2009年12月26日  乾いた曇り。雨降らず、なま暖かい。


今日は、阿部君のお葬式だった。阿部君は、アベヒゲ(仙台ーいや北日本か?ーでは知られた芸術系居酒屋)の(店主)阿部君で、名前は立夫と言うのだという事を今日知った。彼は(確認していないが、確か)僕と同じ歳で、最近難しい癌かなんかで調子が悪いのだ、と言う事は聞いていた。その割には10月にも、美術館に何かのチラシを持って来てくれて、そのとき「あれ元気なの?」「いや本当はだめなのよ」というような話をしたりしていた。僕がモーターサイクルの試合なんかに係わっていた頃だから、だいぶ若い頃から、仙台の面白い事の様々な部分(モーターサイクルから美術、演劇、舞踏、でも、僕が知っているのはそこのあたりまでだ)で関わりがあったけれど、基本的な生活の部分で、僕は酒をあまり飲まず夜更かしではないので、深い関係はあまりなかった。でも関係のある部分では一緒にやっている人という感じは深くあった。数日前突然、亡くなったという事を聞いたとき、あ、お葬式に行かなければと、すぐに思った。

普通僕は、あまり冠婚葬祭に行く人ではない。冠婚葬祭に関して形式的に整えば済むというモノではないだろうと思っている。僕は、町内会の葬式の時は何も考えず、ちゃんと形式を整えて(唯一持っている濃紺のスーツに白Yシャツを着、父親の黒ネクタイを締めて)受付係をしたりする。でも、阿部君は僕にとって、考えなければいけない関係の人だ。彼が死んだのは、僕にとっては大変身近かな感じがする。今年の夏の事もあるし、いつ自分の番になってもおかしくない。阿部君の事をよく知っているというわけではないけれど、僕は彼がなくなって大変残念だという気持ちを深く感じてお葬式に行きたいと思った。で、まったく普通にきちんとした服装(美術館の部長会議に出るよりももっときちんとした)をして喪章をしていく事にした。彼との関係は、そういう関係として僕の中にある。喪章は、最近ほとんど誰もしないのですぐには見つからず、100円ショップにあるとの情報もあったがちょっと違う気がして、大友葬儀屋に電話してとっておいてもらった。300円だった。濃紺のネルシャツにニットの黒いネクタイをして僕の持っている一番良いツイードの茶色ジャケットに喪章をした。ズボンは作ってもらった淡い茶色のボンバチャス(膝宛つき)。黒い革靴を履いてみたらまったくヘンテコリンだったので持っている靴の中で最も地味な茶色のビルケンのロンドン。靴下はスマートウールの黒い補強の入った灰色のにした。昼過ぎ、葬式場に行ったら結構な人がいたけれどみんな(本当にみんな!一人残らず!)黒い式服だった。なんだかなあ、みんな何も考えていないみたいだ。21世紀ってそういうもんなの?阿部君、普通はこういう人たちといたんだ。少しがっかりして、少し晴れやかで、少し緊張した。自分できちんと決定している気分がした。これから大切な時はこういうふうにしよう。喪に服す気持ちの表し方は色々あって、もちろんそれでよくて、みんなはそうするけれど、僕はこうする。

僕は美術家なので、みんなと同じというのは基本的に嫌いなのだ。たとえ独り善がりで、ヘンテコリンだとしても、これからもできるだけ毎回悩みながら考えて、自分で決めることにしよう。

2009年12月22日  冷たい曇り。小雪が降ったのか?


しばらくぶりの更新。ほぼ1ヶ月ぶりだ。今回は別に入院していたわけではない。美術館がトリノ/エジプト展で、ちょっと混んでいたのだ。約2ヶ月で11万人+の来館者。この前このぐらい入ったのはルノワール展だった。最盛期には当日券買うのに1時間並んで、展示室に入るのにまた1時間かかって、入って出るのに2時間、みたいな状況。何しろ展示に付随して読まなければならない字/文がやたら多い。ま、とにかくなんだかんだ気ぜわしい毎日だった。教育普及部は普及部で個別の活動がビッシリあるわけだが、しかし、11万人とか入ると、それは展示の問題だとかは言っていられない。館全員が交代で「ここが当日券購入列の最後尾」とかの看板を持って立ってたりしないと、どうにも動きがとれなくなってしまう人数なのだ。いやはや。加えて、エジプト展なんかをやるのが美術館と思われるのは心外だと思う学芸員もいて、ものすごい人出の間をぬって、中谷芙美子の霧の彫刻や、山本さんという僕と同じ歳の竹細工を駆使してミュージックインスツルメント彫刻を作る人の公開制作なんかもやるもんだから、普及部の毎日は充実過ぎる程に過ぎていった。ああ、僕に関しては、アメリカンフットボールと、NBAのバスケット中継がこれに加わった。だから、くたびれて帰ってくる夜はあっと言う間に過ぎていった。


混雑の間を縫って、病院に薬をもらいにいったり(心筋梗塞以前は2ヶ月分出してもらっていた薬は、発病後1ヶ月ごとにしてもらって毎回血液検査を受ける事にした)、カングーを冬タイヤに変えたり、家の様々な買い物を整えたり、せっかく新しくしたのに一回使っただけで壊れてしまった、どこか知らない名前の国製の電気機器を交換しにいったり、おもに、イヤハヤな休日を繰り返し、それでも、しつこくその合間をかすめとって、例の田園空間博物館を歩きにいったり、模型屋さんを回ったり(回るだけ)、モーターサイクル屋さんに新しいカブの相談(相談だけ)に行ったり、(ストレス解消にせめて)雑誌を(少し)予算に関係なく買ったりしていた。


もちろん休みでない日には、黒松小学校5年生4クラスのために2日間トラックに絵画のコピーを積んで通ったり、来年になるとすぐある金沢21世紀美術館での美術館教育のシンポジウムや、それに続く武蔵野美術大学でのワークショップでのファシリテイターを巡る教育?についての相談などに乗り、そのために昔書いたコピーをひっくり返して読み帰してみて、なかなか良い事言ってるじゃんと自分をほめたりもしていた。こうして書き出してみると、ううむ、相変わらず忙しがって毎日が過ぎている事に気付く。だめだなあ。


2009年12月 5日  始め曇。午後冷たく小さい雨。夜強く屋根を打つ。


東京から帰ってきた。4日に都図研の研究大会が板橋区成増であって、そこで授業を見てお話。東京都の図工は専科(中学校のように専門の先生がやる)なので、都図研の研究大会に集まるのは全員図工(美術)の専門家。そういう人たちがおおよそ800人から1000人集まる。びっくり。宮城県出身の若い人も数人いた。開会の挨拶だけでしばらく続く。びっくり。夜遅くまでいて、泊まって今朝帰ってきた。

小学校で専科だと言うことは結構特殊で、そこで話される内容もだからだいぶ特殊。どう見たって、1年生と6年生はまったく違う自意識の基に生活を送っているのに、なんか美術、いや図工という枠で一緒にくくって無理矢理何かをしているように見える。それにほとんどの人は気付いていないようで、ごく少数の人がどうもやり辛いと気付き始めている感じ。そのあたりで、僕が呼ばれたみたい。授業の指導案とかの講評ではなく、美術は教育にどのように関われるのかについて話して、と言われた。ううむ、外野から見ていると、専門家(子供を見るではなく美術をする)であればあるほど、対象の子供は授業の中にどんどんいなくなっていく。たとえば土粘土を与えるのはとてもいいのだが、それを手渡された子供達が「ワー手につくんだ」と言ってみんなに手のひらを見せているのは無視されて、それを使って何をどう作るかに話がすぐ行ってしまう。小学校でする図工は「あっ、土の(本当の)粘土って、こういう風に手につくんだ。こういうのは気持ちいいって言うのかな、気持ち悪いのかな」という所をこそ大切に授業始めるのが面白いんじゃないかなあ。というような場面が次々様々起こる。

仙台だと図工の研究会に出てくる人は、国語だったり社会だったり理科だったりが大学卒業時の専門だけど、それより何より小学校の先生が専門(普通の真剣正直な大人というような意味で)のうえで図工面白そうと言うスタンスの先生なので、ここの辺りの子供の気配に気付きやすい。美術の専門家はどうも(中学校の先生達のように)鈍い。なぜ基礎的な教育の時期に表現系の授業があるのか考えようというような話をして、お話の時間が短いから、全体会終了後のレセプションの時に質問や文句のある人は話を聞こうと話を追えた。結構たくさんの人が終わってすぐから「面白かった」や「これまでモヤモヤしていたものがすっきりした」とか「これで美術教師を続ける指針が見えた」とか、話しかけてくれるのだが、質問は無い。そういえばどこでも僕の話のあとは同じ状況になる。余りに非常識無分別なので、取りつく島がないのだろう。そういう所こそが、同時代に対する非常識無分別こそが、美術の存在意義だったはずなので、こういう状況は当然だと思う事にしよう。


