2011年 4月22日  厚い曇り空の春の空気の中を冬支度で出勤。 吹雪になりつつある桜。


3/11のすぐ後、家に手伝いに来てくれた女友達が、長丁場になるとふんで自分の家からコタツも運び込んで来た。僕の家にセットされたコタツは、虚をつかれたような不思議な感覚を僕に与えた。僕の家には畳がない。なのでコタツも(ここしばらく)ない。僕はコタツは嫌いだ。ただ脚を突っ込んでみると、大変不思議に落ち着き、だいぶ生活のリズムが普通に戻ってき始め、特に何もすることが無くなった日の午後、ほぼ半日ぼおっと、コタツの中でとりとめのない話をしていたりした。僕は特にコタツ嫌いというのではないんだったのだなあと思った。ふと思い返してみると、僕がこれまで住んでいた家には、結構ずうっと昔からコタツがないことに気付いた。

ごく小さい頃、僕の記憶の一番最初にあるコタツは、掘ゴタツだ。その頃の僕の家は、ごく普通の街の中にある家(と言っても普通に外便所だった)で、玄関に続く板張りの部屋にコタツはあった。本来ならコタツではなく囲炉裏がある部屋だったのだろうと思う。冬にはウスベリ(薄縁/畳表に縁の付いたござ)を敷き、夏は堀ゴタツの上に板を敷いて、全面板の間になった。コタツは普段食事のテーブルとして使われていて、(相当)寒くなってくると中に豆炭を焚きその上にコタツ布団を描け、布団の上にテーブル天板をおいた。だから冬にコタツになると、テーブルは水平ではなくなり、ちゃんとしないと、すぐ味噌汁とか、とき卵とか、納豆とかがこぼれるのだった。というような記憶がコタツを巡って、僕にはある。コタツに入って食事をしながら、みんなでラジヲを聞いていた。一丁目一番地とか。
祖母(たり)が亡くなるだいぶ前、母(栄子)が家事をコントロールするようになって、僕の家はテーブルで椅子に腰掛けて食事をするようになった。たぶん昭和30年代で、栄子さんは公民館の生活改善運動とか4Hクラブとかの活動に深く関わっていたのだろうと思う。テレビで名犬ラッシーとかが始まっていたのではないか。家にブラウン管の前に小さい緞帳のついたテレビが来たのは、僕が小学4年生の頃のはずで、町内ではそんなに早い方ではない。それまで、月曜夜の月光仮面や日曜昼の七色仮面は「家のむかいの本家」に見せてもらいに行っていた。テーブルは早くからあったが、ご飯を食べながら家族でテレビを見る習慣が始まったのは、僕の家ではだいぶ後からだったように思う。僕の基本的な生活習慣はこのような、コタツのない生活をベースに組み立てられ始まったと、今は言うことができる。僕の意思ではなく、僕の親が、そういう方がハイカラだと思っていて、そういう生活をしたいと思っていたのだと思う。
確認したことはないが、大正時代の後半に生まれた栄子さん達の年代にとって、コタツのない生活=アメリカみたいな生活だったのではないか。

そういう風にして始まったので、物心ついてからの僕の家の「畳のある和室」は特別に作った部屋で、それはそれまで堀ゴタツのあった茶の間のように、生活の基本になる部屋ではなかった。そうなると生活の基本になる部屋はリビングとしか呼べないのだが、アメリカで言うリビングとはまた異なるものだったのだということは、そのだいぶ後にアメリカで生活し再び日本に帰って来てしばらくしてからでないと気付けなかった。「個室を持つ個人が集まって家族を作っている家」という考え方が基本に(何気に)ないと、リビングとは何かの感じは上手く説明できない。コタツの中で脚がふれあって始まる他人との深い関係というような関係の作り方を僕はあまり好まない。この関係を上手く維持できない人は、日本では変わった人と呼ばれてしまうのではないか。僕はそう呼ばれてもかまわないという決心でここまでやって来たのだったなあと、今回コタツを見て新たに自覚した。

栄子さん(たぶん達)が家はコタツなしで行こう(子供の頃家にコタツなかったよという友人は結構多い)と決心したときから、日本は西洋的な個人主義に大きくシフトしたのだろう。でも、コタツは無くならなかった。僕は善し悪しとは関係なく日本人だ。コタツに入ってぼんやりできる感じは、だから大切だし、たぶん自然なのだ。

たぶん、コタツは「自立する個人を自分の生活の中でどのように位置づけるか」という違いの象徴なのではないか。そしてこの感覚の違いは、僕の場合、相当意識的に行われたうえでの無意識が2世代約60年をかけて普通のことになった。具体的には、今回のような大震災が起こった時に、僕が何だか呆然と動けなくなってしまうような違和感を、今の日本の社会に対して持ってしまうというような、今回の今の僕の状況は起こるべくしてこうなったのだ。

実行できるかできないかとは別に、日本人であることはどうしようもないが、日本は意識的に辞められるという自覚と立ち位置を鮮明にしておきたい。その上で、ここにいるということを。

2011年 4月14日  ごく薄い春霞の晴。ゆっくり動く暖い空気。


数日前にMacBookに接続して充電中だった ipod shuffle を、机の角に引っかけて突然急に外してしまった。以後、様々やってみたが、どうしても電脳が読み込んでくれない。この震災の影響でアップルショップ一番町は休店中。音楽を聴かないで通勤するはめに陥った。音楽を聴かないで比較的長い時間歩いていると、僕は聞きながら歩いていた時には何も考えていなかったのだということが解った。春の匂いのする空気の中をトボトボ歩いていると、本当にいろんなものが見えてきて、いろんなことを考える。頭を上げて良く見よ!と自分の中の誰か(俺か)が言っている。気がしてくる。

3/11震災以降、様々なメディアで言われている様々なコメントについて、僕が何だか上手く言えない違和感を感じているのは、これまでのブログに書いた。このやりきれないような不思議な気持ちは何故なのかについて、ずうっと考え/気にしてきた。音楽が頭の回りから消えたら、ふと思い当たる言葉が浮かんで来た。

もちろん「頑張ろう○○!」を始めとしたスローガンや、その他震災を巡るすべての意見やいろんな人の行動に、僕は反対だ!や、違う!と思っているということでは、決してない。ああいうことをする/できる人達を僕は心からいいなあと思うし尊敬もする。でも、僕はしない方が良いと思い、できないでかまわないとしてきた。関西での震災の時、僕は「あそこではないここ」にいいて、今回は「実際のここ」にいる。しみじみ少しやはりうろたえながら、実際のここにいる。とにかく、「そういう事ではなんかないようだ」という思いは確信に変わり、いっそう発言しにくくなった気がしていた。何なんだろうなあ、こういう状況に対するこういう自分の態度は?

