12月22日 空の高い、曇り。冬至。

 昨日の続きを書く。ここまで来たら、恥も外聞も捨てて、私の今の状態を公開せねばなるまい。しよう。しかし、書いてみて思うのだが、こういう事を、みんな、本当に、シビシビやって、解決してるわけ?ほんとに?電脳相手にこういう事を丁寧に続けられるって、それって仕事じゃなく趣味の領域だな。電脳生活ってそういうもんなの?さて、次の日に行く前に、その日の夜の話をしなければなるまい。話はまだまだ本論にはいれない。

 私は、家にも、ネットにつながった電脳を持っている。普段、電脳通信には使っていなくて、主にブログ関係をこちらですることが多い。前に話したとおり、O.S.Xで動いているそっちの電脳で、私は、今日昼間にiBookでやってみたことをやってみることにした。おお、何とすばらしい思いつきだろう、再び。こっちは、ネットに確実につながって作業は早い。手続きは順調に進んで(当たり前だけど)D.N.のホームページに辿り着き、メールサービスに行きますか?までは問題なく表示された。はいはい、行きますよ。これで、いらないメールをここから削除すれば、全ての問題は解決だあ(何回これを言ったことだろう。そして何回意気消沈したことか)。でね、潜り込みのためのあいことばを送信するページへと進出した。ガーン!そこに現れたページは、確かに、アウトルックで辿り着いた見慣れたページと形は同じものだったのだが、書かれている文字が、全てエイリアン文字!だったのだ。そこではたと気付くのだが(遅い)、O.S.Xで使われているネット用のソフトは、私のブログ関係テクニシャンMr.Ameeご推奨の「サファリ」になっていたのだった。電脳活動ほぼ全てにわたって、こちらの方があちらの方より使いかっては速くて、良い。ただ、これにはだめだったのな。ああ、それで、あの初めのお兄さんは、「それなら大丈夫」って言ったのか(気付くの遅い)、なんてことだ。やや逆上気味に、私は、様々なところを開いていって、サファリの前に入っていたあのソフトを探した。その結果、おお!何と、(戻れなくなる前に)ハードディスクのアプリケーションファイルのはじっこに隠されていた、アウトルックエクスプレスのソフトを発見した。やった!さっそくそれをクリックする。「クラッシック環境に変えます」などという、ちょこざいな表示がでて、(ええい、早くクラッシックにするんだ。俺はクラッシックなんだ文句あっか!もう思考が混乱して荒い鼻息。)何かが機械の中でジジッとなり、元の画面に戻り、そして、そのまま何も変わらない。もう一度やっても、かわらない。そこに辿り着くために、何か簡単な方法があるのだろうということは推察できる。でも私には、もうこれ以上電脳と戦う(戦っていたのか?)根気がないのだった。結局どうしても、アウトルックを出すことはできないのだった。これ以上いじると、もともとの状態まで戻せなくなるのではないかというあたりまでいじった後、僕は、荒くなった鼻息で深い呼吸をし、再び、システム終了の手続きをして電脳の蓋を静かに閉じた。いったい、僕は、何回静かに蓋を閉じれば、あの豊かな?電脳生活にたどり着けるのだろうか。
 次の日、再びオレンジiBookの前に座った私は、インターネットエクスプローラーを開いた状態まで電脳を立ち上げた上で、決心も新たにD.N.T.S.C.に再び三度電話をかけた。今度は女の人が(すぐに)出て、状況を話したら、「ああ、昨日もお電話いただいた方ですね」とか言われ、「昨日の係に回しますから待っててください」といわれてしまう。いやはや、俺って、この人達の間では「ああ、あの人」になってしまったのだなあ。しばらくぶり?で話す彼は、冷静だった。「インターネットだと詰まるようだから、メールで入りましょう」。えっ、メールで入るって何が、どこへ?
 まずメールソフトを開いてメール送受信の画面を出す。インターネットには繋いでおくが、送受信はいじらない。左端のメニューが並んでいるところの下の方、アドレス帳の次にあるアイコン(僕の場合、そこは、僕のログインネームが書いてあった)をクリックする。それを送信すると、おお何と、僕の私書箱に入っている手紙のリストが全部表示されるではないか。
 本当のことを言えば、ここに至るのが簡単にいったわけでは、全くない。違うメニューや、ツールバーでの操作が若干必要だった。どこかの状況設定で何かを表示しないようにして、そこのツールバーの何かのチェックを外す操作を、幾つかの初期設定で繰り返す。操作をするたびに、リターンを押して実行し、画面が動かなかったり変わらなければ、次のメニューのクリックを外すというような。問題は、携帯電話を耳に、興奮して緊張しながらやっていた私が、今となっては、それらの手順をほとんど忘れてしまったと言うことだ。ま、何はともあれ、様々な難問難関?をくぐり抜けて、メールの画面に僕の私書箱に来ている電脳通信の全てのリストが表示された。既に、受信できなくなってからも日にちは重ねられているわけだから、その数は500を少し超えていた。いやはや再び。「で、削除をクリックしたら、ツールバーの、、」というところで携帯が、突然ぷつりと消えた。見ると、ここまで既に36分だか話し続けていたのだった。なぜか、僕の古い携帯は、このように、突然ぷつりと機嫌を損ねる癖が最近出てきた、特に大切な会話が始まるあたりで、いつも。ま、しかし、ここまで来たのだから、後はしばらく自分でやってみよう。なんて簡単にいくならあのお兄さんたちはいらないのだ、ということがすぐわかる。消えないんだなあ、これが、びくともしない。削除のチェックを入れて、その後が動かない。しょうがないので、再びを越えて三度四度、お兄さん達に電話する。解決法は、ツールバーの「表示」にあった。「表示」を「更新」するのだと。これって、みんなすぐわかることなの?表示が更新されると、表示から削除されたメールが消えた新しいリストが表示される。なるほど。というより「何やってんだよ、おまえ(この場合電脳ね)は」という感じの方が、僕には強い。
 さて、やっとの事で、話は終わりに近づいた。500通を越えていたメールは、いらないものを消したら6通になった。そうだよなあ、3日でこのぐらいが、僕としては順当なところだ。ここまで来ればメールソフトは、何事もなかったように動いている。まったく。何かある人は、どうぞ僕の個人アドレスにメールを下さい。アドレスわからない人は、すまぬ、まず手紙を下さい。訪ねてきてくれても良いし。僕は、仙台にある宮城県美術館の創作室に「美術と美術館 何でも相談係」としています。
 
 私の意識できる世界では、「効率がいい」とか、「速い」とか、「簡単に」とか、「楽だ」とか、「みんなと同じに」とかの概念は、このような状況で終始する、ということが今回わかった。これが、「老人力がついた」と言うことなのならば、よおし、なかなか嬉しいことでないの。ではね。長い与太話につき合ってくれてありがとう。もうここまでくれば、こういう話は、この後書かずにすむのではないだろうか。

12月21日 ずうっと曇り。薄ら寒く、しかし今年は暖冬なのだなという日。

 ここしばらく、私からの電脳通信は途絶えていた。メール機能の送信は動くのに、受信がびくともしなくなったのは、十日も前のことだったろうか。そして、今日から再び、電脳通信は動き出した。手紙出したのに、返事来ないなという人がいたら、すまぬ、そういうわけだったのだ。どういうわけだったのかを以下に書こう。

 まず、二週間ほど前から、私のブログに、意見を書き込む人が急に増えた。特定の日時の文章に返事を書いてくる。このトラックバックというシステムでは、書き込まれた意見は、私の個人用のメールボックスにまず回送される。僕は、ほぼ毎日電脳をおこした朝一番に個人用電脳通信受信箱をのぞくことにしている。しかし、その日は、三日ほど覗いていなかった次の日だった。画面は出てきて、受信箱も出てきたのだが、しかし、そこまでだった。中には何も入っていない。三日も開けていなかったのだから様々なメールで一杯になっているはずの受信リストは、しばらく待ってみても真っ白のままだった。なんかいやあな感じがしますよね、こういう時って。
 何回かピーラムをしながら再起動をしても、そこは白いまま。さてみんな、どうするもんなのこういうときは。私は、静かにiBookの蓋を閉め、一日待ってみたのだった。もちろん、翌日になってもまったくなんにも変わりませんね、こういうことして(しなくて)も。
 順当な手続きとして、僕はボンダイブルーのiMacを買って以来のドリームネット(D.N.)使用者なので、次にそこのテクニカルサポートセンター(T.S.C.)に電話をすることにした。しかし、買って以来と言うことは、加入したのは十年ほど前なわけで、そのころの契約書(連絡を取るための様々な「暗号」が書いてあるヤツね)を、まず探し出して引っ張り出さねばいけないのだった。結構時間を食った。で、次に暗号が色々各種書いてある契約書を手元に置いてD.N.T.S.C.に電話を入れ、あいことば(パスワードと言ったりもする)を言って私が私だということを信用してもらい(思ったより時間は食わなかった)状況を話すと、それでは、まず、通信を預かっている郵便局側(サーバーとかいうの?)の電脳に手紙が来ている状況を見てみましょう、たぶん、私書箱がぎっちり一杯になってつまってんで動かないんじゃないかな、という答だった。そして(親切にも)、Webメールという方法で、僕の私書箱を、外から覗く方法を教えてくれた。ただ、教えてくれた時に確認されたのは、僕の電脳のOSが9.2で、電脳通信はアウトルックエクスプレスで行っていること。そしてそれらが「モデム」で外とつながっていると言うことだった。「ああ、それなら大丈夫でしょう」D,N,T,S,C,のお兄さんは元気よく確信的にそう言ってくれた。いったい何が、なぜ、大丈夫なのか、その時には、気にも留めなかったのが、私の電脳限界だったのだということは、後々わかってくる。
 彼の言ったとおりの順番で進んで、僕はD.N.のWebメールにたどり着いた。幾つかのあいことばを入れて、僕の私書箱を開いてみる。すると、開くんだなあこれが。誇らしく、ちょっと感動しながら読む。そこには、470通ほどのメールが届いていますよということがわかった。その内の10通が同じページのリストにはでている。お兄さんに教えられたとおり、まず、そのリストの表示数を10通から100通に増やしなさいという信号を送った。彼がいうには、その方が仕事が速いということだった。iBookは一瞬間をおいて(ここで、何かに気付くべきだったのだ、後の祭り)その仕事を始め、何とか(という風に、私には感じられた)もの凄い(と私には感じられた)長さの(そして、あとこのほぼ四倍の長さが続く)リストを表示し直した。メールは、最新着のが一番先頭に来るように表示されていた。各メールの頭にチェックボックスが付いていて、僕は、そこに、次々にチェックを入れていった。来ているほぼ全てが泡通信だったのだ。チェックしながらリストをしばらく進んだ頃、僕はふと不安になった。iPodに音楽をコピーしたとき、まず一気にライブラリの音源を全部入れて、不要な曲をそこから削除ようとしたとき、いっぺんにたくさんの削除をすることになって電脳のほうがギブアップしてしまったことを思い出したのだ。ううむ、私も、経験を積んできたものだ。そこで、まず削除のチェックはそのへんまでにして置いて、ここまでチェックしたメールを削除する、というのを試験的にやってみようと思ったのだ。ほんとに消えるんだろうか。で、こういうとき、みんなは、どうするのだろう?僕は、ページの先頭に戻るんだよね。そこに削除するための何かがあると思うんだよなあ。でも、ないのな、戻ってみても。ページの左隅から右隅まで(ここでやめてしまうのが、僕の電脳生活の限界なのだ、再び)くまなく探してもない。いろいろクリックしてもない。あんまりさがしすぎると、元に戻れなくなることが、僕の場合あるので、僕は軽く電脳の蓋を叩き、システム終了をして、再び静かに蓋を閉じたのだった。再び、多いねえ。
 次の日、決心し、心構えも充分に再びD.N.T.S.C.に電話を入れる。ここへのつながりは結構素速い。違うお兄さんがでた。状況を話し相談にのってもらう。電脳を立ち上げネットワークに参入し、Webメールに辿り着き僕の私書箱を開く。ここまでを、携帯電話を耳に当てながら、彼の指示と一緒に進めていく。受信リストは、昨日のままだから百通だ。いらないメールにチェックを入れてください。はい入れました。では、リストの「最後」を見てください。ええっ!最後なんですかあ?「はい、最後の所に、チェックしたメールを削除、という箱がでます。そこの所をクリックすると次に削除の確認画面がでますから、それを実行すれば削除できます。そうかあ、最後だったのかあ。なんだか疲れがどっとでて、すごく時間食ったなあ、という気分。
 これで、全ての問題は解決だ!!(再び)意気揚々と百個の泡通信にチェックを入れていく。入れ終わり、リストの最後にくっついていた「チェックされたメールを削除」をクリック。ヒヤッホウ!ガードされていない情報を今、Webの中に流しましたよ、いいですね。という警告と供に、時計が回り始める。時計はずうっと回り続ける。回り続ける。回り続ける。ね、だから、100個いっぺんにてのは、無理でしょう?と何となく思い始めるくらい時間がたった頃、画面上に、アクセスに失敗しました、何番だかのエラーが発生しました、の文字が出現。まったくなあ。わかったわかった、ここまでは上手くいったのだから、もう一回始めからやってみるよ。では、最初の画面に戻る。おお戻った。待てよ、最新着の受信メールから表示されるので、消すのが大変なんじゃないか。並べ方を変えて、古い方から表示してもらって、いっぺんに100じゃなく、古い方から10づつ消していく方が、僕の電脳にはいいんじゃないか、おお、何とすばらしい考えだろう!最初の画面には、並べ替えの選択ができる表示もでてることだし。僕は、100通表示を10通表示に戻し、しかも、古い順に並べるようにという指示をサーバーの電脳に発信した。再び、指示をWebの闇へと解き放すけどいいね、という問いかけがでて作業は開始され、時計は回り始めた、再び。回り始めた、回り始めた。このあたりで僕は、何かもう一歩踏みこんだ所に気付くべきだったのだ。しかし、時計がまわっているときに、何をどうすればどうなるのかについて、僕は、ほんとに何も知らないのだ。待つしかない。最終的に、この指示は、どこかで止まってしまって、アクセスできませんでしたの表示、再び。なんか時間食うなあ。僕は、深いため息とともに作業終了の手続きをし、静かに電脳の蓋を閉じた。いったい、この話に終わりは来るのだろうか。僕の精神衛生上、今日の報告はこの辺までにしたい。

12月9日 曇り。冷たくみぞれが降りはじめ、今は小雨。

 ブログに文章をアップするというだけで、私が、いかに七転八倒できるか(したか)についてこの前書いたが、読み返して、OSX(この場合オーエス・テンね)を巡る騒動について書き忘れていたことに気付いた。

 ブログの更新の話だけだったらたいしたことではないのだが、心ならずもiPodなどを手にしてしまったために、それまで「これで人生終わってもいい、これいじょうのOSなんてないんじゃないか。なんかXになるとすっかり使い方変わるみたいだし」と、頑なに変えていなかった、手持ちの電脳のOSをXに変えなければいけなくなった。普段手元に置いて主にワードプロセッサで使っているシェルにはOS9,2が入っている。これで文章を書いてシンプルテキストに写し、そのファイルをiPodに載せて、WebにつながっているパワーブックG4に持っていく。これで全ての問題は解決だ(何か新しいことをやるたびにそう思うのだが)と、iPodをG4に繋いだとたん「このなんか分かんない機械(iPodのことね)は、OSXでなければ私は受け付けられないのよ」と、彼女は言うのだな。シェルでは動いたくせに、新しいのになると、何だかだめなのだ。そこで、それまで起動ディスクを9にしていたG4のオペレーショソフト(OS)をテン(X)に換えることにした、と言うより変えた。しかしそれでも、iPodは動かない。こういうのほんとに動揺するよねえ。色々電話したり開いたりのぞいたりしてわかったことは、既にOSXはグレードアップしていて、最初に入れたバージョンではこのiPodには役不足なのだということがわかってくる。そんなこと最初から言ってたでしょう、みたいなことをPCが言ってくる。うるせい、この野郎。この、なんだか、機械の方が正しげに、人間のバージョンの古さを見下してくるような(ま、そう感じる私がおかしいのは重々わかった上でしかし)態度が、私はいやだ。なんて怒ったりしていても、何もらちがあかないので、アップバージョンのダウンロード(こうなると、これにかかる時間が、なぜか悠長に長く感じて、途中で強制終了してしまって、もっと大変な手間暇になったりしながら)というのをし、何とか先に進もうとするのだが、いざ動き始めれば始めたで、OSXの操作は、僕にとってその前までアップルのOSで積み重ねてきた経験とはまったく関係ないと言ってよいほどの変わり様で、とまどうことのみ多かりきなのだった。たぶん、PCとの付き合いを、もっと密に持っていて、ここがこうなってるともうちょっと使いいいのに、とか感じられるほどに使っていた人たちには、ものすごく使いやすくなっているのだろうなということは感じられるが、ほとんどワープロとメールを読むことだけに特化して?使っていた人には、最初からやり直すと思った方が早かった。何は、ともあれ、このように、ほうほうの体で、あの長い「美術の授業」は、ブログ上に出現したのだった。

12月4日急に来た冬の気持ちいい晴れの日。でも寒い。

 11月の末に公開した「美術の授業」は長い。これは、ある機会があって、主に美術や図工の先生用に書いたもので、公開はするが、全員読んでねというようなものではない。学校での美術の授業に、なんか違和感を持っていた人や、美術が嫌いだと思っている人は読んでもいいけれど、学校での美術の授業は大好きで、成績も良かったという人は、読まない方がいい。
 かいつまんでいえば、よく見るということは、実は自分の頭の中に見えるものを点検確認再構築することで、美術は、どこかに飾ってあるものではなく、実は各自の中に個別に既にある、というような、美術館の学芸員の間ではごく基本的な美術を、できるだけ直接、学校で教育するならば、どのようなカリキュラムが考えられるかについて今のところの私の考えを述べてみたものだ。だから、造形を中心としたこれまでの美術教育で良い成績をとっていた人には、たぶんつらいものがあるのではないかと思う。一方、そうでなかった人たちには、なあんだ、俺の方法で良かったんじゃんというような、そうか、そこんとこおさえておけばいいのか、ホッ、というような、感慨を持ってもらい、やっぱり、学校で美術(図工)やってて良かったと、思ってもらえればいいなあ、というための文なのである。