2009年12月 1日  乾いた寒さの快晴。雲一つない。


おう何と言うことだ、もう12月になってしまっている。11月の後半は毎日様々考えることがあって、考え込んでいるうちに日は過ぎた。

極小さい人たちとの活動を何回かした。彼らは、僕が小さかった頃と何も変わらない人間の幼体だった。彼等を取り巻く大人の変わり様がひどかった。ううむ、何がどう失敗だったのだろう?亘理山元空間博物館にも、何回か行った。いつでも大変快適なお散歩だった。普段は絶対思わないのに、もっと宣伝したいと強く思った。そうでもしないとあそこはなくなってしまうのではないかと心配だ。この機構は無くなっても、僕はもう知っているわけで何の問題もないようなもんだが、博物館として残るということで見える大切なものがなくなるのはやばい。美術館で、二人の作家のワークショップと公開制作があった。ううむ、こっちの方向ね、と思った。公務員は、毎年絶対胃検診を受けなければいけないということで、本当は夏前に飲むはずだったのに、入院に次ぐ入院でコンランし、今年は飲まなくてもいいんじゃないかと思っていたたバリウムを飲む検査を11月最終日に、なんと自宅から自転車で行ける名取高校で、先生達と一緒に受けさせられた。そうこうしているうちに12月の都図研の造形教育研究大会が近づいてきて、4日には板橋区成増小に行くことになっている。

箇条書きにするとこれらのことが起こり、その各々で僕はなにがしか考え込んだ。その上これらの公的な出来事の間に、幾人かの人が美術や教育を巡る興味深い相談をしにやってきた。これらも、今の僕の意見をまとめるのにいい機会だった。


東海地区のある大学院の学生が来た。美術館などの社会教育における美術教育のあり方の研究をしているということだった。文章を使った統計的な研究をしていて、ある程度の成果が見えてきたのだが、数字から推して行くと、宮城県美術館は何もしていないことになってしまうのだそうだ。でも、様々な所で宮城県美はよくやっているという話のようだ。しかし講座も、ワークショップも、講演会も、何もかも数字的には何も出てこないのだ。出てこない所は何もしていないことになる。でもおかしいので、見に来た、と言う。

ううむ、統計録る側の枠組みから離れられずに世界を見たら、まるで数世紀昔の西洋から見た世界文化史みたいになるのは当たり前じゃないか。ローマ以外に、文化はないのだ。エジプトの国外はすべて混沌なのだ。私が一番モノがわかっていて偉いのだ。

教育とは何をどうすることだったのか?社会って、何をどうしたものなのか?あなたの場合、彼らの場合。そのすべてに答えるためではなく、それらを見渡せる地点からの俯瞰図の意識。それが目的なのではなく、たいてい目的だと思われているものや事は手段であることの方が多い。それは手段だと、さしあたって開き直ってみて見ると、新たに見えてくる大きな世界。そういうことを気付く手段として美術は相当有効だと思うのだが。でも今の世の中では、美術が一番そういう世界から離れているように思える。


仙台の郊外の新しい団地にある小学校の2年生2クラスが来た。始まる前に先生が僕をそっと横に呼んで、クラスに5人問題児がいると教えてくれた。彼らのいう問題児は、彼らが考えている子供のイメージにあてはまらないということだけだった。僕には子供の発達による人間の幼体のイメージしかなく、かつそれは基本的にみんな違うという意識に基づいている。僕にとって問題児はいなかった。こっちに問題児だという意識がないと、その子供達は大変良い人間として付き合ってくれる。彼らはほとんど全員、利発で積極的で好奇心に富み、周りに気を配る人たちだった。それらをすべて先生の世界観の中に閉じ込めて、先生のコントロール下に置こうとされたら、子供は凄く嫌だろうと思う。そっちに行くなと手を引っ張られ、話を聞いてもらえず、話を聞きなさいと強要される。子供はどんどん嫌になって行くだろう。なんなんだろうなあこういうの。あ、特にその問題児の一人がエジプト人の頭良さそうな子で、僕には、まったく普通の子供に見えたのは、日本人として恥ずかしかった。その外国の子はまったく普通に生き延びるための人間として、自分で頭を動かし体も動かし確認し想像し突撃してみていただけに、僕には見えた。日本の典型的な小学校では8歳の人間として当然の、しかも相当優秀に当然の、そういう行為は問題児として多動の子になってしまうのだった。いったい日本はどうなってしまうのだろう。


前に書いた文を添付しておきたい。


造形教育の広がりを求めて


美術に関して、何かわからないことなんて、みんな(たとえば、この文を読んでいるあなたというような意味で)には、実はないのではないか。美術なんて、ほんとはもう、うんざりするほどよく知っていると、みんな心の深いところでは、何となく思っているのではないか。


 美術は、全ての人間が、全部一人一人違うということを基盤に、人間全体の世界観を拡大してゆくということが存在の意義-仕事なので、未だ終わらずに拡大し続けている。教育の現場で、次の世代に伝えなければいけない、又は、伝えることができることは、ほとんどここのところだけなのに、なぜか、私が知っている範囲では、未だ、上手な絵の描き方だけが(様々表面的な状況や方法は変わってきているかのようだとはいえ)突出して追求され、評価の対象にされているように、美術館から見ている私には思える。

 見た目には、みんなが、毎日同じような生活を繰り返していながら、一人一人違う人間は、一人一人違う生活経験を組み立ててゆく。その生活経験の積み重ねで、その時のその人の世界観-自分を取り巻く状況とのつじつま合わせ-や、人生観-自分の内側で起こっていることのつじつま合わせ-が、一人一人個別に、その人の中にできあがってゆく。まずこの状態が、肯定的に、社会の基礎として存在しないと、私たちが今、(知っていると)感じている美術は、始まらない。

 なぜなら、美術は、その個人の世界観や人生観を表現したものだからである。一人の人間が、そこに、まず、いて(存在して)、そこに自分がいることによって身の回りに起こる毎日の様々な出来事を、現実として受け止め、「ま、しょうがないかな」とか「まったく困ったもんだ」とか感じ、考え、しかし、そこで生活を(たいていは)やめてしまうことなく、何とか様々なバランスをとれるようにつじつまを合わせて、次のまた一日につなげてゆく。その毎日の積み重ねによって作られる、ものの見方、見え方を描いて(表現して)みる。うまいへた、丁寧乱雑、大小、明暗、色合い配置、その他様々の全部を含めて、そこに表出されたものが、全て違うということこそが、私たちの美術がここまでかけて、やっと獲得してきたものなのであって、私が、今、ここにいるということの証明なのだ。

 自分の表現を、私はここにいるということの証明としてみんなに見てもらうという行為には、だからたぶん、人間であるということ以外、何の問題も存在しない。年齢や性別はもちろん、人種や、障害のあるなしなども、実は何の問題にもならない。今、ここに私がいる。そして私は、このように私の世界を見ている。ただそれだけを、(自覚して)真摯に描いて(表現して)いるかどうかだけが問われる。真摯な表現かどうかということは、自分をいかに解放し、その人にとって本当のことだけを(様々な意味で)「楽しく」表現しているかというほどのことである。真摯であれば、そこに楽しく、思いを込めて引かれた一本の線は、それを描いている私のすべてを、多くの言葉を重ねるより雄弁に、物語ってしまう。

 さて、描いたあなたがそこにいるということは、見ている私はここにいるということでもある。好き嫌いを越えて、誰かが一生懸命描いた作品を真摯に丁寧に見る。うまいへたを越えて、そこに描かれているものを真摯に丁寧に見る。そこにある表現が、美術の作品になるかどうかは、実は、見る側に、ほとんどゆだねられていると言ってよい。私は、今、毎日の経験を積み重ねてきてここにこうして、いる。そしてあなたが、そこで積み重ねてきた生活経験によって表現された、あなたの世界を見ている。私たちの世界観は、本当に一人一人違っていて、いかにもバラバラであるかのように見えるけれど、私たちは人間どうしであるということを知っていて、その大きな枠から出ることはない。その人が真摯に描いた世界観を、こちらも真摯に見ることを通して、私たちは、自分の世界観と人生観を点検し、修正し、どのような形であれ理解することによって、自分の世界の見方を拡大してゆく。このようにして私たちは一人一人違うことを基に、全体について思いをはせ、一体化する実感を持つことができる。

 このことは練習しなければいけないし、いくら練習しても終わることはない。

 ここまで原理に戻って考えてみれば、美術についてわからないことなんか、実はほとんど無かったのだということは実感できるのではないか。最終的に、みんな一人一人違うのだということを尊重して大切に想い、その上で、しかし、みんなで「善く」住むことのできる社会を考えるられる大人を作る。美術は(その基礎としての図工も)、そのまったく基礎にある、自立した近代の市民としてのものの見方を訓練するための学科だったのではないか。造形することだけにこだわらず、私はここにいて、私の見方を持ち、同様に自分の見方を持って考えているまわりのみんなと話し合いながら、多数決だけでは決められないものの決め方について、思いをはせる。最終的な目標(私たちはどういう大人を作りたかったのか)さえあやまっていなければ、あなたの良く知っている、得意の分野を駆使し、様々な方法技術を試みながら、図工の授業を、これまでの経験にとらわれずに組み立てる。これも又、美術が最も得意とする分野だったはずなのだが、、、。

