2008年12月30日 乾いて冷たい風のしかしそんなに寒くはない高曇り。

22日から美術館は休館に入ったけれど、活動がなくなった分、公務員の庶務的な仕事はたまっていて、それらの処理に忙しいまま、26日まで働く。27日夜、僕の叔母さん、老衰で亡くなる。28日、恒例の「焚火」@阿武隈川河口砂州。29日叔母さん火葬、通夜。30日葬儀告別式。大体終了して今、これを書いている。再びやや風邪気味。



24日の夜は、ガールフレンドのM木さんが、聖夜料理を作りにきてくれて明美さんと彼女と3人でゆっくり食事をして早めに寝る。本来、教育普及部長の仕事は、人事と予算を管理しつつ部の円滑な運営をコントロールすることなわけだけれど、僕は未だあたふたとプレイングマネジャーをしていて、様々な庶務仕事がたまっている。館が休みになり、まずそれらをかたずける。とはいえ、今年から、学芸部から一人異動で来ているので、大切なあたりは彼がやっていてくれてだいぶ助かった。ということは、めんどくさいところだけは残っているということでもあるのだけれど。その辺りを含めて、この後どのように館を動かしていくのかを副館長たちに話を聞いたりもした。面倒くさいことではあるけれど、お金がなくなったということだけで、やたら貧乏臭く矮小化した姿勢に陥らないよう胸の張り方の確認のような話をしたつもり。
公的な仕事が一段落ついたと思ったら、電話が来て、胞夫さんのお姉さんのとし江さんが危篤だとの知らせ。岩沼の家の近くに住む彼女は既に92歳でだいぶ弱っており、電話が来たその日の夜に、息をする力がなくなって死んだ。これで、胞夫さんの兄弟は彼と弟の恒夫さんの二人だけになってしまった。胞夫さんは12月に入って以来施設に入りっぱなしなので、齋家としては僕がネクタイ労働で出席。お葬式にこの歳で出ると、様々考えるところが有って退屈はしないが、疲れる。
その間隙を縫って28日毎年恒例の海岸での焚火。今年は若い人たちが早めに始めてくれていて、僕たちは、組み立て終わっていた木組みの隙間に細かい焚き付けを詰め込み、火をつけただけ。ちょうどいい時間にちょうどいい風が吹き、大変美しく炎が上がって、盛大に燃える。8時に帰宅。次の日火葬。今日葬式。式終了後、正式なお祓いをしてもらって、正月は普通通りしてよいとのことだった。明日から飾り付けだ。
27日から娘たちが泊まりにきてくれているので、大変助かっている。これで、カミサンと二人だけでやっていたらと思うとぞっとする。
という風に、最後までイヤハヤな一年だったが、なんとか死なずに終わりそうだ。なだわかんないけど。リビングの壁に一年カレンダーが張ってあるのだが、書き込みのいっぱいされたそれを眺めつつ、なかなか善くやった一年だったなあと、自分を慰めている。既に、来年の1月はほぼ満杯に予定が入っていて、ちょっとうんざりしつつの年明けになりそうだが、忙しいうちが花と、軽薄に腰軽く死ぬまで動き回っていこうと思う。

2008年12月18日 暖かい。春のようなうすぼんやりした空に、くっきり白い雲。

美術館は、この週末のピアノコンサートで、今年の活動は終了。まだ、終わった訳ではないけれど、また一年が過ぎた、すごいなあ、ちょっと感動する。



今日の午前中、自分の年譜に書き足すこの一年を整理していたのだが、忙しく一生懸命生きることができた一年だった、ありがたい。11月の終わり頃、京都造形芸術大に呼ばれて、社会教育での美術教育について話をしにいった。普通通り起きていつも美術館に行く電車に乗って、ただ美術館には行かず、仙台駅から新幹線に乗って、文庫本のミステリーを読みつつ東京駅で乗り継ぐと、12時半には京都駅についていて、1時半からの京都御所裏手の大学での講演会の演壇に立って、わかったようなことを話しているのだった。目の前には関西の人たちが関西弁をしゃべりながらいるのだけれど、僕はなんだか夢見心地に、東北弁をしゃべっていた。もちろんちゃんと現実認識はできているのだが、頭の隅の方で、そのことを不思議がっている自分も感じるのだった。でも京都の芸術はちょっとすましすぎていて、僕にはなじめない感じで話は進んでいく。ええい、俺は東北から見てんだよ、文句あったらかかってきなさい、と、つい言ってしまいたくなって困る。その晩は、貴船の川床の料亭旅館に泊めてもらい、というとなんか凄いもてなしのようだが(そしてもちろん、本当にそうなのだが)実際には、この時期、京都は紅葉狩りで、どこもかしこも大混雑で、泊まれるのは、そこしかなかったというのが本当のようだった。次の日の朝早く、一緒に泊まったほかの人たちは京都市内に戻っていったが、僕は一人で鞍馬山に裏から入り、山越えして鞍馬寺に降り、叡山電鉄で市内に戻るという、至福の牛若丸トレッキング。千年単位の大木の茂る森に、小糠雨が静かに降り、所々の御嶽で、ヨガの呼吸法をしながら少しずつ進み、鞍馬寺の国宝の仏像の前に座ってのんびりしながら時間をかけて街に戻り、呼んでくれたK原君家の生まれたばかりの女の子の頭をなでただけで後は何もせずに新幹線に乗り、夕方には岩沼駅についているのだった。大学でのお話はさておき、京都は、いつ行っても、同じ場所であっても、何回行っても、もっと見たいところが次々出てきて、2000年ってやっぱり捨てたものではないなの感を毎回深くする。関西弁はチョッと閉口するけれど。11月12月は、時節柄、高校生や大学生の美術探検や美術館探検が立て続けに予定されていて、一日3回美術探検をすると、さすがに、俺、倒れるんじゃないかと思ったりする。簡単に流そうと、本当に心から思っていたりするのだが、なんか一生懸命な目の高校生とかに周りを囲まれると、気ずいたときには声を振り絞ってものすごい集中で話をしてしまっている自分がいる。でも、まあ、お話の最中に倒れたら本望だな。みんなには迷惑をかけそうだが、死んでしまえばその後のことは知ったことではない。倒れるまで、できるだけみんなの相談に乗れたらいいな、と思う。鞍馬山からかえってきて毎日忙しく美術探検をこなしていたら、風邪を引いた。インフルエンザではなく、動きすぎ(働き過ぎでは決してなく)から来る体安め(からだやすめ)のための風邪。風邪で寝込んでいるのに夜にお話の呼び出しがかかったりしながら、でも結局、ほぼ1週間寝込んだ。毎日昼間から寝てしまえるので驚いた。寝過ぎで腰が痛い。そうして風邪が治った時点で、東京都図工研究会の西多摩大会に助言者で呼ばれて、今度は横田基地の東側の、瑞穂町という街の第一小学校に行く。造形教育の助言者で呼ばれることほど、美術館職員として困ることはない。だから図工はわかんないんだってば、って言ってるでしょうと、冒頭必ず言うことになる。今回は、鑑賞教育の実践を見せてもらった。大人の絵描きさんの絵を借りてきて、本物の現代の美術をみんなで見る。ここまでは良い。で、その作者に来てもらって、どのような想いで描いたのかとかを聞くのだが、これはどうだろう。良い絵というものは自立しているもので、それは作者の想いからさえも自立してしまっている。作者の話なんかどうでも良いのだ。そこにある絵から各自が読み取れるものをできるだけ読み取り、読み取れたものを使って、各自がお話を組み立てる。もしもその絵が良い絵なら、そのお話は広がりを持ちながらしかし人間としては同じ結末へ向かう。そこに見えるものの読み取りとそこからの組み立てにこそ教育のしがいが有るはずで、読み取りのみ、しかも、作者の想いの読み取りにのみ終始するのは、あまり良い美術の使い方ではない。現実を素直に見る目。見えたものを見えるものにする力。そのときに使う体験を経験にかえる力。その辺りに、美術の働き場所が有るのではないか。でも、こういう話は、今の学校教育の中で、どれほどの理解を先生たちに得られるものなのだろう。高揚しつつ落胆。先は長い。なんて言っているうちに死んでしまうのだろうから、あんまり動揺してもしょうがない。

2008年11月30日 空気は冬で冷たいのに、吹く風が、変に暖かい。今年はきちんと寒くなるのだろうか。

10月に再開館してあっという間に2ヶ月すぎた。文字通りあっという間で、僕としては信じがたいことだが、ストレスたまるなあ、という状況に陥って驚いている。落ち着いて考えれば、そんなに驚くほどの忙しさではなくて、これまでだって、なんとかしてきた程度のことなのだが、自分の様々な意味での総合的な体力や器用さが年相応に落ちてきているのに、脳がついていっていないのだと思う。つまらないことでちょっとキレて、そのことに自分自身で驚いて、少し修正をして、これを書いている。たぶん、一番のストレスの元はウインドウズで動く電脳との会話ではないかな。