 書き終えて直ぐにアップしようとしたら、様々な問題が起こった。前の日記に何回か、「文章は既に何本かあるのだが、ちょっとした技術的な問題で遅れている」旨書いておいたが、その「ちょっとした技術的問題」が、いかほどのことであったのかをここに報告したい。私のブログは、この程度の状況で動いているのだ。
 まず、もともとの文章を、私は、ある場所で「オレンジ色のシェルiBook(私は彼女を愛している)」の「アップルワークス・ワープロ」で書いた。それをブログにアップするために、「ウエブにつながっている」別の場所にある「パワーマックG4 」に、メールの添付書類で送った。そのG4には「OS9.2」が入っていたのだが、何と、「アップルワークス」は「こんなもの今時使っている人はいないので、メモリーがもったいない」という理由で削除されてしまっており(PCの立ち上げをした人が私ではないのだ)、もちろん代わりに「ワード」が入れてあった。古いマックを使っている人には、わかる人も多いと思うが、マックで「マイクロソフト」の「ワード」を激しく使うと、なぜか「ワード」が壊れてしまうことが多い。僕の「シェルiBook」も何回か直したのだが、ついに壊れてしまい、「ワード」とマックのインターフェース(というのか?要するに画面の上部にでるツールバー)が、まったく働かないままになってしまった。そのため、もう直すのめんどくさいので、それまで使ってなかった「アップルワークス」なんかを使っていたのだ。
さてこれで、「アップルワークス」という封筒に入った書類(文章)は、G4 のデスクトップに届けられたが、これが開かない。動揺して、あっちゃこっちゃいじくり回して、何だか動かさなくてもいいところまでこじ開けたりなんかして、机上がごちゃごちゃになってきたあたりで、なんだ「アップルワークス」削除してあんじゃん、ということがわかる。人生とはそういうものなんである。で、わかったような口調で述べた、以上の事情が判明したのだ。ため息。
 では、「シェルiBook」の「アップルワークス」を新たに「パワーマックG4」に移せばいいのか。本当のことをいうと、実はこそっとやってみたのだけれど、アプリケーションを移すのは結構大変で、僕のやり方では、なかなかコンピュータがいうことをきいてくれないようなのだ。うんうん唸った末、「シンプルテキストに移して送ればいいんではないか」ということに思い至る。で、あの「美術の授業」全文を「すべてを選択・コピー」を選択して、「シンプルテキスト」のフレームに「ペースト」し、メールに添付して「G4」に送った。もう、これで万全だぜ、ルンルン、と思いましたね、その時は。しかしもちろん、話は、まだまだ続くのだ。
 今となっては、どっちのPCだったか忘れてしまったけれど、意気揚々と(本当にそうだったのだ)、メールの添付書類を開こうとしたら、PCが頑として「この文章は、私の管轄内では、このフレームには大きすぎて開けませんから、絶対開いてやんないもんね」というのだな。これはどういうことなんだ?君は、僕のコンピューターでしょう?僕を助けてくれるためのコンピューターでしょう?
 何とか、話を聞いてもらおうと、再び、様々唸ってみたが、私の知っている情報では、ほとんどお手上げ状態に陥っていく。あっちこっちに電話をし、そっちこっちの取扱説明書なんか読んでみても、意味がよく頭にイメージできず(今回、これが、結構多かった。僕の頭は、明らかに、アナログで、データをやりとりし、組み立てているのだ、文句あっか!、もう完全に混乱してきていた)、もうほとんど意地悪としか思えないごとくに動かない。わかった、わかった、あなたに言われるまでもなく、僕はもう充分お爺さんで、様々な形でまだら状認知症が始まっているんだなあ、などという切ない思いが頭をよぎっていく。
 万策つきたと思った僕は、ここで新たな攻勢に出ることにした。このあたりが、僕が僕である証明なのだ!なんて意気込んでもしょうがないが、いっそのこと「メモリースティック」で、文章を直接移してしまうことにしたらどうだろう。「でも、ここまで来て「メモリースティック」という卑怯?な手段を使うのなら、いっそiPodにしたらどうですか。あれって、メモリーにも使えんですよ」なんてことを耳元でささやくMr.Amee(僕のブログ関係テクニシャン。この人がいるので、このブログが立ち上げられた)。言っておくが、私は、アナログを自覚した男なのだ。すぐ前の段で、それを宣言したばかりじゃないか。だから、これまで、外付けハードディスク系音楽器機には、流し目さえもしないできた男なのだ。CDウオークマンで人生終了していいと決心していた男なのだ。でも、いい機会だから、iPod買っちゃおうかな、という意志薄弱な男でもあったのだ、ということがここで判明する。
 僕は、秋も深まったある日(だから外は既にもう真っ暗で人相がばれないのではないかと考えたのだが、売り場には電気がこうこうとついていて、それは間違いだった)の通勤帰り、ヨドバシによって(アップルストアより目立たないと思ったのだが、金曜日だったためものすごい人がでていて、それは間違いだった)、入口入ってすぐの売り場(どうしてiPodだけは、あんな目立つところにあるのだろう。そのほかのアップルは、一階のずっとはじっこのその裏の実に目立たない所にあるのに)の、しかしできるだけはじっこの所で、防水ラジオを買いに来たんだけど、ちょっと思いついたのでついでにというふりをしながら(成人向雑誌を買うとき一緒に椎名誠の文庫本を買うように)iPod シャッフルを買った。この報告は、実況中継のごとく本当のことで、いったいこの心持ちと態度はどこから来たのだろうと、あのときのことを思い出して、やった本人が苦笑いしながら書いている。僕は、アナログなんだという決心の最後のあがきだったのだろうか。ま、買ってしまった今となっては、まったくどうでもいいことである。さて、メモリースティックは手に入った。
 みんな、普通にiPodを持っているのだろうから、ここからの話は、よく知られていることなのだろうが、この歳で初めて手にした私には、様々動揺することが起こった。まず、PCが、この機械を動かすためには、このアプリケーションをまずダウンロードしないと動けない、と言ってきた。おう、結構なことではないか。でも、それをして繋ぐと、私のiPodは自動的に(もともとそうだという見方もあるが)、音楽器機になってしまったのである。ま、しょうがないので、若干音楽器機としても使ってみたら、これは、なかなか良いのである。針が飛ばない(どういう意味かわからない人は、これ以降読んでもまったくわからないおそれがあるので、これ以降は読まなくていいです)のが、信じられないのである。でも、入っている音楽が、前にこれを使っていた上の娘のストックからだったので、ほとんど被さっているものも多かったけれど、僕にはいらないものもかったから、少し整理をしようと思った。あすると、削除・編集が上手くいかないのだ。私が、やや急ぎすぎなのは重々承知しているが、でも、ちょっと(と、私には思えるのだが)間違うと、なぜか「初期化してやり直しなさい」がでてしまう。初期化しようとすると、「アプリケーションが古いのでできません」って、この前、ダウンロードしたばっかじゃん。その数週間の間に、新しいiPodがでていたのである。新しいのが出ると、操作はより簡便に変えられ、新たなダウンロードが必要になるらしい。ちょっとの時間の差で、私の機材は、動かなく(冷静に見れば、たいした手間ではなく、より簡便・便利になっているのだと、識者?は言うが)なってしまった。 という風に、私には感じられた。いやはや。この初期化に、又、様々しばらくかかる。私は、もはや、少しうんざりして、もう、この仕事(ブログの更新、文章のアップなどの件ね)からは手を引こうかなあ(全てを、再びMr.Amee に任せてしまおう)とさえ思い始めていた。11月10日前後、上の娘が、東京に出る用事で今住んでいる沖縄から一時戻り数日家にいた。このiPod問題は、彼女が家にいたその短い間に、あっという間の15分ぐらいで解決した。これ(彼女が来る前までの私の心の動き)は、霊長類の(老年の、と入れたい気も少しするが)♂としては、まったく反省すべきことである。こういうことを何とか自分でやってみるもんなんである。娘を動員するということを考えに入れてもいいから、何とかじみちに自分で楽しくやってみる。人間って、そういうことができるはずだったよなあ。何だか、上手く説明できないけれど、何だか、深く、しかし大変ポジティブに反省してしまった。反省は、後悔ではない。これからは、楽しくやろうと思う。
 なにはともあれ、iPodは稼働し、僕の音楽も入っているがしかし、メモリースティックとしても動くという具合になった。やれやれ。
 で、様々な感慨と感想を秘めつつ、この文章がアップできた。僕のような、アナログな人がブログを動かすと、こういうことが、裏で起こっている、という報告。

美術を考える授業  06.08.19開始

 私は自分のブログで、仙台市内のある私立女子大保育科で行った「基礎技能−図工」の授業の流れを公開している。機会があるたびに言っていることだが、今の日本の(大学までを通しての)基礎的な教育を行う学校のシステムで行われている図工と美術の授業は、美術館を始めとする美術の世界で話されている美術の理解とは、何か離れているように感じられる。美術を、授業という特殊な方法で伝達/教育する時、これまでの学校での授業で行われてきた方法や経験を繰り返していたら、現在あるような美術の状況に再び陥ってしまうわけで、何か抜本的な変換が考えられないと、21世紀の美術図工科は「基礎的な学校教育の必修教科」からはずされることになるだろう。理由を述べると長くなるが、本能的に、それは、もっといけない状況を公教育の現場にもたらすのではないか、という恐怖を覚える。
 なにはともあれ、さしあたって「図工の授業を組み立てるのに、何かアドバイスがありませんか」という学校の先生からの質問に対して、たとえば、これはこのように考えられているので、こういう風な方法はどうだろう、という提案をまとめてみようと思う。具体的な作業のノウハウを公開すると、今の学校ではそれをそのまま実行しようとする先生が多いように感じられるけれど、それは無理だ。キャラクーが違うとか、話術が下手だとかの問題ではない。「授業を受ける側の人が、みんな違う」からである。その活動をする理由や、考え方の流れのような物を、行間から汲み取る事が最も大切だ。そうか、そういうことを、そこにいる人たちと供に行うには、私だったらどうするかな、という方向に考えが進んでいくことを期待する。
 毎週1回90分15回継続の、「基礎技能−図画工作」の受業の進め方を再現する。

