美術を考える授業  06.08.19開始

 私は自分のブログで、仙台市内のある私立女子大保育科で行った「基礎技能−図工」の授業の流れを公開している。機会があるたびに言っていることだが、今の日本の(大学までを通しての)基礎的な教育を行う学校のシステムで行われている図工と美術の授業は、美術館を始めとする美術の世界で話されている美術の理解とは、何か離れているように感じられる。美術を、授業という特殊な方法で伝達/教育する時、これまでの学校での授業で行われてきた方法や経験を繰り返していたら、現在あるような美術の状況に再び陥ってしまうわけで、何か抜本的な変換が考えられないと、21世紀の美術図工科は「基礎的な学校教育の必修教科」からはずされることになるだろう。理由を述べると長くなるが、本能的に、それは、もっといけない状況を公教育の現場にもたらすのではないか、という恐怖を覚える。
 なにはともあれ、さしあたって「図工の授業を組み立てるのに、何かアドバイスがありませんか」という学校の先生からの質問に対して、たとえば、これはこのように考えられているので、こういう風な方法はどうだろう、という提案をまとめてみようと思う。具体的な作業のノウハウを公開すると、今の学校ではそれをそのまま実行しようとする先生が多いように感じられるけれど、それは無理だ。キャラクーが違うとか、話術が下手だとかの問題ではない。「授業を受ける側の人が、みんな違う」からである。その活動をする理由や、考え方の流れのような物を、行間から汲み取る事が最も大切だ。そうか、そういうことを、そこにいる人たちと供に行うには、私だったらどうするかな、という方向に考えが進んでいくことを期待する。
 毎週1回90分15回継続の、「基礎技能−図画工作」の受業の進め方を再現する。

1時限目 ナイフを買ってくる。
 授業の最初に、幼児期における表現の発達についてのざっと通した流れを話す。小さい人たちが描いている絵は、大人になってあなたが描いているものと少し違って、彼らの世界の見え方を見えたとおりに描いているだけなので、ちゃんとした大人なら、彼らの描いた絵を相当なところまで読むことができる。彼らの絵に描いてある世界の方が彼らにとっては正しいのだ、ということを自覚しよう。私たちは、そういう人たちと、美術を通して「良い大人になる練習」をする。先生は、練習の手助けをする人のことだ。少なくとも「美術で教える」とはそういうことだ。だから、あなたが絵が上手かどうか、美術が好きかどうかは、先生が学ぶ美術教育(これから、私たちがする事ね)には、まったくと言っていいほど関係がない。あなたの絵の描き方が上手くなるためにこの授業があるのではない。あなたがなぜ、子供達と美術の授業をしなければならないのかを理解するために、この授業は行われる。
 さて、では始めよう。まず私たちは人間だ。人間が最初に身につけた、他の動物と私たちを区別する幾つかの道具のうちに、たぶん割れた石のかけらのナイフは絶対に入っていたはずだ。今だって、人が荒野に一人でいる時、一丁のナイフを持っているかいないかは、本当に生死に関わる。人間は、身に寸鉄を帯びることによって、ここまで人間化してきたと言って良い。しかし今、私たち大人は、子供からナイフを取り上げている。ナイフが怖いのではない、それを使う人が時に怖くなるときがあるので怖いのだ、ということはみんな知っている。怖い使い方をしない人を作れば/ 教育すれば、ナイフそのものは、一人の人間にとってごく有益な道具であるにすぎない。私たちは、ナイフは怖い(その割に、カッターナイフは、みんな筆箱に持っていたりするのだが)という人ではなく、ナイフを持っていると、有益で発展的な人生を送れる人を作るために、教育をしているのではなかったか。
 大学生でも、相当数の人が、ナイフをちゃんと見たことがない。ナイフとカッターの違いは何か。ナイフに様々な形があるのはなぜか。ナイフで何ができるか。どこにどのようにして持つか。そして、いったい、ナイフは、どこにあるのか。どこで手に入れることができるのか。わからないときは、誰に聞けばいいのか。ナイフを巡って、様々な、一つ一つ緊張した状況が起こる。笑いながらではすまない決定を繰り返さなければ、活動は/人生は、進まない。
 実は、ナイフは街中にあふれている。金物屋さんにあるのは当然だが、いつも行ってTシャツを買っている繁華街のセレクトショップでも売っていたりする。最近では、大型電気店や、カメラショップでも売っている。アウトドアの店やスポーツ用品店、眼鏡屋、時計屋、簡単なものなら、コンビニや100円ショップ、駄菓子屋さんでも手にはいる。そもそも、キャンプ好きの親のいる人は、すでに、家の中に何本もあったりするかもしれない。包丁は、ナイフではないのだろうか。こんなに身の回りにあったのに、今まで見えなかった、気づかなかった。普段、身の回りにナイフのような危険な物があってはならないと考えているのに、私たちは、何を見ていたのだろう。何を気にしていたのだろう。実際に、店で買おうとすると、未成年は自由に買えないかもしれない。それはなぜだろう。そのことによって、世間では何がどう変わると考えられているのだろう。そういう中で、どうすれば、どのようなナイフなら、買えるのだろう。
 一本のナイフを手に入れる作業を通して、いかようにも解釈し、いかようにも発展することのできる「教育的不安定状況」が起こる。実は、この不安定な状況こそが、普段の生活なのであり、美的な思考に基づく判断と実行が求められ、学校で美術を授業でやる必然が隠されているのではないか。こここそが、学校でやる美術の出番ではなかったか。
課題「各自、何とかして、次の授業には、ナイフを一本持ってきない。」
 美的/ 芸術的な生活とは、具体的にはどのようなものであったのだろうか。
2時限目 ナイフで、何かを削る。