今朝、ふとひらめいた言葉は「タテマエ」。「本音と建前」のタテマエ。タテマエは、僕、本当に嫌いなんだと確信した。前にもどこかでたぶん何回も書いたように思うが、ある友人が死んだ時に、あなたは葬式に何を着ていくか決められるか?というような生活を土台に持つ人生。その行為がタテマエだと少しも思わずそうできる人生を送れる人を、僕はビックリもし、かつそのため尊敬もする。でも僕は、自分が生きている間は出来るだけ本音で/だけで生きていきたい。歳をとってくると、たくさんのタテマエだと若い頃は思っていたことが、実は深く広く、人間としての本音から出来ていたのだということがわかってくる。だからよく考えるとタテマエに戻ることはママあるだろうが、そういうことを心にとめつつしかし、出来るだけ、出来るなら、本音だけを漏らしたい。本当にそう思うことだけを丁寧に漏らしたい。しなければいけないコトが見えてきているとき、自分で考えて決めると、そのあまりの凄さに、その時の自分では、ただすくみ上がって何もできないでしまうことも起こる。いつでも、どんなにしても、起こることがあるということも肯定できる人でいたい。泣きたい時は泣いてもいいから、でも涙でよく見えなくなってしまっていても、しかし、目を見開いて見続ける人生を送りたい。

あまりの凄さというのは、なんと自分の世界は限定的だったのかと思う、常により広い世界に対する深い反省なのだと思う。
今回、自然は映画で見たことのように想像を具体的に超える。映画で見ていたはずなのに。人災だと言われることだって、僕達はヒットラーをみんなが選挙で選んだのだったということを知っていたはずなのに。人災はたいてい、みんなが、正しい選挙で選んだ結果なのだ。
こういう時、僕はどういう態度を取り、どういう反省ができるのか。反省は後悔ではない。反省は次にどうするのかを常に問いかける態度だ。いったい、お前はどうするんだよ、本当に。と、僕が僕に聞いている。今はまだその答えをヘラヘラ言う時期ではないように思う。

2011年 4月 7日  暖かく動かない空気。曇り空。


今日はすでに14日なのだが、4/7日から8日にかけて書いた文をアップしておこうと思う。再び大変だったのだから。

創作室に通常出勤が始まって数日たった。創作室の東向きの窓から見える空は、放射能さえ見えなければ(見えないけれど)もうすっかり普段のとおりだ。

今日の帰り、いつものパンをもらいに、四郎丸の渡辺さんちに寄る必要がある為に、今日はハンターカブで出勤。様々な意味で良いだろうと思ってモーターサイクルにしたのだが、間違いだった。この前地下鉄で出勤しようと長町まで来た時で、充分懲りたはずなのに、4号線は大丈夫だろうという読みは間違いだった。今回は渋滞にはまってすぐ、恥も外聞もなくすり抜けを敢行。僕のバイクはみんなのより少し(この少しが重大なのだが)幅が広いので、見切りが難しい。歳とってくると幅の見切りはそもそも鈍くなってくるし。着いた時はコタコタになっていた。

この日の夜11時30分過ぎ、強い余震があって、家は3/11に戻った。でも、電気と水はつながったまま。いやはや。明日は休んで土日をかけて再び片付けだ。この前生き残った瀬戸物がほとんど壊れてしまったし、電子レンジも壊れた。だから今度は棚に戻さないで、床に積んでおくことにしよう。順番に始めよう。

今日は4月11日だ。電車は8日から再び不通になったので今日はカングーで来た。ハンターカブにするかカングーにするか迷ったのだが、帰りに雨が降りそうだという予報と、早く出れば大丈夫だろうという見通しで、車にした。で、朝6時50分に出てきたのに、名取に入ったあたりから大渋滞、ほとんど動かない。美術館に着いたのが9時半過ぎ。うんざりだが車で行こうと決めたのだからしょうがない。この震災を僕の中でどうとらえるのか、考えは未だまとまっていない。
僕の中でどうとらえるのか、なんて言葉が何だかなじまない。何かを考えようという感じではないなあ。既に何かは解っているのにその言葉や感じはこれまでの経験の中からは紡ぎ出せない/紡ぎたくない感じ。テレビやラジオや新聞などで様々な話が述べられているのだが、どうもすり寄れない。同じ様に思ったり良い考えだなあと思ったりすることはままあるのだが、なんだろう、本当は違うと思ってしまう。こんな感じは、僕が、地震にはあったが津波にはあってなくて、ライフラインや通勤はもとに戻ってしまったあたりにいる人だからだろうなあ。

