美術=世界観の固定/拡大

丁寧に注意深くよく見る。

世界観には見えない所はない。



2012年12月29日
明るい曇。丸い空気。

昨日郵便受けを見るのを忘れた。昨日までは毎日なんだかやることがいっぱい有ったのだ。で、今朝郵便受けを見たら、水色のA4版封筒が見えた。村田町歴史みらい館からのものだった。心当たりなし。封を開けると、猫が、見えた。なんだ?しばらく前、丸森に「猫神様調査報告書」を見に/買いに行ったという話を書いた。その報告書をまとめた石黒さんという人からだった。僕のブログを見たらしい。それで新たなお知らせをくれた。ありがたい。
昔、養蚕が盛んだった地域では、蚕を食う鼠を捕る猫を神様にしてしまうのはわりと普通だったのではないか、というようなことを研究している人。ううむ、凄い人がいる。今、彼の勤務先である村田歴史みらい館では「猫を祀る(まつる)社(やしろ)に捧げる」という企画展を開催していて、そこに、例の丸森の猫神様のパネル展を併催しているというお知らせ。僕の廻りにも猫好きの人は沢山いるが、そういう人達は、この展覧会のこと、知ってるのかなあ。今回の展示のメインは福島県川俣町にある「猫!稲荷!神社」に奉納された、明治以来の猫絵馬!(600枚以上!)だという。私、猫好き!というような想いを遥かに超えた、猫を見つめて描いた絵を、これでもかと見ることができるようだ。ようだというのは、この展示会は12月27日~1月5日休館だからだ。僕は特に猫好きというのではないが、この展示は是非見に行こうと思う。あと、川俣町の猫稲荷も。雪、深くないといいな。私猫好きという人は全員見に行く方が良いのではないか。

という文をアップしようとしたら、何とこの前の更新は12月1日だった。一応ざっと、終わろうとするこの月の振り返りをしておこう。

3日月曜、美術館の若い仲間達w/Mr.Oshimaと、前から誘われていたDeep-Sendai探索(本当は仙台マコロン探索だったらしい)で、仙台駅発着で市内北東部を一日歩く(3万歩弱)。大変楽しく面白い散策だったのだが、この後腰の筋肉がバキバキになる。今日もまだなんとなく重い。体力/柔軟性低下を深く自覚。
7日金曜、今年最後のそあとの庭でのお話会。毎月第1第4金曜夜にやっているこの会だが、12月最後と1月最初は休むことにした。みんな忙しいからね。最近は毎回10数名の参加。この会は聴いている人より、毎回のまとめや思い付きが、僕にとって充分なフィードバックがあり、ありがたい。
9日日曜、脳内出血以、あの出血の時一緒にいた友人のMSさんが、来毎年同じ時期その年を振り返る彼女の質問に僕が答えるインタビューを記録したDVDを皆で見る会@X-Box。彼女が物凄いアナログな方法で広報して、10名程の人が集まる。個人的に大変興味が有ったので、電車で苦竹まで出、自衛隊の横を歩いて行く。自分で言うのもへんだが、面白かった。僕はもちろん毎年変わっている/いく。
その週、定期清掃点検のため歯医者。問題なし。本来この時期の僕なら歯は28本有ればいい所、僕は親知らずがまだ有るので29本有るということがわかった。単純に嬉しい。
16日日曜、教えてくれる人があって、石巻日和アートセンターに行く。日和A.C.は横浜のNPOがダイレクトでやっていいて、展示している人もされている人も大変興味深かった。アートマネージメント学科卒業生が、実際に動き/働き始めているのを実感する。往復とも電車。仙石線は松島海岸駅から矢本駅までバスが線路沿いに走る。声もなく野蒜駅を見る。石巻もまだ何もない(と言った方が良いと思う)。でも、美味しいイタリア料理屋で昼飯。軽いノッツオ。帰りは石巻線で小牛田乗り換え東北線経由。強風の吹く日で電車は軒並み数十分遅れだったが、僕が行くとその遅れた電車がちょうど来て、あまりストレスはなかった。
その週、天気のいい日をねらって、花山の道の駅まで正月飾り用のワラで編んだ亀を買いに、車で行く。朝早く暗いうちに出たのに、すでに鹿又は渋滞なのだった。泉から乗り築館で降りる。帰りは三本木からETCで乗り岩沼で降りる。それでも9時半に着いて、昼には帰宅。今年の正月飾りはこの亀と、そあとの人達にもらった完全手造クリスマスリースを組み合わせた齋家オリジナルになる。

11月下旬に導入したペレットストーブは、このような毎日の中で、順調にして快調に稼働し、家の中に炎がある生活の深さのようなものをバックアップしてくれていたのだが、23日日曜、突然動かなくなった。ペレットを送り出すモーターが動かない。様々やって、結局本体交換ということになる。急いでもらって27日木曜昼交換本体到着。なぜかというと、27日は「齋さん家のペレットストーブで羊肉のシチューを食う日(略称ペレット羊の日)が前々から予定されていたのだ。午前中から若い人達がニコニコと集まり始め、でもストーブがないのでまずIHで作り始め、竹駒神社散策などで時間をつぶし、ストーブ到着後皆で食う。ただ、何と10名程の人(しかも全員若い)が集まったので、なんとなく足りないねということになり皆で少しずつお金を出し合って買い出しに行き、夜もそのまま鍋。いやはや面白かったけど、僕は何もしてないのに疲労。全員帰ったのは9時頃で、本当はこの日の夜7時から三浦さんのポラーノでチェロのコンサートが有ったのだが、へたばって行か/けず、そのまま風呂に入って寝た。

という毎日の合間をぬって(逆か?)美術館に出て小学生との活動や美術館探検、及び定例の病院での薬受け取りなどをこなす。時々鍼灸の先生に見てもらっているが、最近は身体の柔軟性が全くなくなってきた感じがしていやだ。なんとかせねばと口だけ騒いでいる。





たいてい、
そこで起こっている事が
そこに有るという事自体が
面白い事だったりする。

ネガティブな思考を外せば
たいていの事は面白いのに。


2012年12月 1日 
小雪が、しかしどんどん、降って来る、厚い曇り。

さて12月だ。昨晩東京の娘と電話で、物を送る相談をしていた時「月末には帰るからその時で良いかな」と言われ「えっ、帰ってくるの?」と反射で言ってしまったが、この月末はもう年末年始なのだった。いやはや。なんだか誰かにだまされているのではないかと思うぐらい時の経つのが早い。先週あたり箱根駅伝を見たように思っていたのだが、あと数週間で、もう次の箱根駅伝を見ることになる。いやはや。

この前のブログを書いて以降、生活で動いた事は1 ソーラーパネルの点検をしてもらった。2 源蔵蕎麦を食いに行った。3 TYZ(トライアル/トレールバイク)が戻って来た。4 ペレットストーヴが来た。5 沖縄に居る娘が少し居た。6 来年度再雇用面接。というほどの事で、その合間を縫って?、幼稚園や保育所の人達との活動、カブスカウトの人達との活動、4年生の人達との探検活動、6年生の人達との鑑賞活動、大学生の博物館学の授業、休日にノッツオの会2回、市民センター主催の美術を巡るお話会。空いている日は、これらの動きを普通の生活に慣らすための活動が続いて、なんだか毎日忙しくすぎた。ううむ、こういう風に改めて書き出してみると、ちょっとうんざりな程動き回っている。

1 僕の家は、個人住宅としては満杯の太陽光発電をしている。今年の夏、一月で4万5千円程の売電をした月もあった。それが10月に入ったとたん2万円を大きく割ったので、どうしたのかなと見てもらった。
屋根の上のパネルを直接は見ないのだった。部屋の中にある電脳の端末表示器を操作してわかる?のだった。ううむ。もちろん特に問題はなかった。発電機とその表示器の間の無線がちょっと途切れた時が何回かあって、そのとき表示器を見ると発電していないように思えてしまうが、電気の売買に関しては途切れなく上手く動いていたと確認。10月は発電的な日照!?は不順だったのだという事がわかった。

2 ふと気付くと、昨年はやはり静かに過ごしていたのだ。山形南陽萩の源蔵そばには少なくとも年1回はここ数年毎年行っていたのに、去年は行かなかった。しばらくぶりで行った源蔵そばは、値段が150円高くなったのと、店の人が順調に歳とっていたのをのぞいて、もとのままだった。冬なので、いつもの大根煮が出ていて、菊のおひたしも出た。もちろん蕎麦は旨かった。このそば屋には、いろんな人を誘うので、僕だけ何回も行ける。2回目に行ったとき、いつも帰る道ではなく戻って来たら「狸森焙煎所」という名前の(注意書きの多い)カフェ(身ぐるみはがされないだろうな?)を見つけて寄り、これまた旨いコーフィーを飲むことができた。旨い蕎麦の帰りに旨いコーフィー。次はこのカフェに行くだけのために山形に行こうと思う。回りの谷あいも面白そうだし。そもそも、超モダンな服装の若いマスターが、一本歯の天狗下駄で、板張りの店内をがたがた歩き回るのが怪しい/嬉しい。「狸森」はムジナ!モリと読むのが正しいらしいが、こうなると僕はタヌキモリでも良いと思うな。
3 この250ccのモーターサイクルは脳内出血をしてバランスが上手くはとれなくなったと思って以来、若い友人に貸してあった。彼はしばらく乗っていたのだが、今年度から廃車にしたと聞いていた。僕はその間トモスというモペットを持っていて、天気の良い日に図書館に行くとき使っていた。このモペットで仙台まで行ったりもするようになっていたのだが、ペダル付き50ccだと、ふと入って行ける道が結構限られる。で、お願いして手元に戻してもらい、新たにナンバーをとった。
エンジンは一発でかかる事はかかったのだが、ゴムやスポンジがすっかり劣化していて、普通に道を走るのには少し手入れが必要だった。こういう仕事をすると、僕は左手がだいぶ麻痺している事がわかって上手くできず、最後は弟の友人、自転車屋の村上君にお願いして、キャブの調整その他をしてもらった。以降快調。このモーターサイクルは2サイクルエンジンなので、音とニオイがとても良い。でも寒くなったので、沢山は乗れない。ううむ。
4 薪ストーブを使いたいと、この家を建てた時から思っていた。一時期本気に見て回ったが、最近の薪ストーブはあんまり煙突や排気は気にしないでも設置できるものが出て来たという事は判明した。何しろ、僕の家は煙突を付ける側の隣の家との隙間が狭い。煙突の事は判明したが同時に、薪が大変だという事も判明した。具体的にシュミレートしてみると、これは煙突なんて問題じゃない程大変だということがわかって、この話はしばらく停止ということになっていた。
先月から始めたお話会に使っているそあとの庭に、ペレットストーブのデモンストレーション機が入った。なんなのこれは!会社の人に来てもらって場所を見てもらい詳しく話を聞いて、これこそが我が家用だという事が判明、即導入決定。設置工事は2人で来て1時間半。アッという間に設置完了。火力はそんなに強くはないけれど充分。点火消化がスイッチ一つ、薪として燃やすペレットは20キロ袋入りで700円ちょっと。電気は使うが、停電の時は家のソーラーで充分な消費電力。家の中に火の燃えている所があると、全体にほかほかしてくるのが嬉しい。
5 沖縄で生活している人達にとって、本土、ましてや東北仙台あたりはもうすっかり危険地帯のようだと、電話していると思う。そういう所に住んでいる娘が、彼女の仕事である展覧会の打ち合わせを東京でするためやって来て、数日岩沼に滞在した。若い人は、一日様々な活動を充分にして家に帰り、夕方から3階の自分の屋根裏部屋に入り込み、引っ越し以来になっている自分の荷物の整理を夜半までする。もう活動は一日一個なんて言っている僕からは想像もつかない仕事の進みよう。一日ですっきり整理され、同時に結構な量の粗大ゴミ。そういう毎日の一日、時間を取って6号線を磯浜まで下り、海沿いを戻る。2年過ぎたのに、ほとんど何も変わっていない。ぼろぼろのままの中学校の校庭に三段重ねに廃棄してある流された車の残骸。何処までも続く両側にペンペン草だけが生えている回りは何も無いデコボコのままの道。放射能とか言っている前に、の想い。言葉も無く写真を撮る娘。時々見に来ないとダメだなあ。
6 もう疲れたからこれは省略。というよりこういう風に書いて来ると、これは思い出すのが疲れる。

というような作業の間に、前に述べた教育活動が入って来る。それは又、違った興奮を僕にもたらし、午前中一生懸命やってしまって午後から気絶!が普通なのだが、そういう時に限って午後から別の団体や相談が入って再び興奮。帰り、駅で立ち食い蕎麦を食わないと糖分不足で家までたどり着かないという具合。大丈夫なのかねえ。
早く帰って、ストーブの前でお茶飲みながら雑誌を読むっていうの、ゆっくりやりたいなあと思う毎日だ。





自分の子供。
自分ではない自分。

この人の年代、自分は何を考え何をしていただろう。
そうか、僕はもう一度生きられるのか。遺伝子継承者。



2012年11月13日 曇。冷たい湿気った空気。

少し前に、預かってもらっていた若い友人から、昔乗っていたトライアルバイクをトレールバイクに正式に改造した、お気に入りのオフロードモーターサイクルTYZスコティッシュを返してもらった。

