知っている事。
知らない事。

その事の多様性。
そうはならない事の
多様性。



2014年12月31日 
曇。明るく乾いた空気。

下の娘に3番目の子供ができたのはついこの前だ。以前から、とても小さい人がまったく訳もわからずに満員電車に連れ込まれ、ビックリして泣いているのを見るのはとても辛いと思っていた。だから、今年はお正月帰らない旨連絡が来た時は、ほっとした。ただ少し連絡が遅かった。なので、今、僕の家の冷蔵庫は普段老人二人だと絶対食べないような食料でいっぱいになっている。少し嘘だな。「あまり沢山食べてはいけない物」が正しい。乳製品系と甘い物と肉。昨日風呂に入る時、しばらくぶりに体重計に乗ってみて、一瞬動揺する程体重が増えていた。この後しばらく餅を食う毎日が続く。ううむ。

こういう時のためではないのだが、この冬に入ったとき、自転車のタイヤをスリックからキャラメルパターンに替えておいた。なぜか今年の冬は屋内でマシーンを踏むのではなく、回数は多くなくてもきちんと外を走ろうと思っていたのだ。

今日は本当に何もしなくていい日になったので、朝ゆっくり起きて手をかけた食事を明美さんと一緒にとって、洗濯物を干し、軽く掃除をしてペレットストーブを焚き、一階の火鉢に炭をおこして11時過ぎ、新しい黄色のヘルメットをかぶって阿武隈川河原に出かけた。夏に、同じ場所の堤防上をずうっと駆け上がって白石まで行ったり、白石川分岐点折り返し阿武隈川河口まで往復とか舗装路を使った運動は、楽しんだ。今日は堤防の下の広い河原にある未舗装の道を回転だけをあげて負荷をかけずに走るというのをやる事にした。気温は5度。湿度が高いのでそんなに寒くはない。家にいる時と同じウエアに雨具の上だけ着て通勤用の薄い革手袋。家から裏道を走って阿武隈橋東側下の河原に降り走り始めた。ちょっと走って止まり様々な調整をする。空気圧を少し落とす。フロントサスペンションを少し固めに戻す。ブレーキを少しだるく。何だか前のブレーキが少し引っ掛かっているように思えるのだがここではしょうがない。深呼吸をして走り始める。未舗装路を走るのはしばらくぶりだ。堤防の上を走ると見晴らしが良いのだが、下の河原を走ると見えるのは霜枯れの背の高い芦原や草。黙々と踏む。

砕石舗装なので、結構なデコボコが続く。大きな水たまり。小さな水たまり。少し向かい風。面白いなあ。気持ち良いなあ。からすが群れになって原っぱに休んでいる。聞き覚えのあるエンジン音がした。エンジン付きラジコン4駆かな。それにしては音が大きいか?河原でモトクロスの練習をしているグループが居た。少し前まで僕もそっちに居たなあ。少し離れただけで音は聞こえなくなった。黙々と踏む。


息が上がる程ではないのだが、右手指の関節のオイル切れ感。右背筋の弱体感。少しシートをあげる。結局槻木大橋で折り返し、同じ道を戻る。あっという間だった。家でうどんを食う。この後、鉄道模型を組み立てて、汽車を動かすつもり。今年はこういう風に終わる。



僕たちは、
こんなに広く世界をみる事ができるようになったのに。

そこからここをみなければ
意味がない。


2014年12月24日 
青い空に白い雲。
雲の縁が白く輝く。

冬に入ってしばらくなりを潜めていて、もう終わった(又は歳とって死んでしまった)と思っていた猫の糞が、ここしばらくの陽気に誘われたのか庭に2カ所出現したので、ダイシンに薬を買いに出た。様々な買い物をして帰ろうと車に乗った。空の雲が大変にくっきりと美しい。そういえば常磐自動車道が相馬の向こうのだいぶヤバい所まで開通したのを思い出した。

で、亘理から乗って行ってみた。思えば海岸沿いに福島に入るのは震災以来2回目だ。岩沼でも東道路を超えて海岸の方に行くのが、僕は未だに怖い。震災以降6号線に沿って福島に入るのも未だに怖くて、県境を超えるのはしばらくぶりだ。

宮城県の山元を出ると常磐道は山に入る。山を切って作った高速道路から、海が直接見える。見え隠れする。山の中にある広場には必ず黒い袋が転々と置いてある。放射能の線量表示が所々にしてある。0.2から1.3。岩沼は0.03。一桁違う。浪江以南はモーターサイクルで行ってはいけないとの表示。ううむ、選挙なんかしている場合か?
一生懸命90キロで走る。車はあまり走っていない。走っているのは何かの仕事の車だけのようで、大小のトラックも多い。みんな各々のインターチェンジで降りて行く。僕だけが、走るためだけに走っている。遅く走っているつもりはないのに、誰もいなくなったと思うと、突然追いつかれて渋滞の先頭になり、追い越し車線が出るとまとめて抜かれて、再び前後に車の影も見えない1台だけ走行をくり返しながら、終点の浪江まで走る。浪江で降りて、6号線に出る3桁国道に曲がる。

何ということだ。道に面した普通の家の入口にクサリが張ってある。全部の家の入口が通行止めになっている。この辺りは住んではいけないのだ。三桁の国道を経て6号線に出る。ずうっと閉鎖された家、町、店。あの震災で崩れたままの家だけの街。もうあれから4年だから、全部錆びて、草茫茫で、プラスティックの色が褪めている。動物に注意の警告が次々に出てくる。工事している所も含め、誰も居ない。居たのかもしれないが見えない。ううむ、選挙なんかしている場合か?最初、泣くかと思ったが、怖くて泣くどころではなくドキドキイライラしながら仙台方向に戻る交差点まで行く。6号線も住んではいけないままの街が延々と続く。原町辺りまで来ると、ある地点から道に面した入口の鎖が突然なくなる。ううむ、選挙なんかしている場合じゃないだろう!。小心者の僕はこの辺りでやっと息をして物を考えられるようになった。一体この国は何という国になってしまっていたのだろう。中学生がジャージを着て変なヘルメットをかぶって自転車で歩道を走っている。だから、そんな事をしている場合じゃないだろう!、ではどうしろと、、。ううむ。

入口の鎖はなくなっても街には誰も住んでいない。国道沿いの大きなチェーン店だけは動いている。駐車場に沢山車が止まっている。でも、人は居ない。人がいたと思うと工事現場だ。工事現場の事務所の前に数人のおじさんが集まって話し合いをしている。人気のある所は何かの工事の現場。でも回りの景色は昔のあの原町のまま。凄く何か違う。だからそんなコトしてる場合じゃないだろう!という違い、違和感。相馬の辺りにつくとだいぶ、僕が今生活している地域に近い空気になる。この前は宮城県側から相馬まで来た。違っていた。原発側から相馬に来ると、普通にある事のおかしさ/異常さが際立つ。すぐにわかる。

初めて、津波に流された宮城県の磯浜に行った時に感じた、そこにあった物がすっかりなくなっている事の異常さと違って、そこに今も普通にあるのに、異常な状況になっている事の恐ろしさ。丁寧に注意深く善く視れば、体験した事のない事は未だにまだまだある。状況報告。

自分に自信を持っている子供。

そのためにこそ
全ての子供のための教育が
始まる/ある。



2014年12月21日 
乾いた空気。高曇りから快晴。夕日美しい。

ついさっきまで全国高校駅伝をテレビで見ていた。午前10時から女子、お昼から男子。見終わったのでブログを書いている。いつもだとこの後、テレビを見続けて一日が終わる。何とかしないといけない。

今年は12月14日で展示が終了し、宮城県美術館は1月30日までの休館に入る。皆に長く休めていいですねと言われる。
僕は退職者で、そもそも週3日しか働いていないから、実生活にはあんまり影響はない。でも美術館はこの時期に連日修理修繕をする。普通美術館のような大切な宝物(文化財)を長い間保存しておくような公共の施設は、30年程で機材の改修をしないといけない。作ったその時点で最新最高なものは30年もすると最低最悪なものになってしまうからだ。宮城県美術館も同じなのだが、ちょうどその頃に大震災が起こった。日本では、文化財にお金をかけるという考えは物凄く不思議な事と思われる。とは言え、何とかしないと雨漏りや、空調不備が起こってしまう。なので、本当は3年休むか、新宮城県現代美術館を違う場所に新たに作り、今のは完全に近代美術館として出直したいのだが、そういうことは考える事さえできない。しょうがない、まずさしあたって、1ヶ月でなおせる所だけ/からまずなおす。全電気が止まるので、寒いから1月の某日は出てこないようにという知らせが来ている。という日本の状況。
教育普及部はこの時期、開館以来の備品の確定/整備/整理をするという事で、出てくるように言われた。でも、僕はほとんど出て行かないつもり。今いる人達が使い易いように備品を変更/整備すれば良いので、僕がそこに何か言っているうちはいつまでたっても僕の(作った―残したでなく)創作室のままだ。昔の人が様々言っても、今そこにいる人がわかる所だけわかるように残って行く。僕もそうしてきたわけで、そこにいる人がわかる所/事だけ、わかったように変わって行く。そういうのが変化というのではないか。昔の人の事はあまり気にする事なんかない。残るもの(だけ)は残る。