2009年11月17日  朝から一日雨。少しずつ強くなり今は本降り。


2回目の(数としては3個目の)ステント手術から退院し、約1週間自宅療養して今日から社会復帰。この1週間自宅にはいたが、毎日なにやかにやあって、何もせずにぼんやり時間を視ていた日はなかった。

脳神経外科の病院に報告及び今後の相談に行ったり、入院中夢に見ていたあっちこっちの模型屋さんに行ったり(でも何も買わず)、美味しい昼ご飯を食べたり、KEENOW(孫)と半日遊んだり、そうして床屋へ行ったり。ああそうだ、何しろお相撲が始まった。ああ、こういうのが毎日休んでいたということか。下の娘が来てくれていたので大変助かった。彼女が居たので僕はこういう毎日でいられたのだ。沖縄にいる上の娘も昨日の夜電話をくれた。これでだいたい社会復帰の準備は整った。


今日から美術館に出て、出た途端に幼稚園の人たちと本物の探検。美術館から彼らの幼稚園まで歩いて帰る活動、のはずだったが、途中で雨がひどくなったので、すなおに撤収に変更。大橋の下で雨宿りをしながら昼ご飯を食べ、東北大川内キャンパスまで戻り、ちょうど来た市営バスで帰園。いやはや。だいぶ寒かった。息が白くなっていた。

子供達はまるでなんでもない所で笑い転げながら、変な歌を元気に繰り返し歌いつつ手を繋いで行進。本当に子供はうるさいなあ。でもニコニコ。自転車来るから手を離してって言うのに、すぐまた繋いで元気に行く。繋いでくる手がどれもみんな暖かい。

一人車椅子の人がいて、その子には凄い探検だったのではないか。そうだといいなあ。日本では車椅子を使っているとなんか過剰に保護されているような気が僕はしている。歩けないだけなんだから、そこんとこは手伝って一緒にやるけど、それ以外はできるだけ子供の時するべきことをするべきだと思っている。その子も仲間も、雨の中ちょっと大変だったかもしれないが、この子らが大きくなってから「僕らは探検をしたことがある」と思ってくれるといいなあと考えながら、園に帰る子供達を乗せたバスを見送った。「今日のどこが探検だったの?」ときいてきた子供がいたけれど、こういうのが本当の毎日の探検なんだよ。大きくなるまで忘れないようにね。僕はそこから美術館に帰る。

この活動のとき、普通僕は緑のマウンテンパーカに、焦げ茶のテンガロンハットをかぶるのだけれど、今回は、車椅子の人をおんぶするかもしれないと思ったので、つばの短いサイクルキャップにした。大きいつばの帽子はおぶわれている人に邪魔になるからね。今日、アパートの裏から河原に内緒で降りる所と、為朝神社の中を扉の小さい穴からソッと覗くときと、あと何回かおんぶするときがあって、こっちの帽子にして良かったなと思ったものだった。

文に書くとこういうことになるのだけれど、これらの活動はいわゆるワークショップと呼ばれる活動で、一緒に同じ時間を過ごすしかうまく伝える方法はないようだ。しょうがない、地道にしこしこ続けて行こうと思う。


2009年11月12日  晴。湿って冷たい一日。


退院して家にいると徐々に(いや急速にかな)夜更かしになる。もうすぐ10時だというのに、今まで、病院で寝ながら徒然に頭に浮かんだことを小さいメモ帳に書き留めていたものを、電脳上に整理しなおしていた。ベッドの上ではちゃんと書いていたつもりだったのに、家で読み返してみるといわゆるミミズが這い回ったような字になっていて、一つの文にするのにだいぶ時間がかかった。あることに気付いたきっかけのような考えを静かに思いなおして、きちんとつじつまが合うように文にしてみる。今回は入院する前ギリギリまでみんなと美術の授業に付いて考えていて、入院した時に枕元に持ち込んだ本がきっかけになって考えが広がる。それだけだと、これまでは広がりっぱなしになりそうな所に、ちょうど他の美術館での鑑賞教育実践報告の依頼や、ワークショップでのファシリテーターになるための授業ができないだろうかという相談などが絡んできて、考えの方向がクリアに見えてくる。つい、のってしまった。


僕は、何はさておきまず「私は彫刻家だ」という所に立つ視点を大切にしてきた/している。でも、思えば僕はもうこの2年ぐらい彫刻を作っていない。手に付いた技術は、自転車に乗ることのように、そう簡単に駄目になることはないが、単に鉄の熔接ができるということと、それを使って鉄のスクラップを美術作品にすることができることとはまったく違うことだ。いつも言っているように、technicとcreativityは似て非なるものの最たるもので、常に注意が必要だ。

どっちがどうだということではなく、creativityのprofessionalでいるということは、頭の中にある世界観をいかに表現できるかという力の意識の仕方なのだ。しかしその世界観を思う存分具体化するには深いtechnicの力がいる。深く強いtechnicが、表すべき世界観を最初考えていたものより(いつのまにか)拡大していることはよくある。具体的なもの(作品)も世界観(頭の中)も、両方ともに。

今、僕は何を使って何の表現をしているのだろうか。そして、そのことをどのように自覚しているのだろうか。どうもメインは彫刻ではなくなっているのではないか。それでも僕はまだ大丈夫なのか点検したい。もう11時を過ぎた、寝よう。

2009年11月11日  一日雨。凄く強く降るはずだったのにシトシトと。


今日心臓循環器系の病院から退院してきた。最初にカテーテル検査してそのまま手術になり、ステントを2個入れてもらったときに、もう一箇所つまっている所があることは言われていた。今回の入院でその残っていたつまり箇所を直してもらった。説明を聞くと今回の所は見つけてすぐ直すということができない所だったようだ。詰まっている所が細くて長い。最初に入れたのとは性質の違う少し太いステントを送り込む。状況によっては股関節の動脈を使うことになるという。最初話を聞いたときは60~70%の成功率と言われ、ちょっと緊張した。でもやってもらわないわけにはいかない。

実際には、今回も左手首からのカテーテル挿入手術で約45分ほど。傷痕を見ると2回太い針が刺されたようで、これまでで最も痛い感じがした。とはいえ、肉体的な負担はほとんどないと言ってよく、1週間の入院で済んだ。木曜日午前中に手術をして金曜朝には手首の圧迫止血も終了。日曜の午後には入浴許可。体は元気なままなのでやや時間を持て余した。最初に持って行ったSFとミステリー計3冊の文庫本は土曜までに読み終え、車とアウトドアの雑誌を2冊買い、ハードカバーの新刊を2冊買って来てもらって熟読した。文庫も含め、様々考えることの多い読書だった。考えたことについては、おいおい思い出すことを書いていこう。

手術の結果は上々で今は実に快調だ。今になると、そうかこの手術の前は心臓重かったんだということがわかる。今は軽々動いている。体力が落ちているのが感じられる。筋肉が減っているのが感じられる。今までは体力がなくなったことを意識する前に、その作業をやめてしまっていたのだと思う。自覚してじっくり基礎的な体力の回復をはかろう。さしあたって、今日はここまで。

2009年11月 1日  曇。生温く始まり思い切りの悪い寒い夜へ。

しばらくぶりに更新する。今回更新が途絶えたのは別に入院していたからではない。10月30日に、造形教育大会東北大会仙台大会があった。今週は、ここを中心に生活が回るはずだったが、そんなに緊張することもなく過ぎた。なのでかえってぼんやりと終わったなあと思っているうちに、月が変わってしまっている。

今日あたりから天気図的には冬になるとラジオで言っていたので、今朝は結構冬支度で家を出たのに、なんだかぼんやりと生暖かいまま夜になった。それでも帰りに北仙台の二輪工房に寄って冬用のサイクルキャップを買ってきた。帽子はたくさん持っているが、気に入ったモノばかりをかぶることが多いので、一気にくたびれてくる。いろいろなことを、点検し整理しようと思う。


今回の造形大会は、ずいぶんと初めの頃から相談に乗ることができたので、こちらの思い込みを修正する事ができるあたりから話し合いに参加できた。そのため、授業の点検助言だけなどより、収穫は多かった。

造形大会は、図工美術教育の先生たちの研究発表会で、各県ごとに行うのとは別に東北6県持ち回りで大きい規模での話し合いをして行く。今年は宮城の番で仙台市図工美術教育研究会(名称不確実)が主催した。教育委員会とかは、あんまり関わらないようだったのが面白かった。

