いただきます、と言う感じの

英語はない。

同様に、兄さん姉さんに合う

英語もない。

僕が知らないだけだと良いが。

2022年7月27日

からりとしない熱い空気。風もない。

僕の父親は、最後、アルツハイマーだと診断されて、施設にいれてもらい、最終的には膀胱癌で亡くなった。ちなみに、アルツハイマーの時は、介護保険で施設に入っていたが、そこで、癌が見つかると、それは介護ではなくなるので、老人ホームにはいられなくなり、健康保険で病院に入院することになる。もちろんその変更の手続きは、場所を見つけることも含め、大変だ。

僕自身は、最後まで彼と仲良しだと思っていたし、張り切りも衒いもなく、良い息子だと思っていた/る。でも、今になって思い返せば、今の僕の毎日(前にも書いたとうり、若い人たちに丁寧に説明されても、何か根本的な所の言葉の意味の誤差を修正しきれずに、彼らが何をどうしたいのかをわかりきれない思いが吹っ切れない、等)は、あの頃の彼の毎日とそんなに変わりない様に思えてくる。ということは、あの頃施設に入れられてしまった彼は、今の僕とそんなに変わりない状態で、アルツハイマーだと診断され、自分の家から特別擁護老人ホームに移されてしまったのではなかろうか?


僕の父親は、自分のかみさん(僕の母親)が、ある日突然死んで(僕を含め、彼女の遺伝子系は内臓血管系が全体的に脆弱なのだ)しまい、その後どうするかをよく考える間もなく、近くに住んでいたとはいえ、まったく生活スタイルの異なる息子家族がテキパキとその後の生活を取りまとめ/しきり、彼らと一緒に住むことになった。その息子は、(多分彼らが一生懸命育てた人間なのだから、そんなに)悪い奴ではなかったのだろうが、彼が、(何しろ終戦直後だから、文字通り)汗水垂らして建て、長年かかって、自分が組み立てた生活をして暮らしてきた家屋を、その「悪気なく乗り込んできた」息子家族がすっかり壊して改造してしまい、いやはやなんとも、様々大変な、毎日になってしまった。


それまで、床の間縁側付き2階建日本家屋で、畳に布団で暮らしていたのが、ある日から突然、木造2階建は変わらなくても、畳の部屋はなくなり全室木張り床。一応仏壇と神棚はあるが、建築構造上、それらは北向きになった。1階の半分はガレージが占めており、古いフランスの小さい車用。空いている所は所構わず天井まで本棚。彼の家だった頃は、建増しのプレハブ物置が2棟もあったのに、今度の家の収納スペースは見える様にできる所と物だけ。布団と押入れはなくなって各自ベッド。朝食ではなくブレックファスト。カンパーニュかバケットにカフェオレとヨーグルト。お茶でなく、自分で淹れる珈琲。ということを、何の点検もせずに、僕は持ち込んだ。心から、良かれと思って。又は、何も考えずに。


そうして彼は、施設で、アルツハイマーと診断された、老後を送り、病院で死んだ。


このブログの前2回分は、僕の電脳の画面上にあったひとつの文章の、1回目と2回目だ。最初に書いた文を修正せずにあげてしまっていたことを忘れていたのだ。初めに書いて、これでは、言いたいことが何も書いてないなと思って止めていた(と思っていた)。その後、違う人から相談があったり質問があったりして、自分でも、言いたいことがある程度わかったので、その修正を追加した。なぜかその両方が公開されてしまった。

そしてわかったことが、今回の文章だ。わかればわかるほど、知らないことは広がる。


今月は、もう何も予定がなくなったので、ふと思いついて、前にお知らせが来ていた木工芸家の友人の展示会を見に、仙山線で山形市七日町の画廊に出かけた。帰りは、駅弁を食いながら山形新幹線で福島まで出て、最近やっと全線が繋がった阿武隈急行で柳川を経て槻木、東北線で岩沼へ。10時に出かけて17時過ぎに帰宅。夏の深い森の中を駆け抜け、すり抜ける電車に、ずうっと乗っていた様な不思議な感じ。











 これを担いで

走れというのか。

それだけでも、

戦争なんてできない。

2022年7月25日

蒸し暑い曇天。僕の家にも、クーラーというものがある。ほとんどの電力は太陽光発電だが。

ふと我に帰ると、今月7月10日は僕の71歳の誕生日で、70歳を過ぎてからの、自覚される体力の落ち込みはひどいものだ。と言いながら、頻繁に仙台市内の児童館で、異なる子供たちと結構な数の活動をしたりしている。こんな日々が、ここ数ヶ月続いている。このブログの更新の回数が減っているときは、へたばって、それどころではない、ということだ。


昔の様には体が動かないとはいえ、活動を頼まれると、体とは関係なく行動が始まって、仕事のための動きは1日1個と決めているのに、その準備を始めてしまう。僕の準備はワークショップのための準備なので、始まるとすぐに広がっていって困る?。


特に教育を伴うWSは、参加する人たちにその主体が(意識的に)やる側に移るので、ファシリテイトする方の準備の範囲が大幅に広がる。活動場所の下見を、こちらがやる予定の少し外側まで(たとえ教室の様な場所でも)意識できる程度にする。