今朝の新聞の一面に「中国に親近感がない国民が83%」と出ていた。韓国は66%。でも僕はそれより、最近の「僕の」日本への親近感が、そうだなあ、30%以下になっているように思えてしょうがない。
僕にとって世界がこんなに身近かになったこの国にいるのに、「(僕が同じに小中学校で受けてきた)世界をみるための初歩的な教育」がこんなに変わってしまった今の日本では、今の状況は当然見えていた事だったのだろうか。だとしても、その状況に本当にに暮らしている僕はこのあと如何に暮らすべきか、よくわからなくなってきている。本当に良くわからなくなってきている。が、毎日はそういう事と関係なく過ぎて行って、(次のジェネレーションとしての)孫もどんどん増えてしまっている。
わかった事だけわかったように(だけ)変わって行く。いつになったら、僕たちの国の選挙から経済的な発展の意識/意欲がなくなるのだろう。いつになったら僕たちの意識の中に「金の貯め方」でなく「(人間としての)金の使い方」の意識が生まれてくるのだろう。いつになったら「自然の使い方」でなく「自然に使われる方法」の意識が出てくるのだろう。もう出てきているのに、それに気付くための文章の読み方が、(誰かによって)隠されているように思えてしかたがないー人のせいにする意味でなく。何か覚悟が必要だ。







天気良いんだから
外で遊びなさい。
から始まる勉強。

物凄く基本的な
発想の理論。


2014年11月26日 
一日中冷たい雨。

今朝は9時過ぎに起きた。うれしい。しばらくぶりで、起きたい時に起きる日が来た。
でも、だから、今日は一日嬉しい雨降りだ。

10月も何やかにや忙しかった記憶があるが、11月に入ってからの休みの日も、何やかにや入ってきて、今日は何もない日だと思うと、車のサイドをこすってしまってなおしに行ったり(それはそれで面白かったーしばらくぶりにモーターサイクルの友人の工場を訪れたーのだが)、とにかく16日日曜、茨城県立近代美術館の「わからないのすすめⅡ」に呼ばれて活動をしに行ったのがピークだった。
とは言えその週も連日、例の石のワークキャンプをする山を見に、人を連れて行ったり、大学に授業に行ったり、9月にした沖縄の集中講義のまとめの書類仕事をしたり、福岡から来た5歳の友人の手紙に、全部ひらがなの返事のはがきを書いたり、茨城の水戸に行くための切符を買いに行ったり(結局、東北本線小山乗り換え水戸線、常磐線経由で行く事にした)、土曜日からいなくなるために起こる状況の事前の準備をしたりしているうちに土曜15日になってしまった。水戸まで在来線を使って行って、そして帰ってくる行為がいかに魅力的だったかは、別に話そう。何はともあれ、日曜日、「わからないのすすめⅡ」展で、午前中、展示作品の前で(いわゆる)美術探検、午後講堂でお話し。別の美術館には別のやり方と考え方がある。善し悪しの問題とは関係ない。でもやるべき事はそんなに変わらない。機会があったらこれも別に話そう。活動が終わってから普通に電車で帰ったので岩沼の家に着いたのは夜10時だった。

でも、次の日の朝8時半に東仙台にある脳神経外科に診療の予約がある。岩沼からその時間にそこに行くには6時半発で自動車で行くしかない。という事は4時半起き。次の日火曜は朝1時間目に大学での授業。これも、岩沼から仙台の北側の団地のふもとまで行かなければいけないので同様に4時半起床6時半発。いやはや。水曜は、早起きする事はないが、午後から山形市の小学校教員図工研修会での講話と活動のため昼前に山形市へ。そしてその帰り、山形の古い漬物屋の付属食堂で、つけもの膳という大変うまい夕食をとった。うまい白米のごはんとみそ汁、それに9種類の漬け物、小鉢(菊花おひたしと、キノコのおひたし)2種。ごはん食い終わった頃に、店の人が奥からちらっと顔を見せて「おかわりします?」とにこっと笑う。いやはや。もちろんおかわりしました。漬け物とみそ汁でごはん2膳。満腹。満ち足りた気分でゆっくり歩いて山形駅まででて、仙山線で仙台に。その電車の中で、本を読もうとして老眼鏡をその店に忘れてきた事に気付く。僕の老眼鏡はペーパーグラスという極薄い特別なフレームの奴で、僕の乱視に合せて作ってもらったレンズ付き。仙台駅に着いてから電話。この電話の遣り取りが、又心温まるもので、相当感激。山形の人って、なんでこういう風な対応が自然に出来るのだろう。どんな所でも、どんな人でも、少なくとも、僕が出会った人達に関しては、山形の人達は、みんなそうなのでやや驚く。洗練された昔の田舎の日本人。店の人は送りますと言ってくれたのだが、行けばうまいごはんが食えるのだから、もちろんとりに行く事にして、この前の日曜23日、朝ゆっくり出かけた。

何も決めずに出発。仙台駅前から高速バスで行こうとしたら、その日は3連休の中日で、すでに長蛇の列。急遽仙山線に変更。駅に戻ると時間ぴったりの電車が入っていて、すわれる。山寺まではやや混むも、そこから先はガラガラ。北山形下車。山形駅は最近Suicaが使えるようになったので、一駅手前の北山形ももちろん使えるのだろうとの読みは見事に外れ、北山形駅はまだSuica対応ではなかった。のだが、そこでの一人しかいない若い男子の駅員の対応が、これ又山形の人の典型で、へりくだるでなく切り口上でなく、困った状況におかれた普通の気のいいお兄さんが、親身に相談にのってくれるという対応。普通の気のいいお兄さん自体がすでにいなくなってしまったのかな、今の日本では。そこからゆっくり歩いて市役所裏の店へ。今日のランチは鱈汁。美味い。僕は魚は苦手なのだが、何も残さず平らげる。口の中で鱈が皮ごととろける。いやはや。眼鏡を胸のポケットにしまって山形駅まで裏通りを巡ってゆき、うまく時間があった新しいカラーの山形新幹線で、福島駅にでる。ここまで遠回りしたのだから、これまたうまく時間があった、阿武隈急行に乗って岩沼まで。ついてもまだ明るい4時前だった。今日は千秋楽だったので、その後はテレビで、相撲三昧。豊かな一日になった。









基本的に動く道や階段は、
使わない。

エレベータの扉締めボタンを
押さないでいる時の時間
こそが私の時間ではないか。





2014年11月 2日  
午前中乾燥快晴。午後湿度が上がって厚い曇。でも気温20度。

今日は何も予定のない日曜日。いつものとおり起きて「ああ、今日は何もないんだ」と少しニコニコして二度寝。ゆっくり、と言っても、8時頃起きて新聞のテレヴィ欄チェック。朝にBS3で、アメリカンフットボール(NFL)の中継を見たいのだが、今日はやっていなかった。野球が終了したので、そろそろ見られるのではないかと思っている。録画装置を用意してまで見ようとは思っていないので、上手く時間があった時が楽しみなのだ。

しょうがないので起きてFMラジオを付け、聞きながら服を着る。今日は本当に何もない日だから、一日パレオでいいかとも思ったのだが、なんとなく居間がゴミっぽく感じたので、ズボンをはくことにする。
洗濯機を廻しながら、取り込まれておいてある昨日までの洗濯物をしまう。この時期夏物と冬物との入れ替えがあるので、引き出しに何が入っているかのラベルを付けながらしまう。何しろ僕は夏物がやたら多いのだ。しかも昔からのアロハとかがいっせいに老け始めてきているのは前に述べた。
明美さんのために注文している食パンが余っているようなので、朝はトースト4枚。家にある物で食事を作って食べる分にはほとんどお金はかからないはずなのだが、明美さんはコンビニに買い物に行きたいようなのだ。コンビニ弁当の入れ物やインスタント麺類のカップがくず入れにあふれている。するとトースト用食パンが余って来る。何枚か出してみると少しカビが生えていたのだけれど、無視してオーブントースターで強めに焼き、紅子手作りクリームチーズと多賀城のイチジクジャムを厚くぬって食べる。珈琲と林檎ジュース、ヨーグルト。オランダのカマンベール少し。
食後、使った物も含め食器洗い。最近は明美さんがだいぶ自主的にやってくれるようになったので、量はそんなにではない。でも、なぜか、彼女は食器を元に戻さない(戸棚にしまわない)のだ。テーブルの上とテーブルの下を掃いて拭く。
洗濯が終わった信号がなって、干す。干していたら誰かかが来て、明美さんはその人と聖書の研究会に出かける。彼女は最近そういう友達ができたのだ。ぜひ行ってらっしゃいと、送り出す。前日までの干し物で、なんかパリッと乾ききっていなかった物も一緒に干し直したりしていたら、又誰か来た。日曜日なのにみんな良く来るなあ。

その人は家の手入れをする会社の営業の人だった。僕の家はなんだか目立つようで、家を巡る様々な人が来る。その人は。そろそろ外壁を塗り直す時期ではないかという話をしにきたのだった。ううむ。僕も気にし始めてはいたのよね。でも僕は、塗装関係はいつも名取の塗装屋さんにお願いしている旨話す。気の弱そうな中年の男の人だったが、自分の会社は、使う塗料が他の会社とは違うんだとキッパリ云うので、詳しい話を聞いてみた。僕は、普段美術館に勤めている「美術を巡る何でも相談員」だという名札を付けているわけではないから、話を聞きたいと云うと、勢い込んで説明してくる人が多いのだが、この人は少し話したら、詳しい人をよんで又午後に来るということになった。気の利く/回る人なのだった。午後から来た専門の人に聞いたら、光触媒塗料というのを使うという話だった。塗料自体が空気を浄化するという塗料。質問に答えてもらいながら詳しい話を聞いた。外に出て家の周りを回ってみたりもした。ほぼ同じ値段でできる、同じ性能を持つその他の塗料の話も聞いた。色々な製品が出てきている。良い世の中になって来てはいるのだなあ、という実感。少し考えてみることにした。彼等が帰ると、もう外は暗いのだった。