義務教育での美術教育は、なぜか日本では造形教育と呼ばれていて、そういう名称の会合に呼ばれた時は「僕、造形教育は苦手」と言うことにしている。造形と美術の言葉の違いを真面目に検討しても面白いが、まず、造形はわからないけど美術の話はできるよ、と美術館の人に言われた時に各自がその何気なく使ってきた言葉についての概念を点検し始めるところが大切だと思う。点検さえすれば、実は同じだったでもかまわないのだ。造形教育の大会なのに、是非美術館でしたいというのも、それはなぜかについては特に誰も文句を言わないのはなぜだ?と言うふうに、美術館から見ていると学校での美術教育では様々不思議なことが立て続けに起こる。だが前に述べたように、今回はそうなるだいぶ前から一緒に考えられたので少なくとも小学校は順調に快調に進んだと思う。小学校の先生をやるためには、豊で深い大人であることがその基本に必要なので、美術の話の伝わり方理解のしかたが、簡単で早い。一方中学校は、まず教える教科の専門家であることが問われるので、人間的な完成度合いの点検がどうもおろそかで甘いように僕には見える。美術の専門家であることはこの話とは逆のように思えるのだが、日本での美術家の立場は、どうも違っていて、そのことを誰も点検しない。と言うような感じも今回はだいぶあからさまに出て、そこを巡って考えることができたが、まとめるにはもう少し時間がかかりそうだ。

音楽体育美術と言う表現を巡る3教科をプライマリー(基礎基本)教育のうちに全員にさせておくという日本の教育体系は結構これからの地球上の人類にはすごく大切なことになってくるように僕には思えるのだが。

2009年10月24日  綺麗な秋の日。乾いた空気がだいぶ寒くなって。


今年の夏はさんざんな毎日で、あっという間に過ぎた。と、僕が書くことができるということは、僕の同僚は別な意味で散々だったはずで、休みの順番なんかまったく関係なく毎日忙しく、それこそ本当にあっというまに過ぎてしまったに違いない。

今このブログを読み返してみると、入院の合間に出勤した僕が、何やら忙しそうに、僕がいなければ駄目なんんだみたいなふうに書いてあるが、これは間違いだ。僕なんかいなくても、美術館の教育活動はきちんと動いていて、なんと来年度の予算書まで出来上がっていた。あたりまえだけど、ありがたい。


16日から美術館ではトリノの博物館が持っている古代エジプトの美術展が始まった。連日混んでいる。混んではいるが、当初の予測では美術館の周りの道が大渋滞になるはずだったのが、今の所そこまではいっていない。今日明日の週末で様子を見て、本当に混み始めるのは11月中旬以降から12月にはいってからだろう。見るなら早いうちだ。混んでいないといっている今日あたりでも、入り口から出口まで一列に並んでシズシズ進みながら順番に見て行くというくらいには混んでいる。石を彫った作品も面白いが、僕は、その石を彫った青銅!製の鑿なんかの方が美しく気になった。

美術館が混んでいることもあって、ほとんど毎日歩いて通っている。駅から歩いていると様々なことを考える。若い頃に張り切って主張しムリヤリやった様々な行為が、ここに来てそれはまったくもの知らずのことだったということが思い出されて、歩きながら足がすくむほどの恥ずかしさを、突然感じたりする。歳とって様々なことに気付けるようになって来たということをよく考えてみると、僕の認識の力は18歳のあの学生運動のあたりから何もホトンド進化していないのではないか、と思えてくる。

考え方や感覚の基本はそこに動かずにあり、それ以降の体験は経験としてその基本を巡る形で脳に保存されている。何歳の自分であろうとそこに基本が見えていれば、今の状態がクールに理解できて、肉体の状況と精神のギャップにつても自己納得はしやすくなる。ま、言い逃れともいうけどね。今ここに、こうしていえるという納得ができると、今いる所でのストレスにも気付きやすい。何がどうなのでストレスなのかということにも。やはり少し無意味な運動(自転車コギとか)を始めて、無駄な汗をタラタラと流さないと駄目な気がする。


2009年10月18日  一日快晴。

一日気持ちよく晴れた秋の日。今日も休みなので、9時前まで寝てゆっくり朝飯を食う。キッチンに入ってまずコーヒー豆を挽く。今日で豆はおしまいだった。丁寧に少し細かく挽いてコーヒーメーカーを動かす。その間にE美子さんに作ってもらって冷凍保存してあるバケットを一切れ電子レンジで解凍する。バケットもこれが最後。小岩井牛乳と青森りんごジュースを出す。朝の水をコップで一杯飲みながら今日の新聞をざっとめくる。レンジがチンと言ってパンが湯気を上げる。輪切りにして木の皿に並べ、いつものオリーブオイルと蜂蜜をかけ、今日は残っていたヨーグルトをかけて食べる。窓から日がさしてきて気持ちいいなあと思いながらゆっくり噛む。


今日は意識的に何もしない日にすることにして、昼過ぎ(朝食をとって着替えをし、かた付けものをしていたら午前は終わってしまった)、カングーで、明美さんも乗せて、弟に手紙(彼は家を出てもうしばらくたつのだが、未だに住所変更をしていないアドレスが少しある)を届けに出かける。車で3分。門は開いていたのだが、呼び鈴を押しても誰も出てこなかった。小学生の男の子が二人いて、こんなに天気のいい日曜日に家にいる方が嫌だ。手紙は郵便受けに入れ、そのまま金蛇神社に移動。入り口の駐車場あたりはさすがにこの天気で少し混んでいたが、無視して通り過ぎ奥の七ツ堤に登る。いつもカヌーの練習をする堤の一つ上の日当りのいい広場にカングーを止め、うしろの扉を開いて腰を下ろし、携帯コンロでお湯を沸かし、お茶を入れて明美さんと飲む。いやはや何とも気持ちいいんでないの。乾いた空気でお日さまぽかぽかで紅葉今少しの木々。僕は少し写真を撮りながら、その辺の山道を散策。帰りに、いつもの台湾料理屋で焼きそば。思えばこの料理屋も7月の入院以来しばらくご無沙汰だった。ううむ、今年は何とも大変な夏だったのだなあ。



車のラジオで中島みゆきが命のバトンという歌を歌っていた。この大変な夏の後の、天気のいい休みの日に聞いたので心にしみた。少し前のラジオ番組で超長寿社会の話を誰か女の人がしていた。もうすぐ寿命は90歳になるのだという。45歳が折り返し。人はほとんど2回人生を送るつもりにならないといけないというようなことだった。


でもなあ、僕の経験では、30年シミジミやってきて、今年の夏やっと少し変わってきたかなって感じが始まったんだぜ。そう考えて今の自分の気持ちを振り返ると、人間の寿命って実にうまくできているのではないかなあ。人間の脳のオペレーションソフトが新しくなるには結構な時間と微妙で丁寧なやり方が必要で、新しくOSディスクを入れ替えてチャッチャとお仕舞い、というわけにはいかないようだと思う。これ以上人間は生物の基本に手を入れてはいけないのではないか。まだ、意識や認識がそこまでできていないのに。


僕の母親がああして僕を育て、そこにおばあちゃんがいてそれを修正補佐し、おじいちゃんはもう死んでいたけど、父親はああしてこうなり、自分の人生について考えさせ、母親は見事に死んで、親に付いて考えさせ、その結果今の僕は、明美さんのことも含めて、こういう風に子供を育てる人生を組み立て、僕の遺伝子継承者の彼らはそういう人になり、その子供(孫)は初めから僕がしたかったことを普通にする子供になっていく。


大体60歳あたりで人間終了っていうのは、広く見てみれば何か深い意味がありそうに思えてくる。30年続けてきたことだって、すっかりそのまま確実に伝わるのではなく、大体なんとなくの所が伝わるからこそ、その後の発展拡大の余地が感じられるのではないか。いつ死んでしまったって、人間は結構ちゃんと広く深く伝えなければいけないことを伝え、知らなければいけないことを知ることができるのではないか/してきたのではないか。楽天的かもしれないが、僕は結構もう充分残すべきことはしてきているような気がする。こういう風にやってきたのだから、残ることは残り、残らないことはやはりちょっと早すぎたわけで、残らない。


晴れた秋の空は、こんなふうにおじいさんの僕に、なんだか納得の気分を運んでくる。気持ちいい。

2009年10月16日  雲のある晴。日差しは温かいが風は秋。


この季節になると、BSでアメリカンフットボールの中継が始まる。帰宅してちょうど夕ご飯を食べる時間から試合が始まることが多い。アメリカンフットボールとアメリカのプロバスケットボールと陸上競技とXゲームとモータースポーツの中継はつい時間を忘れてみてしまう。ああそれに相撲もだ。テレビをそんなに熱心に見ているわけではないと思うのだが、ここに書いた番組を見ているとなんだか結構テレビを見ていることになって、要するに、ブログの更新の間が空いてくる。

