8月21日 夏の一日。今年は蝉が一晩中鳴いている。腹を冷やさない工夫がいる。

8月18日からが、僕の今年の夏休みだ。休みとはいえ、既にいくつか予定は入っていて、毎日が既に何か心忙しい。このブログも、いったいいつ更新したんだったか、、、。ま、そういうことは気にしないで、書こう。一応、今日から、何もしないでいられる時間が手に入った。今日は、気になっていた今年の大学での美術の授業のまとめ、第2回。

 7月の半ば?に、この授業の始まりのあたりを報告した。今回は、最初のナイフを使う様々な作業を終了したあたりから始まる。これまでと同じように、何か決められたフォームで絵を描かされたり、子供をだます工作のやり方を無理矢理やらされると思っていたのとはどうも違うようだぞと気づき始めた学生は、いよいようまい絵を描く練習が始まると聞いて、絵を描くのが好きな人も、嫌いな人も、様々に緊張している。
第4回目 塗りつぶしと、写し絵。
 各自にB5のコピー用紙を渡す。芯を出した好きな鉛筆(今回は折らないから、ほんとに好きなやつもってきて大丈夫だよ、とことわった)を用意し、紙の中央に、一辺が自分の人差し指ほどの長さの四角形を描く。確認する。なぜ確認がいるかというと、ここまでですでに様々な動揺と混乱が起きるからだ。これだけの指示に、自分で決めなければいけないことが結構たくさん含まれている。「人差し指の長さって、何センチですか?」「四角って何ですか」「紙の中央ってどこのことですか」。基本的に、このような指示は、彼らにとっては曖昧な指示なのだ。自分で決めなさい。私に「ここが中央なんだな」と聞かれたときに「はいここです」と言えば良いんだよ。言えるところがあなたの中央。決められない人は、周りの人を見て「適当に」考える。紙の中央に、自分の人差し指の長さが一辺の四角形を描くだけだ。描いたね。さてでは、まず、上手な絵を描く練習、初めの課題。
 課題1「四角の中央に小さい丸を描いて、塗りつぶす。」
 小さい丸は、もう、混乱無く描けるようになってきた。むしろ、わざとみんなと違うような大きさで描く人も出てくる。それを塗りつぶす。小さい丸なので、みんな真っ黒に塗りつぶす。ただ、今年度は、この段階で、すごく小さい丸の中を極ざっとまだらに塗って終了という人がいて、僕に、「これが塗りつぶすか?」と聞かれて、周りを見て、描き足す人が何人かでた。鉛筆で、小さく真っ黒に塗ること自体が初めてだったのだろうか。全員が、真っ黒に鉛色に光った丸を描いたのを確認した上で、
 課題2「では、その周りも同じ様に全部塗りつぶしなさい。つまり、塗りつぶした四角を作る。」
 もうあまり動揺は起こらない。全員、黙々と、または盛んに私語を交わしつつ始まる。しかし、暫くするとほとんど私語はなくなり鉛筆の紙をこする音だけになる。紙が黒鉛の黒で波打つようになるほど塗りつぶした人が四分の一ほどになった時点でいっぺん作業を中止し、各自にコピー用紙と同じ大きさのトレーシングペーパーを配る。
 課題3「トレーシングペーパーを通して見える下の塗りつぶした形を見えるとおりに写す。写すときはマッキーの極細を使うこと。」
 大混乱が起こる。1,全員一緒でなく進むこと。2,塗りつぶしたのだから何も見えないのに、何を写せというのか。
 絵を描くというような美術の表現実践は、ものすごく個人差がある作業なので、みんなが同じ時間で一斉に同じことをするなどということはそもそもできないことなのだ。前のナイフを使う授業でも話したはずだが、課題で、作って提出を求められるものは、今期の全授業終了時までに提出すればよい。完成作品の上手下手は、本当に問わない。ただ、あなたが、僕の出した課題を、確実に終えたと思うまでやること。ただそれも決めるのはあなたで、嘘ついてもわかるのはあなただけだ、ということも指示には含まれている。
 だから、課題だけは確実に聴かなければいけないが(メモしておけばいいし、わかんなくなったら、僕に聞けばいい。そのために、僕は毎週出てきている)みんなに遅れることは、この授業ではそんなに悪いことではない。むしろ、他の人の成果を見ながら、自分の作業を更新できる方が上手いやり方だ。あわてないで、各自確実に塗りつぶしなさい。