児童館だと、ある程度早めに出かけ、遠周りをして、周りの、子供達が入ってくるルートでたどり着いてみる。最近の小さい人たちは、僕の頃とは大分に違った毎日を送っている様だが、霊長類人間の幼体としては、基本的な興味や見たいものはそれほど変わってはいない様だ(と思いたい)。なので、近くのコンビニとかお寺とか神社とか脇道とかを回りながら、舘のある地域のその日の状況を楽しんでおく。活動場所に着いたら、しばらく外でぶらぶらし、その日のその地域(=場所)の環境を観察する。もちろん本当の様にはできないのだが、できるだけ意識的に、初めてそこに来て遊ぶことになった、子供の様に観察する。


僕はWSのファシリテーターなので、やることと、その目標(何を、なぜするのか)は既に決まっている。ということを、そこで、その状況で、今日、行うのだ。活動の実践は、実はまだ何も決まっていない。そこでその状況でさて何をしようかなと、実際が始まる。

僕が職員集合時間の1時間も前に来て、児童館の外のベンチでコンビニのコーヒーを飲みながら、ボヤッと園庭を見ているときは、僕の内側では、そういうことがめまぐるしく動いて/働いている。今、説明してみて、僕も驚いた。でも、普通のWSでは、まったく普通のことなのだ。ここまで入れてワークショップ。だから、多分、やる方も、面白い。

美術館で働いていたときは、美術館がフィールドで、ここに述べたことは毎日の仕事の中に入っていた。美術館の外に出て、初めて、今書いた様なことが意識できるようになった。様々な所に書いた文章には、同じことが書いてはあるが、具体的にはこういうことだったのだ。


今回の依頼は、近くの公園探検で、僕の美術館探検を知っている人たち(今は大人)が、今の子供達といつも使っている公園をどの様に見直せるかが基本にある様だ。企画そのものが、誰のどの辺に、どの様に、どちらを向いてあるのかは、最近は様々聞いても(多分僕には)良くわからないことが多い。最近の日本社会の思考方法と方向に、僕は、もうついていけなくなっている様に思える。さて、公園探検は、そんなに長い活動時間でもなく、準備で潜り込める所も限られていたので、それなりに進行した。


というより、この活動の下調べで、最近はとんとご無沙汰の幾つかの博物館に出かけた。自分のために使う博物館と、より広範囲の人たちを対象に見る/考える博物館とでは、様々気になる、違ったことが見えてくる。そのために、「博物館教育」は特別なジャンンルとしてそこにある。

博物館で研究されていることは、その総合として、今、私たちが生きているこの社会を、個人が深く広く理解するためにある。だから、基礎教育があるのと同じに、そこで見るー知ることができるのは、「新たな情報」ではなく、その時点でその個人が知っていることの「新たな組み直し」なのだと思う。美術(館)を含めて。

新たな情報に興味を持つことは否定されるわけではないが、だとしても、それらの基本にあるのは、そこにいる個人なわけで、「はい黙って、こっちを向き/聞きなさい」と言う情報伝達ではない様に思う。ううむ、できるだけ、正しく、その状況を伝えようとすると、なかなか本題に入れない。


思い切ってまとめて言ってしまえば、博物館教育で大切なのは、そこでの最新成果を来館者に伝えること(だけ)ではない。そこでのその研究成果が、いかに各自の生活の基礎に深く関わっているかを「自覚させること」だ。だから学校教育と同じに、まず、そこにいる参加者が何歳で、どの様な生活の基礎の上に生きているかを、できるだけ読み取ることが、最初で最大に大切なことの様に思う。そしてそのために展示品「だけでなく」、その博物館が持っている「すべてを使って」、そこにいるその人(たち)に、そこにいるその生活が、いかにして組み立てられてきたのかを各自にじんわりと自覚させる。この辺りが博物館教育でもっとも気を付け、点検されるべきところなのではないか。

自覚の状態は各自にしかわからないのだから、そこだけを気にしていては話は進まないし、終着点も、もう考えられないほど拡大していく。


なんとなく気付いた人はいるだろうか?今回僕が出かけたのは、地元の郷土資料館。典型的な文科系博物館だ。基本的な土地建物は、昔の歩兵連隊宿舎で、地元の小学生は「低学年」の時に全員クラスで、訪れるところ。昔が、3日前という自覚の人たちに、70年前の戦争や、その周りの生活をどの様にして伝えようというのか?

もちろん兵舎の展示物=寝台の毛布や銃架の鉄砲は、触ってはダメ。物がわかる=物を舐めるが、やっと終わったばかりの年齢の人たちに、最も伝えたいものに触ってはダメから始まるこの物の伝え方は、未だになんの点検もされていない。そもそも何を伝えたいのかを明快にし、ダメなら、そのためにはどうすればいいのかを考えるのが、博物館教育係の仕事ではなかったか? という様なことを、1990年代に口角泡を飛ばして話し合っていたのは、どこに行ってしまったのだろう。

展示解説とは、研究成果をそこに来ている人たちにうまく伝えることだ。博物館ではそこの展示物を見るという仕事しかない。くる人は、広範囲にみんな違う。図工だけで、視覚表現を勉強している人たちに、美術を理解?は、可能か? 10年前の震災ですら、如何に伝えるか悩んでいるのに。という様なことが、博物学や民俗学では、何がどの様になってここまで来ているのだろう。ということさえ、話し合ったことさえない様な展示と方法。

僕も、意識してみたのは、イギリスとアメリカの戦争博物館だけだが、もう少し真剣な考え方がそろそろ示されないと、最近の国際状況を見ていると心配になる。戦争に反対/賛成ではなく、対峙するということは、何をどうすることなのかを子供達自らが心から思わないと、、。

