2010年 6月27日  梅雨の曇り空。蒸し暑く無風。

長い間更新が途絶えた、と思っていたら,まだ6月だった。何だかせわしないストレスフルな日中が過ぎ,家に帰るとぐたっとテレビを見て/眺めて、適当な時間に寝てしまう。結構時間的にはちゃんと寝ているのに,毎日何となく寝不足気味という過ごし方だった。とは言え,この金曜日に武蔵野美術大学でのお話(ワークショップとファシリテーションを巡って)が終了して一段落ついた。ちゃんと書くとしつこく長くなるので,とにかく経過したスケジュールのメモを書いておこう。


既に書いたかもしれないが,心筋梗塞ステント挿入手術6ヶ月経過定期検診は,何事もなく万全になってるぜ(直ってるぜではなく)の確認が、一泊で入院終了。ただ退院した次の週から毎日,沢山の団体との活動。主に,すごく小さい人たち。就園前の2歳の人達とか,山形からわざわざ来てくれた自主保育年中組とか。


一方,胃瘻の手術をしようとして末期の腎臓癌が見つかってしまった胞夫さんは,急遽胃瘻設置から胸へのCVポート取り付け手術に変更。CVポートは点滴をするための人工強化血管で,皮膚の下に,シリコンの幕で覆われた円盤を埋め込み,ここに針を刺して点滴を行う。2万回までは大丈夫との事。2万回以上はたぶん必要ないんだな、と思う。その手術の抜糸も終えたので6月初めの週末に総合病院から,かかりつけの町内の医院に転院。これも今は,福祉タクシーという車(人二人付き)が来て,ベッドからベッドまで手早く確実に運んで移してくれる。付き添いは弟に依頼。僕は美術館で電話番。普通ならターミナルケアでの入院は大変難しいのだけれど、小さい頃からかかりつけの町内の医院は、快く受け入れてくれた。胞夫さんの人徳もあるのだろうが本当に心から感謝。こういう所も実家のある場所に戻って新たな生活を始めた利点だろう。

 

又,精神科の薬をスッパリ終了した明美さんと,紹介してもらった甲状腺専門病院に出かけ,検査の結果、彼女は甲状腺がもともと小さく、甲状腺ホルモンが異常に少ないことが判明。しばらく薬を飲んで適切な状況を見つけ出す事になった。とは言え,前ならその薬のコントロールは僕に回ってくる所だったのが,今は彼女自身で毎日の薬のコントロールはできるようになっており,その薬を飲むために毎朝僕と一緒に起きて!軽い食事をとる(そして薬を飲む)ようになっている。ものすごい,信じられないような立ち直り方だ。


個人的な、病院を巡るこういう作業は、僕の休日に集中して行われる。もちろん休みでない日は,ほぼ毎日、おもに学校関係団体の対応が、この時期(連休明けで,子供たちが新たな学校生活に慣れ始める時期)続く。ただその続き方が、最近尋常でなくなってきている。ちょっとやりくりの塩梅をしくじると,すぐバッティングしてしまうし,うまく行ったと思った時でも,実は少しの休みもなく4グループ続けて美術館探検,などということがおきてしまう。スタッフのやりくりに心を砕く。仕事があるのは大変いい事なのだが,美術を巡る教育的な仕事は、雑になるだけで根本的に美術と違ってきてしまう事が多いので、気を抜けないのだ。続けて4グループはしてはいけない頻度にはいっている。そして必ずそういう時に重なって,県の教育研修センター主催の小学校の先生たちに対する鑑賞の研修なんかが2日間連続で入ってくる。


教員に対する研修は,これまでずうっと僕が一手にやってきた。しかし,今いるスタッフは優秀な人たちで,彼等がこれまでやってきた学校での経験をふまえ、その上で新たに驚愕的に加えられた美術館で学び感じた事を、ちゃんと「パワーポイント」にまとめて研修する/させるという事になった。実際彼等の実践はこれまでも書いたように,僕にも新たな視点を気付かせるような気持ちのいい活動で、そうか文化や教育はこういうふうに伝播していくのだなあと思わせられる所が多々あった。彼等からの申し出を受けて今回は,その大部分を彼らに任せる事にした。研修は無事済んだ(と思う)。しかしパワーポイント(P.P.)を使わずにする授業は無くなってしまった。P.P.を使わないという事は自分でまとめなければいけないと言う事だが,僕のお話は様々な意味と実践の関係が有機的に重なってまとめるどころかメモを取る事もできない。でも,そのかわり強くビックリが残る。

たぶんワークショップ,しかもファシリテーションの要素が強く意識されたワークショップは,要約できずメモもとれず,しかしビックリは強く残るというあたりが大切なのだという事が今回解った。そういうふうにして記憶された要素は,しばらく,例えば30年ぐらいたって,必要が起こった時にふと記憶の表面に浮かんでくるのだと思う。この知識は誰によっていつ教えられたんだろう?などという事はもうすっかり忘れてしまているけれど、思い出して豊かな気持ちになれ人生の余裕につながるみたいな,そういう文化の伝達をこそ目指したい。そういう方向では物理的にやや楽になったぶん、こういう方向ではストレスは深まる事になった。いやはや。