 さて、塗りつぶし終わったと思った人は次の作業に進む。塗りつぶしたのだから何も見えないはずだ。その通り。でも私の指示は、見えるとおりに写せ。塗りつぶした四角を見えるとおりに見る。まず色が違うので四角形の周りが見える。ギザギザ、まっ直ぐ、ちょっと曲がって、ほら様々に見える。周りの線が見えたら、四角の中にも、様々なものが見えてこないだろうか。線の濃淡、それによって起こる面の濃淡、光によって起こる様々な状況、折れ目、ここまでやっても塗り残っている小さい部分、それらを、素直に見えるとおりマジックで写し取っていく。一つ、一本、見え始めれば様々な形が見えてくる。形が見えてくると言うことは、それが連なって何かが見えているのだ。そこが「そうなっているはずだ、だからこう見えるはず」で見るのではなく、そこにあることを見えるとおりに見る。描いてしまうことによって確認し、確認することによって新たに見えてくるものを描く。何かを思いきって変えないと見えない世界。でも、それを変えてしまえば広がる別世界。見えるだけ思う存分線で描く。もう何も見えなくなるまで描く。
 課題4「下の塗りつぶしをはずし、写した線描を基にマッキーを使って色を付ける。最低でも3色以上の色を使い、塗るよりどころは、「格好良く」。」
 塗りつぶしを写した線画は、ほとんど抽象画のようになり、かつあたりまえだが全員違ったものになる。下に置いてあった初めの塗りつぶしをはずすと、その画面はより強く抽象形化する。そこに見える形を基にして(ということは、線と関係ない所を使っても良いと言うことだ)、着色する。各自が「格好良い」と思うように(こういう色合いの服なら買う、または決して買わない)色を塗る。もう塗れなくなるまで塗る。しかし、マッキーというマジックインクを使うため、ほぼ一回しか色はつけられない。マッキーを使う理由は、思い切って、しかし一回きりで、色や形を書き込んでいかざるをえなくするためだ。自分で決めて、それを肯定的に納得しつつ仕事を進める。この作業は、ほとんどの人が時間中に終了しないことが多いが、今年は比較的時間内に、または少し授業後粘って、僕がいる間に提出する人が目立った。手際よく精神を集中してそうなったと言うよりは、呆然と、問題を深く追求する前にするりと逃げたという感じの方が強く感じられた。
 準備「次の時間も同じ用意。ただし、鉛筆は使わない、マッキーだけ持ってきなさい。」
第5回目 写し絵、実践。
 前の回の活動を通して、私たちは、見ていると思っていたことが、実際には何を見ていたのだったかについて練習した。見えているものを見えるように見ることは、意識的に自分の見ていると思っている脳みそをコントロールできないと、見ていると思っているものを見えていると思いこんで見ることになってしまう。塗りつぶしから形を見つけた私たちは、いよいよ具体的なものに向かう。
 各自に、証明書用に撮った、ベージュの壁の前に立つ私の腰から上の写真を、B5に拡大したカラーコピーを渡す。同時に同じ大きさのトレーシングペーパーも配る。
 課題1「私の写真の写し絵をしなさい。ただし、トレーシングペーパーの下に見えるものすべてを見えるとうり全部写すつもりで描くこと。」
 前回塗りつぶしを写す活動をしているので、今回は、簡単だ。見えるもの=色の境目をてきぱきと写していく。全員ある程度形が見えてきたなというあたりで、色の境目を描いていることを指摘し意識する。その上で、色の境目は、同じ色だと思って見ている、顔の中や、服の色、背景の中にもあることを話し、今回は見えるものをすべて写すんだったことを確認する。直ぐ気付く人と、暫くかかる人がでる。普段よく見ている(と思っている)ものなので、かえって、切り替えがむずかしいのかもしれない。線だけでなぞっていくと、見えている(と思っている)ものとかけ離れていくのも、関係があるかもしれない。意識できる色の違いをできるだけ細かく線で確定していく。少なくともほとんどの人が顔を描き終えたあたりで、次の指示。
 課題2「下の写真を左右好きな方に約15度傾け、そのまま見えるとおり写し続けなさい。
 要するに、それまで描いていたものと関係なく、絵を少し傾けて、見えるとおり描き(写し)続けなさい、という指示。直ぐできる人と、強い抵抗を表す人と、様々だが、こんな機会でもないとできない体験だから、やってみよう。授業でする作業は、授業でないとできない体験でもある。前にも書いたが、これを入れないと、絵を描く作業は運動神経の差となって現れてしまう。途中で、思わぬ変化を与えることによって、普通に上手い下手が判断できない状態のまま作業は続く。
 課題3「線描は、塗りつぶしの時と同様に、描かれた線を基に3色以上のカラーマッキーによって「格好良く」彩色して提出。」
 ここまでやった上で、美術館に行って、「美術探検」(10歳以上の人に対する鑑賞)と「美術館探検」(10歳以下の人に対する鑑賞)を経験する。又長くなってきた。今回はまずここまで。授業も、ここまでが第1クールで、基礎的な概念の点検。次からはそれを使って様々な体験をしてみる。
 
