2009年10月24日  綺麗な秋の日。乾いた空気がだいぶ寒くなって。


今年の夏はさんざんな毎日で、あっという間に過ぎた。と、僕が書くことができるということは、僕の同僚は別な意味で散々だったはずで、休みの順番なんかまったく関係なく毎日忙しく、それこそ本当にあっというまに過ぎてしまったに違いない。

今このブログを読み返してみると、入院の合間に出勤した僕が、何やら忙しそうに、僕がいなければ駄目なんんだみたいなふうに書いてあるが、これは間違いだ。僕なんかいなくても、美術館の教育活動はきちんと動いていて、なんと来年度の予算書まで出来上がっていた。あたりまえだけど、ありがたい。


16日から美術館ではトリノの博物館が持っている古代エジプトの美術展が始まった。連日混んでいる。混んではいるが、当初の予測では美術館の周りの道が大渋滞になるはずだったのが、今の所そこまではいっていない。今日明日の週末で様子を見て、本当に混み始めるのは11月中旬以降から12月にはいってからだろう。見るなら早いうちだ。混んでいないといっている今日あたりでも、入り口から出口まで一列に並んでシズシズ進みながら順番に見て行くというくらいには混んでいる。石を彫った作品も面白いが、僕は、その石を彫った青銅!製の鑿なんかの方が美しく気になった。

美術館が混んでいることもあって、ほとんど毎日歩いて通っている。駅から歩いていると様々なことを考える。若い頃に張り切って主張しムリヤリやった様々な行為が、ここに来てそれはまったくもの知らずのことだったということが思い出されて、歩きながら足がすくむほどの恥ずかしさを、突然感じたりする。歳とって様々なことに気付けるようになって来たということをよく考えてみると、僕の認識の力は18歳のあの学生運動のあたりから何もホトンド進化していないのではないか、と思えてくる。

考え方や感覚の基本はそこに動かずにあり、それ以降の体験は経験としてその基本を巡る形で脳に保存されている。何歳の自分であろうとそこに基本が見えていれば、今の状態がクールに理解できて、肉体の状況と精神のギャップにつても自己納得はしやすくなる。ま、言い逃れともいうけどね。今ここに、こうしていえるという納得ができると、今いる所でのストレスにも気付きやすい。何がどうなのでストレスなのかということにも。やはり少し無意味な運動(自転車コギとか)を始めて、無駄な汗をタラタラと流さないと駄目な気がする。


2009年10月18日  一日快晴。

一日気持ちよく晴れた秋の日。今日も休みなので、9時前まで寝てゆっくり朝飯を食う。キッチンに入ってまずコーヒー豆を挽く。今日で豆はおしまいだった。丁寧に少し細かく挽いてコーヒーメーカーを動かす。その間にE美子さんに作ってもらって冷凍保存してあるバケットを一切れ電子レンジで解凍する。バケットもこれが最後。小岩井牛乳と青森りんごジュースを出す。朝の水をコップで一杯飲みながら今日の新聞をざっとめくる。レンジがチンと言ってパンが湯気を上げる。輪切りにして木の皿に並べ、いつものオリーブオイルと蜂蜜をかけ、今日は残っていたヨーグルトをかけて食べる。窓から日がさしてきて気持ちいいなあと思いながらゆっくり噛む。


今日は意識的に何もしない日にすることにして、昼過ぎ(朝食をとって着替えをし、かた付けものをしていたら午前は終わってしまった)、カングーで、明美さんも乗せて、弟に手紙(彼は家を出てもうしばらくたつのだが、未だに住所変更をしていないアドレスが少しある)を届けに出かける。車で3分。門は開いていたのだが、呼び鈴を押しても誰も出てこなかった。小学生の男の子が二人いて、こんなに天気のいい日曜日に家にいる方が嫌だ。手紙は郵便受けに入れ、そのまま金蛇神社に移動。入り口の駐車場あたりはさすがにこの天気で少し混んでいたが、無視して通り過ぎ奥の七ツ堤に登る。いつもカヌーの練習をする堤の一つ上の日当りのいい広場にカングーを止め、うしろの扉を開いて腰を下ろし、携帯コンロでお湯を沸かし、お茶を入れて明美さんと飲む。いやはや何とも気持ちいいんでないの。乾いた空気でお日さまぽかぽかで紅葉今少しの木々。僕は少し写真を撮りながら、その辺の山道を散策。帰りに、いつもの台湾料理屋で焼きそば。思えばこの料理屋も7月の入院以来しばらくご無沙汰だった。ううむ、今年は何とも大変な夏だったのだなあ。