どちらかに与するのではなく、それを見た人たちが自ら具体に思いを馳せ、自ら(その時点で構わないから)自主的に考える。それが、民主主義の博物館の仕事ではなかったか。いやはや息が上がる。


民俗郷土資料館と併設されている兵舎は、一体何の、どこが、郷土、民俗、資料なのかを深く広く僕に問いかけた。











よく考えると

日本は変な国だ。

金箔を貼った背景に

なんの不思議も

思わない。


2022年7月10日

熱く乾いた空気。僕は好きだ。

ふと我に帰ると、今日は71歳の誕生日で、70歳を過ぎてからの自覚される体力の落ち込みはひどいものだ。と言いながら、昨日は、仙台市内のT児童館で、午前午後の2回、異なる子供たちと同じ活動をしたりしている。こんな日々が、ここ数ヶ月続いている。このブログの更新の回数が減っているときは、へたばって、それどころではないのだ、ということが多くなっている。

とはいえ、活動を頼まれると、体とは関係なく行動が始まって、動きは1日1個と決めているのにその準備を始めてしまう。僕の準備はワークショップのための準備なので、始まるとだんだん広がっていって困る?。今回の依頼は、近くの公園探検で、僕の美術館探検を知っている人たち(今は大人)が、今の子供達といつも使っている公園をどの様に見直せるかが基本にある様だ。企画そのものが、誰のどの辺に、どの様に、どちらを向いてあるのかは、最近は様々聞いても(多分僕には)良くわからないことが多い。最近の日本社会の思考方法と方向に、僕は、もうついていけなくなっている様に思える。さて、


この様な活動の下調べで、最近はとんとご無沙汰の幾つかの博物館に出かけた。自分のために使う博物館と、より広範囲の人たちを対象に見る/考える博物館とでは、様々気になる、違ったことが見えてくる。そのために、博物館教育は特別なジャンンルとしてそこにある。

博物館で研究されていることは、その総合として、今、私たちが生きているこの社会を、個人が深く広く理解するためにある。だから、基礎教育があるのと同じに、そこで見るー知ることができるのは、新たな情報ではなく、その時点でその個人が知っていることの新たな組み直しなのだと思う。美術(館)を含めて。新たな情報に興味を持つことは否定されるわけではないが、だとしても、それらの基本にあるのは、そこにいる個人なわけで、「はい黙って、こっちを向きなさい」と言う情報伝達ではない様に思う。ううむ、できるだけ、正しく、その状況を伝えようとすると、なかなか本題に入れない。


博物館教育で大切なのは、そこでの最新成果を来館者に伝えることだけではない。そこでのその研究成果が、いかに各自の生活の基礎に深く関わっているかを自覚させることだ。だから学校教育と同じに、まず、そこにいる参加者が何歳で、どの様な生活の基礎の上に生きているかを、できるだけ読み取ることの様に思う。そしてそのために展示品だけでなく、その博物館が持っているすべてを使って、そこにいるその人(たち)に、そこにいるその生活が、いかにして組み立てられてきたのかを各自にじんわりと自覚させる。自覚の状態は各自にしかわからないのだから、そこだけを気にしていては話は進まない。


なんとなく気付いた人はいるだろうか?今回僕が出かけたのは、地元の郷土資料館。基本的な土地建物は、昔の歩兵連隊宿舎で、地元の小学生は低学年の時に全員クラスで、訪れるところ。昔が、3日前という自覚の人たちに、70年前の戦争や、その周りの生活をどの様にして伝えようというのか?

もちろん兵舎の展示物=寝台の毛布や銃架の鉄砲は、触ってはダメ。物がわかる=物を舐めるが、やっと終わったばかりの人たちに、最も伝えたいものに触ってはダメから始まるこの物の伝え方は、未だになんの点検もされていない。そもそも何を伝えたいのかを明快にし、ダメなら、そのためにはどうすればいいのかを考えるのが、博物館教育係の仕事ではなかったか? という様なことを、1990年代に口角泡を飛ばして話し合っていたのは、どこに行ってしまったのだろう。

展示解説とは、研究成果をそこに来ている人たちにうまく伝えることだ。博物館ではそこの展示物を見るという仕事しかない。くる人は、広範囲にみんな違う。図工だけで、視覚表現を勉強している人たちに、美術を理解?は、可能か? 10年前の震災ですら、如何に伝えるか悩んでいるのに。という様なことが、博物学や民俗学では、何がどの様になってここまで来ているのだろう。ということさえ、話し合ったことさえない様な展示と方法。

僕も、意識してみたのは、イギリスとアメリカの戦争博物館だけだが、もう少し真剣な考え方がそろそろ示されないと、最近の国際状況を見ていると心配になる。戦争に反対するということは、何をどうすることなのかを子供達自らが心から思わないと、、。どちらに与するのではなく、それを見た人たちが自ら具体に思いを馳せる。それが、民主主義の博物館の仕事ではなかったか。いやはや息が上がる。


民俗郷土資料館と併設されている兵舎は、一体何の、どこが、郷土、民俗、資料なのかを深く広く僕に問いかける。

これの基本に美術館での美術探検があるので、宮城県美にもしばらくぶりで行ってみたのだがーね、こうして活動はどんどん広がるーそれはそれで、様々見えてくるものがあった。最近対話式鑑賞法が、見直されている様だが、僕は、対話式ではないのだなあと深く思ったりしている。その話はまた別の機会に。