1時限目 ナイフを買ってくる。
 授業の最初に、幼児期における表現の発達についてのざっと通した流れを話す。小さい人たちが描いている絵は、大人になってあなたが描いているものと少し違って、彼らの世界の見え方を見えたとおりに描いているだけなので、ちゃんとした大人なら、彼らの描いた絵を相当なところまで読むことができる。彼らの絵に描いてある世界の方が彼らにとっては正しいのだ、ということを自覚しよう。私たちは、そういう人たちと、美術を通して「良い大人になる練習」をする。先生は、練習の手助けをする人のことだ。少なくとも「美術で教える」とはそういうことだ。だから、あなたが絵が上手かどうか、美術が好きかどうかは、先生が学ぶ美術教育(これから、私たちがする事ね)には、まったくと言っていいほど関係がない。あなたの絵の描き方が上手くなるためにこの授業があるのではない。あなたがなぜ、子供達と美術の授業をしなければならないのかを理解するために、この授業は行われる。
 さて、では始めよう。まず私たちは人間だ。人間が最初に身につけた、他の動物と私たちを区別する幾つかの道具のうちに、たぶん割れた石のかけらのナイフは絶対に入っていたはずだ。今だって、人が荒野に一人でいる時、一丁のナイフを持っているかいないかは、本当に生死に関わる。人間は、身に寸鉄を帯びることによって、ここまで人間化してきたと言って良い。しかし今、私たち大人は、子供からナイフを取り上げている。ナイフが怖いのではない、それを使う人が時に怖くなるときがあるので怖いのだ、ということはみんな知っている。怖い使い方をしない人を作れば/ 教育すれば、ナイフそのものは、一人の人間にとってごく有益な道具であるにすぎない。私たちは、ナイフは怖い(その割に、カッターナイフは、みんな筆箱に持っていたりするのだが)という人ではなく、ナイフを持っていると、有益で発展的な人生を送れる人を作るために、教育をしているのではなかったか。
 大学生でも、相当数の人が、ナイフをちゃんと見たことがない。ナイフとカッターの違いは何か。ナイフに様々な形があるのはなぜか。ナイフで何ができるか。どこにどのようにして持つか。そして、いったい、ナイフは、どこにあるのか。どこで手に入れることができるのか。わからないときは、誰に聞けばいいのか。ナイフを巡って、様々な、一つ一つ緊張した状況が起こる。笑いながらではすまない決定を繰り返さなければ、活動は/人生は、進まない。
 実は、ナイフは街中にあふれている。金物屋さんにあるのは当然だが、いつも行ってTシャツを買っている繁華街のセレクトショップでも売っていたりする。最近では、大型電気店や、カメラショップでも売っている。アウトドアの店やスポーツ用品店、眼鏡屋、時計屋、簡単なものなら、コンビニや100円ショップ、駄菓子屋さんでも手にはいる。そもそも、キャンプ好きの親のいる人は、すでに、家の中に何本もあったりするかもしれない。包丁は、ナイフではないのだろうか。こんなに身の回りにあったのに、今まで見えなかった、気づかなかった。普段、身の回りにナイフのような危険な物があってはならないと考えているのに、私たちは、何を見ていたのだろう。何を気にしていたのだろう。実際に、店で買おうとすると、未成年は自由に買えないかもしれない。それはなぜだろう。そのことによって、世間では何がどう変わると考えられているのだろう。そういう中で、どうすれば、どのようなナイフなら、買えるのだろう。
 一本のナイフを手に入れる作業を通して、いかようにも解釈し、いかようにも発展することのできる「教育的不安定状況」が起こる。実は、この不安定な状況こそが、普段の生活なのであり、美的な思考に基づく判断と実行が求められ、学校で美術を授業でやる必然が隠されているのではないか。こここそが、学校でやる美術の出番ではなかったか。
課題「各自、何とかして、次の授業には、ナイフを一本持ってきない。」
 美的/ 芸術的な生活とは、具体的にはどのようなものであったのだろうか。
2時限目 ナイフで、何かを削る。
 受業を始める前に、何人かに、「いかにして私は、このナイフを手に入れることができたか」について、経験発表をしてもらうといいかもしれない。その後、机の上に、各自のナイフを出し、ナイフの観察鑑賞会を行う。大まかに種類別、形態別などで分類し、高価安価の差や、大小の差などを基にナイフを巡る体験/経験を広げ深める。その時に、折り畳みナイフの開け閉めの仕方と注意、実際に使用するときの基本的な確認事項なども話した方がいい。それでも、使い始めると、めちゃくちゃなことになって、危なくて見てられないということになるが、この時点では何が危ないのかは、ほとんどの学生生徒は、やったことがないので言葉で注意してもわからない。そのために作業をするのだ、と言う自覚を、教師側が持つべきである。話は、むしろ、手を切ると、血が出て、痛くて、すぐには治らない等、手を切ったときの具体的なイメージを補強する話の方が有効のようだ。私たちは人間なので、そういう物を、今から使ってみるのである。
「さて、ナイフ持ってんだから、何か削ってみるかな。削る物持ってるか?」
 毎日学校に通っているのに、ナイフで削る/削ることができる対象として周りを見てはいないので、この問を発しても、誰も、何も動かない。私たちは、ナイフで、身の回りの何を削ることができるのだろう。何か、誰でも気兼ねなく削ることのできる、木のかけらのような物はないだろうか。考え、移動し、探して、見る。私の実践では、キャンパス敷地内はずれ(普段は誰も通らない建物の裏側)に、昔からある松の小さな林が残っていた。皆でそこに行ってみる。入学以来、初めてそこに来たという人も多数いた。松の枯れた枝が、沢山落ちている。
課題「落ちている枝を5本拾い、それをかっこよく、土に並べて刺して立てろ。」
 落ちている枝を触ったことがない。様々な状態の枝があることに気付く。この作業をしないと、削る作業に入ったときに、混乱が起こった経験から、まず、枝に触る作業が行われる。5本の小枝が、そこここに林立する松林は、実は美術的な空間に生まれ変わっているわけだが、その説明はまだ早い。ただ、何だか不思議な空間が出現する事は、感じよう。「うわー、美術だあ。」という声があがる。
 これを削ろう。さて、どのような枝が、削りやすいのだろう。太さ、長さ、枯れ/湿り具合、腐り具合、皮の付き具合。判断材料は、提案でき、確認できるが、どれのどれを良しとするかは、「削る人のイメージが優先」される。そもそも削って、どうするために、私たちは、この木を削るのだろう。「削ること」をしたいのだから、実は、全部削ってしまうでも良いのだが、この指示は、理解されない。「何かを作るため」に私たちは削るのだ、という考えは、そう簡単には変わらない。そのこと(削ること)自体が目的になると美術が成立する。でも、それも、まだ気にしないでいい。
課題「この枝で、小さい板を作って、提出する。」
 小さいとは、どのぐらいのことですか。板って、何ですか。というレベルの質問が出る。さて、あなたが削ろうと思って持ってきた枝は、すでにそこにある。それ以上大きい物は作れないから、それから小さい板を作るしかない。板という言葉は、聞いたことがあるし、身の回りの板を指し示すこともできる。それが、あなたの、小さい、板。小さい、板、は、あなたの側にある。私は、それを提出しなさいと言っているだけだ。私に、「それが、あなたの、小さい板、なんだな。」と聞かれたら、「そうです。なんか問題ありますか?」と言えばいいだけだ。むしろ、そのことの練習。
 開始直後は、若干の混乱私語があるが、すぐ静かに集中した作業になる。しばらく見てから、頃合いを見て作業を止め、ナイフの使い方基礎(指を刃の先に置かない等本当の基礎だけ)、作業は、息をしながら(リラックスしての意)する事等の、注意を話す。作業では、想像を遙かに離れた使い方や、明らかに手を切ったことがない刃の方向等、驚愕すべき状態が起こることを前もって覚悟しておくこと。その程度では、驚かないこと。そのための練習なのだ、あちらにも、こちらにも。
 提出は、15回続くこの受業全体が終了する前には提出しろよ、が、期限。「これが、私の小さい板だ」という「自信ができるまでは、あわてて、中途半端に提出しない」こと。これ以降の様々な提出物の期限は、特に指示がない物は、全てこの方針にする。物を作る実際の作業は、その人の運動神経と密接に関係する。速い遅い、丁寧雑、は、個人の資質なのである。走るのが速い遅いと同じように、練習で何とかなる部分と、練習ではどうしようもないところがある。作る/造形する部分は、ごく個人的なのであることを、そろそろ、私たちは理解すべきではないか。学校的団体作業でできる美術的な作業は、どのあたりなのかについて、気にした授業を心がけたい。提出はしなければいけない(制作ではなく授業なのだから)。でも、納得するまで、制作にあなたの時間をかけることは推奨される。
準備「次の時間は、好きな鉛筆を一本と、ナイフを持ってくること。」
 好きな鉛筆ってどういう鉛筆のことですか? まったく、好きな鉛筆ったら、好きな鉛筆のこと。それ以外どう説明したらいいのだ。好きってどういうことか、自分で考えるように、って言うのも何だか恥ずかしい。私たちは、いったい、どういう大人を作るために、子供達を教育してきたのだろうか。
3時限目 ナイフで、鉛筆を削る。
 木を削る作業は各自だいぶ上手になってきたことを確認した上で、今日は鉛筆を削る。 好きな鉛筆を出して、手で、二つに折る。二つ確認。一つ、鉛筆は、手だけで簡単に折れる/折ることができる。二つ、好きな物を折る(意識的に壊す)と、こういう感じになる。私を恨んでもいいから、忘れないように。鉛筆で良かったね。
課題1「その鉛筆の芯だけを、提出しなさい。」
 その鉛筆は、あなたが決めた、「私の大好きな鉛筆」だった。だから、丁寧に芯を出し、丁寧に提出することが本当だ。だから、
課題2「芯を提出するときは、「ウエルカム、芯さん!」という状態で提出すること。」
 学校の授業は、強制的に集められた集団が、強制的に科せられた課題を、強制された枠の中で、その人の意志とはほとんど関係なく作業することを通して、その集団が生き延びるために必要な体験を積む練習だ、といえないだろうか。それをすることによって、何をこの人達に伝えたいのか、を強く持つことが、指導する側に求められ、その上での、作業が行われる。作業をする側の人に、どのレベルでまで、何を強いるか。大好きな鉛筆を強制されて折る。それによって起こる体験をどの方向に経験化するか。クリアでシンプルな目標に裏付けされた強い意志が、指導する側に求められる。
準備「次の授業から、上手い絵の描き方練習を始める。絵、描くっていったら、鉛筆と紙だから、各自好きな鉛筆(芯が出ているもの)を一本持ってくる。今度は折らないので、ちゃんと好きな鉛筆を持ってきても大丈夫だよ。紙は、こっちで用意する。」
4時限目 上手い絵の描き方1−塗りつぶし
 各自に、B5のコピー用紙を一枚ずつ配る。まず、真ん中に、小さい丸を一つ描く。その丸を鉛筆で塗りつぶしなさい。「これが、私の塗りつぶすだ!」と、自信を持って言える程度に塗りつぶす。机の間を回って確認。それが、各自の「塗りつぶした!」なのね。それで、本当にいいんだね。
課題「では、その円の周りも、全て、塗りつぶしなさい。」
 この作業を始めた当初、1980年代は、塗りつぶしなさいだけで始めることができた。しかし、時代が進むにつれ、ざっと、荒く塗りつぶして、これでお終いと自己納得する人が急激に増えてくる。そのため、2000年以降、まず、塗りつぶすとは何かの確認から始まることになる。
 最終的に、最初に描いた丸は、見えなくなってしまうまで、塗りつぶすことになる。作業時間は、個人のばらつきが当然出る。でも、この紙は、この次の授業で使うので、何とか、この次の授業までには、塗りつぶしておくこと。
準備「次授業で、マッキー(マジックインキ)細書きを使う。できたら6本セットがあるといいな。ない人は、黒と、その他一色以上持ってこられるだけ色マッキー持ってきなさい。」
5時限目 上手い絵の描き方2−写し絵基礎
 前回の塗りつぶしの観察鑑賞会から始める。いったん家に持ち帰って、個人の作業として行われると、個人の想いが全面/前面にでてくるので、教室で、無意識にみんなを意識しながらしている作業と、深さが変わる。みんな同じだと思っていたのが、みんな違うんだになる。そして、私も違うんだに気付く人もでる。特に、私は、絵を描くのが下手/苦手で、嫌いだと思っていた人。比較することで起こる様々な状況から離れた、見方。単純な作業で出てくる、みんなの違い。みんなのを見てから、描き加える人。紙の色が透けて見えるような、薄く鉛筆の線が見えるものから、全面黒鉛色に光って、紙が反っくり返っているものまで、多様な「私が、塗りつぶした!」紙がある、ことを確認。塗りつぶしなさいという指示だけだったことを思い出すと、いったい、私たちは何をしたのか。想いは深い。
 各自に、一枚ずつB5のトレーシングペーパーを配る。トレーシングペーパーを、塗りつぶした紙に重ねて、上から下の紙を透かして見てみる。
課題「透けて見える物を、マッキーで写しなさい。」
 普通、大混乱が起こる。塗りつぶした紙には、何か見えるものがあるのだろうか。見えるようになるコツは「私が塗りつぶした紙」のことを一時忘れること。トレーシングペーパーの下に、子供の頃やった漫画の写し絵の時と同じに、写す対象の紙が置いてあって、そこに見える物を素直に写せばいいだけ。この話だけだと、「そうか、好きに描けばいいんだ」と別の方向に気付いて、突然得意のピカチュウなどを、下に見えるものとはまったく関係なく描き始める人が出てきたりする。最近では、若干描いて見せないと、考えが進めなくなる集団も出てきている。あわてないで、素直に、トレーシングペーパーをのぞき込めば、下に敷いてあるあなたが塗りつぶした紙には、様々なモノやことが見える。線が見えるくらい薄い塗りつぶしの人は、線。線によって囲まれた部分。線の重なりによって見えてくる形。鉛色に光る程に塗りつぶした人だって、その光。光による色のむら。むらによって作られる広がる形。紙の折り目。素直に見ることによって、新たに見える、あなたの塗りつぶし。何も見えないのは、塗りつぶしたんだから何も見えないと信じている、あなたの目。素直に、見える物を見えるように見ることの練習。
 写し絵は、描き直しのできない細字のマジック(細書きマッキー)の濃い色(黒、紺、緑、茶等)を使って行う。決心を促し、それを躊躇させないためである。一本の線を引くことで、次が見えてくるためである。一つの何かが見えて/見えたと思えて、線が引ければ、次々と見えてくる。見える限りの物を写す。でも、全部黒く塗りつぶすことにはならない不思議。思う存分続けて、見える物がもうないと感じたら、敷いていた塗りつぶした紙をはずす。
 線だけが描かれたトレーシングペーパーのみを机に置き〔下に白い紙を置くと作業しやすくなる〕、できた形を使って/基に、線で使った色も含めた、各自持ってきた様々な色を使って、塗り絵。形を基に、もありだからね、形の中だけを塗り絵する事にこだわんなくともいいんだからね。何色で、どう塗ればいいか? 基準はカッコよく。あなたがカッコいいと思うように。こういうプリントの服ならカッコいい(あなたが着るかどうかは、あんまり関係なく)と思えるように色を付ける。
「塗りつぶした紙と写した絵を両方提出。」
準備「次の時間も写し絵の続きをするので、今日使ったマッキーセットを持って来る。」
 見える物を見えるままに写すには、これほどの練習の上、見ることの意識の切り替えがいる。人によって切り替えにかかる時間は違う。充分な時間が必要。しかし、気付けば、その後の切り替えた目で見る練習は早い。
6時限目 上手い絵の描き方3−写し絵展開
 