車のラジオで中島みゆきが命のバトンという歌を歌っていた。この大変な夏の後の、天気のいい休みの日に聞いたので心にしみた。少し前のラジオ番組で超長寿社会の話を誰か女の人がしていた。もうすぐ寿命は90歳になるのだという。45歳が折り返し。人はほとんど2回人生を送るつもりにならないといけないというようなことだった。


でもなあ、僕の経験では、30年シミジミやってきて、今年の夏やっと少し変わってきたかなって感じが始まったんだぜ。そう考えて今の自分の気持ちを振り返ると、人間の寿命って実にうまくできているのではないかなあ。人間の脳のオペレーションソフトが新しくなるには結構な時間と微妙で丁寧なやり方が必要で、新しくOSディスクを入れ替えてチャッチャとお仕舞い、というわけにはいかないようだと思う。これ以上人間は生物の基本に手を入れてはいけないのではないか。まだ、意識や認識がそこまでできていないのに。


僕の母親がああして僕を育て、そこにおばあちゃんがいてそれを修正補佐し、おじいちゃんはもう死んでいたけど、父親はああしてこうなり、自分の人生について考えさせ、母親は見事に死んで、親に付いて考えさせ、その結果今の僕は、明美さんのことも含めて、こういう風に子供を育てる人生を組み立て、僕の遺伝子継承者の彼らはそういう人になり、その子供(孫)は初めから僕がしたかったことを普通にする子供になっていく。


大体60歳あたりで人間終了っていうのは、広く見てみれば何か深い意味がありそうに思えてくる。30年続けてきたことだって、すっかりそのまま確実に伝わるのではなく、大体なんとなくの所が伝わるからこそ、その後の発展拡大の余地が感じられるのではないか。いつ死んでしまったって、人間は結構ちゃんと広く深く伝えなければいけないことを伝え、知らなければいけないことを知ることができるのではないか/してきたのではないか。楽天的かもしれないが、僕は結構もう充分残すべきことはしてきているような気がする。こういう風にやってきたのだから、残ることは残り、残らないことはやはりちょっと早すぎたわけで、残らない。


晴れた秋の空は、こんなふうにおじいさんの僕に、なんだか納得の気分を運んでくる。気持ちいい。

2009年10月16日  雲のある晴。日差しは温かいが風は秋。


この季節になると、BSでアメリカンフットボールの中継が始まる。帰宅してちょうど夕ご飯を食べる時間から試合が始まることが多い。アメリカンフットボールとアメリカのプロバスケットボールと陸上競技とXゲームとモータースポーツの中継はつい時間を忘れてみてしまう。ああそれに相撲もだ。テレビをそんなに熱心に見ているわけではないと思うのだが、ここに書いた番組を見ているとなんだか結構テレビを見ていることになって、要するに、ブログの更新の間が空いてくる。

先週の週末から12日の体育の日まで、僕は連日美術館に出ていた。できるだけストレスなく仕事を片付けようと思ってはいるのだが、何しろ予算の時期だ。使っている言葉の概念が違う人たちと仲良しの顔をしながら打ち合わせをするのは、とても大変だ。この前、僕が入院している間に自主ノッツオをした人たちが、11日に自主美術探検。みんな小学校の先生たちで、形は学校で子供たちとやるような仕組みだったけれど、その内容は立派な大人の鑑賞で、この30年間の美術館での活動は無駄ではなかったという感じがして感慨深かった。教育ってやっぱり10年単位での継続が必要なのだと思う。何しろ誰も絵についているキャプションを使わないのだ。かつそれ(誰もキャプションを使わなかったということ)に気付きすらしなかった。すごい。その合間をぬって「おとひと」を売って歩く。というより、知らせたい/読んでもらいたい人の所に持って行くと、みんな「まってました」と買ってくれる。霧生舎は、まだ子供が小さくて手が抜けないので、どうも僕がやった方が早いようだ。欲しい人は僕の所にも連絡をよこしていいです。