 受業を始める前に、何人かに、「いかにして私は、このナイフを手に入れることができたか」について、経験発表をしてもらうといいかもしれない。その後、机の上に、各自のナイフを出し、ナイフの観察鑑賞会を行う。大まかに種類別、形態別などで分類し、高価安価の差や、大小の差などを基にナイフを巡る体験/経験を広げ深める。その時に、折り畳みナイフの開け閉めの仕方と注意、実際に使用するときの基本的な確認事項なども話した方がいい。それでも、使い始めると、めちゃくちゃなことになって、危なくて見てられないということになるが、この時点では何が危ないのかは、ほとんどの学生生徒は、やったことがないので言葉で注意してもわからない。そのために作業をするのだ、と言う自覚を、教師側が持つべきである。話は、むしろ、手を切ると、血が出て、痛くて、すぐには治らない等、手を切ったときの具体的なイメージを補強する話の方が有効のようだ。私たちは人間なので、そういう物を、今から使ってみるのである。
「さて、ナイフ持ってんだから、何か削ってみるかな。削る物持ってるか?」
 毎日学校に通っているのに、ナイフで削る/削ることができる対象として周りを見てはいないので、この問を発しても、誰も、何も動かない。私たちは、ナイフで、身の回りの何を削ることができるのだろう。何か、誰でも気兼ねなく削ることのできる、木のかけらのような物はないだろうか。考え、移動し、探して、見る。私の実践では、キャンパス敷地内はずれ(普段は誰も通らない建物の裏側)に、昔からある松の小さな林が残っていた。皆でそこに行ってみる。入学以来、初めてそこに来たという人も多数いた。松の枯れた枝が、沢山落ちている。
課題「落ちている枝を5本拾い、それをかっこよく、土に並べて刺して立てろ。」
 落ちている枝を触ったことがない。様々な状態の枝があることに気付く。この作業をしないと、削る作業に入ったときに、混乱が起こった経験から、まず、枝に触る作業が行われる。5本の小枝が、そこここに林立する松林は、実は美術的な空間に生まれ変わっているわけだが、その説明はまだ早い。ただ、何だか不思議な空間が出現する事は、感じよう。「うわー、美術だあ。」という声があがる。
 これを削ろう。さて、どのような枝が、削りやすいのだろう。太さ、長さ、枯れ/湿り具合、腐り具合、皮の付き具合。判断材料は、提案でき、確認できるが、どれのどれを良しとするかは、「削る人のイメージが優先」される。そもそも削って、どうするために、私たちは、この木を削るのだろう。「削ること」をしたいのだから、実は、全部削ってしまうでも良いのだが、この指示は、理解されない。「何かを作るため」に私たちは削るのだ、という考えは、そう簡単には変わらない。そのこと(削ること)自体が目的になると美術が成立する。でも、それも、まだ気にしないでいい。
課題「この枝で、小さい板を作って、提出する。」
 小さいとは、どのぐらいのことですか。板って、何ですか。というレベルの質問が出る。さて、あなたが削ろうと思って持ってきた枝は、すでにそこにある。それ以上大きい物は作れないから、それから小さい板を作るしかない。板という言葉は、聞いたことがあるし、身の回りの板を指し示すこともできる。それが、あなたの、小さい、板。小さい、板、は、あなたの側にある。私は、それを提出しなさいと言っているだけだ。私に、「それが、あなたの、小さい板、なんだな。」と聞かれたら、「そうです。なんか問題ありますか?」と言えばいいだけだ。むしろ、そのことの練習。
 開始直後は、若干の混乱私語があるが、すぐ静かに集中した作業になる。しばらく見てから、頃合いを見て作業を止め、ナイフの使い方基礎(指を刃の先に置かない等本当の基礎だけ)、作業は、息をしながら(リラックスしての意)する事等の、注意を話す。作業では、想像を遙かに離れた使い方や、明らかに手を切ったことがない刃の方向等、驚愕すべき状態が起こることを前もって覚悟しておくこと。その程度では、驚かないこと。そのための練習なのだ、あちらにも、こちらにも。
 提出は、15回続くこの受業全体が終了する前には提出しろよ、が、期限。「これが、私の小さい板だ」という「自信ができるまでは、あわてて、中途半端に提出しない」こと。これ以降の様々な提出物の期限は、特に指示がない物は、全てこの方針にする。物を作る実際の作業は、その人の運動神経と密接に関係する。速い遅い、丁寧雑、は、個人の資質なのである。走るのが速い遅いと同じように、練習で何とかなる部分と、練習ではどうしようもないところがある。作る/造形する部分は、ごく個人的なのであることを、そろそろ、私たちは理解すべきではないか。学校的団体作業でできる美術的な作業は、どのあたりなのかについて、気にした授業を心がけたい。提出はしなければいけない(制作ではなく授業なのだから)。でも、納得するまで、制作にあなたの時間をかけることは推奨される。
準備「次の時間は、好きな鉛筆を一本と、ナイフを持ってくること。」
 好きな鉛筆ってどういう鉛筆のことですか? まったく、好きな鉛筆ったら、好きな鉛筆のこと。それ以外どう説明したらいいのだ。好きってどういうことか、自分で考えるように、って言うのも何だか恥ずかしい。私たちは、いったい、どういう大人を作るために、子供達を教育してきたのだろうか。
3時限目 ナイフで、鉛筆を削る。
 木を削る作業は各自だいぶ上手になってきたことを確認した上で、今日は鉛筆を削る。 好きな鉛筆を出して、手で、二つに折る。二つ確認。一つ、鉛筆は、手だけで簡単に折れる/折ることができる。二つ、好きな物を折る(意識的に壊す)と、こういう感じになる。私を恨んでもいいから、忘れないように。鉛筆で良かったね。
課題1「その鉛筆の芯だけを、提出しなさい。」
 その鉛筆は、あなたが決めた、「私の大好きな鉛筆」だった。だから、丁寧に芯を出し、丁寧に提出することが本当だ。だから、
課題2「芯を提出するときは、「ウエルカム、芯さん!」という状態で提出すること。」