11月の中旬に重なった、様々なところに出かけていってそこの人たちの相談に乗る仕事は、ううむ、もう少し早く相談してくれればそういう質問ではなく、もう少し発展的肯定的な方向があったのになあ、という少し疲れる活動だった。
例えば、中学2年生の人たちと「水墨を使って自分の気持ちを表す字を作る授業」なんて、この題を読んだだけですごく面白そうに思えるでしょう?墨を使って書くって言ったらお習字だ、でもお習字には書道というやり方もあって、しかし今回は美術の授業だ。美術と書道習字ってどこがどう違うんだろう。その上、水墨で描く絵って美術の中では日本画(東洋画)と言われていて、僕たちが普通に習ってきたのは西洋画だ。習字と書道、日本画と西洋画、そしてそれらを美術でやる。ここいらあたりを、直接教えるのではなく、教える側が自覚し整理しておいた上でカリキュラムを組み立てていれば、授業の進め方は全く同じでも内容は全く違う物になったろうし、評価なんかだってあんまり悩まずにすんだのではないかなあ。
社会教育の現場での美術教育のあり方にしても、会が始まると同時に突然人をどう集めて何をどう教えるかに話を持っていく前に、なぜ、教育の中に美術「なんか」が必要なのかあたりをみんな共通認識として持てるように(そんなものは既に確固とみんなの中にあるのが前提で始まっているのだと、誰も点検すらしないで信じているけれど)整理して固定しておく相談なんかの方が必要に思えるのだがなあ。
なんだかどうも、社会は枝葉末節の目先のことだけ気にしていて、しかも全体でとにかくすごく急いでいるように思える。前に美術館で飼っていたサボテンが、誰も手入れをしないでほっておいたら、3年ぐらい過ぎてみんなもう枯れてしまっただろうと思っていたあたりに突然花を咲かせて実を作りその後本体はしおれてしまったことがあった。まさかそれと同じことが人間に起こり始めているのでないといいのだが。

2008年11月21日 最近天気予報があたらない。快晴。穏やかな冬の太陽。

10月から、美術館が再開してほぼ1ヶ月過ぎようとしている。本来なら4月から9月までに来ていた様々な団体が示し合わせたように、11月にまとまってやって来た。そして、本来11月に来ていた団体も。ブログの更新の進み具合からもわかる通り、ほぼ毎日、ものすごく忙しく働いている。スタッフ総動員で毎日延べ6回ぐらいずつ、美術探検や美術館探検をしている。たとえば今日僕の担当は本物の探検で、いつも来ている聖i幼稚園の年長組10人と、美術館から彼らの幼稚園まで約5時間かけて、広瀬川沿いのお散歩のような探検をして来た。天気予報では、あまり天気が良くないはずだったのだけれど、誰か行いのすごく良い子供がいたのだろう、快晴の青い冬の空に、飛行機雲が出ていない白い飛行機が見えた。

思い出せる事だけ、書いておこう。13日、大崎市古川であった県の小中学校造形研究大会(図工美術の先生たちのオフィシャルな研修会)に、助言者(何をする人かすぐにわかる?)として参加。参加していつも思うのだが、もう少し早めに相談してくれると、子供たちのためにいくらか助言できそうに思うのだが、ここに至っては、もう助言のしようがない。やるのはどちらにしても先生たちなのだから、事前の相談中に煮詰まってきちゃったら電話してくれれば良かったのに。美術には、様々助けになる考え方や作り方が、五万とある。15日、いつもの通り起きて美術館に行く時と同じ時間の電車に乗り、しかし美術館には行かずに仙台駅から新幹線に乗ると、12時半には京都駅に着いていて、13時半から同志社大学の講義室で、元文部省調査官の宮W先生らと社会教育の中での美術教育のあり方についてお話。僕は実践的な意識から外れないように注意しながら話す。夜は貴船の旅館に大学の先生たちと4人で泊まって、深夜まで強化合宿のような美術教育のお話。次の日軽い雨模様だったけれど、鞍馬山を横断して(大変気持ちの良いトレッキングだった)京都の北に降り、紅葉の中を叡山鉄道で街に出てその日のうちに(と言っても夜10時過ぎたが)仙台に帰る。
京都に行く前の日に、幼稚園の年長組の人たちとのこぎりを使った木工の活動。帰って来た次の日はさすがに一日だらだらして、次の日からは幼稚園年少組美術館探検+大学院の人にそれの説明と相談、翌日年中組に探検と粘土作り+F大学主催の老荘大学の人たちにそれ(子供に対する美術教育はどうあるべきか)の説明と美術探検。そして今日の活動。明日は、午前中M中学校でPTAのための子供の絵の見方についてのお話。その次の日は、12月に山形から来る幼稚園の人たちが打ち合わせに来て、その次の日は朝からまず僕の病院。僕のが終わったら、胞夫さんを内科の病院に連れて行き、時間があったら床屋に連れて行く予定。
さすがにストレスたまるなあと思うのは、これらの活動の中に、年金特別便のなんだかげっそりするようなしかし(自分のせいでなく面倒で)大切な作業や、それをやったら、明美さんの分がまったくなされていない事がわかって、しかも、彼女の障害者手帳の期限が切れていて新たな手続きが必要になったり、突然僕の予定より早く雪が降って来て車のタイヤはどうすんだとなったり、その他思い出すのもうんざりするあれやこれやがなぜか一斉に起こって来て、手の抜けない美術館の活動の合間の時間にまったくリラックスできないという悲惨な事態に陥っている事だ。ええい、こうなったら、誰かに迷惑をかけてもいいから(何を今更と言われそうだが)何か気分転換を図らなければいけないなあと考える毎日だ。

2008年 10月20日 乾いた空気の秋の一日。でも、ストレスの多い一日。

 先々週、友人のKれない子さんのiBookシェルが動かなくなって、新しいマックブックに換えた。丁度彼女の誕生日が近くて、ついでのお祝いに、iPodシャッフルをプレゼントした。アップルストアに一緒について行って、古い電脳から新しい電脳への移行の手順を見せてもらった。感心してみていたが、僕のオレンジ色のiBookシェルは、彼女のより何代か前のもっと古い型だけれど、何しろワープロとメールにしか使っていないわけで、だまだ大丈夫だろうと思っていた。先週の週末の朝、突然(こう言うのは、たいてい突然なわけだが)そのiBookが立ち上がらなくなった。アップルストアの小気味よい対応に感心していたし、最初にiMacを買ったときに、その対応をしてくれたT井君という店員さんに、ちょっと迷惑をかけていて心苦しい想いがあったし、なんだか示し合わせたようにマックブックがモデルチェンジなんかするので、冬のボーナスのずいぶん前だけれど、新しい、電脳に換えることにした。

 で、もちろんこの文章は未だ古いiBookで書き出している。様々な移し替えは、アップルストアのお兄さん達に助けてもらって、基本的にはすんなり行ったのだけれど、たとえば、新しいマックブックはある理由でイーサネットだけでなく、モデムでも電話線に繋いでメールがやり取りできないといけなかったのだが、何しろ子のアドレスを取ったのは、もう10年以上前で、ドリームネットって知ってるという具合。もう今はどこに行ってしまったのか本人も忘れていた。そこんとこをあちこちひっくり返してなんとか書類を見つけ出し、でも様々電話をかけて、なんとか登録ネームとパスワードにたどり着き、なんていうことをやった(勿論ご存知テクニシャンMr.Amee登場でなのだが)のだが、僕の家の電話はダイヤルをクルクル回すやつなので、音声録音対応のやつだと途中でうまく繋がらなくなったり、くそおっと焦ってかけた携帯電話のバッテリーが途中で切れたり、なんだか、ほんんとにストレスたまるなあ、こういう作業。とはいえ、新しいマックブックを手に入れたことで、前からあったiMacの使用範囲が大きく広がったようだ。ますます目が悪くなるなあ。

2008年 10月14日 秋らしい曇りの一日。高い雲の空と乾いた秋の空気。

 時間がなくて前の方のブログを頻繁には読み返していない。この前書いたように何人からかコメントが来ていることがわかったので、さかのぼって読んでみた。そうしたら、そのうちの一人は中学校の同級生の横O君からだった。

 美術館が始まると休日がすっかり変わる。何しろ就職して社会の中で働きはじめて以来ずうっと美術館だから、土日出勤月曜休みというパターンに戻ると基本に戻ったようで何か落ち着く。とはいえ、今回のように先週の月曜に開館の記念式があって次の月曜が祝日だと、ずうっと出ずっぱりで今日やっと休み。午前中、思う存分食器洗いと洗濯と掃除拭き掃除。明美さんも、僕が始めると部屋から出て来て様々手伝ってくれる。だから、一人でいるときにそれをしていてくれると、僕は休みの日に休めるのだがなあ。それから、手伝う時は邪魔になんないようにお願いね。というようにやるので、思う存分といっても、ま、適当に四角い部屋を丸く掃く。
 昼までに切り上げ、明美さんと一緒にカングーで出かけて、今昔庵(岩沼西部丘の麓の農家レストラン)でふろふき大根中心の五穀米昼食。最初今が旬のハラコ飯をと思って鳥ノ海の浜寿司(いつもハラコ飯はここで食べる)に電話したのだが、火曜日は定休日なのだった。
 食後、一緒に貞山堀の東北大漕艇部合宿所というのを探しに行く。仙台空港のそばに見つけるも、ううむ、ここからこぎ出すのかという場所だったので、少しがっかりして帰宅。煙草を飲みたくて我慢できなくなって来た明美さんをおろしてカヌーを屋根に縛り付け、いつもの阿武隈川に行く。貞山堀で漕げないかと思っていたのだ。一人でやるには乗り出しがちょっと面倒そうだった。もう少し水が多い時期にもう一度来てみよう。いつもの阿武隈川だったが、いつもよりだいぶ上流まで漕ぎ上がり、ユックリ下る。水の上から見える空を何枚か写真で撮った。ゆっくり夕食の用意をしてジャガイモの煮たのと豆腐を大根と油揚げのみそ汁で食う。今、ダライラマの声明を聞きながらこれを書いている。いい感じの一日だったんではないだろうか。
 横O君は、中学校の時の友達で、そんなに親しくはなかったけれど名前を聞けばすぐ顔を思い出せるぐらいには話をしていた。今介護の仕事をやっているという。最初、中学校の時の印象とはだいぶ違った仕事をしているように思えたけれど、ふと時間を止めて、彼の顔を丁寧に思い出してみると、中学校の頃から丁寧に人との付き合いをする人で、そうか、案外ちゃんとなるべくしてそうなっているのかもしれないなあと思った。横O君、手紙をありがとう。古い友人が介護の専門家になっていて、その上で今の僕の状況を肯定的に褒められると、すごく安心するよ。僕のおかみさんの明美さんって、あなたも知っている同級生のK生明美さんで、長い付き合いの末大学を卒業したあたりに結婚した。彼女の調子が悪くなってからも、家族の中に普通とは違う調子でしか動けない人がいると、むしろより善い生活が出来るようだと思いながらここまできた。5年前に脳内出血で倒れて幸運にも復帰できて以来、生きている実感はすごく濃くなって僕の近くにいる。生きられる所までは一生懸命生きるが、でも、人はわりと簡単に死ぬ時は死ぬ。そんな感じの毎日だ。古い友人から手紙が来て様々な覚悟の確認が起こる。
 