やっぱり今日はパレオでなくて正解だった。




挨拶は、声を合わせてそろって言うものではない。

普通に話す挨拶を心がけたい。
やあこんにちは。


2014年10月16日  
昨日は乾いた空気の快晴。
今日は湿った肌寒い厚い曇。

今日は本当の所、ベッドから起き上がったらそのままバッタリ倒れて再び深い眠りに陥りたい気分なのだが、木曜日なので身体を何かからビリビリ引き離す感じで美術館に出勤してきた。沖縄にいたのは9月の20日前後だったのに、もう10月も半ば。いやはや。疲れがどっと出てきている。

9月の最終金曜日から仙台白百合女子大の後期の授業が始まった。毎週火曜の1時限目。9時からの授業に間に合うためには、結局6時半に家を車で出るのが最も効率的である事が判明。途中に4箇所渋滞する交差点がある。しばらく火曜は早起きだ。

10月に入って上の娘悠記が沖縄から戻ってきて、7日から12日までSMT裏のギャラリーで個展。もう彼女は普通の絵描きで、今回は連れ合いも一緒に来ていたから、僕は特に何もしないのだが、車の関係で13日は展示の撤収と、売れた作品の搬送、売れなかった作品の搬出手伝い。台風が来て、微妙に運搬に手間がかかる。でも直撃ではなかったからそうとう助かった。

それら決まった活動とは全く関係なく、市内の市民センターに出かけ老荘大学で90名を相手に美術と美術館(社会教育施設)を巡るお話。2年おきに来る幼稚園の年長組(20名を1日1クラスずつ2クラス2日間)の人達と美術館探検(だけ。粘土は無しだったから引き受けた)。関わっているNPOの活動で、児童館の子供達(ということは小学校低学年中心)45名との昼飯を食器から作って食う外遊び。

14日大台風で電車軒並み運休をかいくぐり、じっくり時間をかけて明美さんと彼女の病院に行って検診投薬。県の芸術祭が始まっったけれど、今年はなんだか期間が長くて、ぜんぶは見に行けなかった。で、意識的に行かなかった寄り合いがこの他に1件あって、本当はその会合も大変大切なものであるのは承知していたのだが、優先順位から、あきらめて、倒れないようにする方をとっって、その日は1日休養。

書き並べると、たいしたことなかったように思えて来るが、思えば今日は16日で沖縄から帰ってほぼ2週間。これらが重なって起こってくるので、なんだか休み無しにクルクル動いていたように思えて来る。なので、頼んでいた渡辺さんのパンをとりに行くのをスッカリ忘れていたりした。

大学での先生にしろ子供達との活動にしろ、とにかく他人と関わりのある活動では、始めるまでは「みんな違うのが当たり前なのだから基本的には自分をあまり出さず、全体的には適当にやろうと思っているのに、面白いことが始まるとつい一生懸命になってしまって、結局様々言いつつ、やってしまった活動が終わると、コタコタに疲れている、ということの繰り返し。基本的に真面目な性格が、なんと言ったら良いのか、裏目に出ている?




本当に怖い時は、
大きい声で泣いてかまわない。

泣くのを我慢すると、
もっと怖くなるから。


2014年 9月27日  
雲の多い秋晴。乾いた涼しい空気の微風。

今年の秋の一大イベントだった、沖縄県立芸大での博物館教育論の集中講義を終えて、24日に帰還。数日寝て過ごしたい感じがあるが、25日から出勤して連日何やかにや熱心に働いている。

沖縄日誌。
17日、午後那覇に到着してモノレールで大学に行ってみる。様々な部分の確認。那覇のビジジネスホテル泊。
18日、ホテルで朝飯を食っていると、テーブルの上にヤモリの子供が出てきてちょろっと動く。冷房が入っているので動き鈍し。それを横目で見つつ白米ご飯を食う。ヤモリを見るのは幸先良し。
首里に出てまずタマウドゥン(王墓陵)に行き、その後、そのまわりのウタキ(御嶽)やヒージャー(樋川-泉)/ガー(河)を歩き回る。首里城のまわりは王家にまつわる古いポイントが結構ある。本当のウタキは、ポイントのまわりにはこの方向など沢山お知らせがあるのだが、ウタキ自体は昔のままにしておかなければいけないので、人間の手を入れられず、不思議な(それは時として不気味なになるのだが)状況になる。落ち葉や、岩の崩れや、植物の繁茂がそのままになっている。ただ自然が無秩序にあるだけの場所。普通にある(人間にとって)無秩序な自然は、今の僕に普段感じた事のない感情を思いださせる。怖いに近い、恐れ多い感情。僕達は来すぎてしまっていないか。
19日、沖縄県芸で博物館教育論講義1。主に教育概念の点検。90分×5時限。
20日、沖縄県芸で博物館教育論講義2。主に美術概念の点検。90分×5時限。
21日午前、沖縄県芸で博物館教育論講義3。総括的に博物館概念の点検。質疑応答。90分×2時限。
午後、沖縄県立美術館に移動して講義の実践を公開、美術探検と美術館探検。2時間×2回。少し早いが終了。コタコタで声は枯れている。
22日、沖縄市に住む娘夫婦と沖縄中部を巡る。ものすごくゆっくり勝連城散策。ヌチマース(塩)工場に行って塩を買い、食事。橋で行ける島に行って沢山のウタキとガーとを回る。最後に台風がらみのスコールに遭う。
23日、気にはなっていたのに今まで行けなかった識名園(王の離宮/庭園)に、朝一で行く。昼過ぎ国際通りに戻り昼飯を食った後、北谷のアメリカンヴィレッジで、お土産を買いあさる。
24日、午後の便で帰仙。台風は直撃しなかったが飛行機は少し遅れ、帰って来たら東北線の電車も少し遅れ、家に着いたのは8時過ぎだった。

今回、初めて沖縄のハイシーズンに滞在した。2月だと何時行っても昼飯が食べられた(本に載っている)レストランは、予約しないと1時間待ち。でも、そのため、学生等に聞いて、地元の人達が普段昼飯を食っている食堂に行くことができた。普通のユシ豆腐定食。何なのこの量は!の毎日。
沢山のタンクトップと短パンの人達(地元の人はあまり肌を出さない)がいて、どこに行っても声高な中国語が飛び交っている。でも、僕が歩く御嶽への道には誰もいない。観光ポイントでもらった無料の地図を使って行って見ると、地図では直交しているはずなのに、那覇の道はほとんど直行していない事に気付く。Y字型に次々道が重なって来る。そこに高低差が加わる。石敢當の必然が身にしみてわかる。もらった地図では隣り合っているのに、行ってみると行きたい所が実は重なって存在する。だから、そこに行く道は別々で、辿り着くには丘をぐるっと一回りすることになる。
この時期沖縄は連日33度で、すぐにTシャツが汗で濡れてくる。でも充実した神聖な毎日。







だいたいの事は
ほとんどどうでもいい事
なのではないか。

その中に起こる大切な事。
見逃さないようにしたい。

2014年 8月30日 
湿った涼しい空気の曇り。
通勤時猛烈な雨。

気付くともう9月に入ろうとしている。前々から今年の9月は急がしい予定になっていた。いつもなら2月にあった沖縄県立芸大の集中講義(博物館教育)が、様々な問題が重なって今年は9月にやることになってしまっていたのだ。それで暑い最中まるまる1週間沖縄に出かけることになっている。しっかり覚悟しておかないと物理的に大変だぞと思っていた。

そこにまわりとは全く関係なく登米の幼稚園から依頼が入って、10月中旬、県の国公立幼稚園の先生達の研修会で子供とのつきあいを巡るお話を頼まれた。いやあ、急がしくなってきたぞと思っていたら、またまた全く関係なく茨城県近代美術館から電話があって、今度やる「ワカラナイのススメー2」という展覧会で、11月16日日曜、ワカラナイの楽しみ方の実践とお話をしてくれないかという相談。それはいいが、9月に入ると、僕は白百合女子大で幼児教育-図工の授業を半期15回する事を4月に約束している。前に書いた丸森の「大蔵山ワークキャンプ2015年」の相談も1年前だから佳境に入って来る。そしてこの時期、街の市民センターでは芸術の秋だ。美術の楽しみ方のお話が聞きたいというリクエスト。いやはや、みんなどうしちゃったの?

