2011年 9月19日  厚い曇。霧雨。今年初めて寒い日。


先週まで、仙台写真月間という連続展覧会をSARPを中心にやっていた。仙台に関係のある何人かの若い写真家が、ほぼ1ヶ月間連続で1週間毎の個展を開く。毎週、人が変わるごとに僕は美術館からの帰り、SARPに寄って彼らの作品を見た。

一番最初の3人の中にM木D作がいた。彼は僕の親戚の中につい最近入ってきた若い男子なので、珍しがっていれ込まないように注意しながら見た。最初なんだか普通のスナップ写真の展覧会だった。でも何枚かへんな!見え方のする作品があった。一枚へんだなと思ってしまうと、その他の普通の写真もなんだか怪しくへんに見えてきた。ううむ、うまい言い方が出来ないが、彼の作品はなんだかやたら異常に生き生きしていたのだ。

見終わって、君は荒木経惟とか好きなの?と、聞いた。彼は(暗く見えるほど)真面目な顔で、高校生!の時に「アラーキー」の洗礼を深く受たのだ、と答えた。高校生の時に見たアラーキーから、彼は写真を表現の手段に使う人になろうと決めたのだという。いやはやそうだったのか。僕は何か不思議な感慨を覚えた。
高校生の頃、僕には、今僕のおかみさんになっているガールフレンドがいて、なんかヘンテコリン(と自分では思っていた)な、(でも皆とは違うんだという感覚の)人生を(無自覚のまま、しかしこれこそ格好いい?ことなんだと信じて)踏み出し始めていた。そのような時間の流れの中で、それまでの想いとは関係なく、僕は突然美術の世界へと針路を修正した。アラーキーという衝撃的な「物の見方」を知った時は、もうお父さんになっていて、かつ美術館の人になってしまっていた。もう充分大人になっていても、又はなっていたので、アラーキーは単なる現象ではなく、基本的な物の見方に衝撃的影響を与える写真だったのだと、今は思う。
そうかこの人(達)は高校生の時にこの物の見方を知った(感じた)のか。あの、物がすべて可能性に満ちて見える、あの時期に。

ポストモダンは、こういう風にすでにもう始まっていた/るのだ。

だから、僕はよりいっそう注意深く、その他の人達の作品を見た。彼の作品を観る前だったら、それらの作品は毎回見るたび、僕に深い自己点検の時間を与え、それまでの世界観の肯定と、これからの世界観の拡大をもたらしてきた物だった。
でも、こちらが、それ(自分が意識的に読み取っていること)に気付いてしまうと、その静かで、こちら側の想いが優先できる作品群は、突然つまらなく見えてきた。見る側が意識的に読み取ることの出来る範囲が多い作品は、こちらがその作者の(たとえば)年齢を超えてしまうと、読み込みにややムリヤリ感が出てきてしまう。だから彼以外の人達の作品は(もちろん一人一人違うのだが)すまぬ、つまらなかった。画面に(両方の極端さを様々含んだ)面白味が見つけ出せなかった。あれらは、極端に(21世紀になってしまったので)20世紀的だったのではないか。モダン(近代)の最終章の最後の文章としての20世紀の後半という意味で。
僕は、いろんな場面で何回も言うが、20世紀は失敗だったと決めてしまったほうが、話はわかりやすいのではないかと思っている。その上で、で、私たちはこの後どうするのかを考えたい。そうしたら僕たちには何が見えてくるのか。1ヶ月かけた連続写真展を見て、僕は、大丈夫、ポストモダンは始まっている、の意識を感じた。20世紀の論評なんて、もう何の足しにもならないのではないか。いやはや、本当にいい時期に僕は退職するのだなあ。

2011年 9月15日  蒸し暑い曇。でも風は乾いて涼しい。


いやはやなんともの毎日がずーっと続いて、ふと頭を上げるともうお彼岸だぜ。

ほぼ毎日、このブログの量では書ききれない程のことを、あれこれウジウジ考え、まとめ、決断し、それをあんまりそのことを考えたくない人に説明し、話を聞き、相談し、修正し、妥協し、文章にして、なおす、というようなことをしていた。普通の会社なら、例えば「もうける!」というような目標が見えやすいので、話の方向が見つけ易いような気がするがけれど、30年も続いて来た公立の美術館を巡るお話は、そう簡単には動かない。使われる言葉の概念が曖昧な上に、社会状況によって大きく変化しているのが最も大きな問題だし、まず、そのこと(概念が変化しているということ)自体を議論しなければいけなかったりする。

ここまで書いて来て、ふと、前のブログを読んだら、ほぼ同じようなことを8月20日にも書いていて、深くうんざりした。よし楽しかったことだけ書こう。あんまりないけど、少しはある。

8月末に博物館実習が1週間あって慌ただしく終わり、9月にはいってすぐの2日間、全国美術館会議の教育普及研究部会が宮城県美術館であった。ごくかいつまんで開き直っていえば、僕が今年度で退職なので、いなくなる前にみんなで見に行こうという会だった(ようだ)。僕の活動は一緒に同じ時間を過ごさないと上手く伝わらないようなので、来て見て話すほかない。古くから会員の人は知っているが、新しく会員になった人は話だけしか聞いていないので、(齋が生きているうち)ぜひ見ておこうということになった、と聞いた。実際の探検をして質疑応答。間の夜は、東京なんかだと居酒屋で懇親会ということになるのだが、仙台は、僕と大嶋君(二人ともほぼ下戸)が幹事なので、「カフェモーツアルト-アトリエ」貸し切りということになって、ビールやワインも出たけれど、僕には大変有意義な会だった。でも一層、ワークショップを伝える/広めるのは難しいなとも思う毎日だった。

前にも書いたが、9月10、11日は仙台市定禅寺通ストリートジャズフェスティバルだった。そのうち10日土曜、美術館の中庭でNHKFMの公開生放送サバトセーラ東北収録。様々有名な演奏家がきて、主催者発表1500人!集まった。でも、そのことより、僕が驚いたのは、実況中継をするためにラインを開きたいとNHKがいってきて、その説明を聞いたら、美術館には美術館の管理の人さえ知らなかった、NTTの電話線や光ファイバーのラインが、すでに施設されていて、それを使ってすぐにそういうことが出来るんですよということがわかったことだった。いやはや、社会はもうそういうことに誰も知らない(俺だけか)うちになっていたのだった。

そういう騒動の合間をぬって、岩沼グリーンピアの山道をぐるっと4時間ほど歩き回り、その帰りホテルに併設してある温泉に入ったのは、しばらくぶりのヒットだったかな。