2009年 7月 28日 明るい曇り空。気温高く湿度も高い。

この前のブログには、美術館で活動中再びけいれんが起きて救急車で病院に運び込まれたが、しつこく復帰した、という所まで書いた。それを読んだけっこう沢山の人から、本当に大丈夫なの?無理しないでね、という連絡をもらった。ありがとう。で、その後ブログの更新がしばらく鈍った。今回はその鈍った理由。驚かないでね。

既に書いたように、僕にはてんかんの発作があり、いつも静かに生活をしなければいけないらしいということが今回明るみに出た。てんかんを軽く思っている訳ではないが、しかし、てんかんの発作は、注射をすれば治まる。今回もされている自覚は無かったが、落ち着いてから病院で風呂に入ったとき、左肘の内側と右肩に大きな内出血の跡があり、ああ、ここに注射されたんだなあ、ということがわかった。注射されて、若干の点滴を受け、2、3日後に、腹筋を始めとして体中に筋肉痛が出た。体中の筋肉がけいれんしていたのだ。でもそれも1週間もしないうちに落ち着いた。11日に入院して、17日に、僕は退院した。20日は海の日で休日だったから、僕は2、3日家で休んでから美術館に復帰しようと思っていた。21日は振替休館の日で、もう夏休みに入っているから、22日からは先生たちの研修や大学生の実習なんかが連日始まる。

19日日曜の朝早く、って言っても5時は過ぎていたのではないだろうか、泊まりに来てくれていた娘が慌ただしく起こしに来た「お母さんが倒れている」。一瞬、何が起きたのか、わからなかったが、後について行ってみると、居間に続いてあるお風呂場の脱衣所の前に、明美さんが倒れていた。頭の回りに透明の水たまり。何かを吐いたようだった。息はしている。まぶたをひっくり返してみると半分白目。呼びかけには応じない。手が少し震えている。娘が「救急車呼ぼうか?」と聞いて来たので我に帰った。電話してもらい、でも、なんで倒れているのかわからず意識は無いのだから、こういう時は動かしてはいけないと言うことは頭をよぎり、そのまま救急隊が来るのを待つ。けっこう早く救急車は着いて、担架が運び込まれ、ちょっとの間、様々な所に携帯電話を欠けた後、市内(岩沼市内)には空いている病院が見つからなかったので、仙台の厚生年金病院に運び込むことに決まる。それってどこだ?彼女の保険証のはいったバックと携帯電話だけを持って、一緒に救急車に乗り込み、岩沼インターから東道路を使って、仙台東インターで降り、高砂駅前の病院に着く。すぐにお医者さんたちがどっとまわりを取り囲み、僕は外の廊下にある長椅子で待っているように言われる。検査に出たりはいったりした後で、最終的に脳神経内科の先生が来て、「なぜ意識が無いかよくわからない。脳や体に異常は特にない。」ということがわかる。「水を沢山飲みませんでしたか?」服用している精神科の薬の関係で、確かに彼女は水を沢山飲む。ただしただの水ではなくインスタントコーヒーを溶かした水。でも、僕の知っている範囲では、意識がなくなる程水を飲んでいたという記憶は無かったので家に電話して娘に聞くと、確かにこの二、三日異常に飲んでいたと思うとのこと。水に加えて、僕の知っている範囲でも、その他にカンジュースを途切れなく飲んでいた。ううむ、これは飲み過ぎだろう。血液検査の結果、彼女の血中ナトリウム濃度は、115であることが判明する。通常は140以上なければいけない。120をきると危険なのに115しかなくなっている。意識障害が出るのは当然で、手早く処置しないと脳に異常が残る値。しかし、ここからが難しい所で、ナトリウムは急に濃度を上げると、それもまた脳に悪影響が出るので、ゆっくりしかあげられないのだそうだ。気長な点滴が始まる。