そうかみんな美術を気にするようになってきたのだね。こういうふうな社会になるために、僕は何十年も美術館で働いていたんだ。頼まれるうちが花。撃ちてし止まん(ここでこういう風に使っていいのか?)。断ってはいけない。断る理由はない。行ける所まで行って話そうと思う。

僕が持っている服は、夏用のが冬用より圧倒的に多い(僕は7月生まれだ)のだが、それがここに来ていっせいに老けてきた。前にも書いたが、特に何をしたではないのに、活動から帰ってくると、肩がぞっくりと裂けていて、それを直そうとさわると肩全部がそっくりとれて来たりする。この事は前にも書いた。

美術は、そのリアルな状況/状態をいかに余裕を持ってとらえられるか、というような物であると考えることもできる。さて、この状況はどのように余裕を持ってとらえられるのか。


なんて事をつれずれに書いていたら連絡が入って、下の娘が第3子を無事生んだとの事。予定は9月3日と聞いていたのだが、何はともあれ良かった良かった。


五、六千万年前に
僕らは猿ではなくなった。

でも絵を描いたのは
たった三万五千年前。

だから絵を描くこと自体が
喜びなのだ。


2014年 7月29日  
乾いた暑い空気。無風。
 
最近、白石、角田、丸森が境を接し合っている所にある大蔵山に関わる活動が多い。昨日も、若い友人達を誘って行ってきた。大倉山は伊達冠石の出る山で、そこで来年何か美術的なワークキャンプをしたいという相談なのだが、今日の話はその事ではない。

大蔵山に関わっている関係で、丸森の観光マップをもらった。丸森には猫神を初めとしてヘンな(これは僕においては褒め言葉だ)状況が多々ある事はすでに知っている。そのマップに「立石」というのがあった。なんか、凄くデカイ1個の石がスックと立っている、らしい。町から不動尊公園に行く途中、左側に見える、らしい。ううむ、不動尊公園には何回か行っているが見たことないぞ。気になる。天気もいいしクロスカブを動かすには最適の日だ。

朝の家事を終えてから、一応山用の薄いパンツにビルケンのスポーツブーツ、物凄く古いクシタニのメッシュエンデューロジャケットを着て、その下にTシャツ。カブ用の軽いヘルメットにゴーグル、物見遊山の気持ちで、一応水だけは持って、出発。
カブで行くと、ルートは縦横無尽に取れるので、ほぼずうっと阿武隈川の堤防の上をたどって丸森まで行く。堤防から新しく出来た丸森大橋を渡って東側から街に入り、役場の横から不動尊公園の方向へ進む。猫神の時でも解るように、丸森には僕の廻りではもうだいぶ少なくなってしまった様々な神様にまつわる様々な状況が今も生きている。それを丁寧にみんなで掘り起こしている。丸森の観光マップには、それを見ないと絶対にわからない面白い物が山のように載っている。古碑街道なんて、これを見なければ絶対にわからない。いや、その話は次の機会だ、今日は立石に行く。でも丸森ですからね、そう簡単には見つからない。この前の猫神の時に身にしみているので、丁寧に確認して進んでいく。
まず、丸森大銀杏!の東側の道をまっすぐ?に行って少し広い道!に出たら、南に下がり点線の道!に入る。そうしたら立石入口の看板に出た。そこから未舗装の道を山の中に入る。土砂取場になっている。なんかもう立石も取り崩されていたりしてと、やや心配しながら山肌むき出しの谷を進んでいくと奥から白いトヨタクラウンが降りてきたので聞くと、立石の入口を教えてくれた。「看板を入ってすぐ左に折れて細い山道へ」だった。「バイクでは行けないよ。でもそういうバイクなら大丈夫かな」とのこと。とは言え、何しろクロスカブですからね、覚悟して突入。ほんの少し入ってすぐ挫折。ヨロヨロとUターンして道の端に停め、ヘルメットや上着をまとめてカブにくくりつけ、Tシャツ一枚になって用意の帽子をかぶり水を持って出発。結構急な山に、新たに削り作った道がつづれ折にぐいぐい登ぼっていく。道が雨で崩れかけていて、土砂崩れになりかけているように谷側に向けて割れ目が入っている所多数。雨でウオッシュアウトしている所も多数。でも草はそんなに茂っていない。ビルケンの靴底は基本的に平らなので、溝は入っているとは言え、乾いた山砂の登りはぜんんぜんグリップなし。下りはどうするかなんていう事を考える前にぐいぐい、しかしゆっくり慎重に、登る。結構な距離。ぐにゃぐにゃ登って行き、最後に細い階段で薮を抜けると、突然空の中に石がゴーンと立っていた。何ということだ。山の頂上に周り25m高さ12.5mの御影石が、一個ポツンとつっ立っている。
ううむ上手く言えない。そこに居た時、これは今日中にぜひブログに書いておかなければと思ったのだが、今ここで書いてみると上手く言えない。そういう場所と感じ。あそこはみんな行った方が良いが、内緒にしておきたい気もする。僕は裸になって石の側でしばらくヨガの呼吸をし、慎重に降りてきた。

立石からの帰り道、丸山城趾の表示があったので寄ってみる。なかなか良い石組みが残っていた。齋理屋敷の所まで戻り昼飯。
立石を見て、美味い飯も食ったので、なんだか勇気淋漓になった。そこで、ここまで来たらと丸森3城制覇を思いつく。この前大内の上野農園に寄った帰り小齋の見張/物見櫓を見てそこで知った丸森3城。丸山城を見たらあと金山城を見ればいいはずだ。113号線を相馬の方に戻り金山で標識にそって城跡に登る。丸山城は木が茂っていて景色は見えず、しかし石組みだけがその中に静かにあり、なかなか念い深かった。

金山城は規模が全然違っていた。大きい(広いでなく)山城。ここの城の人はこの上り下りを縦横無尽に使っていたのか。見晴らしは凄い。このあたりで戦う時はここに陣地を構えるのだ、というふうに丸森を中心にした盆地が、上手い具合に全部見える。なるほど。行ける所を全部歩き回って小齋逢隈経由で帰宅。するつもりだったのだが、最後に小齋の物見櫓にちょっと寄ったら、ここは柴小屋城の物見櫓だと書いてある。柴小屋城って何?何処?櫓の裏/反対側に城跡こちらの旗/のぼりが立っていた。細い踏み分け道が森の中に消えている。奥にのぼり。城跡まで600mの表示。時刻は15時になったばかり。ここまで来たのだから行ってみましょう、と歩き始めた。ええと長くなるので詳細は省略するが、ここも典型的な山城だった。山の中の上り下りをのぼりにそって600m、往復した。結構なトレッキングだった。

様々な情報を重ねると、伊達政宗が若者だった頃、この辺は金山城や柴小屋城、丸山城を拠点に縦横無尽に戦いを繰り返していたようだ。相馬藩と伊達藩の境。400年もたっていないのに、柴小屋城なんて今は物凄い山奥になっている。山の中に空堀が掘ってあって、それは山を廻ってズウッと続いていた。たぶん全部ではないにしても、誰かが掘ったのだ。いやはや。その頃はたぶん今とはまったく違った道にそってまったく違った街と生活がここ/このあたりに広がっていたのだろう。森の中に静かに立って、この辺を走り回ったり穴を掘ったりしていた人達の事を念う。ひょっとするとあの石も誰か(達)が人力で立てたのかもしれない。

想い深い一日が過ぎる。


小さい人達は、
うるさくしているのではない。

普通に話しているのだが、
周波数が高いのだ。

お母さん助けての声が
森でも良く通るように。

2014年 7月27日  
湿った暑い空気。高曇り。

今日は日曜日で、薄日が射している。今日の午後僕は新しい自転車を北仙台の自転車屋2輪工房に受けとりにいく。新しい自転車に貼る僕のステッカーを朝起きてから、ずうっと探していたのだが見つからない。

昔モーターサイクルに深く関わっていた時期、僕は4人の気のあった仲間とエンデュランスユニオンというチームを作っていた。何回かレースの主催などもして、面白くて息の合ったグループだったのだが、メンバーが徐々に社長など責任あるポジションについてきて忙しくなり、いつのまにか活発な遊びの活動からはとうざかってしまた。その時のチームステッカーを、僕は今でも、自分の移動手段関係の機材に必ず貼る事にしている。残り少なくなってきているが、全部使い切る前に僕の方がいなくなるだろう。

そういう(僕にとってだけ大切な)ステッカーが見つからない。確かシステム手帳のポケットに入れていたはずなのだがそこにない。あせりますね、こういう時って。そんなに広くない家の上から下まで、思い出す所を片っ端からひっくり返してみたがない。朝から動かないでいても汗が出る日なので、どっといっそう汗が出る。最終的には、目の前の一番目につく所にそっと置いてあったのを見つけた。ちゃんと困らないようにしてあったのだ。いやはや、しかしよかった。

最近、僕の着ている物がいっせいに限界に来ている。小さい人たちとトトロに会う練習のため薮の中に潜り込んだりして戻ってくると、何かに引っかかったという感じはないのに、アロハシャツの肩口がゾックリ口を開けていたりする。もう布自体がふけてしまっていて、手で引っ張っただけでさけてしまうのだった。はいているショートパンツはパタゴニアのセルフスタンダップというやつで、オーガニックコットンになる前の硬く強い素材なのだが、腿と擦れる所がすり切れてきて、はみだした糸屑を何気なく引っ張ると、ゾゾゾッと折り返し全体がほつれてきたりしてあせる。気に入った物を直して使うという方向で使ってきてここまで来た。自転車などもしかり。使えなくなった物を換えるのではない買い物はしばらくぶりで嬉しい。こういう感じが/も僕のストレスだったのだろうか。

今日とりにいく自転車は、仙台市内を移動するための物。これまでは20インチ内装3段変速の自転車で主に歩道を使って走っていた。でも最近歩行者と付き合いきれなくなってきた。あなたが今どこにいて何してるか少しでいいからまわり見ろよ、といいたくなる人の数が急に増えてきているように思う。この前書いたブログの話のように。なので僕は自転車をきちんと軽車両で使う事にした。今度のは26インチにして、少しいいヘルメットを使い、頑張って車道を走ろうと思う、できるだけね。

新しい物を買うと、僕は少し生き返る。ほんとに僕は70年代に若い頃というのをやってきた人なんだなあと心から思う、いやはや。だとしても、自分の気に入った物を丁寧に使い切る生活をこれからも続けたい。年金だけでやるのは大変だけれど。






10歳といっても、
生まれて120ヶ月。
ほぼすべての出来事が、
全部初めての経験。

という体験を、
経験値に変える練習。
基礎教育。

2014年 7月21日 
快晴。湿度の高い空気、無風。

だいぶ前に書き始めた文章を公開したい。なかなかまとまらなかったのと、書き始めたとたん、様々な相談事が起こって、しばらく考えることができなかった。様々な相談事は、結構面白い事柄だったから、又別の機会に書こうと思う。