 学校の授業は、強制的に集められた集団が、強制的に科せられた課題を、強制された枠の中で、その人の意志とはほとんど関係なく作業することを通して、その集団が生き延びるために必要な体験を積む練習だ、といえないだろうか。それをすることによって、何をこの人達に伝えたいのか、を強く持つことが、指導する側に求められ、その上での、作業が行われる。作業をする側の人に、どのレベルでまで、何を強いるか。大好きな鉛筆を強制されて折る。それによって起こる体験をどの方向に経験化するか。クリアでシンプルな目標に裏付けされた強い意志が、指導する側に求められる。
準備「次の授業から、上手い絵の描き方練習を始める。絵、描くっていったら、鉛筆と紙だから、各自好きな鉛筆(芯が出ているもの)を一本持ってくる。今度は折らないので、ちゃんと好きな鉛筆を持ってきても大丈夫だよ。紙は、こっちで用意する。」
4時限目 上手い絵の描き方1−塗りつぶし
 各自に、B5のコピー用紙を一枚ずつ配る。まず、真ん中に、小さい丸を一つ描く。その丸を鉛筆で塗りつぶしなさい。「これが、私の塗りつぶすだ!」と、自信を持って言える程度に塗りつぶす。机の間を回って確認。それが、各自の「塗りつぶした!」なのね。それで、本当にいいんだね。
課題「では、その円の周りも、全て、塗りつぶしなさい。」
 この作業を始めた当初、1980年代は、塗りつぶしなさいだけで始めることができた。しかし、時代が進むにつれ、ざっと、荒く塗りつぶして、これでお終いと自己納得する人が急激に増えてくる。そのため、2000年以降、まず、塗りつぶすとは何かの確認から始まることになる。
 最終的に、最初に描いた丸は、見えなくなってしまうまで、塗りつぶすことになる。作業時間は、個人のばらつきが当然出る。でも、この紙は、この次の授業で使うので、何とか、この次の授業までには、塗りつぶしておくこと。
準備「次授業で、マッキー(マジックインキ)細書きを使う。できたら6本セットがあるといいな。ない人は、黒と、その他一色以上持ってこられるだけ色マッキー持ってきなさい。」
5時限目 上手い絵の描き方2−写し絵基礎
 前回の塗りつぶしの観察鑑賞会から始める。いったん家に持ち帰って、個人の作業として行われると、個人の想いが全面/前面にでてくるので、教室で、無意識にみんなを意識しながらしている作業と、深さが変わる。みんな同じだと思っていたのが、みんな違うんだになる。そして、私も違うんだに気付く人もでる。特に、私は、絵を描くのが下手/苦手で、嫌いだと思っていた人。比較することで起こる様々な状況から離れた、見方。単純な作業で出てくる、みんなの違い。みんなのを見てから、描き加える人。紙の色が透けて見えるような、薄く鉛筆の線が見えるものから、全面黒鉛色に光って、紙が反っくり返っているものまで、多様な「私が、塗りつぶした!」紙がある、ことを確認。塗りつぶしなさいという指示だけだったことを思い出すと、いったい、私たちは何をしたのか。想いは深い。
 各自に、一枚ずつB5のトレーシングペーパーを配る。トレーシングペーパーを、塗りつぶした紙に重ねて、上から下の紙を透かして見てみる。
課題「透けて見える物を、マッキーで写しなさい。」
 普通、大混乱が起こる。塗りつぶした紙には、何か見えるものがあるのだろうか。見えるようになるコツは「私が塗りつぶした紙」のことを一時忘れること。トレーシングペーパーの下に、子供の頃やった漫画の写し絵の時と同じに、写す対象の紙が置いてあって、そこに見える物を素直に写せばいいだけ。この話だけだと、「そうか、好きに描けばいいんだ」と別の方向に気付いて、突然得意のピカチュウなどを、下に見えるものとはまったく関係なく描き始める人が出てきたりする。最近では、若干描いて見せないと、考えが進めなくなる集団も出てきている。あわてないで、素直に、トレーシングペーパーをのぞき込めば、下に敷いてあるあなたが塗りつぶした紙には、様々なモノやことが見える。線が見えるくらい薄い塗りつぶしの人は、線。線によって囲まれた部分。線の重なりによって見えてくる形。鉛色に光る程に塗りつぶした人だって、その光。光による色のむら。むらによって作られる広がる形。紙の折り目。素直に見ることによって、新たに見える、あなたの塗りつぶし。何も見えないのは、塗りつぶしたんだから何も見えないと信じている、あなたの目。素直に、見える物を見えるように見ることの練習。
 写し絵は、描き直しのできない細字のマジック(細書きマッキー)の濃い色(黒、紺、緑、茶等)を使って行う。決心を促し、それを躊躇させないためである。一本の線を引くことで、次が見えてくるためである。一つの何かが見えて/見えたと思えて、線が引ければ、次々と見えてくる。見える限りの物を写す。でも、全部黒く塗りつぶすことにはならない不思議。思う存分続けて、見える物がもうないと感じたら、敷いていた塗りつぶした紙をはずす。
 線だけが描かれたトレーシングペーパーのみを机に置き〔下に白い紙を置くと作業しやすくなる〕、できた形を使って/基に、線で使った色も含めた、各自持ってきた様々な色を使って、塗り絵。形を基に、もありだからね、形の中だけを塗り絵する事にこだわんなくともいいんだからね。何色で、どう塗ればいいか? 基準はカッコよく。あなたがカッコいいと思うように。こういうプリントの服ならカッコいい(あなたが着るかどうかは、あんまり関係なく)と思えるように色を付ける。
「塗りつぶした紙と写した絵を両方提出。」
準備「次の時間も写し絵の続きをするので、今日使ったマッキーセットを持って来る。」
 見える物を見えるままに写すには、これほどの練習の上、見ることの意識の切り替えがいる。人によって切り替えにかかる時間は違う。充分な時間が必要。しかし、気付けば、その後の切り替えた目で見る練習は早い。
6時限目 上手い絵の描き方3−写し絵展開
 