13日は振替の休館日で休み、続いて14日も僕は週休日の振替で休みの連休。その両方とも夜はフットボール中継。しかも、ニューヨークジェッツの試合。別にファンということもないのだがなぜか一生懸命見てしまう。でも、どっちが勝ったかについてはすでに忘れているという具合。試合そのものが面白く好きなのだ。日中は自転車の掃除や胞夫さんの手当。胞夫さんの所には、何しろ7月以来僕自身の方がテンヤワンヤだったので、しばらくご無沙汰だった。そうしたら、もう季節は半袖から長袖になっていて、布団も暖かいものに変えなければいけなくなっていた。急いで持って行く。するといろいろ判子押しや何かがあって、片っ端から片付ける。そうしてなんとか半日時間を空けて、例の空間博物館の残りのお散歩。すればするほど、これは誰が考えたのだろうと感心する。大変気持ちよく美しい。今年の秋は、しばらくこの辺りでゆっくり時間をつぶすつもりだ。でも、また入院だけど。

2009年10月8日 台風が来ている。屋根を打つ雨の音。笑っているように蠢く庭の木々。


こういう日に家にいて、二階の広い窓から庭を見ている。静かに嬉しい。強い風に轟々と揺れる白樺の先の方の細い枝に、ヒヨドリがバランスを取りながら一羽とまって、キッと横を向いている。かっこいいなあ。

9月15日から2週間いた仙台厚生病院の循環器疾患病棟では、何回か部屋替えがあったけれど、同室の人のほとんどはたいてい年寄りだった。その中に何人か若い人がいて、何気に、僕はそっちの人たちの仲間なのだろうと思っていた。


おじいさんだと僕が思っている人たちの話はゴルフと自動車とうまいものを食いに行くというような内容で、毎日。ゴルフは自分でもするが、どこのゴルフ場が安くて係の人の人当たりが良くて、テレヴィに出ている若い女子プロの本物を見た事がある話。自動車にはいろいろ乗ったがもちろんやっっぱりクラウンですよ。娘には国産の小さいの買ってやったけどね。その(自慢の)車でドライブに行くのは定義山がすごくいいよ。そして長町にはあんまりうまいもの屋がないな、と話は続く。この人だけの話なのかと思っていると、これがほとんどの人と話が合う(合わせられる)のだ。

「で、あんだは何好ぎなの?」 ううむ、基本は彫刻家でオートバイ乗り、お散歩が趣味で家で遊ぶなら玩具の鉄砲を撃つの好き、車はシトロエンの2CVとルノーのカングーで娘はプジョー306、県内でドライブするとしたら柳津辺りかな。そしてもちろん美味しい昼飯は北六のGラディTウドでしょう。話が噛み合ない、というより、使っている言葉の意味が全然ずれている。そしてこれは年齢を問わずずれていて、僕は全体として、(日本では)やっぱりなんだか変な人なのかなあ。

そうして驚いた!事に、こういう個人の経験に基づく話以外の一般的な歴史経験では、昭和26年生まれの僕は、むしろ終戦の時期を知っている人の方(すなわちこの話でのおじいさんたち)に含まれるのだった。

