2008年12月30日 乾いて冷たい風のしかしそんなに寒くはない高曇り。

22日から美術館は休館に入ったけれど、活動がなくなった分、公務員の庶務的な仕事はたまっていて、それらの処理に忙しいまま、26日まで働く。27日夜、僕の叔母さん、老衰で亡くなる。28日、恒例の「焚火」@阿武隈川河口砂州。29日叔母さん火葬、通夜。30日葬儀告別式。大体終了して今、これを書いている。再びやや風邪気味。



24日の夜は、ガールフレンドのM木さんが、聖夜料理を作りにきてくれて明美さんと彼女と3人でゆっくり食事をして早めに寝る。本来、教育普及部長の仕事は、人事と予算を管理しつつ部の円滑な運営をコントロールすることなわけだけれど、僕は未だあたふたとプレイングマネジャーをしていて、様々な庶務仕事がたまっている。館が休みになり、まずそれらをかたずける。とはいえ、今年から、学芸部から一人異動で来ているので、大切なあたりは彼がやっていてくれてだいぶ助かった。ということは、めんどくさいところだけは残っているということでもあるのだけれど。その辺りを含めて、この後どのように館を動かしていくのかを副館長たちに話を聞いたりもした。面倒くさいことではあるけれど、お金がなくなったということだけで、やたら貧乏臭く矮小化した姿勢に陥らないよう胸の張り方の確認のような話をしたつもり。
公的な仕事が一段落ついたと思ったら、電話が来て、胞夫さんのお姉さんのとし江さんが危篤だとの知らせ。岩沼の家の近くに住む彼女は既に92歳でだいぶ弱っており、電話が来たその日の夜に、息をする力がなくなって死んだ。これで、胞夫さんの兄弟は彼と弟の恒夫さんの二人だけになってしまった。胞夫さんは12月に入って以来施設に入りっぱなしなので、齋家としては僕がネクタイ労働で出席。お葬式にこの歳で出ると、様々考えるところが有って退屈はしないが、疲れる。
その間隙を縫って28日毎年恒例の海岸での焚火。今年は若い人たちが早めに始めてくれていて、僕たちは、組み立て終わっていた木組みの隙間に細かい焚き付けを詰め込み、火をつけただけ。ちょうどいい時間にちょうどいい風が吹き、大変美しく炎が上がって、盛大に燃える。8時に帰宅。次の日火葬。今日葬式。式終了後、正式なお祓いをしてもらって、正月は普通通りしてよいとのことだった。明日から飾り付けだ。
27日から娘たちが泊まりにきてくれているので、大変助かっている。これで、カミサンと二人だけでやっていたらと思うとぞっとする。
という風に、最後までイヤハヤな一年だったが、なんとか死なずに終わりそうだ。なだわかんないけど。リビングの壁に一年カレンダーが張ってあるのだが、書き込みのいっぱいされたそれを眺めつつ、なかなか善くやった一年だったなあと、自分を慰めている。既に、来年の1月はほぼ満杯に予定が入っていて、ちょっとうんざりしつつの年明けになりそうだが、忙しいうちが花と、軽薄に腰軽く死ぬまで動き回っていこうと思う。