 前回の提出物を、何枚か見せてもらい、その各々の見え方の違いと面白かったところ、気付き方等を作者に話してもらう。気付いて見えることと、なにげなく見ていると思っていたこととの、描ける絵の違いに気付く。
 B5版のカラー写真を用意する。作業する本人が、隅々まで興味がもてる物がのぞましい。実践例では、私の身分証明書用にベージュ色でザラザラな質感の壁の前で撮った、胸から上の手札版写真を、カラーコピーでB5に拡大したもの。その上に、同じ大きさのトレーシングペーパーを置く。
課題1「前回と同様、下の絵を写しなさい。」
 この前、難しい課題で「見えないと思っている物から、見える物を素直に写す」練習をしているので、今回は各自の見える物の量は、増大している。線はない。しかし、色の変化は見える。色の変化は線で描ける。そしてその色の変化は、この前の全面塗りつぶしのときより、何と簡単に、沢山見えることか。描きたいところから始めて、見える物全てを写していく。今回も、まず最初は、細書きマッキーの濃いめの色一色で線描き。開始して、15分程度経過し、ほとんどの人の作品が、ほぼ何を描いているかわかるようになってきたあたりで、次の指示。
課題2「写しとっているトレーシングペーパーを30度傾け、写し続けなさい。」
 混乱が起こる。説明がいるだろう。写真の上に載せているトレーシングペーパーを、左右どちらでもいいから、少し傾ける。線がつながるかどうかは気にしなくていい。傾けて、下に見える物を、続けて写す。まったくグチャグチャになるのを気にせずに、新たに描き直していい。塗り絵が二枚重なったような絵でかまわない。ここで、新たな思いこみとの葛藤が起こる。初めに描いた絵に続けようとしてしまう。又は、せっかく見えていた形が見えなくなってしまう。私たちは、どこの目で、何を、見ていた/るのだろう。の練習。下に見える写真を描いていたのではない。見えている物を見えているように描く、目と手の連動の練習。
 以前、各自が自分の好きな自分が写っている写真を用意してこの活動をしたことがある。参加者のほとんどが、課題2ができなかった。紙を傾けたとたん、手が進まなくなるのだ。見えている物を写していると思っていても、見ていたのは私の知っている(目の内側に見えていた)写真だったのだ。自分との関係が断ち切りやすい写真の方が、この作業は展開しやすい。私の写真にしてから、課題2はスムースに進む。見て描くときに必要な条件について、様々なことが考えられる。「静物」の題材は、なかなか深い意味を持っている。見えていると思っている物を再度点検する。思いこみは、思っている本人が思っているよりも遙かに強く見ることに影響を与えている。上手に描くことではなく、丁寧に、見えるように見ることに気付く練習。途中で傾けないと、上手な人がやっぱり上手だということに、やっぱりと、気付かずになってしまう。
課題3「写し絵は、塗りつぶしの時と同様、彩色して提出。」
 本来なら、もう写す物はない、と思うまで、線で写せるものを写す。これは、見る練習の授業なので、ある程度の時間を決めて、各自が思っていることとは関係なく、中途で終了にしてもいい。下の写真をはずし、各自「かっこよく」彩色する。途中で傾けることによって、見えたとりにという枠は外れているので、空は青、木は茶色というような、すでに決まっている色以外の色の、比較的のびのびとした彩色が行われることが多い。線の練習の段階で踏み出しが足りないと、彩色の時点で、定型に戻りたがる人が出てきやすい。
7時限目 美術探検
 6時間目の授業を通して、私は何を見ていたのだろうに、気付いてから、校外学習1として、美術館に出かけ、では、人間はこれまで何を見てきたのか、を見に行く。時間軸にそった常識的教養主義的な美術の見方は、しかし、作品の意味を知るのではなく、そこに描いてあることを素直に見ることができる視点に支えられると、個人の中の美術の理解が劇的に変化する。作家の想いなんか、端から無視していいのだ。でも、丁寧に注意深く描いてあるものを見ていき、自分の思いを巡らせれば、同じ人類が描いたものだから、自ずと、描いた人の想いも見えてくる。それだけでなく、自分の想いもその想いを感ずることで広がっていく。作家の想いを越えて、あなたの想いを広げてくれるのが良い絵。本当の鑑賞の練習。
8時限目 美術館探検
 さて、10歳以上、学校で「美術」の授業をしている人たちに対しては、美術探検で、学ぶべき方向は示される。しかし、私たちは、幼児教育を考えていることを思いだそう。10歳以下、自我の自覚が形成される前の人たちに対して、美術は、どのように関われる/関わるのか。毎日がほとんど非日常である小さい人たちと、非日常の楽しみである美術を楽しむには、私たちは、どのような工夫をしなければいけないか。美術館探検はそのために組み立てられる。美術の目を生活の中で使う練習。美術の目で生活を見る練習。美術館の通路にある扉を、怒られながら、又は怒られないように、次々と開けて見ていく。見えた物に、驚いて見る。見える物だけでなく、見えない物にも、目を配ってみる。見えない物だけで、見えることを実験してみる。最終的に、美術館探検を終了する頃には、「トトロはいる」と思える子供になる。実は、小さい頃に美術を学ぶということは、上手に絵が描けるとか工作ができるとかとは又別に、そういう想いを持つことができる子供になることではなかったのだろうか。幼児期の鑑賞のあり方について思いをはせる。
 保育所や幼稚園以来続いた造形偏向的図工美術教育の上にいる人たちと、本質的な美術教育を踏まえた図工教育に思いをはせるためには、6時限目までの練習を経た上で、再度、美術を組み立てなおす美術探検をこの時点でするのが、どうも、これまでの経験からいいようだ。これを基に今回展開されている図工教育は組み立てられており、一見何をさせられているのかわからなかったかも知れないが、私たちがしている授業の積み重ねは、これまでの美術の歴史がしっかりとバックアップしてくれている。そうすると、美術館探検の持つ意義も見えてくるし、その必然も見えてくる。
9時限目 創作折り紙
 今はお母さんになっている下の娘が4〜5歳だった頃、美術館で、そのころ日本一の誉れ高かった在仙の折り紙名人に来てもらって、子供折り紙教室をした。教室が終わって、そこに参加していた私の小さい人が、手に何かをきっと握って走って戻ってきた。「お父さん、折り紙作った。先生にほめられたよ!」小さい手をそっと開いて見せてくれたのは、しかし、僕の目には、ただのくしゃくしゃに丸めた紙くずだった。「おっ、これは何を作ったの?」「石!」これが、子供達とやる折り紙の極意なのだと思う。彼らが作ってそこに見える物を肯定し、その上で相談にのれる大人に、私たちはなりたい。
 最初に、二人に一つずつ松ぼっくりを配る。松ぼっくりは、校舎の裏庭に無数に落ちているのでそうなっただけで、もちろん、手近かに手に入るものなら何でもいい。それと別に、各自にB5のコピー用紙白を一枚ずつわたす。
課題「松ぼっくりを折り紙で作れ。紙は折るだけ。切ったり貼ったりしないこと。」
 鶴や奴さんの折り方は、みんなの方が私より詳しい。そこに松ぼっくりがあるので、よく見て、そういうふうなモノを作る。これが、私の松ぼっくりだ!が完成の目安。紙は、2枚あげた方がいいかもしれない。1枚は工夫、練習、確認。2枚目で、ちゃんと折ってみる。実践では、何も説明指導もしないまま、静かに各自の作業は進み、ほとんどの人が、私が納得するレベルで、ちゃんと折れた。自由に自分の技術を駆使して、自分の折りたいように折って、しかし、到達目標はある、という作業に、楽しかった、正方形でなくて大変だった、という感想が多かった。正方形でなくてもできる折り紙について、自分の可能性についての驚きと想い書いてくれた人もいた。できあがった折り紙は、携帯電話のカメラで記録した後、再び一枚の平らな紙に戻し、山折りは実践、谷折りは破線で折り目を記入し、その紙1枚を提出。
準備「次回は、カレーライス用スプーンと、マッチを持ってくる。」
 女子大だと、「次はカレーを作って食べるらしい」ということに自然となるので、驚く。次回の解説は、興をそぐのでしないことが原則だが、「カレー作んじゃないからね。土ほったりするので、そのつもりで。」
10時限目 小さい焚き火1
 最初の時間で話したナイフと同じことだが、火をおこすことも、人間を人間たらしめている。できたら、各自が自分の机の上で、スプリンクラーに気付かれない小さい焚き火を起こしたいのだが、それは、あまりに危険だろう。では、この時期この時間、私たちは、どこでどのように火を焚けるのか。考える。
 前に木の枝を拾った、校舎裏の松林。あそこなら、場所もあり、燃やすモノも手にはいるのではないかということになり、移動。
本来の課題「小さい焚き火を作り、短時間維持する。」
 20歳の女子の集団を、これだけの指示でほっておくと、実は、何もおこらない。マッチを擦ったことがないのである。裸の火を付けたこともないのである。さて、では、課題を変え、順番に指示しよう。
課題1「地面に、自分がすっぽり入れる広さの、浅い穴を掘れ。」
 ここで、各自持ってきたカレーライス用スプーンを使用。食事用具を穴掘りに使うのに抵抗を示す人がいる。それなら、最初から移植ゴテをもってこいと言うべきだという人もいる。幼稚園や保育所では、幼児用のプラスチックのスコップを使う。使ったことがあるだろうか。柔らかい山砂のような物をざっくりと掘る作業以外には、たいへん使いづらい。そのことを知って、あれを使わせている大人は、どのくらいいるだろう。あれは、純粋に穴を掘るための道具ではないのである。土と遊ぶ道具で、作業する道具でははないのである。遊ぶの意味が管理する大人に都合良く曲げられているのではないか。では、子供と真剣に遊ぶため、本物の穴を掘る時は、どうすればいいか?様々な体験の量を増やしておくことこそが、幼児教育に関わる人には必要とされる。大きなスプーンで、山の土をほっくり返す経験。それだけのことだが、たぶん、本当の幼児教育が始まったときには大切な体験になる。日常の身の回りにある物を、そもそもの用途以外にどれだけ動員できるかの経験値が常に試される。子供達が、ある状況の解決方法を見つけたとき、そこにいる大人が、どのように言葉がけできるかは、実際の経験を積んだライフスタイルからしかでてこない。意識的に、食事用のスプーンや、おたまを、穴掘りに使ってみる経験。実際の保育の現場でそれをやるかどうかは、この経験の後で、じっくり考えられればいいのだ。子供に直接教えることだけを習うのは、学習ではない。
 松林に散らばって、大きめの皿のような穴があちこちに掘られる。火をおこそうと始めた受業は、しかし、このあたりで時間切れとなる。全員穴から上がり、できあがった松林の景観を鑑賞する。
課題1+「後で来た人が気付かない程度に元通りに埋め戻せ。」
 掘ること自体が面白いのである。埋め戻すこと自体も面白いのである。何かをなすための作業ではなく、そのこと自体を楽しむ。後始末ではなく、後隠し。こっちの方が惑星に生きる人間としては大切ではないか。これも、今の学校では、なかなかしない/できない授業である。この次は火を焚くよ。
準備「今日持ってきた道具はそのままこの次も使う。」
11時限目 小さい焚き火2
 授業開始から、勇んで林の中に移動する。まず、各自、手の平大の小さい皿状の穴を掘る。マッチを着ける練習をする。
課題「さてそれでは、その穴の中に、火をおこせ。」
 さすがに、途中で、作業をやめさせて注目させ、たき付けのやり方について、お話をした。落ちている適当な松の木の枝を、適当に集めて、直接マッチで火を着けようと、ほとんどの人が始めたからだ。そして、火が着かないと騒ぎ動揺する。君ら、本当に火、着けたいのか?
 まず、ポケットティッシュを2,3枚出し、ゆるくひねったこよりを作る。小指の1/4以下の太さの枯れた枝/松葉を手の平一杯ぐらい集める。別に小指くらいの太さの枝も、手の平一杯集めておく。良く乾いていることがのぞましい。こよりを丸く輪にして穴の底に敷き、その上に、風通りの良いように細い枝を何本か重ねておき、こよりに火を付ける。こよりに火がついたら、そっと脇から息を吹きかけ、酸素を送る。枝に火が着いたら、適宜残った細い枝を足す。細い枝が充分に燃え始めたら、もう少し太い枝を少しずつ足し、炎を維持する。失敗したら、最初からきちんとやり直した方が早い。火を大きくする必要はない。火が着けばよい。言葉にするとたやすいが、実際は、ほとんどの人が失敗する。失敗した人は、上手くいっている人をよく見て、どこが違うか考えながらまねする事。息を吹きかけるには、地面に顔をぐっと近づけなければいけない、煙くても、蟻がいても。
課題1+「火が着いた人は、今燃えている枝を燃やし尽くしてから手で押さえ、良く揉み消してから、元通りに土をかぶせて終了。前回同様、後で誰かが見ても気付かれないように戻すこと。」
 一人一人では、集中が続かず、グループを作って、何組かは成功した。全員は成功しない/できない。火を着けるのがこんなに難しいとは知らなかった。煙いのがいやだった。虫がいる。の中で、小さい火を着けるだけなのだが、様々な広がりを持った体験がおこる。火を着けられるようになったから、これで地震が来ても大丈夫だと思ったという感想を書いた人が、結構いたのがうれしい。いや、悲しいか。
準備「各自、壊してもいい古新聞紙を三日分持ってくること。」
12時限目 ハムスターになる練習
 新聞紙をよく観察する。軽く裂いてみる。上手く裂ける方向と、そうでない方向があることに気付く。机と椅子を教室の隅に寄せ、教室の中央に広場を作る。全員、丸く床に腰を下ろし、三日分の新聞紙を出す。
 三日分全てを、細い短冊に裂く。裂いた物は各自確保しておく。裂くのが遅い人の分は、終わった人が手伝って、全ての新聞紙を細く長い短冊に裂く。
 裂き終わった新聞紙を各自両手で持てるだけ持ち、立ち上がる。号令一過、上に放り上げ、みんなで頭からかぶる。3回繰り返す。参加者(実践例ではクラス)を二つに分け、最初の組が、床に仰向けに寝る。後の組がその上に短冊を放り上げかぶせる。できるだけ高く放り上げる努力をする。何回かやって、交代する。
 広場の中央に、全ての短冊を集め山にする。山の片方に、一列に並び、順番に山に潜って這い進み、反対側まで行ってみる。できるだけ山を崩さないように這う。できるならば、ゆっくり時間をかける。最終的に全員山の中に入り、思い思いの格好でしばらくくつろぐ。
 20歳前後の人たちとする、この作業の、具体的な状況が想像できるだろうか。大興奮、大混乱。まず、埃アレルギーの人がいることに注意しなければいけない。作業の輪から外れなければならない人もでる。興奮しすぎてしまう人がいることは始める前に、指導する側は、覚悟し、対処のシュミレーションをしておいた方がいいかもしれない。周波数の高い、大きい声が必要な状況になるときもある。眼鏡や装身具など、外れてなくなりそうな小さい物は、初めに外して片づけておく。上手く裂けない(壊せない)人は多い。細かく裂けない人も多い。物を意識的にきちんと壊してみるという作業が、生活の中からなくなっている。ある状況を越えると興奮は一気に高まる。紙を降らせる作業は、誘わなくても全員参加で動くが、山に潜る(これが、ハムスターになる練習ということなのだが)活動は、ほとんどの人が恥ずかしがり躊躇する。でも、本当はみんなやりたくて、始まれば我を忘れる。作業を移すタイミングの塩梅が大切だ。紙の山はたいへん暖かく、季節によっては汗だくになる。活動する場所の通気の問題も意識しておいたほうが良いだろう。
 まだ充分盛り上がっているうちに、ゴミ袋を提示して、紙くず回収作業を、楽しみのうちに行う。最後の締めに、各自あと20個ずつ紙くずを拾う作業をし、新聞紙で一杯のゴミ袋をリサイクル資材置場まで持っていき、そこで終了解散。掃除ではなく、紙を裂く作業の最後の部分として回収清掃を行う。清掃片付けを全体の活動から独立して別にすることの良い点と、同様に悪い点についても、意識して考えてみる練習がいる。ゴミ置き場で、この活動は終了するのだ。
準備「次も、各自三日分の古新聞紙と、セロハンテープを一巻き持ってくること。」
13時限目 UVシェルター
 新聞紙を使う活動2回目。新聞紙をよく観察する。強い方向と、弱い方向がある。強い方向を軸に、クルクル丸めてセロテープで止めると、曲がりにくい(といっても程度問題だが)棒になる。ということを、みんなの共通した知識としよう。では、外の芝生の広場へ移動。
課題「さっきわかったことも使って、各自、自分用のUVシェルターを作れ。」
 UVシェルターとは、太陽からの紫外線をよける、小さい屋根。極端な例は日傘だな。これ、あなた達には、結構シリアスに大切なことなので、真剣に考えてみよう。今回はなぜか、これだけの指示で、様々な実験と作業が始まる。一人で始められる人と、グループになっていく人たちとが、自然に分かれる。課題は、自分(だけ)が、紫外線から隠れられればいい、なのだが、なぜか大型テントのような物を作り始めるグループもでてくる。
 どこに(壁や、立木、ベンチなど支える物の制限はない)、どのように(丸める以外の新聞紙の使用方法についての制限もない)、何を(個人用シェルターであればいいので、家をとは言ってない)、新聞紙とセロテープだけを使って作るのか。作業が始まると、少しずつでてくる質問と相談にのっていく。周りでやっている他の人の作業もよく見てまねていい。カンニングは推奨される。他人の考えを、改良して自分の物にするのも推奨される。単純な素材と技術なので、そっくりまねても違うものができてくる。最も簡単なのは、折り紙の兜なのだが、思いつく人は少ない。日傘のようなもの、立木の枝に広げた新聞紙を貼るなどの考えは、広報される。できた人から、その中に隠れしばらくくつろぎ、他の人の作品を鑑賞して回る。前回と同じようにゴミ袋が提示され、自分で、自分の作った物をつぶし壊して、リサイクル資材置き場まで持って行って終了。
準備「次回は脳みそだけを使う。朝ご飯をちゃんと食べてくるように。」
14時限目 神経探検1
 美術館での活動では、最初に行われることの多い、「神経探検」は、学校的な作業の場合、この位置に用意される。まず、全員をできるだけ無作為にペアに分ける。美術館などでは、親指の長さ、生まれた日にち等が使われる。ペアを作る間に、ある程度のコミュニケーションを無理矢理とらせるためなのだが、クラスで行う場合は、コミュニケーションは省いて、出席番号等を基に行われる。気が合う合わないはできるだけ無視される。
作業「息会わせ。」
 お互いに向かい合い、目以外の相手の体の一部をよく見て、微妙に動いていることに気付く。息をしていると、必ず、体のどこかが動いている。相手のその動きに会わせて自分の息をしてみる。上手くいけば、お互いに、一気に同じ動きになれる。お互いに、リラックスして息ができるように速度を変え、息を合わせる。
作業「糸引き1」
 息会わせ後の各ペアに、長さ30センチほどに切った凧糸を渡す。お互いに向かい合い、糸の両端を、親指と人差し指でつまみ、ピンと張る。強く引くことはないが、ピンとなるように。指先が、つまんでいる糸の感じがわかるかどうか確認。攻めるわけではないが、先攻後攻を決める。先にやる人が、糸をつまんだまま、体の前に立つ紙に大きな字を書くようなつもりで、でたらめに手を動かす。糸が水平を保ったままになるように、引かれる方の人も同じ形に手を動かす。押す退くを含めて、常に同じ形に動けるように(糸がピンと張られて水平を保てるように)練習する。指先の感じを忘れないようになるまで練習し、交代。
作業2「糸引き2。同じ作業を、今度は、目をつぶってしなさい。」
 少し難しくなる。指先だけの感覚で作業1ができるかどうか試す。何も感じない人は、無理矢理動かさなくていい。ただ写し絵の時と同じで、注意深く、集中して、素直に感じようとし、曖昧でもいいから何か感じたら意識的に感じを追いかけて動かすこと。納得するまで練習したら交代。
作業3「糸引き3」
 もう少し難しくなる。糸引き1の作業を、糸無しでやってみる。糸はおいて、しかし、糸があるかのように空中に指を上げ、つまみ、先攻後攻で同じように動かしてみる。糸を使っているときは、30センチぐらい離していたが、ないときは、どのくらい離すと良いのか、感じられるのか、よく見ながら、様々試す。
作業4「糸引き4」
 もっと難しいことをしてみる。作業1でしたことを作業2に進めたように、作業3を目をつぶってしてみる。
 私たちは、すでに、塗りつぶしの写し絵をし、写真の移し絵もした。真っ黒に塗りつぶした紙は、何も見えないと思う方が普通だったが、見えて描けた。この作業でも、何も感じないのは、普通のことだ。でも、糸がなくても、糸があるかのごとく動かせたのは、見ていた/見えていたからだけだったのだろうか。私たちは、何を見ていたのだったか。さて、集中して、一応、やってみましょう。必要だと思う人は、作業3やり直してみてからでもいいよ。
 作業4で、まるで糸があるかのごとく動くペアは、もちろんそんなにいるわけではないが、全然いないわけでは決してない。どの活動の時でも、必ず何組かは、程度の差はあるが、動く。最初のざわざわした状況を過ぎると、しんと静まりかえった部屋に、時々感嘆の声が響くという状況が続く。ただし、塩梅を見て強制的に作業を終了する。真剣に作業している人は、ものすごく脳が疲れるのである。一気にチョコレートが食べたくなる。今まで、こんなに集中して脳を動かしたことはないのが普通だ。
準備「本当は続けてしたいのだけれど、脳が緊張しすぎたので今日は終了。次も続き。朝ご飯をちゃんと食べてくるように。」
15時限目 神経探検2
 この前のペアは、そのまま。ただ、今回最初の活動は、全員個別で行う。鏡を使って、普段とは違う視覚/視角を通して日常を見る練習。まず全員に手鏡を配る。ここで言う鏡はこの活動のために特に用意されたたもので、軽いプラスティック製の鏡の板を10㎝×20㎝ほどの大きさに切った物。
課題1「下だけを見ながら、階段を下まで行ってみる。」
 鏡面を下向きに持って、自分の眉毛あたりの額に当てる。角度を調節して、目の前に、自分の直ぐ下(たとえば、立ち上がったときの自分のつま先)だけが見えるようにする。そのまま(鏡だけで見たまま)静かに立ち上がり、自分の危なくない速度で歩いて部屋から出て階段を下り、外に出られる階に移動する。自分のつま先だけを見て階段を下りる感じを味わう。前を見たい人は、後ろに反っくり返ると見える。
課題2「天井だけを見ながら、空が見えるところまで行ってみる。」
 外に出られる階に着いたら、鏡を持ち替えて鏡面を上向きとし、今度は、目のすぐ下に当てて、自分のすぐ前の上(前髪を通して天井など)だけ見えるように角度を調節する。そのまま進み、出入り口を経て、頭の上に空だけが広がるところまで行ってみる。天井を歩き、空に落ちる感じを味わう。前を見たい人は、こんにちわのように前にかがむと見える。
 全員外にたどり着いたら、芝生の広場に移動。ペアに分かれ、ペアごとに目隠しの布一本を配布。先攻後攻を決め、先にやる人が目隠しをする。上手くできるかどうかではなく、感じを味わうのが目的であることを確認する。ペアの相手の人は、目隠しをした人の動きをよく見る/観察する。目隠ししていない人は声を出してはいけない。目隠しをしている人の間を動き回るのはかまわない。目隠ししている人が大変危険な状況になった場合は、静かに肩に手を置く。肩に手を置かれた人は、直ぐに動きを止めること。ただし、危険かどうかは、その人は見えてないことをよく考えて合図する。という状況で動いてみるよ。
課題3「芝生が終わるところ、又は、何かにぶつかるところまで、まっすぐ歩け。」
 たどり着いたら、指示があるまで、そこにじっとして、自分が、芝生のどの辺にいるか想像してみる。見ている人は、どのようにそこにたどり着いたかを記憶しておく。ほぼ全員(なかなか動けない人が、必ず何人か出る)が行き着くところまで行ったら、目隠しをとり、見ていた人としばらく話をする。実際の動きと動いた感じについて。目隠しを交代し、そこから、元の所に戻る。条件や状況は同じとする。全授業終了。
 毎回、終了時に紙を渡し、感想と質問を書いてもらった。提出物(感想用紙も含めて)は、個人ごとに袋に保管しておき、最終授業時、各自に返還する。それらを見/読み返して、「図画工作の基礎技能とは何か/なんであったか」という題のエッセイ(リポートではなく)を提出し、評価する。参加学生には、出席6割リポート4割の割合で成績を付けるので、欠席しないようにと話してあるが、実際にはこの割合は逆で、リポートの比率が(様々な配慮はされる)6割、全部出席して、提出物(熱心不熱心、上手い下手は考慮されない)も全部提出してあれば4割として(ちなみに今年度、出欠が問題になった人は、60人中1人)、100点満点で成績を付ける。
 エッセイは、授業に参加し提出物を作る経験をふんだことを前提に、作業の内容を覚えているかどうかではなく、開始前に考えていた図画工作の概念が、どの作業を通してどのように変わり、そのことによって、大学で学ぶ幼児教育のための図画工作実践技術のあり方について何を理解したか、について述べることを期待される。又、リポートではなく、エッセイだということにも配慮された作文だと評価は高くなる。もちろん、考え方がこちらの期待どうりであるかどうかはあまり大きなポイントではなく、反対の態度であっても、自分で考え、組み立ててあれば、点数は高くなる。
 このような配慮による図画工作の作業は、近現代美術にヒントをとると、実践的な活動のバリエーションは、いかようにも考えられる。今回しなかった、二つの案を以下に述べておく。
□鋸(ノコギリ)  実践経験有り
 ナイフと同様に、各自の家から、家にあるノコギリを持ってきてもらい、鑑賞し、身の回りの切って大丈夫なものを探し、切ってみる。切ってみるだけ。そもそも家に鋸を持っていない家族が多い。木の枝を切る、できたら、立ち枯れの木を切り倒す、というようなな経験をしたい。
□上手い絵の描き方 実践経験有り
 塗りつぶしに入る前か後かは状況によるが、見えるところ(いるところから見える風景、教室の中の友だちなど)に額縁を決め、そこに見える物を全て字(言葉)で、表に書きだしてみる。言葉になる物だけが描ける。言葉で見ている。
というような。         (以上)
 

11月21日 天気予報が全くはずれて、気持ちの良い秋晴れの一日。

 やはり11月は、季節なのだろう、美術館は毎日忙しくすぎていく。事後報告になるが、3日から12日まで、村田の街の中心にある蔵の家で、佐藤才子さんがコーデュネイトした「美術計画」というグループ展に出品していた。忙しいと言っている手前、今回は出品無理無理とか考えていたのだが、試験が近くなると模型を作りたくなる心理と同じに、なんだか、ヘンに高揚して時間を盗んで昔作った作品をリサイクルしてしまった。僕は、ほんとに「インスタレーション」向きではなく、ちゃんと創った、作品を環境に関係なく極唐突に展示してしまい、いつも少し自己嫌悪する。

