2009年12月26日  乾いた曇り。雨降らず、なま暖かい。


今日は、阿部君のお葬式だった。阿部君は、アベヒゲ(仙台ーいや北日本か?ーでは知られた芸術系居酒屋)の(店主)阿部君で、名前は立夫と言うのだという事を今日知った。彼は(確認していないが、確か)僕と同じ歳で、最近難しい癌かなんかで調子が悪いのだ、と言う事は聞いていた。その割には10月にも、美術館に何かのチラシを持って来てくれて、そのとき「あれ元気なの?」「いや本当はだめなのよ」というような話をしたりしていた。僕がモーターサイクルの試合なんかに係わっていた頃だから、だいぶ若い頃から、仙台の面白い事の様々な部分(モーターサイクルから美術、演劇、舞踏、でも、僕が知っているのはそこのあたりまでだ)で関わりがあったけれど、基本的な生活の部分で、僕は酒をあまり飲まず夜更かしではないので、深い関係はあまりなかった。でも関係のある部分では一緒にやっている人という感じは深くあった。数日前突然、亡くなったという事を聞いたとき、あ、お葬式に行かなければと、すぐに思った。

普通僕は、あまり冠婚葬祭に行く人ではない。冠婚葬祭に関して形式的に整えば済むというモノではないだろうと思っている。僕は、町内会の葬式の時は何も考えず、ちゃんと形式を整えて(唯一持っている濃紺のスーツに白Yシャツを着、父親の黒ネクタイを締めて)受付係をしたりする。でも、阿部君は僕にとって、考えなければいけない関係の人だ。彼が死んだのは、僕にとっては大変身近かな感じがする。今年の夏の事もあるし、いつ自分の番になってもおかしくない。阿部君の事をよく知っているというわけではないけれど、僕は彼がなくなって大変残念だという気持ちを深く感じてお葬式に行きたいと思った。で、まったく普通にきちんとした服装(美術館の部長会議に出るよりももっときちんとした)をして喪章をしていく事にした。彼との関係は、そういう関係として僕の中にある。喪章は、最近ほとんど誰もしないのですぐには見つからず、100円ショップにあるとの情報もあったがちょっと違う気がして、大友葬儀屋に電話してとっておいてもらった。300円だった。濃紺のネルシャツにニットの黒いネクタイをして僕の持っている一番良いツイードの茶色ジャケットに喪章をした。ズボンは作ってもらった淡い茶色のボンバチャス(膝宛つき)。黒い革靴を履いてみたらまったくヘンテコリンだったので持っている靴の中で最も地味な茶色のビルケンのロンドン。靴下はスマートウールの黒い補強の入った灰色のにした。昼過ぎ、葬式場に行ったら結構な人がいたけれどみんな(本当にみんな!一人残らず!)黒い式服だった。なんだかなあ、みんな何も考えていないみたいだ。21世紀ってそういうもんなの?阿部君、普通はこういう人たちといたんだ。少しがっかりして、少し晴れやかで、少し緊張した。自分できちんと決定している気分がした。これから大切な時はこういうふうにしよう。喪に服す気持ちの表し方は色々あって、もちろんそれでよくて、みんなはそうするけれど、僕はこうする。

僕は美術家なので、みんなと同じというのは基本的に嫌いなのだ。たとえ独り善がりで、ヘンテコリンだとしても、これからもできるだけ毎回悩みながら考えて、自分で決めることにしよう。

2009年12月22日  冷たい曇り。小雪が降ったのか?


しばらくぶりの更新。ほぼ1ヶ月ぶりだ。今回は別に入院していたわけではない。美術館がトリノ/エジプト展で、ちょっと混んでいたのだ。約2ヶ月で11万人+の来館者。この前このぐらい入ったのはルノワール展だった。最盛期には当日券買うのに1時間並んで、展示室に入るのにまた1時間かかって、入って出るのに2時間、みたいな状況。何しろ展示に付随して読まなければならない字/文がやたら多い。ま、とにかくなんだかんだ気ぜわしい毎日だった。教育普及部は普及部で個別の活動がビッシリあるわけだが、しかし、11万人とか入ると、それは展示の問題だとかは言っていられない。館全員が交代で「ここが当日券購入列の最後尾」とかの看板を持って立ってたりしないと、どうにも動きがとれなくなってしまう人数なのだ。いやはや。加えて、エジプト展なんかをやるのが美術館と思われるのは心外だと思う学芸員もいて、ものすごい人出の間をぬって、中谷芙美子の霧の彫刻や、山本さんという僕と同じ歳の竹細工を駆使してミュージックインスツルメント彫刻を作る人の公開制作なんかもやるもんだから、普及部の毎日は充実過ぎる程に過ぎていった。ああ、僕に関しては、アメリカンフットボールと、NBAのバスケット中継がこれに加わった。だから、くたびれて帰ってくる夜はあっと言う間に過ぎていった。


