そこに見えているもの。

動いている地球。

回っている地球。

前後に続く時間。


2022年4月5日

高気圧の曇り。気温を感じない空気。

年度という概念は、今となっては僕にとってどうでもいいことなのだが、この時期、何やかにや仕事が起こって、このブログを書くのが後回しになる。

気がつくと、僕のただ一人の女孫が、今年から小学1年生になる。彼女は今、隣の県に住んでいるのだが、最近の宮城の隣の県はどこもかしこも雪で、僕の古いシトロエンでは、なかなか簡単には行けない。僕は、孫が入学だと言って、特に何かするというじいさんでは無いのだが、この前の地震で落ちてきた棚の上のものの中に、誰かにあげようと思って美術館にいた頃買っていた良い色のクレヨンセットが出てきたので、ああ、これは彼女にあげようと思った。多分このクレヨンは、日本の小学校では、持ってきてはいけないものになるのだろうと思うが、彼女はものすごくたくさん絵を描く人のようなので、家にあれば使ってもらえるのではないかな。


美術館を退職してからは、作品であれ、概念であれ、美術をめぐって、不特定少数の人ー学生や、大人の団体は、不特定多数の人ーに話をするというようなことは、思えばここ5年ぐらいしてこなかった。昔は毎日していたわけだが。先週末、極暫くぶりで、不特定少数の人に美術作品をめぐって美術の原理から考える作品鑑賞の話をした。もう、抽象絵画が、20世紀の大切な発明品だということから、話さなければいけない時代になっていた。

写真機ができる前の絵って、抽象表現があっただろうか、とか。視覚表現美術を見るとき、僕たちはそれをどこでどちらを向いて見ているのだろう、とか。見えるものは、あなたのどこにどのように見えているのだろうか、とか。模様は抽象か? 白磁の器は抽象か? 窓から見える風景は抽象か? 具体的に見えるって、本当に?  さて、具象画は抽象か?

大混乱になってから、そこに展示してある抽象画を見る。答えが最初からあるのではなく、大混乱の中から、全員が各自決めてその混乱をゆったり味わう。


僕は未だに、自分の基本的立ち位置は視覚表現家であると思っているのだが、最近の表現は、各自の目の内側にある物や事を自覚することに絞ってきているので、具体的なものを作る行為からはどんどん離れて行ってしまっている。なので、表現は突然そこで起こる。たいてい誰も見ていない。21世紀になったのだから、これまでの表現からは解放されたいと願っているので、そこに新たに何か印をつけるようなこともしない。

20世紀、僕たち人間は抽象という表現方式を見つけ出した。自分が見ることによって、そこにあるものは風景になるというような。僕が意識的に見なければ、景色はただそこにそのままあるだけだ。僕が見なければただそこにあるだけのものを意識しだすと、なんと僕の周りは驚異に満ちていることか。だから、時間ができると、僕はすぐ散歩に出てしまう。最近、時間軸の登り方が意識され出したので、自分の家から歩いて踏み出すときが面白い。なかなか具体的な距離が広がらない。何回も何回も家の周りを歩き回ってしまう。自分でも変だと思う。何かの病気が、始まってきたのかな? でも、面白いから良い/かまわないんだ。美術をやってきてよかったと思う。