きるためにこういう場合どっち取るのという場面では、美的な余裕なんて、なにそれ?だ、と言えるようになった。ということを考え感じていたというのが、僕の正気を保たせていたのだろうか?でも、僕は正気だったのか?今は、まだわからない。

何回も戻り行きつつ、この体験がどのように経験化して行くのかを意識的に自覚していこうと思っている。

2011年 3月26日  穏やかな青空。太陽の光が空気を澄ます。


3/11から2週間過ぎた。もうほとんどいつもの日常に戻ったみたいだ。肩はこったままだが、見続けようと思う。

11日は美術館に居た。丁度、仙台文庫の大泉君達が来ていて、これまでとこれからについて打ち合わせをしていた。そうしたら揺れ始めた。どんどん揺れ続けて終わらなかった。彼は食器棚が倒れるのを支え、僕はドアを開け、物が崩れ落ちるのを、「そうだよな、だから常日頃きちんとしておかなければいけないんだよな。」というようなどうでもいいことを、しかし冷静に考えながら、立っていた。創作室では公開制作が始まった所で、スタッフが全員出ていた。
揺れがおさまってからの動きは大変良かったと思う。全員が訓練どうリに点検に走り中庭に集まった。そうだ、まるで訓練のようだった。怪我をした人とか建物が大きく壊れた所とかはなかったようだった。学芸の人達はかいがいしく動き回っていて、さすがだった。僕は少しボオッとしていたかもしれない。こちらに問題がなければ、普及は学芸の手助けをすることになる。館内の点検が進むと被害がわかって来た。外に面した側の窓は、見える所ではどこも壊れていなかった。でも、展示室内のガラスはだいぶ壊れたようだった。防火扉も一部曲がってしまったと聞いた。僕はずうっと外にいて、主に創作室を中心に動いていたから、そういうことを直接見てはいない。
普及のスタッフは大変良く動いた。これまでの学校での経験が生きていたのだろうと思う。各自が的確な指示を出し自ら動き、僕なんか出る幕はなかった。多分、世間が大変なことにはなっているだろうことは想像できたが、海沿いがどうなっているかなどまでは、その時まったく気が回らなかった。その日はそのまま創作準備室に泊まった。家族のあるスタッフには帰ってもらった。結局僕と庄子君だけが泊まった。夜中、近くのマンションの住人が避難して来たりしたが、一応、ちゃんと眠った。

12日、美術館に居ても僕の物理的な力で動くようなことは何もないことがわかってくる。有川君に話して家に帰ることにした。家に帰ることの出来ない監視の若い女の人が二人、守衛室に着の身着のままでいるのを見た。リュックに、残っていた2リットルの水を二本詰め歩いて子平町の悠美の家に行き、GTのマウンテンバイク(自転車)を借りた。彼らの安全は確かめられたのでそのまま紅子(彼女も大丈夫だった)の家に回り、工具を借りてシートの高さを調整した。それ以上の作業はしないで二輪工房佐藤に回ったら丁度店を開けようとしていて、訳を話すとすぐブレーキとタイヤを見てくれた。両方とも部品を交換。ありがたい。深呼吸をひとつして、太白大橋経由で岩沼に向かった。建物が大きく崩れている所とかはなかったが、コンビニにたくさんの人が並び始めていた。途中、休店のガスステーションで便所を借りつつ名取から4号線に出て、家に帰る。4号バイパス沿いを、航空大学校の制服を着た若者が何人かのグループになって歩いていた。みんななぜか手に蜂蜜レモンの小さいペットボトルを持ち、下半身が泥だらけだった。仙台空港についてもこの時まだ情報を知らない。若い奴ら元気だなあとだけ思った。快晴だったことの方が記憶に強い。

家は無事だった。中は物がひどく落ちていたが、ま、しょうがない。自分の部屋を片付ける所から始めることにした。明美さんは呆然としていたが、生きる本能の人だから、何もしないで部屋に閉じこもっていたようだった。水をあげたらあっという間に1リットル飲み干した。脱水間際だったのかもしれない。水と電気は止まっていた。期待していた風呂の水は揺れで栓がとんでしまって残っていなかった。確か持っていたはずだと思っていた、キャンプ用携帯浄水器は何処を探しても見つからなかった。折り畳み蛇口付き水タンクも僕は捨ててしまっていたのだった。僕の頭の中にいたアウトドア少年は、脳内出血以来すっかり実践家ではなくなってしまっていた。やや呆然としながらどうするかを考える。