 6日に、山形酒田の近くに住む、小3と5才の男の子がいる昔からの友人一家が、仙台に遊びに来た。6日は月曜で動物園を始めほぼすべての子供が行くべき施設はお休みなので、どうしたらいいだろう、という相談。良い機会だから、街の探検に出かけよう。前に書いたことがある「長町モールで待ちあわせ、電車と徒歩と地下鉄を使った、都会のお散歩」をした。どこかに行くのではなく、ぶらぶらと、周りをきょろきょろ見ながら、 お母さんはとちゅうで「GAP」を堪能し、その間にお父さんは仙台に出てこなければいけなかった大事な人に会う用事をすませ、僕と子供たちは一番町を2,3ブロック、あっちこっちの店やショウウインドウをのぞきながら探検をし、お腹がすいたので昼休みの混雑のすんだアジア食堂の2階にみんなで上がり、なんだかヘンな味のスープでタイカレーを食べ、黒人のお兄さんをびっくり、でもそっと見ながらヨドバシカメラまでアーケードを歩き、ほんとは、「ゲーム買うんだ」といきごんでいた(お母さんとお父さんは、だから、行かない方が良いのではないかと言っていたのだが)のだけれど、そのものすごいゲームの量(彼らの町では、おもちゃ屋さんの一角に1スタンドあるだけなのだそうだ)に圧倒されて早々に退却し、初めて地下鉄に乗って、モールに内側から着くと、これまた、向こう端がかすんで見えない広さのデパートで、いやはや何とも、もうすっかり疲れたのだけれど、興奮して居眠りできない状態で、子供たちの一日はすぎた。でも一番びっくりしたのは、電車の切符って、自分で計算しなくても、少し余分にお金を入れて、行き先のボタンを押せば、機械がかってに計算しておつりや切符をはき出してくれることだった。子供たちがおもしろがることは、大人が思っていることとは、微妙に、しかし確実にずれながら、組み立てられていく。
 2日と7日には、仙台市内の幼稚園の年長組の連中と長い、ずうっと歩く本当の探検。この人たちは、もう何回も美術館に来て、僕と、美術館内の探検は十分に経験している人たち。初めの人たちとは、美術館で落ち合い、広瀬側に沿って、河原を歩いていって、原っぱでお弁当を食べ、銭形地蔵を見て、評定河原橋まで行って、園バスに来てもらって帰園。次の人たちは、仲瀬橋で待ち合わせ、ほぼ同じルートで行って御霊屋に至り、鹿落ち坂向かいの河原公園を通って縛り地蔵を経てお墓の裏から道に出て愛宕大橋の側の幼稚園に帰るというルート。各日2万歩を超えて歩いたかな。何人かドブに足首まで落ちて、ちょっと泣いたり、鬼って言ったのに、銭形不動は、全然おっかなくなかったりしたけれど、疲れなんか感じる暇もないほど充実した一日だった。何しろ、彼らの上に次から次に初めてのことが起こるのだ。一緒に見てびっくりして息をのみ、顔を見合わせて大声で笑うときの心うきうきったらない。
 ううむ、なるほど、こう書いてみると、なぜ、更新できなかったか少しわかってきた。書いたり読んだりするより、一緒にやってる方が、ずうっとおもしろいんだな。このほかの日も、何回か、自転車で阿武隈川の河原を走ったりしたしなあ。おっと。アリとキリギリスの件は又この次になってしまった。

10月31日 空は、そんなに高いわけじゃないのに、良い雲が見える。すてきな秋の日。

 最近、絵画グループの展覧会を見る機会が多くて、そのため、通勤で歩きながら、アリとキリギリスと、彼らを巡るカラオケについて考えている。

 イソップ物語の「アリとキリギリス」の話は知っているだろうか。夏に、アリが一生懸命冬に備えて働いているとき、キリギリスは、歌をうたって遊びくらしていた。冬になって食べ物がなくなると、キリギリスは、アリの家に物乞いに行くことになる。さて、ここまでは、だいたい同じにみんな知っている。で、あなたの知っているお話では、この後どのようにストーリーは展開していっただろうか。働かざるものは哀れな末路を見ることになる、で終わっていただろうか。たとえで考えるのは、様々な落とし穴が待っていることが多いと言うことは理解した上で、しかしこの話には、芸術を巡って考えることが多くあるように僕には思える。

 まず、基礎的な学校(小中学校と、一部高校大学を含む)で「勉強」するものやことは、基本的には一般的な「アリ」を作るためになされているのだと言うことは、私たちの国では、みんなに自覚されているのだろうか。だからたとえば、そこで学ぶ図工や美術や音楽や体育(表現系科目と呼ばれる学科ね)は、決して「キリギリス」になることを目指してはいないことを自覚しよう。そもそも、キリギリスは、ほっておいても出てくるからこそ、キリギリスなのだ。練習してどうにかなるキリギリスは、その程度のことだ。練習を重ねただけでは超えられない、内からわき出るものを持っていて、かつ表現できるものが、キリギリスになる。誰でもなれるものではないし、むしろならなくて良いのだ。言わずもがなだが、みんなキリギリスになると、その社会はつぶれてしまう。ほとんどの人は、アリになる。できたら「良いアリ」になることを目指して基礎的な勉強はなされる。さて、「良いアリ」とは、どのようなアリか、ということについては、考えなければいけないのではないか。
 あなたの知っている話では、冬にキリギリスが物乞いに来たとき、アリはどのような態度をとったのだったろうか。「夏に楽しい歌をいっぱい聴かせてくれてありがとう。どうぞ家に入って一緒に食事をしましょう。来年も又新しい歌をお願いしますよ。」私が知っている話はこう展開する。まず、歌を歌うことが、アリにとってもキリギリスにとっても、アリの仕事と同列の仕事として自覚されていないと、こうは話が進まない。又、アリはともかく、キリギリスにもその自覚を促すには、若干のプレッシャーをキリギリスに与え続ける方が良いのではないかと僕は思っている。絵なんか描いてないで勉強しなさいと言われ続け、それでも描きたい人が絵を描くキリギリスになっていく。キリギリスとは、どのような仕事をする係なのかについて正しい情報がなくても、アリはこういう態度をとれない。そのために、学校で図工を学ぶのだったのだ。決してキリギリスになるためではない。なりたい人は、学ぼうが学ぶまいが、キリギリスになっていく、ならされていく。
 明日は、小学校の特殊学級の子供たちが美術館に活動をしにやってくる。だから、今日は、もう寝よう。この話はしばらく続く。

10月19日 秋晴れだ。様々な技術的状況が重なって、文章の更新が滞っている。まったくすまぬ。アップしたい文章が2種類、既にあるのだが公開できないでいる。しばしお待ちを。

 休みが取れないまましばらく続けて働いたので、何日か続けて休みを取った。快晴の亘理に、親父とはらこ飯を食いに行きながら海の温泉に入り、山形に新蕎麦を食いに行ったついでにリンゴ入りの山の中の露天風呂につかって川の側でソフトクリームをなめ、気になっていた展覧会のギャラリーを全部、しみじみと一日古いマウンテンバイクで巡り、材料も分量も私の体に最適なレストランで、遠くに海を見ながら昼食をとった後、街の中の川が見える地下のカフェでコーヒーを時間をかけて飲み、変に興奮したままへんてこりんな二重焦点の眼鏡を新調して、自分ではいくらやってもシャキッとしない24インチの自転車を、達夫君のところで話を聞きながらすっかりなおしてもらい、最終日の今日、孫とあっちこっち詳しく見ながら、竹駒神社をゆっくり散歩した。おおなんとすてきなじいさんの休日だったことか。でもまだし残していることはある。

 休みの作業が続く中で、一日、友人の最新式オートマチック軽自動車を運転する機会があった。山形の蕎麦屋まで往復。しごく快適。私はシトロエンの2cvと、ルノーのエクスプレスという自動車を持っている。ほぼ趣味の自動車で、すでに下取り価格とかとは縁のない車だ。これらの車がどのように、家族の一員かと言うことについては、お父さんのひとりごとにも何回か書いたことがあるし、話し始めると長くなるからここではしないが、オートマチック、なかなかいいんだなあ。少し動揺している。自分の体の状況が変わってきているので、身体の増強マシンとしての車の選択の幅も変わってくるのだろう。しばらく動揺を楽しもう。  

おう、9月1日だ。ちょっと変則技だ。ほんとは10月6日なの。

 8月の末に、本当にしばらくぶりで、競技会を「見に」行った。それは、蔵王エコーラインのあっち側の終点にあるスキー場で行われた、マウンテンバイク(自転車)の耐久レースで、競技会といってもフェスティバルとして行われた会だったので、むしろ真剣な楽しさに満ち満ちていた。
 快晴の、秋風が吹き始めた、広いゲレンデの草むらの中に腰を下ろして、次々目の前を走り去る一生懸命の人たちを、双眼鏡も動員して、「見る」のは、充実した暇つぶしとしては実に豊かな時間の過ごし方だった。僕は、モーターサイクルを巡っては、選手として幾つかの大会に出場し、何回かの大会を主催したりしてきたので、その両方の視点で楽しめた。選手として参加するかはともかく、これからも機会があったら見に来ようと、その時思った。

 ただ、一生懸命ペダルを踏む人たちを見ながら、僕が考えていたのは、しばらく前に構想した「仙台トライアングル」という遊びのことだった。
 スタートは、広瀬川が、青葉山にぶつかって大きく蛇行し、市内にはいるために再び向きを変える、三居沢の河原。堤防の上を来た道を山側の突き当たり(トイレ駐車場有り)に向かい、そこから市有林にはいる。初めは、長い上りの階段だ。もみの林を抜け、宮教大の裏手、元金属博物館手の広葉樹林帯を通り抜け、市有林南端からバス通りを横切って、青葉台バス停終点にいったん出て、その先右手に続く国有林へと移る。東北道の脇をかすめながら山を下り、そのまま南をめざして高速道の下をくぐり、太白山自然観察の森を登る。太白山頂にチェックポイントを置いてもいいが(確かに見晴らしは最高だが)、ま、そのへんは軽く流して、鎖場下あたりで太白山は折り返し、林道を下って国道286を横切り、茂庭荘方向に進んで、東北縦貫道の東側すぐ下あたりから名取川に降りる。名取川をそこから下れば、栗木橋下に一カ所堰があるだけで、そこをのり越えれえば、広瀬川との合流点である日辺までは、適当な緩急のある広い流れのまま、一下りだ。20年前にはオフロードバイクで走り回った、日辺の芦の原だった河川敷の上を南道路が走っている。あたりの河原も、今ではすっかり整備されてしまった。ここから広瀬川を逆上り、千代大橋、広瀬橋、宮沢橋、愛宕橋と市内に向かって進んでいけば、遊歩道や、抜け道や、普通の道路が、野外博物館として上流三居沢まで、整備されている。ほら、戻ってきたでしょう?というルート。
 さて、何で移動するといいか/快適か。三居沢から茂庭荘は、人間の足(走る)。茂庭荘の前から日辺までの名取川は、船(カヌー)。そして日辺から三居沢までの遡上は、自転車(ATB)がいいのではないか。すぐ競争はできそうだけれど、本質的なエデューロとして行うなら、順位は、早い遅いではない方法で付けたい。というより、常設コースとして、いつでも、ふらりと出かけられるといいな。各々のポイントに、デポジット(資材留め置き所)があって、自転車や、船が置いておけるようにして。まず最初に、全部徒歩(もちろんランニングでも、止めるものではないが)で、ぐるっと一回り、というのをお奨めする。次に、全部自転車。こっちの方が、体力的には少し、楽かな。川のどっち岸を使うかは、各自考える。これだけでも結構面白い。この距離でも、確かに、川は、高い方から低い方へと流れていることは、うんざりするほどじっくりわかる。というような、遊び方。
 やっぱり、速い人が偉いのかなあ。何とか、速い遅いじゃない、遊び方の所で遊べるともっと面白いのだが、と思うこと自体が、負け惜しみなのかなあ。久しぶりで見た、マウンテンバイクの競技会の時間に身を浸しながら、しばらく歩いていないこの辺の周りを思っている僕がいた。

9月18日 台風が来ているというのに、風邪引き気味だ。

ほんとに更新の頻度をあげるというのは、大変だ。
 僕は、毎年9月後半に、夏休みをとることにしていて、そのため、逆に9月前半は、普段よりかえって忙しいくらいになってしまう。今年もそうだった。9月15日からエイブルアートという団体に呼ばれて、小田原の足柄山の研修所で行われた、障害者の施設に勤める人たちの芸術の研修会に出かけた。それは、大変にためになる集会だったので、又別にまとめよう。しかし、僕は、もう十分に老人のようで、みんなについて行くと風邪をひいてしまったようなのだ。これから、長い休みだというのに、なんてことだ。

すまぬ、だから今日はもう寝る。この文は、新たにos10のシステムで書き始めていて、それにも、まだ、全然なれない。今、練習中で、できるだけ近じか長い文章をアップしたいと思う。ではお休み。

8月27日 夏は終わったんだと確信する薄ら寒い曇り。

このブログは、もともと、自費出版した「お父さんのひとりごと」の本がすぐになくなってしまい、なくなった後で欲しいと来た人たちに、せめて文章を読んでもらうことができるようにする目的で立ち上げたのだった。せっかく開くのだから、ちょうど、お父さんから本物のお爺さんになるところだっこともあり、「お父さんのひとりごと2」も書き始めたらどうだろう、いろいろ小さいメディアに書いていた文章も必要に応じて公開しよう、その他のことも公開できるものはしよう、と、なんだかいろいろ重なって始めたのだった。

 だから、このブログを読んでいる人に、あらためて、お知らせし、お願いするが、まず、右肩の「お父さんのひとりごと」(略しておとひと1)を読んで欲しい。言いたいことは、ほとんどそこに書いてある。あの本がなくなって以後、早くも5年以上の時間がたって、自分の身の回りには、結構重大な変化が起こって、考え方の幅はだいぶん広がったように、自分では思うけれど、今読み返しても、そもそものあたりは、おとひとを書いたあたりにある。
 この前、宮教大のごく新しい後輩にあって、教育の進化について質問を受けたけれど、どうだろう、教育のそもそもは進化したりするものではないのではないか。状況は変わり、わかったことは増え、技術も拡大はするが、新たに来る人は(小さい人は)また、新たに来ているわけで、人が、この惑星の上で生き延びるのに必要なものやことは、あまり変わることはないのではないか。開き直って言うが、だいぶ前に書いたお父さんの話が、未だ僕自身、楽しく、かつ襟を正ながら読むことができるというのは、そのためなのではないか。むしろ、最近書く私の文が、何か全部、遠回りに、悲観的で、保守的で、有限的になってきていることをこそ考えたい。
 そのほか、美術本当のところ、には、美術館で普段のっている様々な相談について、美術関係のカテゴリーには、だいぶ前に書いて、様々なメディアに載せた文を公開しており、これからも増やしていこうと思っている。

8月11日 晴と言うより、薄曇り。今年の夏は、この空で行くのだろう。

 8月2日に書いた文は、なんだかあわてている。8月2日に書いているのは、7月16日とかあたりからの話なのだ。書いている本人は、前に書いてから、2週間ぐらいしかたっていないつもりで書き始めている。書きながら、徐々にその時間のたつ早さが実感されて動揺してきて、文が、なんだかつながっていないし、まとまっていない。心して、読んでね。


 さて、「お父さんのひとりごと」と別に、「美術、ほんとのところ」を、立ち上げた。2006年の4月から7月にかけて、毎週金曜日の河北新報の夕刊に、10歳以上15才ぐらいまでの人のために、美術について書いた文を、挿絵ごと、そのまま公開する。挿絵は、齋悠記さんで、彼女は私の長女。ついでに、この文を書いたときに、新聞のコラムにまとめるために、今、美術を巡って、小さい人たちに伝えたいと、私が考えていることをまとめてみた文も公開する。こっちの方を載せたかったけれど、新聞には、字数の制限があって、短くした。でも、その方が、わかりやすくなったのかもしれない。学校で、美術を授業で学習する理由は、この辺にあるということが普通になってくると、小中学校での図工や美術の授業時間が減るなんてことはなくなるのではないかと、僕は、楽天的に考えている。このまとまりには、美術や美術教育を巡って、様々なところに書いた文章を必要に応じて、公開していこうと考えている。ご利用を。

8月 2日 曇のち晴。今日梅雨が明けたとラジオが言った日。朝方薄ら寒く、午後から湿暑い。

美術館は、月曜が定休日なのだが、その日が祝日の場合は、開館する。そして次の日は普通通りに開館する。で、海の日あたりは連日開館。でも、すまぬ、私のローテーションはお休み。

でも、脳神経外科関係の薬が切れて、18日は、病院に行って薬をもらったりなんだりかんだり動き回っているうちに、天気の悪い休みは過ぎた。23日に、岩沼の展覧会は終了。あんまり顔を出す機会もないうちに終了。でも、思いの外沢山、広範囲の人が見に来てくれたと言うことだ。改めて、僕は、物を作ってしまう人なのだ、ということをしみじみ実感した展覧会だった。今回のような展覧会だと、自分の気になる「物」をひょいと提示して、そこの場の状況を見事に換えてしまう人がいて、ほんとに、うらやましい。まず、そこにある音に耳をすましてから、自分の音をその音の中に自然にそっと流し込む、というような形で音楽ができる人たち。僕は、音があるのはわかるのだが、自分の音を大きくどんどんかってに演奏してしまう。すごく気にしてやってもそうなってしまう。俺って昔風なんだな。24日に、出かけて、自分の作品の撤収と、残った部分の草刈り。借りた建物の庭の草刈りをするという条件で、敷地と建物を借りているのだ。草刈り機と鎌。両方面白い。ダットサントラック荷台いっぱいの草と、それと同量の草の山を刈る。昼、みんなでそばを食ってから、午後から大学に行って最終授業。神経探検後半、視覚混乱と目隠し。神経探検は、何回やっても、気を抜いてやっても、疲れる。
25日は、県の社会教育課主催のジュニアリーダー中級研修を美術館でする。集まった少年少女は25名程で、さすが、ジュニアリーダーの中級を受けようとする連中は、若々しい顔のやつが多いなあと、最初合ったときに思ったが、何となく全員高校生なのだろうと思いこんで、てきぱきと話と作業を進めていった。そうしたらなんと、終わり近くなって、2/3が中学生だということが判明、最初の印象は正しかったのだ。ひえーっ、ちょっと難しかったかな、すまぬ、と思ったときは終了していた。このブログのアドレスを教えておいたのだけれど、もう後の祭りかな。わかんなかったところは、個人的に、いつでも電話してな。
 7月の最終週末は、またまた連休。夏休み期間になると、休みの予定は、めちゃめちゃになっていく。連日家の掃除と、自転車の分解組み立て。昔子供たちが使っていた24インチのATBやゲーリーフィッシャーの初期型フークーイークーなどが、周り回って手元に戻ってきて、面白そうなのでしこしこなおして、また動くようにしようとしているのだが、どうも、左手が思うように動かなくて、というのを言い訳に、最後の調整は、二輪工房の達夫君に無理矢理頼み込んだりしながら自転車整備のリハビリをしている感じ。
 さて、大学の授業13回目。一人でやる神経探検。10㎝×20㎝のプラスチックの鏡を各自に貸す。まず、目の上に、鏡面を下にして水平に当てる。鏡を少しづつ傾けて、足の先だけが視界いっぱいになるちょうにセットしたまま、階段を下りて、外に出られる階まで降りる。外への出口に続く廊下に着いたら、鏡を逆に目の下にあて、今度は天井だけが見えるようにセットしなおして、空が見えるようになるところまで移動する。全員が外に出たら、2組に分かれ、1組の人は、布で目隠しをして、静かに動き、何かにぶつかるところまで動いてみる。2組の人は声を出さずに、その動きを観察する。交代して同じことをする。深呼吸をした後教室に戻り、感想を書いて終了。