そこに見えているもの。

動いている地球。

回っている地球。

前後に続く時間。


2022年4月5日

高気圧の曇り。気温を感じない空気。

年度という概念は、今となっては僕にとってどうでもいいことなのだが、この時期、何やかにや仕事が起こって、このブログを書くのが後回しになる。

気がつくと、僕のただ一人の女孫が、今年から小学1年生になる。彼女は今、隣の県に住んでいるのだが、最近の宮城の隣の県はどこもかしこも雪で、僕の古いシトロエンでは、なかなか簡単には行けない。僕は、孫が入学だと言って、特に何かするというじいさんでは無いのだが、この前の地震で落ちてきた棚の上のものの中に、誰かにあげようと思って美術館にいた頃買っていた良い色のクレヨンセットが出てきたので、ああ、これは彼女にあげようと思った。多分このクレヨンは、日本の小学校では、持ってきてはいけないものになるのだろうと思うが、彼女はものすごくたくさん絵を描く人のようなので、家にあれば使ってもらえるのではないかな。


美術館を退職してからは、作品であれ、概念であれ、美術をめぐって、不特定少数の人ー学生や、大人の団体は、不特定多数の人ーに話をするというようなことは、思えばここ5年ぐらいしてこなかった。昔は毎日していたわけだが。先週末、極暫くぶりで、不特定少数の人に美術作品をめぐって美術の原理から考える作品鑑賞の話をした。もう、抽象絵画が、20世紀の大切な発明品だということから、話さなければいけない時代になっていた。

写真機ができる前の絵って、抽象表現があっただろうか、とか。視覚表現美術を見るとき、僕たちはそれをどこでどちらを向いて見ているのだろう、とか。見えるものは、あなたのどこにどのように見えているのだろうか、とか。模様は抽象か? 白磁の器は抽象か? 窓から見える風景は抽象か? 具体的に見えるって、本当に?  さて、具象画は抽象か?

大混乱になってから、そこに展示してある抽象画を見る。答えが最初からあるのではなく、大混乱の中から、全員が各自決めてその混乱をゆったり味わう。


僕は未だに、自分の基本的立ち位置は視覚表現家であると思っているのだが、最近の表現は、各自の目の内側にある物や事を自覚することに絞ってきているので、具体的なものを作る行為からはどんどん離れて行ってしまっている。なので、表現は突然そこで起こる。たいてい誰も見ていない。21世紀になったのだから、これまでの表現からは解放されたいと願っているので、そこに新たに何か印をつけるようなこともしない。

20世紀、僕たち人間は抽象という表現方式を見つけ出した。自分が見ることによって、そこにあるものは風景になるというような。僕が意識的に見なければ、景色はただそこにそのままあるだけだ。僕が見なければただそこにあるだけのものを意識しだすと、なんと僕の周りは驚異に満ちていることか。だから、時間ができると、僕はすぐ散歩に出てしまう。最近、時間軸の登り方が意識され出したので、自分の家から歩いて踏み出すときが面白い。なかなか具体的な距離が広がらない。何回も何回も家の周りを歩き回ってしまう。自分でも変だと思う。何かの病気が、始まってきたのかな? でも、面白いから良い/かまわないんだ。美術をやってきてよかったと思う。



遠くで風の音がする。

その音を聞いている。

風の音は自分の音か?


2022年3月20日

風で松の葉がゆれている。

 1980年代初頭から公立美術館の教育担当学芸員になった僕は、何も知らずに思いっきり元気にその活動を展開していったことは、これまで様々な所に書いてきた。いやはや本当に赤顔のいたりだ。僕は本当にうまい具合の時期(主に20世紀の最終の10年)に、うまい具合の人達(日本中の公立美術館で様々な方向の活動をギリギリに展開してきたエキスパート)と、うまい具合の仕事(何の足跡も無いところで、最初から公立美術館での教育活動だけを展開すること)を、うまい具合の場所(仙台という街の規模と首都からの距離の、東京では無いところ)で展開できたのだということを、最近しみじみ思う。


教育担当学芸員という名称は、今では、正式な職名になったのだろうか。誰から言われるまでもなく、僕は最初から、僕の仕事をそう名乗っていた。当時誰からだったか何回か、正式にはその職名を使わないように言われた記憶がある。でも、強くではなかったことも記憶にある。

博物館教育という概念は既にあったが、僕は、博物館でも、美術館というある意味、変に偏った職場で仕事をしてきたので、その後、優秀な博物館教育の専門家と話をすることがあり、様々、話が合わなくなることがあった。なので、ここでも、博物館とは相容れない部分も出てくるかと思う。でも、僕は、多分美術館以外の博物館でも、そこでの教育担当学芸員は、同じ問題を抱えているように思うので、このまま話を進める。変だと思う人は、自分のところでは、この話はどこに当たるのか当てはめながら進んでもらいたい。


問題は、教育という言葉が、日本では、常に学校教育と強く同じに意識されているところにあるのではないか? 様々曖昧な意味の広がりを自覚したうえで、簡単にあえて言ってしまうのだが、西洋的な意味での近代の教育は、個人の自立を目指して行われる。個人という概念ですら、近代になってやっと自覚されるようになってきたもののように僕には思えるのだが、日本では、西洋とちょっと異なる状況でそれは始まったようだ。