と言うふうに、今回の僕のサヴァイヴァルは始まった。

2011年 2月26日  高曇り。風の甘い。


そんなに長く更新していなかったという感じはしないけれど、ふと思えば、もう3月だ。今朝の通勤途中の空気も、春の気配に満ちていた。

2月の19日まで、僕はほとんど休めない毎日が続いた。週一の休みは当然あるのだが、一日しかない休みの日は、病院や様々な手続きや、掃除や買い物や、何やかにやであっという間に過ぎる。そういう状態の結果休みがたまって、ついに2月20日から25日まで連休ということになった。こういう時、公務員は「みんな、本当にすまぬ」なのだ。その休みのうちにブログを更新すればよかったのだが、いやはやずうっと天気が良かったこともあって、明るいうちはいつもの空間博物館で散歩、暗くなってっからは、DVD鑑賞で毎日が過ぎた。なにしろこういう時にかぎって、ツタヤの準新作DVDが4枚800円だったりする。まずさしあたって「アバター」を見たいと思って、借りに行ったらそうだったのだ。
僕は普段いっぺんに沢山DVDを借りたりはしない(借りても見きれない)のだけれど、VDV屋に行くのがほんとにしばらくぶりだったので、本で名前だけは知ってて見たかったものなどが何枚かあり、つい4枚借りてしまった。最初アバターとグリーンゾーンだけ持って行ったら「2枚だと680円だが、4枚だと800円なのです」と、キャシャーのお姉さんがささやくのだ。ううむ。

1月の末に出た僕の本「大きな羊のみつけかた」は、快調に売れているらしい。今回は、仙台文庫という会社が出版元。自費出版の時のように、読んでもらいたい人みんなに気楽に差し上げるというふうにはいかない(というより、してはいけない)ので、こういうの売れるのかなあ(なにしろ美術と、美術館教育中心の文章なので)と、(本当は)思っていたのだが、ううむ、もうあまり残っていないという連絡が入った。ヤバい、再び、僕の本は幻の本になってしまうのだろうか。まだ読んでなくて、欲しい人は早く手に入れてください。あゆみ書房でも売っているということだが、見つからないときは、どこの本屋さんでも頼めば入ることになっている。僕の手元にはありません。あ、「お父さんのひとりごと」は(まだ沢山)あります。

なにしろ冷静に考えれば、美術なんて普通の生活には本当にほとんど関係ない。でも、「アリとキリギリス」のお話で解るように、冬になってみんな冬ごもりを始めるあたり、まったく夏のキリギリスの歌声なんか忘れてしまったあたりに、キリギリス(芸術家)はヨロヨロと出て来て、あなたの生活に波風を巻き起こす。普段の生活に関係なくなったとみんなが思い始めたあたりにふと出て来て、それまでのすべての生活の点検を迫る。普段、美術なんて関係ないと思っている人にこそ、この本は読んでもらいたいと思う。

この休み中、何回か、亘理山元空間博物館での散歩をした。毎回、何もなく、しかしすべてが充実した散歩が楽しめた。薄水色の空に雲が浮かび、ポカポカだが、風は冷たい。ほとんどの渡り鳥はいなくなってしまったが、尾長鴨が少し。既にオタマジャクシがいて、梅は七部咲き。確実にノンビリした毎日だった。

2011年 2月 6日  高曇り。乾燥注意法の出ている日の、湿った朝の空気。僕にとって最適の気温。


昨日朝起きて着替えをしている時、腰にギクッと来る時の前兆が走った。それ以来、腰を曲げるのではなく、膝を曲げて体を下げるようにしている。昨日一日、しばらくぶりの溶接作業を数時間したのだけが原因として考えられるが、そうか、僕の体は、もうあの程度でこうなるようになってしまったのだなと、少し動揺。冬だから運動しないといけない。