先週の週末から12日の体育の日まで、僕は連日美術館に出ていた。できるだけストレスなく仕事を片付けようと思ってはいるのだが、何しろ予算の時期だ。使っている言葉の概念が違う人たちと仲良しの顔をしながら打ち合わせをするのは、とても大変だ。この前、僕が入院している間に自主ノッツオをした人たちが、11日に自主美術探検。みんな小学校の先生たちで、形は学校で子供たちとやるような仕組みだったけれど、その内容は立派な大人の鑑賞で、この30年間の美術館での活動は無駄ではなかったという感じがして感慨深かった。教育ってやっぱり10年単位での継続が必要なのだと思う。何しろ誰も絵についているキャプションを使わないのだ。かつそれ(誰もキャプションを使わなかったということ)に気付きすらしなかった。すごい。その合間をぬって「おとひと」を売って歩く。というより、知らせたい/読んでもらいたい人の所に持って行くと、みんな「まってました」と買ってくれる。霧生舎は、まだ子供が小さくて手が抜けないので、どうも僕がやった方が早いようだ。欲しい人は僕の所にも連絡をよこしていいです。

13日は振替の休館日で休み、続いて14日も僕は週休日の振替で休みの連休。その両方とも夜はフットボール中継。しかも、ニューヨークジェッツの試合。別にファンということもないのだがなぜか一生懸命見てしまう。でも、どっちが勝ったかについてはすでに忘れているという具合。試合そのものが面白く好きなのだ。日中は自転車の掃除や胞夫さんの手当。胞夫さんの所には、何しろ7月以来僕自身の方がテンヤワンヤだったので、しばらくご無沙汰だった。そうしたら、もう季節は半袖から長袖になっていて、布団も暖かいものに変えなければいけなくなっていた。急いで持って行く。するといろいろ判子押しや何かがあって、片っ端から片付ける。そうしてなんとか半日時間を空けて、例の空間博物館の残りのお散歩。すればするほど、これは誰が考えたのだろうと感心する。大変気持ちよく美しい。今年の秋は、しばらくこの辺りでゆっくり時間をつぶすつもりだ。でも、また入院だけど。

2009年10月8日 台風が来ている。屋根を打つ雨の音。笑っているように蠢く庭の木々。


こういう日に家にいて、二階の広い窓から庭を見ている。静かに嬉しい。強い風に轟々と揺れる白樺の先の方の細い枝に、ヒヨドリがバランスを取りながら一羽とまって、キッと横を向いている。かっこいいなあ。

9月15日から2週間いた仙台厚生病院の循環器疾患病棟では、何回か部屋替えがあったけれど、同室の人のほとんどはたいてい年寄りだった。その中に何人か若い人がいて、何気に、僕はそっちの人たちの仲間なのだろうと思っていた。


おじいさんだと僕が思っている人たちの話はゴルフと自動車とうまいものを食いに行くというような内容で、毎日。ゴルフは自分でもするが、どこのゴルフ場が安くて係の人の人当たりが良くて、テレヴィに出ている若い女子プロの本物を見た事がある話。自動車にはいろいろ乗ったがもちろんやっっぱりクラウンですよ。娘には国産の小さいの買ってやったけどね。その(自慢の)車でドライブに行くのは定義山がすごくいいよ。そして長町にはあんまりうまいもの屋がないな、と話は続く。この人だけの話なのかと思っていると、これがほとんどの人と話が合う(合わせられる)のだ。

「で、あんだは何好ぎなの?」 ううむ、基本は彫刻家でオートバイ乗り、お散歩が趣味で家で遊ぶなら玩具の鉄砲を撃つの好き、車はシトロエンの2CVとルノーのカングーで娘はプジョー306、県内でドライブするとしたら柳津辺りかな。そしてもちろん美味しい昼飯は北六のGラディTウドでしょう。話が噛み合ない、というより、使っている言葉の意味が全然ずれている。そしてこれは年齢を問わずずれていて、僕は全体として、(日本では)やっぱりなんだか変な人なのかなあ。

そうして驚いた!事に、こういう個人の経験に基づく話以外の一般的な歴史経験では、昭和26年生まれの僕は、むしろ終戦の時期を知っている人の方(すなわちこの話でのおじいさんたち)に含まれるのだった。

舗装されていない家の前の道(竹駒神社のすぐそばだから結構街のまん中だ)の両側には、側溝ではなく細い堀があって、そこに台所などの排水を普通に流していた。その(ホコリっぽく雨が降ると水たまりだらけになる)道路は、馬車が肥樽を荷車に積んで運んでいたから馬糞が普通に落ちていたし、そこを学帽をかぶった小学生がゴムのタングツをはいて、オンパン(温飯)器で温める麦飯(色が黒く銀色に光るのだ)弁当(四角く深い黄色いアルマイト製)を持って通っていた。僕の母はちょっとハイカラだったので、僕と弟は普段半ズボンをはかされて、その頃の岩沼では少し恥ずかしかった。家の近くでは、向かいの目黒米屋の前にしかコンクリートのたたきがなくて、そこでみんなでパッタをするために場所取りをするのが、早く帰ってくる小さい小学生の仕事だった。そこのコンクリートの上にかかっていた屋根を支える柱と、街のブロックの反対側にあった木の電信柱とを陣地にして、僕の住んでいた(新町という字の)街全体を使った陣取りを(子供会単位で)戦ったりできた。何しろ陣地を繋ぐメインの道路は国道4号線なんだぜ。いやはや、たった50年前なんだけどねえ。だいたいみんな使われている言葉の意味わかった?

こういう話は、後期高齢者の人たちとは何の問題もなく通じるし混ざれる。でも、僕よりほんの少し歳下の人たちとは、突然ほとんど通じないのだった。

で、せっかくこんなに深く濃い生活体験を持っているのに、なぜ大人(歳とると)になるとゴルフとクラウンと(長町の)MルキーWエイになってしまうのだろう,というのが僕にはわからない。仕事柄、こういうのが、実は深い所でこれまでの美術教育の失敗だったのではなかろうかと思う。今のままの図工美術教育を続けていると、また同じような世界が続くことになる。おっとそうか、その方がゴルフ屋さんとTヨタとMルキーWエイが儲かるわけだからからこれでいいのか。

2009年10月 6日   曇。涼しく乾いた風の一日。


先週火曜に退院して来て今日で1週間過ぎた。病休の後の自宅療養中のはずなのに何か毎日忙しく動いている感じだ。昨日は脳神経外科で報告相談し、今日は厚生病院循環器系に行ってこの後の相談。11月4日に再び入院して残っているもう一つの血管のつまりをすっかり直すことにした。また、お相撲の時期に、1週間の入院だ。


僕は20世紀の最後の十数年間、市内に無料で配られる新聞スタイルの情報誌「仙台リビング」に毎月一回、子供と自分の生活の関係を巡ってエッセイを書いていた。21世紀に入ってすぐ、その連載が終了したのを機会に本にした。その本は作ったとたんに売り切れてしまい長い間絶版だった。

みんなから再版の要望が出てきたので今年の9月17日(心筋梗塞で入院中)第2刷再版。その本「おとうさんのひとりごと」は、このブログのWelcomeのページからリンクしていて読むこともできるが、今回の出版元霧生舎 kiriu_sha@bookshelf.cc にメールで申し込めば、1冊1000円+送料で送ってもらえる。今回様々な理由から手続き簡略化のために電子メールでのやりとりに統一しようと思っていたのだが、どうも、僕の本を読みたいと言う人はあんまりデジタル化していない、またはそういうの嫌い、という人が多いようで、欲しいのにまだ買っていないと言う声が多く寄せられた。すまぬみんな。では今後、霧生舎もそのまま使えるが、僕からも直接手に入るようにしておこうと思う。ボクに会って、思い出したら「本ある?」って聞いて。

2009年10月 3日   曇。日中なんとなく肌に小雨を感じる。でも夕方から快晴、満月。


29日に退院して来て、しばらく自宅療養。とはいえ、10月2日、午前中美術館で、市民センターの講座の人たちのための美術探検+。2時間。これは代理がきかないのでやむを得ない。今日、福島の梁川美術館でやっている菅野直子石彫個展を見に行く。阿武隈急行で行って梁川で降りるというのをやってみたかった。満ち足りたお散歩。明日は、仙台のクロスロードに、桑原君(家の家具を作ってくれた人)の家具個展(1日~6日、ただし3、4日しか本人はいない)を見に行く。月曜は、仙台東脳神経外科に、心筋梗塞での入院の報告と今後の相談。火曜は、厚生病院での再診が予約されていて、この1週間の様子見と今後の心臓修繕計画立案。なんだかんだで、毎日あっという間に過ぎていく。俺、休んでんのかなあ。


夕方古い女友達のE美子さんから「お月様見てる?」と突然メールが来た。今日が中秋だと言うことは知っていたけれど、なんとなく日中は小雨模様の曇りで、あまり期待していなかった。むしろ暗くなってからはほぼ忘れていたので、あわてて空を見たら、雲一つない夜空に、ものすごい満月。ちょうどいた娘と孫とカミサんと一緒に、電気を消して月を見る。小さい望遠鏡も持ち出してみる。古い友達はありがたい。確かに、みんなにお知らせしたくなるようなお月様だった。