7月14日 晴。でも、梅雨の中休みの高曇り。気温30度を超し、かつ湿度高し。

 私には、私の体のメインテナンスを一緒に見てくれる、良い「魔女」が付いているのだが、その人が、魔女を始めて10周年ということで、記念に1週間骨休みに出かけた。脳内出血から復帰して以来ほぼ毎週一回、体のバランスを見てもらっていたのが初めて一回お休み。僕の魔女のてあての効き目は結構はっきりしており、毎週のリセットの効果を感じていたので、ちょっと心配だったが、やや疲れがでた程度で乗り切った。昨日、2週ぶりにリセットして、熟睡。今日は休みで、午前中、気になっていたふき掃除を含む、家の掃除をした。


2週更新していないと、報告はたくさんある。7月3日に、宮城県障害者福祉センターで、施設職員の人たちの研修でお話。お散歩の組み立て方について。散歩の時の美術の使い方。午後、実践練習。どうだったのかなあ。10日から、岩沼の桜5丁目にある元石垣病院看護士寮、前じゅん動物病院跡の廃墟で行われる、佐藤才子さんプロデュースの「美術計画」というインスタレーションの展覧会に参加するため、8日に一日休んで制作。朝8時半に行って、考えていた設定を午前中いろいろしてみたが、見事に全て失敗。頭でっかちめ。昼から、以前していた船を巡る作品に切り替えて、4時頃に終了。やや、疲弊。時空のかなたをすぎる空船/ときのかなたをすぎるふね−再び06。9日、仙台市高校美術展の希望者に対する美術探検。希望者、宮城野高校の2年生一人。小牛田から通っている、プロダクトデザイン専攻の男子。どういうことを聞きたいかがうまく聞けなかったかもしれない。呆然と2時間はあっという間に過ぎる。ま、とにかく。10日は55才の誕生日。あと5年で60才か、5年なんてすぐだよなあ、などと思いながら、しかし、朝早くから南東北病院に前立腺の薬をもらいに行く。なにやかやで午前いっぱいかかる。午後遅く、大学の授業。神経探検をする。ものすごく脳みそが疲れる。美術計画始まる、2週間、23日まで。13日、婦人会館主催の就園前の子供たち(親と一緒の30組)に対する美術館探検。何もしない、ゆっくり歩くお散歩、何しろ多すぎる。婦人会館の担当者には、喜ばれたけれど、みんなは、どうだったんだろうか。子供は、絶対おもしろがったと思うけれど、大人も一緒だと、いつも何ともしっくり来ない。5人ぐらいで、子供たちとだけだったら、すごく楽しいのになあ、おじいさんは。という感じの、今日は14日。こういう風に振り返ると、俺って、いったい、何してんだかなあ、の想い強し。
 さて、大学の授業11回。みんなで、カフェテリアの外の芝生に出る。新聞紙を一枚、くるくる細く丸めて、セロテープで留めると、構造体として使える棒ができる。これをヒントに、各自、新聞紙でUVシェルターを作れ。各自、と言ったのに、すぐ何人かのグループになる人たちと、一人でやろうとする人とできる。最小は、簡単な傘から、家の形にこだわったため、どうしても建たない、しかしなんとか壁にテープで留めて立たせた家まで、様々できる。今年は、折り紙のかぶとはいなかった。時間が来て、各自破壊。ゴミ袋に詰める。感想を書いて終了。
授業12回目。神経探検。各自ペアを作る。向き合って、息を合わせる。息合わせは、相手の体の一部を注視して、その動きに合わせて、自分の息を吸ったり吐いたりすること。うまくいけば、一発で合う。息があったら、各自、利き手を微速で握る。微速は、自分ができる、最もゆっくりした速度のこと。5分以上かけて、できるだけゆっくり、かつできるだけスムースに手を握る。各ペアの先攻と後攻を決め、微速をした手の親指と人差し指で、各ペアに一本渡した糸をお互いに引っ張りながらつまみ、先攻の人が糸を動かす。糸が水平に動くように後攻の人は、先攻の人が動かすとおりに手を平行に動かす。動くとき(引っ張られるとき)の糸の感じがわかるように、意識して糸の動きを楽しむ。感じがわかったら、後攻の人は、目を閉じてやってみる。先攻後攻を換えて行う。糸を仲介に動けるようになったら糸を捨て、糸なしで糸引きを行う。初め目を開いて、相手の指先を見ながらおこなう。相手に引かれる感じが感じられたら、目をつぶってやってみる。これは、引く方も引かれる方、両方に集中が必要。できたできないは問題ではなく、やろうと集中したときの、自分の意識の澄み方を味わうのが目的。交代して行う。この後、鏡を使った視覚の拡大実験をしようと用意していたのだが、僕の方が疲れてしまって、この次に延期。で、今日は終了。いやはや。

7月 1日 明るい曇。気温は高いが、空気が湿っていて、動かないと肌寒い。

 6月20日に書いた鼻の奥の痛みは、ちゃんと風邪になって、活動の合間を縫って、何日か休んだ。驚いたことに、日中、ぐっすり眠れて、結構疲れてたんだな。あぶないあぶない。休みのはずの月曜日に、授業以外に何かかにか用事が入って、何となくリラックスできないまま、休んだ気になって、15日間連続仕事モードだったりしていたのだった。やってることが、全部面白いんで、ふとやってしまい、するとやっぱり面白くて集中してしまって、気付くとこたこたになってる悪循環。


 何かをあきらめる必要がある。今、家の玄関の土間は、ちょっとした自転車屋さんになってしまっているし、Gゲージと、プラモデルの気になる情報が入ってきているから、決断しなければいけないし、岩沼桜寮の展覧会も近づくから、制作しなくちゃねだし、庭の植木も元気に葉っぱが茂り始めてきたので、植木屋さんに電話して相談をした方がいいようだし、今年こそは阿武隈川でカヌーなんじゃないのとも思うし、酒田の保育園の人たちにも会いに行って元気でねの話をしながら、ついでに大松屋にも行かなきゃなんないし、ああそのためには、2CVの気になってるところを早く直さないといけないし、いっそ、トランザルプ(モーターサイクル)で行ってしまえば簡単だなんて思ってしまうし、そのためには、ベルスタッフ(ライディングジャケット)の水洗いをしなくちゃなあ。ううむ、とにかく、なんか考えがまとまっていないと思う。優先順位を考えて、一つ一つやっつけよう。でもこれって、なんか病気っぽいなあ。一週間は、ほんとにすぐ過ぎる。
 授業第10回。前回の授業の後の感想と質問で、この授業では、ペープサートの作り方を教えてくれないので、保育実習の時に困る、と先輩が言っていたのだが、しないんですか?という質問あり。さてどう答えればいいのだろう、というより、どう考えればいいのだろう。私の答え。しない。理由。ここは、4年制の大学の保育科で、図工は、前期だけ2単位分しか授業時間がないから。ペープサート作りが上手になるため大学に来たのだと思っていた人は、そもそもの考えがまちがっていたので、大学はすぐやめて、専門学校に移りましょう。私たちは、ペープサートの様な物やことが必要になったとき、そういうようなものをはじめから考えつくことができる人になることを目指して、勉強しているのです。大切な問題なので、つい一生懸命話してしまった。二つ目の話題は、前回の、たき火がうまくできなかった人が大変多かったことの、私の反省。始めにマッチの木(軸木)に火を移し、それを紙に移し、乾いた松葉に移し、細い枝に移し、息を吹きかけ、小指くらいの枝に移しそれを集めてたき火が始まる、っていうあたりから、ちゃんと説明しないといけなかったのだ、最近では。各自自分で何回かやってみて。
 さて今日の活動。前の時間に連絡しておいて、各自3日分の古新聞紙を持ってきている。机を前と後ろに寄せて、教室の中央を大きくあける。そこに全員腰を下ろし、新聞紙を短冊状に裂く、壊す。持ってきた分全部をビリビリにする。やってみるとわかるが、新聞紙は、簡単に裂ける方向がある。それを探し、できるだけほそく細かく裂く、裂いた物は各自確保しておく。新聞紙を裂く音だけがしばらく続く。直に、ほぼ部屋いっぱいの新聞紙の海ができる。全員がほぼ全部の新聞紙を裂き終えたら、各自裂いた物を両手に持てるだけ持って中央に押し合いへし合い集まる。号令に会わせてそれを上に投げ上げる。何回か繰り返す。一息ついたら、A組の人が、上を向いて床に寝る。B組は、その上に紙を降らせる。交代して行う。満足したところを見計らって、教室中央に紙を集めて小山にし、中を匍匐前進で通り抜ける練習をする。これがハムスターになる練習。紙くずをみんなで力を合わせてゴミ袋に詰めて終了。ハウスダストアレルギーの人は残念ながら離れてみてるほかない。この次も、古新聞紙を使う活動。3日分の古新聞紙とセロテープを一巻き持ってくる。

6月20日 空は明るいが、曇りときどき小雨。薄寒。

 いやはや、今書き始めて吃驚したのだが、なんとほぼ2週間書いていなかった。実は、この週末から今日まで、風邪っぴきで家で寝込んでいたのだが、そうだったのか、風邪ひいた理由はこれだったのだ。調子良いとすぐ働き過ぎるんだな、俺は。


 6月に入ってすぐ、友人のO飛行士が美術館に訪ねてきて、しまってあった、「放射冷却する停車場より」という題の大きな彫刻(1m×1m×2m)を彼の家に引き取って行ってくれた。ありがたい。彫刻家は、このあたりが大変なのだ。枠からはずして畳んで重ねてしまっておくいうわけにはいかない。飾れる庭を持つ友だちは有難い。5日から始まった1週間は、新たに始まった25周年記念拡大常設展第2部をどのように教育普及で扱うかをまとめるので過ぎた。1期目は、時間軸が中心だったので、なれたもんだと何ごともなく過ぎたが、今期は、ひとつひとつの作品の読みとりの面白さ奥深さが展開される。読み取りは、1人ごとに異なるので、そこを確認し、大切だと思う所から始めなければ始まらない。多分、日本で鑑賞の「授業」をする時に、最も大変なのは、ここの所なのではないかと、僕は感じている。教育普及部の同僚の大島君とも話し合って、大分困ったが、困ったということをそのまま使って、お話を展開することにした。
 12日月曜の休みに、前に書いた動物病院跡地での美術展のための草刈りをみんなとした後、大学で講義。草刈り機を友人から借りていたので、楽勝だとタカをくくっていたが、御存じの方は御存じの通り、草刈りは、ある特殊な作業なのであって、楽勝なんかないのであった。いやはや。その日の午後遅く大学の授業。
 明くる13日は、朝から秋保湯本児童館に出向いて、就園前の人たちとお母さんの会で、みんなで穴掘り。特別に、何か子供のための遊びを勉強して、してあげるのではなく、普段の生活の中から、その人が何に興味を持つのかを丁寧に見つけだして一緒に遊ぶための練習。園庭に、大きな穴を、大人がスコップで一生懸命掘ってみせると、大きなスプーンやおたまを持った小さな人たちがそこに少しずつ混ざって来る。混ざってきはじめたら、大人はそっと穴から上がって、彼らを観察する。ある時期が来たら、その穴に、ホースで水を入れる。できたら、少し離れた所から川を作って流すのが望ましい。と言うような作業。すごく面白いよ。大人が、張り切っちゃうんだよなあ。冷静に、子供といることを楽しんで、というあたりの塩梅が難しい。その日の午後、県教育研修センターの小学校の先生達のための鑑賞の研修を、美術館の展覧会を使って。
 その次の日は、いつも来ている愛児幼稚園の年少の人たちとの、極基礎的な美術館探検の活動。20年ほど前、この幼稚園のこの年令の人たちと、恐る恐る、しかし恐れを知らない若者の時代だったので大胆に、させてもらった活動。その活動の積み重ねから、美術館探検が始められた幼稚園なので、ぼくにとっては、いまだに大切で特別な人たち。素直に育てられている小さい人たちには、嘘やごまかしが通じないので、毎回自分の点検をせざるを得ない。いやはや。
 で、木曜日の午後4時45分、うっすらと、喉の奥が腫れてきた感じがして、その夜、風邪をひいた。金曜はちょうど振り替えの休みだったので、その日のうちに直そうと思っていたが、そううまくは行かない。今日まで、ほぼ寝ている。いやはや、本当に眠れるので、本当に寝ていた。大分よくなってきた感じだったので、昨日の大学の授業は行った。美術館で会おうと言っておいて、迷惑をかけた人がいたようだ、ごめんなさい。偶然父の日なんかと重なって、下の娘が孫とともに家に泊まりに来ていた。本当に、助かったよ、ありがとう。 
 大学の授業第7回目。6月5日。創作折り紙。3人にひとつずつ、裏の林でその日に拾った「まつかさ」を配る。20年ほど昔、美術館で、その当時、日本一の誉れ高かった折り紙名人を呼んで折り紙教室を行った。それに参加した4歳の娘が、小さい手で大切に持って見せに来たものは、僕にはどうみてもくしゃくしゃにまるめた紙にしか見えない「折り紙」だった。「おう、できたか。で、これは何?」「石!」その時の彼女の自身に満ちた、誇り高き、キラキラした、目。と言うのが、僕の折り紙の原点で、そこを、みんなと共有したい。B5の紙を配るので、各自、松ぼっくりを折りなさい。切れ目を入れたり、切ったりしないこと。きちんと折ること。誰に聞かれても、これが、私の松ぼっくりだ、文句あっか、となったら、出来上がり。(携帯の写真で記録したら)紙を平に戻して、折れ目を、山折実線、谷折破線で、書いて提出。という作業。
 授業第8回。6月12日。初めに、この授業で、創造力はついてきてきてるとは思うが、幼稚園とかに行ったら、やっぱり可愛いウサギさんとかを描く力がいるんではないかという質問に答えて、ウサギの描き方。ウサギの後ろ足を描いてみて。見たことがなくても、知っていることを冷静に使えば、たとえば、このような辺りまでは、誰でも描ける。そこから先は、何を可愛いと教育したいのかの問題になる。どういう大人にしたいのかの教育。この質問は大変大切なのではないかと私には思える。どういう教育を受けたので、私達は、今こういう人になったのか。そして、わたさひたちは、どういう人を作るために、教育をしようとしているのか。誰かが、誰かのためではなく、あなたが、あなたのために、それを考える、という意識。その後、裏の林に、みんなで出て、持ってきたカレーのスプーンを使って、各自自分の手のひら大の穴を掘る。穴というか皿。中に、燃えやすそうな枯れ葉や枝を集めて、今日は終了。
 授業第9回。6月19日。全開の確認のため、今日は雀を描いてみる。年上の人と、少し戦ってみるのも良いんじゃないかという話。活動は、この前の続き。ティッシュペーパーをこよりにして丸め、火種にする。マッチのスリ方。火事になったらどうするか、各自考えておく。話の後、前回の穴に各自戻って、穴の中に、小さいたき火を作れ。マッチに火がつかない。紙が燃えない。すぐ消える。息を吹き掛けられない。薪の上に火種を作る。始めから太い木に火を着けようとする。その他その他。ほとんどが着火に失敗。一応、バケツに水を汲んでおいたが、後始末すら必要無いほどの惨敗。去年は、小雨の中で、松林の中にたなびく白煙だったのだが、、、。この次は、ハムスターになる練習。
 

6月 4日 晴じゃないな、薄曇り。暖かいのに風は冷たい、でも半ズボンをはいてみた。

 しばらく更新する時間がとれない程、何やかにや毎日忙しかった。毎日の通常活動をぬって、5月27,28日の土日にかけて、大学の授業の一環として、美術館に全員集合し、美術探検と美術館探検の活動を体験する、というのをした。鑑賞(美術探検)と、その幼児版(美術館探検)。これまでの経験から、私が美術館で、どのような仕事をしているのか見せるのは、遅すぎてもだめだし、早すぎてもわからない。塗りつぶしを写してみる(5回目の授業)が終了したあたりがちょうどいいようなのだ。2日間同じ物をやってあげるから、各自都合のいい方の日に参加し、必ず両方の活動を体験すること。各探検の内容に関しては、また項を改めよう。何回やっても、ワークショップ、しかも、生きているワークショップを文章で記録伝達するのは、ものすごい字数が必要なのだ。気になる人は参加して体験する、が一番早く確実にわかる。で、次の日29日月曜日に6回目の授業をした。
 美術館は、4月から始まった25周年記念拡大常設展の前期が5月末で終了し、1週間全館を閉めて、全部を展示替えし、6月3日土曜日から再開。拡大常設展後半が始まった。館が閉まってると休みでいいですねという人もいるが、来館者がいないときは、デスクワークがあるわけで、なんやかや結構忙しく時間が過ぎる。それでも、数日時間をとって様々動き回り、エクスプレスは生還し、2CVも一応動かせるようにした。若い友人たちと仙石線小鶴新田駅集合、ゆっくりうろうろしながら、歩いて梅田川沿いを戻り、東仙台苦竹旧原ノ町商店街探検なんかもした。これは面白かった。どうしてあの辺の人は、あのあたりをあのまま売り出さないのだろう。あ、こういうのおもしろがってるの、僕だけか。
 6月3日は、拡大常設展後半の始まりの日で、美術探検と美術館探検の公開活動がある日なので、出勤。後半の展示は、前半が時間軸での展示で、使いやすかったのに比べて、専門性が高く、教養主義的にしか話が展開しにくく、普及活動で使うには、難しい。だいぶ脳みそを絞りつつ話をした。そういうときに限って、これまた複雑な教育的配慮がいる相談を持ち込む人がいたりして、重ねて疲れるのだ。でも一方、沖縄や酒田の古い友人が訪ねてくれたりして、やや和んだりもして嬉しかった。