 前回の提出物を、何枚か見せてもらい、その各々の見え方の違いと面白かったところ、気付き方等を作者に話してもらう。気付いて見えることと、なにげなく見ていると思っていたこととの、描ける絵の違いに気付く。
 B5版のカラー写真を用意する。作業する本人が、隅々まで興味がもてる物がのぞましい。実践例では、私の身分証明書用にベージュ色でザラザラな質感の壁の前で撮った、胸から上の手札版写真を、カラーコピーでB5に拡大したもの。その上に、同じ大きさのトレーシングペーパーを置く。
課題1「前回と同様、下の絵を写しなさい。」
 この前、難しい課題で「見えないと思っている物から、見える物を素直に写す」練習をしているので、今回は各自の見える物の量は、増大している。線はない。しかし、色の変化は見える。色の変化は線で描ける。そしてその色の変化は、この前の全面塗りつぶしのときより、何と簡単に、沢山見えることか。描きたいところから始めて、見える物全てを写していく。今回も、まず最初は、細書きマッキーの濃いめの色一色で線描き。開始して、15分程度経過し、ほとんどの人の作品が、ほぼ何を描いているかわかるようになってきたあたりで、次の指示。
課題2「写しとっているトレーシングペーパーを30度傾け、写し続けなさい。」
 混乱が起こる。説明がいるだろう。写真の上に載せているトレーシングペーパーを、左右どちらでもいいから、少し傾ける。線がつながるかどうかは気にしなくていい。傾けて、下に見える物を、続けて写す。まったくグチャグチャになるのを気にせずに、新たに描き直していい。塗り絵が二枚重なったような絵でかまわない。ここで、新たな思いこみとの葛藤が起こる。初めに描いた絵に続けようとしてしまう。又は、せっかく見えていた形が見えなくなってしまう。私たちは、どこの目で、何を、見ていた/るのだろう。の練習。下に見える写真を描いていたのではない。見えている物を見えているように描く、目と手の連動の練習。
 以前、各自が自分の好きな自分が写っている写真を用意してこの活動をしたことがある。参加者のほとんどが、課題2ができなかった。紙を傾けたとたん、手が進まなくなるのだ。見えている物を写していると思っていても、見ていたのは私の知っている(目の内側に見えていた)写真だったのだ。自分との関係が断ち切りやすい写真の方が、この作業は展開しやすい。私の写真にしてから、課題2はスムースに進む。見て描くときに必要な条件について、様々なことが考えられる。「静物」の題材は、なかなか深い意味を持っている。見えていると思っている物を再度点検する。思いこみは、思っている本人が思っているよりも遙かに強く見ることに影響を与えている。上手に描くことではなく、丁寧に、見えるように見ることに気付く練習。途中で傾けないと、上手な人がやっぱり上手だということに、やっぱりと、気付かずになってしまう。
課題3「写し絵は、塗りつぶしの時と同様、彩色して提出。」
 本来なら、もう写す物はない、と思うまで、線で写せるものを写す。これは、見る練習の授業なので、ある程度の時間を決めて、各自が思っていることとは関係なく、中途で終了にしてもいい。下の写真をはずし、各自「かっこよく」彩色する。途中で傾けることによって、見えたとりにという枠は外れているので、空は青、木は茶色というような、すでに決まっている色以外の色の、比較的のびのびとした彩色が行われることが多い。線の練習の段階で踏み出しが足りないと、彩色の時点で、定型に戻りたがる人が出てきやすい。
7時限目 美術探検
 6時間目の授業を通して、私は何を見ていたのだろうに、気付いてから、校外学習1として、美術館に出かけ、では、人間はこれまで何を見てきたのか、を見に行く。時間軸にそった常識的教養主義的な美術の見方は、しかし、作品の意味を知るのではなく、そこに描いてあることを素直に見ることができる視点に支えられると、個人の中の美術の理解が劇的に変化する。作家の想いなんか、端から無視していいのだ。でも、丁寧に注意深く描いてあるものを見ていき、自分の思いを巡らせれば、同じ人類が描いたものだから、自ずと、描いた人の想いも見えてくる。それだけでなく、自分の想いもその想いを感ずることで広がっていく。作家の想いを越えて、あなたの想いを広げてくれるのが良い絵。本当の鑑賞の練習。
8時限目 美術館探検
 さて、10歳以上、学校で「美術」の授業をしている人たちに対しては、美術探検で、学ぶべき方向は示される。しかし、私たちは、幼児教育を考えていることを思いだそう。10歳以下、自我の自覚が形成される前の人たちに対して、美術は、どのように関われる/関わるのか。毎日がほとんど非日常である小さい人たちと、非日常の楽しみである美術を楽しむには、私たちは、どのような工夫をしなければいけないか。美術館探検はそのために組み立てられる。美術の目を生活の中で使う練習。美術の目で生活を見る練習。美術館の通路にある扉を、怒られながら、又は怒られないように、次々と開けて見ていく。見えた物に、驚いて見る。見える物だけでなく、見えない物にも、目を配ってみる。見えない物だけで、見えることを実験してみる。最終的に、美術館探検を終了する頃には、「トトロはいる」と思える子供になる。実は、小さい頃に美術を学ぶということは、上手に絵が描けるとか工作ができるとかとは又別に、そういう想いを持つことができる子供になることではなかったのだろうか。幼児期の鑑賞のあり方について思いをはせる。
 保育所や幼稚園以来続いた造形偏向的図工美術教育の上にいる人たちと、本質的な美術教育を踏まえた図工教育に思いをはせるためには、6時限目までの練習を経た上で、再度、美術を組み立てなおす美術探検をこの時点でするのが、どうも、これまでの経験からいいようだ。これを基に今回展開されている図工教育は組み立てられており、一見何をさせられているのかわからなかったかも知れないが、私たちがしている授業の積み重ねは、これまでの美術の歴史がしっかりとバックアップしてくれている。そうすると、美術館探検の持つ意義も見えてくるし、その必然も見えてくる。