2009年10月 1日  重い空気の曇。でも雨は降らず長袖のネルシャツでちょうど良い。


2週間ぶりに鍼灸に行く日。腸の調子がどうも通常に戻っていない感じなので、早く相談したかった。朝ユックリ起きてご飯で朝食。牛蒡と人参と豆腐のけんちん汁風味噌汁を娘が作ってくれた。その後夏物と秋物の上下衣類の入れ替え。アロハシャツからネルシャツへ。半ズボンからボンバチャスへ。薄い靴下から少し厚めの靴下へ。その他その他。夏物が多く、秋物はそんなにない。おおよそ片がついた所で、駅前の床屋へ。2週間分の髭と髪をきれいさっぱり切って剃ってもらう。見慣れた自分の顔が鏡に映っていた。少しやせて皮膚がたるんだかな。小一時間で終了。そのまま電車で仙台に向かう。

僕の行く治療院は南光台の奥にあるので地下鉄で行くことにし、長町で乗り換え。地下鉄に降りる前、昼時だったので長町駅前「いろは庵」でうどんを食おうかと思っが、ふと思い付いていつもの北六食堂に電話したら「空いていますよ」ということだったので、急遽そちらに変更。北四で降りて、裏道を巡りながら北六まで歩く。北五の横丁の途中で、小さな焼き菓子の店「スタジオ/ファーレン」というのを偶然見つけ、そこのお店の女の人と少し話をしながら色々な形と味のクッキーを少し買う。何しろ今から食事に行くんだからね。その店の前の角を曲がったら、なんと目指す食堂のまん前に出た。僕が電話した後で少し混んで来ていたようで満席だったけれど、特別に縁側にお膳を出してもらう。この特等席が僕は好きだ。ユックリくつろいで縁側の柱に寄りかかり、静かにおいしい玄米ご飯と野菜の昼飯を食う。

鍼灸の予約は2時からだったのに、食事が終わったのは1時過ぎ。もう一度北四まで戻って地下鉄で行くか迷ったが、ええい歩いて行ってしまえ。裏道を使いながら東照宮まで出て、小松島から南光台の坂を上り、旭が丘駅からの道との交差点まで行き右折、そうすれば目的地はすぐだ。でも、僕は病み上がりなのだということを忘れてはいない。東照宮の前で殊勝に手を挙げてタクシーを止め目的の交差点まで行ってもらう。うふふ。少し早めに着いてしまい、治療院の前の縁石に腰を下ろして持って行った本を読む。うふふ。2時から2時間じっくり整体と鍼を打ってもらい(そのほとんどは深く眠りに堕ちていたので記憶は定かではないのだが)地下鉄電車を乗り継いで帰って来た。なんだか一気に普通のユックリした休日に戻った。でも、自覚してもう少しユックリノンビリするようにしなければ、と思う日だった。

2009年 9月30日  高曇り。乾いた風。


2週間の入院の間、循環器系病棟に寝ていると、回りは、みんな後期高齢者で、(少なくとも僕の周りの)彼等は、まあ、本当に話し好きなのだ。あっちからこっちまで様々なお話を聞くことが出来て、そこから一人で考えることも多々あり、時間は暇だと気付く間もなくすぎていった。言うまでもなく、しかし、ふとという感じで自分を見れば、僕も充分に彼らの仲間にくくられる顔をしているわけで、おじいさんになっていたのだということをシミジミ自覚した/させられた。


15日はまだまだ続く。その日外来最後の患者だったので、しばらく待ったが、そんなに長くはなく診察室に呼ばれる。ついA野君と呼んでしまいたくなるほど若い男子の医者だった。僕が持っていった、仙台東での心電図やレントゲン写真を見て、すぐ、いくつか検査を新たにするように指示され、検査室を回る。普通の病院だと、結果はこの次の診察の時ね、となりそうな血液の検査なども含め、心電図、心臓エコー、レントゲン、後何かあったかなというような様々な検査が、待っている間にできて来て、しかも、それがどうも一つの画像にまとまって表示されているようなのだ。これまで見たことのない僕の心臓の3D画像が彼の手元にプリントアウトされてきていた。結果カテーテルを入れて、直に心臓の血管を見て診断ということになる。

手首の動脈から入れて何でもなければ一晩泊まっておしまい。これをすれば、すべてはっきりするから。いや、あの、入院の用意何もして来てないんですけど。大丈夫、全部貸すから。えっ、そうは言っても心の準備が、、、。(でも、ま、どうせなるようにしかなんないのだから、テキパキやっちゃった方が良いな。覚悟。)はい、ではお願いします。

看護婦(師か?)さんが代わりに出て来て、これからやる「検査!」の説明。了解、サイン。その他、なんだかヤバそうなことになってもいいねの説明。でも、やることのリスクは0、数%で、しないと90なん%死ぬけど。わかりました、サイン。いざ!という時の連絡者住所電話番号。記入。でも、自分としては、まだ、検査をするのだろうと心理的には理解。担当の看護婦さんと「カテーテル処置室」の前に移動する。狭い廊下の椅子に座って待つ。着ているものは、すべて透明なプラスティック袋に詰め込み、パンツ一枚になって患者用パジャマを着る。まったく手術室とかそういう感じではない。なんだろう、大学の部室棟の前の廊下という感じ。みんな若く元気いっぱいで、テキパキと、しかしリラックスした、会話が飛び交う。ただ、みんな手術用の青や赤紫の上下を着ていて、プラスティックのエプロンをしている人が大勢と、白衣を羽織っている人が少し。ほとんどん人は忙しそうに動き回っていて、モニターの画面を注視しているグループもあちこち。

心の準備もあらばこそ、ドサクサドタバタのうちに幅の狭く固い(主観では)検査用(正しくは処置用)ベッドに仰向けに寝る。左手を一段高い台に軽く固定し、体全体用と、それとは別に腕に、手首の所だけ穴の空いたゴム引き(のような感じのする)布をかぶせられる。お、いよいよだなと思う間もなく、手首の消毒(イソジンの濃いのを塗る)と部分麻酔(歯医者さんでされる、細い針が最初チクって痛いやつ)。あ、なんだなんだと思った時には、既に作業(手術)は始まっているのだった。何処も痛くはないのだが、腕の肘の内側辺りをゾワゾワと何かがハイ昇っている感じが一瞬。目に入る範囲では、誰も僕の方は見ていなくて、足下の方にあるモニターを見ている気配。そこからの声で指示があるたびに、寝ている僕の胸の周りを自由に動く太い腕木に付いたカメラのようなものが、上下左右にグルグル動き(主観的には飛び)回る。ググっと離れたり、皮膚にくっつかんばかりに近寄ったり。ううむ、あのスターウオーズの宇宙船の治療室は既に現実の物になっているのだな。

そうこうしているうちに、モニターのあたりから「ああっ!」という声。みんな一斉にそちらにゾゾッと寄った感じ。ええっ、いったい何が「ああっ、なの?」。すると、寝ている頭の上の方から看護婦さんの顔がニュウッと出て来て「気分悪くないですか?」と優しく聞いてくる。本当はちょうど軽く吐き気がしてきていたのだけれど「今のところ大丈夫です」と言っておく。深呼吸。この処置室の中で、僕の見たうちでは比較的年配の(多分)お医者さんが頭の方に寄って来て「中から見てみたら、何カ所かだいぶツマッている所があったので、直しておきますよ」とさっきの「ああっ」の説明をしてくれる。「ぜひ、お願いします」。声から察するに、足の方では、なんか悪戦苦闘している感じが伝わる。「先生、ここは!」って、やってる最中に聞くなよな、お願いだから。でも正しい方向でお願いね、聞いても良いから。深呼吸。「アッ、しばらく大きく呼吸しないでいてね」の声。ヒヤーっ、肺が動くとヤバいとこやってるんだ。頑張ってくれよう。できるだけ浅い呼吸するからさ。ドキドキ。あっ、ドキドキしちゃだめなんだ。

再び看護婦さんが現れ「気分大丈夫ですか」と聞いてくる。ふと気がつけば、吐き気はだいぶひどくなって来ていたが「まだダイジョブです」と言ってしまう。看護婦さんはニコッと(マスクをしているので見えないのだが、感じでは)して引き下がって行った。その直後から吐き気は急速に引いて行く。もちろん、点滴に何か薬が増やされたのだろうということは後になって気付くことだが。俺って、ほんとに小心者だからね。呼吸数や血圧にすぐ出るんだろうなあ。バレバレだ。

