2009年 9月 14日  快晴。空気乾き、秋の雲。


夜の8時を過ぎた。中波のラジオを聴きながら書いている。今日から一週間夏休みだ。


朝二度寝してゆっくり起きる。でも8時にはすっかり起きてしまう。洗濯をしながら、少し前からかえた和風朝食を食べる。ご飯は、白米に五穀雑穀を混ぜた赤飯。昨晩の残り。大きめのお椀一杯のお湯を湧かして削り節をひとつかみ放り込み、煮立つ間にキャベツを少し刻み、味噌を溶かしてみそ汁の出来上がり。納豆としそ巻き。なかなか良いんじゃないの。食べ終えて、洗い物やちょっと掃除なんかしている間に、O林君が来る。彼は、僕の家の設計家。彼に推薦状を書いてあげる約束をしていたのだ。昨日の夜に出来上がっている。最後に本人と一発相談確認をして出来上がりの予定。続いて佐T君も来る。彼はフリーの若い電脳技術者で、ついでに様々なメカのテクニシャン。今回は、僕がしばらく前に改良しようとして完全全バラしてしまい、自分では再組み立てが出来なくなってしまった電動ライフルを組み立て直してもらうのに来てもらった。恥ずかしいが、大好きな銃なので恥をしのぶのだ。背に腹は代えられない。ガレージから2CVを出して作業場にする。彼は彼専用の道具や作業テーブルをもってきて広げ、一気に格好いい簡易工場化する。2階でO林君とO林君の作文。自分の推薦文を書いたり読んだりするのは気恥ずかしいものだが、でも他人はこれをこう見てこう期待しくれているのだということが自覚できて、僕の経験では、少し世界が変わる。一階では、電動ガンの改良組み立て。



なんだか嬉しいなあ、天気快晴だし。理想的な休みの始まりかただ。昼にはカミサンも一緒に、田舎料理のいつもの食堂にランチを食いにいき、食後お茶を飲みながらみんなでオートバイの話をして心豊かに帰宅。


家に戻ってからO林君は所用で帰る。その後、かかりつけの仙台東脳神経外科病院の看護婦さんから電話。この前の検査で心臓に異常が見つかったので、次の予約は木曜だが、出来るだけ急いで再診に来て欲しいという内容。一気に暗転、いやはや。当然、明日一番で行くと返事。主治医の鈴木先生から話を聞き、紹介状をもらってオープン病院に行くことになりそうだ。オープン病院は大学の時の担任だった佐藤多都夫先生が亡くなった時にいた病院だなあ、というのが最初に頭に浮かんだ。僕も彼の手術のために、あの病院で成分献血をした。もうここまで来たら、どんどん調べてもらって、早くなおしてしまおう。お相撲も始まったことだし。

2009年 9月 12日 曇り。時々雨。薄ら寒い。


今日は仙台ジャズフェスの日だ。美術館でもタイアップステージがある。今年はブラジルのサンバの人たちが来ることになっている。でも、昨日の午後から僕は横浜にいた。この催しが話題に昇るずっと前、横浜の日吉にある幼稚園から、お話をしに来てくれませんかと頼まれていたのだ。春前だった。その日が9月の第2週だということはほとんど気にせず、僕は「いいですよ」といってしまったのだ。頼んで来たひとは僕より少し年上の女性で、様々お世話になった人だった。今はそこの園長だ。もちろん様々考えたが、僕はそっちに行ことにした。美術館はこっちのスタッフでやれる分だけで大丈夫だと判断した。


新幹線に乗るのはしばらくぶりだ。ずうっと外を見て行こうなんて思っていたのに、寝てしまった。今日帰ってくる時も寝てしまった。しかも、記憶が切れている。熟睡。爆睡。新幹線かどうか関係なく、電車の中で記憶が切れるくらい寝ちゃったのは人生の中で初めてではないかなあ。横浜でのお話はけっこう快調快適だったから、いくらか影響はあったとしても、その活動の疲れで寝たとは、思わない。何となく疲れがたまっている感じ。いい機会だったのだろう、居眠りに。


ホームページの表紙にも書いたが、「おとうさんのひとりごと」の再版ができてくる。まだ手元に届いていないので正確にはわからないのだが、ほとんど最初に作ったのと同じ体裁のはずだ。ただ多分、表紙が前より少し良い紙になっているはずで、新たに脳内出血以来の顛末を4ページ程加えた。写真も一部21世紀版になっている。


初めての時は様々どさくさで、本を出すということがよくわかっていなかったこともあり、出版元をM野君ちの「火星の庭」にお願いしだいぶ迷惑をかけてしまった。で、今回は、霧生舎 kiriu_sha@bookshelf.cc というアドレアスを立ち上げ、そこで扱うことにした。霧生舎はこの後、僕や娘の作品など、齋家関係の様々なグッズを扱う窓口になるのかな。なるといいな。


本は9月17日に届くことになっている。本が欲しい人は、このアドレスに連絡をください。折り返し送料等を含めてどうすればいいかのか、こちらから連絡します。 

2009年 9月 8日  夏の終わりの、秋のような日。乾いた暑い昼。

交差点に立っている。道幅は適当に広く見とうしはいい。信号は赤。車は見える範囲両方向ともいない。あなたは待つ人?それとも渡る人?青だったらどうだろう?