血液ナトリウム濃度が上がってくるに従って、彼女の意識は普通に戻って来る。とは言え、彼女は元々統合失調症なのだ。だから、意識が普通になってくると、全体としては異常になってくるというつらい所がある。入院していた最初の数日は、意識もうろうで点滴の針や、酸素吸入機、着ているパジャマなどを片っ端から引き離したがる彼女との戦い。かつ、彼女はヘビースモーカーなのでニコチン禁断症状から来る、火事場の馬鹿力ふう暴れまくりを止めるのとで、いっぱいいっぱい。張り切りすぎると、こっちも退院したてなわけで、泣く泣く「夜は拘束しても仕方ありません」にサインした。拘束はされる方も大変だろうが、本人に半分意識は無い。拘束に同意する方にこそ強い自覚と決心がいる。それしないと両方とも死んでしまうかもしれない訳で、これはつらい。近くにいる娘の子供はちょうど4歳直前で(普通にしていると元気いっぱいにうるさいという意味)、しかも数日前から夏休み。子供の仕事はどんな時にも元気いっぱいな所を見せて、しなびた大人のテンションを高く保たせるあたりにあるのは理解しているつもりだが、今回のような状況だとさすがに僕も余裕が少なくなった、なくなったとは言いたくないが。何人かの女友達が休みの間助けに来てくれて、本当に助かる。基本的に、もう1週間前から、職場には迷惑かけっぱなしな訳で、今更どうこう言う筋合いではなくなっているから、すっかりこっちにシフトして美術館のことは気にしないで行こうとしたのだが、その中の幾つかの活動は「齋さん、お願い」が心に迫るものもあり、1時間だけとか2時間だけ美術館に出向いてお話や活動をする。1週間かけて、体中のニコチン分や薬の成分を整理整頓し、昨日の月曜、やっと精神科や脳神経内科の先生達と話し合い。今月中には退院という運びになった。
この後、僕自身の何にも無い休日を1週間取れないかなあ。いや、明日から博物館実習の5日間が始まる。9月の末までに夏休みを取れるかどうか、心して進もう。毎日少し眠い。

全然別件だが、僕のコンピューターはマッキントッシュだ。最近、アップルは(多分アップルだけではないのだろうが)僕の想像を遥かに超えて、インターネットとの結びつきを深めている。意識していた訳ではないのだが、必要上、いつの間にか、僕もウエブ上に相当大きな自分専用の記憶空間を持っていることが判明した。それで僕も、沖縄に住む娘とテレビ電話をかけあったりできるようになっている。僕のデジタル系テクニシャンであるMr.Ameeがその空間を遊ばせておく手は無いと、このm-sai.netのベース(という考え方で良いのかな?)を、そっちに移してくれた。手続きは順調にいっていて、これを読むみんなは、これまで通り何も変わらない。でも、移行に伴ってしばらくうまく繋がらなかったりすることが起こるかもしれないとのことだ。お心置きを。

2009年 7月17日 蒸し暑い、高曇り。でも青空が見えて、乾いた風がある。

1週間ぶりに退院して来た。先週の土曜11日、朝から児童館の小学生低学年が来ていて、いつもの美術館探検をしていた。予定では午前中探検をして昼飯を食べ、午後から粘土作りのワークショップをするはずだった。その昼休み、何年かぶりに痙攣が来た。まず手の感覚が鈍くなっていきしびれてきた。あれへんだなあと思っているうちに左手がかってに震え始め、足も動き始め、自分ではどうしようもなくなって来たので、スタッフに頼んで救急車を呼んでもらった。それが来る頃には体の左半分がもうどうしようもないくらい勝手に震えまくっていて、救急車の中では心臓もハカハカいい始めてきたので、チョッとやばいかなと思ったあたりで、行きつけの仙台東脳神経外科病院についた。そこから緊急入院1週間、今日退院した。


いやはや皆さん、毎度、お騒がせいたしております。脳内出血の手術で頭蓋骨を開けると、脳は空気にさらされる。本来脳は外気とは接触しないまま一生過ごすので、空気に触ると、何か起こっても不思議ではないのだそうだ。僕の場合ほとんど奇跡的にひどい後遺症は出なかったけれど、やはり少しは影響があって、手術後2年ほどで、初めての痙攣が起こった。でもそれはそんなに酷いものではなく、少し記憶は途絶えたけれど、確かその時も1週間ほどの入院をして、全快したはずだった。
それ以後、もうだいぶ長い間快調に過ごしてきて、ブログにも書いた様に再び水泳を始めたりもし始めた。その矢先の痙攣。確かに、7月に入って以来、緊張が高いレベルで続く毎日だったとは思う。でも、そんなに酷いとは思っていなかった。普通に忙しい毎日。でも、僕には、もう耐えられなくなっているんだなあ。ということを実感させられた。
痙攣は、病院に着いて何本か注射をしてもらったら落ちついた。今回は記憶が途切れることはなかったけれど、途中で鎮静剤とかなにかそういう薬を打たれたはずで、眠り込んで、気付いた時は集中治療室の中だった。気付いてみると左腕の肘の内側には皮下出血の後がたくさんついていて、震えまくっている時に注射射つのすごく大変だったんだろうなあ、ということがしのばれた。それとは別に右腕の肩口に太い注射の後が一個。これ効きそう。
日曜の午後にはもう個室に移されて一晩泊まり、月曜には一般病棟という具合。診断は癲癇ということだった。そうか、これが癲癇ということなのか。いつどのようにして起こるかはわからない。これからも、注意深い毎日を丁寧に過ごすということだな。