 大学の授業6回目。5月29日。美術館探検は面白かったが、美術探検は難しくあきた、という人が結構いた。始める前に何回も確認したとおり、両探検は同じ物なのだ。ただ、対象の年齢が10才より上か下かで変えているだけ。だから、美術館探検のおもしろさと、美術探検のおもしろさは、実は同じ物なのだ。僕にとってはね。館探検が面白くて美術探検は大変/あきた、というのは、象徴的にあなたの精神年齢を表している。美術館探検のおもしろさと同じ物が美術探検にあるというあたりをちょっと俯瞰的に考えてほしいものだ。
 作業は、今回も写し絵。前回、見た通りを写すというのを自覚的にする練習をした。黒く塗りつぶした、これまでの常識では、何も見えないはずの紙の中に、素直に見れば、様々な物が見えるという練習。今回下にしく物は、私の顔写真用正面顔のカラー写真をB5にカラーコピーした物。その上に、同じ大きさのトレーシングペーパーをおいて、見える物(顔の輪郭のような線で見える物だけでなく、小鼻の赤みや、皮膚の凸凹、背景の壁の明暗当、線はない物も含めて)を細マッキーでできるだけ克明に線だけで写す。15分たつと、「では、下の絵を30度傾けて、続きを描きなさい」の指示が加わる。大混乱。その後最低15分は継続。最終的に、「できるだけかっこうよく彩色して提出」。適当に終わる人と、時間が来てもやめない人が出る。提出は、ほかのと同じで最終授業までにとにかく提出すればいいので、急ぐことはないで、終了。

5月23日 曇。雨ふりそうで降らず。

 友人の佐藤才子さんと、展示場の下見。佐藤才子さんは、陶芸家出身のインスタレーション作家。一年に一回以上、ある状況を設定して、そこに、何人かの仲間とともに展示し、そこの場所、および展示される物両方の、状況を変える、のを楽しむ。で、今回は、岩沼の、町はずれにある、昔、動物病院、少し前まで、病院の看護士寮、今、廃屋、という物件を探しだしてきて、そこの下見。庭、植木いっぱいで広く大きい木多数。草ぼうぼう。建物内、すごく魅力的。そのままきれいにすると、そのままで、ちょっとしたカフェとかできそう。きれいにしないと、そのまま現代美術物件/状況多数。7月の海の日あたりを中心に展覧会をする計画を立てる。「桜寮・岩沼」。参加、見学の問い合わせは、才子、又は齋へ。


 さて、大学の授業5回目。5月22日。質問に答える。今回、塗りつぶししていったい何のためになるのか、という質問が多くあった。すぐに目に見える結果のでる活動は、基礎的な教育では、少ないのよ。ずうっと遠回りに見え、何の役に立つのか、若いうちにはわかんないけど、人生に深く関わる勉強。実技は、前回描いた、B5の塗りつぶした紙の上に、同じ大きさのトレーシングペーパーを乗せて、見えるとおりに写す。マッキー細の黒使用のこと。最初、見えるとおり写す、というのが、話だけでは、なかなか始められない。勝手にピカチューとか描き始める人も出る。なにやってんだろう、何も難しいことはない、ちゃんと見えるとうりに写し絵すればいんだよと、少しやってみせる。見ることの自覚。見ていなかったことの自覚。見えないと思っていると見えず、見えるんだと思うとどんどん見える。静まりかえって作業が続く。線が終わった人は、持ってきた色で、「かっこよく」彩色。時間中にできた人は、塗りつぶした紙とトレーシングペーパーを提出して終了。

5月19日 厚い雲の日。雨では、まだなくて、空気がすごく湿っぽい。

 今日は、振り替え休日の金曜日で、家にいる。朝、洗濯をしながら、ふき掃除。ダイシン(DIYの店)と、イエロウハットに自転車で買い物に行って、具だくさんのみそ汁の昼食を作って食べ、洗い物をしてこれを書き始めている。私のごく時間があいている休日は、だいたいこんな感じに時間が過ぎる。今週は、相撲をやっているので、3時からはNHKを見るだろう。


 しばらく書いていない間に、ルノーのエクスプレス(私の普通に使える方の自動車)のクラッチが滑り始め、東北ルノーに入院した。で、シトロエン2CV(私の大切にしている方の自動車)を動かしたのだが、錆がひどくちょっと困ったなと言うところ2カ所に穴があいていることが判明。雨降りの日には動かせない自動車になってしまっていた。車検が6月なので、どうしたもんかと考えていたところに、全く偶然、そっち方面の友人Tさんから、緑色の2CVが誰か貰い手を探していますよと言う情報が入る。そういう物なのだ。じゃの道はへびなのだ。見に行ったら、僕のより遙かに程度がいい、しかし1970年代後半の602CC の物で、すごく動揺する。でも、私の水色の2CVにも、深い思い入れがあるので(何しろ、フランスからシャシを輸入して、再生したのだ)今回は、別の友人に情報を回して、私は、しばらくなおしなおしで、今の車を動かし続けることに最終的には決心した。で、今日の買い物。しばらくは、1/1の模型制作のような作業になる。楽しみだ。そろそろ、誰かに、ホンダトランザルプを譲る時期なのかなどと、突然思ったりしている。
 大学の授業4回目、5月15日。今回、個別の質問に答えずに、幼児の発達5歳から10歳までを、丁寧に話す。実は、これが、あなた達が、なぜ、このような授業を受けているのかの答えなのだけれど、、。10歳までの世界の形成の延長上に、今のあなたの生活/世界がある。
 今日の作業。各自に渡されたB5の白紙の中央に、小さい丸を書き「塗りつぶす」。小さいは自分で決めろ。さて、それがあなたの「塗りつぶした」だな、と確認。では、紙の残りの部分も、塗りつぶしなさい。始め。時間いっぱいまで、塗りつぶす。その紙は、次の時間に使うので、次の時間まで、各自、誰に聞かれても大丈夫なように塗りつぶしてくること。次の時間は、その紙と、マッキー細字黒と、その他適当な数のカラーマッキーを各自用意。マッキーって何、という人や、持ってない人は色鉛筆でもいい。終了。

5月8日 ヘンな曇の一日。薄ら寒く桜の花と葉が一緒にでている。

 大学の授業3回目。前の授業での感想と質問に答える。

木を削って、何を学ぶのですか?一言では説明できないので、この活動を行います。「熊のプーさん」のお話の最後の章を理解するため、といってもいいのだが、もっとわからなくなるかな。板を作ってどうするのですか?板を作るだけです。ほかに目的はありません、という目標。美術は、こういう風なものなのです。ナイフの正しい使い方を教えてほしい、そうすれば子供たちにももっとナイフの使い方を教えてやれる。あなたがナイフの使い方を覚えた方法を教える、という意識。私たちは何のため、この授業を行っているのかを自覚しよう。あなたの改革が目標で、子供に教えるため、ではない。先生は、上手に板が作れるのですか?良いコーチは、選手より何が上手にできる人ですか?私ができるかどうかは、それは、あなたが子供より上手にできるかどうかと同じだけれど、あまり関係ないことだ。ナイフを使うこと自体がこわかったです。本当のことを言うと、こわいは、面白い、難しいは、楽しい。感想と質問はもっといろいろあって、これに答えていると、そしてそれは大切なことのように、私には思えるのだが、時間がなくなる。
 今日の活動。自分の好きな鉛筆を手で、二つに折りなさい。その後鉛筆の木を削って、芯だけ提出。提出に際しては、「ウエルカム芯さん!」という形にして提出すること。というもの。前回の板を含め、提出は、この授業最終回までであればいいので、各自納得するまで作業してからでよい。

5月7日 僕の休みになると曇る。気温もなんか肌寒い。

 ううむ、こういう形(日記のような)で話をとどめておくのは、僕にとってはなかなか大変だ。というより、なじまない。だから、記録(更新)が、飛ぶね。これを書く時間があるときに、ほかにやることが、次々あって、それをかたつけてから、と思っていると、忘れて、寝てしまっている。電車の模型で遊んだり、20年ぶりで戻ってきた娘のBMXの修復とかの方なんかがやっぱり大切で、面白いのだ。公開することが幾つかある。


 大学の授業2回目の報告。4月24日。第一回の授業の感想と質問に答える。省略。実技は、まずみんなで、ナイフで削るものを探しに裏山へ。裏山って、大学の敷地ににある修道院の前にあるちょっとした松の林。おちているちいさい枝を各自5本ずつ拾って、地面に刺して立てる。その後、自分の親指程の枝を拾って教室に帰る。枝を、持ってきた自分のナイフで削って、提出品は、幅の狭い小さな板。「幅の狭い小さな板」とは、どの様な物かは、後で、僕に聞かれたら、答えられる程度に、各自(当たり前だけど)考えて、決めること。それはどのような物のことかは、俺に聞くな、という指示。はじめ、すごくざわざわするが、すぐに、シンとなって、皆一心に削り始める。時間が来て、感想と質問を書いて提出。板は、納得するまで作って、この授業終了時(たぶん7月の終わり頃)までに提出すればいい。という授業。この次の授業は、ナイフと、あなたの好きな鉛筆を一本もってくること。
 報告。4月21日金曜日から、河北新報夕刊に、「美術、ほんとのところ」という小学5年生から中学3年生までの読者を想定した美術を巡るエッセイを書き始めた。毎週金曜の夕刊に、10回連続を予定。挿絵は齋悠記さん。新聞の印刷だと、うまくでないが、実物は布のコラージュで、なかなかすてき。話は、僕が、美術館でいつもしている物で、聞いたことがある人はあ、あの話だな、という物。私としては、毎回の話に、悠記さんが、どのような挿絵を作ってくるかの方が興味深い。

4月18日春の曇り、曇りでも空は高い。少し青空有り。

何と、4月も中盤になっている。公務員は、4月に様々な切り替えがあって、雑用をかたづけながら毎日チョロチョロ忙しがっていると、つい昨日だと思っている時間がもう1ヶ月も前だったりする。新しい毎日が又、始まった。
 昨日から、学校の先生も始まった。仙台市内の小さい女子大の保育科の図工の先生を3年前から、僕はしている。半期。毎回、何をしたかを記録しておこう。


 第1回 4月17日。自己紹介。私のは、長い。なぜ、私がここ(教壇側)にいて、分かったようなことを話して良いのかを、まず、学生側が知る必要があるのではないかと、70年代初頭に学生をしていた私は、気にしてしまうんだよなあ。その上で、沢山質問してね、という話。
 授業の、後半は、幼児を対象にした美術を学ぶために最低限必要な、認識の発達/発生のおさらい。ただし、齋風。基本は、井出則雄風改。
 図工を習う/受けるのではなく、図工を教える人になるための美術の基礎を学ぶんだからね。この次、各自「ナイフ」を持ってきなさい。「どこで売ってんですか?」「教えてあげない。誰に聞いたらいいかは相談にのろう。まず、さしあたって、お父さんはどうかな。家にあるかも知んないし。次はイエローページか?」という授業。終了時、出席とともに、質問を2つ書いて終了。連休前の2回目は、ナイフあるんだから、何かけずろう、かな。
 この授業は、どのように進むんですか?先何があるか教えて、という質問や、リクエストが学生から来る。やることは、初めに述べた。予定を立て、それをなぞるように履行するっての、私はいやだな。美術は、予定を拡大するのが仕事。行き当たりばったりに見えるけれど、自分の持っている全てを動かし、それが起こっている場所で、そこで決めて対応する。こういう練習、これまでみんながいた学校ではあんまりやってこないからなあ。だからこそこの授業ではやっておこう。

03月19日 きれいな雲が丸く浮いている、風の強い、晴の一日

 春のお彼岸なので、下の娘が、生まれて半年を過ぎたばかりの孫と一緒に家に来て、なんとなく花を買ったり、餅をそろえたりの支度を手伝ってくれた。
 脳内出血を起こした2003年の秋、僕はぐんぐん回復して、11月2日、両親と一緒に海岸に遊びに行った。すごく天気の良い風の強く吹く日だった。その夜、実家の近くに住んでいる弟から電話が来た。母が、倒れて、今救急車で運んだという連絡だった。とりあえず、運び込まれた総合病院に駆けつけると、弟達はすでに来ていて、そろって、医者に話を聞いた。


 僕と同じ脳内出血だった。でも、彼女のは出所がすごく悪くて、脳幹。レントゲン写真で見ると、きれいな頭蓋骨が、背骨につながっているちょうどそこの所に、ほんの少し、真っ黒いシミが写っていた。これだけで、人間の意識は切れてしまうのだった。外からの刺激に、何の反応も、返ってこなくなっていた。死んではいないが、ううむ、この出所と、出方だと、意識はもう、戻らないでしょうねえ、歳もとっていますし。という淡々とした医者の話を、弟達と静かに聞いた。
 70歳を過ぎたあたりから、真言宗のお寺に行き、いろいろな形でのお遍路などに参加し始めていた母は、死ぬときのことを、様々僕たちに話していたので、パイプなどを様々つないで、何とか延命を、ということはしないでいい、ということを、僕たちは、医者に話した。でも、その直後舌が落ちて息が止まりそうになって、医者は条件反射的に、のどにパイプを挿入し、気道確保をした。そうなれば、次は、栄養を補給して、排泄するパイプが必要になり、こういうふうにして、体は、パイプにつながる。でも、僕は、パイプをとってください、付けないでください、とはそのとき言えなかった。
 あのとき、気道を確保しなければ、意識はないが、体は生きていて、という状態の窒息で、母はすぐに死んだ。意識のない時に、空気がなくなって死ぬのはどういう気持ちなのだろう。息ができなると、やっぱり怖いのだろうか。
 でも、パイプが気道を確保したので、意識が戻らないまま、彼女は、11月2日の夜から、12月20日過ぎまで、形の上では生きていた。パイプだけで、1ヶ月生きると、さまざまなことが、体の上に起こる。医者と相談をして、気道のパイプをはずしてもらった。担当の医者は、口約束はするのだがなかなか実行せず、私たちを立ち会わせて、ごく真剣な表情で、パイプを抜いた。彼女は、静かに息を続けた。医者をやるって、こういうことをすることだったのだ。僕は、ほっとしつつ、子供を医者にしたいという親は、こういうことを知っているのだろうか、というような関係ないことを考えていた。パイプをとって10日がすぎ、もう死なない、とぼんやり思い始めていた12月29日の朝早く電話が来て、母の息が止まりました、と知らされた。患者用の服から、死んだ人用の着物に着替えるとき、ちらっと見せてもらった母の体は、液体だけで長く生きていた人の、何か水ぶくれした、体の線のよくわからない、僕の知っている「お母さんのおっぱい」のある体とは違うものだった。死んだ直接の原因は聞かずじまいだったけれど、窒息ではないようだった。意識はなかったけれど、生きていて、何か、自分の体が水浸しになって、息ができなくなるときって、どういう気持ちなのだろう。何を感じながら意識が消えていくのだろう。
 母には、ごく懇意にしていた真言宗の和尚さんが、静月玉雲祥榮大姉という戒名を付けてくれた。月や、雲の存在が、これまでに増して、いつも気になる。宗教とは、ほとんど関係なく、僕の家にも、お彼岸がくる。あ、これが、宗教か。

03月18日 曇だけれど、きれいに光る雲が見える

 2003年の3月14日は、金曜日だったが、振り替え休日だったので、しばらくぶりで会った同年齢の女友達と、仙北の温泉に行った。帰りによった競走馬の牧場には、まだ雪が沢山残っていて、長く温泉の露天風呂に入ってほてった体には、寒いよりは、むしろ気持ちがいいね、なんて話をしていた。
 そこから、4号線に出て、仙台に戻りかけた所で、体の右側に生まれて初めての感じが走った。なんだこれは。全身の毛穴から、何かニュルニュルと出てくるような、へんなゾワゾワ感。シャツの袖口とか腕時計のバンドとか、体に触っているところの触覚全部が過剰に感じている。車に酔ったように気分が悪くなって、車を止めて外に出ると、急に、ものすごく疲れた感じ。


 脳内出血の始まりだった。一緒に乗っていた彼女が、経験豊かな人だったおかげで、手早く医者に行って、救急車で脳神経外科に運び込まれ、そのまま夜中、頭蓋骨をあけた。次に気がついたときは、集中治療室で、様々な幸運と良い偶然が重なって、僕は生き返った。ほとんど麻痺は残らなかった。
 今、2006年で、また、3月15日が過ぎていく。本当に、心から、嬉しい。

鑑賞の実際  本物を見ると言うことは、何を見ることなのか

 鑑賞を「表現行為」として行うには、作品と対峙したときに、次のことを意識することが大切です。

1 作家の思いを含め、描いた人のことは忘れる。
2 美術館にあることを含め、権威にまつわることは忘れる。
3 キャプションを含め、作品を巡って字で書いてあることは忘れる。