ただそれは、税金の関係上もうナンバーを返してしまっていた。だいぶ長い間使っていなかったので、動かすのに少し手入れが必要だった。本格的なモーターサイクルをいじるのはしばらくぶりだったので、つい夜までやってしまったりした。上手く手が動かない/届かない所は弟の同級生の村上君がやっている自転車屋に、押して持って行って直してもらった。先週末、快調に動くようになったので、今日は軽自動車協会に行ってナンバー登録をするつもりで、昨日の夜までに用意万端整えていた。で、朝起きて新聞を見たら、何と午前9時からアメリカンフットボールの中継が有るではないか。前にも書いたように、テレビはそのとき見られるものだけで充分だと考えているから、週間の番組表なんか見たことがないし、見ても忘れる。少し!考えて計画変更、登録は午後から行くことにして、まず中継を見ることにした。

先週は、出勤日毎日、午前幼稚園の美術館探検、午後小学校の美術探検という活動が続き、土曜日は午前中定例美術館探検(一般参加者+名取カブスカウト団体)、午後市内大学の博物館実習が来て両方の探検実践をいっぺんにやるという、忙しくも充実した日々だった。そして日曜日は、ぼたもち堂というジャグリングの事務所?が主催する「愛宕神社から向山一周海鮮釜飯昼食付@天竜閣」というノッツオの会があり、月曜はいよいよ導入を考えているペレットストーブの会社が下見に来て、SUMITAという機種に決めるという毎日だったのだ。

ま、今日はあんまり急がずに、まず、フットボールを見よう。

ごく小さかったある時、
僕は自分が正弘だという事に気付いたのだと思う。
今は忘れてしまった。

今小さい人達も、ある時、
ああ、私はこの名前で呼ばれる者なのだと気付くに違いない。
忘れないと良いのに、と思う。



2012年11月 7日 沢山雲のある、しかし快晴。

毎日どたばた過ぎて行く。書きたい事が毎日有るのに、帰宅して、テレビを見て寝てしまう。何もしていない。もう休みの日の方が多いのに何もしていない。
ツタヤが再び老人無料1本貸し出しを始めたのと、ちょっと試しにCSを見られるようにしてみたあたりが問題なのはわかっている。なので/だから、この前の局地的豪雨で壊れてしまった大きいテレビの後釜はまだ買っていない。ま、そういうのも含めて、ゆっくりやっていこうという事だ。

10月中何回か、休みの日に趣味!で美術館に出かけ、私的で小規模な美術探検や美術館探検の活動をした。生活文化大付属高校の保育科3年生とか、市内のシュタイナー教育の団体の子供達とか、小学校に呼ばれて行って、校庭で粘土作りのワークショップとか、いろいろ。もちろん正式に出勤している木金土曜は、ほぼ毎日午前中子供の活動をする。最近子供達とのこういう活動が楽しい。楽しくてしょうがないと言った方が良い。好きな事だけしてるわけだからあたりまえだが。そういう合間を縫ってそあとの庭での傍若無人各論併記/平気のお話会は11月2日の分でもう5回目になった。

活動を間にはさんで、そのまとめのような、言い逃れのような、こじつけのようなお話会をするのは、僕にはこれまでとこれからの自分の生き様を振り返る、大変よい機会になっている。基本的には、近代を自分の中でどのように意識できるかというあたりに、問題のほとんどは有るように最近は思える。ある事ないことつらつら考えつつ、ふと思い立ち、気付いて、ツイッターに連絡文を書き込んだりすると、その文の世間離れした浮き上がり方に笑ってしまったりする。ううむ、なぜに世間はいっせいに同じ方向を全員が向こうとするのだろう。もちろん今のような社会の状況の中で具体的な生活を続けるのは、なかなか様々大変ではあるけれど。

そこに見える物を、
丁寧に、注意深く、よく見る。

見えた物からだけ、私の世界が形創られる。

世界を自覚するには、
見える物を増やすしか無い。



2012年10月19日
快晴。乾いた涼しい空気。

この前更新してからだいぶたったような気がしていたが、まだ2週間程すぎただけだ。でも、毎日いろんな事があった毎日だった。これは書かなくてはあれも書こうとその時は思うのだが、文章にならない。実際の生活が忙しく充実して?過ぎて行き、夜になって、早く寝ないと明日起きられないぞとバタンと寝てしまう毎日。
忘れないうちにこの前の中新田に電車で行った話を書いておこう。四国に行った話はいつになったら書けるのだろうか。

5日は、第一金曜日で、9月から始まった僕のお話会の第3回目。来る人がだいぶ限定されて-と言う事はだいぶ減って、という事だが-きた。最初第1回目、近代の理解が僕達の生活の全体に及ぼす/している視点について話し、次にその視点に気付いたために見えて来る/来た子供の視点の変化とその見方。そして今回3回目、大人がそこに見える対象の捉え方/理解の仕方の順番/深め方を、美術からみるとどういう風に考えられるのかというお話。こういう風に書いてくると、なんだか難しい事を話してたんだなあと思う。「何話してんだか良く解らないのだが、たぶんそのうち気付くんだろうと思って聞いている」という感想を書いた人がいたが、そうだったのかと今になって思う。

7日日曜、だいぶ前に連絡があった中新田の自動車屋に、車検とオイル漏れの止まらないエンジン点検をしてもらっていた、僕の大好きなシトロエン2CVを受け取りに行く。誰かに中新田まで車で送ってもらおうと様々やってみたのだけれど、今回なぜかみんな忙しかったので、車は無し。良い機会だから電車で西古川まで出て、そこから歩いて中新田まで行くことにした。これは/が正解だった。

日曜日だから朝の通勤電車はすいてるだろうと思ったのは間違いだった。明日は体育の日なのだ。8時前に仙台駅から乗った小牛田行きの電車は、松島駅まで、ランニングの格好をした老若男女で乗り降りできないくらい満員。利府でスイーツマラソンが有るのは知っていたが、あの人達は何だったんだろう。まさか松島から利府まで走って行ったのではあるまいとは思うのだが。東北線松島駅で全員降りる。松島マラソンだったの?そのあとは、数えるほどの人だけが残って小牛田まで。小牛田で陸羽東線に乗り換え。この線の車両は片一方が一列の座席で、ゆっくり窓の外を眺めながら行ける。数えるほどの乗客で、何処にでも好きな所に座りほうだい。窓からの眺めを楽しみながら、今度はここ(陸前谷地とか)に来て見ようとか乗っていたら、古川駅で再び体育着の若者大集団が乗って来た。たすきをかけているのが何人かいて、彼らは古川学園中学校の人達で、30キロを歩きとおす会に出かけるところなのがわかる。突然再び超満員。いやはや。とは言え、30キロ強歩(競歩ではなく)は、僕が仙台一高に入った年から始まった行事で、僕等のあれが宮城県では最初だったはずだ。その結果がここにある。でも出発時間遅いんじゃないか?もう10時すぎてるぜ。僕等の時は朝6時スタートで、連坊の校舎から遠回りして秋保温泉岩沼屋まで35キロ。二女高前一番通過を争う人達も居たなあと、懐かしく思い出す。ただ、小牛田から電車はワンマンカーになっていて、そうすると、降り口は運転士の後だけではなかったか?ちょっとあせって(何しろ、西古川は古川を出て2駅目なのだ)子供達をかき分けながら移動を開始するも、今回はちゃんと車掌さんが乗っているので大丈夫、すべてのドアが開くのだった。西古川下車。跨線橋のある立派な、しかし無人駅。駅前の集落は普通の街で、バス停なども有り、みんなが住んでいた頃(今でも住んでいるのだろうが)は普通に昭和の街並だったのだろうが、今はやたら寂れた感じのする街になっていた。誰もいない、駅前広場。店のような建物が道路に面して列んでは居るのだが、だいぶ前から店はやっていない感じの町並み。すぐに田圃。ずうっとむこうを古川からの国道が走っているのが見える。駅からの道を途中で曲がり刈入れの終わった田圃の中の道を選んで、そっちの方(国道の方)へなんとなく行く。途中の農家の中庭で遊んでいた、まだおしめとれていないぐらいの小さい人が、珍しい物見つけたという感じに、僕の方にダアーッと走って来て、慌てたお母さんに抱きとめられたりする。
道路沿いのホーマックを眺めつつ便所を借りたりしながら、中新田町に入り、目的の中新田自動車に到着。何処がどうなっていたのでどうだったのかの実物を使った詳しい説明を聞き、驚愕。本当はもう全く使い物にならないところだった古い車を、基本的な整備はもちろん、接着剤や何やかにや(詳しくは特に秘密)を使って、動くようにしてくれていたのが、今回の完全徹底オーバーホールで判明。覚悟していたのの四分の一の代金を払う。中新田だとは言え(差別発言)、なぜこんなに安いのだ?とは言え、ここ何回かの車検は僕の知らない所でもの凄く手を入れてくれていた後藤さんというメカニックの努力の賜物だったのだ、という事がシミジミわかった。しばらくぶりで再び戻った、新車の時のエンジン音に包まれて幸せのうちに、途中で蕎麦を食いつつ、何事もなく帰宅。
次の日は体育の日の休日で、なんと岩沼小学校4年2組の同窓会が有る。

良く見て描く。

注意深く、丁寧に、善く見て。

描くは書く。言葉を!




2012年10月 5日 高曇り。乾いた空気。

アッという間に日がすぎる。この前書いた/更新したのはそんなに前じゃないよなと思っていると、イヤハヤその間にあった事を書くのが面倒になるほど、毎日充実した(色々なんだか面倒な事があるという事だ)日がたっている。

東山魁夷展が始まった。僕はあんまり好きでない作品。そあとの庭で金曜夜始めたお話会で、「そもそも風景画ってなんなんでしょうねえ?」という質問があったので気にしていた。様々理屈は知っている。違うな、理屈は聞いているだな。とにかくあまり好きではない態度でざっと見た。しかし、できるだけ先入観を持たず好き嫌いを無視して、いつものようにざっと見た。ううむ、この白い馬のリアルさは何なんだろうという印象が残った。
ちょうどその日、地下の県民ギャラリー(一般用貸出し展示場)で、県芸術協会絵画部公募展の入選作展示をやっていた。展示場を2つ使って沢山の作品が展示され、仲間や絵画教室の生徒とおぼしき年配の女性達が、そこここに固まって、様々な会話をしていた。奥行きの捉え方が上手だねとか、心情の描き込みがとか、なかなか専門家っぽい話しの内容が漏れ聞こえて来る。でもね、全体としては、素人っぽくて下手だなあと、僕は感じた。描き込んである上手な絵は、もちろん何枚かあったけれど、全体としては、下手だなあという印象。なぜだろう?
そのまま1階の常設展に行った。いつもの常設。州ノ内コレクションのや、萬鉄五郎の風景/春も飾ってある。描き方としては雑で下手なものも多い。言ってしまえば、これらはあの公募展に出したら落選するだろう。でも、全体としては上手いなあと感じる。なぜだろう。
で、もう一度東山魁夷展を見に行った。すまぬ、僕は職員なので何回でも出たり入ったりできるのだ。展示室をブラブラ歩きながら閃いたのは、ううむ、「彼は見て描いてないんだな!」という事だった。

いろんな所で何回も言っているとおり、絵を描く時は対象を見て描いているのではない。絵を描いている時、描いている人は自分の頭の中の世界を見ている。自分の頭の中に世界があることをわかっていて、それの見たい所隅々まで見られるかどうか、絵を描くとき問われるのはその辺りなのだ。そういうふうに思ってみると、下手な絵は見て描いてしまっている。絵を描いているとき、頭の中の(本当はそれ(だけ)を見なければいけない)世界/映像が曖昧になって現実を見てしまうと、そこには見える物しかない世界が見える。見える物しかない世界とは、見える側だけある世界だ。そこにある山や森の裏側は裏側だから見えない世界。頭の中の世界には、裏側はない。いや有るけれど、裏側がある事を「知っている」ので、見えない所にも世界は続いている。頭の中の世界は世界観という世界なので、先天性全盲で、生まれてから一回も世界を視覚的に見た事がなくても、上下左右前後、踏みしめる大地を地球に生きる人間なら誰でも感じることができる。みんなの心を打つ風景画を描く人は、自分の頭の中にある風景が描ける人だったのではないか。

そこに見える風景ではなく、そこで彼が見た風景を見ないでかける人。彼は最初から頭の中に見える風景を描いているので、そこには深い森しか描いてないように見えるけれど、その森の裏にある草原や山や、その上に広がる空や、山の裏側の街や、何やかにやが全部ある世界が見えている。でも、しょうがない、描く紙がこの大きさしかないなので、枠で切り取ったその森を描くほかなかったのだ。元々頭の中の森だから、そこに出てくる白い馬は、居たとか居無いとかと関係なく元々から本物としてそこに居たのだ。僕が感じたリアルさはそこから醸し出されたのだろう。善い風景画は、たぶん、作品を囲む額縁の外側を/も描いてある絵なのかもしれない。ワー凄い!と声をあげてしまう世界は、たいてい常に、額縁の外側に有る。