2011年 4月 1日  空気が暖かい。穏やかな高曇り。


今日から出勤した。出勤するぞと意識的に起きて準備をし、CT(ハンターカブ)で長町まで行き地下鉄で広瀬通に出て徒歩。意識的に起きて、というのがしばらくぶりだ。仙台の人達は、もうみんなほとんど通常通りの生活のように見える。僕はまだ少し呆然としていて考えがまとまらない。通勤で歩いていたり普通の話をしている途中で突然涙が出てきたりする。俺も、結構繊細だったんだと自分で驚く。
美術館は5月初めから忠良館と創作室を再開する予定。後1ヶ月で普通の生活に戻るのだ。聞いた所によれば、明日から鉄道が岩沼までは動くということだから、来週からは電車通勤にしたい。今朝、せっかくカブで来たのに西中田から凄い渋滞で、最後は/遂にはもう恥も外聞もなく列ぶ車の間を左右にすり抜けを敢行して、やたら疲れた。車で来て半分あきらめつつ渋滞でガソリンを消費するより精神的にも体力的にも疲れがひどい気がした。一番良いのはやはり自転車だと思う。というようなことを言いつつ、明日明後日は土日で、美術館は休館中だから通常休日で、僕らも休み。明日は朝一でガソリンスタンドに列ぼうなどと考えている。ことが落ち着いたら、絶対にスーパーカブ50(何しろ燃費が110キロ/リットルなのだ)を手に入れようと思っていたりする。でもそういう無駄はもうできないだろうとも強く思っている自分もいる。それより紅子に買ったような良いミニベロを手に入れる方が先だ。というふうに混乱している。

放射能の状態を含め今回の状態は、未だ僕の中で上手くまとまらないでいる。

こういう最中「仙台文庫」から、古くからの友人の深ZWさんから注文が来ましたよという連絡が入った。「大きな羊の見つけ方」を書いたことで様々はっきりしたことがあって、その後武蔵野美術大の教科書用に書いたワークショップとファシリテーションの文を一緒に読んでもらうと、美術館教育を巡って、僕がこの30年間考えて来たことは、大体話し尽くしたのではないかと思っている。ここに、その文を添付しておこう。あと、ホームページのアバウトミーにも、遅きに失している感じもするが、付けておこうと思う。

この文を書いているのはすでに、4月2日だ。今日から電車が走るはずだったのが、何か不都合が見つかって、しばらく岩沼までは来ず、南仙台折り返しになったとラジオで言っていた。いやはや。やっぱりしばらく自転車か。

ワークショップ実践
教育研修センターの人が、「新任研修で、教育についてお話をしてくれる人はいないだろうか」と相談してきた。さて、あなたが新任教師だったら、誰のどういう話が聞きたいだろうか? 教育や教師はこうあらねば、というようなお話を、新任の教師という人たちは、眠くならずに聞くことができる、または、聞きたいと思う、ものなのだろうか。教育というモノは、私たちの国では、このような、そしてそのような、モノとしてこれまで何の点検もされずに、ここまで来てしまったのではないか。
教育は、本来、教育を受ける側の人にのみ存在する。

本来、美術館のような博物館施設は、継続的な研究施設として、まず、存在する。だからそこには、膨大な量の知的情報が集積される。現代の博物館施設は、西洋的近代博物館を意味するから、そのすべてが、自立した市民の相互理解による、デモクラシ−を基盤とした社会の上に存在する。近代の博物館施設というものは、だから、デモクラシーの維持のためにも存在することを、始まった当初より、大切な要素として持っている。故に、そこに集積された知的情報というものは、市民によって有効に活用される必然を持つ。そもそも博物館施設や、公共の学校というようなものは、文化、文明、知恵や知識の公平化、平等化、一般化のために始められたものなのであって、その施設を運営する人が自覚しようがしまいが、市民に対して常に開かれた存在として、その初めから(うまくいっていたかどうかは別にして)存在していたのである。

さて一方、私たちの知っている公教育も、同様の理念に基づいて始められた。なぜ勉強をしなければいけないか。デモクラシーという概念を理解できるくらいの、普通の大人になるためである。地球という星の上に生存する霊長類人間という動物の普通の成体になるために、私たちは、ここしばらく前から、まとめてだいぶたくさんの共通する情報を知っていなければいけない方向へと進化してきてしまった。だから、普通の人間になるために、各個人は、教育を受ける権利を持つ。それは社会の役に立つためとかではなく、自分のためなのである。自分を取り巻くほとんどすべてのモノやコトには、それがそこに存在する確かな理由があり、それらの理由のバランスの上に、私が、今、いる、と言う自覚を持つために、私たちは、様々な機会と施設を、とことん利用して、自我の形成を行ってゆく。それが、勉強する、ということだ、ということを、ワークショップを組み立てる側にいる人が、まず、自覚したい。

現在日本で使われているワークショップという言葉についての概念規定は、この本のほかの部分で書かれていると思うが、その始まり方、使われ方、アルタネイティブスクールや、美術ならDBAEとの関係、人間の視覚表現についての発生とその理由、そして、近代という時代の捉え方などについて、ワークショップをめぐって様々考えなければならない人は、是非ざっとした概論を頭に入れておいた方がよい。なぜなら、ワークショップは、各自の知識を有機的に組み立てなおす一つの方法であって、その実践について山のように知っていたり、その活動を美しく組み立てられることが、ワークショップそのものをうまく伝えたということにはならないからである。むしろ、その活動を支える、または生み出した、文化について理解することが、よりよい理解を得る。
だから、宮城県美術館の教育普及部が日常的に行っている様々なワークショップの実践についての説明は、ここではしない。なぜ、それが行われるのかについて述べた。基本を押さえ、実践は、各自が考えて、勝手に行う。このやり方自体が、深くワークショップなのである。

さて、というようなことをふまえた上で、宮城県美術館で行われている活動から見えてきた、ワークショップを行うにあたって、注意すべき、または知っておくべき、要点について述べる。

1 ワークショップという特別な活動があるのではない。
 ワークショップは、授業や、講座など、教育的な配慮をともなう事業を行う場合の「システム」のことだから、それによって行われる活動は、既存の内容のもの(たとえば、油絵講座とか、特別展講演会とか、春のお茶席とか)で、まったくかまわない。
 問題は、前に述べてきた教育に関わる意識(教育の実質は受ける側に存在する)を、その作業を組み立てる人が、持っているかどうかである。教える(ティーチ)ではなく、助ける(フォロー)で行う教育。個人が、この言葉から、どれだけのイメージを広げられるかに、そのワークショップの展開の是非は、かかっている。