何はともあれ、そのような教育環境の中で私たちは、みんなで通う基礎教育の中で、みんな揃って、個人の自立を学ぶことになった。そしてその基礎教育の中に、日本では、美術、体育、音楽、という極個人的な分野である表現系の学科も含まれることになった。

象徴的に考えればすぐ分かることだが、見えたとうりに絵を描くことや、普通の人より走るのが早いことや、ほとんどの人が納得できるように上手に歌えることは、ものすごく個人的な特徴ともいうべきもので、全員が揃って、ある程度の水準以上である必要は無い。むしろ絵を描くのが下手な人がいて、足の遅い人がいて、音痴な人がいることで、美術家や、プロスポーツ選手や、歌手の人たちの生活が成り立つ。当たり前のことだ。

多分ここまでのことを各分野の専門家がまとめると、各々すごい量の文章になって、それを各々読み、各々関係を見つけ、各々自分の生活に戻して考えてみる事をしていると、もう人生は終わってしまうのではないだろうか。


多分そういうことを一目でわかる/感じるために美術はあるのではないか。そういう事を一回りするだけで、なんとなくわかって/感じて、自分の立ち位置に思いをはせるために、美術館はあるのではないか。


最近僕がふと立ち止まってしまう時に想いを巡らしていることは、ものすごく雑にまとめてしまうとこのようなことだ。そういうところで行われる教育が、美術館教育なのではないか、ということだ。というようなことを70歳になって言えるようになった。






風が吹いている。

私がここにいるので、

風は風になる。


2022年3月3日

冷たい空気の中に、暖かい風。

確定申告の時期なので、なかなか文章を更新できないでいる。この文は、だいぶ前から書き始めたのだが、様々な問題が次々起こって、今日になってしまった。博物館教育(僕の場合は、美術館教育なので、面倒なのだが)を巡る自分の立ち位置については、年をとるにしたがって、様々わかってくる。みんなはすでにわかっていて、僕だけ、今ころ気づいたのかもしれないが、とにかく、忘れないように書いておこう。基本は、図工と美術は違うということを、忘れないようにするということだ。それを巡っては、また別に書こう。

まず最初に、誤解を恐れずまとめて言ってしまうと、1980年代の始め頃の日本では、美術館の展示作品の前で、学芸員(美術館の事務員以外の人は、みんな学芸員だと思われていた)がお話をする!、というとき、その話は、作品解説以外なかったのだ、ということを思い起こしてもらいたい。

鑑賞は、その解説をもとに行われるものだった。だから、中学生のときの僕のように、作品を自分勝手に解釈して、勝手にあっちこっちに話を広げていく鑑賞は、まず、最初にみんなでする鑑賞の検討対象から外された。1965年頃だったろうか。


図工は、美術をするためには必須の基礎的な活動で、出す(エクス)も入れる(イン)も表現は、もっと個人的で自由なものなのではないかということを思いついた/気づいた何人かの優秀な先生が、その頃の文部省に入り、1990年代になってやっと、個人的で、自由な鑑賞という概念が日本の基礎教育の中で認識された、ように僕には思える。

前後を確認していないが、時を同じくして、ニューヨークの近代美術館にいた、アメリアアレナスさんの対話型鑑賞という概念が、同じ時期同じ場所にいて、同じ活動をしていた、副のり子さんによって翻訳され、日本に紹介された。


そういう風景が、今頃になって、やっと、僕には見え始めてきた。当時、僕は、こういうことは、みんな同じに考えていて、同じに理解しているのだという前提で、全国美術館会議の教育部門研究会の会議に出席し、軽々しく意見を述べていたのだった。なので、心ある人たちからは、斎は、途中何も発言しないくせに、最後になって最初から皆んなでまとめた考えをひっくり返す発言ばかりすると、と言われたりもした。その当時、それは、どういうことなのか、本当に、僕には理解できていなかったのだ。


さて、昨年の春に豊田市立美術館に呼ばれて、僕が宮城県美でやっていたことを話す機会があった。豊田市美は、宮城県美とは基本的な規模が大きく違っていて、僕は美術館探検の下見をしただけで疲れてしまうほど広く、植え込みの中の石組みで足を滑らせて転倒してしまうというような具合だった。だが、そういうことを含めて、何をどのようにしてきたかというようなことが、より原理的な部分までこれまでの自分の足跡を振り返ることができて、様々なことが次々と見えてきた。ううむ、こういうことが歳をとるということだったのかと、妙に納得した。2021年、僕は70歳になった。


今年、豊田市美は前に東京目黒区美で、当時、僕と同様に美術館の教育活動を展開していたFさんを呼んで話を聞くことにした。僕は、最近のこの電脳的世界とは、意識的に距離を置きたいと思っているので、そのことは知らなかったのだが、こういう世の中なので、様々な所から様々な情報が届く。

豊田市美は、開館当時より対話型鑑賞を中心としたボランティア活動を展開している。その人たちから、Fさんに対話中心の鑑賞について何かアドバイスをと質問があったらしい。

その問いに対する彼女の答えは、「楽しくすればいいのよ」というようなものであったようだが(正確にはわからないままで言うのだが)、それをを聞いて、僕にはある思いが浮かんだ。

あの当時、アメリアを初めとする美術教育の基本的な概念をめぐる(論じる)本が沢山、日本で読まれていたのに、全国美術館会議の教育活動研究会に出ると毎回感じた、なんだかうまく言えない不思議な違和感。なぜだろうと会議に真剣に耳を傾け、思いを巡らすのに、最後までなぜそうなるのかわからず、つい、基のところに戻ってしまう意見を述べてしまう、というような。今になって思う、そうかそういうことだったのか。