2008年 10月 6日 秋の雨。明るく厚い灰色の雲から細いがしっかりした糸のような雨が降る。

明日は美術館再開館の日だ。今日午後3時からウイーン美術史美術館展の開会式があって、それが再開館の式典もかねる。どうしようもない状況が続いていても、とにかくジッと待っていると時間は過ぎていって、いつのまにか次の状況が始まる。これって、結構凄いことなのではないか。

 6日は月曜日で本来休みの日だが、今日は(服装は相変わらずのちゃらんぽらんだが)ネクタイをして、式に出席するため朝から出勤。始まると、ウイーン展が今年いっぱい、来年初めからファイニンガーという人(みんなこの人知ってるの?)の展覧会が年度末までと続く。この10ヶ月に及ぶ長い休館に入る前は、日本彫刻の100年展と、日展の100年という展覧会で、これらを継続してみると、凄く面白く人間の近代をとらえることができるのだけれど、誰も気付いていないだろうなあ。ちょっと残念だ。
 西洋のと断るまでもなく、美術の歴史は、自我の認識の歴史だと考えるとわかりやすい。ごく小さい子供の頃、私達は、「お母さんの子供」だった。お母さんの範囲内に世界はあり、お母さんの自我が自分の自我と分かちがたくあった。お母さんを神様に置き換えると、それは世界の話になる。お母さんから自立することが今思えば結構大変だったように、神様の世界から一人で抜け出すには、人間は、それを自覚してからでさえ、何百年もかかった。そのあたりのつじつまが着くと近代が全体として始まる。神様って本当にいるの?なんて誰かが言い始め、相当勇気を奮って、一人で踏み出してみようかなと言うあたりの絵が、今回来たウイーンからの静物画の世界展だと理解すると、視点は一気に広がる。見えるモノを見えたとおりに絵に描いてしまうというのは、写真機ができるまでは結構物理的にも大変な作業だったのだ。そして20世紀、写真機が一般化して、私達は、見たとおり描くことから解放される。で、初めて、私は何を描いていたのかが問われる。何を描きたいのかが問われる。ファイニンガーはそのあたりにいる。僕は1951年に生まれて、2030年代を見られるだろうか?彼は1871年に生まれて1952年に死ぬ。世紀を跨がることにかけては、僕も彼も同じなのだ。二つの世紀に跨がって、生きることを自覚して彼の絵を見ると、何か見えてくるに違いない。
 なんていうようなことをつい考えてしまうような展覧会が続いている。宮城県美術館は、なかなかやっているのではないか。自画自賛。
 このブログには、手紙を書くことが出来て、それらは、すべて、ちゃんと僕の所に届いています。でも、書かれてすぐ僕が読めるようになっていないのです。齋正弘の検索でブログが見つかるようになると、あっという間に、世界中からスパムメールが届き始めます。連休などで2、3日メールをのぞいていないと、それは、すぐ300通とかを超えてしまい、私書箱がパンクしてしまうので、途中でいっぺん、ふるいがかかるようになっているのです。そのため、個人的なメールは届くのですが、一拍時間がずれる。感想やお話は、ここではなくて、僕個人のメールアドレスに直接書いてください。そしてすまぬ、個人のメールアドレスは、僕に直接電話して聞いてください。

2008年 9月15日 曇り。湿気高く薄ら寒い。

敬老の日で休み。朝ゆっくり起きて、ぐだぐだと何もせず、Tシャツにパレオで家にいる。 まだ終わりではないのだが、ブログを更新していない間、いやはやものすごく気ぜわしい毎日が続いている。明日からの小学4年生たちとのワークショップ3連戦で、一息だ。そしてすぐにリニューアル開館。気ぜわしいではなく、物理的に忙しい、本当の毎日が始まる。



この前の更新は8月の10日過ぎだった。胞夫さんが軽い脳梗塞を起こして入院し、ちょっとした騒動を起こした後に書いたのだった。その後胞夫さんは施設に泊まり込んでもらっている。入院のことはもうすっかり忘れてしまっているのだが、やはりあれは大変ショックだったようで、認知症は一気に進んだ。おしめは手放せなくなってしまったし、便所の場所が時々分からなくなってやたらの所で立ち小便をしたり、その便所の帰りに自分の部屋に戻れなくなったりしているという報告を受けている。僕は変わりなく大丈夫だと言いたい所だが、この年になるとこのような入院の疲れはじわりと効いてくる。3日間ぐらい完全休養でないとどうも眠り足りないのに、何やかにやで2日半ぐらいで終わってしまうのだ。ま、楽しくのんびりとするように心がけつつ、やりくりしている。
宮城県美術館での教育活動は、通常個人に対して常に公開されているので、夏休みだからといってとくに子供のために何かイベントをするとかいうことはない。が、今年は休館中。結構頻繁に県内各所の学校や公民館に出張して美術探検の活動。その合間を縫って小学校の先生たちと館外での活動を何回かする時間がとれた。でも、今年は毎日寒いくらいの曇り空続きで、山の川で遊ぶつもりが、行ったとたんに雨降りで、鉄砲水に流される前にと、早々に温泉しけこむことになったりした。
8月28、29日、東京の目黒区美術館で、美術館教育のこの20年を振り返るシンポジウムが開かれた。目黒区美術館には昔からよく知っているF旗さんという熱心で優秀な学芸員がいて、昨年開館20周年になった機会にこの会を企画した。もちろん彼女が企画するとただのシンポジウムではなく、パネラーとして呼ぶ一人一人に、全国美術館会議教育研究部会の人たちを二人ずつつけて、1時間のロングインタビユーを2日間にわたって続けるという、これまでのシンポジウムのストレスを根底から覆す会になった。人選も秀逸で、この辺りは東京にいる強みだ。もちろんその辺りはきちんと意識されて企画され、生かされている。70年代に始められた造形から美術に意識をシフトした美術館教育。1日目の4人目に呼ばれて、始めた頃のことについて聴かれた。僕の所で、プレワークショップの時代は終了。次の日は、ワークショップという言葉が、普通に使われ始めてからの人たち4人。1日目の話は、僕が意識していなかっただけで、彼らの活動を小耳に挟んだことによってその後の宮城県美術館の教育活動の展開に深く影響やヒントをもらった活動についてで、何回もうなずきながら聴いた。二日目の話には、各美術館の発表で一言ならず宮城県美術館からの影響について述べられ身の引き締まる想いだった。2日目は少し居眠りでもなどと考えていたが、そんなことは頭に浮かぶ間もなくおもしろがって聴いているうちにあっという間に一日過ぎた。テープ起こした記録集が作られると言う、楽しみだ。
帰って来て日曜日孫と二人だけで水族館に行ったりして休む間もあらばこそ、早々に東京に引き返し9月2日3日、美術館連絡協議会主催の学芸員研修会講師。美術館は、日本では本来展覧会をする所という意識が強いので、美術館の連絡を協議する会は、展覧会の情報連絡と、実践協議をする集まりだったから、数年前までは、教育普及についての研修会を美連恊がやるなんて僕も含めて誰も考えなかったんじゃなかろうか。でも、去年から美術館での教育について新しい学芸員を対象に研修会を始めた。とはいえ、去年講師をしたのは、世田谷美術館の高橋君で、彼は、最近は「落語家」として売っていて、しかしそれはそれ、なるほど、そういう方向で美術館の教育について考えるというのは、これからはすごく大切かも、と本当に僕は思っていたのだ。さすがに展示系の美術館についての奥は深い、と。彼に比べられたら、僕はものすごいコンサバで、まったく美術プロパーの教育しかしていないと言える。事務局の人にその旨話して、今回は近代美術館で出来る鑑賞とは何を気づく鑑賞なのかというようなことを研修。作品個々ではなく、ざっと見て「美術」そのものに想いを馳せる練習。宮城県美術館で通常やっていて、この前、山口県美術館でやってみてなんとかできることがわかった活動。でも、国立近代美術館には、適当な作品というのはなくて、全部良い作品ばっかりだったので、むしろ大変だった。良い美術の作品は、その作品一つでダイレクトに美術の神髄に入って行ってしまえるので、回りから話を差し挟む隙がないのだった。でも、年の功でなんとか話をまとめる。
帰ってくると、仙台のプレスアートという所で出している30歳代の人たちのための情報誌「kappo」のインタビュー。友人のO泉君というフリーのライターがインタビュアーとしてくる。10月から美術館はどのように新しくなるのかと聴かれて、たじたじと「いや、新しくなるのは空気だけなんだよ」などと答えて、緊張が走る。その後色々聞かれて話を膨らまし、彼が大変上手にまとめてくれた。本当に、最近若い人たちにずうっと助けられっぱなしだ。助けられっぱなしと言えば、つい昨日一昨日は、仙台定禅寺通ジャズフェスティバルで、今年は2日間演奏家が来て、それを聴きに思ったよりたくさんの人たちが来てくれて、それらも、ほぼすべて、回りの若い人たちが様々あれこれやってくれて、いやはや本当に僕は嬉しいなあ。それにしても、そろそろスカッと晴れた日が続いてほしいものだ。