2 学校でできることは学校に任せる。
教育の中で学校の占める位置は、ごく特殊な領域である。同年齢の人たちを、ある量、強制的に集め、その個人の必然とはあまり関係なく、一方的な情報の伝達を行い、教える側の基準で評価する、という形態が、教育というものなのだろうか。教育は、その人を健全な人格を持つ人にするために行われるもののはずで、大変個人的な活動である。学校というシステムは、ある方面には大変効率の良いシステムではあるが、それに個人の人格の形成に関わるすべてのことを任せようとしたり、そもそもそうであるものの修正(一方通行でない授業とか、少人数での授業とか)で、その全体が何とかなると考えるのは無理なのではないか。
学校でできることは、社会教育機関ではしない、学校的教育活動で、私がいやだったこと(かつ、大人になっても、そのいやだったことの正当性が説明できないことやもの)は、社会教育機関ではしない、という決心に立った活動の組み立てこそが、ワークショップというシステムを生かすことにつながる。さて、学校でできることはしない、私がいやだったことはしない、とすると、たとえば、あなたは、美術館で、どれくらいの活動を組み立てられるだろうか。そして、それは、教育なのだろうか。または、それこそ(活動を組み立てようと頭をひねること)が、教育なのか?

3 準備をしない。成就を目指さない。
私の経験では、活動で、もっとも面白いのは、何かを企画して、各方面の専門家に話を聞き、いろいろ必要なものをそろえ、買い物に行き、仲間と意見をかわし、部屋の準備をして進行順序を決め、わかりやすい言葉を使ったチラシを作ってみんなに知らせる、というようなあたりである。こここそが、その活動の流れの中で、もっともダイナミックで、ビビットな現場である。なぜ、ここを、私たちは、こちら側だけで準備してしまうのだろうか。それは、たぶん、活動の成就を目指すためには、時間が足りないと思うからではないか。
活動の目標は、それをやり遂げることではなく、その活動によって伝えたいことなのであって、それはたいてい、その経過にある。そもそも、人はみな違うのだから、器用不器用があるのはあたりまえなのである。早くできる人と、遅くなってしまう人がいるのはあたりまえのことなのであって、問題は、その各々が肯定されることにある。できない人は、続けてやればいいのだし、終わった人は違うことを始めていいのである。一般的な社会ではごく普通に行われていることなのに、教育的な活動になると、なぜか早く、みんなで、同じに、してしまう。それは、教育の、そして美術の、大きく、大切な、目標であっただろうか。

4 この感動を伝えたい、ということはできない。
私の感動は、私のもので、もっと深く、とか、それはちがう、とか、他人にいわれることは、まったくよけいなお世話である。感動のような、ごく個人的で、かつ曖昧で移ろいやすいものを、教育の活動の中で、直接扱おうとすること自体が、誰にもできないことだったのではないか。同じ対象から発したとしても、それによって起こる私の感動と、あなたの感動は、まったく違うもので、それ自体をどうこうする事は、大変難しいし、してはいけないことなのではないか。しかし、私たちはある事柄に関して似たような感慨を持つことは事実で、そのことは伝えられる。感動そのものではなく、そのようなことがあり、それは、様々な所と事で起こる、ということは、むしろきちんと伝えておくべきことである。また、感動がおこるための練習という活動も組み立てられる。しかし、感動そのものをこれだと取り出して、それを作り出すことの練習は、できない。このような誤解は、ほかにも様々ある。感動そのものを教育するのではない。それがおこる事の確認と、おこる、又はおこすための練習はできるのだという視点からの活動の組み立てを考えることは、共通の話題にできる。

さて、おおよそこのような意識を基に、参加者各自の教育目標のクリアを目指して、ワークショップの組み立てが行われる。教育の実践は、ごく個人的な資質によるから、その実践は、みな違う。しかし、その活動の中で個人が出会い、他人との関係を使って自己の確認を行い、再び周囲にその変化を送り出すというような、ごく基本的な教育の動きは、参加していれば、感じることができる。うまくいったワークショップは、おおむね、このように、終了する。

  ファシリテーションの実際 100923開始@Win.(1万2千字)

1 まず、教育の概念を点検する。
 私達の国で、ワークショップを巡って話をする時、初めに確認しなければいけないことがある。この文で、私は教育の方法について話そうとしている。私たちはこれまで充分な教育を受けてきた、と普通は思っている。教育に携わろうとする人は、ここで我に返らなければいけない。私たちは、教育を「受けてきた」のではなく「受けさせられてきた」のではないか。
 これから考え学ぶことは、「教育をする側」の理論及び技術である。私の経験では、教育をしようと思うと、知らないうちに、被教育体験(受けさせられてきた教育の経験)に基づいた動きをしがちになる。自分が受けて来た教育をあまり点検なしに(確か、受ける側にいた時には様々な好き嫌いがあったはずなのに、する側に回ったとたん何も意識せず無批判に)そのまましてしまいがちだということだ。意識していないとついそうなる。これまで受けてきて、いやだったことはきちんといやだったと自覚し、それをした人の立場にたって考えてみて、その理由が理解できず教育を受ける人(その当時のあなただ)のためにならない/ならなかったと思うことは決してそのままにせず、絶対同じにはしないと決心することがこれからの教育をする側の人には大切だ。文化や智識を伝え拡大する作業(教育)に当たる時、これまでの自分の教育(された)経験を無批判に使わないと決心したあなたには、そこで初めて新たに(自分が納得できなかった)それに変わる方法を提示できるかが問われる。ワークショップ、しかもそのファシリテーションの方法を学ぶということは、そのあたりに関わり、学ぶということなのだ。
 ワークショップという教育の技術は、これまでのやり方と似ているところも沢山あるが、たぶんその考え方や教育をする側の立つ位置がこれまで考えられてきた教育とは違う。受けてきたのではなく受けさせられてきたのではないかという意識を持って、自分がこれからしようとする教育という活動を考えること。ワ−クショップを巡る学習では誰のために何をしようとしているのかいつも意識していることが、普段にまして大切になる。実践の時には様々な問題が起こるが、常にここまで戻って考えれば、ほとんどの問題は解決できるように、これまでの経験から思う。
 ワークショップは、教育を受ける人が意識的に自分の認識を確認し拡大するための「手伝いをする」仕事だ。これまで学校でして/させられてきた教育のように、あなた(先生/教育指導者)の「知っていることを伝える」のだけが目的ではない。だからこそ美術が大きく関わることができるのだ。なかなか難しい活動だが、常にこれまでの教育とは何か違うことをしようとしているのだという自覚を忘れないでいきたい。