本人は15分ぐらいだったと思っていたが、本当は1時間弱かかった「カテーテルを使ったステント埋め込み手術」は宵の口に終了した。僕の心臓には、今の所2カ所、ステントという人工血管補強材が付いた。終わって、自分で腰を浮かしてベッドを乗り換え、ベッドに寝たまま処置室から運び出される時に看護婦さんから「娘さん来てますよ、お孫さんも。」と言われて、ううむ、けっこうシリアスな手術だったのだな、ということが実感された。物理的には、左手首にきつく幅広で透明なプラスティックテープが巻かれていてイズイ以外、痛い所はなく、もう立って歩いて移動したいと思う程身体的な負担は感じられないのだった。むしろこれが、この手術の最も難しい所なのだそうだ。身体的に無理がないので軽かったと勘違いし、すぐ無理をしてひどい再発。終わった直後、僕も、大手術をしたという思いはなかった。検査の延長で、ちょっと心臓の手入れをしたという感じだった。でも、何かの時には来てくれる娘が、僕からの連絡はしていないのにそこにいたということが、何か重大なことだったんだという自覚を促した。その日はそのままナースステーションの側の集中治療室に泊まった。右手は自由なので、導尿はされず溲瓶でおしっこをし、結構深く眠れた。これで、僕も少しサイボーグ化したんだなあ。

2009年9月29日  明けるまでは雨。明けて曇、そして晴。


退院してきた。2週間仙台厚生病院循環器外科に入院し、心臓にステントを2カ所入れてもらってきた。再びのギリギリセーフ、幸運まだ残ってたんだね。

前のブログからブランクだった2週間、そういうわけで厚生病院の10階循環器病棟で静かに寝ていた。大体うまくいったけれど、後1ヶ月くらいは無理をしないようにと、僕の執刀医(ものすごく若くみえる)A野先生に言われている。しばらく静かにしていよう。


前のブログを書いた次の日、15日。朝一番で行こうと思っていたのが色々あって、9時過ぎにかかりつけの仙台東脳神経外科に着く。こういう時に限って渋滞の時間にばっちりぶつかったり、故障車が1車線塞いでいたり、何かあるものなのだ。診察券を出した時は既に10時近くで、今日はもう焦らないで、じっくり検査三昧だなと、のんきに構えていた。だが病院の人たちはそうは構えていなかったようで、券を出したら待ってる人たちをほとんどとばしてすぐ診察室に通され、院長のS木先生とお話。この前の専門検査でちょっと嫌な兆候があるので、このまますぐ専門の病院に行って精密な検査をしてもらってください、と言われる。仙台東の場合心臓系はオープン病院に頼むんだけどそこでいいかな?ときかれる。前にも書いたように、あそこの病院は僕にはあんまりいい印象がなかったので、ううむと唸っていると、ああそうか、厚生病院の方が職場に近いから、あっちの方が良いかなとS木先生が話を持っていってくれた。決まるとすぐ電話で確認をし紹介状を書いてくれた。僕は、特に何も言わずただ唸っていただけなのだが、そういうことになった。心臓なら厚生病院でしょうという話は、世間にあまり関心を払わない僕でも聞いていたので、ちょっと安心した。娘や手伝いをお願いしなければいけなくなりそうな友人たちの家にも近いし。

すぐに移動。仙台東のある利府街道をそのまま西進し、一本道だ。とはいえ、病院が調べてくれた所によると、厚生病院の外来受付は月曜火曜の午前11時までだというではないか。僕が利府街道に出たとき時計は既に10時を回っていた。こういう時に慌てて事故るんだよなと言い聞かせつつ、でもまあ急いでいく。もちろんこういう時も幸町のヨーカドーの前は渋滞していた。仙山線の踏切も混んでいた。しかしなぜか、この時は僕が(本当に)何気なく車線を替えるとその車線は突然ヒュッと空く(ような気がした)のだ。思ったより早く、北四の交差点(もちろん混んでいた)を過ぎ、大学病院(ここももちろん大混雑)を過ぎてしまった。おうこれは快調、うまくいけば見てもらえるかなと思った。そうしたら、大学病院前七十七銀行あたりから左車線渋滞。信号などとは関係なく一台ずつノロノロ進む。前の方を伺ってみると、なんとここまで来て厚生病院への入り口が渋滞。火曜日は混んでいて駐車場が満車なのだ。時間は10時半を過ぎている。やっぱり今日は下見だなと、心を切り替える。ジワジワ進み、病院の敷地へと左折する。一台出てきて一台入る。時計が10時45分を過ぎたあたり、僕は今日はすっかり諦めながら、でも入庫まで後2台目に進んでいた。すると本館から少し年取った守衛さんが一人、苦笑いしながら慌てたように駐車場入り口ゲートに駆けて来た。待っている車に謝りながらゲートの機械のふたを開けて何やら操作をしている。ゲートが、出入りに関係なく開いた。僕は一番上の階まで(この駐車場は3階建て)行くように指示された。坂をグルグル回って上まで出てみると、別ルートで来ていた守衛さんが、駐車の枠と関係なく、空いていて邪魔にならない場所に、車を順に詰めていた。指示されて壁際に寄せて止める。僕の一台後で、本当の満車。10時50分。ここで慌てて怪我してもしょうがないので三階から下りる階段の所に普通に歩いていく。僕は普通なら3階は階段を使う。エレベーターのことなんて全く考えになかったのに、僕が階段の降り口に着いたと同時に、その隣に並んであったエレベーターがドンピシャでしたから上がって来て扉がスイッと開いたのだ。一瞬立ち止まりましたね、僕は。扉は開いたまま。乗ったらすぐ扉は閉まり降下。エントランスに入って、外来初診受付窓口を見つけ(大変わかりやすい作りになっていた)「まだ大丈夫ですか?」「もちろん大丈夫ですよ。」と、仙台東からの書類を受付のお姉さんに出した時は、既に10時55分を過ぎていた。慌てたり走ったりは一切していなかったのに〆切り1分前ゴール。

指示されるままに、2階の循環器内科外来に行く。ここからの顛末はまた日を改めようと思うが、検査の結果心筋梗塞だということがわかり、検査の延長で心臓の血管2カ所にステントを埋める手術をおこない、1週間寝て再度カテーテル検査。その結果良好につき、一応今日2週間目退院ということになってこれを書いている。ずうっと真面目に寝ていたので便秘になった。

とはいえ、僕は、なんだかもう少し生きていなければいけないような気がしてきてはいる。

2009年 9月 14日  快晴。空気乾き、秋の雲。


夜の8時を過ぎた。中波のラジオを聴きながら書いている。今日から一週間夏休みだ。


朝二度寝してゆっくり起きる。でも8時にはすっかり起きてしまう。洗濯をしながら、少し前からかえた和風朝食を食べる。ご飯は、白米に五穀雑穀を混ぜた赤飯。昨晩の残り。大きめのお椀一杯のお湯を湧かして削り節をひとつかみ放り込み、煮立つ間にキャベツを少し刻み、味噌を溶かしてみそ汁の出来上がり。納豆としそ巻き。なかなか良いんじゃないの。食べ終えて、洗い物やちょっと掃除なんかしている間に、O林君が来る。彼は、僕の家の設計家。彼に推薦状を書いてあげる約束をしていたのだ。昨日の夜に出来上がっている。最後に本人と一発相談確認をして出来上がりの予定。続いて佐T君も来る。彼はフリーの若い電脳技術者で、ついでに様々なメカのテクニシャン。今回は、僕がしばらく前に改良しようとして完全全バラしてしまい、自分では再組み立てが出来なくなってしまった電動ライフルを組み立て直してもらうのに来てもらった。恥ずかしいが、大好きな銃なので恥をしのぶのだ。背に腹は代えられない。ガレージから2CVを出して作業場にする。彼は彼専用の道具や作業テーブルをもってきて広げ、一気に格好いい簡易工場化する。2階でO林君とO林君の作文。自分の推薦文を書いたり読んだりするのは気恥ずかしいものだが、でも他人はこれをこう見てこう期待しくれているのだということが自覚できて、僕の経験では、少し世界が変わる。一階では、電動ガンの改良組み立て。



なんだか嬉しいなあ、天気快晴だし。理想的な休みの始まりかただ。昼にはカミサンも一緒に、田舎料理のいつもの食堂にランチを食いにいき、食後お茶を飲みながらみんなでオートバイの話をして心豊かに帰宅。


家に戻ってからO林君は所用で帰る。その後、かかりつけの仙台東脳神経外科病院の看護婦さんから電話。この前の検査で心臓に異常が見つかったので、次の予約は木曜だが、出来るだけ急いで再診に来て欲しいという内容。一気に暗転、いやはや。当然、明日一番で行くと返事。主治医の鈴木先生から話を聞き、紹介状をもらってオープン病院に行くことになりそうだ。オープン病院は大学の時の担任だった佐藤多都夫先生が亡くなった時にいた病院だなあ、というのが最初に頭に浮かんだ。僕も彼の手術のために、あの病院で成分献血をした。もうここまで来たら、どんどん調べてもらって、早くなおしてしまおう。お相撲も始まったことだし。

2009年 9月 12日 曇り。時々雨。薄ら寒い。


今日は仙台ジャズフェスの日だ。美術館でもタイアップステージがある。今年はブラジルのサンバの人たちが来ることになっている。でも、昨日の午後から僕は横浜にいた。この催しが話題に昇るずっと前、横浜の日吉にある幼稚園から、お話をしに来てくれませんかと頼まれていたのだ。春前だった。その日が9月の第2週だということはほとんど気にせず、僕は「いいですよ」といってしまったのだ。頼んで来たひとは僕より少し年上の女性で、様々お世話になった人だった。今はそこの園長だ。もちろん様々考えたが、僕はそっちに行ことにした。美術館はこっちのスタッフでやれる分だけで大丈夫だと判断した。