2008年 8月13日 曇。湿気っぽいが凄く暑くはない。

 胞夫さんを巡る介護活動が様々あって、しばらく更新する余裕がなかった。仙台は、全国的に見ればいつも少し気温が低く、過ごしやすい夜なので助かっている。

 8月2日土曜日午前、デイサービスにいた胞夫さんは軽い脳梗塞を起こした。施設には看護士さんもいるのですぐにこれはおかしいと判断され、施設の車で運ばれて南東北病院脳神経外科の午前の外来に滑り込んでみてもらうことができた。基本的に病院からは、僕だけが彼に付き添うことになった。携帯電話はこういうとき本当に助かるが、何もかもが次々に進んでしまって、ちょっと止まって待って考えるというような時間はまったく考慮されずに、物事が少しも時間を無駄にせずに進んでいくことになる。救急車は使わなかったので、院内を車椅子で移動し順番に待合室で待って見てもらった。MRIで脳の断層写真を撮った結果、後頭部の先端に梗塞による出血がはっきりあって、医師はこの分だと普通ならもう右側の視界がだいぶ見えなくなっているはずだと話した。すぐに点滴が始まり即入院。しかし病室のベッドに寝たとたん症状は著しく快復。ということは、梗塞の問題ではなくアルツハイマーの症状による問題が前面に出てくる。土曜の午後後半からは、ここは何処だと探検に出かけ、他の部屋を覗き回り、頻繁に便所に行き、それら全てを点滴瓶を気にせず始めようとし、パイプが外れて血を振りまき、動けないからと付けられたおむつの自覚がないので小便ができずに(おむつにはオチンポを出す穴が付いていないのだ)混乱興奮し、はずかしいので(彼は大正末に生まれ昭和初期に基礎的な躾をされた大変良くできた昔の日本人なのだ)おしっこと言っていたのが本当は大便だったりし、それも、おむつだとおろしたりはいたりが自分一人では自由にはできずにいると、がまんしきれずに漏れ始めたりして、ひと騒動だったはずが大騒動になり、そういう騒動の合間もじっとできない問題「児」と化す。でも、そういう事態にジッとできるというのは、ほとんど「自我」の放棄に近いような気もするし、病気になって西洋医学の病院にかかると言うことは、実はあらかた(自我などと言う自覚とはかけ離れた)動物と化すということだったりするのかとも思えるし。様々な想いがわきだしてくる。
 つい直前までは(痴呆症なりに)充分普通だと、自分も回りも思って生活していた気位の高いお爺さんが、アッという間に病人で、衆人の前で素っ裸にならされ、おむつを付けられ、点滴で身動きが制限された状態になる。それでなくても環境の変化に付いていくのに時間がかかるのに、ほとんど何も説明されないまま、いや本当はみんなよってたかって説明してくれているのだが、なにしろ耳が遠いし、使われている言葉の意味を理解するのが大変なので、途中で考えるのを放棄してしまい、いっそう行き違いがおこる。なにしろ話される言葉のスピードがいつもに比べたら驚くほど速い。胞夫さんとしては誠心誠意みんなに迷惑がかからないように行動しようとしているのだが、それがますます周りの混乱を招く。回りに居て見ていると、そういうことは良くわかるのだが、病院は病院の時間の流れが最優先されるので、胞夫さんはどんどん「こまったちゃん」になっていき、そう分類されることによってますますそうなっていく。介護施設と病院は、そもそもそこにいる人がなんなのかの理解の方法が違うのだった。
 本来完全看護で、母親が脳内出血で同じ病院に意識不明で入院した(そしてそのまま死んでしまった)ときでも、面会時間が過ぎたら帰って良いですよだった病院から、今晩は付き添いでベッドの脇に居てくださいと言われてしまう。完全エアコンなので、Tシャツ一枚できてしまっていた身には空気がやや肌寒く、携帯電話で呼んで仙台から来てもらった娘(彼女には3歳になるかならぬかの息子がいるので手は離せない)に少しさしいれしてもらいつつ、夜に備えるも、その夜はほとんどうつらうつらで起きていたといった方がよい。思ったより夜は短く朝は早かった。胞夫さんは、頻繁に起きて便所に行き、そのまま素直に帰らずに病棟を一周し、ここは何処か悩み、腕のパイプに悩み、でも、ふらつきやろれつなど、脳梗塞特有の症状はどんどんなくなっていき、ますますなぜ私はここに不自由にいるのかの納得がいかなくなりつつ、点滴を受け続ける。
 3日日曜日点滴継続。一回に2種類流し込む。弟たちが見舞いに来る。娘が孫と一緒に来て、孫は自分が診察されるのでなければ病院が好きなので、大きな元気な声で歌なんか歌って、看護婦さんにしかられたりしつつそうそうに帰る。頻繁に便所につき合う。胞夫さんは普段ごくごくおとなしい穏やかな人で通っているのだが、自分が理解できないこと(これまでの生活経験で使ったことのない言葉ばかりが、わからないのはあなたが悪いとでも言うように話される)を理不尽に強制される(これはあなたのためなんですよが本人に理解される前に実行されてしまう)と、基本的に小心者の彼は強く防御に出ることになる。声を荒げたり手を上げたり喧嘩腰になる。特に看護「婦」さんとか弱そうな人にたいしてそうなる。ますます、彼は「困った人」に分類されていく。病院に話して、できるだけ早く退院できるように相談するも、普通、この症状だと1週間は点滴が必要と言われてしまう。二日目の夜も付き添いお願いと言うことになる。昼、ちょっとの間病院を離れて家に帰り、シャワーを浴びて着替えをし戻る。戻ると、看護士さん達が一斉にこっちを見てほっとした表情になるのがわかる。いったい彼は、このわずかな時間に何をしていたのだろう。ほぼ前の晩と同じ状況の夜が始まる。でも夜の前半で夜間の点滴は終了。便所に行くときに点滴のつり下げ器具を持っていく作業がなくなったので、ちょっと気を許してパイプ椅子を三つ集め、横になった姿勢で寝ていられるようにする。で、横になったとたん気を失うように寝てしまい、肩を揺すられて起きる。胞夫さんは、あっちの方の空いたベッドになぜかパジャマの上だけを着て下はおむつのパンツ一丁で丸くなって寝ていて、看護士さんが移動させようと困っていた。僕が話すと比較的素直にごそごそ起き出して自分のベッドに戻る。でも、すぐ起き出して便所探検お散歩。結局横になって寝てはいけない/いられないのだった。持ってきた携帯ラジオでラジオ深夜便を聴いていたら、この日も朝はすぐ来た。
 4日月曜、偶然僕は夏休みで休みにしていた日だったので、そのまま付き添い続行。点滴は日中だけ、午前1回午後1回となる。頻繁に便所に行き探検。寝て、起き、食事をし、のような行動の移り換えに時間がかかる。次の行動をしようとすると決心するのが大変なように見える。一回何かすると少し疲れて軽く寝る。起きると、前のことは忘れていて、毎回最初から納得したがる。とは言え耳が遠いから人の話はあまり聞きたがらない。耳元で大声で話されると(そうしないと聞こえないのだが)怖いのだ。というような付き添いを一日して、夕食後8時に、さて今日は大丈夫でしょう、帰ってくださいと言われる。心からいやはやと、家に帰って風呂に入り着替えをして夕ご飯を食べようとしていたら電話。暴れて手が付けられないので、来てください。何となく、やっぱりなあと、車で駆けつけると、パジャマを着て待合室の端の椅子に肩を落として座っていた。看護士さんから、今日は緊急外泊にしますから、連れて帰ってくださいと言われる。もう点滴はしなくて良いのだった。「家に帰るよ」とゆっくり歩いて車に乗せ家に連れて帰る。でも家に着くと「あれ、ここか?」という。彼の中で家は、もうここではなく、施設になってしまっているのか?。でも一応納得して静かにベッドにはいった。その夜その後は何事もなく一晩過ぎた。僕も起きずに一晩過ぎた。
 5日。今日から通常の勤務。朝7時に病院に連れて行き、僕は出勤。昼前に電話が入って、午前中診断検討判断して、もう点滴無しで薬を飲みながらの退院治療にした旨連絡。早く連れて帰ってくれと言う感じ。大変丁寧にそうではないように話されるが、でも実際はそういうこと。昼から年休を取って退院させ、家で着替えをし、施設に連れて行く。着いたとたん顔がゆるむ。もう、何か病気になってここ数日大騒動だったということ自体は忘れている様に見える。ケアマネージャーの人に、お盆明けまでショートステイにしてあなたが休みなさいと言われて了解。という風に今回の騒動は終了。1週間経っても疲れはジワリととれない。
 否応なく、父親の下の世話をした。今は、様々それ用の用具やモノがあって、子供達の時よりは簡単だ。でも相手は大人で僕の父親だ。いろいろな視野が広がる。こういう体験をしてから具象の彫刻作ると良いのができんじゃないかなとか、まったく困ったことを考えている自分に驚く。何はともあれ、僕もこうなるのだなあと言う覚悟というか自覚を大切に忘れないでおこう。