 私たちがこれまで受けて/してきた教育は、ほとんどがスクーリング(学校教育/ほぼ強制的に集めた同年齢集団に、一方的に、教える側が使いやすく教えやすい情報を流し、教えた側が評価する教育)と呼ばれるものだったということを自覚しよう。それはある時期/年齢にいる人間には大切で必要で充分な作業ではあるが、エデュケーション/教育という概念のなかでは特殊な一部分に過ぎないと思った方が良い。ましてや「教育そのものである」などとは到底言えない。
 学校教育(スクーリング)は教育という概念(エデュケーション)のごく一部で、教育そのものはそれを取り巻いてより広く深くある。私たちが学ぼうとしているワークショップは、スクーリングとは違う方法で教育を組み立てる仕組みだということを意識しよう。

 元々人間が人間になって以来してきた教育は、なんとかして子供を早く大人と同じ生産活動に従事できるようにするする作業だったはずで、生きるということはすなわち生産活動で、いかにして今日食べ、生き延びるかと同じ意味を持っていた。地球の上で生きている生物としてはごくあたりまえの生き方で、人間以外のほとんどの生物は今でも普通にしていることだ。ついこの前まで、ほとんどの人間にとっても今日を生き延びるのはたいへん難しいことだった。いかにして生き延びるか。その理論と方法を次の世代に伝えるのが教育の最も大きな目的だといえる。今、と言ってもここ数百年程のことだが、私たちはだいぶ本来の生き物らしい困窮からは離れた生活ができるようになったかに見える。そのため現在、私達のような国での教育は「人生を豊かにするため」にあるようになった。豊かな(個人の)人生が積み重なった上での豊かな社会の構築。教育は現在おおよそそのあたりを目指して行われる。教育は、その個人が入学試験をパスするため/即物的で刹那的なその時の競争に勝つためだけにあるのでは決してないということを、これから教育に関わろうとする私たちは、あえて強く意識したい。本来(私達がワークショップという概念を通してこれから学ぶ)教育は、「個人が健全な人生を豊かに送るため」にこそ、行われる。

2 美術から見る教育目標の変遷。 
 普段何気なく使っている「私はここにいる」という意識は、そんなに昔からあったものではないことを歴史は語る。「私」が意識的に語られることによって「近代」も目に見えるようになる。初め、王様や教会から解放されることによって自己を見つけた私達(それまでは世界中どこでも、私達は多かれ少なかれ、誰かの奴隷だったのだ)は、すぐに神様からも!自立できることに気付く。どちらが先だったのかはこの際おいておく。それまで、向かい合って立っていた神という概念(ある特定の神様という意味ではないということだ)と私は、そのことに気付くことによって、その存在とほぼ同じ方向を向いてならんで立つことになる。困った時に、何でも「正しく」教えてくれた「神(とか天)」という概念がやってくれていたことを、私達は個人でなんとかしなくてはいけなくなった。誰が美人かは、それまでのように王様(象徴的に神様の代理人、他に様々な名称で呼ばれる)に聞いて無批判に納得することではなくなり、各自が自分で決めていい/決めなければいけないこととなった。何が美かは、それ以来、世界中の人間を悩ます問題になっている。そういう(誰か絶対の人やものが決めてくれていた)事を巡って、私達はとにかくみんなと話し合うほかなくなった。近代の社会はそれをなんとか解消する様々な方法を持つことによって成立してきた、ことになっている。とにかく一生懸命、真剣に、自分以外の人とお話をする他、今の私達をまとめることはできないようなのだ。

 美術の世界では、神様がいた頃は自分の外側に見えたもの(神の創造物)を描くことだった絵画(だから、修道院での修業になれた)が、自分の内側に見えた/見えるもの(頭の中)を描いていたことに気付く人が出てくる。正しく言えば、絵を描く時、私達は対象物ではなく描いている紙を見ている。紙だけを見て私達は絵を描いていたのだ。では私達は何を見て/何が見えて、それを描くことができたのだろう。人間が描いてきたものはすべて、それを描いている人の頭の中にあった/見えた世界だったのだ。頭の中は、その人以外の誰にも見えない。それまでは、みんな同じものが見えているとまったく少しの疑問もなくみんな納得して思って/信じていたのだと思う。そこまでわかれば時間が進むのは一気に早くなる。頭の中(だけ)に見えるもの「印象」が描けることに気付く人たちが出てくる。印象を描く人たちが沢山出てきて、私達は、どうも他人が見えているものは、私が見えているものとは違うところもあるようだということに気付く。頭の中は、その人以外誰にも見えない。より自分の頭の中に分け入った一握りの人たちの決死的な(そんな事をしたら神の罰がくだされるのではないかの恐怖を無視する程の)決意によって、私達人間は抽象画が描けるようになる。人間が絵を描く歴史は途方もなく長く続いてきていたのに、それまで誰も!頭の中のグチャグチャ(抽象)を(模様でなく)「絵として」描こう/描けると考えつかなかった。ちゃんと見つめてみると、私達の頭の中は全員違って、かつ実は(常には)具体的な形にはなっていなかったのだ。ただ、そこまで描き出してみて初めて、すっかり違うと思っていた個人どうしの頭の中も、私達は大きな「人間」という枠でくくることができることに気付くことができるようになる。美術では、近代はこのように始まり展開する。そして今、21世紀に入り、私達は近代後(ポストモダン)にいるという。