混雑の間を縫って、病院に薬をもらいにいったり(心筋梗塞以前は2ヶ月分出してもらっていた薬は、発病後1ヶ月ごとにしてもらって毎回血液検査を受ける事にした)、カングーを冬タイヤに変えたり、家の様々な買い物を整えたり、せっかく新しくしたのに一回使っただけで壊れてしまった、どこか知らない名前の国製の電気機器を交換しにいったり、おもに、イヤハヤな休日を繰り返し、それでも、しつこくその合間をかすめとって、例の田園空間博物館を歩きにいったり、模型屋さんを回ったり(回るだけ)、モーターサイクル屋さんに新しいカブの相談(相談だけ)に行ったり、(ストレス解消にせめて)雑誌を(少し)予算に関係なく買ったりしていた。


もちろん休みでない日には、黒松小学校5年生4クラスのために2日間トラックに絵画のコピーを積んで通ったり、来年になるとすぐある金沢21世紀美術館での美術館教育のシンポジウムや、それに続く武蔵野美術大学でのワークショップでのファシリテイターを巡る教育?についての相談などに乗り、そのために昔書いたコピーをひっくり返して読み帰してみて、なかなか良い事言ってるじゃんと自分をほめたりもしていた。こうして書き出してみると、ううむ、相変わらず忙しがって毎日が過ぎている事に気付く。だめだなあ。


2009年12月 5日  始め曇。午後冷たく小さい雨。夜強く屋根を打つ。


東京から帰ってきた。4日に都図研の研究大会が板橋区成増であって、そこで授業を見てお話。東京都の図工は専科(中学校のように専門の先生がやる)なので、都図研の研究大会に集まるのは全員図工(美術)の専門家。そういう人たちがおおよそ800人から1000人集まる。びっくり。宮城県出身の若い人も数人いた。開会の挨拶だけでしばらく続く。びっくり。夜遅くまでいて、泊まって今朝帰ってきた。

小学校で専科だと言うことは結構特殊で、そこで話される内容もだからだいぶ特殊。どう見たって、1年生と6年生はまったく違う自意識の基に生活を送っているのに、なんか美術、いや図工という枠で一緒にくくって無理矢理何かをしているように見える。それにほとんどの人は気付いていないようで、ごく少数の人がどうもやり辛いと気付き始めている感じ。そのあたりで、僕が呼ばれたみたい。授業の指導案とかの講評ではなく、美術は教育にどのように関われるのかについて話して、と言われた。ううむ、外野から見ていると、専門家(子供を見るではなく美術をする)であればあるほど、対象の子供は授業の中にどんどんいなくなっていく。たとえば土粘土を与えるのはとてもいいのだが、それを手渡された子供達が「ワー手につくんだ」と言ってみんなに手のひらを見せているのは無視されて、それを使って何をどう作るかに話がすぐ行ってしまう。小学校でする図工は「あっ、土の(本当の)粘土って、こういう風に手につくんだ。こういうのは気持ちいいって言うのかな、気持ち悪いのかな」という所をこそ大切に授業始めるのが面白いんじゃないかなあ。というような場面が次々様々起こる。

仙台だと図工の研究会に出てくる人は、国語だったり社会だったり理科だったりが大学卒業時の専門だけど、それより何より小学校の先生が専門(普通の真剣正直な大人というような意味で)のうえで図工面白そうと言うスタンスの先生なので、ここの辺りの子供の気配に気付きやすい。美術の専門家はどうも(中学校の先生達のように)鈍い。なぜ基礎的な教育の時期に表現系の授業があるのか考えようというような話をして、お話の時間が短いから、全体会終了後のレセプションの時に質問や文句のある人は話を聞こうと話を追えた。結構たくさんの人が終わってすぐから「面白かった」や「これまでモヤモヤしていたものがすっきりした」とか「これで美術教師を続ける指針が見えた」とか、話しかけてくれるのだが、質問は無い。そういえばどこでも僕の話のあとは同じ状況になる。余りに非常識無分別なので、取りつく島がないのだろう。そういう所こそが、同時代に対する非常識無分別こそが、美術の存在意義だったはずなので、こういう状況は当然だと思う事にしよう。