最近時間ができると、ミニ4駆の改造をしている。アメリカンフットボールとバスケットボールと相撲の中継がああるときはそれを見て、そうでないときは本当はローラー台にセットしたマウンテンバイクを15分踏むという生活をするはずだったのに、なんということだ。
井出先生(宮教大での僕の美術教育の先生)の昔書いた本をわざわざ古本屋で見つけ「これ齋さん好きなんじゃないか」と持ってきてくれた人がいた。読んだら、本当に好きで、というより、ううむ、僕の基本はここにあったのかと、開いていると思っていたのに知らないうちに目脂でくっついていた目を引っ張り開けられたような内容。今も、美術館開館時に買っておいた、彼の「幼年期の美術教育」を読み直している。
今読むと、このような美術と教育に向かう態度や考え方は幼年時に限ったことではなく、美術教育の必要性とその向かう所について、もう既に、この人たちはこのときから始めていたんだなあと、心震える思いだ。でも今、学校(基礎教育)における美術(表現)教育がこういう状況なのは、何がどうしたためなのだろうか。初めからしておけば、そんなに難しいことではないことなのに、こじれきる所まで来てしまうと、それを解いて真っすぐな糸に戻すのはもう無理のように感じる。これをそのままやるというのではなくても、この方向で問題を考えるという態度は、今の僕の有り様を大きく支えている。普通に進む時代は何を選択していくのかについて考えてしまった。

2011年 1月26日  冬の青空。地平線をぐるっと雲が取り巻いている。


書き始めた日だけでは書ききれなかった。今日はもう27日だ。相変わらず気ぜわしい毎日だ。

20、21日、東京に行ってきた。全国美術館会議の美術館教育研究会(ERGだったかな)が国立西洋美術館と、横浜ズーラシアであったのだ。
ERGはまだこの会がEWG(美術館教育ワーキンググループ)と呼ばれていた、20世紀の終わり頃には、機会あるたびに参加し、様々な意味で影響を受けたりなんだりしていたのだが、僕の仕事が管理職になったあたりから、自分の考えの立ち位置が、あまり一般的ではないことにしみじみ気付き、少し引いてみるようになった。そうすると、(あたりまえだけれど)その中にいた時より状況がクリアに見えてきて、僕の考えてきた、美術と美術館教育を巡るものやことが、社会全体の中でどのような意味を持っていたのかというようなことをまとめる事ができた。昨日お知らせした本は、その辺りの成果だ。
だから最近のこの会とのコンタクトは時々回ってくる会合お知らせのメールをチェックするだけだったのだけれど、今回の連絡がきたとき、確か横浜には「オカピ」がいたはずで、こういう機会がないと、見ないまま死んでしまうかもしれないと思い、様々都合を付けて行くことにした。自主的に東京に出るのは、本当に久しぶりだ。空いた時間にぜひ「田宮プラステッィックモデルファクトリー新橋」に寄ろう。

今回の会のメインテーマは、最近様々なメディアに出てくる動物園の教育活動に学ぶ、というものだ。一日目は千葉市動物園並木さんの状況確認と意識確認、二日目は、その実践をズーラシアで見る。
原理的に、理科系基本の活動は言葉のゆらぎ/曖昧さがないので、活動は場所が違っても、対象が違っても、時間が違っても、明快に進む。その言葉の曖昧さとゆらぎ自体に気付き楽しむ方法を伝える文科系の活動とは、違うものだった。インタープリテーションで、完成/完結するかに見えるワークショップ。動物園(しかも意識の高い)だと、見られる対象も生き物なので、ファシリテーとしてはいけない/しにくいのだった。だから、公開された活動は、そっちの方では凄く参考になったけれど、こっちの方では凄く古い教育概念によるもので、しかしそっちもこっちもこうなってああなっている状況から見れば、充分見るべきところがあり、うんぬんカンヌンではあるけれど、大変面白くて参考になる体験だった。
だとしても、入園する前に発券ブースの回りをぶらぶら、うろうろしていた時に見ることができた、券を売る係の若い女の人たちや、中学生と馬に触る活動を始めようとしていた飼育係のお兄さんや、その他諸々の人や建物やマーク類など、見たり聞いたり触ったり話したりする、客と触れる部分の、(行ったことはないが)ディズニーランドのような、最端末まで行き届いた笑顔と目配りと格好の良さのほうが、より強く印象に残った。どうすれば、誰か一人の頭の中にあるそのイメージを端末まで浸透させられるのだろう。おおあぶない、ヒットラーになりつつあるぞと思いながらも、気になるところだ。
で、「オカピ」だが、なんと8頭もいるのだった。一人孤高の密林の動物。今まさに見つかっちゃった(20世紀になってしばらくしてから、アフリカ奥地のジャングルで発見された)ので、絶滅寸前、というような思い込みのイメージを勝手に持っていたので、世界中のあちらこちらの動物園にヒッソリと一人でいる彼らを、大層な苦労をして空輸し、お見合いさせて結婚させ、子孫を残させる活動が、こんなに一生懸命、世界的な規模で行われていることに、最初、頭がついて行かなかった。ううむ、理科系恐るべし。本当は文科系も既にそうなっているのかな、僕が気付かないだけで。