舗装されていない家の前の道(竹駒神社のすぐそばだから結構街のまん中だ)の両側には、側溝ではなく細い堀があって、そこに台所などの排水を普通に流していた。その(ホコリっぽく雨が降ると水たまりだらけになる)道路は、馬車が肥樽を荷車に積んで運んでいたから馬糞が普通に落ちていたし、そこを学帽をかぶった小学生がゴムのタングツをはいて、オンパン(温飯)器で温める麦飯(色が黒く銀色に光るのだ)弁当(四角く深い黄色いアルマイト製)を持って通っていた。僕の母はちょっとハイカラだったので、僕と弟は普段半ズボンをはかされて、その頃の岩沼では少し恥ずかしかった。家の近くでは、向かいの目黒米屋の前にしかコンクリートのたたきがなくて、そこでみんなでパッタをするために場所取りをするのが、早く帰ってくる小さい小学生の仕事だった。そこのコンクリートの上にかかっていた屋根を支える柱と、街のブロックの反対側にあった木の電信柱とを陣地にして、僕の住んでいた(新町という字の)街全体を使った陣取りを(子供会単位で)戦ったりできた。何しろ陣地を繋ぐメインの道路は国道4号線なんだぜ。いやはや、たった50年前なんだけどねえ。だいたいみんな使われている言葉の意味わかった?

こういう話は、後期高齢者の人たちとは何の問題もなく通じるし混ざれる。でも、僕よりほんの少し歳下の人たちとは、突然ほとんど通じないのだった。

で、せっかくこんなに深く濃い生活体験を持っているのに、なぜ大人(歳とると)になるとゴルフとクラウンと(長町の)MルキーWエイになってしまうのだろう,というのが僕にはわからない。仕事柄、こういうのが、実は深い所でこれまでの美術教育の失敗だったのではなかろうかと思う。今のままの図工美術教育を続けていると、また同じような世界が続くことになる。おっとそうか、その方がゴルフ屋さんとTヨタとMルキーWエイが儲かるわけだからからこれでいいのか。

2009年10月 6日   曇。涼しく乾いた風の一日。


先週火曜に退院して来て今日で1週間過ぎた。病休の後の自宅療養中のはずなのに何か毎日忙しく動いている感じだ。昨日は脳神経外科で報告相談し、今日は厚生病院循環器系に行ってこの後の相談。11月4日に再び入院して残っているもう一つの血管のつまりをすっかり直すことにした。また、お相撲の時期に、1週間の入院だ。


僕は20世紀の最後の十数年間、市内に無料で配られる新聞スタイルの情報誌「仙台リビング」に毎月一回、子供と自分の生活の関係を巡ってエッセイを書いていた。21世紀に入ってすぐ、その連載が終了したのを機会に本にした。その本は作ったとたんに売り切れてしまい長い間絶版だった。

みんなから再版の要望が出てきたので今年の9月17日(心筋梗塞で入院中)第2刷再版。その本「おとうさんのひとりごと」は、このブログのWelcomeのページからリンクしていて読むこともできるが、今回の出版元霧生舎 kiriu_sha@bookshelf.cc にメールで申し込めば、1冊1000円+送料で送ってもらえる。今回様々な理由から手続き簡略化のために電子メールでのやりとりに統一しようと思っていたのだが、どうも、僕の本を読みたいと言う人はあんまりデジタル化していない、またはそういうの嫌い、という人が多いようで、欲しいのにまだ買っていないと言う声が多く寄せられた。すまぬみんな。では今後、霧生舎もそのまま使えるが、僕からも直接手に入るようにしておこうと思う。ボクに会って、思い出したら「本ある?」って聞いて。

2009年10月 3日   曇。日中なんとなく肌に小雨を感じる。でも夕方から快晴、満月。


29日に退院して来て、しばらく自宅療養。とはいえ、10月2日、午前中美術館で、市民センターの講座の人たちのための美術探検+。2時間。これは代理がきかないのでやむを得ない。今日、福島の梁川美術館でやっている菅野直子石彫個展を見に行く。阿武隈急行で行って梁川で降りるというのをやってみたかった。満ち足りたお散歩。明日は、仙台のクロスロードに、桑原君(家の家具を作ってくれた人)の家具個展(1日~6日、ただし3、4日しか本人はいない)を見に行く。月曜は、仙台東脳神経外科に、心筋梗塞での入院の報告と今後の相談。火曜は、厚生病院での再診が予約されていて、この1週間の様子見と今後の心臓修繕計画立案。なんだかんだで、毎日あっという間に過ぎていく。俺、休んでんのかなあ。