2014年 7月 3日 厚い高曇り。雲から漏れる少しの日差しが暑い。

昨日の夜、小さい男の子を持つ若い友人から、しばらくぶりに会って話をしたいのだが時間ある?という電話が来た。もちろん時間は有る。で、何の相談?「政府がなんだか決めちゃったじゃないですか。僕はなんだか凄く心配なんだけど、齋さんと話せば少しは整理できるかなと思って」という相談。ううむ、来たか。

今年度初めから宮教大で一般教養としての美術の話をしている。昨日は水曜でその授業の日だった。この時期教育大では実習が始まるので出席は4名だった。この授業は半期なので、もうそろそろ終わり。いつもより親密に美術技術の練習初歩の作業をした。鉛筆での丁寧な塗りつぶし。顔の表情に乏しい学生達は、しかし、僕が昔大学で教えられたのと同じ反応を活動に示し、面白かったと感想に書いていた。
帰りは事情があって、友人の自動車に乗せてもらって岩沼まで。4号線などメインストリートを主に使用。ほんの50分程の間に、信じられないような割り込みと急な方向転換に数回あう。最近回り気にしてない人多くなったよね、という会話。ああ、みんななんとなくそう思っていたんだね。
今朝も事情があってモーターサイクルで出勤。そもそも、今持っている125ccの小さいモーターサイクルで出勤時間の4号バイパスを走るのはなかなか緊張する作業。長々と渋滞している1台に一人しか乗っていない自動車の列の脇を、モーターサイクル、スクーター、スポーツタイプの自転車などがギリギリとすり抜けていく。歳を取っているのを自覚しているので、僕はサイドのすり抜けをせず、静々と邪魔にならないように気を使って、車の後に付き、信号などでは無理をせず、結構な時間をかけて美術館まで来る。でも、何回かクラクションを鳴らされる。黄色信号なんだから行ってしまえよ!の意味。その度に後ろを振り返ってすまぬの合図。
今日、美術館には近くの小学校の2年生が、粘土の活動を含む、美術館探検に来ている。元気に騒がしい。例の「おはようございます」のかけ声で、それは突然静かになる。イタリアから来ている作家が驚愕する、「静かな8歳」の人間の集団。

ごく普通の毎日が過ぎていく。でも、僕の感じるこのストレス?はなんなのだろうと黙って思っていた。

しばらく前から、本当にそうとうしばらく前から、こういうことは何もおかしいことではないと、みんな思っている毎日が、僕達の国では続いている。今回の政治の有り様は、気付く側にいる人には、ああ、やっぱりなんかおかしかったんだと気付くための、最後の手だったのではないか。そうかこういうふうにヘンになるんだと逆に気付くための。
そしてこの状況は、もうここまでみんなで来てしまっているのだから、今更どうこうできるものではないということも、みんな知ってしまっているのではないか。もう後戻りはできない/しない、という感じに。

宮尾節子という人が書いたという詩を息子がツイッターに載せていた。

「明日戦争が始まる」

まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった。

インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった

虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった

じゅんび
ばっちりだ

戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる


僕は元々が戦車の模型を作る人なので、具体的な物を通して戦争関係の事物に興味を向けつづけて来た。戦争映画はよく見るし、DVDも少なからず持っている。CGで作るのが当たり前になって、それらの映画は一気にリアルになった。その上、今年は1次大戦から100年目だ。模型も映画も、これまでとは幅も深さも違うレベルの情報があふれて来た。それらの映画を見るとき、僕の感じる心苦しさは、戦争では、どこでもいつでもグレイゾーンの積み重ねで、(物事が)既に決まっている方向に進んでいくことに由来する心苦しさだ。ちょっとでいい、そこに踏み止まって、正悪問わず考える。止まって考える。最低限の人間としての行為をすると、訳もなく死んでしまうのが、どうも戦争というもののようだということを、それら作られた映画でさえ僕等に伝える。実際はそれどころではないのだろう。


そこに今ある事や物をリアルに感じ取る力。自分の常識が常識なのではなく、常識そのものが多様性を持っているという事を実感として持つ常識。そのために始められた民主主義。しかしそのために創られた選挙という方法が作っている現状。個人の力は、各自が持つ1票に集約される。1票に集約されるリアル。その各々のいる場所で、その時点時点で何をするかが毎回問われている。その結果の現状。これまで何をしてきたかが、今に集約され象徴される。その一言、1行動が、積み重なってしか社会は動かない。そういう動きをこれからも続けていくしかないなあと、僕は思っている。軽々に動かない理由を考えると、本当に無力感に包まれる。僕が単に歳とったためだけだといいのだが。

学校で美術を学ぶ理由は、
美術が各自の世界観を形創る
基本の力になるからだ。

世界観を作る力は、
字を知る事と同じほど大切だ。



2014年 6月26日 
やや湿った空気の高曇り。

昨日は水曜日だったが宮教大を休講にして、山形市図工研(小学校教員自主的図工美術勉強会)の研修に呼ばれて行ってきた。普通の日なので、先生達は授業のある日だから、午後遅くからしか集まれない。宮城県だとたいてい15時半から。それでも相当数の人達が遅れる。と、思っていた。

朝の家事を片付け、ゆっくり10時に家を出て、11時の仙山線快速山形行き。12時半頃山形駅に着き、改札のすぐ脇、山形Sパル平田牧場食堂でトンカツ膳。本当は駅を出て少し東に行った三津屋という蕎麦屋で山形そばを食おうと予定していたのだが、改札を出たとたん平田のトンカツが目に入ってつい変更。この時間だと数量限定金華豚ロース膳が食えた。平田牧場の豚肉はイヤハヤなにしろ美味い。歯ごたえが美味い。今日呼ばれているのは市立南沼原小学校。グーグルの地図で見ると歩いていけない距離ではなかったので、学校は駅の西側だが、まず東口に出て、昔の羽州街道に出て暑い日差しの中ユルユルフラフラアッチコッチキョロキョロ行く。もちろん山形市も、自動車を中心にした、新たなバイパスのような働きをする広い道が、これまでの道をほとんど無視して作られてはいる。だとしても、なぜかなんとなく落ち着いて見える。そういう道から1本裏に入った家のたたずまい。昔からある様々な事物を中心に道が曲がっている。不思議に曲がった所はたいてい神社かお寺かお地蔵様かがいて由来が書いてあり、きちんと手入れがされている。お地蔵様の赤いよだれかけが新しい。駅からちょっと離れると、1軒分の敷地がぐっと広くなり手入れされた日本庭園。その間を縫う細い道路角に、突然モダンな造りと色の新しいアパートが建っているのもカッコいい。あまり風のない盆地の暑い空気が、人通りのないウイークデイの午後を流れていく。いつの間にか空は晴れていて、沢山の小さな雲がキラキラ白く光って流れていく。いやはやなんと気持ちのいい午後のお散歩。

14時50分頃学校の前に着いて、後30分あるから少し涼んでいこうと、すぐ近くのYAMADA電器に入ったら電話が鳴った。僕を呼んでくれたK野先生からで「今どこですか?」と言う。「すぐ前のYAMADA電器で涼んでから行く」と答えたら、あわてて「今日の研修は15時からです」というではないか。いやはや。電話してもらって良かった。こちらもあわてて、時間ギリギリに駆けつける。既に全員そろって待っていた。挨拶もそこそこにお話、1時間半。図工と美術のお話。世界観の固定と拡大。世界観の作り方の練習としての図工。ビックリのビとして考える美術の美。アッという間の1時間半。

帰ろうと思ったら空が割れるかと思うようなカミナリ。局所的豪雨。車で駅まで送ってもらう途中、角をひとつ曲がると道も濡れていないという異常。新幹線で福島に出て帰ろうと思っていたが止めて、帰りも仙山線。夕飯の駅弁も平田牧場のトンカツ弁。トンカツに暮れた1日となる。携帯に2CVの車検終了との連絡が入っていた。


僕達は未来には背を向け、
後退りしながら進んで行く。

こんなに歴史を重ねて来たのはそのためだ。

2014年 6月12日  
小雨。ヒヤッとした空気。

どうしてしまったのだろう、毎日ぼやっとテレビを見て終わってしまっている。低気圧のせいか?この前、家にお巡りさんがやってきた。前に明美さんに書いてもらった家族(住民)調べを書き直してくれないかという相談だった。見せてもらうと、住所が仙台になっていて今家に4(又は?5)人住んでいることになっていた。ううむ。それはあっちの世界で、こっちには今2人住んでいると書き直す。
彼女が書いた書面の前に、胞夫さんが書いた住民調べがはさんであった。もう10年程前だ。胞夫さんと栄子さんと一番下の弟が、この住所に住んでいる事を胞夫さんの直筆で書いてある。字が上手い。どこも崩していない面相筆(たぶん筆ペン)で書いた楷書の漢字。一目で彼だと分かる人柄がにじみ出している。しばらく感動して見ていた。
ええとその話ではない。明美さんは、こういうのをこういう風に書くという話だ。

