私は人間だ。
少し残念だ。
でも、そういう自覚ができたのは、
少し嬉しい。
2022年11月24日
そろそろストーブを朝からつけようかと考える空気。
博物館ー僕の場合は美術館ーにおける教育普及をめぐっては、日本の場合始めにいくつか確認しておかなければいけないことがある。
①社会教育と学校教育の、教育全体の中での「各館の」立ち位置の自覚
②美術と図工の違いの自覚
これらがうまく検討され討論=概念の統一がなされれば、僕が感じる違和感は無くなるのではないか。それは、これまでの解説主体の博物館教育から、最近言う所の対話主体の博物館教育になるということではなく、日本の教育の中で僕がいつも感じる違和感がなくなるということだけなのだが。
「教育する、される」ということと、個人が「美術化される、なる」ということの微妙な違いを、いかに楽しく自覚するかというあたりに、「美術館での教育の存在の意義」がある様に思う。これが、学校教育の中での図工では、なかなかしにくいので、美術館教育での美術教育のダイナミックな面白さが出てくるのではなかろうか。
まず自覚しなければいけないのは、公共の美術館にある基本的な美術作品の収集は「美術の収集」で、「上手く描いてあるものの収集」ではないということだ。だから美術館に来たら、「うわあ、これ下手だあ。」と言ってよいし、「これ、絵の具の無駄遣いではないの?」と言うことが可能だ。それをみんなで言える(う)ために、あんなに様々な異なる種類の作品が、まとめて並べて飾ってあることに、気付けるといいのだが。
にもかかわらず、みんな同じにうまく見えるときは、制作年をチェック。そしてその時期に何がうまいと言われていたか考える。というようなことができると面白く、美術の深み/広がりがはじまる。
冷静に考えれば、個人の家で、美術館のように絵を飾ってあるところはない。玄関に飾ってあるのと、応接間に飾ってあるのと、階段の踊り場にあるのと、台所にあるのと、出口にあるのとが、こんなにも違うように飾れることこそが、公共の美術館の公共たる所以なのだ。まず「公立の」と断ったのはそのためで、考える基になるところだ。だから、逆に言えば、個人の館(家)では、そうではない。個人立であれば、入り口から出口まで、統一された美意識を、これでもかと展示して構わない。
美術館でやるべき(美術)教育が、なんとなく見えてきただろうか?学校では、短期間に、知るべきことをある程度まで均一に蓄積させることが目的で、社会教育では、そうして知ったことを使って、個人を個人化することが、目的になる。
というようなことが自覚されていれば、あとは各館のやり方なのです。その舘のそういうことが、なんとも納得がいかない人は、どこが納得いかないか細かく見つけるしかありません。もしかすると単に話し方が気に入らないということなのかもしれません。僕がここまで話してきたことそのものを点検しようとしている舘なのかもしれません。
新たな知識を教え知らしめようとだけするのは、まるで学校で、社会教育でそうするときは、それによって何がどのように、個人に還元されるかを意識的に公開すべきです。でも、今の日本の教育環境では、そのこと自体を自覚できないようにしているのかもしれません。
美術家は、その時のその自分の自覚をできるだけ直接視覚表現にするのが仕事です。それを広範囲に受け止めるのには、美術とはそういう為になされているものなのだという大きな自覚が、受け止める方になければいけません。そのためにも、美術館はあります。企画する方になぜ美術館があるのかという自覚が強くあれば、ここまで話してきたことは概ねなされているでしょう。