なんて言うような事を考えて、さて、8時間かけて台風の四国に電車で行ったという話しは、ね、次の話しでしょ?という毎日。


正直 真剣 臍曲がり、
だと信じてやってきた。

でも、気付かないように、
嘘つき 適当 言われたとうりになってしまっているかもしれない。 

絶えなる点検。




2012年 9月26日 乾いた風。高く雲のない青空。

ここ数日しとしと降っていた雨があがったら、突然の秋の青空だ。着る物の入れ替えをしたいが、本当にこのまま秋になるの?でも、パジャマは変えよう。

今週の金曜日に齋の話2回目をそあとの庭でして、週末から四国に出かける。高松のNPOの人達(主に学校の先生)の質問にのりに行く。丁寧な人達(というより一般的な日本人なら当然の態度なのだろうが)で、事前にいくつかの質問を送って来て、当日の進行案も連絡して来た。

ごくかいつまんでいえば、質問は、最近の現代美術のように題名などを読んでも作家の言いたい事がよくわからない、取りつく島のない作品をどのように見れば良いのか? 前日夜、僕は高松に着き、会は次の日の午後の予定なので、夜の歓迎会に始まって、当日午前に名所案内しますか?というような提案。当日の進行は、4時間ずうっと質疑応答では大変だろうから、まず自己紹介をして、手紙で送った質問から話を始め、徐々に質疑応答、途中休息あり、というものだった。

僕は臍が凄く曲がっているのだろうと思うが、こういうのはなんだか時間のムダのような気がする。近代の個人の自覚が始まっていないと言うか、、。前にどこかで読んだ、宮崎駿さんが講演会などによばれ、始まる前の時間をパチンコ屋に入って、校長先生や何とか長さん達とお茶をのむ時間をできるだけ減らそうとする話しを思い出す。こういうのはあんまり気にしなくていいのだよね。お葬式に、喪服ではなく、喪に服した服を着ていくことができるかという感覚に近い。夏だからみんなそろってネクタイを外すではなく、暑い時には暑い時のキチンとした服装ができるセンスというか。ホオリッパなしにするというのではなく、でも気にしないでおくという感じ。個人でできますよね、というのに両方が自信を持っていて、でももちろん困ったらいつでも全力で対応できますよというような。大変ありがたい申し出だが、ほとんどほっておいてもらっていいですよという返事を送った。

こういう状態は実は取り付く島のない現代美術の作品に対峙した時に似ている。せっかくちゃんとした(ごく一般的な)進行を考えていると、それに全く乗って来ない。歓迎会や打ち上げの相談に乗って来ない。そういうのはしなくていいと言う。最初から質問をしてくれと言い、それから話しを組み立てると言う。そもそも、どういう話しをどういう考えでどのくらいの時間話すのか、事前に教えてくれない。普通、こういう状態が起こると、取りつく島のない人だ、困ったものだという事になる。ね、現代美術の前に立った時と似てるでしょ?すべてがこちら側にあると思っている(又は、そんな事思いもしない)と、こういうことはよく起こる。それが、美術は個人を尊重し、みんな違うんだという事を理解する事だ!と普段教えている人達でも起こる。個人と社会(と思っているシステム)はこういう風に会合する、未知の物のように。

今週金曜日の齋のお話会で、僕は主に、人の発達/発生とモノの見え方=絵の描き方の話しをするつもりだけれど、こういう事が統計でわかっている年代のうちに、個人が心から(甘やかすとかわがままという事とは最も遠い所で)尊重されていれば、たぶんこのような齟齬は起こらないのではないか。そもそも基本は一人。寂しかろうが辛かろうが一人。人間は既に、一人で生まれ、一人で死ぬ、という事さえ自覚できるようになっている。
なので、僕達は社会を考える。コミュニケーションを考える。話すというのはそういう事で、人生は、突然違う考え(他人の頭の中は見えない)にどう対応するかという事の連なりなのだ。だから/そうすれば、美術は識字教育だということがわかる。




基本は一人。

見えている物は、私にしか見えていない。

まず一人、として考え始めてみるしかない。

2012年 9月19日

湿った暑い空気。厚い曇り。



 来年も再雇用されたいか?という問い合わせが事務方から来た。ううむ、来年のことは本当にわからないなあ。でも、とにかくそういう方向で書類を出しておいてくださいということなので、書類に記入し作文を書いた。何気なく、しかし思う所を短く書いたら、アッという間に以下の文になった。でも、書類添付用の文は400字以内だという。そっちには書き直した物を付けるとして、せっかく書いたのだから、ここに公開してしまおうと思う。


  再雇用されて1年働いた。昨年、初めての再雇用のための作文で、僕はやや腰が引けた感じでいる旨書いた。もう30年間もやったのだから充分ではないか、と。

 この1年やって見て、それは、やはりそれはこちら側からの視点だったということを身にしみて感じた。この30年間、僕は常に注意してこちら側からの視点—それは、学校教育での教師の視点というような意味だがーにならないように注意してきたと思っていた。美術館での美術教育というような社会教育(もちろんそこだけでなく、「教育では常に」が正しいのだが)では、教育の主体は常に強く受ける側にある。今日の教育の目標を決め、教えることを準備し、授業方法の計画を立て、「はいこっち向いて」と号令をかけて話し、聞いてないと怒り、話し終えると、こちら側が一方的に評価する。学校教育ではごく当然の形態は、社会教育では全く使えない。いや、「本当は」使えない。日本では、学校教育以外の教育形態について、ほとんどの人が注意を払わないので、「本当は」と断りが入ってしまう、ということこそが問題なのだが。

 実際の社会教育では、何をどのように知りたいかは、そちら側(受け手側)が持っている(とみんな思っている)。受け手側が知りたいそれが、その問題のどの辺に位置していて、そこからの展開においてその人がどれほどの可能性のある展開の力を持っているかということは、質問している(わかり易くいえば、素)人にはわからない。ごく素朴で素直な疑問/質問から、(たぶん特に)美術は大きな飛躍と展開が起こる可能性を常に持つ。社会教育では、そういう可能性をその質問者自信が自覚できて、自主的に展開できるようになることこそが教育の目標になる。(そして再び)もちろん社会教育だけではないのだが。

 しかしこういうことはなかなか上手くは伝わらないのだなということがこの1年で身にしみた。やっていることは全く同じことだが、役職から離れ、より時間的事務的な余裕の中で、より広範囲に来館する老若男女みんなの相談に乗る。美術館職員も含め、その活動を通して、美術の深さと広さを実感として感じられる人を増やして行く。仕事はむしろ今から始まったと言えるのかもしれない。



見える世界は知っている物だけで、できている。

世界を拡げるには、知り方の方法から変えるしかない。



2012年 9月 9日 乾いた秋の風。でも夏の日。

 7日の夜に、第一回お話の会が終わった。たぶん、来てくれた17名?の人は、みんな僕を知っている人だったのだろうけれど、僕は知らない人が何人かいた。行きたいが行けないという連絡をくれた人数名。みんな来てくれてありがとうというのはなんか変な感じだな。

 近代の自我の確認を巡る想いを話した。話したことをまとめて記そうとすると、こういう固い言葉になるので困る。もちろん全然難しい話ではない、と話した本人は思っているのでたぶん一層、困る。くどく、長い、各論アッチコッチ併記(平気)なお話。美術館でこれまで(ま、今も)様々な相談に乗っていると、最終的に「僕等は近代の最後のあたりにいるのだという自覚」を、その「困って相談に来ている人」がどのくらい持っているかが、問題の基の所に深く関わってくることが多い。相談は実践的な受け答えだから、そのの最中には、なかなかそこまで話す時間がとれない。今回は、思う存分そこのあたりのことだけを話したから、普段のストレス?が少し解消?した?

 ほんの少し昔、神様や悪魔や、お化けや魔法使いや、要するに人間ではない人間の仲間がすぐ身近に(心から本当に)いた時代の「私の意識」から、私を意識することは「私だけがここにいるということだけ!」が確実にわかる、ということだという「自己のわかり方」を気付いてしまって以降を近代だと考えると、今の私達を取り巻く様々な問題はそんなに難しくないのではないかという、実に楽天的な内容。できるだけそういう態度で、自分の生活/人生を組み立て理解したいものだという話。
 そこから始まって、今、僕の今ここにある問題(震災、原発に対する態度から始まって、昨日の帰りにであった署名活動に署名すべきか否かまで)に、即興で個人で対処できるのが近代。即興ということは、深く考える前に、直感的にその行動は自分にとって善かそうでないかを決めて動くということだ。動いてしまったことは取り返しができない。取り返しができないということは、してしまったことをその後如何に自己肯定できるかということだ。近代の自我は、やったことにそういうふうに責任を取る。
 尻をまくるとか、言い逃れをするとか、開き直りとか、日本の言葉には、だいぶ前からそういうときの様々な自己肯定のための言い回しがある。そしてそれらは、どちらかと言うと否定的な言い回しであるように感じられるけれど、むしろそれは、僕達の中に西洋の人達が気付くだいぶ前から近代の自我の認識があったからではないか。僕達の世界の神様は、西洋的な意味での神様とは、たぶん初めから全く違った形でいたのだと思う。近代が、ここまで来た今だからこそ、深い意味での開き直り=覚悟の意識とその実践の仕方を考えたい。



沖に向かって泳ぐ(©池澤夏樹)
という言葉は好きだが、
僕はたぶん曲がる。

沖に向かって!眺める。
何処まで見えるかに
想いを馳せる。だめだな。


2012年8月25日 暑い夏。風は秋っぽい。

 8月も、色々あって、もうすぐ終わる。早いなあ。ぼやっとしてるうちに死んでしまうのだなあ。美術館から退職しても、美術館、自宅をとわずいろんな人がいろんな相談に来る。それらの相談にのりながら、様々思う。人は皆違うという事を理解してはいても、ううむ、君はそれにそう行くか。それにはなんかもっとこう面白い人生があるのではないかなあ、と思う事が多い。人はそんなに他人とのつながりの中で生きているモノだったのか。ああ、それがみんなには「面白い事」なのだな。僕はけっこうそういうあたり、面白いとは思わなかった/気付かなかったのだなあ。

 8月の初旬、9月から始めるお話の会のチラシを作った。チラシを作るためには考えを厳しく端的にまとめなければならない。様々伝えたい事は本番で話せば良いのだから、チラシでは伝えたい事を端的に。という作業を少し他人と(撒いてもらわなければチラシにならないので)したら、僕の常識は本当に今の時代とはだいぶ離れてしまって来ているのを実感して、嬉しかった。本当は、常識は人の数だけある。

 僕のチラシは半分手書き。必要情報はパソコンで打って、余白を空け、そこに筆ペンで、「伝えたい事」を書く。僕の場合、伝えたい事を冷静に書くと、もの凄くくどくて長くなるのでこのお話会をするわけだから、そういう「感じが伝わるような単語」を直接、筆で書いて、署名入り。チラシを配ってくれる人には、僕が全部書きこんだのと、書き込む所が空欄のを両方あげて、彼らが、勝手に書き込んで作ったチラシでもかまわない事にした。僕から直接もらって行く彼らは、ぜひ僕の話を聞きたいという人達だが、何を聞きたいのか(齋の話のここが聞き所)は、みんな違う。で、各自書いて(決めて)かまわない。どっちにしても、僕の話はそんなにバリエーションに富んでいるわけではないわけだし。できたら、チラシをもらった人が各自5枚ぐらいずつコピーして撒いてもらうとありがたいという「ねずみ講式」チラシ。だから最初は5枚しか枚数が無いチラシ。それってチラシか?
 参加料も、聞き終わってから各自(今日のはつまんなかったから10円だな!とか)決めて箱に入れる方式。それって賽(齋)銭箱ですねという人あり。ううむ、再び新興宗教の匂い、フワリ。ただ、ここの所(自分で参加料を決める)がすでに(結構高い)ハードルだという人がいた。ううむ、自分で決める事の開放感を巡るお話になるから、このへんハードルだと感じてしまう人は聞いてもつまんないかも。
 僕がニューヨークにいた時のメトロポリタン美術館の入場料はコントリビューション(寄付)で、入場者が各自入場料を決めて入場券をもらう方式だった。入場券が無いと入れないのだが、それがあればその日は何回出入りしてもかまわなくて、しかもその寄付の値段は自分で決める。学生運動が沈静化した日本から来た典型的若い日本の男子(俺の事ね)には、もの凄くアメリカだった。誰の後に列ぶかが問題で、僕等(僕とカミさんね)は二人で10セント(ほんとに貧乏だったのだ。1ドル360円だったし)に決めてるので、前の人が100ドルとか(貴族のいないアメリカには普通にいる。寄付はその人のステイタスなのだ。)出してしまうとなんかヤバいと思っていた。で、もちろんその感じが間違いなのね。いくら出そうが、受付のお姉さんは同じ微笑みを返してくれる。この微笑みのそっちとこっちの見交わすまなざしの感じ。そういうのを含めてアメリカだった。さて、今はどうなっているのだろう。そういう感じの参加料。チラシの文字の概念説明で、第1回は終わってしまうのではないか?いや、今考える近代について、僕は話さなければいけないのだ!