僕は渡る。赤か青かはその時の状況のバリエーションの一つにすぎない。結局どんな状況であろうとも、様々なことを考えて、決心して渡る。たとえば回りに人がいたら?、その人が小さい人だったら?お巡りさんがいたら?と、シュチュエーションの例はいくらでも考えられる。昔見たアメリカ漫画ウッドペッカーの砂漠の真ん中の交差点での出来ごと(左右をよく見た時は何もいないのに、渡ろうと一歩踏み出すとすごい勢いで車が通り過ぎる)も僕は知っている。そしてああいうことも本当にあるのだろうと思っている。その上でしかし渡る。出来るだけ、行動の基本は自分で決めたい。様々な状況への対応も、自分で決められるようにしておきたい。お巡りさんがいたら、多分、僕は渡らない。説明するの面倒だもの。というように、その様々な状況に対する余裕のようなものを持てるようにしておきたい。たとえその決定でその先うまくいかなかったとしても余裕が持てるように。


前にも書いたが、僕は一人でエレベーターにのった時、普通は扉締めボタンを押さない。押さなければ、コンデンサーが働いてある一定の時間が過ぎて、最も少ない電力で扉は動く。ボタンを押すとスイッチが入って、ドアを動かすための強い電力が働き、力強く素早くドアは閉まる。この話を教えてくれた人は、だから省エネを言う人は締めるを押さないのだ、と続けた。僕は省エネのために押さないのではない。締めるを押さないと、なんだか変に緊張するみたいな時間が過ぎるのが好きなのだ。誰か来るだろうか?事件が起こらないだろうか?扉が開きっぱなしにならないだろうか?そして電気は?時間が意識的な無意識に変わっていくのを見るのが面白いので押さないのだと思う。ほぼ同じ感覚で、僕は交差点を渡る。


何だろう、こういう所にこそ、美術の考えは効いてくるのではないか。様々細々決めて、それにそって効率よく安全に動くことより、大きくは目標を見つけておいて、あとは出来るだけ、その場所での自分の気持ちよさのようなもので決めて進む生活。そういう状況でこそ、その人の正直真剣さが問われる。その時にいかにヘソを曲げていられるかも、問われる。一見曖昧で不確実で不誠実のように見えるかもしれないが、僕には、最も、その人の誠実さが見えるように思う。隅々までキチンと決めて、全員で安心して効率よくしておきたがる先生たちと、半日打ち合わせをして、そこまでしておかないと、みんなそんなに不誠実なのかよと、ほとほとうんざりしつつ、ウッドペッカーの赤信号のことを考えていた。


2009年 9月 4日  晴れもあった曇。強い雨一時。


久しぶりに自由に使える休みの一日。朝ゆっくり起きて、豆を挽いて珈琲を入れ、洗濯機を回しつつ、キュウリサンドイッチをよくかんで食べる。着替えて自分の寝室の机の上をかたずける。読み終えて古本屋に持っていく本を選り分けながら整理整頓していったら、思わぬものが出てきた。だいぶ前に、大きすぎて手に余ってきたので友人に譲った、ツーリング用バイクの取扱説明書とパーツリストなどの小冊子。それよりもっと前、これまた別の古くからの、今は田尻に店を持つ友人に譲った、イタリア製オフロードバイクの、古いカタログとメインテナンスマニュアルや自分で作った配線図などの書類のまとめ。二つとも、きちんとプラスティックの袋に入れて、だれそれ君に持っていくこととマジックで書いてあった。その後、それらはこの机の上に置かれたまま、先に進まずそこにいた。何ということだろう。すぐに、両方ともしばらくご無沙汰の友人に電話を入れる。二人ともすぐ電話に出て話をする。二人とも、まだそのバイクを持っていてくれた。一人は田尻町に店がある。ちょっと遠い。9月中旬、僕の夏休みに入ってから訪ねる約束をする。もう一人のO川君は遠刈田に住んでいる。しかも彼は今日僕と同じに休日で家にいると言う。何かやることがあったような気もしたが、ま、いいかと午後出かける約束をする。まとめた本をブックオフに持っていき、帰りにニトリによって本箱を見る。結局自分で作った方がいいなというあたりに落ち着く。家で、カミサんと一緒におにぎりの昼飯を食べ、昼ちょうどカングーで出かける。