今,美術館では「ピカソと(ちょっと嘘)20世紀美術の巨匠展(こっちが正しい)」と言うドイツケルン/ルードヴィヒ美術館所蔵名品展を7月11日まで開催中なのだが,実はこれはミヤギテレビ開局40周年記念事業!なのである。ポスターの上の端っこの方に小さく薄くチョコッと書いてあるのだが,ミヤギテレビとしては本当はここの所だけ書いてあるでも良いくらいの力の入れようなのだ。なのでテレビの取材が頻繁に入る。第2週にある公開(うちの活動の基本は個人なので個別に相談すれば本当はいつでもできるのだが)「美術館探検」も,事前に取材されて,ミヤギテレビ「Oh!ばんです」かなにかに流れたらしい。

取材のときの参加団体は,山形から来ていた保育所のすごく元気のいい年中組の人たち(という事はごく典型的な普通の4歳の人間というような意味だが)で,参加者が良いので大変良い活動ができ,という事はまるで絵に描いたような(と言うよりテレビ映りの良い)理想的な幼児向け鑑賞活動が記録された。そしてそういう映像が、取材中感動しっぱなしだった女性リポーターのお話付きで放送された。その後の第2週の土曜日。午前11時から始まる活動に,「いったいみんなどうしたの?」と言う程の人が来た/押し掛けた。普段は最高でも5名ぐらいなのに。ビックリ。開始場所の創作室前廊下いっぱいの人。しかし冷静に見ると、そのうち子供は10人もいない。最近では子供一人に両親と両祖父母まで来るので,一人の子供に大人5~6人付きという事になって,全体では4~50人の団体になってしまうのだった。ビックリ。でもそういうふうに来る人たちの子供だから,彼等は大変良い子供達で、活動自体は和気あいあい楽しく過ぎた。いやはや。


そういう毎日を過ごしつつ、6月の第3土曜日にはその特別展に寄せて「大人の図工 ピカソを考えるー平面から」という活動。広報に出た正しい名称は忘れてしまったが,だいたいこういう感じの標題。参加者は,たぶんこういう内容だろうと期待する所があったようだが、そういう考えは各自が考えている世界を肯定するためにだけ働くので,ほとんどの人ははずれ。内容は「塗りつぶし」とそれに続く僕のポートレートの「写し絵」。「見ている」「見えている」の確認と実験。ピカソが気付いた事と今の自分の立つ位置の確認をする活動。7月は同じ題で立体。

そして25日金曜日午後遅くに東京武蔵野美術大学で「ワークショップとファシリテーション」の講義。武蔵美は東京の西、小平市という所にあって、美術館が始まった頃は一日がかりで行って一泊して帰ってくる所だったのに、今は午前中美術館で事務仕事をして昼前の新幹線に乗り、大宮乗り換え埼京線武蔵野線を乗り継いで新小平に行く。2時間講義して大宮に戻り夕飯を食べて日帰り。パワーポイントを使わない90分ぎっちりしゃべりっぱなし。始まってすぐ寝てしまった人も何人かいたけれど、途中で起きてその後はずうっとニコニコ聞き耳を立てる授業。受ける側に主体を置く教育の実践ってこういうことだったんだよという実践。脳味噌がものすごく疲れた感じはあるのだが、帰りの電車では寝ない/寝られないで、多分疲れが出てくるのは4日後だな。これが終了したので,今日,一応のまとめを書く事にした。いやはや。

2010年 6月 8日  快い曇。雲の向こうに青いもの、ああ、あれは宇宙か。

胞夫さんに胃瘻を着ける作戦は実行に移された。これは実に絵に描いたような外科の手術なので、様々な検査が伴う。その中の一つにお腹の詳しいレントゲン撮影やCT検査があった。そのいく枚かの写真に何か影が見えたのだ。胃瘻手術をお願いした南東北病院は、仙南にいくつかある総合病院のうちの主力のひとつで、こういう場合、すべての科目がよってたかって徹底した検査が行われる。

その結果、その影は、すでにほぼ全身に転移した腎臓癌だったことが判明した。

今回胃瘻がうまく出来ないようだということまでは聞いていたので、今後どのように介護を持って行くかの相談もあるから、施設のケアマネージャー(施設長)と看護士さんと弟と僕が、4人そろって話を聞いていた。そこにこの話が突然出て来た。みんな胃瘻をこの後どうするかという話だと思っていたので、一瞬呆然とし次いでシンとなった。ええと、それはすなわちどういうことでしょう。

それは、もうほとんど手遅れだということがわかったということだった。うまく保って6ヶ月。でも検査写真を見ると様々な部分が肥大していて、いつどんなきっかけで破裂するかわからない。ここまで来ると栄養を与えては駄目で、水だけ。経過を静かに見守るしかないということだった。