2008年7月31日 今日も!曇り。今年仙台はちょっとおかしく曇る。しかも暑くない。

 28日に、高校の表現系教科指導要領研修会が県支援(昔養護といっていた概念)教育センターであった。呼ばれて、彼らの要望は違うところにあったのかもしれないが、美術探検を巡るお話を1時間だけした。本当は午前中のその1時間だけでお役ご免だったのだけれど、気になったし面白そうでもあったから、午後からの事例発表研修というのにも参加してみた。ただ延々と、私はこういう授業をしていますという普通の発表会だったが、一つ収穫があった。



 私立の女子校に勤めるshirai君が言っていたこと。
 最近こういう研修会で美術の話となると、すぐに「鑑賞」の話になる。でも、体育の授業で、バスケットボールの試合の鑑賞とか、水泳の試合の鑑賞とかの授業をしてるだろうか?にもかかわらず、オリンピックだと言っては、みんな(美術の愛好家などお呼びも付かないほど沢山の人が)新しいテレヴィジョンを買ったりする。美術だけ「鑑賞」を特別に授業する必然は何処にあるのだ?
 ヒヤッホウ!凄い見方だ!ここにつきるんじゃない!美術が学校の中で授業として生き残る全てのこたえがあるのではないか!小さい頃に、美術ではなく図工をする理由も!
 shirai君は「だから、浮き足立たずに、理想論(何となく、これは僕のお話を指しているのではないかと邪推してしまった)に陥らずに、じみちに造形教育を続けよう」という方向に(たぶん)行きたかったようなのだが、僕としてはせっかくここまで辿り着いたのだから何とか理想の方向に、理想論に陥ることなく、もう一歩進みたい。体育で習う/習った試合を見ること(あえて、鑑賞ではなく)が、見る授業をしなくてもこれだけ盛り上がるのと同じに、美術作品を見ることができるようになる鑑賞の授業。それは、美術ではなくなるの?そのへんが、美術の人たちが陥っている今の美術教育の狭さなのではないかしら。
 美術が、そこを(人間の歴史では常に)一番にうち破ってきたので、僕たちは今、テレヴィで体育の試合を楽しんで見たり、スタジアムに出かけたりできる生活になってきたのではないのかしら。そういうのを豊かな生活というのではなかったかしら。スポーツを楽しんでみることができる今、では、歴史的には一番に(何を?)うち破ってきた美術の「鑑賞」は、何処に行こうとするのか。みんな様々なところで、様々なことをうち破っちゃってる今、ふと気付くと美術が一番送れてしまってるんじゃあるまいな。いやいや美術作品自体は、何を言われても知らん顔して知らぬ間に、一番先頭で、片っ端からぶち破って進んでいる(にちがいない)。たいていは早すぎてみんな気付いていないことも多いけれど。遅れに気付かないのは、教育の中の美術か?美術教育か?美術を通した教育か?もしかすると、そういうこと(一番先頭に必然でいるのに、一番最後にもいる)も大きく含めて、僕たちは美術を理解しているのだろうか?体育で習った競技の試合の楽しみ方、そしてその盛り上がり方を丁寧に考えて、美術の鑑賞を考える。そういう授業をしたい。
 まず、ボールゲームだけでなく、体育の試合は、各自様々な好き嫌いがあるということが肯定されている。体育自体が嫌いでも肯定される。体育は嫌いでもそのスポーツの試合は好き、も肯定される。試合を見るだけ!も肯定される。見るだけ、にお金払ってもいい(別の言い方だと見るだけを買いたい)も肯定される。やっぱり、実際やんなきゃだめだよという人は必ずいるが、よく考えると凄いねこのどんな状態でも肯定すること可能の具合は。各々好きなゲームはあってそれが一番だと思っていても、野球を見ない人は人間でないというようなことは野球が好きな人でさえ誰も言わない。ついでに野球で言えば、プロ野球も見るが、高校野球も見るし、草野球も見る。それぞれ面白く見られる。自分の方が上手いと思うこともあるが、いやはやたまげたこんな凄いこともできるんだと、自分ができないことを感嘆することも肯定できて楽しめる。ルールはわかんないでも見始められるし見ることができるが、段々ルールがわかりたいと思ってきて、様々な方法で各自自己流にルールを知り、みんなとの話の中でそれを各自都合良く勝手に修正していく。でもたいてい大きな間違いはおこらず、ちょっとした思い違いや思いこみは、仲間との楽しみの内に吸収される。ルールがある程度わかると俄然試合は面白く見られるようになる。時々身近に説明好きの人がいて、事細かにルールの説明をしてくれたり、ついでに選手の癖や有り様などを解説したがったりするが、あれ、最初からそれされたら好きんなれないよね、ということが多々かつ時々ある。野球は学校の授業には普通あまり入っていないが、その簡単なヤツはある。だから男女を問わず、走って投げて打って捕ってというような体験はほとんどの日本人なら体育の授業でしていて、各々が各々の経験の中で、充分に上手くできたり、できなくてもするところを想像したりすることができる。その上でプロの選手の動きを見て、彼らの生まれながらの資質や、その資質を持った上での各自の凄い鍛錬、それを支えた親や社会についてまで、一瞬のうちに思いをはせ感動する。歓声を上げ拍手をする。そしてたとえば野球でこれが知らずにできる人は、あまり好きではない/なかったバスケットボールの試合を見ても、同じような状況にすぐになじむことができる。
 ね?なんだか似てるでしょう?学校でする図工美術は、こういう体育をするんではなかったのかなあ。そういう体育みたいな美術の授業はしてきたのだったかなあ。造形に走ったのは、たぶんそのためではなかったのかなあ。どっちの方にどういうふうに走ればいいかは、この体育で習った体験によるスポーツの「鑑賞」に、様々ヒントが隠されているのではないかしら。立ち止まるのではなく先を見つめる点検を続けたい。

2008年7月22日 朝、厚い曇り。湿度高く中途半端に暑い日。でも今日は長ズボンをはいた。

 昨日のイベントで、まず夏休み始まりまでの忙しい毎日は一応終了。これからは、基本的に公務員の毎日、っていい方が公務員に対する差別的な言い回しだな。夏になったようなのに、仙台はどうも、中途半端に気温が上がらない。蒸し暑いならまだしも、昨日は寒いぐらいだった。