 

7月31日 夏の太陽なのに、空気は寒い。その上、エアコンが効いている。

  いま、iBookシェルで書き始めたのだが、この前、何をアップしたかをすっかり忘れていて、さしあたり、新たに書きたいことをまとめよう。美術の授業2は、時間ができ次第報告を続けるつもりだ。

 ブログを更新していない間に、もちろんあたりまえだが、書ききれないほどいろいろなことが身の回りに起こった。六月一杯で、僕のいる美術館の中に開館以来あったブックショップが閉店した。ブックショップだったので、最終的に様々な本が残る。本は再販制があるので版元に返せるのだが、返す前に一応点検しますかと言われて見てみたら、いやはや、残っていた(売れなかった)本の中に僕の好みの本が相当数入っていた。こういうふうに自分の読みたい本がそろって書棚にある本屋は、この後そうそう存在しないだろうから、本当は全部引き取りたかったが、残念、今はそういう環境にいないので、その中から何冊かだけ購入した。

 

買った本の中に、若い頃の片岡義男が書いたサーフィンを巡るエッセイ集があって、普通なら遊びに分類される活動を、ライフスタイルにすることについての文を、しばらくぶりに読んだ。三十代から四十代にかけて僕は熱心にこの手の文を読んでいた。強い共感を持って読んでいた。今、僕は、そういうライフスタイルを持っているか?若い片岡義男がいう、(サーフィンはどうも特別なような気も強くするが)ライフスタイルとしての遊び、又は、遊びのようなライフスタイルは、僕にとっては美術なのだろうか?美術作品制作なのだろうか?いや、それとも子供との活動なのだろうか?僕は、もう今から波乗りをやってみようとは思わない。でも、話には今でも深い共感と納得を感じる。僕にとってのライフスタイルとしてのサーフィンは、なんだったのだろう。それとも、サーフィンをライフスタイルにするという考え方の点検(あんたは大丈夫なのね、というような)を僕はするべきなのかもしれないとか考えて、何だか妙に焦った。これをきっかけに、何冊か昔読んで取っておいてある本を読み返した。丸山健二とか司馬遼太郎とか、様々なアクションミステリー系の作家とか。
 で、今のところ結論は、「違う、焦ったのではない」。脳が活性化した、ということだ、に落ちついている。なにしろ、脳内出血以来、僕の体は、あのころとまったく違う仕組みと方法で動いている。
 15年ほど前、一緒にモーターサイクルのならしにつき合ったり、僕に影響されて彼女が買ったシトロエン2CVを乗り回したりした、若い女の友だち(今は二人の女の子のお母さんになっていた)から、新たに手に入れた2CVの修理を巡るツーリングに誘われた。しばらくぶりで会った彼女の第一声は「齋さん、肉食ってる?」だった。瞬間、何だか動揺してしどろもどろの答になってしまった。僕は、基本的にミートイーターでありたいと未だに思っているのだなあ。こういうときに、本当の体の尻尾がちらりとでてくる。なんか要するに、彼女が知っているちょっと前の私と比べて、なんか、今の齋さんは、脂ぎって光っていないと言うことのようだった。昔の俺はそういうふうに見えていたのか。そうだなあ、豚カツ大好きで、ハンバーガーはダブルでって言う人だったものなあ。子供との活動の合間に、チョコレートとコカコーラで、糖分補給して、一日3回、同じ活動をやるの2日間連続とかやってたものなあ。その結果が、2003年の脳みそ大爆発だった。