 少し引いた広い視点で眺めると、人間の歴史の中で、美術は常に、こういう仕事をする係だったのだ。各自が異なる世界を、各自が各自の頭の中に持っている。普段その世界は言葉で組み立てられているが、世界はとても言葉では言い尽くせないものやことに満ちている。百聞は一見にしかず。絵を描く(各自の世界を見えるようにする)仕事は実はその個人の世界を語ることだったのだ。そしてそれが語られることによって、人間としての大きな世界観は拡大深化することができる。
 ワークショップに美術が深く関わるのは、この、各自の世界を、共有できる土俵に出してくる力があるからだ。上手い下手などではもちろんなく、各自の違いが自然に出てくる/見えるようになるというあたりこそが、美術がワークショップに深く関わることができる部分なのだ。

 このように近代が始まり進み展開したことによって、私達は「神をも恐れず、自分で決める事ができる人」が近代の人間だと思えるようになった。そういう人間になるため、それまでごく少数の人たちに握られていた美の決め方や様々な知恵智識を、私達は全員が平等に持てるようになるための仕組みを公共で持つことにした。公共の美術館博物館や、公教育はこのようにして始まった。私達は自立した個人が形作る社会を目指して、文化や教育を皆がほぼ平等に受けられ、享受できるような社会を作ったのだと言える。教育はその個人の(近代的な自我に基づく)自立を支援するためにある。しかし、それまで長く続いてきた常日頃のものの見方(誰かはっきりしない上位概念(神様とか)に善悪美醜を決めてもらうというような)は、そんなに簡単に変わることはできない。様々な試行錯誤や後戻りなどを何回も繰り返しながら、しかし私達は人間全体の力を合わせて、教育を真剣に考え続けてきた。その結果、20世紀の中頃を過ぎたあたりで、ワークショップと呼ばれる教育の方法をやっと見つけ出した。

3 教育する方の目線の変化。
 さて、遠回りをした感じがするかもしれないが、ここまでの視点を押さえておくことはワークショップの実践、特にファシリテーションを使ったワーリショップを組み立てる上で、大変大切なことだ。このあたりを押さえてさえおけば、もしかすると、教育はこれまでの方法だけでも充分なのではないかと思える。たぶん、近代の教育が始まったばかりの頃は、同じような内容が教育を巡って話されていたのではないか。しかしその後200年、極端に経済的な思考が私達の世界と生活を取り囲み、飲み込んだ。21世紀に入った今、私達はあえて再び、ワークショップというごく基本的な教育の方法について、学ぼうとしている。

 近代的な教育における伝達方法はおおよそ次のように変わってきた。
   教育の形   実践する人
 1 ティーチ ⇔ ティーチャー
 2 インストラクション ⇔ インストラクター
 3 インタープリテーション ⇔ インタープリター
 4 ファシリテーション ⇔ ファシリテーター
 近代になり、教育を受ける側の「自立の自覚」がどれだけ深まるかに従って、名称、すなわち教育のやり方の形が変わってきた。
 1から3までは名称が変わる―個人の自立度は高まる―が、教育の形―先生(智識/情報のプール側)から生徒(変化したいと思っている側)へ、伝えるべき事柄は一方通行で動く。一方通行でしか動かない。教育は一方通行で行われることに誰も疑問を感じなかった。
 名称に従って様々やり方―教育する側の立ち位置―は変化するが、しかし先生はその人の知っている貴重(だと、その人/社会が考えている)な情報を、まだ一人前で無い(自覚していないと先生が考えている人間としての)生徒に伝え、試し、評価して改善し、なんとか自分と同じぐらいに(は)すること、に努める、という形だ。今、私達は、子供の時からライツRights(人権)というものが私達各々にあることを知っている。そしてそれらは何にもまして尊重されなければいけない、らしいと感じている。概念(言葉)として私達は、精神的な意味での奴隷的環境を初めて自覚できる状態になったのだと言える。私達は生まれてこのかた、ずうっと誰でもない自分自身で、物事を考え、決めてよいのだ、できるようになろうと育てられて来た/来るようになった。生まれながらに自立について自覚できる人間の集団。ここに来て初めて、私達はファシリテーションという概念に基づく教育の方法を考えられるようになった。

 気付いた人がいると思うが、だから教育のやり方は、何もワークショップでなくてかまわないのだ。その人の必要に応じて教育は様々な形をとる。教育は常に一つでは決してない。人間のある年齢までなら、学校教育は充分にして必要な教育だと言える。これまでなされてきた様々なやり方で充分な時も多い。実際、私/私達は、今ここにこうしていて、この文章を読んでいる。いつでもワークショップをしなければいけないことはないことを自覚しよう。未だティーチの方がそのグループのその状況にとってベストであることは多い。その時はそれをやることをためらってはいけない。形はティーチでも、やる側の心の中にワークショップについての想いがあれば、同じ話でもその内容や伝え方が変わってきて、当然その結果も変化してくる。時間はかかるが、文化が伝わるとはそういう事のように思う。

4 ワークショップの実際
 最初に端的に言ってしまえば、ワークショップとは「教育の主体をあくまでも受ける側においた教育の方法」のことである。何回も言うが、近代の教育ではごくあたりまえの教育概念だと言える。
 「教育の主体」は、ここまで述べてきたとおり「近代的に、自覚し変化したいと考えている個人(以後生徒と呼ぶが、これまでの生徒とは違うことを意識し続ける事)」のことだ。個人なので、自覚や変化欲はものすごい個人差がある。1のティーチから3のインタープリテーションと分類される教育方法の場合、「相談に乗る方(以後教師と呼ぶが、こちらもこれまでの教師とは違う事を意識し続ける事)」は生徒と対面して立っている。だから見ている方向は(実は)正反対だ。ティーチでは、生徒は教師の後ろを見、教師は生徒の後ろを見ている。彼らは離れて立っていて、お互いの視線の焦点も合っていない事が多いように思える。インストラクションになると教師は生徒に近づき、その顔の辺りに視点を据え、生徒が自分を見ていない事に気付き、生徒が何を見ているのか気にして少し自分の後ろを振り返ってみる。しかし立ち位置はまだきちんと対峙していて、自分の知っている事/智識をなんとか生徒に聞かせようとする。だから話を聞かない生徒は(先生の基準で)悪い生徒だ。インタープリテーションになって初めて、教師は生徒が何を見たがっているのか(自分が見せたいものとは関係なく)気になり始める。教師は生徒の正面から脇によけ、斜めになって生徒の見たい方向(自分の見たい方向も一緒に眺めながら)の視界を確保してあげる。しかし主な視線は生徒の方を向いている。初めて視界の開けた生徒は、そこに初めてクリアに(自分で)見えたものを使って先生に質問する。ただしかしこれも、先生によって確保された視界なので、先生は予習してきた智識を使って、余裕を持って答える事ができる。だから、そこで行われる教育をあらかじめ組み立てる事が可能だし、様々な操作を加える事ができる。20世紀、このインタープリテーションという教育の方法は、ワークショップの究極の形だと思われてきた。しかし、生まれて以来、ずうっと自覚する個人(であるかのよう)に育てられてくる(少し前まで、子供の自主性や人権は今ほど尊重されていなかったように思う)21世紀の人間は、何か自立に足りないものがあるように感じはじめた。ここまで来て、私達は初めて、ファシリテーションという教育の方法について述べる事ができるようになる。