人が見ている物は、
その人の概念の世界だ。


概念そのものの変化がないと、
世界は変わらない。


美術はその辺りに効く。



2012年 8月 6日 乾いた暑い空気の晴。一瞬だけ町中が海になったような土砂降り。

その一瞬の土砂降りの時、僕はカミさんと町はずれのラーメン屋にいて、麺をすすりながら窓の外の大荒れの海を見ていた。その後家に帰ってきたら、夏だから開け放して網戸だけにしていたいくつかの窓から、その海のような雨が家中に吹き込んでいた。これはもう雨ではなく浸水とでも言うもので、二階に吹き込んで床を水浸しにした雨が、天井から滴り落ちて一階を床下浸水していた。僕がこれまで体験したことのない自然状況の雨。僕はテレビを網戸の前に設置しているので、震災を乗り切ったこのテレビもこれで終了だ。とは言え、家電関係で動かなくなったのは、その大きい画面のテレビとDVDとヴィデオのプレイヤーぐらいだったのは幸いだった、のか。

さて、9月から、僕のお話の会を始める。9月から来年の2月まで、毎月第1と第4金曜日夜7時から8時半。場所は西道路の青葉山トンネルを西に出てすぐ左に降りた先にある「そあとの庭」。「俺は美術の話はしないぞっ!(本人談)」と言う美術の話。そあとの庭に提出した文を以下に公開する。そのうちチラシも作る予定。


美術探検―実践余話
「大きな羊の使い方―否実技」
 作る人も含め、ほとんどの人に取って美術はほぼ「見る」ことだけだ。「私(個人)が見る」ことにこだわったとき、美術はどのように使えるのか。その実践的使い方(類型=公共的ではなく)の点検を通して、20世紀的な概念では見つけにくかった基本になる美術概念の気付き/見つけ方を考える講義。
 というようなことを基本的に気にはかけ続けるが、(本当は)あまり気にしないで、アッチコッチに飛び回る齋の美術漫談を通して美術に触ってみられるかを体験する演習。
□ 対象 制作者を含め、美術愛好者。美術に興味のない人。
    その他、内容理由はともかく、齋の話を聞きたい人。
□ 内容 ほとんどはお話。及びそれを巡る質疑応答。
    図工的造形活動は必要な時にしかしない。
□場所 基本的にそあとの庭1階。
□日程 9月~2月間毎月2回 第1第4金曜日夜。
□時程 1800 開場。予約者サパー。(要予約)
    1900 講義開始。1時間講義。30分質疑。
    2030 終了。
□参加料 講義前に軽食をとりたい人は予約した上で1500円。
     講義終了後、各自がその日の話の値段を決め各自寄付。
□話題 
 9月初回  ○美術史点検。超個人的に近代を理解する。
 9~10月 ○義務教育で学ぶ美術の意味。
       ○美術館に連れてこられる子供の戸惑いを考える。
       ○ 子供の絵を美術から見る。
       ○ 識字教育としての美術教育
 11~12月 ○美術は本当に生活の役に立つのか具体的に考える。
       ○ 美術の始め方/始まり方。
 1~2月  ○美術を学ぶ理由/学ばなければいけない理由。
       ○そもそも美術って何ですか?を具体的に考える。
       ○なるほど、だから美術館か。
で、「俺は美術の話はしないぞ!」(齋正弘 署名)という内容。
毎回、最初の1時間一方的な話。その後少なくとも30分質疑応答。
終了後、思ったことのメモを各自出し、次の回はそれに答える所から話を始める。
□ 美術の原理を使った、毎日の生活の点検のような話になるのではないかしら。なので、今、美術を巡って何か質問がある人には使えるが、既に美術をしてる/知ってる人には害になるのではないかな。本人は皆なあんまり来なくていいよという、若干腰の引けた態度。最初5名ぐらいで始まれると理想的。(本人談)


この文章では意識的に外国語を使わないようにしている。本になった「大きな羊の見つけ方」のお話版?のようになるといいかな。当然お話だけ(多分?)。「ひじつぎ」とワープロで打つと非実技と出てそれが正しいが、僕のは否実技。実技でなくても美術になるための練習というか、生活のあり方のような話。
そあとの庭には良いパテシエの人がいるカフェがあって、スイーツはもちろんだがそのランチもとてもおいしい。普通は5時に閉まってしまうのを特別夕方に対応してもらって、予約した人はそのランチ(デザート付き)を食べてからお話に参加できる。だからサパー。もちろん自分で夕飯食べて(もちろん食べなくてもいいが)7時までに来れば誰でも参加できる。本当は美術嫌いな人の質問に答えたい。ちょっとやそっとでは答えられないような質問を考えたい。
話を聴き終わってから、今日の話はなんぼだったかなと、各自考えて参加料を払う。夜にお話の会を持つと、どうしても施設の維持費が必要なので皆でいくらかずつ出すことになる。特に今回はだんだん寒くなるし。
演題(話題)は、わざと美術という言葉が入るようにしてあるが、僕の話を聞いたことがある人は知っているように、ほとんど直接、学校できたえられた「美術」を巡る話にはならない。

ここが一番伝えるのが難しい所なのだが、美術ってそもそもが概念の点検崩壊と確定拡大の変化が最も劇的に面白い。なのに、人は各自の概念でしか物を見ない/見られない。だから「その概念がね、、、」という所がどうしても伝わらない。書いてある文字の意味を、自分が知っていることや物だとして理解する。そうすると、自分が知っていることや物はそれを超えては存在しにくい。でも、物やことは個人の経験を超えて存在する。世界の中!にあるそれ!を実感できると、自分の世界観も大きく拡大できる。でも、その「変化する時の感じ」は一緒に同じ時間を共有するしか具体的には伝わらない。その辺りに美術は効く。なので、だから、これまで実技になってしまっていたのだろうと思う。こんなの絶対行かない、全く興味ないという人達にこそ話をしたい。
なんだか新興宗教みたいだなあ。でももしかすると、本当の美術って、常に!新興宗教なのかもしれないとも思う。ええい、まず一応やってみようぜ!



あのメス(母)とあのオス(父)の遺伝子が、私。


私の子供は、私と妻の遺伝子継承者。


子供は私ではないが私だ、という意識



2012年 7月21日 湿った冷たい空気。厚い雲。

 最近起こったりやったりした事を通して、あちらこちら考えが飛び回る。起こった事は、森での活動を見に行った時に誰かが遅れて来たとか、夕食後のテレヴィで小田実の遺言特集をしていたのを偶然見てしまったとか、保育所の人達との活動の打ち合わせをしたとかそんなたわいない事なのだが、そういう事が様々重なって、ある時ふとある事に気付く。
 たとえば、僕はそうではないし、かつそうならないようにしようとして来たはずなのだが、どうも、僕は分類上、アカデミックなインテリゲンチャという物なのではないかと、最近思い始めた、というような。

 何だか最近の僕の職場は、確か「美術館!の教育!をする所」なのに、ほとんど上意下達の言葉だけで、教育が進むようになって来ているのに誰も気付いていない感じがする。

 今「じょういげだつ」と打ったら出て来ず、これは上意下達(じょういかたつ)と読むという事がわかった。61歳にして初めて知った。今まで僕の上意ゲダツに付き合ってくれていたみんなすまなかった。

 前にもどこかで書いたかもしれないが、今年度僕の代わりに来た部長は「僕に言われたものを色々読んでみたが、ここは何をする所なのか何処にも書いてない」と言う人だった。僕は「概要」に充分書いてあってこれ以上細かく書かれると嫌だなと思っていた。そもそもこの美術館は云々、だけを基本に実践をやって来て、辞める直前に少し文章にしてみた。それでも書きすぎたと思う所がある。という話をしたら、今残っているスタッフのみんなは少し笑いながら、組織というものはそうではない、というようなことをしたり顔で言うのだな。ううむそうだったのか、みんな大変だったんだねえ。自分で考えるという事が。たぶん戦争している現場だったら、僕も少し代わるかもしれない。僕はサンダース軍曹好きだし。でも、みんなそういうの好きなの?教育の現場で?

 でも、今、美術館。そんな、どこかに書いてある事をするのって美術館で集めてる美術で説明できる美術か?ううむ、みんなそういうふうに「自然と疑問無く思って」いて、しかも、それを「上手くやる」のが教育だと思っていたのね。だから、学校はああなって、子供はこうなって、なので、そこを良い(誰にとって?)成績で出た親はこうなって、当然そういう人が集まった社会はこうなって、そうか、当然いじめはああなって、学校はこう対応して、、、。ね、こういう風に話が進み広がることができるのは、アカデミズムの基本であって、その対応まで見えてくるのはインテリゲンチャの頭の有り様だ。でも、すべての革新/進歩は、常に正しい!アカデミズムから生まれてくるのではなかったか。

 こういうこと言うのが、要するに凄くアカデミックだなあ。少し、やや、うんざりだがしょうがない。こういう風に歳をとって行くのだなあ。





そこにある事は様々な事が積み重なってそこにある。


思いもよらない様々な事に想いを馳せる。


ここに石があるように。



2012年 7月13日 蒸し暑い高曇り。雨降らず。

 今日は既に7月19日だが、13日に書き始めた文が今日終わったので公開する。このあたりから始まってこの一週間、考える事が多かった。全く違う事を考え、全く想いもかけない地点に着地したのだけれど、なにはともあれ、まずはここから始まった。書いておこう。

 みんなは胃検診に行ってしまった。僕は今年から週3日出勤なので、職場での健康診断からは外され(職場検診に混ざるためには週勤4日以上必要)て、町の健康診断に自己負担で申し込まなければいけないことになった。なので、今年はそういうことを何もしない事にしてみたい。一人創作室に残って、これを書いている。

 昨日午前中は岩切保育所の年長組が20名程来て、小雨の中美術館探検。善い子供達で、大変面白かった。午後、長命ヶ丘保育所の先生が2人来て来週の下見。今日は今から、日吉台小学校の4年生が60人来て、二グループに分かれて美術館で活動。僕は美術館探検を2回連続でする予定。そして明日は月例の美術館探検だ。雨降りそうで降らない。

 7月4日に、しばらくぶりで、不特定の人達とのノッツオをした。範囲は一応長町モールから一番町への良く行く典型仙台末端街中ユラユラルート。午前10時地下鉄長町南駅モール内出口(あたり)集合。主につれづれ団という面白い事やりたいね団体のメーリングリストで集まった人7名。あっちこっちから三々五々集まって来る。この人達は、既に様々なつれづれ活動をして来た団体なので、面白い?物見つける視野範囲がすでに広い。いつもの、何回も来ている道程なのに、新たに上までツタの絡まった電信塔(既に回りを高層マンションに囲まれていてあんまり電波飛ばなそうだったが)とか見付けて、どんどんルートが変わって広がっていく。旧秋保街道に出て古くからある洋品店のワゴンセールで「ビルケンサンダル」という名前!の399円のスリッパに見入ったり(心を鬼にして購入はしなかった)しながら蛸薬師に裏参道から入り、長町病院に出て僕が子供の頃から知っている木製アーケード(もうすぐ崩壊しそうだ)を経て駅前に出る。そのまま駅に行こうとしたら、向かいの新しい高層マンションの敷地の中に赤い鳥居が見える。よく見ると鳥居と小さなお堂が見えるのだが、歩道側は金網で囲われていて、入る所が見つからない。様々歩き回ってぐるっと回り込んだマンションの敷地の駐車場側からたどり着く。赤い鳥居の後にある大きい土台には、片隅に小さいお堂があって、残った広い面の部分に太いボルトが二つ突き出している。みんなでこの状態を楽しんでいると、「皆さんはどういう団体の方ですか」と管理人さんが出て来てしまった。静かに話してはいたのだが、ま、当然ではある。こういう場合、僕が一番年長なので、代表で答えることになる。こういう時、顔の筋肉の麻痺を少し感じる。
 イヤハヤドサクサと抜け出して予定の道に戻り、本当はここから出てくるはずだったんだぜというスーパー脇の路地を見たりしながら、長町駅向かいの和菓子屋「蛸屋」へたどり着く。もう12時を過ぎていて、各自ちょっとしたスアマなんかを購入。おいおいそんなに買ってどうすんだよという人少し。昼ご飯は後で別に食べるんだからね。各自様々なレジ袋を下げて、切符を買いホームに上がる。日差しをさけて、ホームの北橋に集まり、車座に腰を下ろして、スアマ等で軽く静かに宴会。歌、挨拶等無し。隣の高架の上を新幹線がピュッと通りすぎる。我々の車座の側で写真を撮るため待機していた鉄道マニアのおじさんの「今のは試作車だぜ」という解説付き。電車を2本程(この時間、電車は数分おきに来る)見送ると、帽子に赤線の入った駅員さんが向こうの方(我々はホームのはずれなのでずうっと向こう)からやってくるのが見えた。おっ、次は何かな?「皆さん黄色の線の内側でやってください」。凄い、それだけ言うと返って行ってしまった。ううむ、確かに2人が黄色の線の外側に座っていたのだった。急いで黄線の中に移動し残りを食べる。次に来た仙台行きの電車にみんなで乗って仙台駅へ。
 仙台駅では、仙石線への長いエスカレーターに乗って地面の中に降りて行く体験をし、地下道を通って七十七銀行本店の前に出る。みんなで本店受付に行って、金融資料室の見学を申請。電気付けますからちょっと待ってくださいを経て4階の博物館へ。おおこれが小判かなるほどというような感激的見学の小一時間をクーラー付きで楽しみ、二番町通りへ出る。小学校脇を通り抜けてイロハ横丁の中のレーションへ移動。レーションは知る人ぞ知る本格マクロビオテックの食堂で、時間どきに来ると、カウンターしか無い店は常に満員。けれど、今日はもう二時を過ぎていたので、全員入って善くかんで食べる質素で豊かな玄米昼食。その後、中野神社をお参りし、光源社を見て、むかいのカフェアンビアンで食後のお茶を飲んで解散。腹一杯の一日だった。