夕方古い女友達のE美子さんから「お月様見てる?」と突然メールが来た。今日が中秋だと言うことは知っていたけれど、なんとなく日中は小雨模様の曇りで、あまり期待していなかった。むしろ暗くなってからはほぼ忘れていたので、あわてて空を見たら、雲一つない夜空に、ものすごい満月。ちょうどいた娘と孫とカミサんと一緒に、電気を消して月を見る。小さい望遠鏡も持ち出してみる。古い友達はありがたい。確かに、みんなにお知らせしたくなるようなお月様だった。

2009年10月 1日  重い空気の曇。でも雨は降らず長袖のネルシャツでちょうど良い。


2週間ぶりに鍼灸に行く日。腸の調子がどうも通常に戻っていない感じなので、早く相談したかった。朝ユックリ起きてご飯で朝食。牛蒡と人参と豆腐のけんちん汁風味噌汁を娘が作ってくれた。その後夏物と秋物の上下衣類の入れ替え。アロハシャツからネルシャツへ。半ズボンからボンバチャスへ。薄い靴下から少し厚めの靴下へ。その他その他。夏物が多く、秋物はそんなにない。おおよそ片がついた所で、駅前の床屋へ。2週間分の髭と髪をきれいさっぱり切って剃ってもらう。見慣れた自分の顔が鏡に映っていた。少しやせて皮膚がたるんだかな。小一時間で終了。そのまま電車で仙台に向かう。

僕の行く治療院は南光台の奥にあるので地下鉄で行くことにし、長町で乗り換え。地下鉄に降りる前、昼時だったので長町駅前「いろは庵」でうどんを食おうかと思っが、ふと思い付いていつもの北六食堂に電話したら「空いていますよ」ということだったので、急遽そちらに変更。北四で降りて、裏道を巡りながら北六まで歩く。北五の横丁の途中で、小さな焼き菓子の店「スタジオ/ファーレン」というのを偶然見つけ、そこのお店の女の人と少し話をしながら色々な形と味のクッキーを少し買う。何しろ今から食事に行くんだからね。その店の前の角を曲がったら、なんと目指す食堂のまん前に出た。僕が電話した後で少し混んで来ていたようで満席だったけれど、特別に縁側にお膳を出してもらう。この特等席が僕は好きだ。ユックリくつろいで縁側の柱に寄りかかり、静かにおいしい玄米ご飯と野菜の昼飯を食う。

鍼灸の予約は2時からだったのに、食事が終わったのは1時過ぎ。もう一度北四まで戻って地下鉄で行くか迷ったが、ええい歩いて行ってしまえ。裏道を使いながら東照宮まで出て、小松島から南光台の坂を上り、旭が丘駅からの道との交差点まで行き右折、そうすれば目的地はすぐだ。でも、僕は病み上がりなのだということを忘れてはいない。東照宮の前で殊勝に手を挙げてタクシーを止め目的の交差点まで行ってもらう。うふふ。少し早めに着いてしまい、治療院の前の縁石に腰を下ろして持って行った本を読む。うふふ。2時から2時間じっくり整体と鍼を打ってもらい(そのほとんどは深く眠りに堕ちていたので記憶は定かではないのだが)地下鉄電車を乗り継いで帰って来た。なんだか一気に普通のユックリした休日に戻った。でも、自覚してもう少しユックリノンビリするようにしなければ、と思う日だった。

2009年 9月30日  高曇り。乾いた風。


2週間の入院の間、循環器系病棟に寝ていると、回りは、みんな後期高齢者で、(少なくとも僕の周りの)彼等は、まあ、本当に話し好きなのだ。あっちからこっちまで様々なお話を聞くことが出来て、そこから一人で考えることも多々あり、時間は暇だと気付く間もなくすぎていった。言うまでもなく、しかし、ふとという感じで自分を見れば、僕も充分に彼らの仲間にくくられる顔をしているわけで、おじいさんになっていたのだということをシミジミ自覚した/させられた。


