10月に再開館してあっという間に2ヶ月すぎた。文字通りあっという間で、僕としては信じがたいことだが、ストレスたまるなあ、という状況に陥って驚いている。落ち着いて考えれば、そんなに驚くほどの忙しさではなくて、これまでだって、なんとかしてきた程度のことなのだが、自分の様々な意味での総合的な体力や器用さが年相応に落ちてきているのに、脳がついていっていないのだと思う。つまらないことでちょっとキレて、そのことに自分自身で驚いて、少し修正をして、これを書いている。たぶん、一番のストレスの元はウインドウズで動く電脳との会話ではないかな。
11月の中旬に重なった、様々なところに出かけていってそこの人たちの相談に乗る仕事は、ううむ、もう少し早く相談してくれればそういう質問ではなく、もう少し発展的肯定的な方向があったのになあ、という少し疲れる活動だった。
例えば、中学2年生の人たちと「水墨を使って自分の気持ちを表す字を作る授業」なんて、この題を読んだだけですごく面白そうに思えるでしょう?墨を使って書くって言ったらお習字だ、でもお習字には書道というやり方もあって、しかし今回は美術の授業だ。美術と書道習字ってどこがどう違うんだろう。その上、水墨で描く絵って美術の中では日本画(東洋画)と言われていて、僕たちが普通に習ってきたのは西洋画だ。習字と書道、日本画と西洋画、そしてそれらを美術でやる。ここいらあたりを、直接教えるのではなく、教える側が自覚し整理しておいた上でカリキュラムを組み立てていれば、授業の進め方は全く同じでも内容は全く違う物になったろうし、評価なんかだってあんまり悩まずにすんだのではないかなあ。
社会教育の現場での美術教育のあり方にしても、会が始まると同時に突然人をどう集めて何をどう教えるかに話を持っていく前に、なぜ、教育の中に美術「なんか」が必要なのかあたりをみんな共通認識として持てるように(そんなものは既に確固とみんなの中にあるのが前提で始まっているのだと、誰も点検すらしないで信じているけれど)整理して固定しておく相談なんかの方が必要に思えるのだがなあ。
なんだかどうも、社会は枝葉末節の目先のことだけ気にしていて、しかも全体でとにかくすごく急いでいるように思える。前に美術館で飼っていたサボテンが、誰も手入れをしないでほっておいたら、3年ぐらい過ぎてみんなもう枯れてしまっただろうと思っていたあたりに突然花を咲かせて実を作りその後本体はしおれてしまったことがあった。まさかそれと同じことが人間に起こり始めているのでないといいのだが。