解放されていれば、一人でいることはそんなに困ったり苦しいことではない。


だから学ぶべきは、個人を解放する練習法なのではないか。


2012年 7月 9日 
湿気った空気の高曇り。長袖を着ると汗。

「お父さんのひとりごと」を読むと書いてあるが、基本的に僕はずうっと「一人で遊べる人」になろうとして生活/人生を組み立ててきたように思う。だから2011年度が終わって、ほぼ毎日が日曜日状態になった時、これで、「S氏(俺のことね)の優雅な退職生活」が始まるのだと思って嬉しかった。この考えは大体は正しかったのだが、大切な所で間違っていたことがすぐに判った。この前のブログで「これでS氏の優雅な生活が云々」と書いたのはその経験が下地にある。その話を書いておこう。

退職したばかりのある日、朝刊に「猫神様の報告書」ができたという記事が乗った。怪しいでしょう?猫神!ですよ。丸森の「ふるさと館」に問い合わせよ、とある。最近猫はやたら人気がある。大切だけど地味で、人あんまりはいんなさそうな展覧会で「良い猫の絵が一枚ありますよ」と広報しただけで突然入場者が増えたりするのを、美術館にいたとき体験している。僕は特に猫が好きなわけではない。でも、猫神様は凄く気になる。すでに退職し優雅な生活を送っている(はずの)S氏(しつこいけど俺のことね)は、こういう時すぐに動けるのである。もう僕は毎日が日曜日なのだから、電話したりせず、そのまますぐ(良いねえこの言葉の響き。そのまま!すぐ!ですよ)丸森まで出かけることにした。良い天気の日だったので、2CVを引っ張り出し、屋根を開けて、トコトコ丸森まで走った。ここまでは、問題なく「優雅な一日(になるはず)」だった。

阿武隈川の橋を渡って町に入るとすぐ、丸森町内観光案内図が町営無料駐車場の脇に立っている。丸森町は大変広くて、僕が知っている丸森はそのごくごく一部なのだということが判る。町の観光ポイントに小さい赤丸がついていて名前と電話番号が書いてある。その中に「ふるさと館」もあった。地図を見るまでもなく町並はそんなに大きく無いことは知っていたので、携帯にふるさと館の電話番号を入れ、歩いて行くことにした。
行ってみると、地図を見た時あそこだなと思った所は道の駅のような地元の特産品売り場だった。そこのお姉さんにふるさと館のことを聞いたが、二人いたどちらも知らないと言う。猫神様のことは聞きにくかった。大きい町ではないのだから、散歩がてらその辺を回ってみることにした。最初見た地図は物凄く大雑把な物だったからしょうがない。あの地図のあの場所でここではないということは、もう少し南の方だったのだなとメインストリートを下る。するとすぐ町並みを出てしまった。ややっ。少し町の方に戻り、古くから続いていそうな大きい漬け物屋さんに入ってちょうどいたおかみさんに「ふるさと館に行きたいのだけれど知りませんか」と聞いてみる。娘さんも出てきて話し合ってくれたが、結論は「本来私たちは知っていなければいけないと思うが、判らない、ごめんね」という物だった。いやはや、凄いことになってきたぞ。紫蘇の葉包みらっきょうを買って、道々子供や年寄りにふるさと館を尋ねつつ戻る。誰も知らないのだな、これが。最初の物産館まで戻って、もう一度聞いてみる。最初の時にはいなかった人がいて「そういえば、毎朝通勤の時にふるさと館という看板の前を通りすぎる」ということを思い出してしてくれた。それは、物産館裏の「齋理屋敷第2駐車場」の先の十字路向かいの黄色い建物だと思うという事だった。充分な情報だ、これで辿り着ける。勇んで物産館の裏口から出て古い裏通りの散歩を堪能しながら新しい道にでると、おお、齋理屋敷第2駐車場が見えるではないか。その前を通り過ぎるとそこは大きな新しい十字路。聞いた通りで全く問題はない。ただそこは、すでに丸森町役場のすぐ後ろというべき場所で、僕にとっては最初に見た地図からのイメージとは全く違う場所だった。ううむ、そうだったのか。何はともあれ、そこに立って周りを見ると、(再び)おお、ちょうど対角線の角に(まっ)黄色の小さな建物があるではないか。直感的に少し小さいかなとは思ったが、十字路から見える黄色い建物はこれしかない。町営の社会教育施設ですからね、緊縮財政の最近はこのくらいなのかもしれないと、向かいに渡って看板を見てみると、しかしやはり、そこは不動産屋さんだった。再び第2駐車場まで戻り回りを見渡しながら歩き回り、入れる所は入って行き、散々やってやっぱりないので、深呼吸をして携帯を出し電話をしてみた。なかなか出ない。もう切るかという所で「ハイふるさと館、斉藤です」。

斉藤さんは朝からずうっと電話に出っぱなしだったと話した。朝刊に出たことで、みんな問い合わせてきたらしい。みんな電話する前に来れば良いのに。そうすればおいしいラッキョウとか買えるのに。猫神様の調査報告書は、薄いけれど立派な本で、ダンボール箱一箱印刷したとのことで売り切れてはおらず、僕もその場で1冊わけてもらった。500円。丸森では昔みんなの家で蚕を飼っていた。蚕を食ってしまう鼠を狩るので、猫は神様になってしまっていたのだった。町中の辻や寺等に猫を彫り込んだ石碑や石盤が沢山あり、それを今回全部調べて記録整理した報告書。これを持ったら、次は実際に見に行くしかない。やることがどんどん増える。嬉しい。という本。
ふるさと館は、確かに第2駐車場の十字路から(も)見える所だった。でも向かいというのはぐるっと回った向かい側が入り口で、僕がいた十字路は新しい十字路。丸森町民が言う十字路は昔からある古い十字路で、僕がいた所からはもうひとつ奥なのだった。古い郵便局を改装した2階建ての大きなふるさと館は、筆書きの立派な大きい看板が古くからの道路沿いに出ており、確かに通勤途中でもちらりと見える。建物の色は僕の基準ではベージュ色で、黄色ではないといった方が良いのではないかなあ。でも、回りが自然しかない丸森では、あれで凄く黄色いのだろうなあとも思う。というような数時間の冒険探索の後、僕は本を手に入れた。個人がするイメージは他人には見えない。個人の言葉に対する概念は各々異なり、言葉で伝え合うことには常に概念の点検がいる。今回は映像でも同じことが起こることが判った。あたりまえだけど。

この後、どのようにして岩沼に帰ってきたかは又別の話になる。何しろ2CVで出かけてしまったのだから。あ、もちろん、快適なツーリングだったことは/を報告したい。

全体として確かに、僕の優雅な!退職生活は始まっているのだとは思う。でも、明らかに僕は日本では少し変なオジンツアンのようで、そう見れば、美術館で仕事を始めたばかりの頃の状況感覚とにたようなことが、僕の廻りで起こっているのかもしれない。優雅な退職生活が心からリラックスした優雅になるには、再び30年ぐらいかかるのかと思うと少しうんざりだなあ。でも大丈夫その前に死ぬな。



波風立っての人生。


波風立てての人生。


普通波風立つだろう。


立たない人生なんて、、、。





2012年 6月28日 乾いた空気。高曇り。強い日差し。


 何だか既に8月あたりにいるような気がしてしまうのに、まだ6月だ。

 電車通勤の時(思えば50年近く僕は通勤の人だった)、時間の余裕はあるのだから、駆け込み乗車までして早い汽!車に乗らなくてもいいやと思っていた。そういうのが余裕だと思っていた。そういうふうにして、たった4分後(通勤時間帯、岩沼だと4分おきに電車が来る)の電車に乗った所、その数分間に事故があったり、基準を超えて強い風が吹いたりして乗った電車が止まり、最終的に半日遅れてしまったという経験が何度かある。それで、駆け込む事はないが、できるだけどんどん続けて「しなければいけない事はしてしまう」というふうにしてきた。そうして最終的に残ってくる時間に遊ぶ。こういうのが余裕だと思っていた。だから一見忙しくても、僕はゆったり余裕のある人生を送っていると思っていた。もちろんそれだけではなく、僕は基本的に忙しがりなんだろう。思い付く「やらなければいけない事」を、どんどん続けてやってしまう。そうすると、「やらなければいけない事」は終わらず、かえって次々と出て来て、一日中忙しがって過ぎて行って、夜バタンキュウと寝る事の繰り返しだったのだなあと、今日気付いた。遅い!。

 一昨日まで、そんな具合に様々続けてやってきて、遂に昨日の朝、今日は特に(ここが大切)何もする事が無くなった(ように思った)。定年で退職した公務員になんか、そんなに続けて「しなければいけない事」なんて、本当はないのだ。
 一昨日まで、朝一でカミさんの病院に行き、予定より早く終わったので、そのまま僕の病院にも回り、それらも予定より早く午前中に終わってしまったので、何本か電話をして午後の予定を探り、電話した活動は今日中には動かないことが判明したので、午後一杯庭の草取り/草刈りをし、そこで必要になった虫よけと猫よけをダイシンに買いに行き。こういう風に、読点(、)が限りなく続く一日となっていた。なんて事だ。

 昨日の朝、ゆっくり朝飯を食べて、洗濯をしながら洗物をし、簡単な掃除をすませたら、昨日まで様々「忙しく、続けて」やって来たので、すぐに続けてやらなければいけない事が、特に無くなった。で、本を読もうと思った。図書館から借りて来ている本をこのごろ期間中に読み終えていない。昨日はからりと晴れ上がった日だったので、読むなら外の木陰だなと思った。カングーに、お茶の道具と座る道具とバナナを2本、それに池波正太郎を一冊。一応、金蛇神社の七堤を目指して出発したが、ま、今回は何処でも気持ちよければ良いわけで、途中にある大日如来の裏の見晴らし台に車を止めた。
 いやあ、良い気持ちでしたね。この時期うるさい虫が出てくるには早く、桜の大木の葉陰の下で、田植えが終わったばかりの田圃の上を吹き渡ってくる初夏の風に吹かれつつ、文庫本一冊読んでしまった。途中居眠り少し。お茶とバナナ2本。昼過ぎにかえって来てインスタントラーメンに豆と野菜を入れて食べ、さて、次にする事が、又しても無い。昨日は16時に鍼灸のK子さんが来てくれる予定だったので、そのためのベッドを準備したら、おおそうか、お昼寝をすればいいんだな。ベッドに横になったら、ほぼすぐに爆睡。眠ってすぐ起きたと(本人は)思ったが、目が覚めたら既に4時少し前で、すぐにK子さんが来て操体。いつもはなかなか必要な脈が出なくて、痛い鍼が必要なことが多いのに、今回は操体だけで脈が出る。あたりまえではあるな。

 いよいよ「S氏の優雅な退職生活」が始まった、と思いたい。


美術の勉強は、頭の中の世界観を意識する練習のことだ。


今の自分が知っていることだけを使って、そこに見える世界を見る。





2012年 6月24日 湿気って冷たい空気。気温は高い。

今日は日曜日で休み。昨日までの今週の出勤は少し疲れたので、今朝は少し寝坊してみた。木金土の僕の出勤日は、毎日子供達が来る。彼らとはつい真剣に活動してしまうので、午前の作業が終わった午後、僕は疲れてほとんど気絶するように眠くなるのだが、今週はその時間に相談が重なった。土曜日の帰り、思ったより疲れていた。

美術館でする美術教育は、学校教育から発想する美術教育では、どうしても踏み込みにくい所があるようで、優秀?な先生であればあるほど、見ていて苦しい。そういうストレスも溜まる。どういう所がどのように踏み込みにくいのかを説明するのは様々やってみているのだが未だうまくいかない。「美術館における美術と美術館を巡る、教育的な配慮を伴う活動をする」のが、公共の美術館における教育普及活動なのだが、この言葉だけでは今の宮城県美の活動がイメージできないようなのだ。この言葉をそのまま実践しているのだがなあ、と、少しウンザリ説明しながら思う。

今日は朝少しユックリ起きて、洗濯をしながら昨晩飯の洗い物をし、洗濯物を干しながら、掃除と台所廻りの雑巾がけをした。
明美さんは今週から安定剤が毎日2錠に増えて、覚醒の度合いがより強くなってきたのだが、それは一方で、僕の精神を逆なですることが増えるということでもあるので辛い。少し困っていたら、Mさんが昼に来てくれるという連絡が入って、僕の方はやや安定。単純。通勤用自転車の掃除整備や、古新聞紙を縛る紐をダイシンに買いに行ったりした。昼、Mさんと一緒に冷蔵庫の残り物の野菜を整理しつつ全部ゆでてスープを作る。昨晩届いた、酵母の香りも上手そうな渡辺さんのバケットを、パレスチナバージンオリーブオイルに付けて食べつつ、明美さんも出てきて、皆でスープを食べる。沢山作ったと思ったのに、三人で全部食ってしまう。食後、Mさんとゆっくり竹駒1周ノッツオ。ポラーノでのお茶付き。