2008年12月18日 暖かい。春のようなうすぼんやりした空に、くっきり白い雲。

美術館は、この週末のピアノコンサートで、今年の活動は終了。まだ、終わった訳ではないけれど、また一年が過ぎた、すごいなあ、ちょっと感動する。



今日の午前中、自分の年譜に書き足すこの一年を整理していたのだが、忙しく一生懸命生きることができた一年だった、ありがたい。11月の終わり頃、京都造形芸術大に呼ばれて、社会教育での美術教育について話をしにいった。普通通り起きていつも美術館に行く電車に乗って、ただ美術館には行かず、仙台駅から新幹線に乗って、文庫本のミステリーを読みつつ東京駅で乗り継ぐと、12時半には京都駅についていて、1時半からの京都御所裏手の大学での講演会の演壇に立って、わかったようなことを話しているのだった。目の前には関西の人たちが関西弁をしゃべりながらいるのだけれど、僕はなんだか夢見心地に、東北弁をしゃべっていた。もちろんちゃんと現実認識はできているのだが、頭の隅の方で、そのことを不思議がっている自分も感じるのだった。でも京都の芸術はちょっとすましすぎていて、僕にはなじめない感じで話は進んでいく。ええい、俺は東北から見てんだよ、文句あったらかかってきなさい、と、つい言ってしまいたくなって困る。その晩は、貴船の川床の料亭旅館に泊めてもらい、というとなんか凄いもてなしのようだが(そしてもちろん、本当にそうなのだが)実際には、この時期、京都は紅葉狩りで、どこもかしこも大混雑で、泊まれるのは、そこしかなかったというのが本当のようだった。次の日の朝早く、一緒に泊まったほかの人たちは京都市内に戻っていったが、僕は一人で鞍馬山に裏から入り、山越えして鞍馬寺に降り、叡山電鉄で市内に戻るという、至福の牛若丸トレッキング。千年単位の大木の茂る森に、小糠雨が静かに降り、所々の御嶽で、ヨガの呼吸法をしながら少しずつ進み、鞍馬寺の国宝の仏像の前に座ってのんびりしながら時間をかけて街に戻り、呼んでくれたK原君家の生まれたばかりの女の子の頭をなでただけで後は何もせずに新幹線に乗り、夕方には岩沼駅についているのだった。大学でのお話はさておき、京都は、いつ行っても、同じ場所であっても、何回行っても、もっと見たいところが次々出てきて、2000年ってやっぱり捨てたものではないなの感を毎回深くする。関西弁はチョッと閉口するけれど。11月12月は、時節柄、高校生や大学生の美術探検や美術館探検が立て続けに予定されていて、一日3回美術探検をすると、さすがに、俺、倒れるんじゃないかと思ったりする。簡単に流そうと、本当に心から思っていたりするのだが、なんか一生懸命な目の高校生とかに周りを囲まれると、気ずいたときには声を振り絞ってものすごい集中で話をしてしまっている自分がいる。でも、まあ、お話の最中に倒れたら本望だな。みんなには迷惑をかけそうだが、死んでしまえばその後のことは知ったことではない。倒れるまで、できるだけみんなの相談に乗れたらいいな、と思う。鞍馬山からかえってきて毎日忙しく美術探検をこなしていたら、風邪を引いた。インフルエンザではなく、動きすぎ(働き過ぎでは決してなく)から来る体安め(からだやすめ)のための風邪。風邪で寝込んでいるのに夜にお話の呼び出しがかかったりしながら、でも結局、ほぼ1週間寝込んだ。毎日昼間から寝てしまえるので驚いた。寝過ぎで腰が痛い。そうして風邪が治った時点で、東京都図工研究会の西多摩大会に助言者で呼ばれて、今度は横田基地の東側の、瑞穂町という街の第一小学校に行く。造形教育の助言者で呼ばれることほど、美術館職員として困ることはない。だから図工はわかんないんだってば、って言ってるでしょうと、冒頭必ず言うことになる。今回は、鑑賞教育の実践を見せてもらった。大人の絵描きさんの絵を借りてきて、本物の現代の美術をみんなで見る。ここまでは良い。で、その作者に来てもらって、どのような想いで描いたのかとかを聞くのだが、これはどうだろう。良い絵というものは自立しているもので、それは作者の想いからさえも自立してしまっている。作者の話なんかどうでも良いのだ。そこにある絵から各自が読み取れるものをできるだけ読み取り、読み取れたものを使って、各自がお話を組み立てる。もしもその絵が良い絵なら、そのお話は広がりを持ちながらしかし人間としては同じ結末へ向かう。そこに見えるものの読み取りとそこからの組み立てにこそ教育のしがいが有るはずで、読み取りのみ、しかも、作者の想いの読み取りにのみ終始するのは、あまり良い美術の使い方ではない。現実を素直に見る目。見えたものを見えるものにする力。そのときに使う体験を経験にかえる力。その辺りに、美術の働き場所が有るのではないか。でも、こういう話は、今の学校教育の中で、どれほどの理解を先生たちに得られるものなのだろう。高揚しつつ落胆。先は長い。なんて言っているうちに死んでしまうのだろうから、あんまり動揺してもしょうがない。

2008年11月30日 空気は冬で冷たいのに、吹く風が、変に暖かい。今年はきちんと寒くなるのだろうか。

10月に再開館してあっという間に2ヶ月すぎた。文字通りあっという間で、僕としては信じがたいことだが、ストレスたまるなあ、という状況に陥って驚いている。落ち着いて考えれば、そんなに驚くほどの忙しさではなくて、これまでだって、なんとかしてきた程度のことなのだが、自分の様々な意味での総合的な体力や器用さが年相応に落ちてきているのに、脳がついていっていないのだと思う。つまらないことでちょっとキレて、そのことに自分自身で驚いて、少し修正をして、これを書いている。たぶん、一番のストレスの元はウインドウズで動く電脳との会話ではないかな。

11月の中旬に重なった、様々なところに出かけていってそこの人たちの相談に乗る仕事は、ううむ、もう少し早く相談してくれればそういう質問ではなく、もう少し発展的肯定的な方向があったのになあ、という少し疲れる活動だった。
例えば、中学2年生の人たちと「水墨を使って自分の気持ちを表す字を作る授業」なんて、この題を読んだだけですごく面白そうに思えるでしょう?墨を使って書くって言ったらお習字だ、でもお習字には書道というやり方もあって、しかし今回は美術の授業だ。美術と書道習字ってどこがどう違うんだろう。その上、水墨で描く絵って美術の中では日本画(東洋画)と言われていて、僕たちが普通に習ってきたのは西洋画だ。習字と書道、日本画と西洋画、そしてそれらを美術でやる。ここいらあたりを、直接教えるのではなく、教える側が自覚し整理しておいた上でカリキュラムを組み立てていれば、授業の進め方は全く同じでも内容は全く違う物になったろうし、評価なんかだってあんまり悩まずにすんだのではないかなあ。
社会教育の現場での美術教育のあり方にしても、会が始まると同時に突然人をどう集めて何をどう教えるかに話を持っていく前に、なぜ、教育の中に美術「なんか」が必要なのかあたりをみんな共通認識として持てるように(そんなものは既に確固とみんなの中にあるのが前提で始まっているのだと、誰も点検すらしないで信じているけれど)整理して固定しておく相談なんかの方が必要に思えるのだがなあ。
なんだかどうも、社会は枝葉末節の目先のことだけ気にしていて、しかも全体でとにかくすごく急いでいるように思える。前に美術館で飼っていたサボテンが、誰も手入れをしないでほっておいたら、3年ぐらい過ぎてみんなもう枯れてしまっただろうと思っていたあたりに突然花を咲かせて実を作りその後本体はしおれてしまったことがあった。まさかそれと同じことが人間に起こり始めているのでないといいのだが。