O川君は遠刈田の別荘地に住んでいる。別荘地は、道路が直交していなくて、何回行っても結局自分がどこにいるのかわからなくなり、今回も最終的に携帯電話を使ってしまう。今回は電話したその先を曲がったところが彼の家だった。電話でなくても声が届くくらいのところ。残念。歓迎されて、彼のカミサンも一緒に、持っていったハーブティーを飲みながら様々話をする。意識的なライフスタイルを持って生活している人たちとお話をするのは楽しい。自分の中の、様々なところが生き生きしてくる。彼らには二人の男の子がいて、もう小さくなって使えなくなった子供用BMXをkeenow用に一台譲ってもらう。まだ内緒だが嬉しい。同じ別荘地に住む、共通の美術家の友人の家に寄りながら帰ろうということになって行ってみるが不在。彼の家は、その別荘地の一番はずれの突き当たりだったのだが、再び一人で行くのは無理だなというくらいくねくね道路の奥だった。彼はカッパービーター(鍛金家)なので、回りに人気の無いところでないと、うるさいと苦情が来て作業ができないのだ。家に帰ろうかとも思ったが、このあたりまで来たのはしばらくぶりだったので、近くに住む幾人かの友人に顔を出していこうと蔵王の方へ。蔵王七日が原の熊Z家の革細工の店は今日は休み。残念。

少し戻って青根のチェンンバロ作り、K村さんちへ。林道の一番奥にあるK村さんちの駐車スペースに着くと、家の方からリコーダーの音色が響いてきた。ああ練習中だな、邪魔しないように帰ろうと、ギアをバックに入れたら、縁側のガラス戸が開いて木村さんが「齋さあん、面白いコトしてるから寄っていって」と手招きしている。いや申し訳ないと思いつつ、家に入ると、これが、いやはや大変なことになっていた。チェンバロの名人と、リコーダーをうまく吹く少年と、バロックバイオリンの男子学生とビオラダガンバを良くする女子学生の人がいて、演奏していたのだ。ただそれが、木村さん秘蔵のバロックの楽譜から面白そうなの選んで、みんな初見でアンサンブルしているという状態。演奏している人達自体がすごく乗って楽しんで演奏しているのが、聞いているこっちにジンジン伝わってくる音楽。絵に描いたような、音、楽しみ。窓から緑の木々を見ながら、こういう音を聞いていると自然に涙が出て来る。ちょっと間違って止まってここからもう一回というのも含めていつまで聞いていても嬉しい音楽。最近なかなかストレスフルな毎日で、少しヘバリ気味だったけれど、こういう休日がこういう風に終わるのは、何とも嬉しい。帰って来てカミサンの作ったうどんを食って、早く寝ようと思ったけれど、もう10時だ。

2009年 8月31日  雨降りの一日。寒い。


選挙が一段落したので、「おとうさんのひとりごと」の再版のための印刷が始まる。印刷会社が忙しかったのだ。朝から脳神経外科に行って診察。朝食を抜いて行って、最初に血液検査のための採血。また最近、少し心臓の動きが速くなってきたなと思うと、軽く痛みを感じることがあるので、その旨話して心電図やその他様々な検査もしてもらう。予約をしてしばらくかよっていくつかの検査をすることになった。今日一日継続して心電図を録るための小さい機械を胸に付けてもらう。なにやかやで、午前中いっぱい病院にいて、いざお金を払おうと財布を出したら、お金が、本当に一円もはいっていなかった。愕然。

一昨日、パタゴニアのセールによってヘンプシャツを買った時に、財布の残りをきちんと確かめなかったけれど、帰り駅前のキャッシュディスペンサーでお金おろしていかなくっちゃと思ったのは、このことだったのか。しかしそのとき、ほんの数分遅れで、駅前の機械は終了していたのだった。後の祭り。ついでに、ここの病院は回りに銀行も機械もなく、キャッシュカードは使えないと来ている。東仙台駅前の銀行まで出て(今日は月末の月曜日なので駐車場当然満車のため)路上駐車でお金を下ろす。北六食堂で昼飯を食えたのは、既にお昼を大きく回ってからだった。自家製の身欠きニシンといつもの玄米ご飯。いつものとおりうまい。珈琲を2杯飲んでしまう。

昼飯が終わってから、本当はもっと余裕で行くはずだった二輪工房Sに寄って、分解掃除までして組み立て直したのにどうしてもスムーズに動いてくれない昔乗っていたゲーリーフィッシャーのCR7を達O君に見てもらう。「齋さん、これフェンダーあたってんですね」いやはや、恥ずかしい。自転車では、大体こういうことが多い。人力で走るので、実に繊細なのだ。力ずくではいかないのだ。やっぱりそうだったかというような顔をしつつ、内心動揺。素早く切り上げて家に帰り、フェンダーを取り外し、改造して取り付けたりなどして、なんとか格好をつけ、今これを書いている。今日は体に機械が張り付いているので、風呂には入れない。ちょっと寒いが早く寝てしまおうと思う。なんて一日だったのだろう。