2009年12月 1日  乾いた寒さの快晴。雲一つない。


おう何と言うことだ、もう12月になってしまっている。11月の後半は毎日様々考えることがあって、考え込んでいるうちに日は過ぎた。

極小さい人たちとの活動を何回かした。彼らは、僕が小さかった頃と何も変わらない人間の幼体だった。彼等を取り巻く大人の変わり様がひどかった。ううむ、何がどう失敗だったのだろう?亘理山元空間博物館にも、何回か行った。いつでも大変快適なお散歩だった。普段は絶対思わないのに、もっと宣伝したいと強く思った。そうでもしないとあそこはなくなってしまうのではないかと心配だ。この機構は無くなっても、僕はもう知っているわけで何の問題もないようなもんだが、博物館として残るということで見える大切なものがなくなるのはやばい。美術館で、二人の作家のワークショップと公開制作があった。ううむ、こっちの方向ね、と思った。公務員は、毎年絶対胃検診を受けなければいけないということで、本当は夏前に飲むはずだったのに、入院に次ぐ入院でコンランし、今年は飲まなくてもいいんじゃないかと思っていたたバリウムを飲む検査を11月最終日に、なんと自宅から自転車で行ける名取高校で、先生達と一緒に受けさせられた。そうこうしているうちに12月の都図研の造形教育研究大会が近づいてきて、4日には板橋区成増小に行くことになっている。

箇条書きにするとこれらのことが起こり、その各々で僕はなにがしか考え込んだ。その上これらの公的な出来事の間に、幾人かの人が美術や教育を巡る興味深い相談をしにやってきた。これらも、今の僕の意見をまとめるのにいい機会だった。


東海地区のある大学院の学生が来た。美術館などの社会教育における美術教育のあり方の研究をしているということだった。文章を使った統計的な研究をしていて、ある程度の成果が見えてきたのだが、数字から推して行くと、宮城県美術館は何もしていないことになってしまうのだそうだ。でも、様々な所で宮城県美はよくやっているという話のようだ。しかし講座も、ワークショップも、講演会も、何もかも数字的には何も出てこないのだ。出てこない所は何もしていないことになる。でもおかしいので、見に来た、と言う。

ううむ、統計録る側の枠組みから離れられずに世界を見たら、まるで数世紀昔の西洋から見た世界文化史みたいになるのは当たり前じゃないか。ローマ以外に、文化はないのだ。エジプトの国外はすべて混沌なのだ。私が一番モノがわかっていて偉いのだ。

教育とは何をどうすることだったのか?社会って、何をどうしたものなのか?あなたの場合、彼らの場合。そのすべてに答えるためではなく、それらを見渡せる地点からの俯瞰図の意識。それが目的なのではなく、たいてい目的だと思われているものや事は手段であることの方が多い。それは手段だと、さしあたって開き直ってみて見ると、新たに見えてくる大きな世界。そういうことを気付く手段として美術は相当有効だと思うのだが。でも今の世の中では、美術が一番そういう世界から離れているように思える。


仙台の郊外の新しい団地にある小学校の2年生2クラスが来た。始まる前に先生が僕をそっと横に呼んで、クラスに5人問題児がいると教えてくれた。彼らのいう問題児は、彼らが考えている子供のイメージにあてはまらないということだけだった。僕には子供の発達による人間の幼体のイメージしかなく、かつそれは基本的にみんな違うという意識に基づいている。僕にとって問題児はいなかった。こっちに問題児だという意識がないと、その子供達は大変良い人間として付き合ってくれる。彼らはほとんど全員、利発で積極的で好奇心に富み、周りに気を配る人たちだった。それらをすべて先生の世界観の中に閉じ込めて、先生のコントロール下に置こうとされたら、子供は凄く嫌だろうと思う。そっちに行くなと手を引っ張られ、話を聞いてもらえず、話を聞きなさいと強要される。子供はどんどん嫌になって行くだろう。なんなんだろうなあこういうの。あ、特にその問題児の一人がエジプト人の頭良さそうな子で、僕には、まったく普通の子供に見えたのは、日本人として恥ずかしかった。その外国の子はまったく普通に生き延びるための人間として、自分で頭を動かし体も動かし確認し想像し突撃してみていただけに、僕には見えた。日本の典型的な小学校では8歳の人間として当然の、しかも相当優秀に当然の、そういう行為は問題児として多動の子になってしまうのだった。いったい日本はどうなってしまうのだろう。


前に書いた文を添付しておきたい。


造形教育の広がりを求めて


美術に関して、何かわからないことなんて、みんな(たとえば、この文を読んでいるあなたというような意味で)には、実はないのではないか。美術なんて、ほんとはもう、うんざりするほどよく知っていると、みんな心の深いところでは、何となく思っているのではないか。