 これまでの授業では、こういうことを気にせずに始めましょうと言うことになったら、それって、鑑賞なの?と言うことになりかねませんが、本物の絵と対峙したとき(そのために美術館に来たのでしたね)に、まず意識しなければいけないことは、実は、これらのことなのです。そして、これら外からの情報(知識)を「知ること」にエネルギーを使うことをやめてしまったときに、初めて、そこにある「作品」を注意深く丁寧に「見る」ことが始まります。
 そこで初めて、自分で見て、(他の人が見えることも借りながら)具体的に見えるものから読みとれる情報だけを使って、その絵を存在させている世界を考え、その世界の具体像を(創造的に)想像し、そこから、新たな世界像を(深く個人の興味にそって)読みとって「見る」ということが始まります。鑑賞の授業が目指すところは、そういうことができる人を創るということでしたよね。
 このような、「その人自身」が、「作品から読みとれることだけ」を使って、「自分のお話」を「組み立てる」作業。その行為の結果、各自が持っている世界観が、自然に拡大するという状況が起こる。そのことを「鑑賞」というのではないかと、私は考えています。
 ということを、今回は練習しました。基礎的な部分は常設展で、応用は、特別展「楽しむ空間・一歩前へ」で。今年の夏休みの造形研修会で行われたことをまとめれば、報告できるのは、これだけです。
 で、その研修の内容をこれから詳しく書こうと思うのですが、具体的なことをどれだけ詳しく書いても、参加した人にはすぐわかるのだけれど、参加しなかった人にはどうしてもわからない(伝わらない)のだよなあ、ということは、参加した人にはわかると思います。なぜか? 行われた活動が、形としてはまるで講義だったのだけれど、内容は「ワークショップ」とよばれる活動だったからです。教育の主体を、教育を受ける側にゆだねてしまうという教育方法。始まりも、結果も、それを受けた人のその後の自主的な変化にゆだねてしまうという考え方の教授法。
 だから、参加した人でも、面白かったからといって、活動をやった齋の話から、使えるネタをメモして、まねしてみても、たぶん上手くいきません。教育の実際では、そこに一緒にいて一緒に体験する以外、上手く伝わらないことや状況があることは、経験のある人にはわかると思います。今回の鑑賞の練習では、ワークショップの実際も含めて、鑑賞とは、個人にどのように起こるもので、それを通して、それをする子供達が、どのような大人になることを期待されるのか、というあたりをやってみたのです。見る活動の細かい枝葉の先、技術的な要点や、子供達の発言に絡んだ話のもって行き方、というような部分は、みなさんの方が上手で、経験豊富なところもたくさんある。でも、押さえるべきは、このあたりにあるということを、美術館では考えたい。押さえるところを押さえておけば、あとは、各自が、自分のキャラクターと話し方で、それを彼らに伝えてゆけばいいのです。みんなが各自の話し方と方法で、しかし押さえるべき所はみんな必ず伝えててゆく。そこにオリジナルで、生き生きした、その子供達のための授業が生まれてきます。あ、これって、あたりまえの授業のあり方ですね。
 では、鑑賞の授業で押さえるべきはどのあたりなのかについて考えてみましょう。
 美術館から見ていると、学校では「先生の知っていること」を子供達に「教える(又は伝える)」という形を、どうしても取ってしまうものだというふうに見えます。「鑑賞」もそのように行われがちです。考えればわかることですが、ものを見て判断する場合、依るべき基準として使うことができるのは、その時、その人の脳に、既に保存されている記憶、又は経験です。鑑賞するとき使えるのは、実はそれをしている人が既に知っていることだけなのです。その時、彼らに教えられることは、既に持っているモノの使い方だけで、新たな知識や技術が、今まさに使おうとしているその時点で入ってくることは、むしろ混乱や、自分の記憶・経験に対する自身のゆらぎにつながります。彼らに伝えるべきは、新しい見方ではなく、見ているものから読みとる方法と、それを基に、自分の既に持っている情報をどのようにそこに絡んで使うか、というような部分です。既に知っていることを縦横に使ってみることによって、もっと知るべき(知りたい)方向と深さが、自ずと見えてきます。無意識に「知らされる」のではなく、意識的に「知る」。ここのあたりのアドバイスをどうするかにも、年長者が関わるポイントが見えてきます。
 ふと気付けば、この状態は、絵を描いたり歌を歌ったりする「表現」をしているときの脳の働きと同じです。学校教育の中で行われる鑑賞は、決して受け身の「情報蓄積記憶的なもの」ではなく、「表現としてみる」行為のための練習なのです。
 私たちがこの歳になって、様々わかるようになってきた人生の機微を、絵から読みとるというようなことを、今10歳前後の人たちに正しく伝えるのは(こちらにも、そちらにも)無理が感じられますが、今その人が知っていることを使って、その人自身の世界観を拡大する方向に、お話を組み立てるというようなことだったら、少し歳をくっている人から、これから歳をとろうとしている人に向けて、何か伝える活動が、何とか組み立てられるような気がします。
 教えるべきコトの捉え方をちょっと変えれば、鑑賞の授業のやり方や目標はもちろん、学校教育の中で表現教科の存在する理由や、そこから発生展開するカリキュラムの立て方、そうなれば当然、評価の方向と方法についても、だいぶ簡潔明瞭な説明ができるようになってくるのではないかと、私には思えます。(了)  2560字

03月10日 東京の空はぬるい

 美術の研究文って、まるで感想文みたいで、全然科学的じゃない、これじゃだめだ。という若い人に、「いい美術ってどういう美術のことですか」と聞かれた。いい美術は孤立している、又は、できる美術のことかな。


 うんと雑に急いで言うと、科学には、自然科学と人文科学がある。自然は、すでにそこにあって、できるだけ多くの例を集めて、それをならし、その例の中から真理を見つけだす。真理は、個ではなく多くの例の中から紡ぎ出される。そして、人文は、その対極にある。個の中を深く深く掘り進んでいったその奥に、真理を見つける。無限の例の中から見つけるのではなく、個人の中の奥底にある真理を見つけだす。多くの人も人間だけれど、私一人でも、人間は、人間だ。多数決で決められるモノだけが世界にあるのではない。多数決で決めてはいけないモノも、大切に、世界にはある。
 哲学が、人文科学の頂点にあって、その直ぐ下で、哲学を支えている太い柱の大切な担い手にたぶん美術はいる。美術は、人文科学を目に見えるようにする仕事をしているのだと思う。だから良い美術作品は、自立性が高い。作家の想いなんかとはほとんど関係なく、見る人をその人の世界に運び込む。そういうことを、見る人の違い−年齢、性別、人種、文化、etc−に関係なくできるモノが、何となく、良いといわれているのではないか。自分で勝手に深く考えるのになれてないと、これ、結構難しいだろうなあ。

風の見方 風倶楽部風探検実践案

対外的副題 充実した人生のための街見学学習補助事業
本当の副題 総合的になんかやった気のする充実した暇つぶしのためのお散歩の練習

●現在の状況
 総合学習や施設見学、遠足等、様々な理由で、子供達が美術館にやってくることが増えてきた。その前に先生達が下見と打ち合わせにやってくる。基本的に、人間は、学校に縛られているような若い時期に、世界を広く見るため、街のさまよい方を体験しなければいけないことになっている、ということのようだ。それは、とても大切だ。
 下見や打ち合わせの相談にのって、来館理由や、その活動の教育目標を聴くと、美術館に来ると言うことが、その目指すところと、どのように合致するのかわからなくなることが、時に起こる。美術館は遠足の最終目的地にしか過ぎないのに、「せっかくだから」そこで何か「美術的(それは造形的と同じだったりする)なおみやげ」ができる作業「も」したい、というように。美術館に来ること自体が目的なのか、美術館での活動が目的なのか、それとも、たぶん、両方なのか。その各々に、楽しい答があるのに、目的が曖昧なままだと、活動内容は中途半端に薄まってゆくことになり、楽しみも曖昧になってゆく。
 しかし、予定を立てている人たちで、このことに気付く人はごく少ない。又、気付いたとしても、なぜか従来どうりの流れでの打ち合わせに終始する。
 その結果、その下見で組み立てられた活動で来る子供達は、ごく常識的で、形骸化した街の捉え方を、概念化してしまう。
 時間をかけて、丁寧に相談をすれば、ほとんど全員の先生達が、自分たちが、なにげなく、子供達のためと思って計画してしまっていることは、何かおかしいと気付くことはできる。しかし、ではどうするかという方向に、話を広げてゆく姿勢にはなかなかつながらない。先生達が、街を使い込んでいないためではないか。街を施設の点在する地域としてしかとらえていないからではないか。

 都市を、点(ハードウエア 施設)の集合ではなく、有機的時間的な空間としてとらえ、それを自然の一部と同じように、自覚的に使い込む意識を持った大人が増えれば、街の総合的な力は、強く、大きく、そして「正しく」、広がることができるのではないか。子供達に、街を見学(見て学ぶ)させる目的はどのあたりにあったのだろうか、という疑問を、積極的、肯定的に拡大する思考は、このままの状況では、どこからも起こらないように思える。
 今のところ/今までのところ、「所さんの笑ってこらえて−ダーツの旅」は、常に東京からしかやってこないまま、地方の町おこしは進んでいくかのようだ。私たちの教育を振り返って見ればそれは当然のことのようではあるが、そろそろ変え始める時期ではないか。どこをどうすれば、私たちは、今そこにいることを楽しんで拡大する意識に変えることができるようになるのだろう。


●提案
 「街を使い込む」、という概念は、学校教育では未だ確定していないかに見える、このような街の捉え方と使い方の相談に、組織てきに乗り出すことはできないだろうか。
 個人が、一つ一つの場所で、単独の学習をし、まとめる、というこれまでの形からはなれ、街の気になるポイントどうしをつなぐ、システムや空間自体を楽しめる意識を、各自が持つ練習に、活動の重点を移す。一人一人が、システムや空間の移動を楽しむ余裕を持てるようになれば、そこで総合的(一人一人の視点を併せ持ってみることができるようになればというような意味)に見えてくる街は、一気に有機的な「モノ全体」になる。それまでの自分と違うシステムで移動すること自体が、自分の生活のリズムだけで流れていた、時間や、目の付け所の変化を促す。
 学ぶということが、新たなモノやことを知るだけのことだけではなく、既に自分の知っていることを有機的に組み立て直して判断し、展開し、それによって出てくる、目の前にあるのに「何だかわからないこと」を整理し、その理屈や有り様の理由を知っている人を捜して質問し、その答から、又新たな判断につなげるというような、自分を取り巻く環境を注意深く観察することを通して、今の自分の世界観を拡大してゆくという、学習本来の目標が現れ、実行される。これこそが、都市に出て、具体的に学習できる最も面白いところではないか。蛇足で言えば、「ダーツの旅」で行われていることは、実はこのことではなかったか。
●活動
いつ   実際の活動を行うのは、さしあたって、ウイークディ、9時〜15時。
どこで  主に旧仙台市街。理想的には、旧市電循環線内側及び周辺あたり。
誰が   当初、齋が。後 及び/又は、選別されたガイド。
誰に   一人で歩ける、10歳以下の学校等団体教育組織に属する、年齢による 
     が、最大20名以下の集団の、「引率者に対する研修会」を、最初、行う。
     後、その集団に対して、各々の要望に添ったオリジナルコース、及びガイドで     実施。要検討。
何を   探検という名称の、学習だけでない、年齢に応じた移動速度による道草散歩。
どうする 当初、県内の、小学校、幼稚園、保育園、子供アトリエ等、年少者教育施設、     団体に対して、文章による案内を出すとともに、専用のホームページを立ち上     げ、利用を広報する。アクセスしてきた団体と相談し、各個の教育目標に応じ   たルート、内容を設定し実施する。
     参加者の募集と並行して、学校教育の補助事業や、社会教育の中の地域振興事     業として企業からの補助金(メセナ)を要請し、社会教育事業として成り立た     ないか検討してみる。
     活動は、天候による変更をしないことを基本とする。
●典型として考えられる一つのスケジュール例
○ 0900 長町モールⅡ駐車場集合〜新しい裏路地を歩いて蛸薬師経由JR長町駅〜JR東北線で仙台駅〜ホーム連絡通路を通って、仙石線降り口〜長いエスカレーターを使って、仙石線連絡通路に降りる〜仙台駅地下連絡通路〜地下鉄南北線仙台駅〜青葉通り駅地下連絡通路〜七十七銀行本店待合室で休息通過〜東二番町通り地下横断歩道〜東二番町小学校金網の外から眺める〜イロハ横丁〜東一番町アーケード〜ベトナム料理店ショロンで昼食〜楽器屋・センダード光原社・ユイマール〜1400 肴町公園にて解散
○各々のポイントで、時間、参加者数、年齢、目標などに応じて、様々なオプションの選択が可能。JRで、北仙台駅まで行ってしまって地下鉄で仙台駅前まで戻る、とか、仙石線で、青葉通り駅から榴ヶ岡駅まで行き、駅東の表裏を歩いて仙台駅まで戻る、とか。一番町を巡って、あっちこっちの喫茶店でお茶とケーキを食べながら、裏表路地を歩きまわる、とか、広瀬川沿い遊歩道を使うとか。
○全体として、「散歩をすること」が目標で、何か新たに学ぶという姿勢は注意深く排除される。むしろ、これまでの生活経験を使って、そこに起こる状況を楽しむことは奨励され、そちらの方向に流れてしまうことが行われる可能性は高い。
○JR東北線、仙石線、仙山線、及び仙台地下鉄をフルに使う、しかし、仙台駅では降りないという意識。普段なら絶対降りない駅に降りる楽しみ。
○バスは使うが、ループルは使わない意識。でも、バスで行けるほとんどの所は、歩いて着ける、という、範囲と意識。移動時間の変化が目的なので、疲れない速度で歩く。
○時間は実はこっちのモノだという強い意識。いざとなったらタクシーで帰っちゃえばいいのだ、日本語通じんだし、という意識。「どこかに行く」のではなく、「どこかに行くまで」の考え方。
 というような所で知恵を出し合って、仙台を使った、街の中の散歩コースを考えてみてはどうか。これは、売り物にはならないのか。でも、あらためて、街を、様々な視点から考え直すというような場合には、何となく大切なような気もするので、売り物にならないとしても、何か違うルートで、必要なところに提案できないか。東西線どうしても作るほかないなら、せめて作る前にこれやってみて、とかいうふうに使えないだろうか。
一応終了。050225。    

お散歩には最適の気温と天気の一日

 朝から、聖愛幼稚園年長16名+先生2+記録1名の、お別れ遠足で私の自主活動。
 10時に美術館に来て、できるだけ広瀬川沿いに歩いて、愛宕大橋のそばの幼稚園まで帰るという、「本当の探検」の遠足。

 こういうのは、誰でもできるというものではない、ことになっている。この幼稚園は、美術館開館当初から来てくれていて、私のいわゆる実験練習につき合ってくれている先生と、子供達。そのため、他の園は、使用者が増えてきた最近では、1園1年齢(年長だけとか)にしているところ、年少から、毎年1回で3年続けて来てもらって、成長にともなう変化などの観察ができる、という人たち。もう齋さんとそのやり方にになじんでいる。
 いわゆる、先生的な下見、下準備は無し。本当に、みんなで危険を「顧みながら」(顧みないで、ではなく)、探検で進んでいく練習。子供だけでなく、大人も。
 大人が、たぶんここで盛り上がって、とか、道々の活動を心づもりしていても、実際には、違うことが起こる。今回は、道路の横断だった。
 評定河原橋の北西の袂から、本当は歩いちゃいけない(今回の遠足は、この辺の練習をかねる)坂を上って橋に上がると、車道のガードレールのこっち側西側に出る。歩道は、反対側東側にしかない。交通量多め。横断歩道無し。16人を、まずガードレールの内側に、ギュウギュウ集め、「ここはやばいぜ」と、言い聞かす。ほぼ5人ずつ、抱き上げて(これがうれしいらしい)ガードレールを越させ、車道側のガードレールにへばりつかせる。で、大人が、両方向を見やり車の切れ目を見つけて、ほんとうは、全然大丈夫なのだが、「今だ、行けー」とやる。子供達、大きなリックを背負って、必死に向こう岸目指して走る。これを3回繰り返すと、全員横断終了。
 子供たちによると、これが、今回の探検の「本物の部分」だった。河原の大きい玉石の道を木の枝をよけながら進む、とか、穴蔵神社の暗い杉木立の踏み分け道を通って、知らないお墓の隣に出る、とか、おたまや幼稚園の人たちに塀の外からこんにちわするとか、では、全くなく、むりやり自分で道路を横切る。これが、大探検。もう、みんなどきどきニコニコなの。次の人達に「がんばれー」って言うことも忘れて、真剣に息をのんでみている。そうだ、これこそ探検だねえ。
 子供の目線で見るということは、本当に注意していないと、大人の想いとは、このようにずれてくる。彼らが、自分でする事、できるようになることの練習に、手間暇惜しまずつき合う。子供も、大人も、その方が遙かに簡単で充実するのに。そして、そこの所、お互い自覚できると、本当は、こんなこと誰でも(たぶん、人間なら)できるのだ。

02月11日曇でも小さい青空もあった

ほぼ一日、永岡さんという人のインタビュウを受ける。保育者養成についてを巡る考えの展開。体験を経験に変える練習について、詳しく検討。

 体験はみんな異なる、というのが、まず基本。なぜか、学校関係の人は、同じ体験は、みんな同じ経験と思っているみたい。各自の体験を確認し、それを総合的に見つめ直してその経験として、大枠の中に記憶する、って作業を丁寧にする。このあたりが、教育なのではないか。とすると、保育者を作るための教育では、どのようなことをすればいいのだろう。そう考えてみると、カリキュラムが、変わってくる。これまでやっていた授業も微妙に変わってくる。

晴 すごい青空

 「お父さんのひとりごと」を出版してから、だいぶたった。今、読み返すと、何か、違う齋正弘がそこにいて、訳知り顔にご託を並べているように思える。あの本を出して以降、何があったかを書き始めようとして、ま、いいかな、と思う。なんかいろいろなことがあった。あたりまえだ。何年たったのだろう。いろいろなことがあったので、もちろん、僕は少し変わった。少し、大人になったと書こうとして、うふふ、恥ずかしい、と思えるようになった、というのが正しい感じだ。「お父さんのひとりごと2」を書き始めようと思う。今度は、このような形で考えをまとめていく。


とはいえ、今、僕はどこにいるかは明らかにしておいた方がいい。この文は、宮城県岩沼市の自宅で書いている。2005年の4月から、実家のあったところに新たに家を建てて、長年住んだ県の官舎から移った。子供たちは、いよいよ、まったくいない。かわりにかみさんと、僕の父と一緒に暮らしている。82歳の人と暮らすと、暮らすことで起こる様々な事柄の方向が変わる。考えが向かう方向は、無限ではなく有限だったのだという感じが、明らかになる。前より気づき、考え、反省することが増えた。僕も、気を抜けば、こうなるのだという見本と、毎日をともにする。僕自身も、本物のおじいさんになったし。