 この前いつ更新したのか忘れてしまっているから、昨日のイベントとは何かについて書く前に今思い出すあたりから書いておこう。7月に入ってすぐの週末、山口県立美術館に呼ばれていって、山口県の先生達と鑑賞について考えた、と言うことは報告したのだったろうか。まったく初めて会う「何描いてあるのかわからない」作品を使って、子供達とする「鑑賞」の授業について実験し、少し自信がついた。でも山口は、東北の仙台で考えているのとは、たぶん「文化度」が、善し悪しでなく、格段に違っているのかもしれないことは、忘れないようにしておこう。みんなそれぞれ違うと言うのが、美術の基本だ。
 山口は遠くて、往き来に、それぞれ一日、充分にかかる。月曜に8時間かけて新幹線の車窓から現代日本の観察をしつつ帰ってきて、火曜は美術館で事務仕事を片づけ、水曜日は日帰りで東京に出かけ、9月にする学芸員研修についての打ち合わせ。全国美術館会議とは別の美術館連絡協議会という組織での活動。僕としてはやや腰が引け気味なのだが、話し合いの結果、国立近代美術館に下見無しで飛び込んで、鑑賞してみるという破天荒な活動になる。「近代の美術作品」が「美術としてみることができる展示」がしてあれば、理論的には何処ででもできるんじゃないか。面白そう、やってみよう。
 7月10日に57歳になり、5年前に脳内出血をして開頭手術をした身としては、こういうふうにやったことだけを書いているだけでも、さすがに疲れてくる毎日が続いたので、11日から14日までの週末は少し早い夏休みをとった。でも、僕はその日休みだよと言うと、それでは私達と遊んでという人が聞きつけてきて、11日は運転免許の書き換え、13日は市内の子供アトリエの人たちと広瀬川で水(川)遊び。河原遊びのはずが、始まると、水泳ぎや川渡りになって、いやはや、ヒヤヒヤの日焼けの一日。何だかのんびりしたなあは、12日と14日の二日だけだった。
 美術館に社会復帰してみると仙台はもう夏休みなので、休みに入る前にと、16、17日二日連続で、街の北の方の新しい団地の小学校5年生4クラスに美術探検「鑑賞」をしに、美術館のトラックに実物大作品コピーを積み、同僚の先生の運転で出かける。小学校は1時間目が8時半ぐらいから始まるので、僕は5時起き。15日は休み明けだったけれど、メンタルヘルスケア研修というのを部長になった人は受けなければいけないとのことで県庁で半日研修というのが入ったので、またまたハードな毎日が続く。18日から本格的に夏休みをとって、21日海の日まで連休。ううむ公務員だなあ。とにかくそんなことは言っていられないほど、「何もしないでぼんやり」というのをしたかったので、今回は、決心して何もしないでいた。
 で、最後の21日に、いつも美術や図工の活動を一緒に考えている「トコトン、ノッツォ部会有志」の先生達(彼らも又、毎日忙しくクルクルと動き回っている小学校の先生なのだが)3人と、エッセイ「お父さんのひとりごと」の文中で「家の川」と呼ばれている山の方の秘密の沢に出かけて、一日水遊びをした。でもそういう日に限って、曇りで最高気温23度だったりするのだ、まったく。おかげで人っ子一人いず、虫も出ず、日焼けもせず、静かな、ゆったりした一日を過ごすことができた。仲間も、気心の知れた人たちだったし。14インチブラウン管テレビ大の岩が重なる山の上流の沢で、適当な部分にその石を動かして堰を造り水たまりを作る。新たな流れを作ってみたり、グラグラする大きい石の上にへっぴり腰で立って、できるだけ大きいしぶきをあげてその水たまりに飛び降りたり、お湯を沸かしてハーブティーを飲んだり、おにぎりを食べたりなんかしてると、アッという間に時間は過ぎて午後1時。大きい石も水の中で動かすと結構動くし、動かないと思った石は周りの小さい石を根気よく外していくとふわっと動く。こういうことみんな面白いの?と、始めるまでは半信半疑だったが、始まったら、みんな凄い集中で、シーンとなってしまった。号令をかけて、やめさせないと、いつまでも水の中。服びちゃびちゃだし、唇紫になってるし。そうだよなあ、年齢に関係なく面白いよなあ、こういうの。帰り近くの温泉に入って体を温め、4時には解散。心はポカポカだが、今日の僕は足と手の指の節々が痛み、右足の中指と薬指軽く捻挫、首の後側疲れてこって、腰も少し張っている。ああいう格好と活動を冷たい水の中で数時間していると、こういうところが痛む、の見本みたいだ。でも、面白かったなあ。もう少し暑い八月、もう一度行こうと思う。

2008年7月2日 快晴。石巻は乾いた空気で、温度低し。

 昨日今日と、石巻市立釜小学校に出張して美術探検。昨日は6年生120人。今日は5年生120人。物理的には疲れているが、気分はウキウキで疲れてないみたい。でも、帰りにトラックの中で30分ぐらい前後不覚で寝ていたようだ。

 美術館が休館中なので、学校に呼ばれると、トラックに実物大レプリカ(といっても、ただのコピーをフレーミングしただけのものだが)を何枚か積んで、同僚の先生に運転してもらって出かけていく。鑑賞の授業と言う名目の美術探検。7月になったら急に要請が増えて、昨日今日は石巻市、中旬に仙台市内寺岡の各小学校。呼んでくれる先生たちと相談をして、たいていは5、6年生が対象。いっぺんにだとちょっと人数が多いので、3クラス分の人数を二つのグループに分けてとお願いしたら、なんと男子と女子に分けて来て少し驚いた。でも、この年代の人たちはそれも又話のネタになった。それなりに充実。ものすごい集中。
 6月30日に7月13日にする子供アトリエの人たちと広瀬川河原でする活動の打ち合わせと下見。7月に入って石巻の小学校2日連続美術探検。出張旅費がないので泊まりはできず、連日トラックで日帰りで出かける。明日3日は、市内の幼稚園(美術館と連携して美術教育活動のモデルになってもらっている園)年中組と近くの公園で美術館探検館外編。5日から7日まで山口県美術館に呼ばれて鑑賞活動の研修。9日に、東京で美術館連絡協議会の人たちと美術館教育の研修ができるかどうかの相談と打ち合わせ。
 いったいどうしたんだ。なんでこんなにせわしないスケジュールになってしまっているのだ?でも、今回見たような、充実し集中する子供たちの顔を知っていると、つい又あの顔を見たくなって安請け合いしてしまう。忌野清志郎の歌う「空が又暗くなる」をカングーのプレーヤーに入れて、僕も大人なんだから勇気を出そうととなえながら、午前の早い時間の授業に間に合うように出発するため、朝早く美術館に向かって自動車を走らせる毎日だ。

2008年6月23日 梅雨空。カッパを着て傘を持って出たが、途中でカッパは脱いだ。結局雨降らず。

 思えば前に更新してからあっという間に一ヶ月すぎた。美術館は休館なので、毎日時間を持て余すのではないかと思っていたのは間違いだった。連日何かかにかしなければいけないこと(したいことではなく)が起こって忙しく毎日が過ぎていく。報告することがいくつかある。ガソリンが値上がりするのにあわせたようにルノーカングー(いつでもどこでも働くための車)が来た。シトロエン2CV(楽しみのために動かす車)も6月初めに車検を延長。両車とも、調子は上々。でも、もう車にはあまり乗らない。でも、6月14日の地震で電車は6月いっぱい徐行運転だという。毎日遅れる。ちょっと心が揺らぐ。そういう状況をくぐり抜けながら移動美術探検をいろいろな所で、いろいろな人を対象に、何回か。部長にならないと絶対でないだろうと思う会議に出席、何回か。一方幼稚園をはじめとする子供たちとの活動も始まった。休館中なので館内には入れないのだが、庭だけでもいいからという幼稚園との活動。胞夫さんと明美さんは調子よく相変わらずだ。こんなふうに毎日が忙しく過ぎていく。



 この前の日曜日に、去年から、僕の庭の面倒を見てもらっているhirono君と相談をした。普通雑草と言われる植物をきちんと草として生かす里山の雑木林のような庭が目標。クローバーがいい調子になって来ている。胞夫さんが手を入れていた昔の庭は苅込んで、新たに造った僕の庭の方は手を入れた自然に。でも、植物は、ゆっくりゆっくり動くので、ソッチの時間に合わせていくしかないのが、なんだかいい感じ。hirono君と一緒に、彼の娘のkae(小3)が一緒に来た。最初じっと耳を澄まして観察している少女。魔女になりたくて、妖精を探す少女。魔女になる練習と、妖精の探し方の話。彼らは丸森の耕野という所のその又奥に妖精と一緒に住んでいると言う。機会を作って彼女の家にぜひ行ってみようと思う。校長先生たちとの打ち合わせや研修会、おじいさんやおばあさん(僕と同じ世代だということだが)たちとの鑑賞の話、小学校の先生たちとの鑑賞を巡る研修、その他、大人とのお話でちょっとうんざりし始めていたところに、とてもいい時間。妖精なんかいないと思っている人が増えると妖精はいなくなっていく、というお話が真剣に検討される、嬉しさ。
 その一週間後の日曜日、3人の女友達と龍の口渓谷探検。目的の無いただの探検。一時間黙々と、しかしゆっくり行って、崖崩れで行き止まりになって、又ゆっくり帰ってくる。空気は水分をほぼ100パーセント含んで気持ちよく、暑くはなく、水はきれいで、魚が泳ぎ、カエルがじっと石の間にうずくまる。緑はビッシリと深く、石はきれいで、でも結構プラスティックのゴミが落ちている。ゴム長を履いて、ただゆっくり水に囲まれて歩く。深く息を吸って、深く吐きながら行く。入り口に戻って、みんなとパチャカリでカレーを食べて帰宅。こういうのも嬉しい一日。
 7月に入るとすぐに、山口に行ったり、東京に呼ばれたりが始まる。
 

2008年5月21日 嵐の次の日の快晴。乾いた風。深い青空に輝く白い雲。

 昨日の帰りの電車は強風で送れて、ギリギリで歯医者の予約に間に合った。ここしばらく、何か気ぜわしい毎日が続いている。



 胞夫さんは、週日は連日ショートステイ、土日在宅でデイサービス。このシフトにしてもらって、毎日の僕の朝はだいぶゆっくりしたモノになった。だが、胞夫さんはどうなのかはわからない。今までよりは、落ちついて彼と話せるようになったけれど、彼は、自分の今の考えや気持ちを普通に話す経験があまりなかったのだなあと言うことがわかるお話が続く。いったい彼には、何かの時の、そこに戻って、自分の考えというようなモノを見つめ直すことができるようなもの(はりきっていえば人生)があるのだろうか。そして、自分自身はどこがどうなので自分なのかについて考える。
 富山の置き薬を一箱飲んでしまった明美さんは、それ以降、顔(たぶん体全体も)のむくみがとれないなあと思っていたら、甲状腺の異常であることが判明。もう30年来かかりつけのお医者さんと相談して対処をしているが、ま、これも本人の生き方なので、慌てずに一回に一個の感じで変えていくことにしよう。こっちが先にへばらないことのほうが大切だ。
 と、なにやら深刻そうなことを言いつつ、帰宅途中に青葉通りの「モン・ベル」によって、インフレータブルカヤックのカタログをもらってきたりしている。平たく言えば走りやすい(漕ぎやすいか?)ゴムボート。今年の夏は、絶対に、「乗せて乗せて」という人が(大人も子供も)出てきそうな気配があるので、二人乗りの舟を考えていて見つけた。ちゃんとしたヤツの方が良いか、空気でふくらますので良いか、悠々館に行って聞いてみようと思っている。
 その舟を運ぶためのエクスプレスは、すっかりクラッチがつながらなくなって、この前の日曜日に車載車で引き上げられていった。カングーは26日過ぎに来ると言うことだ。楽しみだ。ううむ、こう書いてきてみると結構楽しい毎日なのだな。そう、思うことにしよう。