アメリアの本を日本人風(基礎教育の初めから表現系の基礎を勉強させられる国、というような意味で)に読んでいると、対話を中心にした鑑賞は、楽しくやればいいのよというような答えが/は出てくるだろう。アメリアの「なぜこれがアート(美術)なの」(僕はこの本1冊だけを持っている)を読むと、彼女が鑑賞活動に使う作品(なんでもかんでも、全部使うわけではない)を巡って、ものすごい美術史的な勉強をしていることがわかる。ただそうすると、日本では、やっぱりそっちへ行かないと色々話できないんだという方向へ行きがちだ。でも、よく読む=自分に置き換えて読むと、その作品の解説(主体的鑑賞)が、説明的理解が目的なのではなく、自分の身の回りをどのように美術的に見直すかというような、美術の有り様の本来の形が見えてくる。そうしてその態度をもとに対話が進む。そうすると、その時、作品をめぐる勉強が使われる。


それは、美学美術史研究家としての収集系学芸員の作品解説とは目的が違うもので、見ている人個人の生活に、そこに見えるその作品をどのように関係つけられるかを目指すことになる。なので、アメリアの本に述べられている対話型鑑賞は、実に真剣勝負のようなものになり、大変疲れる活動になる/であった。だが日本の場合、こういう活動の主な対象は、小・中学生であることが多く、自分よりは年少であることが多かったので、様々なんとか「楽しく」活動が進むことが多かったのは、今思えば、ため息ものだったのだと思う。


それから、もう一つ、確認しておくべきだと最近気づいたのは、この場合、僕が使っている活動とは、僕の知っている始まったばかりの頃の概念に基づく基礎的で本質的なワークショップの事で、準備をしない=準備からみんなでやる、成就を目指さない=収束する目的を持たない、活動の過程だけを(作業の)目的にする、というような意識のもとに展開される活動だったということだ。意識しないで、これらのことをやっている僕(の動きや、遣り取り)を見れば、その当時、それは「楽しい」活動に見えたのかもしれない。


このように、あの当時(1980年代終盤〜1990年代初頭)を、21世紀もだいぶ来てから振り返ると様々見えてくることが多く、あの当時僕が感じていた日本の美術館教育に対するもどかしい違和感が、どこから来ていたのかということが、じんわりと見えてきてありがたい。様々な意味で、20世紀が、表現系文化(だけではないが、しかしその基礎としての)に成した大きな意味が見えてくるような気がする。


 


 自分の見える世界。

自分が見ている世界。

自分を見ている世界。


22年1月13日

乾いた風の吹く青い空。

いつも様々な質問をくれて、僕を覚醒させてくれる、京都の若い友人から、年明けに簡単な質問がきた。齋さんは以前、美術には瞑想が大切とおっしゃっていました。

これはなぜですか。また、大学の講義でプーさんの本が課題になっているのは

なぜですか。美術館に作品がはいれば、それは良い作品なのですか。

ううむ。単語の一つ一つの意味が、説明によって変わりそうだなあ。

美術とは何か?考えてみる。絵を描くだけでなく、表現全般を考えたほうが良いが、そこに現れてくる表現が良いものであれば、そのひとつだけで、その時代のその瞬間を通してその世界のすべて表していることに気づける。一人の人間が絵を描く(=表現する/してしまう)という行為は、その瞬間を通してその時代=世界を描くということだった。

描く(表現する)方には、当然求められるが、見る方にも、それは強く求められる。個人が意識的に見ることを通してのみ、その世界はそこに現れる。普段人はそのように見るをしていない。そのように見ていると、生活している世界は、みんなと一緒に形作られているから、なかなか先に進ま/めないからだ。

瞑想とは、その(普段はみんなと一緒に生きるために止むを得ず混同している)孤立した各々の思考を、意識的に止めて、あえて、意識的にみることだ。ということは、みんなと一緒に生きていることを一時的に止めてみることでもある。

誰でもない、私は、それを見て、何を思ったか?それは誰でもない、私が思ったものか?普通、私の思考は、それまでの様々な経験の積み重ねでできているから、それが、私の考え方だという意識にたどり着くには、ある練習がいる。誰かの影響下にあったとしても、それが私だと納得できるまで研ぎ澄まされれば、それは、私になる。たぶん人はそのように人化してきたのではないか。

時々、意識的に瞑想=自分以外の意識から、意識的に自己を遮断してみる行為をすることによって、自分に、意識せずにまとわりついていた社会からでは見つけられない、純粋な世界を再び見つけることができたりする。

あなたが質問してきたことは、このように、深く哲学的な問答で、ここまで書くのに何回か書きなおしたりしていて、それで答えが遅れていたのです。図工でない美術は、常に哲学=私たちはなぜ、どのように、ここに、意識的にいるのかを問いかけます。時々、意識的に、または無意識のうちに、一人で深くこのような問答を自分にしていない人は、美術館に入れば美術だからねというようなことを口走ってしまいます。でもその人の言うことは実は正しいのです。だから、学芸員は、常に広い勉強がいるようなのです。

今、この瞬間何を残しておくべきか。それに責任が持てるか。責任とは、誰の誰に対する、どのようなものか。公務として=公費で、それをするのですから、真面目に考えると恐ろしいことでもあります。というようなことを、公立の美術館に勤務しているとずうっとしてしまうことになります。だから、まあ、充分したと思うから、もういいよね、というのが、僕にはちょっとあるな。