15日はまだまだ続く。その日外来最後の患者だったので、しばらく待ったが、そんなに長くはなく診察室に呼ばれる。ついA野君と呼んでしまいたくなるほど若い男子の医者だった。僕が持っていった、仙台東での心電図やレントゲン写真を見て、すぐ、いくつか検査を新たにするように指示され、検査室を回る。普通の病院だと、結果はこの次の診察の時ね、となりそうな血液の検査なども含め、心電図、心臓エコー、レントゲン、後何かあったかなというような様々な検査が、待っている間にできて来て、しかも、それがどうも一つの画像にまとまって表示されているようなのだ。これまで見たことのない僕の心臓の3D画像が彼の手元にプリントアウトされてきていた。結果カテーテルを入れて、直に心臓の血管を見て診断ということになる。

手首の動脈から入れて何でもなければ一晩泊まっておしまい。これをすれば、すべてはっきりするから。いや、あの、入院の用意何もして来てないんですけど。大丈夫、全部貸すから。えっ、そうは言っても心の準備が、、、。(でも、ま、どうせなるようにしかなんないのだから、テキパキやっちゃった方が良いな。覚悟。)はい、ではお願いします。

看護婦(師か?)さんが代わりに出て来て、これからやる「検査!」の説明。了解、サイン。その他、なんだかヤバそうなことになってもいいねの説明。でも、やることのリスクは0、数%で、しないと90なん%死ぬけど。わかりました、サイン。いざ!という時の連絡者住所電話番号。記入。でも、自分としては、まだ、検査をするのだろうと心理的には理解。担当の看護婦さんと「カテーテル処置室」の前に移動する。狭い廊下の椅子に座って待つ。着ているものは、すべて透明なプラスティック袋に詰め込み、パンツ一枚になって患者用パジャマを着る。まったく手術室とかそういう感じではない。なんだろう、大学の部室棟の前の廊下という感じ。みんな若く元気いっぱいで、テキパキと、しかしリラックスした、会話が飛び交う。ただ、みんな手術用の青や赤紫の上下を着ていて、プラスティックのエプロンをしている人が大勢と、白衣を羽織っている人が少し。ほとんどん人は忙しそうに動き回っていて、モニターの画面を注視しているグループもあちこち。

心の準備もあらばこそ、ドサクサドタバタのうちに幅の狭く固い(主観では)検査用(正しくは処置用)ベッドに仰向けに寝る。左手を一段高い台に軽く固定し、体全体用と、それとは別に腕に、手首の所だけ穴の空いたゴム引き(のような感じのする)布をかぶせられる。お、いよいよだなと思う間もなく、手首の消毒(イソジンの濃いのを塗る)と部分麻酔(歯医者さんでされる、細い針が最初チクって痛いやつ)。あ、なんだなんだと思った時には、既に作業(手術)は始まっているのだった。何処も痛くはないのだが、腕の肘の内側辺りをゾワゾワと何かがハイ昇っている感じが一瞬。目に入る範囲では、誰も僕の方は見ていなくて、足下の方にあるモニターを見ている気配。そこからの声で指示があるたびに、寝ている僕の胸の周りを自由に動く太い腕木に付いたカメラのようなものが、上下左右にグルグル動き(主観的には飛び)回る。ググっと離れたり、皮膚にくっつかんばかりに近寄ったり。ううむ、あのスターウオーズの宇宙船の治療室は既に現実の物になっているのだな。