夜は、柔らかく炊いた玄米ご飯に、大根と人参のみそ汁と生姜寄席豆腐(賞味期限ギリギリ)の湯豆腐。ラッキョウとトマト。ごはんお代わり。

朝起きがけはなんだか憂鬱な始まり方だったけれど、わりと充実した一日だったかも。


そこに見えるもの。


目をつぶると見えるもの。


丁寧に、注意深く、見る。




2012年 6月13日 冷たい空気。高曇り。

なんだかボヤッとできない毎日が続いている。あっという間にもうすぐ7月だ。2CVはまだ帰って来ない。エンジンのオイル漏れを直すのに手間がかかっているようだ。

5月末から始めたガレージセールは、正規の3日間の後、秘密夜間(会員制)、付録、付録+、最終、本当の最終と続いて、今日夕方、一応終了。面白い。面白かった。これは誰もいらないだろうなと思っていた物から無くなっていって、本当に普通の物だけが残っていく。普通の物は誰もいらないのだ。

時々新しくできた近くの市立図書館に本を借りに行く。借りるのは通勤の時に読む、文庫のミステリーか、何回も繰り返して読む池波正太郎。2週間借りられるのでたいてい限度一杯の6~7冊借りる。今回も6冊借りてきた。全部外国のミステリー。でも、4月以降は週3日しか通勤しなくなったので、読み残さないように時間を作って読む。でも読み残す。

休みの日にガレージセールをしていると、誰か彼かが友達連れで来て話し込み、時間が過ぎる。古くからの友人から連絡が入って、彼の休みの日、電車と地下鉄を使って近くの駅まで行き、そこからゆっくり小一時間歩いて昼飯を呼ばれ、物凄く手をかけた美味しいカレーを食べながら半日話をして、また歩いて帰ってくる。朝一で歯医者に行って定期点検手入れ(今回、親知らずが少し動くというのが見つかった)をしてもらい、その後の時間を使って、田尻町で小さなラジエターの工場を経営している古くからのモーターサイクル友達に、例の手ぬぐいを持って行く、というのを高速道不使用でやってみる。今日はやっと何も予定のない日だったので、少し朝寝坊をして起きたら、何と朝の10時からNBAのファイナルをBSでやっているではないか。いやはや。集中して見終わったら(と言いながら、昼に自分でそばを作って食ったりしてはいたが)、もう1時過ぎだ。その後の時間で、庭の草刈りをして、ゴミ袋3杯分の草を刈り、16時から鍼灸のK子さんが来て全身のバランス点検。これを書いてもう20時過ぎだ。明日からまた美術館だから今日はもう寝よう。

という感じに本を読む時間が取れないでいる。いやはや、何をか言わんやではある。



見えている物は、
実は自分の頭の中にあるもの。


頭の中に見えるもの。
自分の世界観。


自分の世界観だけが描ける。
描くことの自覚。



2012年 5月30日 乾いた冷たい空気。風は暖かな快晴。


昨日からガレージセールをしている。もちろんウイークディで、しかも10時~16時だから誰も来ない/来れない。昨日はにわか雨も降ったし。でも、熱心な人が少しきて、昨日今日でウン千円(も)売れた。何が何んだかわからないモノ(ばかり)なのに、来た人は何かかにか(大切そうに)買っていってくれる。ありがたいが不思議だ。

という文を昨日(29日)書いた。本日16時広告されたガレージセール終了。3日で合計15人?来た。一人一人個別な報告をしたい程、各々が中身の濃い来訪だった。まず一人で来て、その日のうちに友達を連れて又来てくれた人がいた。その連れられて来た友達がその友達の友達とその日のうちに又来た。僕のワークショップみたいだ。参加して同じ時間を共有しないと、そこで何が起こっているのか説明しにくい時間の流れ方。「ううむ、ガレージセールってこういう風にするのか」という感想を、来てまず漏らした人がいた。そこに並んでいるものは、僕の/はいらないと思うもの。貴方はよく見て考えて100円出すかどうか決める。

合計33年間、僕は宮城県の公務員として宮城県美術館で働いていた。公務なんだけれど、美術館なので、僕に取ってはこの後どう対処し処分したら良いのか判らないものが少しずつ溜まって来る。その溜まってくる物の中には、僕に取ってはそうだけれど、(普通の)人にはそうはならない物もあるようなのだ。でも、もちろん僕の一存が優先される。当たり前だけれど。というような物や事に、僕以外の人がコンタクトを取って、考え100円出して自分の物にするかどうか決めていく。相談に乗り説明をし、再び相談に乗り、見ている。ほとんどの時間は何もしないで本を読んだりしているのだけれど、僕には大変充実した、考えることの多い、3日間だった。

2CVの車検の連絡はまだ何も来ない。ということはまだしばらくガレージは空いているということだ。
今回、本当は日曜日からしたかったのだが、先週日曜27日の午後、僕はイズミティ21で、泉区絵画同好会の人達のために、美術の鑑賞についてのお話をする仕事があった。だから28日月曜から30日水曜までのウイークディだけの開催になった。面白かったので、ウイークディに来れなかった人達のため、この次の日曜日6月3日に、公開のガレージセール「付録」をすることにしようと思う。何があるのかは、来てのお楽しみだが、なに、まだ、粗大ゴミに投げに行くには多すぎる物が残っている、ということだ。


誤解、深読み、思い込み。


しかし、


まず思い込んでしまって、深く考えず、誤解したままの方が、


文化の伝わり方としては多いのかも。


2012年 5月23日 湿気った空気。暖かいが肌寒い。

やっとなんとなく、美術館の身の回りの整理が終わった(ような気がする)。
その結果段ボール箱に二つ、本以外に整理しなければいけない(処分すべき)物が出た。でも、30年投げられずにいた物が多くて、燃やすにはしのびない。ガレージセールをしようと思う。もちろん美術館ではセールをしてはいけない。
5月の終わり頃、僕の2CVが車検に出る。そうすると岩沼の家のガレージが空くので、その時期に僕の個人的なガレージセールをしようと思う。という文を17日に書いておいた。

昨日晴れている間に、2CVを中新田の自動車工場に持っていって、なにはともあれ、車検をとってもらう相談をし、車をおいて来た。まず車検を通した後、雨の日にも乗れるようにするための修理を、どのへんまでするかについての相談をしようと思う。さて、予定通り、しばらくの間、岩沼の家のガレージが空く。

5月28日月曜日から30日までの3日間、朝10時(頃)から4時(頃)まで、毎日、雨天決行で「齋正弘退職に伴うガレージセール」をしよう。

すべて、1品100円。物がなくなり次第終了。早い者勝ち。今回の齋正弘定年退職に伴う、美術館、自宅、その他から出た、今の私には不要の物を(思い切って?)処分。もちろんあんまり大した物はありません。

岩沼の家ー要するに僕の住んでる所ーは竹駒神社の7軒南隣。齋文章堂というハンコと文房具の店の向い。外壁が銀色で内側の壁が朱色の、方流れ屋根の2階建ての家。さしあたって、竹駒神社の駐車場を目指して来て、そこに車をおき、大きな赤い鳥居から南に向う道をたどって、道沿いに7軒目。駐車場から歩き始めて、たどり着けない人は、「齋文章堂」という「ハンコ屋」をその辺の人に聞くと岩沼の人ならみんな知っていると思う。


既にそこにあるもの。


たいていは、
必然があるのでそこにある。


私の必然、ここの必然。





2012年 5月 12日 明るい快晴。乾いた北風強し。

この文を書くために、少しさかのぼって前に書いたブログを読んだ。ほぼ1年前のこの頃の想いは、具体的には僕の中から、ほぼ消えていた。ちょっとビックリした。では、すっかり忘れてしまったのか!と考えると、どうもそれとは違う感じがする。体験が経験値として蓄積される実感。不思議な感じだ。

僕の両親の胞夫さんや栄子さんは、震災の気配もない(ま、普通、その時!まではずうっと気配なんかないわけだが)時期(20世紀とまとめて言ってしまいたいが)に、生きて死んでしまった。彼らと、正否に関わらず、原子力発電についてお話をした記憶は、僕にはない。電気をいかに安く使うかについては話した記憶がある。彼らは正直真剣(超)真面目の人達だったので、上手く育てられたその息子(僕の事ね)は、やっと正直真剣(やや)臍曲りになる事ができた。今となっては様々な意味で、善い教育を受けられたと思う。
そうして、3/11以降に/も、人間の生活を組み立てていくことになってしまった僕は、その出来事のポイントにどうするこうするという事より、自分自身(人間)の生き方(行く末)のようなものを点検し直す活動に興味が移って来ている感じがする。その人の、その時々の実際の活動がどう出るかは、普段どういう基準で生活を組み立てているかと深く関わる。僕は気色ばったり頑張ったりせずに、しかし地球上の生き物として普通に生きているかは意識して、というようなことを考えながら定年になった。そしてそのまま毎日、生き続けている。

1週間に4日休みになって、自分が自分のためにだけ時間を使って良い(もちろん様々他人と関わり合いを持たざるを得ない状況も含めて)という実感は、まだいずい。うちにはちょっと皆と上手く調子を合わせられないオカミサンもいるし、自分のために好きにやる、というのはたぶんみんなが思うような「好きにやる」とは違うのだろうが、でも、そんなことを言えば、人間はみんな違うのだ。

これから、僕は何処にどのように口出しをしていくのかを巡って少し動揺している。




私がここにいる、という意識。


私はここから見ている、という意識。


近代という意識。



2012年 5月 1日  晴。乾いた空気の風、強し


退職したというのに、テンヤワンヤの毎日が続いている。引っ越しが落ち着かない感じ。再び更新が滞って、あっ!もう5月ではないかと、書いている。退職したらすぐしようと思っていた、庭に模型の鉄道線路を敷く工事や、思う存分カヌーを漕ぐや、自転車で岩沼の旧跡巡りをするなどは、ひとつも手を付けてすら、いない。もう退職したから時間はあるぜなんて、すぐに言ってしまうのが、どうもいけないのだ。いやはや、こっちの時間の流れに慣れるのに、しばらくかかりそう。

昨日は午後から仙台文庫とメディアテーク主催「はじめての美術準備室」というトークショウがあって、スピーカーとして呼ばれていた。なので午前中に、娘達の所にまとめて(その梱包に前夜遅くまでかかってしまった)退職記念齋正弘オリジナル手ぬぐいを郵便で送り、ついでに郵貯関係送金。帰りに銀行のATMから、その手ぬぐいの制作代振込。昼頃電車と地下鉄乗り継いで時間間際にメディアテークに。ついてほぼすぐ「美術は学べるか」という1時間半のお話。スピーチが終わってから、聞きに来てくれていた人達とお茶を飲んで7時から打ち上げ。でもご飯だけバクバク食って、8時過ぎには電車で帰宅。最中、中山商店の中山さんが死んだと言う信じられない話を聞く。いったい何それ???物凄くビックリするも、すぐ、僕も、こうありたいと強く思う。
その前日の29日は、朝からトコトンの先生達9名と、震災前に同じメンバーで行った「磯浜の現状を見る会」というノッツオ。現場では全員明るく活動していたいが、車の中では言葉少なく、今日になっても、これまではやったその日の午後に出ていた報告も、出てきていない。僕は、ちょっと気を抜いて、手首の所だけが真っ赤に日に焼けてしまったりした。

という具合に振り返って書き始めてみると、前に書いた4月15日からのスケジュール帳は、退職前より書き込みの密度が濃い。遠刈田に新しくできた(作品もだが、それよりも興味深く)ギャラリーを見に行って、その帰り、いつも行く七日が原の革細工の友人宅に寄って、昔作ってもらった革のiBookシェル用ショルダーバックを、普通使いに作り直してもらったり、丸森ふるさと館に行って猫神様の報告書(これについては項を新たに起こさなければと思う)をホウホウのていで手に入れたり、やっとこさで届いた(これも新たな機会に詳しく)新たな保険証を使って、二日続けて(もう手持ちの薬が切れそうだったのだ)明美さんのと僕のと病院のハシゴをしたり、その合間をぬって、最初に述べたオリジナル手ぬぐいの最終チェックや受け取り(仙台手ぬぐいは今や愛子に工場がある)や支払いやその他その他をしたり、なぜか今年度は仙台で行われた日本子供環境学会に呼び出されてワークショップやスピーチをしたりしていた。ううむ、改めていやはやだなあ。もう退職したから時間はあるぜって、絶対に言わないようにしないといけないようだ。僕は基本的にお人好しなのだ、でもそれは誇らしいことでもある。 

2012年 4月15日 空気が暖かい晴。

空気はそこにある。
空気はなくならないのだろうか。


退職のローテーションに入って、あっという間に2週間過ぎた。ここまでの素直な直感としては、再雇用は僕にとっては失敗だったのではないか、という想いだ。美術館の創作室に関係を持つのは、30年、もう充分だったのではないか。
とは言え、給料がこれまで通り出なくなってみると、僕には今少なくとも毎月10万円程のローン返済があるということが判った。借金はできるだけ作らないようにしてきたつもりだったので、やや動揺。胞夫さんが予定より早く死んだので住宅ローンがまだだいぶあった。それと、胞夫さんと明美さんのためにオール電化にして、それに伴う太陽光発電施設関係への返済。しょうがない、世界は経済を中心に動いている/いたのだった。何はともあれ、ジワジワと社会との関係は残しつつ、少しずつこれまでの状況を点検し、清算していきたいものだ。