新幹線に乗るのはしばらくぶりだ。ずうっと外を見て行こうなんて思っていたのに、寝てしまった。今日帰ってくる時も寝てしまった。しかも、記憶が切れている。熟睡。爆睡。新幹線かどうか関係なく、電車の中で記憶が切れるくらい寝ちゃったのは人生の中で初めてではないかなあ。横浜でのお話はけっこう快調快適だったから、いくらか影響はあったとしても、その活動の疲れで寝たとは、思わない。何となく疲れがたまっている感じ。いい機会だったのだろう、居眠りに。


ホームページの表紙にも書いたが、「おとうさんのひとりごと」の再版ができてくる。まだ手元に届いていないので正確にはわからないのだが、ほとんど最初に作ったのと同じ体裁のはずだ。ただ多分、表紙が前より少し良い紙になっているはずで、新たに脳内出血以来の顛末を4ページ程加えた。写真も一部21世紀版になっている。


初めての時は様々どさくさで、本を出すということがよくわかっていなかったこともあり、出版元をM野君ちの「火星の庭」にお願いしだいぶ迷惑をかけてしまった。で、今回は、霧生舎 kiriu_sha@bookshelf.cc というアドレアスを立ち上げ、そこで扱うことにした。霧生舎はこの後、僕や娘の作品など、齋家関係の様々なグッズを扱う窓口になるのかな。なるといいな。


本は9月17日に届くことになっている。本が欲しい人は、このアドレスに連絡をください。折り返し送料等を含めてどうすればいいかのか、こちらから連絡します。 

2009年 9月 8日  夏の終わりの、秋のような日。乾いた暑い昼。

交差点に立っている。道幅は適当に広く見とうしはいい。信号は赤。車は見える範囲両方向ともいない。あなたは待つ人?それとも渡る人?青だったらどうだろう?

僕は渡る。赤か青かはその時の状況のバリエーションの一つにすぎない。結局どんな状況であろうとも、様々なことを考えて、決心して渡る。たとえば回りに人がいたら?、その人が小さい人だったら?お巡りさんがいたら?と、シュチュエーションの例はいくらでも考えられる。昔見たアメリカ漫画ウッドペッカーの砂漠の真ん中の交差点での出来ごと(左右をよく見た時は何もいないのに、渡ろうと一歩踏み出すとすごい勢いで車が通り過ぎる)も僕は知っている。そしてああいうことも本当にあるのだろうと思っている。その上でしかし渡る。出来るだけ、行動の基本は自分で決めたい。様々な状況への対応も、自分で決められるようにしておきたい。お巡りさんがいたら、多分、僕は渡らない。説明するの面倒だもの。というように、その様々な状況に対する余裕のようなものを持てるようにしておきたい。たとえその決定でその先うまくいかなかったとしても余裕が持てるように。


前にも書いたが、僕は一人でエレベーターにのった時、普通は扉締めボタンを押さない。押さなければ、コンデンサーが働いてある一定の時間が過ぎて、最も少ない電力で扉は動く。ボタンを押すとスイッチが入って、ドアを動かすための強い電力が働き、力強く素早くドアは閉まる。この話を教えてくれた人は、だから省エネを言う人は締めるを押さないのだ、と続けた。僕は省エネのために押さないのではない。締めるを押さないと、なんだか変に緊張するみたいな時間が過ぎるのが好きなのだ。誰か来るだろうか?事件が起こらないだろうか?扉が開きっぱなしにならないだろうか?そして電気は?時間が意識的な無意識に変わっていくのを見るのが面白いので押さないのだと思う。ほぼ同じ感覚で、僕は交差点を渡る。


何だろう、こういう所にこそ、美術の考えは効いてくるのではないか。様々細々決めて、それにそって効率よく安全に動くことより、大きくは目標を見つけておいて、あとは出来るだけ、その場所での自分の気持ちよさのようなもので決めて進む生活。そういう状況でこそ、その人の正直真剣さが問われる。その時にいかにヘソを曲げていられるかも、問われる。一見曖昧で不確実で不誠実のように見えるかもしれないが、僕には、最も、その人の誠実さが見えるように思う。隅々までキチンと決めて、全員で安心して効率よくしておきたがる先生たちと、半日打ち合わせをして、そこまでしておかないと、みんなそんなに不誠実なのかよと、ほとほとうんざりしつつ、ウッドペッカーの赤信号のことを考えていた。


2009年 9月 4日  晴れもあった曇。強い雨一時。


久しぶりに自由に使える休みの一日。朝ゆっくり起きて、豆を挽いて珈琲を入れ、洗濯機を回しつつ、キュウリサンドイッチをよくかんで食べる。着替えて自分の寝室の机の上をかたずける。読み終えて古本屋に持っていく本を選り分けながら整理整頓していったら、思わぬものが出てきた。だいぶ前に、大きすぎて手に余ってきたので友人に譲った、ツーリング用バイクの取扱説明書とパーツリストなどの小冊子。それよりもっと前、これまた別の古くからの、今は田尻に店を持つ友人に譲った、イタリア製オフロードバイクの、古いカタログとメインテナンスマニュアルや自分で作った配線図などの書類のまとめ。二つとも、きちんとプラスティックの袋に入れて、だれそれ君に持っていくこととマジックで書いてあった。その後、それらはこの机の上に置かれたまま、先に進まずそこにいた。何ということだろう。すぐに、両方ともしばらくご無沙汰の友人に電話を入れる。二人ともすぐ電話に出て話をする。二人とも、まだそのバイクを持っていてくれた。一人は田尻町に店がある。ちょっと遠い。9月中旬、僕の夏休みに入ってから訪ねる約束をする。もう一人のO川君は遠刈田に住んでいる。しかも彼は今日僕と同じに休日で家にいると言う。何かやることがあったような気もしたが、ま、いいかと午後出かける約束をする。まとめた本をブックオフに持っていき、帰りにニトリによって本箱を見る。結局自分で作った方がいいなというあたりに落ち着く。家で、カミサんと一緒におにぎりの昼飯を食べ、昼ちょうどカングーで出かける。

O川君は遠刈田の別荘地に住んでいる。別荘地は、道路が直交していなくて、何回行っても結局自分がどこにいるのかわからなくなり、今回も最終的に携帯電話を使ってしまう。今回は電話したその先を曲がったところが彼の家だった。電話でなくても声が届くくらいのところ。残念。歓迎されて、彼のカミサンも一緒に、持っていったハーブティーを飲みながら様々話をする。意識的なライフスタイルを持って生活している人たちとお話をするのは楽しい。自分の中の、様々なところが生き生きしてくる。彼らには二人の男の子がいて、もう小さくなって使えなくなった子供用BMXをkeenow用に一台譲ってもらう。まだ内緒だが嬉しい。同じ別荘地に住む、共通の美術家の友人の家に寄りながら帰ろうということになって行ってみるが不在。彼の家は、その別荘地の一番はずれの突き当たりだったのだが、再び一人で行くのは無理だなというくらいくねくね道路の奥だった。彼はカッパービーター(鍛金家)なので、回りに人気の無いところでないと、うるさいと苦情が来て作業ができないのだ。家に帰ろうかとも思ったが、このあたりまで来たのはしばらくぶりだったので、近くに住む幾人かの友人に顔を出していこうと蔵王の方へ。蔵王七日が原の熊Z家の革細工の店は今日は休み。残念。

少し戻って青根のチェンンバロ作り、K村さんちへ。林道の一番奥にあるK村さんちの駐車スペースに着くと、家の方からリコーダーの音色が響いてきた。ああ練習中だな、邪魔しないように帰ろうと、ギアをバックに入れたら、縁側のガラス戸が開いて木村さんが「齋さあん、面白いコトしてるから寄っていって」と手招きしている。いや申し訳ないと思いつつ、家に入ると、これが、いやはや大変なことになっていた。チェンバロの名人と、リコーダーをうまく吹く少年と、バロックバイオリンの男子学生とビオラダガンバを良くする女子学生の人がいて、演奏していたのだ。ただそれが、木村さん秘蔵のバロックの楽譜から面白そうなの選んで、みんな初見でアンサンブルしているという状態。演奏している人達自体がすごく乗って楽しんで演奏しているのが、聞いているこっちにジンジン伝わってくる音楽。絵に描いたような、音、楽しみ。窓から緑の木々を見ながら、こういう音を聞いていると自然に涙が出て来る。ちょっと間違って止まってここからもう一回というのも含めていつまで聞いていても嬉しい音楽。最近なかなかストレスフルな毎日で、少しヘバリ気味だったけれど、こういう休日がこういう風に終わるのは、何とも嬉しい。帰って来てカミサンの作ったうどんを食って、早く寝ようと思ったけれど、もう10時だ。