2011年11月28日  厚い雲の日。空気は湿って暖かい。


人のやったことではなく、
その見つけ方をこそ知りたい。
創造そのものではなく、
そこへの辿り着き方を学びたい。


もう11月も終わりそうだが、やっと時間ができた感じ。この前更新した12日、心臓血管外科の検査から帰ってすぐだったが、実は、僕は南三陸の中学生を美術館にバスで連れてくるという活動のため、バスの添乗員として気仙沼往復をしているはずだった。
実際は、そんなに無理してどうすんのと考えて、その日の仕事は同僚のO島君にお願いした。僕は美術館に残って美術探検や美術館探検をしていた。

添乗員は、朝4時起きで岩沼を出発し、富谷町のバス会社(そこの会社がボランティアでバスを出してくれる)に車で行き、大型バスに添乗して9時過ぎに気仙沼に着き、応募した子供達を載せて美術館に向かい、高速を走るバスの中で様々解説や何かをしながら美術館に12時過ぎに着き、2時半には美術館を出て再び気仙沼に戻るというスケジュールだった。
中学生で応募した人計50名の子供達は、美術館に着いたら、用意されたモーツアルト(美術館のカフェレストラン)のランチを食べ、フェルメール展を見て、時間の許す限り常設展を含むその他の展示も見て、暗くなる前に帰る。何しろ美術館にいられる時間がかぎられているので、説明やなんかはバスの中でしてしまおうというわけなのだ。いやはや、忙しいことだ。

というようにその時は他人事のように思っていたのだが、その日以来、僕の方もほぼ同じようにやたら忙しい毎日がずうっと続いた。休みはあることはあるのだが(公務員は規則通り休みを取らなければいけない)日数を合わせるためになんだか変な感じなのだ。普及部のスタッフに良い休みを取ってもらうため、ここ数週間僕は一日おき休みが続いている。出勤してやたら忙しく動き回り、次の日休み、直また出勤。休んだ気も働いた気も感じられない毎日。その合間に、退職後の再任用の手続きや人生設計のセミナーなどが入って来る。歳をとると切り替えがうまくなくなるので、基本的な生活が全く異なる人と話を合わせるのはこういう状況だと凄くストレスフルだ。再任用を(心から)お願いする作文を書かされた/書いた。いやはや僕も大人になったものだ。

添乗員の活動は毎週土曜日。実際募集したら、予定の人数は超えてしまい、結局19、26、27日の3回行った。東松島と石巻だったから、気仙沼よりは余裕が持てたが、つい、一生懸命、ガイドさんまがいの行動をしてしまって、だいぶ疲れた。何しろ、バスの前に立って、子供達の方を向き、話をしてしまうのだ。そして信じられないような高速道路有料区間での渋滞。運転手さんが凄く気の効く人だったので、2回目以降は、どんどんショートカットの道を見つけてくれて何とかなった。帰る時間も、予定は気にせず毎回3時出発として、だいぶ余裕だった。ただそのかわり、帰りもバスにのって子供達を送り届けに行き、それからバス会社に戻る僕は、だいぶ帰宅が遅くなったけれど。

僕は教師の経験が全くないので、こういう機会でもないと、今現実の学校の状況を「感じる」機会を持てない。そういう意味では、大変に意義ある時間だった。美術や、フェルメールの話もしたけれど、それ以外の時間はズウッと子供達と付き添いの美術教師達の話に耳を傾けていた。
極端に言えば、ううむ、もう日本(というか人類はと言った方が良いか)は駄目かもしんないな、という感じだったけれど。僕は最近すぐにペシミスティックだ。ドライバーも含めて、「運転されているバス」は、何かプロの道具をそばで見続けているようで大変面白く、楽しかったけれど。

明日は午前中県庁に行って、再任用に関わる面接を受ける。僕は心から退職後も働き続けたいと思っている人ではないので、複雑な気持ちだ。早く寝よう。

2011年11月12日  朝真綿のような雲、少しの青空。空気はまだ暖かい。


歩き続けないと前に進まない。
前に進みながら、
出来るだけよそ見をすること。
美術の極意。


一昨日昨日と、心筋梗塞の定期検査入院で仙台厚生病院へ。1年ぶり。手首からのカテーテル挿入時再び気を失いそうになって途中で気付け薬投入。この歳になっても、相変わらず弱虫なのが自覚できて嬉しい。結果はほぼ完治。もう定期検査は今回で終了ということになった。
とは言えこれからも気を抜かずに、いつ死んでも良いように、しかししぶとく生き続けることにしよう。