2008年 4月29日 空気の乾いた霞の空。暖かな晴れ。

 この前の日曜日の午後、時間を取ってもらって、胞夫さんのケアマネージャーTさんと担当のSさんと、今後の相談をした。最近の胞夫さんの状況を見るにつけ、これは、そろそろ様々な覚悟をしないといけないかと思い始めたのでの相談だったのだが、やっぱりしてみてよかった。そこまで覚悟があるのなら、全然普通で良いのよという感じ。今までの日程を逆にしてしまえば、問題はほぼ解決するのだった。専門家は、又専門家としての視点があるので専門家なのだ。こういうのは、早め早めだね。
 で、単純な私はすっかり気持ちが軽くなって、今朝起きたら、今日は気持ちのいい天気の休日なのだった。朝のルーティンワークをこなしたあと、自転車を整備。僕は今3台自転車があるのだが、そのうちのスポーツ用の2台を掃除し、油を注し、空気圧を調整した。自動車もそうだけれど、掃除するだけで、なんだか軽くなった気がするのは、なぜなんだろうと、毎回思う。



 今日整備しなかった1台は、通勤に使っているやつで、家から岩沼の駅までの行き帰り、ほぼ5分のために使う。昔、僕が買ってあげて、胞夫さんが使っていた茶色のやつ。
 今日の2台は、ARAYAの白い24インチと、YETYの水色の26インチのATB。車体についている様々な後づけの道具類(ボトル、空気入れ、工具入れなど)を取り払い、水ベースのクリーニンング液で、隅々まで布で拭き(ギアに細い枯れ草が沢山巻き込まれていた)、自転車屋で言ういわゆる「水油」の良いのを褶動部のすべてに薄く塗り余分を拭き取る。タイヤとフロントサスペンションの空気圧をチェックして適正な圧力にする。一通りのねじ類を増締め。ついでに、最近気になり始めていた26インチの方のハンドルをひとカラー分下げた。こういうことを、途中時間が来たので郵便局に不在通知の来ていた手紙をとりにいったり、ついでにクリーニング屋に胞夫さんのズボン(彼は、もうほとんど自主的には着替えをしなくなってしまったのだ)を出しにいったりしながら、無心に続けた。ううむ、気持ちいいぞ。こういうのが最近なかったんだよね。というより、作品作っていなかったからかな? 整備は昼前までにはすっかり済んでしまったので、その後YETYに乗って、鳥ノ海まで、阿武隈川に沿ってゆっくり走った。行きは亘理側を向かい風クルクル回し、帰りは岩沼側を追い風でビュンビュンと踏んで。整理体操をしなかったら、今少し体が痛い。
 

2008年 4月19日 雨。でも春の風と一緒の雨。


 今朝、胞夫さんは、最近は毎朝6種類に増えた病院からの薬のほかに、テーブルの上にあった乾燥剤(確かに個別包装された胃薬によく似ている)もついでに丁寧にはさみで封を切って飲んでみるというひと騒動を経てデイサービスに出かけていった。アルツハイマーの父親と一緒に暮らすということは、このぐらいで動揺していたのでは持たない、ということはわかっていてもいやはやなんともうろたえるなあ、から今日は始まった。



 毎年新たな年度が始まると、全県下の社会教育主事(社会教育施設の先生ね)の人たちが県庁に集まって、今年度宮城県の社会教育はどうするかの連絡と打ち合わせの会をする。開館直後の頃、美術館からは僕が出席していたが、もうここ20年以上出ていなかった。18日ネクタイをして(みんな信じられないだろうが、僕は素敵なネクタイーということは普通には締める機会はなさそうなーを沢山持っている)一日出席。一日とあえて断ったのは、教育庁からの要請は、13時から来て、15分くらい美術館今年の重要事業について説明して、だったのだけれど、確かこの会はああいうふうだったという思いがあったので、あちこちにお願いして10時の始まりから一日参加させてもらう。15分だけの参加で今年の宮城県について何がわかるというのだろう。それとも、わからない方がいいことが、誰かに、なんか、あるのかな。80年代初頭、この会は1泊2日の会合で、変なオンツアンたちが泊まり込みで変な気勢を上げつつ何やかや話し合うへんてこりんな会だったのだ。でも、今では1日で終了。今はああいうことは何がどうなっているのだろう。
 一日、後の方で大きな会議室一杯のダークスーツの人たちの背中(事務局以外の女の人は僕の見た所2名だけだった)を見つつ、入れ替わり立ち替わりの説明(僕もその中の一人だったのだが)を聞きつつ確認したことはいくつかあるが、何しろ、日本の社会教育って、関わっている全員が、学校の先生の人事異動の人なのだ。あ、大切なのは、教育長や社会教育課長や生涯教育課長のようなブレインの人は行政職の人事異動の人だということね。だから、そのブレインの人達も含めて、僕の立場は至って異常で、もう30年も社会教育だけやっている人になっていた。どうもそういう人は、多分日本では、もしかすると、僕だけかもっていうくらいいないんだね。
 本当は学校の先生の人が、3年間ぐらいの間だけ、人事移動で突然公民館に回されて、着任2週間目で何もわかりませんと言い訳しながらこの会に参加して、ずうっと下を向いたまま、教育のことなんか、ざっとで良いんじゃないの真面目にするとお金使うばっかしだしという人達(多分。でもそうとしか思えない話が端々に感じられる)が考えた形式を整えることが優先されるとしか思えない様々な活動の退屈な説明を、多分眠らないためにメモを取り続け、時々タバコを飲みに中座しながら、一日の時間を過ごして、明日からの日本の社会教育は展開されている。いやはや、悪意に満ちた言い方だなあ。しかしそれだからこそ、ほとんどすぐに、では、社会教育機関としての美術館がすることは何かが見えてくる。ううむ、こういう活動ってほんとにもうからなさそう。だから公共でするのだね。せめて、この辺りだけでもみんな真剣に考えてくれると良いのになあ。
 学校の先生が考えると、やることが、全部学校みたいになる。なぜ学校というシステムで教育をするのかの説明は、日本の場合誰もしないし、むしろ教育って学校の先生の職業のことだと普通思われているから、このままだと、社会教育も、今の学校で起こっている様々な問題と全く同じ問題が起こってくるだろう。学校教育がこうなって社会教育もそうなったら、日本の教育全体がああなる訳で、教育がそうなった国は、国として修了することになるのだろうか?
 簡潔に言えば、社会教育では学校教育でしていることはしないという強い決心で事業を組み立てないといけない。けれど日本では、学校でしていることはしないというと、教育の現場では何していいのかわからないという状況に陥ってしまう。むしろそのこと(学校以外の教育実践に付いて考えること)自体がやるべきことなのだということに、誰も気づかないように長年かけて、学校で訓練して来ている様に、僕には思える。
 そんなことをつらつら考えて、なんかやること沢山ありそうと、雨をついて家に帰って来てみると、(薬好きの)明美さんは富山の置き薬を一箱あらかた飲んじゃってるし(彼女は風邪を引いたんだそうだ。僕の見る所、ただのタバコの飲み過ぎ。感冒薬を飲むと胃腸薬が必要になり、という具合に次々飲んでいってあっという間に湿布以外の薬がなくなってしまったみたい)、胞夫さんは最初に言ったような具合だし、こういうことを気に留めていると、僕の方の脳の血管が心配になるので、ほとんどのことはちゃらんぽらんで進めることにして毎日が過ぎていっている今日この頃。

2008年 4月1日 何しろ風が強い。澱橋から吹き飛ばされそうになった大学生を見た。でも、春。

 新年度が始まった。この週末金沢にいた。昨日帰って来て今日から美術館。人ごとのような感じで、今日から僕は教育普及部長になった。

 金沢には、金沢市民芸術村に呼ばれていって、都合3日間いた。仙台を8時に出て金沢には1時半過ぎに着く。去年の夏の大原美術館と同じように、そこで行われているいわゆるワークショップの点検と展開の検討。芸術村での活動は、ワークショップの(理解の)ためのワークショップ。ほとんど講義。よい質問が出ると、よい答えが話せる。活動以外のほとんどの時間を21世紀美術館で過ごした。大原の時もびっくりしたけれど、今回も呆然とびっくり。美術館ってそもそもなんなんだろうを、各自が一生懸命考えた答えがここにもあった。金沢はまわりを含めて、もう少し暖かな頃に車でゆっくり行って10日とかゆっくりお散歩すべき所だった。僕が歩いたすべての所が散歩用にわざわざ作ったみたいな街だった。道が一カ所も直交していない。路面電車はないが、きれいな水が音を立てて流れる堀が縦横に横丁を流れる。いやはや、見なければいけない日本は、まだまだたくさんあるなあ。
 28日にあった館の送別会の時、僕は、今年転勤することになった少し年上の人にほとんど理由のない喧嘩を理不尽に突然売って、あわやつかみ合いというような事件を起こした。その人は確かに、すごく公務員風な人だったとはいえ、普通には世話になったとしか言いようのない面倒を見てもらっていて、なぜあんな風になったのか、未だにわからない。カアーっと頭に血がのぼって、なんだか興奮している最中から「あれ?俺はいったい何をしているんだろう」と考えている自分がいて、感じとしては、むしろ自分自身が怖かった。なぜああなったのだろう?ということを、ずうっと考えながら金沢を歩いていた。アルツハイマーの初期症状に、確かこういう症状があったのではなかったろうか。寒くはないが、冷たい雨が降っていて、不思議な重い旅だった。金沢は、たぶん歩き直さないといけない。
 