A.A.ミルンが書いて、E.H.シェパードが挿絵を描いたプークマさんをめぐるお話を是非読んだほうがいいと僕が常々言う理由は、彼等が、二人ともフロックコートを日常着ていた時代の男の人たちだったということを含めて、ここに述べてきた芸術での表現をめぐる哲学的なあれこれが、実際の生活の中にはどのように現れてくるかが、深く現れているのではないかと、僕がおもうからだ。この本を読んだ後で、僕の博物館教育論を受け、その上で、質問とかしてもらうと面白いのだがと思い、毎回言っているのだが、今まで、そのような質問は一回もなかった。博物の教育って、クリストファーロビンのようになれるってことを目指すってことなのではないかと思うのだが。


毎年の初めは、しばらく駅伝とアメリカンフットボール漬けの毎日を送っていて、十分に社会的な毎日だけを送ってきた。まだ脳みそがそこにあって、その隅々をつつき周り、良し悪しはともかく、自分の世界に戻る、いい機会になった。またいつでも良い質問を。

夜に一人でいると、

誰かが傍にいる。

沢山の人が傍にいる。
 

2022年1月8日

雲ひとつない乾いた冷たい空気。

この何回か、このヴログは、毎回同じような文を書いていることは自覚している。何か心騒ぐ年の初めだ。目に見える状況は毎回異なっているのに、その元のところはどうも毎回同じなのではないか。僕の中では、異なる現象で始まるのに、同じ状況=文章に戻ってくる。ううむ、寒くてあまり歩いてないからかもしれない。


最近、仙台郊外にある古い神社の裏の檜林で児童館の子供達と遊んで?いる。集落に子供や人がいなくなってきて、林が荒れ始めているのだが、というあたりから始まった話だ。

ある時期までは、本物の林業の人たちが手入れをしていたので、下枝の大部分は切ってあり、林の天井にだけ枝が残って空を隠している。大小さまざまな太さの檜が乱立していて、おおよそ太さ15センチ以下の木は間伐として切るの可。それより太いのは、後々神社用の修繕材木にするので釘を打ったり傷を付けないこと。約束はこれぐらい。


まず最初しばらくは、「たおれるぞう」をした。皆んなで木を切って倒す。児童館に来る人たちは、基本が小学校の低学年で、それに、少しの4、5、6年生。1、2年生には、僕の声は、周波数の問題で、基本的には聞こえない。3年生の女子に通訳をお願いし、僕の掛け声を小さい人たちに伝えてもらい、4年5年生は、中心になって、斧と鋸で切り倒す係。あのてっぺんがここまで倒れてくるのだ。だから危ない時は一生懸命逃げなければいけない。自分の後ろの逃げ道をよく確認しておく。そういうの面白いよね。

もちろん僕は、一応彫刻家になる勉強をしたから、(凄く)良い、日本ノコギリ(アルバイト数回分の値段だった、はず)を持っている。でも、もう、これを目立て(ノコギリの刃研ぎ)をしてくれるおじいさんは、市内にはいなくなってしまった。今は、2千円で買った、縦にも横にも木を簡単に切れる、折りたたみのノコギリを愛用。刃は、切れなくなったら、根元からカッターナイフのように交換する。ううむ。しかし、これはよく切れて、小学生でも、交代を頻繁にしながら(疲れたら、頑張らずに、皆んなですぐ交代)切れば、ほとんどの木は切り倒せる。

とはいえ、根元を切り倒しても、てっぺんの枝が引っかかって倒れないから、そのあとは滑車を林中に貼り回して、ロープをつなぎ、皆んなで声を揃え、力を合わせてそれを引き、なんとか倒す。

倒したあとは、ノコギリで枝を落とし、使う用途によって長さを決め、紐や、長い枝(物差し=メジャーは使わない)を使って各々の長さに切る。そうか、長さってこういう風に使うのね。

最初に作ったのは、「もののけ姫」に出てくる「たたりがみ」を見張っているおじいさんがのっている見張り台。木の先の方の細い三本を集めて先端をまとめて縛り、足を開き、上の方に腰掛けられる台をつける。その時は思いつきで簡単に作って、やったやったと思ったのだが、後で、絵本のもののけ姫を見る機会があり、急いで見張り台の絵を見たら、ものすごぉくりっぱなものだったので、やや動揺した。なので、そのあと何台か見張り台を作っているが、未だうまく行っていない(と僕(だけ?)は思っている。

その林は、少し斜面になっているので、何回か木を切ると、長さの違う、少し長い切り株が、斜面のあちこちに残る。見張り台とは別に、それらをつなぎ合わせて、細い(のしかないのだが)丸太で床を張り、ツリーハウスのようなもの(僕だけがそう、思っている)を作る。初めて作る人たちにとって、ツリーハウスは、別に高いところになければいけないとは誰も思わない。高さ、約70センチは十分に高い。僕はその上が面白いと思っていると、その下に住みたがる人が出てきて、そのあたりは、あっという間にスラム化する。が、林の中なので、それがスラム化しているとは、誰も思わない。とはいえ、雨が降ってきて、その下で雨宿りをするのは、今のところ僕だけだ。みんなこういうのはハウスだと思っていないようだ。