 ファシリテーションになると教師と生徒は(意識的に)最初から、同じ方向を向いて立っている。各々の見えるもの(問題)は同じだが、各々が何を考えているのかは、(顔が見えないので)実はわからない。他人の頭の中は見えないことはみんな初めから了承している。二人同時に見えているものが問題なのだという認識も、あるかどうかを含めて、実はわからない。
 ファシリテーションでワークショップが行われるとき、そもそもの問題は参加者(生徒)の方に、既に、(ないという状態も含めて)このようにある。先生は生徒とともに、同じ方向を向いて立っている。同じ方向を向いている個人どうしなので、人の頭は覗けないからどこに問題があるのかは、この際この二人の間の問題ではない。問題は、あなた(先生)の方にだけある。あなたが何かしたいのだ。でもそれはそこに(列んではいるが)いる生徒とは関係がない。生徒と何もしないで同じ方向を向いて立っているという状態から、ファシリテーションを使ったワークショッップは始まる。実は近代の教育はこのような状態から始まるのだ。

 ファシリテーションを使ったワークショップ(以後ワークショップ)では、到達すべき目標や、こうあるべきという基準のような既に決まっているものやことは、最初はない。そもそも、何かを教える(到達すべき目標とされるものを参加者全員が目指す)為にその活動が行われるのではないのだ。教えたり伝えたりするために行われるのではない教育。ティーチから最も離れたエデュケーション。ファシリテータにできることは、その人の相談に乗ることだ。

 二人が同じ方向を眺めている。このときファシリテータは二人を包む大きな方向は見えているが、参加者(生徒)は関係ないことを考えていてかまわない。というより何も考えていない。何か先生が動いてくれる/指示してくれると思っている。しかしこれはティーチではないのだから、何も始まらない。しばらくすると参加者が動く(ことが多い)。動かない時は、ファシリテータが話しかける。問題はファシリテータ側にあるのだから。たとえば「何もしてないと暇じゃないですか?」「ええと、今日は何するんでしたっけ?」。そこからの会話の動きによって、本質に直接絡む深い活動が突然始まる。先に述べたように、問題は既にその人にある。だからたとえば「いやあ、今話題になっているこれこれについて、何か教えてもらえるんだろうと思って今日来たんですけどねえ。何も始まりませんねえ」。私達はここで、今問題になっているこれこれについて、参加者がどのように問題だと思っているのか、又は思っていないのかについてわかり、相談から始まる近代的な教育をスタートできる。ファシリテーションはティーチではないので方向はあるが目標はない。目標は参加者にのみある。ファシリテータは自分が考える予定調和を目指してはいけない。話を聞き、参加者の考えの基本を読みとり肯定し、意見を述べ、スコア(楽譜/手順)にまとめ(参加者のスコア。あなたのスコアではないことを強く意識し続ける)、実践し、見えるものになった結果を見ながら再び相談をし、向かう方向を確認しながら必要であればスコアを変え、再び実践する。ワークショップの原理と進め方は、このように使われる。実践結果がファシリテータの考えていたものと違っていても、それはその問題を巡る参加者の表現なのだからその時点ではしょうがない。もちろんファシリテータは意見を述べる事ができる。それに対する反論も、大きい教育の中に含まれる。しかしあなたの目標をその人の目標にしてはいけない。あなたの(その活動全体が目指す)目標の方向は、あなたによって意識され続けなければいけないが、そちらが先にあるのではない。その活動をとおして何故そこに行きつきたいのかの、事前の把握がこちら側に、深くひろく必要になる。

 このようにして展開される、違う人の脳との智識の共有化が、たぶんファシリテーションの大切な点である。その個人の世界を深めるための相談(話し合いでの教育)は、これまでのティーチで知っているような智識/情報の単なる増加ではなく、それらの智識情報をどのように有機的に組み合わせ使うかという知恵の共有とでも言うべき、他人と自己との経験の共有化という体験になる。

5 ファシリテータの立ち位置
 1981年に開館した宮城県美術館には、開館中常時開いている創作室と呼ばれる美術実技の作業スペースがある。そこでは基本的に「個人を対象」とした美術を巡る「何でも相談」というワークショップが行われてきた。実技講座のようなクラスが開かれているのではない。例えば、絵を描く行為はごく個人的な作業で、何人かまとまって同じものを見ていっせいに2時間で行われる作業(図工でよくとられる方法)で、できるものではない。こういうことはみんななんとなく知っているのに、なぜか絵画教室は、そういうふう(図工でやったよう)に自然と行われてきた。その結果、日本人のほとんどは学校で図工美術を勉強しているのに、美術が苦手で、抽象画はよくわからないという人になってしまっている。美術はきわめて個人的なものやことを肯定するはずではなかったか。ファシリテーションをベースにしたワークショップは、このような現状に素直に直接対応する。ここまで述べてきた考え方はそこでの約30年に渡る私の個人的な経験からまとめたものだ。それぞれのワークショップで使う技法/技術をよく知っているかというようなことより、そこに関わる人のライフスタイルのような、答えを出してくる基本になる生活を、どれだけ美術的?にできるかのような部分こそが、問われる。