2009年 7月 10日 昼から深い青色の空に、光る白い雲が早く流れる。乾いた強い風の吹く湿った暑い日。

この1週間はせわしなく過ぎた。6日、今月から介護の拠点がグループホームに変わった胞夫さんの移動手続き、午前中。午後から仙台に出て、IQ150三昧。2時からと19時30分からと演劇2本見る。次の日市内M保育園年長組と美術館探検+粘土作り。その次の日も、山形からはるばる毎年来てくれるH保育園年長組と美術館探検+粘土作り。帰りにプールに寄って水泳ぎなど!1時間半。その次の日は、美術系大学付属高校の保育科の3年生男女35名と美術探検+美術館探検、午前中。午後から小中学校の先生たちと、小中教育での図工美術連携についての相談。帰り、定例の鍼灸1時間半で、心身のリセット。
今日、やっと一日休み。7時半まで3度寝して、洗濯をして胞夫さんの病院関係手当のため、介護施設に寄ってから、行きつけの病院二つを自転車で回り先生たちと相談。ついに今日までにしなければいけないことが終了したので、行きたかったけど時間が取れなかった、山下の野外博物館総合案内所にカミサンと一緒に車で出かけ、その流れで北六食堂に僕らの誕生会のための昼食を食べにいき、ご無沙汰だった、モーターサイクル関係のお店によりながら帰宅。ふうーっ。


IQ150はちょうど、僕が美術館に関わったあたりから仙台で活動を始めた、丹野久美子という元気のいい女子が率いる演劇集団で、早くから清く正しく質の高い、仕事としての演劇を見せてくれる人たちだった。清く正しくなんて言うと、本人たちはいやがるかもしれないが、彼らのやっていること演じていることこそが、実はそういうことなのではないかと僕は見るたび思う。たいていは包腹絶到の彼らの芝居から、しかし毎回、僕は自分のしている仕事や人生の肯定感と共鳴感を分けてもらっている。始まった頃にいた幾人かは各々独立していて、ちょっと前に、そのうちの一人(男子)が演出主演した劇を見た上での今回だったので、彼女、彼、彼等を巡る様々な思いは深かった。
この30年程の年月の間に、公務員をやっていた僕の身に起きたことですらイヤハヤ何ともな訳だから、多分彼らに起きたことは、僕などには想像を絶する程のことだったろうとは思う。しかし僕らの身の回りで起こったことは共通していて、同じ時代の同じにおいを嗅いでいる。そのことが彼らの芝居からは常に強く伝わってくる。多分、僕と彼等は同じ方向でものを見ていることが多いのだと思いたい。
良い表現が常にそうであるように、それは、作者の意図を全く無視しても大丈夫な程、強く現れてくる。作者や演出家が何を言いたかったのかなんてある時点からほとんどどうでも良いことのように思える程、観客各自が各自の世界に浸り始めているように、あの空間に一緒にいると思えてくる。同じ芝居を同じ時間と空間で見ているのに、各自が各自、違うことを深く思い出し味わっている顔をしている。各自が思い出しているのだから、それらは全部違うことなのだけれど、見ているものは同じなので、全部違うのに深い底の部分では繋がっていることが何となくわかるというような不思議な一体感。それを同じ日に続けて2回。
これは、もしかすると作演出が女子だったからかもしれない。そのすぐ前に見た彼の作演出主演の演劇は、同じような話ではあったのだけれど、何だろう、悪い意味ではなく何となく上滑り気味に思えたのだった。最後のギリギリの所に来ると、男子はやっぱりそういう方向に走り、女子はリアルに本音で物事を話し始めるというような。良いとか悪いとかなんか既に遥かに超えたあたりでの、しかし、しんみり笑えるお話の芝居。なかなか良い一日だった、疲れたけれど。
僕は今日で58歳になった。カミサンは4日にすでになっている。昼飯を食いにいく車の中で数えたら、僕たちはもう30年を遥かに超えて一緒に生活を続けているのだった。またこの一年を丁寧に、しかし、何時逝っても良いように生きていこうと思う。

