11月19日  仙台は初雪。岩沼は小春日和、でも風は冷たい。

日文という図工の教科書を作っている会社が、フォルモという販売促進用の雑誌を出している。たぶん先生向けなのだろう。そこから、あなたの美術館でやっている学校との連携活動の報告を書いてと頼まれた。だから、いわゆる、そういうのはやっていないんだってば、と答えたら、だからそこんとこを書いて、でも800字以内ね、ときた。自分が、思い入れたっぷりに充分考えてしていることを、相手が期待する短い言葉で説明するのは、実は、自分自身の良い点検になることが多い。で、やってみた。でも、最初は1600字必要だった。何回か書き直して1000字にした。それ以上削ると、僕としては違うものになりそうな気がしてきたので、そこまで推敲した途中の3種類の文を全部編集部に送って、これ以上直すとどうなるの?と聞いてみた。そうしたら、彼らは、約800字に約めてきた。なるほど、ここのところをあなた達は、こういう風に聞きたいのだなと、少し感心した。だから、編集部がまとめてきたその文を雑誌に使うことを、僕は了承した。そして、僕が書いた文を以下に公開しよう。ブログでは字数制限がないので、少し補足して2000字弱になっている。読んでみるとくどい。思う存分説明すればいいというものではない。









      学校と連携できること/していること
 1981年の開館当初から、宮城県美術館には教育普及部という美術館教育専門の部署がある。そこが、学校という「教育という枠の中ではごく特別な位置とシステムを持つ団体」がやって来るのに対応してきた。もう充分な経験があると言って良い。しかし、美術館というだけで緊張する人が、未だ先生達にもいるようだ。常識は、その人の体験した範囲で形作られるから、たぶん現在、宮城県美術館で行われている様々な活動は、今の先生達には想像できないことも多いようだ。なので、その使われ方の紹介。
 美術館で考えられ研究されている普通の「美術 FineArt」は、詳しくわかってくればくるほど、哲学的で内省的で専門的で広範囲に各自の人生や世界観に深く関わる部分を含む、総合的でかつ個別な概念である。基本的に美術は人間の大人のための仕事・活動なのだ。そういう美術の中では、造形をする/できるは、そんなに大切な部分ではないし、各自の美意識や美的センスなども、ごくごく個人の問題なのだから、美術館に来れば黙っていてもそれらが豊かになるわけではないとされる。そういう基本概念の上では、美術自体も、各自の頭にある美意識と、全員が全て違う各自の五感から入る外部情報の総合理解の間に、個別に存在するから、美術館に来ても作品はあるが、いわゆる美術そのものはないということになる。
 こういうことが、全体的に、美術館に来るとぼんやりと見ることができる。「美術ってむずかしいね」とか、「美術って分かんないね」とか、様々な美術と美術館を巡ってこれまで起こってきた「難しくて、曖昧で、基本的にわからない感じ」は、これまでの学校教育で、この辺をきっぱりと言いきってこなかったところにほとんどの原因がある。たぶん、基礎的な教育での図工美術はここに至る練習のために存在する。又はそう理解した方が、小中学校での存在意義を見つけやすいしカリキュラムも組み立てやすい。
 さて宮城県美術館は、そこらあたりの問題を、学校に対してどの様に相談にのっているのだろう。
 宮城県美術館が学校との活動で注意しているポイント。
1 美術の美は「ビックリ」の「ビ」。「美しい!」だけで止めないビックリの仕方を学ぼう。
2 一つ一つの美術「作品の鑑賞」ではなく、展示全体を使って、「美術とは何か」を学ぼう。
 美術館には美術しかない。技法でもなく、一つ一つの作品でもなく、「美術」そのものを見よう。美術の先生ってみんな絵を描くのが上手なんだろうか?そうじゃないなら何が上手なの? 絵の嫌いな人も、美術を学ぶ理由は何?。
3 今の彼らの一人一人の「体験」を人間としての「経験」に積み重ねる手伝いが美術にはできる。
 私の感動は私の感動で、その感動は伝えられない。でも、感動というモノがあるということ、そしてその感覚はこうすれば磨くことができる、は、伝えられる。
4 描けるのは頭の中に見えるモノだけ、を自覚できる大人になろう。
 絵を描くとき、よく観察しても実際に描くとき見るのは紙。でも描くことができる。描くとき見ているのは、目の外ではなくあなたの頭の中。あなたの頭には、どのぐらい「描くことができる物」が「見える」?という視点の獲得。
 ほとんど全ての領域にわたって美術の基本は個人にある。最も大切なこの基本を踏まえて美術館と学校との関連を考えた活動を組み立て、開館以来様々実践してきた結果、現在当館で行われている団体としての学校とともにする活動は10歳以上の人たちとする「美術探検」と10歳以下の人たちに対する「美術館探検」という、両方とも鑑賞を中心とした活動にまとまってきている。
 どこの美術館であっても、見た目がどうであろうと、美術館でできることは鑑賞しかない。