話は、まったく降り出し?に戻った。そもそも腎臓癌がひどくなったので、食欲がなくなったリ、傾眠がひどくなったり、点滴のための血管が見つけにくくなったりしたのだろう。齋の家系には僕の知っている範囲には癌に罹った人はいなかったので、こっちの方向はちょっと気にしていなかった。青天の霹靂。

彼はもう充分に歳を取っていたので進行は静かにゆっくり進んだのだろう。腎臓癌はほとんど痛みを伴わないのだそうで、それも発見が遅れた理由のひとつだ。何はともあれあとのまつり。点滴を楽にできるようにするため、今回の入院中にCVポートと言う点滴用の人工受け口の手術をしてもらった。パイプは繋がらないが、どんどんサイボーグ化していく。


さしあたって今後、ターミナルケアを巡って考えと覚悟を進めることになる。一応今日の報告はここまで。

2010年 6月 6日  快晴。空気軽くさわやか。

しばらく更新が途絶えたが、僕は一応元気だ。ただ書けなかったのはいやはやなんだか凄まじい数週間だったからだ。今思っている/感じている「これ」はなんなのかについては、またきちんと考えなければいけないのだろうが、さしあたって何があったかだけは今日書いておこう。とは言え、どこから始めればいいだろう。


親子展(5/11~16)は、うまく終了した。胞夫さんは5月31日入院検査、6月1日胃瘻設置手術。僕は、5月27日入院。昨年心臓環状大動脈に3個めのステントを入れた手術から退院する時、半年後の検査入院のことは言い渡されていてその時の話では、ま、一週間もあれば大丈夫だよと言われたと、固く信じていた。だから、今回行くにあたっては、1週間分の下着と身の回りの道具と、それから本を、全部大きなバッグに詰め込んで、勇んで出かけた。

当日受付にいったら結構沢山の僕と同じ状況の(みんな僕とほぼ同じ年代の)人達がいた。そしてこんな大きいバッグを担いでいるのは僕だけだった。みんなナイロンのちょっとした手提げ袋程度。「みんな慣れてるんだなあ」と僕は感心してみていた。検査とはいえ、カテーテルを心臓まで入れて造影検査をするわけだから、最初の日は血液検査とか心電図とか何か検査のための検査をするのだろうと、心から、僕は思っていた。呼ばれて、みんな列んで連れて行かれたのは、カテーテル検査室(僕が最初に検査されて、そのままステントを入れられた手術室にもなる所)の前の廊下だった。大っきい荷物を持ったまま、ハイ裸になって検査着に着替えなさい。ええっ、このまま始まっちゃうわけえ。と、いう間もあらばこそ、あっという間に手術台?に寝かされて、部分麻酔を打たれ、あれよあれよという間に例のズズッという感じとともにカテーテルが入って来て身体の周りをスターウオーズの医療機器が駆け巡り、ハイ一丁出来上がり、次の人と交代、という感じに、検査は終了。息つく間もなく病棟に移動。未だ前の人が退院していないので昼過ぎまで食堂で待機。昼からは病院の食事が出て、病室に荷物を解き、お見舞いに来てくれたK子さんにちょうど27日発行の雑誌を買って来てもらって、万全の入院体勢に突入。これで1週間の休息に入れる(はずだった)。

夕食も終わって、寝ながらテレビを見ていたら「齋さん、ナースステーションに来てください」の呼び出し。ドキッ。何事がめっかったかと、急いで出頭。いたのは若いお医者さんだった。検査結果のレントゲン写真がライトボックスに張り出してある。なんかヤバそうだなあ。

話は、「結果は、凄く良好で、全然問題ないから明日退院」ということだった。ものすごい拍子抜け。混んでるから午前中で出てね、昼ご飯は止めておくよ。という追い打ち付きだった。1週間分の準備をして来ているんですけどとは、まったく言えなかった。いやはや。

次の日午前中、持って行ったものそのまま何も出さずに、行く時と同じ服着て退院。28日金曜日はもともと休日だったし、週末は僕が入院するとみんな思っていて休みをやりくりしてくれていたりしたので、そのまま休みにすることにした。


胞夫さんの方の手術はどうもうまくいかないようだという電話が入ったのはいつだったろうか。週末に、美術館のスタッフから「2日にテレビの収録があるのだが、どのように対応すればいいか」について相談の電話が入り、様々な状況が重なって、2日から通常どおり出勤することにする、なんて事に重なって、胞夫さんの話が来たのでなんだかもう混乱してしまっている。美術館からの電話の相談も、僕から言うと、これはこれで、なんでそうなるのかなあ、これまで僕の話聞いていなかったの?という内容で、これは忘れなければ、また別にきちんと書かなければいけない。こっちは僕の仕事というか、生き方の問題で大切なのだが、そこに父親胞夫さんがまったく別に絡んでくる。

明日は朝から、明美さんの病院に行かなければいけないし、その後、僕の病院に回って、別の問題を解決しなければいけない。もう遅いので今日はここまでで寝よう。でも、問題はこれからが佳境に入る。