2008年 3月11日 晴れ,夕方から曇り。日中は暑いくらいの春だった。

2年前のちょうど今頃、美術館でやっている鑑賞教育活動のまとめを書いていた。それは「美術探検 鑑賞」という題の小冊子になった。まだ少し残っていて、機会があるたびに配布している。ただそれは、10歳以上の人たちに対する鑑賞活動をまとめたもので、そんなに難しくはなかったのだ。10歳以下の人たちとする鑑賞活動も、「美術探検」ができてすぐ続けて書き始めてはいたのだけれど、途中で書き進められなくなった。難しいのだ。そもそも、小さい人たちとの美術館での活動自体が難しい(図工と美術は同じではないし、美術と造形も違う)のに、それを言葉で書くのは、大変に個別で個人的な活動の積み重ねになってしまいがちでまとまらない。年度末が迫り今年度中に予算を執行したいということになって、ここ暫く集中してうむうむうなりながら書いている。一応、今日脱稿。それで、これを書いている。もうすぐ3月14日だ。脳内出血から5年経った。

美術作品を使った鑑賞は、日本では、先生のお話をメモを取りながら聞く作業になってしまっているが、実際は、新しい事柄を学んだり知ったりすることではなく、すでに各自が持っている情報を縦横に使って、各自の物語を紡ぎ直す練習のようなものだ。そうならば、年齢が小さい人たちともすることができる。その人の頭の中にお話ができるだけの世界ができていればいいのだから。だから、美術館でする、小さい人たちとの鑑賞の活動は、みんなが思っているようなものとはだいぶ趣がちがってくる。というようなことを書いた。本で読む楽しみはよくわかっているつもりだが、「美術探検」も「美術館探検」もそのうちこのブログで公開したい。
相変わらず、ブログの更新は滞りがちだが、相変わらず何やかにやの毎日が過ぎている。悲観的、鬱的というのではないが、毎日が継続してすぎていきながら、しかし、いつか又突然「がんっ」ときて死んでしまうのかもしれないという念いは常にある。でも、又1年すぎる。不思議な気持ち。ま、正直真剣にちゃんと毎日生きていこう、なかなか大変だけれど。

2008年 2月19日 晴れのち曇り。空気はもう寒くはなくなってきた。でも、雲はまだ冬。

ちょうど一年前、僕は、家で、小さな爆発事件を起こした。つい昨日のような気がしていたけれど、もう一年もたってしまったのか。
そしてつい先週の15日、今年はぼやだ。あとほんの少し何かが違っていたら、多分全焼になりかねないぼやだった。
 数年前の脳内出血以来、僕には不幸中の幸いがついている。様々な条件が実にうまく絡み合って、決定的なことが起こっているのに、あと一歩に踏み込まずにすんでいる。あと暫く善く生きなさいということか。


 僕の家はみんな煙草を飲まないが、僕のワイフの明美さんだけは精神障害者で煙草を吸わないと落ち着けない。そのため、一階の南端にある彼女の部屋は、あまり日光が入らないように窓が小さく作ってあって、かつ煙草を吸ってもいいように作ってある。大きな換気扇が付いているということだ。その日も彼女は、朝に何本か煙草を吸って灰皿で消し、外に気晴らしに出かけた。そのとき、灰皿の中身をゴミ箱に捨てたようなのだ。後で見たとき、いつも吸い殻で一杯のアルミの灰皿がすっかりきれいだった。明美さんは悪気なくそういうことを何気にする人なのだ。火は消えていなかった。彼女が出かけてしばらくしてから、二階にいた胞夫さんが異臭に気づいた。何かが燃えている。彼は耳はもうすっかり遠くなってしまったが、鼻はちょっとしたなれない臭いでもすぐにうるさくいうほど利く人だった。彼が階段を下りてくると彼女の部屋から煙があふれていた(らしい)。彼はもちろん戦争に行った人なので、こういうときは普段からは想像ができないほどかくしゃくと動いた(らしい)。一階のトイレの脇にある作業用の水道から、水を汲んで来て、的確に火元に水をかけた。作業用なので、水がたくさん出やすい蛇口だったし、大きめのバケツも流しの下に用意してあった。火元は、明美さんが普段使っている12ミリ厚のシナベニヤで僕が作った四角い作業机の下だった。そこに彼女のゴミ箱がおいてある。プラスチックのゴミ箱はすっかり融けて机の下の棚に置いてあった様々な紙類(アルバムやメモ類)が燃えていた。しかし、厚いベニヤでまわりを囲まれているので、炎は、机の下からはみ出さないでいた。ただ換気扇が回っていたので机と壁の隙間から炎が這い上がり、換気扇のダストカバーは融けてだらりとたれ下がり始めていた。なぜか、いつの間にか足元を長靴で固めた胞夫さんが、もう一杯の水をかけているとき、デイサービスの人たちが胞夫さんの朝のお迎えに僕の家に着いたのだった。彼らは、的確に(もうほとんど消えていたとのことだったが)火を消し、僕の携帯に電話をくれ、僕がすぐ駆けつけることを確認した上で、簡単な、しかし的確な後始末をして、胞夫さんをデイサービスに連れて行った。
 仙台に住む僕の娘の悠美さんは、毎週一回僕の家に来て家事の点検をしてくれている。今週は用事があって、木曜日の予定を金曜日に変更して岩沼に来ることになっていた。デイサービスの人から電話をもらったとき、ちょうど彼女が美術館に来ていて、岩沼に出かけるときだった。僕は、彼女の自動車に乗せてもらって、すぐに家に戻った。家に付くまで、僕は、多分胞夫さんの勘違いかなにかで、あまり大したことではないのではないかと考えていた。付いて、彼女の部屋をあけたとたん、そこは水浸しだった。ものが燃えている臭い。本格的な火事の現場。とにかく床すれすれに作ってある窓を開けて水を外に流しだし、換気扇をまわして(回ることは回るが、異音がした)床を拭き、燃え殻をゴミ袋につめる。空気は乾いているので、水びたしだった床は、何枚ものタオルを真っ黒くしながらからぶきをすると、みるみる乾いていった。10時過ぎから初めて、昼過ぎにはざっと終了。でもそれからが片付かない。結局いろいろやって、美術館には5時頃に戻る。簡単に考えていたので、持ち物をすっかり置いていってしまったのだ。時間が経つにつれて、だんだんと力が抜けていく。いやはやまったく。
 でも最初に書いたように、しかし、我に返って振り返れば、今回も不幸中の幸いの積み重なりで、僕は一命を取り留めたのではないか。襟を正して頭を上げて向こうを見ようと思う。

2008年 2月11日 快晴の冬の一日。日溜まりにいると、もう春だなあ

 なんという時間の流れだろう。せっかく新しい電脳をセットアップしたのに、何もしないまま時間はすぎていく。最後の日付はなんと12月18日ではないか。この2ヶ月の間にしたことをメモしておこう。

 今年度は11月末で美術館は長い修理休館にはいったので、12月22日の土曜日から、僕は年末の休みに入ることにした。本格的な大掃除は来年の春過ぎ暖かくなってからやることにして、今シーズンの年末掃除はユルユルのんびり進めることにした。でもその割には、何かかにか毎日忙しく様々な後片付けに謀殺。
 胞夫さんと明美さんとの病院福祉施設関係手続きと整理、悠記の個展の後始末にまつわること、新たに購入した電脳にまつわる家の整理とフィックス。
 28日に例年通り行われた海岸での焚火、齋家として行わなければいけない家を巡る様々な年末年始の行事、胞夫さんのデイサーヴィスは年末年始関係なく行われたのだが、何となく12月の30日から1月3日までは施設に行かせないで、家で一緒にテレヴィで駅伝やなんかを見ていた。悠美一家は年末年始家に来てくれていたがその送り迎え。ちょっと薬の計算を間違えて新年7日月曜も急に年休をとって胞夫さんの病院付き添い。
 昨年1月5日にもトコトンの人たちと小学校で粘土作りのワークショップをしたのだけれど、今年も、12日土曜日三居沢の河原に午後集合して何も用意しないで遊ぶ練習。午前中軽く雪が降ったので寒いから石器で草を刈り取って、焚火。で、そういう隙間をぬって車の整備。美術館が休館になってからは、僕の仕事のシフトは、典型的公務員なので、月〜金朝8時半から17時15分まで美術館で働いて土日祝日休み。土日に、こんなに人が出ていることに驚愕。でも、買い物には行かなければいけない。
 1月22日仙台市立古城小学校6年生3クラスに美術探検出張授業。30日には南光台東小学校5年生2クラスに2時間ずつの授業。その間に、30年間の美術館での活動の後片付けをしながら、前に書いた「美術探検」に続いて「美術館探検」の原稿を書く。そうこうしているうちに、今日2月11日だ。いやはや。