9時限目 創作折り紙
 今はお母さんになっている下の娘が4〜5歳だった頃、美術館で、そのころ日本一の誉れ高かった在仙の折り紙名人に来てもらって、子供折り紙教室をした。教室が終わって、そこに参加していた私の小さい人が、手に何かをきっと握って走って戻ってきた。「お父さん、折り紙作った。先生にほめられたよ!」小さい手をそっと開いて見せてくれたのは、しかし、僕の目には、ただのくしゃくしゃに丸めた紙くずだった。「おっ、これは何を作ったの?」「石!」これが、子供達とやる折り紙の極意なのだと思う。彼らが作ってそこに見える物を肯定し、その上で相談にのれる大人に、私たちはなりたい。
 最初に、二人に一つずつ松ぼっくりを配る。松ぼっくりは、校舎の裏庭に無数に落ちているのでそうなっただけで、もちろん、手近かに手に入るものなら何でもいい。それと別に、各自にB5のコピー用紙白を一枚ずつわたす。
課題「松ぼっくりを折り紙で作れ。紙は折るだけ。切ったり貼ったりしないこと。」
 鶴や奴さんの折り方は、みんなの方が私より詳しい。そこに松ぼっくりがあるので、よく見て、そういうふうなモノを作る。これが、私の松ぼっくりだ!が完成の目安。紙は、2枚あげた方がいいかもしれない。1枚は工夫、練習、確認。2枚目で、ちゃんと折ってみる。実践では、何も説明指導もしないまま、静かに各自の作業は進み、ほとんどの人が、私が納得するレベルで、ちゃんと折れた。自由に自分の技術を駆使して、自分の折りたいように折って、しかし、到達目標はある、という作業に、楽しかった、正方形でなくて大変だった、という感想が多かった。正方形でなくてもできる折り紙について、自分の可能性についての驚きと想い書いてくれた人もいた。できあがった折り紙は、携帯電話のカメラで記録した後、再び一枚の平らな紙に戻し、山折りは実践、谷折りは破線で折り目を記入し、その紙1枚を提出。
準備「次回は、カレーライス用スプーンと、マッチを持ってくる。」
 女子大だと、「次はカレーを作って食べるらしい」ということに自然となるので、驚く。次回の解説は、興をそぐのでしないことが原則だが、「カレー作んじゃないからね。土ほったりするので、そのつもりで。」
10時限目 小さい焚き火1
 最初の時間で話したナイフと同じことだが、火をおこすことも、人間を人間たらしめている。できたら、各自が自分の机の上で、スプリンクラーに気付かれない小さい焚き火を起こしたいのだが、それは、あまりに危険だろう。では、この時期この時間、私たちは、どこでどのように火を焚けるのか。考える。
 前に木の枝を拾った、校舎裏の松林。あそこなら、場所もあり、燃やすモノも手にはいるのではないかということになり、移動。
本来の課題「小さい焚き火を作り、短時間維持する。」
 20歳の女子の集団を、これだけの指示でほっておくと、実は、何もおこらない。マッチを擦ったことがないのである。裸の火を付けたこともないのである。さて、では、課題を変え、順番に指示しよう。
課題1「地面に、自分がすっぽり入れる広さの、浅い穴を掘れ。」
 ここで、各自持ってきたカレーライス用スプーンを使用。食事用具を穴掘りに使うのに抵抗を示す人がいる。それなら、最初から移植ゴテをもってこいと言うべきだという人もいる。幼稚園や保育所では、幼児用のプラスチックのスコップを使う。使ったことがあるだろうか。柔らかい山砂のような物をざっくりと掘る作業以外には、たいへん使いづらい。そのことを知って、あれを使わせている大人は、どのくらいいるだろう。あれは、純粋に穴を掘るための道具ではないのである。土と遊ぶ道具で、作業する道具でははないのである。遊ぶの意味が管理する大人に都合良く曲げられているのではないか。では、子供と真剣に遊ぶため、本物の穴を掘る時は、どうすればいいか?様々な体験の量を増やしておくことこそが、幼児教育に関わる人には必要とされる。大きなスプーンで、山の土をほっくり返す経験。それだけのことだが、たぶん、本当の幼児教育が始まったときには大切な体験になる。日常の身の回りにある物を、そもそもの用途以外にどれだけ動員できるかの経験値が常に試される。子供達が、ある状況の解決方法を見つけたとき、そこにいる大人が、どのように言葉がけできるかは、実際の経験を積んだライフスタイルからしかでてこない。意識的に、食事用のスプーンや、おたまを、穴掘りに使ってみる経験。実際の保育の現場でそれをやるかどうかは、この経験の後で、じっくり考えられればいいのだ。子供に直接教えることだけを習うのは、学習ではない。
 松林に散らばって、大きめの皿のような穴があちこちに掘られる。火をおこそうと始めた受業は、しかし、このあたりで時間切れとなる。全員穴から上がり、できあがった松林の景観を鑑賞する。
課題1+「後で来た人が気付かない程度に元通りに埋め戻せ。」
 掘ること自体が面白いのである。埋め戻すこと自体も面白いのである。何かをなすための作業ではなく、そのこと自体を楽しむ。後始末ではなく、後隠し。こっちの方が惑星に生きる人間としては大切ではないか。これも、今の学校では、なかなかしない/できない授業である。この次は火を焚くよ。
準備「今日持ってきた道具はそのままこの次も使う。」
11時限目 小さい焚き火2
 授業開始から、勇んで林の中に移動する。まず、各自、手の平大の小さい皿状の穴を掘る。マッチを着ける練習をする。
課題「さてそれでは、その穴の中に、火をおこせ。」
 さすがに、途中で、作業をやめさせて注目させ、たき付けのやり方について、お話をした。落ちている適当な松の木の枝を、適当に集めて、直接マッチで火を着けようと、ほとんどの人が始めたからだ。そして、火が着かないと騒ぎ動揺する。君ら、本当に火、着けたいのか?