2009年 7月 3日 石巻では、蒸し暑い高曇りの一日。半袖シャツに、でも紗の上着。

いろいろな場面で機会あるたびに言っているのだが、税金でやっている公立美術館に一番来て欲しいの/来るべきなの は、最も税金を払っている30代40代の男の人たちだ。そしてもちろん、美術館なんか!に最も来ない(来れない?)人たちも、30代40代の一番働いている男の人たちだ。
D和町の小さい美術館の人が、ウイークディの夜7時頃から、美術鑑賞基礎の講座を開くの手伝ってもらえないかと相談しに来た。ううむ、良いんじゃないの、と押っ取り刀でとにかく出かけてみることにした。7月1日のことだ。

美術館はもう少し夜遅くまで開館してみたらどうなんだろうと、よくいわれる。私の行ったスペインでは夜9時まで開いていたよ、というような話もよく聞く。で、やっと、宮城県でも、仙北の小さいその町で、水曜の夜6時半から始まる美術鑑賞講座を開いてみようという所までこぎつけた。この時間なら、その年代の男の人たちも来れるんじゃないだろうか。
当日、美術館で持っている美術探検キット(何枚かの収集作品の実物大コピーパネル)を積んだトラックをスタッフに運転してもらって、会場のまほろBホールに行った。20名ほどの人達が結構きちんとした服装で集まって来ていた。でも、ほとんどは女の人。男性は4人。全員結構歳とった(って言っても僕と同じぐらいか)ホワイトYシャツの人。お話は、いつもの「美術探検」。
その作品を描いた作家の想いなんか気にしないで、自分の知っている物や事を縦横に駆使し、その絵から読み取れるものを確認して行く。そこでわかったことだけを基に、作品の中の世界を確定し、そこから、自分の世界の拡大を図る。そのような読み取りこそが、作品の深い鑑賞に繋がる、というようなお話。字で書くと固そうだけれど、実際のお話は、落語みたいな感じの、ごく柔らかいものだ。でも、こういうお話、仕事の終わった後に聞きたい?みんな。自分に返って考えても、ちょっと僕は行かないかなあ、こういうの。夜は、もっと違ったユックリをしたいなあ。美術は、結構活発で能動的な活動の様に僕には思える。もちろん、この日来た人の中には、この時間でなければ絶対に来れない人も何人か居たのですよ、という話は企画した人から聞いた。話の後の質問の時間のやり取りも普段日中の時とは違った熱心さは感じられた。でも、多分、集まった人たちの問題ではなく、日本の社会の中にある、自分の時間の捉え方や、美術のあり方や、その他様々な、自立する自分の意識の持ちようのようなものが、そもそも、夜に美術を使う意識に深く関係しているように思える経験だった。
これまでの、日本各施設の経験では、美術館が夜間開館しても、ほとんど人が来ない。閉館時間を少し(1、2時間)延長するくらいでは、まったくと言っていいほど人は来ないことになっている。夜11時ぐらいまで開館するのを5年間とか続けてみれば、少し変わるかな。仕事をしなくてよい時間に、その時間をどのように使うかということは、個人のライフスタイルをどのように捉えるかにかかっている。結構な大事業がそこには有る。
仕事を終えてからの時間をその人が何かに使おうとする時、美術は、そこに直接関わるより、そのこと(暇な時にすることのバリエーション)を考えるあたりにはたらき場所が有るのではないかと僕は考えている。
そして今日、石巻の市街地の入り口に有る釜小学校で、5年生のための移動美術探検。使うキットは1日夜の時と同じ。違うのは時間が午前10時から午後3時で対象は10歳から11歳の男女計100人弱というところ。こういう、大人になりつつある子供の人たちと一緒にする、モノの見方の再点検と、各自の頭の整理のような活動は、肉体的にはものすごく疲れるけれど、毎日の典型的大人の仕事で、混乱衰弱し始めている僕自身の頭のリセットのためには、何物にも代え難い活動に思える。