フェルメール展は、期待?した程には混んでいない。人は入っているが、回転が良いのだ。見るなら今のうち。終わりにむけてどんどん混んでくるのかな。今日は震災地中学生招待事業の第1回目気仙沼の子供達がバスでやって来た。美術館から迎えに行き、途中説明をして来ることになった。美術館にいられる時間があまりないのだ。本当は僕が迎えに行きたかったが、大S君が無理をしないでと変わってくれた。あと2回毎週土曜日行われて、それは僕が行きたい。
こういう美術館の活動を巡って、展示の合間を縫って様々事業や会議や打ち合わせが行われ、いまさらながら、そういう行政上の仕事に対応する僕の状況判断や態度が何回も揺れ動いて、僕の行政面に関する無能さ/非常識さが浮き彫りになった。基礎になる物の見方や決定の優先重要度順位が、行政関係の人とだいぶ違う。

どうも僕は、この30年をかけて、社会や教育で失われて来たものだけを蓄積して来たのではないか。行政の人達とは、大切なものや、伝えるべきものや、見えるもの、見るべきものや、その伝え方などがここに来て全く違っていることが、何かにつけて表面化して来る。行政的な思考は多分この社会を運営して行くには大切なのだろうが、もうそれは失敗だったのがわかっているのではなかったか。
そういうもの凄く基本的な所が違うので、その表面に出てくる活動が違って来る。そこが僕のオリジナルな所だと言われている/きただけなのではないか。20世紀中は、まだ、そこに気付く人達が、美術や美術館に関わる人達には少しいて、そういう人達に支えられてここまでやって来られたけれど、ここに来てそういう人達が途絶えて来たのではないのかなあ。だから、本当は僕がそういう人達の立場に居なければいけないのに、何だろう、上手く切り替えられなかったのかなあ。根が美術家だったのかなあ。やや、ストレスフルな反省。今更、様々遅いけれど。早く退職したい。

2011年11月3日  高い薄曇り。ホンワカ暖かい乾いた空気。


自分が他人と違うことこそが
みんなそこにいるということだ。
みんなと少し変えてみる。
そういう世界が普通の社会。


10月の初め頃に書いて以来の更新だ。前に書いて以降、今日まで、もちろん連日忙しく様々な状況が起こった。美術館は通常運営を続けてみる練習のような展示をして10月の末からフェルメール展。フェルメール展が美術館で始まって、始まったことによってそれを巡る様々な状況が起こり、気の弱い素直な僕?はいちいち動揺していた、のかなあ?今の所、体調は良い。が、気分はあんまりUPではない。ふと老人性鬱かなどと思う。本当にそうなってしまって、お医者さんに行ったりしている友人もいるから、あんまり大きい声では言えないけれど、という程度だが。

古い友人の家に行って、ゆっくり昼ご飯を食べた。彼の家はアイランドキッチンで、そこでおかみさんと一緒に、様々料理をしながらお話をしつつ、出来た物を皆で食べ話をした。ううむ、こういう時間が僕の家では作れない。テレビがなくても充実した時間が自分の中で過ぎて行く状況。しばらく忘れていた。

何回か市民センターの老荘大学によばれて行って、フェルメールを巡って、美術の見方のお話をした。ソアト(SOAT)というNPOの理事になった。理事会に出て、それまでの理事の人達と美術を仲立ちにもっと社会的な部分の多い話をした。来年度の人事を巡る様々な打ち合わせや相談をいろいろな人(主に僕より職業上の地位が上の人)とした。それを巡って普及部の同僚と話をしたり聞いたりした。今書いてわかったのだが、要するに、僕以外の普通の(と言ってもそれぞれはそれぞれの専門家なのだが)人達と話をしたということだ。数日前、自分が最近作ったジュエリーをなんとか世間に売り出したいのだがと言う、ものすごく純真で素朴な質問をしてきた、高校の同級生のSa君(彼も物凄い人生経験と実践体験の人だ)と、曖昧な世界をクリアに話す、とどめのような話をした。
すべてほぼ仕事なのだが、なんだかゲッソリ疲れた。今まで気にしていなかった、何かに気付いたのではないか、と直感的に思う。ここしばらくそれ(気付いたもの)は何だろうと考えているのだが、うまく言葉になってこない。

普通の人?にとって、美術はほとんどなんでもないことなのだなあ、と思う。ましてや、その教育なんて。ふと頭を上げて考えると、僕にとって美術は宗教のような部分にあって、困ったり悩んだりした時にそこに戻ると、たいてい答えが既にもうそこにある物だったりするのだが、皆には、まったく違う物が(ある特定の神様との関係という意味ではなく)宗教だったり、又は、宗教的な意識とは関係のない生活ですべてうまくいっていたりしている様なのだ。ということが見えたということか?

僕はここ30年ずうっと美術と生きてきて、なんだか知らないうちにどんどん謙虚に慎ましく、正直真剣真摯、という方向にたどり着いた/着いてしまったということなのか。