 冷静に振り返れば、今、僕は、ほとんど、ヴェジタリアンだ。時々、肉や卵のかけらや、思い立って、意識的に白米に美味しい取れたて卵かけご飯なんか食べてしまうが、普通は、玄米飯に、野菜たくさんのみそ汁に、温野菜と納豆なんて食事になっている。何も困ることは、今のところ起こっていない。何が替わっただろう。「ま、いいか」とささやくことが多くなった。明らかに、実際にするセックスに対する興味は減った。初めから競争について考えない。一人一人とか、バラバラとかの方が落ちつく。仕事や活動のスピードが知らないうちにゆっくりになっている。体を敏感に動かすために、ジョギングや水泳をしたりするよりは、通勤を徒歩に変える方を選ぶ。今述べたうちの幾つかは、前からの僕の資質のような部分もあるが、そういうことを意識せずにするようになった。でも、遊びをライフスタイルにすることについては、今のように生活が変わってもなんの問題もおこらない。焦ったってしょうがないぜ、というあたりが、そういうライフスタイルを実際にするときの大切なところではないか。
 ここのところ、イスラムを生活の中心に置いて生活している人たちの考え方や実際の生活についてを述べたエッセイを様々読んでいるのだが、生活の中に、宗教が深く関係していると言うことは、その人自身が、常に自分を自覚せざるを得ないと言うことでもあって、自分を気にするということは、他人を気にするということに深くつながっていく。小さい人たちとの活動をしているとき、子供の目線でとか軽く言う人がいるが、年齢に関係なく相手の目線を考えれば、様々な問題に、新たな展開が広がると思うことが多い。 
 先生達との研修会で段ボールを使った、具体的な教育実践の活動を、リクエストがあって行った。やる気のあふれる先生達で、何か学校ではできないモノをという意気込みで始まった。ようしそれではと、学校では、けっして出ないような課題を出してみたのだけれど、始まると、教科書にある方法と、方向で終始してしまう。常識の中で聞くと、せっかく常識を越えようと出された非常識な課題も、常識の中で閉じる。常識を越えるための思いつき/踏みだしは、できるだけ広く大きい常識的な知識の集合の中にのみ、実はある(上野千鶴子の指摘)ってこういうことだったのか。どうしてもうまく言葉では伝えきれなくて、最後に、手を出してしまう。それだって、僕のオリジナルではなくて、デビット・ナッシュをていねいに見ていれば気が付くまね。あれがこれにつながるということに気付くためには、何か練習がいるのだろう。それを考えるのが私の仕事か。
というような毎日を送っていると、どうも、電脳の時間の進み方と離れていてしまって、何回も書いているように、更新の優先順位は後回しになっていくのだ。