週3日美術館に出て創作室にいてみると、30年続けてきたことが、いかに独りよがりだったのかが判る。その人が判ることだけが、その人だけに伝わる。言葉のリアルさは、言葉にするとなぜかむなしい。「言葉でなく判ることだけ」がそこに残る。だからその言葉の基(僕のことだ)がそこにいなくなると、言葉はその人が理解していたこととしてだけ動き始める。普通、人は比較して点検できない、ようなのだ。世界って、本当に、その人の頭の中にしかなかったのだ。知ってたはずなのに、実際見せられるとやや動揺。僕は何をウジウジ考え、何をシコシコやっていたのだろう。シコシコやってウジウジ話さなければ伝わらないと思っていたのに、どんなにしてもその人が判ったことだけしか伝わらなかったのだ。
そこにあることにどう対応するか(たとえば震災に対して)という時に、何かどうしても静かにしてしまっている自分の理由付けは、この辺にあるのではないか。心の揺れは「綺麗だ!」という方向だけでなく「きったねえ!」という方にも動いてこそリアルなのであって、頑張るきれいごとだけが並ぶ今の感じからは、僕は大きく距離をおきたい。もう何もそこにはなくて、そこにあったものだって、たかだか200年程の積み重ねだった。また200年、僕らはいい機会に恵まれたのに、また同じことをしようとしているように見える。というような。





宇宙の中にいる私。

見ている宇宙としての空。




2012年 4月 1日 晴。風の冷たい春の日。

今日から基本的には出勤しなくてよい毎日が始まった。まだ実感が伴わなくて、ただの長い休みの日の始まりのような気分。3月31日が近づくにつれ、僕はなんだか身の回りが急にやたら固く形式張って来たように思われて仕方なかった。全ての活動がネクタイ労働になっていくように感じられて、いやだった。多分、単に式典が増えていっただけ、ということなのだろうけれど。33年もやって来て何をか言わんやだが、僕は本当に、公務員は苦手なのだなあと、改めてしみじみ思う。今日からは、朝7時の電車に乗るための朝食ではなく、今日を始めるためのエネルギーとして朝食をとることができる。嬉しい。

その間もなく終わりという時期にわかったことをいくつか書き留めておきたい。
3月1日に聞いた酒井さんのお話。当たり前だが、昔の人はもちろん様々な経験を積んでいるのだった。美術館教育だって充分様々さんざん経験して来た上で、なんだか判んないことを言う齋を雇ってくれたのだ。どうやってもアカデミズムに陥りがちなそこに、齋の言っていることは何か理想主義のようなものを感じさせたらしい。アカデミズムに対抗するための理想主義。ううむ、深く考えると凄く大変なことになりそうだが、語呂は良いなあ。
僕が入る前の(そしてどうも今でも)学芸員界は、大学の研究室の力関係のような形で様々動いていたかのように僕には感じられた。帝国大学系の人脈の中に、教育大ーしかも超ヘンテコリンな宮教大なんていうーが混乱を投げ入れたというようなことなのか。大沼かねよや佐々木健次郎を見るまでもなく、日本の学会のような組織の中での教育大のいる位置のようなことを、少し考えた。教育大はもしかすると、凄く大切なことをする運命にいるのか。そう見ると、なんだか判ってくることがある気もしてくる。誤解、深読み、思い込み。

僕の知っているワークショップは、1リソースの確認 2スコアの提示 3ヴァリエーション&アクション(ヴァリアクション) 4パフォーマンス と言う、極単純な進み方をする、教育技法のひとつだ。問題があって/起こって、それをなんとかみんなで解決しようとする時、これまでの方法を超えてより広い世界観を得ようとする時に有効。成就するイメージが既にあって、それを効率よく、なんか和気あいあいと作り上げる、というようなものではないし、ましてや誰かが我慢を強いられるというものでもない。僕の知っているワークショップは、物凄く本質的なコミュニケーションの練習のようなもので、表現やその伝達というものは、これまで学校などで、組織立って鍛えられたり訓練されて来たものの他にも、広く深くあるというようなことを感じさせるものだった。
この震災で様々な所や状況で、様々なワークショップが行われているが、状況が切羽詰まっているからと言って、その問題はそこにいる人達に、これから深く関わっていくことなのだから、本ん当は(投げやりという意味からは最も遠い意味で)放っといておくための相談に乗るべきなのではないかと、僕には思えるのだ。そんなに効率よく急いでやって来たのでああいう20世紀をやってきてしまったのではなかったか。もちろんその場所場所の事情が深くあるということは理解し考慮するとしても。

だから僕のワークショップは、準備をしない、成就を目指さない。だが/だから、相談に深く乗る。相談した人が気付かなかった所まで、広く、ダイレクトに、余計なくらい深く。最近様々な所に呼ばれて2時間で成果の出るワークショップをとせかされるが、そういうのは、僕にはできない。誰か他の人に頼んで。そういうのが上手い人は沢山いる。僕にはストレスが増えるばかりだ。これにも誤解、深読み、思い込み。















空を見よう。
忘れないで、空を見続けよう。


2012年 3月31日 暖かい空気に満ちた高曇り。昼過ぎ通り雨。

春の空気。正式には今日が通常の美術館職員としては最終日。いやもう充分だという気分。
でも明日来年度からは再任用で、毎週木金土三日だけ出勤。とはいえ明日は1日日曜なのでから4日水曜まで、まず休み。単純に嬉しい。

1ヶ月更新をシナカッタ、というよりできなかった。3月1日、午前中から福島に東北線で出て、福島県立美術館で前の僕の上司酒井哲郎福島県美術館長の話を聞く。僕を雇った頃の状況の話。帰りは阿武隈急行で岩沼まで帰る。次の2日。この前のブログで書いてある切符を使って朝一で、兵庫県三田市にある兵庫県立人と自然の博物館に移動。その日は一人でゆっくり回ってみる。3日から4日まで同博物館で活動。最終的には集まってくれた小さい人達と下見なしで、小雨の中での博物館探検。5日に、ゆっくり帰仙。3月になったので、返ってくると同時にいくつかの来なれた保育所幼稚園の卒園遠足で子供達が美術館に来る。なかなか取れない休みを狙って、遠刈田の革細工の友人宅へ出かけ、少しお願いとお話。続けて、霊山子供の村に出かけ相談に乗っていたら、その日は東京から現代美術館の教育関係の人たちが来る日だったことが判明。判明しても、すでに福島の山の中に居るのでどうしようもなく、すまぬすまぬで許してもらう。落とし前をなんとかしないといけない。定年が近くなってくると、様々なお金関係の人達がやってくる。僕は胞夫さんを見ているので全てお断りし、なんとか儲けようとしないことにする。すると、それはそれなりにエネルギーを使う。合間をぬって小学校の社会学級の人たちが来る。そうこうしているうちに今年度最後のヴェネツィア展が始まる。何枚か下絵を描いて仙台手ぬぐいの名取り屋にオーダーを出す。物凄く長い間絵を描いていなかったのだなあということを下書きをしてしみじみ感じる。25日に宮城学院女子大学が企画実施した震災地区の人達をヴェネツィア展に招く会がきて活動。停年になるので、いくつかの会に呼ばれて最終講義みたいなものをやらされる。そして送別会。33年美術館に居て送り出される方は今回初めて。29日毎年来る山形の保育所が来て探検から粘土までのフルコースの活動。30日退職辞令公布式。31日(ああ、今日だ)なんとか部長席を明け渡せるようにかたずける。

2月12日に南三陸に呼ばれてある活動をして以来、様々な想いが様々あって、考えることが多かった。想いは深浅長短あって、しばらくゆっくり考えようと思う。

うまく話せないこともある。
話せないことの方が多いかな。


2012年 2月27日 快晴。雪は溶ける前に乾いていく。

 気ぜわしい毎日が続いている。もう2月も終わろうというのに、こんなに長い間更新していなかった実感がない。今日は月曜で週休日だった。5時に目が覚めて二度寝したら、次に目が覚めたのは7時で、すっかり明るくなっていた。眠かったが、今日はやることが沢山ある気がして、無理矢理起きる。最近、前日早めに寝ても、朝眠りきった感じがしない。

 まず、8時半に岩沼市役所社会福祉課に電話し、最近精神障害の調子が悪くなった明美さんを、市内の精神科のある病院に連れて行くための相談をする。様々な所に電話し、明日午前中に行く予約決定。それが決定したので、そのための調整で様々な所と人に電話し、明日休めるように手配。それがすんで後、昨晩計算しておいた沢山の領収書を持って、自転車で市役所の確定申告会場に行く。医療費控除の手続き。なんと38万円も昨年中に払っていたのだから、是非なんとかしないといけない。もちろん結構混んでいて、しばらく待つが、思ったより早く終了。最終的にハンコを持って行かなくて、いっぺん家まで戻って終了。てんやわんや。気にしていたことが思ったよりもスカスカと進んだので、3月4日に呼ばれている、兵庫県立人と自然の博物館に行くための切符を、岩沼駅に買いにいく。帰りに銀行でお金をおろして帰宅。思わぬことに、昼前までに気にしていたことは全て終了。一気に気が抜ける。

 ここの所こんな調子で毎回の休日が過ぎていく。忙しく休日に様々手配した切符!で、ウイークディも忙しく過ぎていく感じ。下の娘に新たな子どもが生まれたし、僕の心に余裕がなくなると、明美さんも当然なんだか刺々しくなって来て調子が悪くなり、そのたの生活全般にも悪い循環が深まる。いやはや、こういう風にして退職への後少しが進んでいく。

 実は今日から竹駒神社は初午が始まった。昼飯を食ってしばらく休んで(知らないうちに居眠りをしていたのだが)から、駐車場でやっていた植木市を見に出かけた。後1週間初午ウイーク。子どもの頃の初午は町中に露店が並び、馬検場(馬市のための馬体検査場ー今はそこが駐車場になっている)にサーカスや何か恐ろしげな見せ物のテントが並び、子供に取っては天国の毎日だったように記憶しているのだが、この頃は、露店も境内にちらほら、今日なんか初日だというのに客は僕だけという感じになっている。冷たい空気の中でゆっくり春の植木を見て歩くのは、気持ちよかった。さて明日からまた怒濤の毎日だ。

2012年 1月15日 高曇り。寒い。



今年の亀。僕の家のしめ飾り。

様々な理由でブログのスタイルが変わった。詳しい理由を書こうとすると長くなるので省くが、前のホームページはアップルから借りたスペースで公開していたのだが、その場所があちらの理由で間もなく終了してしまうため、今回からGoogleのスペースを借りるようにしたとのことだ。こういうときは、いつもいつでも、Mr.Ameeのお世話になる。今回も本当に世話になった、ありがとう。僕が、こちらのデザインに慣れるまで、皆さんにも付き合ってもらうことになる。すまぬがよろしくお願いするしかない。

この前のブログを書いた後、6日から11日まで、沖縄に居た。那覇国際通りのビジネスホテルに泊まって、(おもろまちと言う、へんてこな、しかし由緒ある)新都心にある沖縄県立博物館美術館に連日ほぼ歩いて通った。おもろまちは超近未来的な都会で、一本通りを裏に入った昔風の沖縄とのギャップが物凄い。徒歩通勤は飽きることがなかった。一応毎日20度前後の気温だということは天気予報を見て知っていたが、下着や何やかにや、冬支度をしこたま持って行った。もちろん全く使わず、連日半ズボンにネルシャツで過ごし、そのまますごすご持って帰って来た。

自分の活動は若干緊張したが、全体としては物凄くゆったり時間割が組み立てられており、様々な物を丁寧に観察し、ぼんやりし、考えることができた。沖縄の教育現場は簡単に言えば、だいぶ昔風な本土のままの感じで、使われて/使っている言葉の点検確認固定から、話を始めなければいけないことが多く、話をするためのメモを再三書き直した。とはいえ、様々な人と会い、斎場御嶽に浸り、うまい沖縄飯を連日食い、大変充実した毎日だった。
20度の気候から帰って来たら、連日5度以下の毎日で、寒くて身体がかゆい。昨日、年賀状の返事を書いて出し、今日はMr.Amee。今日の夜あたりから通常通りの起床就寝に入って、17日からまた忙しい美術館の毎日が始まる。と言いつつ、アメリカンフットボールのプレイオフが始まっていて、見られる時間にやっている試合はつい見てしまうし、お相撲もやっている。いやはやいかん。

2012年 1月 4日  厚い雲。明るいが小雪降る。

太陽がやるべきことは太陽に。
人間がやるべきことについて
真剣に考える。
人間は地球上の生物だ。


新年になっても、毎日何やかにや忙しく過ぎて行く。今日はやっと何もなくぼんやりと一日過ごせるかと思っていたら、美術館から沖縄によばれている活動にまつわる書類手続きの電話があり、書類不備を指摘され、心からグタッとしたところ。今日はあと、ADSLから光通信に変更するための手続きの電話もしなければいけなくて、もっとぐったりだったのだが、そちらは今帰って来ている娘がヤッてくれそうだ。というような塩梅に毎日がずうっと過ぎて来た。