そうこうしているうちに、モニターのあたりから「ああっ!」という声。みんな一斉にそちらにゾゾッと寄った感じ。ええっ、いったい何が「ああっ、なの?」。すると、寝ている頭の上の方から看護婦さんの顔がニュウッと出て来て「気分悪くないですか?」と優しく聞いてくる。本当はちょうど軽く吐き気がしてきていたのだけれど「今のところ大丈夫です」と言っておく。深呼吸。この処置室の中で、僕の見たうちでは比較的年配の(多分)お医者さんが頭の方に寄って来て「中から見てみたら、何カ所かだいぶツマッている所があったので、直しておきますよ」とさっきの「ああっ」の説明をしてくれる。「ぜひ、お願いします」。声から察するに、足の方では、なんか悪戦苦闘している感じが伝わる。「先生、ここは!」って、やってる最中に聞くなよな、お願いだから。でも正しい方向でお願いね、聞いても良いから。深呼吸。「アッ、しばらく大きく呼吸しないでいてね」の声。ヒヤーっ、肺が動くとヤバいとこやってるんだ。頑張ってくれよう。できるだけ浅い呼吸するからさ。ドキドキ。あっ、ドキドキしちゃだめなんだ。

再び看護婦さんが現れ「気分大丈夫ですか」と聞いてくる。ふと気がつけば、吐き気はだいぶひどくなって来ていたが「まだダイジョブです」と言ってしまう。看護婦さんはニコッと(マスクをしているので見えないのだが、感じでは)して引き下がって行った。その直後から吐き気は急速に引いて行く。もちろん、点滴に何か薬が増やされたのだろうということは後になって気付くことだが。俺って、ほんとに小心者だからね。呼吸数や血圧にすぐ出るんだろうなあ。バレバレだ。

本人は15分ぐらいだったと思っていたが、本当は1時間弱かかった「カテーテルを使ったステント埋め込み手術」は宵の口に終了した。僕の心臓には、今の所2カ所、ステントという人工血管補強材が付いた。終わって、自分で腰を浮かしてベッドを乗り換え、ベッドに寝たまま処置室から運び出される時に看護婦さんから「娘さん来てますよ、お孫さんも。」と言われて、ううむ、けっこうシリアスな手術だったのだな、ということが実感された。物理的には、左手首にきつく幅広で透明なプラスティックテープが巻かれていてイズイ以外、痛い所はなく、もう立って歩いて移動したいと思う程身体的な負担は感じられないのだった。むしろこれが、この手術の最も難しい所なのだそうだ。身体的に無理がないので軽かったと勘違いし、すぐ無理をしてひどい再発。終わった直後、僕も、大手術をしたという思いはなかった。検査の延長で、ちょっと心臓の手入れをしたという感じだった。でも、何かの時には来てくれる娘が、僕からの連絡はしていないのにそこにいたということが、何か重大なことだったんだという自覚を促した。その日はそのままナースステーションの側の集中治療室に泊まった。右手は自由なので、導尿はされず溲瓶でおしっこをし、結構深く眠れた。これで、僕も少しサイボーグ化したんだなあ。

2009年9月29日  明けるまでは雨。明けて曇、そして晴。


退院してきた。2週間仙台厚生病院循環器外科に入院し、心臓にステントを2カ所入れてもらってきた。再びのギリギリセーフ、幸運まだ残ってたんだね。

前のブログからブランクだった2週間、そういうわけで厚生病院の10階循環器病棟で静かに寝ていた。大体うまくいったけれど、後1ヶ月くらいは無理をしないようにと、僕の執刀医(ものすごく若くみえる)A野先生に言われている。しばらく静かにしていよう。