「美術探検」。これまで、鑑賞は「美術作品」の読みとりを中心に行われてきたが、美術館は、沢山の全て異なる作品が展示してあるので、個々の作品を見てどうこうするよりも、全体として「美術」そのものを見たり学んだりすることに使いやすい。美術作品から美術を見る/知ることに切り替えたとたん、鑑賞は受け身の学習から、個人が各自の体験を存分に使って積極的に作品の中に探検に出かける「表現」になる。
 ただし、それは、頭の中に充分日常的な知識が詰まっていることが前提になる。日常の常識で一杯な毎日の中に、美術作品によって非日常がするりと入ってきて、ふと自分の今日までを振り返る。自分の個人的な体験の点検と再組み立てが起こって、これまでの世界が広がる。各自の世界観が知らないうちに拡大される喜びが、美術を鑑賞する楽しさと目的である。
 一方ここが、探検を10歳で区切る理由になる。10歳とは生まれてから120ヶ月ということでもある。まだほとんどの見るモノ聞くコトが初めてのものやことで、毎日は未だ非日常に満ちている。そこで、10歳以下の人たちには、今「見えている」モノやことを、意識的に「見ている」ものやことにする練習がおこなわれ、それが「美術館探検」と呼ばれる。
 美術館探検を雑に見学してしまった人は、これは施設見学だと思うだろう。それにしては、無駄なお話が長く頻繁に有る。丁寧に見ればすぐ気付くことができるが、この探検は館の施設全体を使った「鑑賞の練習」なのである。何なのかわからない部屋の扉を開ける前に、みんなで怒られたときを「想像して」対処の仕方を考え練習し、換気扇吸い込み口で風の音を「見つけ」暗い中をそっと覗く。普段は開けられないスプリンクラー制御弁室を「見つからないように」開けてみて中が部屋になっていることに驚く。「ノックして」開けてもらった扉の仲が台所になっていていい匂いをかぐ。そういう見学のついでに常設展示室にも入って床に腰を下ろし、33歳(お母さんと同じ歳であることに気付く)の女の人が描いたという、絵の具を無駄使いして描いた絵(大人になると無駄使いしても良いのだろうか、でも、僕のお母さんはしない。本当に?)を見る。ここまでやって裏庭にでると初めて、身の回りにある葉っぱや蜘蛛の巣やドングリ林を注意深く見ると面白いことに、自ら気付くことができる人になり始める。美術は、小さい人たちに、このように使われる。
 このような鑑賞活動の上に、先生達との打ち合わせを経て幾つかの造形的な活動が年齢を問わず展開されることもある。ただしそれらは注意深く美術の味付けが強化される。全員でできることと個人に任せられるところが分けられる。作品を作ることは、大変個人的な作業なので、全員で決まった時間内に行うと様々な問題が起きる。各自の好きなモノを作るのは個人でするとき/来たときに回され、たとえば「粘土を作る」や「板を作る」など、人間としてはごく基本的な作業が、鑑賞を意識した視点の基に実施される。
 時間が充分にとれることは最低の条件で、そのうえでその団体がこれまでの授業でどの様な方向に進んできているかによって細部は異なるが、主に材料軸にそった活動が組み立てられる。創作室で頻度高く行われている「粘土作り」と「粘土出し」は、おおむね、次のようなものである。
 「粘土作り」は、粉の粘土を床に出し、水を少しずつ混ぜて粘土を作るだけの作業。各々の作業に充分な時間をかけ、主に素材の手触りの変化を楽しみながら全身泥だらけになり、粘土ができたら終了。大量の水を床に流して全員でする掃除を含め粘土に対する各自の想いを一気に親密にする作業。
 一方そのようにして作られ、作った人のお土産にならずに残った約3トンの粘土は、創作室の粘土槽に蓄えられ、そこから多量の粘土を全員で力をあわせて床に運び出す作業に使われる。最初に、クラスで一番身長の高い人より高い山を、みんなで出した粘土で作り、その山を使って(倒して)その時の思いつきで決まる何か大きなモノ(島、滑り台付き山、プール、岩風呂等)を作ってしまう。これが「粘土出し」と呼ばれる。この活動も、最後は多量の水と共に清掃をし、粘土に対する親密感を深める活動となる。
 鑑賞を意識した視点とは、1−現実をリアルに認識する。(現実)2−それを一般化し、(物語化)3−世界観に広げ、(歴史的分類)4−世界観の差による広がりに思いをはせ、(概念化)5−全てを踏まえて、自分は今どこにいるかを自分以外に発信する(表現)。というような、DBAEやステージ理論などをふまえた一般的な鑑賞の展開の考え方を基礎に持つというような意味である。
 活動は、団体によって異なるが、だいたいは、このような方向で進められることが多い。どちらにしても、最初は、相談から始まり、大まかに美術館でできることやしていることが話され、その段階の質疑応答を経て、いっぺん学校に持ち帰り、教育の目標、滞在可能時間や移動手段、サポート体制などについて検討され、再びどこまでできるかとやるかが美術館側と検討され、実施されることになる。