横浜からの帰り、新橋の「模型ファクトリー」に寄り「ミニ4駆」の買い物を少しして、充実した気持ちで帰宅。しばらくぶりのユックリした旅だった。

2011年 1月25日  広い青空に小さい白い雲。乾いた冷たい空気。



昼過ぎ、出版元のO泉君が出来立ての本を持って来てくれた。1月31日に書店に並ぶはずの僕の本。

仙台文庫ー2 『大きな羊のみつけかたー「使える」美術の話』。
発行 メディアデザイン 電話022-224-5308。
発売 有限会社本の森  電話022-712-4888。

目次
美術を使おう
保育園児と大学生のための「美術を考える授業」
小学生と中学生のための「美術って、本当のところどうなんですか?」
美大の学生のための「写真機ができても
               絵を描くことを続けるのはなぜか?」
美術/図工の先生のための「美術/図工教育は何のためにあるのか?」

美術館を使おう
美術としての教育、教育としての美術 宮城県美術館から見た美術教育
学校と美術館の連携のために
表現行為としての鑑賞 本物を見るということは、何を見ることなのか
美術であるということ 障害者美術展に関わって

質問に答えて
美術の使い方/実践編

あとがきとして  齋正弘のできかた

全220ページ  定価 987円(940円+税)

これは普通の(流通にのる)本なので、本屋さんに頼めばどこでも買える(はずだ)。いろいろいそがしい出来事があった2010年、この本がその一応の上がりになるのだろうか。美術館での美術教育を巡る、僕の30年の実践のまとめ。なんだか不思議な気持ちだ。

急いで、一応、お知らせ。

2011年1月9日  小雪降ったりやんだり、一日。乾いた冷たい空気。


いよいよ卯年が始まった。今年の7月で60歳だ。感慨深い。

4日まで休んで武蔵野美術大学から頼まれている原稿を少し書き始め、5、6日美術館で一日会議(研修)。6日夜、鍼灸に寄り遅く帰る。そして翌7日から11日まで再び休み。美術館はメインテナンス休館だ。7日は家事の紅子さんやパンの渡辺さん等みんな集まって、昼に七草粥。8日は、昨年暮れに行けなかった様々な店をやっと回って、頼んでいた物を受け取ったり、個人的な初買い物。そうして夕方、家に帰って来たら電話が来た。
功弥オンチャン(栄子さんの弟)が死んだという知らせだった。病気気味だという事は知っていたが、突然だったのでやや動揺。その日は何も出来ずに、今日朝自転車で彼の家に行った。彼の家は、岩沼の僕の家とは反対側の町外れにあって、子供の頃の記憶しかなかった。母方の親戚とはあんまり行き来していなくて、最近まではまったく没交渉だったのだけれど、ここの所、栄子さんや胞夫さんの事があったので、急に繋がりが増えていた。弟が教えてくれた、うろ覚えの住所と、あそこの郵便局の裏辺りの、細い道の行き止まり、というような記憶だけで、とにかく行ってみた。確かこの辺りの細い道の行き詰まりという記憶の辺りは、今や新たな住宅地と化していて、どこがどこやら、やっぱり全然見当がつかなかった。何しろ、普通順番についている住所の数字がとびとびなのだ、42番地の隣りが36番地で、彼の家は32番なのだが、その裏に回るともう違う丁目になっていたりした。町内会長の札の出ていたやたら新しい住宅の人に聞いて(名前を言ったらすぐわかった。彼は数少ない昔から住んでいる人だったのだろう)教えてもらい、だいぶ時間をかけてたどり着く。まだお正月だから、遺体はそのまま布団に寝ていて、顔を見せてもらってお線香を上げ、人が死んですぐのこの時期、やたら忙しい事は経験ずみだからすぐに帰る。死因は脳梗塞に因る心臓停止だった。栄子さん系は脳の血管が遺伝的に弱い事が再び三たび確認された。静かに納得。

時間がある間、原稿を書く。何しろ今年度中に書けばいいのだと思っていたら、1月12日が〆切りだったのだ。お願いし、状況を話して20日まで伸ばしてもらったけれど、こういうのは早くやって早く終わるにこしたことはない。今日のような突発事件も起こるし。目次は出来ているので、後は考えを言葉にするだけなのだが。とは言え、アメリカンフットボールはプレーオフが始まるし、なんと今日からお相撲だ。ま、少しづつやっつけるほかないな。