細い木を床に固定するために釘を打つ。最近では釘も、誰も使わなくなっているので、手に入れるのが大変だ。特に長い釘(五寸釘とか)はバラ売りで、1本いくらなのだ。長いかどうかにかかわらず、釘は、小さい人間が打つと、必ず曲がるので、木工用の刃をつけた電動ドリルで、軽く穴を開けておくというような作業が必要になる。でも、軽く刺さったら、頭が平らになるまでとにかく力を入れて打つ。

ノコギリで木を切り、釘で組み立て、何かを作る!、ではなく、ノコギリを使う!や、釘を打つ!、こと自体が大変面白く楽しいので、たおれるぞうが一段落してきた最近は、残っている低い切り株を根元ギリギリまで切り、その平に残ったところにキケンのキの字を短い釘を並べて打って書いておくというようなことをする人たちも出てきている。

子供達が一生懸命上り下りするので、最初笹や何かで藪漕ぎ状態だった斜面は、今では所々に低木の生えている、土の斜面になってきた。


最近のこの活動は、抽選なのだという。申し込み人数が凄く増えてしまったので、各回、最高20名までにしているからだ。でもみんなとしたいので、回数が増え、特にこの夏休み分がコロナで、延期や中止になったこともあり、今年は12月の雪降りの日も含め、10月以降のほぼ毎週土曜日、年末まで、林に通っていた。毎回、終わるとコタコタになるのだが、面白くてやめられない。僕も、彼らも。


でも、考えてみれば、やっていることは、僕が小学生だった頃、地区の子供会の人たちと、近くの竹駒神社の裏の林に潜り込んでしていたものやことの、焼き直しでしかない。そして、あの時のことやものの方がもっと面白かった。

本当は、ここからが言いたいところなのだが、一体、僕たちは、20世紀にあんなに面白いことやものを経験してきたのに、どうして、こんな風な毎日を組み立てるようになってしまったのだろうか。


子供達と、活動をするときに大切なことは、まずその人たちの中に静かに座って、しばらく彼らの声を聞いていることだ。でも、そこに静かに座っていられる大人が、今は、あまりいなくなったように思える。大人はちょっと前まで子供だったが、今は子供ではないので、無理に子供化することはないと思うのだが、最近は、すぐ子供化してしまうのが上手な人が、良い大人だと思われているように、僕には見える。少し前まで子供だったということをきちんと思い出せる人こそ、今、子供をしている人たちにとって大切な大人なのだと思う。

何しろ、1年は12ヶ月しかないので、5歳の人は生まれてまだ60ヶ月、10歳でも、たった!120ヶ月なのだ。だから10歳(小学4年生)になったからといっても、ほとんどのものやことは、概ね、すべて初めてのことやものなのだ。ということを、今年70歳になった人(僕のことね)はしみじみ思う。そしてたぶん80歳や90歳、100歳の人から見れば、70歳でも、初めてのことやものに囲まれているように見えるのだろう。日々の体験について、いつも、いつまでも心せねばいけない。70歳になっても、その瞬間は新発見に満ちている。


なので、小さい人たちとなにか活動を組み立てることになったとき、大切で忘れてはいけないことは、何か新しいことやものを組み立てることではない。地球上の生き物の霊長類の最先端として、この星の上で生きていくために必要な根源的な活動に、対応できる態度を保つための練習のようなものやこと。それこそが、人間の幼体がすぐに気付き集中してする遊び(活動)になる。


彼らの遊びの中に静かに座って観察していれば、彼らが、集中してやっていることやものは、実は動物としての人間の根源的な生き延びるための練習であることがわかる。僕の経験では、それが肯定的なものやことであれば、彼らは実に主体的に物事を進め変革し先に進む。


しばらく前(まだ20世紀だったと思うが)、沖縄のある自主保育の保育園の広間(そこにはその広い部屋しかなかったのだが)で、1日静かに座っていたときなど、そこで繰り広げられる、5歳の人たちがリーダーシップをとる4、3歳の人たち(オシメ卒業の人たち)と、それを助ける2歳の人たち(オシメ着用の人たち)がいかにして、1歳の人たち(歩けるようになった人たち)を助けて、意気揚々と物事を進めていたかというような「遊び方=食器を並べ、ご飯をよそい、みんなで、お母さんたちの作った昼飯を食べる」を見た(感じた)ときの面白さ。それは、当たり前だけど、本当に心から面白い経験だった。そうか、遊ぶってこういうことだったんだ。人間って、明らかにチンパンジーより進んだ生き物なんだというような。

同様なことは、そのあと見た(というより、静かに座っていた)、僕の孫たちが参加していた東京の祖師ヶ谷公園で繰り広げられている、ある自主保育活動でも、見ることができた。人間の幼体は、ほっておいても、結構うまくちゃんと、活動を繰り出していく。

人間の幼体にとって遊ぶことは本当に大切な生きる目的なのだ。たぶん、何か大切なことが保証されていると、彼らが自覚できれば。


こちら(大人)側から、何かをする(させる)のではなく、彼ら自身が何かを見つけ出し、大人とは異なった(又は、忘れてしまった)方法で相談し、考え、こなしていく活動。

様々大変な問題がある(又は、最近は出てきた)ことはわかるが、それらを彼らの方向へと解決する手助けをすることこそが、20世紀に経験を積み重ねてきた大人がすべきことではなかったかと、思う。決心すれば、日本人も、東洋人もすぐやめられるが、この宇宙に一人立つとき、僕は人間だ!ということだけは、やめられない。立派な人間を残したい。