前のブログを書いた次の日、15日。朝一番で行こうと思っていたのが色々あって、9時過ぎにかかりつけの仙台東脳神経外科に着く。こういう時に限って渋滞の時間にばっちりぶつかったり、故障車が1車線塞いでいたり、何かあるものなのだ。診察券を出した時は既に10時近くで、今日はもう焦らないで、じっくり検査三昧だなと、のんきに構えていた。だが病院の人たちはそうは構えていなかったようで、券を出したら待ってる人たちをほとんどとばしてすぐ診察室に通され、院長のS木先生とお話。この前の専門検査でちょっと嫌な兆候があるので、このまますぐ専門の病院に行って精密な検査をしてもらってください、と言われる。仙台東の場合心臓系はオープン病院に頼むんだけどそこでいいかな?ときかれる。前にも書いたように、あそこの病院は僕にはあんまりいい印象がなかったので、ううむと唸っていると、ああそうか、厚生病院の方が職場に近いから、あっちの方が良いかなとS木先生が話を持っていってくれた。決まるとすぐ電話で確認をし紹介状を書いてくれた。僕は、特に何も言わずただ唸っていただけなのだが、そういうことになった。心臓なら厚生病院でしょうという話は、世間にあまり関心を払わない僕でも聞いていたので、ちょっと安心した。娘や手伝いをお願いしなければいけなくなりそうな友人たちの家にも近いし。

すぐに移動。仙台東のある利府街道をそのまま西進し、一本道だ。とはいえ、病院が調べてくれた所によると、厚生病院の外来受付は月曜火曜の午前11時までだというではないか。僕が利府街道に出たとき時計は既に10時を回っていた。こういう時に慌てて事故るんだよなと言い聞かせつつ、でもまあ急いでいく。もちろんこういう時も幸町のヨーカドーの前は渋滞していた。仙山線の踏切も混んでいた。しかしなぜか、この時は僕が(本当に)何気なく車線を替えるとその車線は突然ヒュッと空く(ような気がした)のだ。思ったより早く、北四の交差点(もちろん混んでいた)を過ぎ、大学病院(ここももちろん大混雑)を過ぎてしまった。おうこれは快調、うまくいけば見てもらえるかなと思った。そうしたら、大学病院前七十七銀行あたりから左車線渋滞。信号などとは関係なく一台ずつノロノロ進む。前の方を伺ってみると、なんとここまで来て厚生病院への入り口が渋滞。火曜日は混んでいて駐車場が満車なのだ。時間は10時半を過ぎている。やっぱり今日は下見だなと、心を切り替える。ジワジワ進み、病院の敷地へと左折する。一台出てきて一台入る。時計が10時45分を過ぎたあたり、僕は今日はすっかり諦めながら、でも入庫まで後2台目に進んでいた。すると本館から少し年取った守衛さんが一人、苦笑いしながら慌てたように駐車場入り口ゲートに駆けて来た。待っている車に謝りながらゲートの機械のふたを開けて何やら操作をしている。ゲートが、出入りに関係なく開いた。僕は一番上の階まで(この駐車場は3階建て)行くように指示された。坂をグルグル回って上まで出てみると、別ルートで来ていた守衛さんが、駐車の枠と関係なく、空いていて邪魔にならない場所に、車を順に詰めていた。指示されて壁際に寄せて止める。僕の一台後で、本当の満車。10時50分。ここで慌てて怪我してもしょうがないので三階から下りる階段の所に普通に歩いていく。僕は普通なら3階は階段を使う。エレベーターのことなんて全く考えになかったのに、僕が階段の降り口に着いたと同時に、その隣に並んであったエレベーターがドンピシャでしたから上がって来て扉がスイッと開いたのだ。一瞬立ち止まりましたね、僕は。扉は開いたまま。乗ったらすぐ扉は閉まり降下。エントランスに入って、外来初診受付窓口を見つけ(大変わかりやすい作りになっていた)「まだ大丈夫ですか?」「もちろん大丈夫ですよ。」と、仙台東からの書類を受付のお姉さんに出した時は、既に10時55分を過ぎていた。慌てたり走ったりは一切していなかったのに〆切り1分前ゴール。

指示されるままに、2階の循環器内科外来に行く。ここからの顛末はまた日を改めようと思うが、検査の結果心筋梗塞だということがわかり、検査の延長で心臓の血管2カ所にステントを埋める手術をおこない、1週間寝て再度カテーテル検査。その結果良好につき、一応今日2週間目退院ということになってこれを書いている。ずうっと真面目に寝ていたので便秘になった。

とはいえ、僕は、なんだかもう少し生きていなければいけないような気がしてきてはいる。