 まず、ポケットティッシュを2,3枚出し、ゆるくひねったこよりを作る。小指の1/4以下の太さの枯れた枝/松葉を手の平一杯ぐらい集める。別に小指くらいの太さの枝も、手の平一杯集めておく。良く乾いていることがのぞましい。こよりを丸く輪にして穴の底に敷き、その上に、風通りの良いように細い枝を何本か重ねておき、こよりに火を付ける。こよりに火がついたら、そっと脇から息を吹きかけ、酸素を送る。枝に火が着いたら、適宜残った細い枝を足す。細い枝が充分に燃え始めたら、もう少し太い枝を少しずつ足し、炎を維持する。失敗したら、最初からきちんとやり直した方が早い。火を大きくする必要はない。火が着けばよい。言葉にするとたやすいが、実際は、ほとんどの人が失敗する。失敗した人は、上手くいっている人をよく見て、どこが違うか考えながらまねする事。息を吹きかけるには、地面に顔をぐっと近づけなければいけない、煙くても、蟻がいても。
課題1+「火が着いた人は、今燃えている枝を燃やし尽くしてから手で押さえ、良く揉み消してから、元通りに土をかぶせて終了。前回同様、後で誰かが見ても気付かれないように戻すこと。」
 一人一人では、集中が続かず、グループを作って、何組かは成功した。全員は成功しない/できない。火を着けるのがこんなに難しいとは知らなかった。煙いのがいやだった。虫がいる。の中で、小さい火を着けるだけなのだが、様々な広がりを持った体験がおこる。火を着けられるようになったから、これで地震が来ても大丈夫だと思ったという感想を書いた人が、結構いたのがうれしい。いや、悲しいか。
準備「各自、壊してもいい古新聞紙を三日分持ってくること。」
12時限目 ハムスターになる練習
 新聞紙をよく観察する。軽く裂いてみる。上手く裂ける方向と、そうでない方向があることに気付く。机と椅子を教室の隅に寄せ、教室の中央に広場を作る。全員、丸く床に腰を下ろし、三日分の新聞紙を出す。
 三日分全てを、細い短冊に裂く。裂いた物は各自確保しておく。裂くのが遅い人の分は、終わった人が手伝って、全ての新聞紙を細く長い短冊に裂く。
 裂き終わった新聞紙を各自両手で持てるだけ持ち、立ち上がる。号令一過、上に放り上げ、みんなで頭からかぶる。3回繰り返す。参加者(実践例ではクラス)を二つに分け、最初の組が、床に仰向けに寝る。後の組がその上に短冊を放り上げかぶせる。できるだけ高く放り上げる努力をする。何回かやって、交代する。
 広場の中央に、全ての短冊を集め山にする。山の片方に、一列に並び、順番に山に潜って這い進み、反対側まで行ってみる。できるだけ山を崩さないように這う。できるならば、ゆっくり時間をかける。最終的に全員山の中に入り、思い思いの格好でしばらくくつろぐ。
 20歳前後の人たちとする、この作業の、具体的な状況が想像できるだろうか。大興奮、大混乱。まず、埃アレルギーの人がいることに注意しなければいけない。作業の輪から外れなければならない人もでる。興奮しすぎてしまう人がいることは始める前に、指導する側は、覚悟し、対処のシュミレーションをしておいた方がいいかもしれない。周波数の高い、大きい声が必要な状況になるときもある。眼鏡や装身具など、外れてなくなりそうな小さい物は、初めに外して片づけておく。上手く裂けない(壊せない)人は多い。細かく裂けない人も多い。物を意識的にきちんと壊してみるという作業が、生活の中からなくなっている。ある状況を越えると興奮は一気に高まる。紙を降らせる作業は、誘わなくても全員参加で動くが、山に潜る(これが、ハムスターになる練習ということなのだが)活動は、ほとんどの人が恥ずかしがり躊躇する。でも、本当はみんなやりたくて、始まれば我を忘れる。作業を移すタイミングの塩梅が大切だ。紙の山はたいへん暖かく、季節によっては汗だくになる。活動する場所の通気の問題も意識しておいたほうが良いだろう。
 まだ充分盛り上がっているうちに、ゴミ袋を提示して、紙くず回収作業を、楽しみのうちに行う。最後の締めに、各自あと20個ずつ紙くずを拾う作業をし、新聞紙で一杯のゴミ袋をリサイクル資材置場まで持っていき、そこで終了解散。掃除ではなく、紙を裂く作業の最後の部分として回収清掃を行う。清掃片付けを全体の活動から独立して別にすることの良い点と、同様に悪い点についても、意識して考えてみる練習がいる。ゴミ置き場で、この活動は終了するのだ。
準備「次も、各自三日分の古新聞紙と、セロハンテープを一巻き持ってくること。」
13時限目 UVシェルター
 新聞紙を使う活動2回目。新聞紙をよく観察する。強い方向と、弱い方向がある。強い方向を軸に、クルクル丸めてセロテープで止めると、曲がりにくい(といっても程度問題だが)棒になる。ということを、みんなの共通した知識としよう。では、外の芝生の広場へ移動。
課題「さっきわかったことも使って、各自、自分用のUVシェルターを作れ。」