明美さんの年金をもらえるようにする手続きが終わった。年金は本人が請求しないともらえない。4月初めから始めて昨日で完了。

まず彼女が様々な状況が重なって自分では筋の通った話ができない状況にいる事を分かってもらう。その手続き。それが判明したので、まず障害者年金をもらえないかの確認をするように言われる。その手続き。僕は仙台のH病院が、彼女の最初にかかった精神病院だと思っていたのだが、申請書類の審査の結果最初にかかったのは塩竈にあるM病院である事がわかり(僕も思い出した。もう35年も前の事だ)、東北線に乗って書類をもらいに行ったりした。もちろんそれはそれで楽しい塩竈散歩の1日だったが。で、その提出書類の審査の結果、明美さんは障害者年金には引っかからない!事が判明。通常の手続きに戻る/始まる。
さて、年金をもらうには彼女名義の預金講座が必要になる。新たに銀行の口座を開くのは、最近結構難しい。これも様々な証明書や、福祉手帳を持って行って本人不在のままの手続きになる。様々な理由でもう七十七は嫌だなと思い、違う銀行を探した。すると家から東側に5軒となりの道の向い側に、相双五城信用金庫岩沼支店というのがある事に気付く。もう数十年前から在るのだって。お隣なのにちっとも知らなかった。僕も口座開こうかと思う。ATMまで下駄で行ける。その他、市役所で一通りの住民票や戸籍謄本1式。そうして年金事務所に出かけた。

ここに書いた出来事は、その事務所のSさんという人に聞いたり相談したりしながら進めることができた。硬い人だが、硬い事は言わない人。ううむ、もう彼等は公務員ではないのだけれどこうなっている。いや、公務員ではなくなったのでこうできたのかな?僕も、公務員だ(った)けれど、本質客商売だからね。このあたりの感じ/センスが、なかなか難しい。

というのをやりつつ毎週水曜宮教大で午前中授業。美術入門という一般教養の美術を半期2単位。2015年に又やりたいと云って来た、大蔵山ワークキャンプを巡る相談。いよいよ普通になって来ている石巻など被災地での子供を巡る美術活動の実践相談。この前、ちょっとカヌーを漕いで見たけれど、なかなか遊びに行けない毎日のうちに梅雨だ。
毎日相変わらず忙しがっている。



自然を支配する。
自然と共存する。

人間は地球の生き物だ。
生きるためにする/できる事。



2014年 5月13日 
生暖かい微風。明るい曇り。

この前はずれた右上奥歯に新たな銀をかぶせる予約を連休前に入れていた。昨朝起きて日程表を確認したら、同じ時間に明美さんの医者に行く予約を数ヶ月前に入れていた。
すったもんだした結果、今日1番に歯医者の予約を変更し今入れてきたところ。歯医者は充分な仕事をするために予約制をとっているわけで、患者の頭数を簡単には増やせないのだ。今朝早くまでは雨が結構降っていたようなのだが、日が昇ったあたりから雨はあがった。快適な湿り具合の日が始まっている。

この前の日曜は母の日だった。美術館で視覚障害の人達の活動があった。彼等はもう何回も彼等だけで鑑賞しに来ていたのだけれど、バックヤードツアーができないかという相談があったので、休みだったけどのこのこ出かけて行った。ハーフマラソンの日だから、駅から歩いて美術館まで往復。その往復時、何気なくNHKFMを聞いていたら、一日ママ歌三昧をしていた。

新緑の青葉通りの七十七銀行前を、どこかの田舎のお母さんが、「君は君の人生を歩き始めたのだから、もう田舎に帰って来ないように」と方言で歌う歌を聴きながら、様々なことを思い出して泣きながら歩いたりした。僕は良い?息子なので、基本的にマザーコンプレックスだ。とはいえ、世界中の人は全員誰かの子供なので、お母さんを巡る歌は信じられない程広く深くあって、一日やってもまだ足りない程沢山ある。が、それを素直に泣きながら聞いている時に僕が考えていたのは、栄子さん(母)ではなく胞夫さん(父)だったりした。ううむ、歳とったなあと思う。母がそれをしているとき父は何をし何を考えているか/いたか。人間という生き物のオスの在り様。

女の人は自分でその人を生むことができるので、それは想いが充分なのだろうとは想像できる。いいなあと毎回思う。でもその人は僕の遺伝子も持っている。僕がいなくなってもその人の形で僕は生き残る、という感じ/感覚。もう、君は君だから前だけみて進んでいいんだぜ。と言うより、僕の遺伝子としては僕の行けなかったそっち側のできるだけ遠くに、行って良いんだ/行ってもらいたい。ということがあるとき全部いっぺんにわかる。

それまでだってなんとなく薄々感じてはいたが、僕の場合はこの前福島の原発が爆発し、彼等が沖縄に逃げるという連絡をよこした時。ちょうど胞夫さんが死んだばかりの頃だったので、遺産という程のものではないが、ある程度のお金を彼等の通帳に振り込んであった。それを使ってどこかに行け、「前だけを見よ」というメールを送信した後、涙がしばらく流れて、電車の中でじっとしていたことを思い出す。原爆/原発を使うということがどういうことなのかも、そのとき実感として理解した。自分の遺伝子を残すという責任/希望。みんな全員誰かの子供なのに。大人になるということの責任と希望。地球の上の生き物の責任と希望。いったい僕達は何時から生き物でなくなってしまったのだろうか。




その子供だけが可愛い
のではない。
可愛くない子供はいない。

子供を可愛くさせない
大人がいるのだ。


2014年 5月 6日  
乾いた空気。雲の多い晴。

柴田町には、町の農政課が作った里山ハイキングモデルコースがある。そのうちのAコースは僕のいつも行く散歩の道に重なっている。今年の雪の消えた天気のいい冬の1日、ふもとから深山を経由してグリーンピアに出て滝沢不動を経て山神社に戻るという散歩をした。初めのきつい登りの途中、鬼石と昔から呼ばれている神様のやどる物凄く大きな玉石を上から見る事が出来た。ただそこは物凄く足場の悪い細い崖っぷちの急な登りの途中だったので、一息付くだけの時間しか取れなかった。ずうっと気になっていたので、今日、時間がやっと取れたので、今度は下りの方から行ってみる事にした。

水とお握り一個、軽いウインドブレーカーを肩掛け袋に詰めて、着の身着のまま、靴だけはアディダスのヘビーハイキング用バッドランドにイギリスの長い木の杖で出かけた。
まず、グリーンピアの第1駐車場にカングーを停め、屈伸運動をしてから蔵王展望台まで登る。まだ充分に雪の蔵王がはっきり見える。今年こそはロバの耳にまた行きたい。今年あたりに行っておかないと、もう行けなくなるんじゃないか。そこからはほぼ下りながら鬼石不動まで出る。途中気になっっていた鬼石を見る。相変わらず悪い足場の直下50m谷底に突然でかい玉石がゴロンと落ちている。もう若葉が茂っていて、この前の時のようには見えなくなっていた。鬼石沢水源というのもあった。写真を撮り山道を下り舗装道路に出る。そこからは延々と町道を歩いて、千貫神社から旧東街道を北上、南長谷柳の龍谷大聖不動前の石段でお握りを食う。南長谷には根方泉に入の沢不動というのがあるはずなのだが、これはまだ見つけられずにいて、その入口にある立派な庚申塔で引き返す。またまた延々と歩いてグリーンピア登口。思ったより足にきていなかったので、そこから少し北に入って、その先の欅沢不動を見に行く。グリーンピアのすぐ下のはずなのに深い林の中、木漏れ日が美しい。登口に戻り、車では快適なウネウネ道の歩道を少しヨタヨタとなりながら登り、途中から山道に入って裏から駐車場に到着。10時50分に出て、14時15分着。温泉に、とも思ったが、今日は休日なのでこの次にする。充分に明るいうちに帰宅。


夜、タイ風グリーンカレーにキャベツを沢山入れたやつをナンで食う。

見えている物を、絵に描く。

そのことに気付くことさえ、
猿のままではできなかった。

描けることの奇跡。


2014年 5月 5日 
湿った冷たい空気。厚い雲。

昨日までは、天候を乾いた空気に青空、せいぜいそこに白雲沢山と書けたのだが、今日は朝から深い曇り。昼前、昨日の庭仕事の続きで、草取りの後始末や切った枝をゴミ袋につめるなどを戸外でしていたら、ついに雨が降ってきた。腰が痛いではなく背筋がバンバンに張っている感じ。とはいえ、歳とって来るとこの疲れは何時の時の疲れなのか定かではない。今朝、庭石を移動するとき台車をひっくりかえし、台車のカドを右膝にぶつけて少し痛い。

更新を1ヶ月しなかった。4月から、自分の卒業した大学で一般教養の美術の授業をしている。前期だけ週1。でもそれがなんとなく中心のスケジュールになって何か気ぜわしい1週間がアッという間に過ぎている。毎日気になる心の動きがあるのに、ウジウジ時間を過ごしてふと気がつくと1ヶ月過ぎていた。たったの1ヶ月なのにーたぶん新しい年度が始まったのでー世界はなんだか取り返しのつかない状況に進んでいる様な気分がする。

通勤定期を始め駐輪場などのこの1年の更新をし、健康保険証を国民健康保険に切り替え、明美さんの年金の手続きを年金機構に行って確認し、それに伴う書類や通帳をそろえ、でも、それを持って再び事務所に行く時間がとれないでいたりする。こういうことは昔胞夫さんの家では、たぶん栄子さんがしていたのだろうなあと想い、栄子さんが突然死んだ時に、胞夫さんがそうとう動揺したのかなあと、あの頃の彼の顔色を思い出して思う。気付くの遅い。要するに、退職して2年すぎたので、これまであった、様々な公務員的な特典?がスッカリ終わっただけなのだが。記念に少し顎髭をたててみている。僕の観察では、男子の髭は結構小さい人達には怖いもののように見えるようなので、フルタイムで活動していた時には気をつけて、子供の活動の前日に奇麗にそることにしていた。ま、どうでもいい様なことなのだが、保険証も変わったことだし、記念に少しのばしてみることにした。元々髭が薄い方だから、何時までたっても無精髭にしか見えないのだが。少しのばしてみると先っぽが右にカールしてくるのがわかった。髭も天然パーマなのだった。今月の美術館探検の前の晩、お風呂に入ったた時やっぱり元通り剃ってしまった。