071103 秋の青空、乾いた空気の白い雲。

 明日で日展の100年という展覧会が終わるので、ここ数日の展示室のこみようは大変なものだ。終了間際に入場者は一気に増える。今週はついでに、県下児童造形展示会が県民ギャラリーで開かれていて、近くの仙台市博物館では東北大の至宝展。駐車場は予備も含めて開いたとたん満車。その数の割には、展示室の混みようは思ったほどではない。広瀬川に芋煮に行く人は、車をおいていかないようにということか?美術館の教育普及部も、しばらく忙しい日が続いている。

 幾つかの美術館の教育担当者から、問い合わせが立て続けにあった。だいぶ長くやってきた子供のワークショップの点検をしたい。予算の時期だが「美術館なんでも相談」なんてわけわからん活動をしているお宅はどの様にお金を取っているのか。そもそも、それはなに?とか、結構大切っぽい相談。それを電話で済ませようとするところと、来てみないと言うところと、来てと言うところと。
 電話や、手紙だけでしかわからないのでなんとも言えないが、この夏の大原美術館で呼ばれて以来、何か、本質からの意見が求められ始めている感じがする。もちろん、みんなは、僕が言うようなことは十分知っている。なにしろ相手は、僕が話に使っていることを書いた人たちだったりするのだから。ワークショップとは何か。子供とは何か。教育とは何か。そして美術とは何か。ほとんどの答は、既に誰かがどこかで、書いている。具体的な場面での使い方のイメージの点検。常識を拡大するヒント。で、僕の常識も既に常識。健全な人格の形成を目指す教育の根本目標は、その健全さを常に点検することを含む。こういうこととは関係なく、新しく生まれた人たちは元気一杯、美術館に来て美術館探検をして美術探検をする。で、僕も、こういうことは関係なく、毎回新しい知識を頭に、これまでの常識を組み替え直して、元気一杯彼らとお話をする。毎日ヘトヘトだけれど、でもたぶん疲れてはいないんだろうなあ。