 美術は、全ての人間が、全部一人一人違うということを基盤に、人間全体の世界観を拡大してゆくということが存在の意義-仕事なので、未だ終わらずに拡大し続けている。教育の現場で、次の世代に伝えなければいけない、又は、伝えることができることは、ほとんどここのところだけなのに、なぜか、私が知っている範囲では、未だ、上手な絵の描き方だけが(様々表面的な状況や方法は変わってきているかのようだとはいえ)突出して追求され、評価の対象にされているように、美術館から見ている私には思える。

 見た目には、みんなが、毎日同じような生活を繰り返していながら、一人一人違う人間は、一人一人違う生活経験を組み立ててゆく。その生活経験の積み重ねで、その時のその人の世界観-自分を取り巻く状況とのつじつま合わせ-や、人生観-自分の内側で起こっていることのつじつま合わせ-が、一人一人個別に、その人の中にできあがってゆく。まずこの状態が、肯定的に、社会の基礎として存在しないと、私たちが今、(知っていると)感じている美術は、始まらない。

 なぜなら、美術は、その個人の世界観や人生観を表現したものだからである。一人の人間が、そこに、まず、いて(存在して)、そこに自分がいることによって身の回りに起こる毎日の様々な出来事を、現実として受け止め、「ま、しょうがないかな」とか「まったく困ったもんだ」とか感じ、考え、しかし、そこで生活を(たいていは)やめてしまうことなく、何とか様々なバランスをとれるようにつじつまを合わせて、次のまた一日につなげてゆく。その毎日の積み重ねによって作られる、ものの見方、見え方を描いて(表現して)みる。うまいへた、丁寧乱雑、大小、明暗、色合い配置、その他様々の全部を含めて、そこに表出されたものが、全て違うということこそが、私たちの美術がここまでかけて、やっと獲得してきたものなのであって、私が、今、ここにいるということの証明なのだ。

 自分の表現を、私はここにいるということの証明としてみんなに見てもらうという行為には、だからたぶん、人間であるということ以外、何の問題も存在しない。年齢や性別はもちろん、人種や、障害のあるなしなども、実は何の問題にもならない。今、ここに私がいる。そして私は、このように私の世界を見ている。ただそれだけを、(自覚して)真摯に描いて(表現して)いるかどうかだけが問われる。真摯な表現かどうかということは、自分をいかに解放し、その人にとって本当のことだけを(様々な意味で)「楽しく」表現しているかというほどのことである。真摯であれば、そこに楽しく、思いを込めて引かれた一本の線は、それを描いている私のすべてを、多くの言葉を重ねるより雄弁に、物語ってしまう。

 さて、描いたあなたがそこにいるということは、見ている私はここにいるということでもある。好き嫌いを越えて、誰かが一生懸命描いた作品を真摯に丁寧に見る。うまいへたを越えて、そこに描かれているものを真摯に丁寧に見る。そこにある表現が、美術の作品になるかどうかは、実は、見る側に、ほとんどゆだねられていると言ってよい。私は、今、毎日の経験を積み重ねてきてここにこうして、いる。そしてあなたが、そこで積み重ねてきた生活経験によって表現された、あなたの世界を見ている。私たちの世界観は、本当に一人一人違っていて、いかにもバラバラであるかのように見えるけれど、私たちは人間どうしであるということを知っていて、その大きな枠から出ることはない。その人が真摯に描いた世界観を、こちらも真摯に見ることを通して、私たちは、自分の世界観と人生観を点検し、修正し、どのような形であれ理解することによって、自分の世界の見方を拡大してゆく。このようにして私たちは一人一人違うことを基に、全体について思いをはせ、一体化する実感を持つことができる。

 このことは練習しなければいけないし、いくら練習しても終わることはない。

 ここまで原理に戻って考えてみれば、美術についてわからないことなんか、実はほとんど無かったのだということは実感できるのではないか。最終的に、みんな一人一人違うのだということを尊重して大切に想い、その上で、しかし、みんなで「善く」住むことのできる社会を考えるられる大人を作る。美術は(その基礎としての図工も)、そのまったく基礎にある、自立した近代の市民としてのものの見方を訓練するための学科だったのではないか。造形することだけにこだわらず、私はここにいて、私の見方を持ち、同様に自分の見方を持って考えているまわりのみんなと話し合いながら、多数決だけでは決められないものの決め方について、思いをはせる。最終的な目標(私たちはどういう大人を作りたかったのか)さえあやまっていなければ、あなたの良く知っている、得意の分野を駆使し、様々な方法技術を試みながら、図工の授業を、これまでの経験にとらわれずに組み立てる。これも又、美術が最も得意とする分野だったはずなのだが、、、。