 UVシェルターとは、太陽からの紫外線をよける、小さい屋根。極端な例は日傘だな。これ、あなた達には、結構シリアスに大切なことなので、真剣に考えてみよう。今回はなぜか、これだけの指示で、様々な実験と作業が始まる。一人で始められる人と、グループになっていく人たちとが、自然に分かれる。課題は、自分(だけ)が、紫外線から隠れられればいい、なのだが、なぜか大型テントのような物を作り始めるグループもでてくる。
 どこに(壁や、立木、ベンチなど支える物の制限はない)、どのように(丸める以外の新聞紙の使用方法についての制限もない)、何を(個人用シェルターであればいいので、家をとは言ってない)、新聞紙とセロテープだけを使って作るのか。作業が始まると、少しずつでてくる質問と相談にのっていく。周りでやっている他の人の作業もよく見てまねていい。カンニングは推奨される。他人の考えを、改良して自分の物にするのも推奨される。単純な素材と技術なので、そっくりまねても違うものができてくる。最も簡単なのは、折り紙の兜なのだが、思いつく人は少ない。日傘のようなもの、立木の枝に広げた新聞紙を貼るなどの考えは、広報される。できた人から、その中に隠れしばらくくつろぎ、他の人の作品を鑑賞して回る。前回と同じようにゴミ袋が提示され、自分で、自分の作った物をつぶし壊して、リサイクル資材置き場まで持って行って終了。
準備「次回は脳みそだけを使う。朝ご飯をちゃんと食べてくるように。」
14時限目 神経探検1
 美術館での活動では、最初に行われることの多い、「神経探検」は、学校的な作業の場合、この位置に用意される。まず、全員をできるだけ無作為にペアに分ける。美術館などでは、親指の長さ、生まれた日にち等が使われる。ペアを作る間に、ある程度のコミュニケーションを無理矢理とらせるためなのだが、クラスで行う場合は、コミュニケーションは省いて、出席番号等を基に行われる。気が合う合わないはできるだけ無視される。
作業「息会わせ。」
 お互いに向かい合い、目以外の相手の体の一部をよく見て、微妙に動いていることに気付く。息をしていると、必ず、体のどこかが動いている。相手のその動きに会わせて自分の息をしてみる。上手くいけば、お互いに、一気に同じ動きになれる。お互いに、リラックスして息ができるように速度を変え、息を合わせる。
作業「糸引き1」
 息会わせ後の各ペアに、長さ30センチほどに切った凧糸を渡す。お互いに向かい合い、糸の両端を、親指と人差し指でつまみ、ピンと張る。強く引くことはないが、ピンとなるように。指先が、つまんでいる糸の感じがわかるかどうか確認。攻めるわけではないが、先攻後攻を決める。先にやる人が、糸をつまんだまま、体の前に立つ紙に大きな字を書くようなつもりで、でたらめに手を動かす。糸が水平を保ったままになるように、引かれる方の人も同じ形に手を動かす。押す退くを含めて、常に同じ形に動けるように(糸がピンと張られて水平を保てるように)練習する。指先の感じを忘れないようになるまで練習し、交代。
作業2「糸引き2。同じ作業を、今度は、目をつぶってしなさい。」
 少し難しくなる。指先だけの感覚で作業1ができるかどうか試す。何も感じない人は、無理矢理動かさなくていい。ただ写し絵の時と同じで、注意深く、集中して、素直に感じようとし、曖昧でもいいから何か感じたら意識的に感じを追いかけて動かすこと。納得するまで練習したら交代。
作業3「糸引き3」
 もう少し難しくなる。糸引き1の作業を、糸無しでやってみる。糸はおいて、しかし、糸があるかのように空中に指を上げ、つまみ、先攻後攻で同じように動かしてみる。糸を使っているときは、30センチぐらい離していたが、ないときは、どのくらい離すと良いのか、感じられるのか、よく見ながら、様々試す。
作業4「糸引き4」
 もっと難しいことをしてみる。作業1でしたことを作業2に進めたように、作業3を目をつぶってしてみる。
 私たちは、すでに、塗りつぶしの写し絵をし、写真の移し絵もした。真っ黒に塗りつぶした紙は、何も見えないと思う方が普通だったが、見えて描けた。この作業でも、何も感じないのは、普通のことだ。でも、糸がなくても、糸があるかのごとく動かせたのは、見ていた/見えていたからだけだったのだろうか。私たちは、何を見ていたのだったか。さて、集中して、一応、やってみましょう。必要だと思う人は、作業3やり直してみてからでもいいよ。
 作業4で、まるで糸があるかのごとく動くペアは、もちろんそんなにいるわけではないが、全然いないわけでは決してない。どの活動の時でも、必ず何組かは、程度の差はあるが、動く。最初のざわざわした状況を過ぎると、しんと静まりかえった部屋に、時々感嘆の声が響くという状況が続く。ただし、塩梅を見て強制的に作業を終了する。真剣に作業している人は、ものすごく脳が疲れるのである。一気にチョコレートが食べたくなる。今まで、こんなに集中して脳を動かしたことはないのが普通だ。