過ぎたスケジュールのメモ。12月6日に上野国立西洋美術館講堂で全国美術館会議美術館教育研究会主催の学芸員研修会。社会教育から考える美術館教育。考え学ぶこと、甚だしく多し①。12月12日に10月末からやっていたフェルメール展終了②。終わった途端にこれまで美術館活動をしたかったのに、混んでいて来れなかった学校団体が連日3~4クラス来て教育部は大混雑。今年は震災の後始末のため年末年始のメインテナンス休館が12月19日から始まって1月13日までとやや長いので空いている/開いている期間の混み様が凄くなる。19日から美術館は休館になるが職員は出勤して様々な事務仕事。でも、創作室は閉まっている。僕は数日出て23日から休みに入り、年休その他を使って1月16日まで休むことにした。とは言え/そのため出勤中は連日人と会ってお話。休み前の病院廻り。今年最後の問い合わせなどが入る。休みに入ったらのんびりやろうと思っていたが、それはかなわず、28日に始まる明美さんの沖縄移動を巡る様々な手続きと準備で連日仙台に出る。そうこうしているうちに、クリスマスが来る。花山にある道の駅にたのんであった正月飾りができたという連絡③。館外でいくつかのNPOの人達との打ち合わせ④。そうこうしているうち、28日に明美さん沖縄へ出発⑤。30日に餅とアンコを受け取りに仙台に出て⑥、Suica定期を落とす。31日に届いていると仙台駅から連絡⑦。1日からは連日駅伝を見て過ごす。1日の駅伝終了後仙台に出て定期を受け取る。3日、下の娘家族が来る⑧。で、今日ブログの更新をしようかなというぐらいの余裕ができた。
何もした気がしていないのに、今書いてみると、こんなに動き回っていたのか。そしていまだに気忙しさが続いている。

①最近は生涯学習という言葉に変わってしまったので、最近僕たちのしている活動はなんかイベント企画のように思われているところがあるが、僕たちの仕事こそが教育だったのだ!を再び三たび思い知る。社会教育の基本をいかに押さえて活動を組み立てるか。その面白さと、影響の凄さを思い知った。
時代を振り返る話の90年代のところで、僕が昔書いた文章が資料として出て来て、ここに生涯学習の基礎が書いてあると紹介された時は、不思議な気がした。この文のことはすっかり失念。生涯学習に関してはしばらく考えてみなければいけない。

②フェルメール展は11万ちょっとの入場者数で、あと数百人足りず、宮城県美術館第2(トップは11万5千人のルノワール展)の記録だった。前売り開始後すぐ25万枚売れた。普通前売り券は全体の10%といわれているから、今回は25万人入るのかと思われた。そのため、共催のマスコミ各社は、初日から駐車場のガードマン等万全に手配した。しかし、開いてみたら、出だし低調。なかなか5万人に届かず。しかし11月中旬を過ぎて5万人を超えたという新聞記事が出ると、2日後に7万人になりすぐ10万人になった。そしてそこからまた停滞。美術好きではなく、みんな行くから私も行く人がそんなに興味を持たなかったのだろう。フェルメールの絵を見たい人は、前売り券を買って、始まってすぐ来て、その後も3回来たという人達。それ以外の人達は、フェルメールって誰?だったのだろう。
展覧会の入場者は沢山入ればいいというものでは全くないが、今回のような展覧会は、できるだけ沢山入ってもらって、これで数字を稼ぐというこちらの想いもあるから、もう少し入ってもらってもいいのになあ。内容は凄く面白くて良いものなのに、その面白いところがちょいと難しい。いくつかのことに気付くと全部が面白く見られるのに、そこに気付かないとただの昔の絵でしかなくなったりする。ネームバリューも、美術関係者が思っているよりなかったのかもしれない。やっぱり七十七銀行のカレンダーにならないと駄目なのか(ルノワールはなっている)というジョークがかわされた。

③僕の家では、正月に普通のしめ飾りではなく、藁縄を編んで作ったしっぽが稲束の亀の飾り物を、しばらく前から玄関の上に飾っている。その亀は、毎年花山の道の駅で手に入れていた。今年も、買いに行こうと思って電話をしたら、今年は作っていないとのことだった。震災があったのでいつもそれを作っているおじいさんが今年は作らなかったのだと言う。だいたい、そもそも稲藁を手に入れるのが最近では難しい。
「わかりました、僕の家では毎年この亀を楽しみにしていたのですが、それならしょうがありません」と話したら、丁度そこにそのおじいさんの孫という女の人がいて、おじいさんに携帯電話で聞いてみてくれた。おじいさんは「そういうことなら特別に作ってあげよう。稲藁もまだ刈り取ってないところがあったはずだから」ということになって、友人の分も含め3個作ってもらうことにお願いした。
数日過ぎて電話が来て「今年は田圃全部(コンバインで)刈ってしまっていたので藁が手に入らなかった。迫町の友人に聞いてみるから少し待ってもらえるか」ということだった。もちろん待っています、正月に間に合えば良いのです。しかしそこの田圃も刈り取りはすんでしまっていたという連絡が入る。これで終了だと思っていたらすぐ「一迫に古代米を作っている人がいて、そこはまだ刈っていないようなのでそこからもらうことにした。ただ古代米で作ると色が黒くなるがかまわないか」との連絡。いやはや、もうこうなったら、「待ってますから是非お願いします。」ということになりあの辺の農家挙げての亀作りになってしまった(ように仙台からは見えた)。できたという連絡が入って、12月26日に花山道の駅「自然薯(ジネンジョ)の郷」にとりに行く。
朝から冬型の低気圧が来ているから注意という日で、仙台から見る西北方面の空は真黒/暗。助手席にK子さんに乗ってもらって、少しゆっくり目に出発。色麻町にさしかかる辺りで猛吹雪。圧雪で道のセンターラインが見えない。路肩に止まって電話で花山の状況を聞いてみる。こっちは進むかどうか悩む程なのだが、相手はあっけらかんと「何でもないですよ」とのこと。前進。色麻町を出たら青空に白い雲が浮かぶ晴天になる。快調に花山に着いて、意気込んで道の駅に入ってみると、亀がいつもあるところに1匹飾ってあった。シッポがいつものやつよりやや黒い。700円。「おお、これだこれだ」。でもなぜ1匹なんだ? レジに聞くと、僕が頼んでおいた3匹は、すでに別に箱に入れてあった。で1匹500円だと言う。これは特別にお願いされたので、昔の値段で良いですとのこと。いやはや、なんだか逆のような気がするが。飾ってある亀と並んで短いしめ縄が売っていた。それは1000円。ええと、これも下さい。そこで昼ご飯を食べたら花山山荘温泉100円引きの券をくれたので、そこから国道を秋田の方に進んで、ここから先は冬期通行止めの所にある温泉に入る。この時期この辺りは誰もいない。貸し切り同様の山間の露天風呂。寒い時期長風呂をして脳内出血になったのだから、早々に、しかしゆったりはいって帰路に着く。もう日が傾き始めている。
帰りは花山からまっすぐ東に進み築館から4号線。特に渋滞もなく淡々と進む。だが行きと同じに大衡大和辺りで再び猛吹雪。ウインドウウオッシャー液が切れる。いやはや。僕は「備えよ常に!」の人(だった)なので、トランクに予備の液を積んである。ううむ、確かに積んであった!のだが、この冬に入ったとき、タンクに継ぎ足して使ってしまっていたのだ。こういう時にかぎって予備なし。ううむ。這々の態で大和町のガスステーションにヨロヨロと辿り着き、1L500円!(普通200円でしょう)のウインドウウオッシャー液を入れてもらい国道に戻る。これでもう大丈夫!ではなかった。夕方のラッシュが始まっていた。しかも、この時期、吹雪と光のページェントがらみで、大渋滞。ウオッシャー液1Lで持つんだろうかと思える進み方。ちょうど、もう一つ買わなければいけないものをムリヤリ思い出し、富谷町のモールに曲がる。モールの中のイエローハットで必要なものを手に入れ、これでまたあの渋滞に戻るのかとウンザリしながらふと目を上げると、そこにシネマコンプレックスがあるではないか。確か「タンタンの冒険」が面白いからお父さん見たらと、娘に言われていたことを思い出す。行ってみるとそれはやっていて、しかも時間もちょうど良い頃合い。ではそういうことにしましょうと、ポップコーンを買って入場。500人程入ると思われる会場に僕とK子さんの二人だけ。この日は月曜でレディスデイだからK子さんは1000円。僕は60歳を過ぎたので、老人!割引1000円。計2000円で、フルサイズのロードショウ。観客二人。いやはや良いのかこれで。
映画は、原作が面白いということはあるだろうが、大変良い出来で、まるで実写のようなマンガ。いやマンガのような実写か。こういうのを見ると、もうフィルムはどうなるんだとかいっている場合ではないなと思う。何はともあれ、ゆっくり、しかし息をつくのも忘れて2時間、あっという間の出来事だった。終わって外に出ると、あの渋滞もすっかりなくなっていて、どこでも自分の好きな道を通って帰宅。行く時はどうなることかと出発したが、最終的には大変に充実の一日だった。

④福祉関係NPOの人達によばれて、視覚障害の人達と行く美術鑑賞会についての相談。彼らのこれまでの話をよく聞いたあと、僕の答えは鑑賞のノウハウより前に、ものを見る意識に気付くお話。あなたの世界はあなたの頭の中にあることの自覚。美術は既に外にあるのではなく、各自が各自の頭の中にあるものやことに気付く練習として考えるというお話。鑑賞の練習もだが、今日の話をみんなで聞く会を早急にしたいということになった。

⑤しばらくぶりで仙台空港に行く。空港自体はほぼ前と同じに戻っていたけれど、廻りは真っ平らで、残っている家は骨だけで、内装や壁はすっかりなくなっていた。感想の言いようのない、ポカンとすべて/何かがなくなってしまっている感じ。明美さんはこちらが気をもむこともなく何事もないようにサッサと行ってしまった。気が抜ける。

⑥僕の家では、正月の餅を子平の平田餅店で買う。いつも家政に来てくれるK子さんが今年の分を持って来てくれることになっていたのだが、直前に体調を崩してしまって来れないと言う。しばらくぶりに仙台に帰って来ている高校時代の友人から会おうかという電話も来たので、10時に長町駅に出ることにした。
長町駅で友人に合い、地下鉄で仙台駅に出て自転車に乗り換え、北山まで行く。餅をひきとりよく行く蕎麦屋でうどんを食べて仙台駅に戻り、家電屋でソニーのリーダーという電子書籍を見て(これの方が文庫で池波正太郎を揃えるより様々な意味で経済的ではないか?)帰る。という予定でほぼその通りできた。
ただ、最後に仙台駅から電車に乗ろうとしたら、いつも入っている所にあるべきSuicaの定期が見当たらない。あわてて、しかし冷静に服中のポケット(冬なのでやたら多い)をひっくり返すも見つからず、諦めて、駅の交番に届けを出す。通勤6ヶ月のSuica定期。10月からだから今年の4月13日まで。デポジットしてあるお金、残り1500円。一緒に入れていた地下鉄のスキップカードも1500円程残り。ううむ、この程度の損失だったことを喜ぶべきか、などと考えていた。相当落胆。昔の感覚だと6ヶ月の定期を落とすというのは取り返しのつかない損失だった。帰りは「落としていなかった財布」から320円出して切符を買い戻る。岩沼駅で、一応駅の人に定期を落としたことを話したら、「すぐに使用停止手続きをして、同時に再発行手続きをすれば明日からまた使えますよ。再発行1000円かかるけど」と言われる。Suica定期は定期ではなくキャッシュカードだったのだ。現金や定期はそのカードにあるのではなくそのカードが登録してあるコンピュータにあったのだ。いやはや。さっそく手続き。いやはや。世間はなんということになっていた/るのだ。

⑦31日に家の固定電話に連絡。仙台駅忘れ物保管所から、定期が届いていますとのこと。Suicaに僕の家の電話番号も記憶してあるのだ。いやはや。1月2日までに取に行くことになる。1日実業団駅伝を見終わったあと電車で仙台駅まででて、引き取って来た。とは言え、もうこのカードは使用停止になっているので、家に帰ってはさみで細かく切って捨てた。

⑧28日に明美さんが沖縄に移動したあと、僕は一人で家にいた。思えば、僕は、これまで一人で生活をした経験がなかったのではないか、ということに思い当たった。少しはあったのかもしれないが、僕の意識できる所では、いつも誰かの所に下宿していたか、そうでない時期は明美さんとかがいたように思う。本当に一人でいると、家事のしめる割合は物凄いことになる。ほとんど予定通りにはすまず、時間ばかりが過ぎる。そうかこういう生き方が、一人暮らしだと始まるのだな。諦める所は諦め、楽しめる所は集中して楽しむ心がけ。いやはや、なんとも。

今読み返すと、いやはやばかりが目につくが、これどころではない書ききれないことがこの時期連日起こっていて、そうだなあ、ブログの更新なんかするどころではなかったのだなあ、と今更ながら思う。明後日6日から、今度は僕が沖縄に行く。こそっと行こうと思っていたら、今日美術館から電話がきて、琉球大から出張要請が来たので、きちんと出張手続きをするように言われた。せっかくの休みだが、明日出て行かざるをえないだろう。いやはや、なんと僕は公務員風ではないのだろう。