 私は1970年(学生運動が最も華やかだった頃だ)、大学に入り、その後宮城教育大学美術科(ということは私の美術の基礎は美学にしろ実技にしろ、学校教育用のものだ)を卒業し、その後1976年から3年間ニューヨークブルックリン美術館付属美術学校で彫刻(非具象現代彫刻)を学んだ。そこでの日常の生活を含めた経験が今の活動の下敷きになっている。ベトナム戦争が終結(1975年)したばかりのニューヨークの、美術系社会教育の学校では、やっている人たちが意識していたかどうかはわからないが、ここまで述べてきたような(ワークショップが基本の)教育が行われていて、スクーリング(学校教育)に首までどっぷりと浸り、それにみじんも気付いていなかった(=普通に元気な若い日本男児だった)私の目を無理やりこじ開けるに充分な教育活動が行われていた。ニューヨークで子供を生んだ(もちろん本当に生んだのは私の妻だが、自然分娩の立ち会い出産だったので、つい生んだと言ってしまう)時の経験も含めて、私はほとんど毎日驚愕し続けて、今日に至っている。なんでもないように見えることに、ビックリし驚く心は、ワークショップに関わる人間にとって最も大切で基礎的な準備/訓練である。
 たぶん幼児期の基礎的な教育が、「皆と違っても自分に自信を持ち、自立できる個人を作る」のか、「言われたことを素直に聞き、皆と同じになろうとする個人を作る」のかで、違って来るのだ、と今はわかる。本来、学校(基礎)教育はよい子供を作るためにあるのではなく、よい大人を作るためにこそある。基本的に基礎的な教育がそのように行われていないと、本当はワークショップは凄くしずらいはずなのだ。しかしそんなことを今の日本で言っていても何も始まらない。私達は、既にそうしてここにいるのだ。私達はそこのあたりを充分にふまえた上で、ワークショップを活用するしかない。

 ファシリテータとして活動する時の、幾つかのこつをメモしておきたい。
□深い個人が多々いることを肯定できるようにしておく。
 ハンディキャップの人も含め、人はただ生きていてもそれだけで経験になる。描かれている図形は小学校2年生と同じもののように見えても、そこに使われている一本の線はその人の何十年かの生活をうしろに背負って引かれている。謙虚に真摯に丁寧に見れば、それが見えてくるようなものの見方を身につけたい。だから先に生きている人の話は聞くほかない。両親の話も、親という枠を外して聞くと面白いことがあるように、しきいが高いのではなく、たいていはこちらに「高いしきい」がある。
□方向はあるが目標はない。目標はその人にのみある。
 する人(ファシリテータ)が考える予定調和を目指さない。そうすると準備はこちらには無くなる。ワークショップは準備することから既に活動(相談)が始まっている、という意識。準備する段階で既にこちらの予定調和に沿った活動が組み立てられ始めている。準備をワークショップ化することで得られるもの。準備をしてしまっていたことで失っていたもの、から点検し活動化する。
□作業の終了目標を決めない。
 そうするとどこが終了かが曖昧になるし、もっと大変なのは、活動の進行も見えなくなる。しかし、ふと我に返れば、その進め方、進み方で、たいていの活動は様々問題が起こっていなかったか。終了の様々が決まっていると、そこまでの経過がおろそかになりやすい。そしてワークショップの活動で、最も大切なのは経過だということはみんな知っている。ワークショップの基礎はふまえた上で、結果ではなく過程を楽しみ拡大できる方法を相談(決めるではなく)できるのがファシリテータ。だから、作業の終了目標を恐れない。あなたの終了とその人の終了は違う。終了はその人だけが知っているのだから、そこでファシリテーションとしてのワークショップが始まる。というような大きな時間の概念を意識できる普段からの生活を心がける。

6 まとめ
 会社がつぶれそうになると、銀行から経営の専門家という重役がのり込んできて、あっという間に本当にその会社がつぶれてしまう例を、20世紀中私達はいやという程見てきた。その会社がそれまで、その社会の中で生きてこれたのは何故だったのかについての点検自覚より先に、経済的な点検が始まってしまい、経済的な方向からその活動は終了して/させられてしまう。ワークショップやファアシリテーションは、そういう考え方から最も遠い位置に、しかし実はその(つぶれそうになっている)会社のすぐ側に立っている。同じ方向を向いて立っている。
 この文章は、実践の話のはずだったのに、何も実践について書いていない。これまでの私の経験では、一寸でも実践の具体的なやり方を話すと、すぐ、それをそのままそっくりまねしようとする人が多かった。そして上手くいかない、違うということになる。そういう現象は、最近学校教育でも取り入れられ始めた「対話を使った鑑賞」の授業などでも起こっている。

 ファシリテーションを使った教育では、先にやった人の実践のまねはできないのだ。なぜなら、あなたはその(先にやった)人ではないし、参加者は(先にやった人とやった人ではない)今そこにいる参加者だからだ。ファシリテーションを使ったワークショップでは、そこにいるあなたと同じ方向を見ているその参加者の、頭の中の世界観が、どのような体験を通して、どのように(共通/有)経験化できるかが問われる。だから、ワークショップを巡る授業では、何故それをするのか、しなければいけないのかだけが、学ぶべきこととなる。実際の場面で起こる実技技術的な問題は、この授業ではないところで各自が学ぶ。としても、実技技術的にわからないこと/知らないことは、ワークショップではそんなに怖く困ることではない。その場面で、自分だったらどのようにしてその問題を解決するか(できるかではなく)と働く意識のバエリエーションをどのくらい持てるかだけが、その場面で問われることだ。

 文の最初で述べたように、ファシリテーションを使ったワークショップの勉強は、教育の原理に深く関わり、かつ、又はだから、美術と美術教育の原理にも、大きく関係してくる。このあたりを意識し続けることが、21世紀に入ったこれからの教育を変える力になるのではなかろうか。

      以上、約1万1千6百字