準備「本当は続けてしたいのだけれど、脳が緊張しすぎたので今日は終了。次も続き。朝ご飯をちゃんと食べてくるように。」
15時限目 神経探検2
 この前のペアは、そのまま。ただ、今回最初の活動は、全員個別で行う。鏡を使って、普段とは違う視覚/視角を通して日常を見る練習。まず全員に手鏡を配る。ここで言う鏡はこの活動のために特に用意されたたもので、軽いプラスティック製の鏡の板を10㎝×20㎝ほどの大きさに切った物。
課題1「下だけを見ながら、階段を下まで行ってみる。」
 鏡面を下向きに持って、自分の眉毛あたりの額に当てる。角度を調節して、目の前に、自分の直ぐ下(たとえば、立ち上がったときの自分のつま先)だけが見えるようにする。そのまま(鏡だけで見たまま)静かに立ち上がり、自分の危なくない速度で歩いて部屋から出て階段を下り、外に出られる階に移動する。自分のつま先だけを見て階段を下りる感じを味わう。前を見たい人は、後ろに反っくり返ると見える。
課題2「天井だけを見ながら、空が見えるところまで行ってみる。」
 外に出られる階に着いたら、鏡を持ち替えて鏡面を上向きとし、今度は、目のすぐ下に当てて、自分のすぐ前の上(前髪を通して天井など)だけ見えるように角度を調節する。そのまま進み、出入り口を経て、頭の上に空だけが広がるところまで行ってみる。天井を歩き、空に落ちる感じを味わう。前を見たい人は、こんにちわのように前にかがむと見える。
 全員外にたどり着いたら、芝生の広場に移動。ペアに分かれ、ペアごとに目隠しの布一本を配布。先攻後攻を決め、先にやる人が目隠しをする。上手くできるかどうかではなく、感じを味わうのが目的であることを確認する。ペアの相手の人は、目隠しをした人の動きをよく見る/観察する。目隠ししていない人は声を出してはいけない。目隠しをしている人の間を動き回るのはかまわない。目隠ししている人が大変危険な状況になった場合は、静かに肩に手を置く。肩に手を置かれた人は、直ぐに動きを止めること。ただし、危険かどうかは、その人は見えてないことをよく考えて合図する。という状況で動いてみるよ。
課題3「芝生が終わるところ、又は、何かにぶつかるところまで、まっすぐ歩け。」
 たどり着いたら、指示があるまで、そこにじっとして、自分が、芝生のどの辺にいるか想像してみる。見ている人は、どのようにそこにたどり着いたかを記憶しておく。ほぼ全員(なかなか動けない人が、必ず何人か出る)が行き着くところまで行ったら、目隠しをとり、見ていた人としばらく話をする。実際の動きと動いた感じについて。目隠しを交代し、そこから、元の所に戻る。条件や状況は同じとする。全授業終了。
 毎回、終了時に紙を渡し、感想と質問を書いてもらった。提出物(感想用紙も含めて)は、個人ごとに袋に保管しておき、最終授業時、各自に返還する。それらを見/読み返して、「図画工作の基礎技能とは何か/なんであったか」という題のエッセイ(リポートではなく)を提出し、評価する。参加学生には、出席6割リポート4割の割合で成績を付けるので、欠席しないようにと話してあるが、実際にはこの割合は逆で、リポートの比率が(様々な配慮はされる)6割、全部出席して、提出物(熱心不熱心、上手い下手は考慮されない)も全部提出してあれば4割として(ちなみに今年度、出欠が問題になった人は、60人中1人)、100点満点で成績を付ける。
 エッセイは、授業に参加し提出物を作る経験をふんだことを前提に、作業の内容を覚えているかどうかではなく、開始前に考えていた図画工作の概念が、どの作業を通してどのように変わり、そのことによって、大学で学ぶ幼児教育のための図画工作実践技術のあり方について何を理解したか、について述べることを期待される。又、リポートではなく、エッセイだということにも配慮された作文だと評価は高くなる。もちろん、考え方がこちらの期待どうりであるかどうかはあまり大きなポイントではなく、反対の態度であっても、自分で考え、組み立ててあれば、点数は高くなる。
 このような配慮による図画工作の作業は、近現代美術にヒントをとると、実践的な活動のバリエーションは、いかようにも考えられる。今回しなかった、二つの案を以下に述べておく。
□鋸(ノコギリ)  実践経験有り
 ナイフと同様に、各自の家から、家にあるノコギリを持ってきてもらい、鑑賞し、身の回りの切って大丈夫なものを探し、切ってみる。切ってみるだけ。そもそも家に鋸を持っていない家族が多い。木の枝を切る、できたら、立ち枯れの木を切り倒す、というようなな経験をしたい。
□上手い絵の描き方 実践経験有り
 塗りつぶしに入る前か後かは状況によるが、見えるところ(いるところから見える風景、教室の中の友だちなど)に額縁を決め、そこに見える物を全て字(言葉)で、表に書きだしてみる。言葉になる物だけが描ける。言葉で見ている。
というような。         (以上)