5月1日から普及部には新しいお手伝いの人が来た。4月の新年度に移動してきた2人も含め、新たな6人体制。去年までいた昔からの人がいなくなったので、少し活動的な毎日。息切れしないように動こう。昨日の日曜いつも来てもらっているH浦君と、庭の植木の配置換えと春の手入れ。庭に広葉樹の並木ができた。






先生達はみんな言う。
「本物を見る事が大切だ」

本物のどこをどう見ると
大切になるのだろう。

その相談にのるのが教育。




2014年 3月30日 
一日雨。暖かくシトシトと。

家のドラム式洗濯機のカビ臭がひどい。今ネットで洗濯槽洗浄剤を発注した。

通勤定期が4月13日で切れる。JR定期は2週間前から買える。すると買える日は3月31日。やはり皆と同じように3月中に買うべきなんだろうか。凄い混みそうだ。通勤定期は6ヶ月分買わなければいけないので料金は大金だ。一応今日お金を下ろしては来た。朝は5時半から定期を販売する機械が動く。面白そうだから朝1番で行ってみようと、前から決めている。だから早く寝なければいけないのだが、今日はマレーシアF1GPで、日本では今夜11時半から中継がある。ううむ、こういうジタバタが面白い。やっぱり録画装置を買うべきなのか?ええい、買わないぞ。

ブログを書いていない間も、書ききれない程様々な事が次々に起こる。通勤定期を延長する事になったという事はもう1年美術館に通う事になったという事だ。定年を過ぎてからも毎日せわしなく動いている。基本軸を美術館から少し浮かした感じでいるので、外の人達との関係が増えてきたのかな。休みの日はかえって忙しいぐらい。頼まれるうちだから、このまま静かに進んで行こう。とは言え、1日は24時間で1週は7日しかないので、どうせ限度はある。何をして何をしないか、わがままをしようと思うのだけれど、駄目だ。基本的に公務員風真面目がズッシリと僕の心を満たしてしまっている。いやはや。

この前のブログに書いた月曜の公開散歩は、元々美術館で働いている人達が、なかなか僕と遊びに行けないので休館の月曜に何かしてというリクエストに答えて企画した。でも決めたのが金曜だったから、もうリクエストした人達はみんな月曜の予定が決まってしまっていた。ま、これも本当は槙さんのDVDの撮影というのがキッカケだったから、槙さんと二人で行けばいいやと思っていた。で、月曜朝、休みの美術館職員入口前に行ってみたらなんと7名(も)集まっていた。
DVDカメラを構えた槙さん、地底の森ミュージアムの教育担当Yさん、宮城県美術館の新人同僚Mさん、その時僕の家に泊まっていたイタリアの日本人アーティストSちゃん、A県美のS君、H県自然史博物館のTさん、学芸大の院生Sさん、そして僕。団体の計8名。ううむ、ずいぶん遠くの人達が来ている。聞いてみたら遠くからきた人達は、何か近くに来ていた用事があって、ブログを読んで少し日程変更して来たという事だった。いやはや。始め参加者の確認をした時は、なんでわざわざそんな遠くからとちょっと動揺したが、そういう事なら良かった。活動の内容はいつもの通り。様々小さいハプニングはあったけれどそれも含めて充分に楽しく終了。
その次の日の火曜日、僕は休みの日が、いつも来ている山形のH保育所の年長組が卒園遠足で来て、美術館探検とその流れで粘土作りの活動希望のため出勤。楽しい子供達と楽しい1日を過ごす。
続いて水曜日、SMMA(仙台美術館博物館アライアンス)子供対応研究部に呼ばれて、午後から地底の森ミュージアムでのぶっつけ本番の美術館(ここでは博物館)探検。ミュージアムの内外(ほとんど外だったが)を使った実践と質疑応答。続く木曜日。朝から通常勤務で、午前中いっぱい市内K保育所年長組と美術館探検。

この各々の活動毎に楽しく深いお話しがあるのだが、ここまで書くだけで疲れてくるので割愛。
詳しく聞きたかったり様々質問のある人は、個人的に話しに来てください。僕は美術館に木金土出勤しています。


神様がいなくなってからの時代に、自分で決めること。

簡単に言えばそういう事だ。


2014年 3月 7日  
春の薄曇りの太陽、冬の空気。

10年程前の3月14日、国道4号線の大和町のあたりを車で走っていた時に、脳内出血が起こった。ちょうどその時一緒にいたMさんという同じ歳の女子がテキパキと処理をしてくれたので、僕は今、一応外見普通に生き延びている。その後、彼女は毎年その日が近づくとVTRとともに僕の所に来て、(僕風に言えば)この一年僕は真摯に生きたか?の点検の記録をするようになった。その記録DVDがもう6枚になった。で、今年は嗜好を変えて、僕が活動している所を記録したいという。

3月10日月曜日、美術館の休日、美術館探検本物を公開でやってみることにした。午前10時、美術館職員通用口前集合。本番はたぶん午後3時頃地下鉄愛宕橋駅付近解散。全行程徒歩。雨天当然決行。天竜閣で海鮮釜飯(2000円くらいするので注意。他のメニューも在り)の昼食予定。その後歩いて質疑応答反省会をしつつ美術館まで帰る。


といっても、このブログとたぶんツイッターやフェイスブックにお知らせが載るだけだからたかが知れている。そしてもちろん、そんなに多くの人が来てもお互い困るだけだから、こんなもんで充分。誰も来なくても、僕はお散歩ができればいいので、大丈夫。という公開活動。ただし全行程に渡ってMさんのDVD撮影があるので、面がわれるとまずい人は参加してはいけない。詳細は、齋まで問い合わせのこと。

先を読むということは
心配に手を打っておく
ことではない。

思いもよらないことに、
覚悟をしておくことだ。

2014年 3月 6日 

春の日差しの中、小雪が降っている。

一昨日から、友人が泊まっている。ミラノをベースにしている日本人なので、昨晩は素うどんならぬ、素スパゲッティを作ってくれた。日本風にいうと菜の花和えペペロンチーノなのだが、日本でいうペペロンチーノは本当はなんかもっと長い名前なのだというような話をおかずに、水だけを飲みながら美味しく食べる。パスタは軽く食べて、その後様々なメインディッシュに行くのが普通だが、日本ではパスタがメインなので、彼女からすると、ビックリする程沢山ゆでて、3人で完食。まず塩を沢山入れた水で、菜の花と一緒にゆでる。ニンニクとオリーブオイルと鷹の爪を絡めてアッという間に出来上がり。ゆでてる間に、僕がパルメザンチーズをポケットナイフでこそげておいたやつ(粉でなく)や、その他の調味料を各自適当にかけてハフハフと食う。こういうの本当に美味い。自分で又やろう。

来年度10月下旬、登米の幼稚園保育園連合会の様な所(正式名は忘れた)の年次総会に、様々な理由が重なってお話しをしに行くことになってしまった。本当は桜井さんという優秀な退職保母さんが頼まれていたのだが、彼女はシニアボランティアの人でちょうどその時期ネパールに居る。で、代わりに齋さんに頼むといいと言われたらしい。大変名誉でかつ嬉しい。でも、登米付近の人達とは、これまであまり、いやほとんど接触がなかった。大丈夫なんだろうかと思っていたら、2月最終日に、涌谷の保育所の人達が美術探検をしにきた。職場の皆は何も考えていなかったようだが、僕だけこれは何かの試験かなと、ちょっと心の中で苦笑い。考え過ぎだといいが。涌谷保育所年長組27名+先生達5、6名。子供達が充分に普通の子供なので、問題なく充分に堪能して普通に終了。ちょっと時間が短かったけれど、遠くから来たのでバスの時間が長いためでしょうがない。


休みの日をぬって、確定申告に行った。これまでは確定申告といいながら、医療費控除の手続き。たいてい1万円前後戻ってくるのが普通だった。今年は、収入が思わぬ程あったことが判明。大学に呼ばれて一回だけお話をするのと、何単位分か継続した授業をするのとでは、収入をまとめた時に大きな違いが出た。毎月の給料でもらっている時にはほとんど気付かない程の金額なのだが、、。役場の人と一緒に計算して、収入をまとめ医療費を控除した結果、今回は1万円程納めることになる。帰りに銀行によって振り込む。今年は既に2月に沖縄の大学で2単位授業をしている。領収書をとっておかなければ、とややうろたえる。


しばらくぶりの空。

宇宙のすぐ下。

僕はちょっとした猿なのに、
ここに居る。

2014年 2月19日  

快晴。風時々強いが、
なんとなく空気は温い。

1ヶ月更新途絶。最近では珍しい。何をしていたのだろう。

基本的に1月22日まで1ヶ月、美術館の年末年始休館に合せて普及部での仕事を休む。よく考えると、物心ついて以来、本当に何もしなくていい長い休みというのが出来たのは初めてだった。常日頃一人で何をするのかを考え/準備しようと言っていたはずなのに、本当に生活費を稼ぐ為には何もしなくてよい時間が出来てみると、やや動揺して驚いた。
小人閑居すると、たいした事は思いつかない。なにしろ根が小心者だから不善をなすどころか、ただおろおろと電脳のゲームなどをやって時間をつぶしたりして、夜寝る前に深く反省する。追い討ちをかけるように、昨秋、基本的なCSの契約をしてしまっていた。そしてこの時期、アメリカンフットボールのシーズンが終わりにさしかかって、プレイオフの中継が昼間からある。佳境に入ると時差の関係で朝5時からお昼まで実況中継。僕はどこのチームが好きというのではなく、プロがやるアメリカンフットボールの試合そのものが好きなので、様々な家事をしながらテレビを見る。昼頃に試合が終わると、ついそのままチャンネルを探して、CSのミリタリーものなんかを見てしまう。夕方になると相撲。いやはや、再び寝る前に深い反省、の毎日。そうか俺って、こういう風に時間を消費していく人だったんだ。結構バリエーション無いんだなあ。

