2011年 3月29日  高曇りの穏やかな晴。少し強い風。


明美さんは、今日もまったく普段通り、自分のスケールで朝から動いていて、一見物を頼めそうな覚醒している感じなのだが、頼むと僕の考えていたのと違った、様々な意味で彼女の疲れないような方向の結果になっていったりするので、結局僕がしたい/しなければいけないことは全部僕がしてしまった方が早くすみ、かつイライラせずに済む。と、僕だけが思っているのではないかと思ってしまう程、アッケラカンだ。精神のハンディキャップの人といると、こういうことが震災の最中に起こる。僕に取って震災はまだ最中だ。
電気と水道は復活し、昨年末、原発反対なのにソーラー発電を含めてオール電化したわが家は、もう、まったく普通通りの生活が出来て、今日カングーと、CT(ハンターカブ)のガソリンもほぼ満タンになり、電車は4月2日からだけれど動くメドが見え、なのだが、下水と放射能が残っている。これらのどちらかが、顕在化したなら、今の/今までの快適で安逸な生活は根底から崩れて、強制避難になるから、節水/節電とトイレに物を流さない、洗濯物を出さないは、大切なのに、明美さんにはそう言う僕がひどくいじわるをしているように見えるようなのだ。

僕はこれまで普通の時一日中NHK第1を聴いていた。時々NHKFM。震災が起こって岩沼に引っ込んでからは、FM岩沼。地元の給水場なんかの情報はこれで確認した。地震以降NHKはあまり聞かなくなった。原発の伝え方が、どうも気にに食わない。僕の美術探検なんかのお話の仕方と、最も離れた物の言い方のような気がする(ということはいわゆる学芸員風ということか?)のだが、自意識過剰かな。聴いていると、理由もなく心配になって来るのに、判断するための情報には乏しい。こういう風に話した方がみんな心配しないだろうと考えて、話してますよという声が、ニュウスを読む声の合間に聞こえてくる。聴いていると、気がめいってくるので聞かなくなった。でも、様々な所から様々な情報は入ってくる。忙しい時は気が休まる暇もなく忙しいのだが、そういう時は何もしなくても良い時間もふと出来たりして、地震から1週間を過ぎた辺りからは、ぼんやり考える時間も結構できた。

造形は様々使い道があった(あっという間に快適な外便所を作ったり、水確保のための様々な容器の工夫とか)けれど、美術そのものは、具体的にはあんまり役立つ機会がないなあというのが、今の感想。ものすごく基本的な深い所で、僕の美術は大変力強く僕を支えてくれている(だから造形も生きてくる)けれど、そこにすぐ見える所では、何とも頭でっかちで弱々しい感じだった。生きるためにギリギリの所を、なにげに余裕に変える、なんてことは、生きていて余裕があるから言えるのであって、さ、生きるためにこういう場合どっち取るのという場面では、美的な余裕なんて、なにそれ?だ、と言えるようになった。ということを考え感じていたというのが、僕の正気を保たせていたのだろうか?でも、僕は正気だったのか?今は、まだわからない。

何回も戻り行きつつ、この体験がどのように経験化して行くのかを意識的に自覚していこうと思っている。

2011年 3月26日  穏やかな青空。太陽の光が空気を澄ます。


3/11から2週間過ぎた。もうほとんどいつもの日常に戻ったみたいだ。肩はこったままだが、見続けようと思う。

11日は美術館に居た。丁度、仙台文庫の大泉君達が来ていて、これまでとこれからについて打ち合わせをしていた。そうしたら揺れ始めた。どんどん揺れ続けて終わらなかった。彼は食器棚が倒れるのを支え、僕はドアを開け、物が崩れ落ちるのを、「そうだよな、だから常日頃きちんとしておかなければいけないんだよな。」というようなどうでもいいことを、しかし冷静に考えながら、立っていた。創作室では公開制作が始まった所で、スタッフが全員出ていた。
揺れがおさまってからの動きは大変良かったと思う。全員が訓練どうリに点検に走り中庭に集まった。そうだ、まるで訓練のようだった。怪我をした人とか建物が大きく壊れた所とかはなかったようだった。学芸の人達はかいがいしく動き回っていて、さすがだった。僕は少しボオッとしていたかもしれない。こちらに問題がなければ、普及は学芸の手助けをすることになる。館内の点検が進むと被害がわかって来た。外に面した側の窓は、見える所ではどこも壊れていなかった。でも、展示室内のガラスはだいぶ壊れたようだった。防火扉も一部曲がってしまったと聞いた。僕はずうっと外にいて、主に創作室を中心に動いていたから、そういうことを直接見てはいない。
普及のスタッフは大変良く動いた。これまでの学校での経験が生きていたのだろうと思う。各自が的確な指示を出し自ら動き、僕なんか出る幕はなかった。多分、世間が大変なことにはなっているだろうことは想像できたが、海沿いがどうなっているかなどまでは、その時まったく気が回らなかった。その日はそのまま創作準備室に泊まった。家族のあるスタッフには帰ってもらった。結局僕と庄子君だけが泊まった。夜中、近くのマンションの住人が避難して来たりしたが、一応、ちゃんと眠った。

12日、美術館に居ても僕の物理的な力で動くようなことは何もないことがわかってくる。有川君に話して家に帰ることにした。家に帰ることの出来ない監視の若い女の人が二人、守衛室に着の身着のままでいるのを見た。リュックに、残っていた2リットルの水を二本詰め歩いて子平町の悠美の家に行き、GTのマウンテンバイク(自転車)を借りた。彼らの安全は確かめられたのでそのまま紅子(彼女も大丈夫だった)の家に回り、工具を借りてシートの高さを調整した。それ以上の作業はしないで二輪工房佐藤に回ったら丁度店を開けようとしていて、訳を話すとすぐブレーキとタイヤを見てくれた。両方とも部品を交換。ありがたい。深呼吸をひとつして、太白大橋経由で岩沼に向かった。建物が大きく崩れている所とかはなかったが、コンビニにたくさんの人が並び始めていた。途中、休店のガスステーションで便所を借りつつ名取から4号線に出て、家に帰る。4号バイパス沿いを、航空大学校の制服を着た若者が何人かのグループになって歩いていた。みんななぜか手に蜂蜜レモンの小さいペットボトルを持ち、下半身が泥だらけだった。仙台空港についてもこの時まだ情報を知らない。若い奴ら元気だなあとだけ思った。快晴だったことの方が記憶に強い。

家は無事だった。中は物がひどく落ちていたが、ま、しょうがない。自分の部屋を片付ける所から始めることにした。明美さんは呆然としていたが、生きる本能の人だから、何もしないで部屋に閉じこもっていたようだった。水をあげたらあっという間に1リットル飲み干した。脱水間際だったのかもしれない。水と電気は止まっていた。期待していた風呂の水は揺れで栓がとんでしまって残っていなかった。確か持っていたはずだと思っていた、キャンプ用携帯浄水器は何処を探しても見つからなかった。折り畳み蛇口付き水タンクも僕は捨ててしまっていたのだった。僕の頭の中にいたアウトドア少年は、脳内出血以来すっかり実践家ではなくなってしまっていた。やや呆然としながらどうするかを考える。

と言うふうに、今回の僕のサヴァイヴァルは始まった。