そう日々をぬって、宮教大や白百合大の来年度の授業の手続きやシラバスの提出なんかが始まる。美術館での再雇用もそうだが、僕は小人閑居して不善をなしたとしても、本当にもう働きたくはないようなのだ、と思って/感じている。でも実際の現場を冷静に見ていると、普通は「また働いて」って頼まれない人も多いのだ、という事が解ってくる。頼まれるうちなのだ。ありがたい。30年かけて積み重ねてきた(しかも給料もらいながら)経験を若干でもみんなに返しておくことができるのはありがたい。ただそういう手続きは最近ほとんどメールで来て、添付書類を開き、書式に記入して、メールで返送する形式。これが頻繁に動かなくなる。動かせなくなる。以前はすぐにMr.Ameeに連絡する、だったが、仕事場の若い人に色々いじってみる事を見せられて、こまったら彼に電話する前に少しいじってみる事にした。そうしたら、なんだ結構動くんじゃん。でも、こういうふうにした後で動かなくなった時は大騒動。だから、本当は書式をプリントアウトした紙を郵送してもらい、記入して送り返すという状況が、僕にとっては最もストレスがないのだが。

なんていうような事をモサモサヨロヨロやっていたらあっという間に2月で、入ったなと思ったとたん8日になって、大雪の中、空港閉鎖直前の飛行機で沖縄に移動。9日から3日間一日5時限8時40分から5時50分まで、博物館教育学の集中講義。前に書いた通り、最初の日の午後に沖縄県立美術館に行って美術探検と美術館探検。2日目美術を巡って、3日目教育を巡っての話。最初の日にやった活動の解説。見抜いた学生がいたが、僕は本当に実践の人で、解り易く話すのは上手くない。やるまでは、軽く手を抜きながらなどとと心に決めていたのに、始めるとあれもこれもと思い出して、毎時限ほとんど時間一杯しゃべりっぱなし。いやはや。始め眠そうだった学生が、徐々に面白そうに目を輝やかせて、顔が起き上がってくるので、こちらも手の抜き様がない。午前と午後、各々にカードを渡して感想と質問を書かせ、提出するのが出席票。次の話はその質問のうちから始める。
その授業の間は那覇のビジネスホテルに泊まってモノレールで通勤し、朝はホテルのバイキング(沖縄風)、昼は大学の向かいにある「あしびなあ」という沖縄レストランのランチ。夜は何やかにやの沖縄料理。毎回ガッチリ食った。仙台だったら体重10キロ増えたとなる所だが、そうだったのでたぶん倒れずにすんだ。体重変化なし。授業後、12日は主に那覇で買い物。13日、沖縄は大雨で巧く動けなかったが、娘と本島南部の御岳(うたき)巡り。帰ってきたらこちらは物凄い雪で、様々な意味で動揺。洗濯物関係は事前に宅急便で送っておいたので、手荷物が、行く時よりは遥かに軽かったので助かった。

木曜夕方遅くに帰ってきて、金曜から働きに出るつもりでいたが、帰宅してみたらコタコタになっている事が判明(あたりまえか)して、美術館に電話し金土曜は休みをとった。今書いていても疲れる日々。日曜まで充分な寝坊をする毎日。適当に起きて、しかし雪かき。それ以外は昼寝。結構一日寝ていられた。しばらく自堕落な日々を、と思っていたが、月曜に沖縄県立大学からレポートが届き、同時にメールが入る。結果、様々な理由で遅くとも21日までには成績を出さなければいけないことが判明。それ以外にも理由があって、夜までかかって32人分のレポート(僕の課題はエッセイ提出)を読み、18日には成績を出し返送。


その間に、沖縄のホテルに今使っている携帯電話の充電器を忘れてきたらしい事が判明。ホテルに電話するも見つからず、娘の所にもなく、いやはや、なんでこういう時に!!! ちょうど電池の寿命も来ていた(すでに1回変えて3年目。時々前触れなしに切れる)ので、この際替えようとソフトバンクの岩沼店に、スマートホンにはしないぞと決心して行く。その旨相談すると、髪の毛ツパツパのお兄さんが、そういう僕の欲しい昔タイプのは今店に在庫がなく、老人用の極簡単な、電話とメールだけ使える、スマートホンもどきを勧められた。ううむ、もう面倒くさくて何でもいいやという気持ちになって、いわれるままにそれに決定。黒い、iphonもどき。オレオレ詐欺には絶対あわ/えないようにだけ、ガッチリなっている。たしかにそっちの誰かが考えた使い方の通りにすれば操作極簡単。ただどうも、僕はすぐに自分風に使いたがるので、すでにこの数日で3回、店に行って使い方(AirMac環境に適合する方法、カタカナ変換のしかたなど)を店の若い人に聞いた。みんな親切に教えてくれた。僕の質問は物凄く簡単に出来るのだった。僕が自分で難しくしていただけ。イヤハや今や、日本の老人って、こんなにモノを知らない事になってたの?という具合に、若いのがすっかり考えてくれていて、何も知らないフリして素直にやれば出来るのだった。ストレス。でも面倒ぐさがらなければ、しばらく遊べそう。

さて明日から仕事に出よう。

わからないことが、
沢山あるので勉強する。

わかることが増える程、わからないことも増える。

2014年 1月13日 
快晴。
冷たく乾いた空気、今日も。

昨日は日曜だったので若い友人のカップルに来てもらって、2月に僕が沖縄県立芸大の集中講義に行く間、家に泊まり込んでくれる相談に乗ってもらった。快諾。ありがたい。以前明美さんを連れて行った時、彼女一人沖縄の街中においておくと岩沼に居る時とまったく同じ生活をするので、彼女自身が途方に暮れる。なので今回は自宅待機。そうなると、家に彼女一人。そういう時の火事は経験済みなので、誰か居てくれると安心なのだがなあ、という相談。

2月9日から11日までの3日間、博物館教育の集中講義を沖縄県芸大学芸員コースの人達にする。1日目は、主に美術の再確認。2日目は教育の再確認。3日目は沖縄県立美術館に行って公開実践。と、考えていたのだが、どうも沖縄県立美術館は2月10~11日は消毒休館で誰も入れないようなのだ。逆にすればいいかな。最初の日に美術館に行って実践を公開し、あれは何だったのかを残りの日で説明する。なんていうことを最近はつらつら考えている。
小人閑居するとろくなことをしないから、時間を見つけては、街の西に広がる千貫山麓に古くからある(らしい)7つの不動尊を訪ね歩いている。岩沼の市立図書館2階にある文化財展示室からもらってきた広報誌に書いてあって、ぜひ行ってみようと前から思っていたのに、なかなか始めないでいた。

名字(齋は齋部氏から来ている)柄、そういう事に興味は深くあるのに、最近僕は岩沼より隣町の柴田町の里山巡りにいくことが多い。入間田の奥の山裾にあるお寺や神社、磨崖仏などにたどりついて、その信仰の生き具合に、ふうむこのへんは昔、こうでもしないと不安だったぐらい大変な毎日だったのだなあと考えていた。

この時期、古く大おきな杉の並木に冬のこもれ日の美しい参道/石段を登りつくと、よく手入れされた、立派なしかし質素な神社が絵に描いたようにある。挨拶して社殿を一回りすると、その裏の林の狭い切れ間に矢印があって、ここから○○不動に行けるとかいてある。覗き込むと、そこから見える細く暗い道は、ほとんど踏み分け道で、しかも崖のようにそこから急に落ち込んでいたりする。しかしそこから入っていって辿り着いた先には、良く見つけたなあという具合の、立派な谷川と小さな滝があって、そこは個人所有のお不動さんだという看板があったりする。そこまでの矢印や石碑など、柴田町は良くやっているなあと、岩沼市民としてはちょっとうらやましい程だった。

同じような感慨が、この7不動巡りで起こっている。岩沼もすてたものではない。まだ4つしか見つけていないが、そのうちのひとつはダンプの通るホコリっぽい舗装路脇を下り降りた所に、小さい祠と、その後に小さいが何か居る雰囲気の滝。ある時期、岩沼はこういうのと全く関係/相談なくダンプ用の道を作ってしまったのだ。今、ダンプが通っていた活動/目的は終わり、普段はほとんど誰も/何も通らないホコリっぽいガランとした舗装路だけが、その祠のすぐ上に残っている。柴田町のお不動さんとは又違った感慨。もちろん、お寺の中にあって丁寧に生きているお不動さんもある。だいぶ山奥(といっても、もともと里山なのだが)の道の先に、ここまでどうやって材料運んだんだろうと思うような(祠でなく)社とともにある滝もある。ちょっと前まで、僕達は相当一生懸命、そのへんのすべてのモノと供に居た神様達と力を合わせて、生きていなければいけなかったことがわかる。感慨深い。みんな居なくなっていないと嬉しいのだが。
これまでなぜか、行くのが午後からになることが多く、お不動さんに辿り着いたあたりですぐ暗くなってきてしまうことが多かった。これからは心して行かねばなるまい。