2007年12月17日 空気が冷たい、しかし晴れの冬の日。

 ブログなんか開く暇ないぜの日々が続いている。胞夫さんのアルツハイマーが日々進行し、彼自身も、何か自分はひどい物忘れをしているようだと気付き始めた。すると、一々様々なことが気になって、日々の活動(朝ご飯を食べるとか、服を着るとか、デイサーヴィスにいくとか)が、誰かに確認しながらでないとできなくなってくる。確認しても、している最中に何をなぜ確認しているのか忘れるし、何かを確認したようだというのは覚えていても、確認したこと自体は忘れてしまう。一々正弘(でも、この人は俺(胞夫)の何なのだろう。何か近しい人のようで、いろいろ世話をしてくれているのだが、誰だったか。ああ、そうか兄さんだ。いや俺より若いようだから弟か、と思っているレベル。もちろん彼は彼らの兄弟の長男で、私は彼の子供。)に確認したいのだが、耳がひどく遠い。聞こえても、正弘が使っている言葉は、胞夫にとっては、普段使わない言葉と概念であることが多いので、何を言っているのかまとまらず、わかろうと考え始めると最初の方の文脈を忘れ始めているので、「めんどうだからいいか」と言うことになって、ますます混乱が深まるということになる。つき合うこっちに相当の余裕がないと絵描いたように余裕のない対応というものになる。

 カミサンの明美さんはここのところ調子がいいのだが、統合失調症の人が調子よくなると、それはそれで、統合が失調しているのが露骨にでてきて、普通に生活している人は混乱する。特に彼女は根が優しくて神経細やかなので、やることすべてにまったく(たぶん)悪気はないのだが、逆にそのために、一人で洗濯をして洗い物をして、胞夫さんに着替えをさせて朝ご飯を食べさせて、時間に追われて仕事に出かける私としては、時々、神経を逆なでさせられるように感じる出来事が起こったりする。いやはや、まったく良くやっているよと、自分で自分をほめるしかないほどの毎日なのだ。そんなわけだから、たぶん、このブログの更新は、これからも、こんなペースで進むことになるだろう。
 11月26日月曜日から、宮城県美術館は、来年の10月までの長い改修休館に入った。主としてエアコン関係の改修なので、始まったとたんに全館の暖房が止まった。毎日厚着して仕事をしている。前にもどこかで書いたと思うが、僕にとっては、この休みは願ったりなのだ。ここまでの経験をとにかく書き留めておく良い機会だ。新しいiMacを購入して、準備万端といきたいところなのだが、まず最初はお掃除だ。始めてみたら、僕はここ30年人事異動をしていない人だったので、大変なことになってしまっている。様々なところにつっこんであった様々な記録と感想などが次々でてきて、こういうの、いったいみんなはどうしているのだろう。一々読み返してシュレッダーにいくヤツと取っておくヤツ(取っておくったって、どこにどういう風に
)と決めて、全体として減るのは2割ぐらい。これではいかんと思い切っても半分ぐらいしか減らせない。あっちでもストレスだぜなのに、こっちでも埃だらけにストレスだ。俺、大丈夫生き延びられるんだろうか。それで、今、ちょっと休んで、この文を書いている。深呼吸して(マスクしないとせき込むけれど)慌てないで遊びながら、しかし確実にやっていこう。

11月19日  仙台は初雪。岩沼は小春日和、でも風は冷たい。

日文という図工の教科書を作っている会社が、フォルモという販売促進用の雑誌を出している。たぶん先生向けなのだろう。そこから、あなたの美術館でやっている学校との連携活動の報告を書いてと頼まれた。だから、いわゆる、そういうのはやっていないんだってば、と答えたら、だからそこんとこを書いて、でも800字以内ね、ときた。自分が、思い入れたっぷりに充分考えてしていることを、相手が期待する短い言葉で説明するのは、実は、自分自身の良い点検になることが多い。で、やってみた。でも、最初は1600字必要だった。何回か書き直して1000字にした。それ以上削ると、僕としては違うものになりそうな気がしてきたので、そこまで推敲した途中の3種類の文を全部編集部に送って、これ以上直すとどうなるの?と聞いてみた。そうしたら、彼らは、約800字に約めてきた。なるほど、ここのところをあなた達は、こういう風に聞きたいのだなと、少し感心した。だから、編集部がまとめてきたその文を雑誌に使うことを、僕は了承した。そして、僕が書いた文を以下に公開しよう。ブログでは字数制限がないので、少し補足して2000字弱になっている。読んでみるとくどい。思う存分説明すればいいというものではない。









      学校と連携できること/していること
 1981年の開館当初から、宮城県美術館には教育普及部という美術館教育専門の部署がある。そこが、学校という「教育という枠の中ではごく特別な位置とシステムを持つ団体」がやって来るのに対応してきた。もう充分な経験があると言って良い。しかし、美術館というだけで緊張する人が、未だ先生達にもいるようだ。常識は、その人の体験した範囲で形作られるから、たぶん現在、宮城県美術館で行われている様々な活動は、今の先生達には想像できないことも多いようだ。なので、その使われ方の紹介。
 美術館で考えられ研究されている普通の「美術 FineArt」は、詳しくわかってくればくるほど、哲学的で内省的で専門的で広範囲に各自の人生や世界観に深く関わる部分を含む、総合的でかつ個別な概念である。基本的に美術は人間の大人のための仕事・活動なのだ。そういう美術の中では、造形をする/できるは、そんなに大切な部分ではないし、各自の美意識や美的センスなども、ごくごく個人の問題なのだから、美術館に来れば黙っていてもそれらが豊かになるわけではないとされる。そういう基本概念の上では、美術自体も、各自の頭にある美意識と、全員が全て違う各自の五感から入る外部情報の総合理解の間に、個別に存在するから、美術館に来ても作品はあるが、いわゆる美術そのものはないということになる。
 こういうことが、全体的に、美術館に来るとぼんやりと見ることができる。「美術ってむずかしいね」とか、「美術って分かんないね」とか、様々な美術と美術館を巡ってこれまで起こってきた「難しくて、曖昧で、基本的にわからない感じ」は、これまでの学校教育で、この辺をきっぱりと言いきってこなかったところにほとんどの原因がある。たぶん、基礎的な教育での図工美術はここに至る練習のために存在する。又はそう理解した方が、小中学校での存在意義を見つけやすいしカリキュラムも組み立てやすい。
 さて宮城県美術館は、そこらあたりの問題を、学校に対してどの様に相談にのっているのだろう。
 宮城県美術館が学校との活動で注意しているポイント。
1 美術の美は「ビックリ」の「ビ」。「美しい!」だけで止めないビックリの仕方を学ぼう。
2 一つ一つの美術「作品の鑑賞」ではなく、展示全体を使って、「美術とは何か」を学ぼう。
 美術館には美術しかない。技法でもなく、一つ一つの作品でもなく、「美術」そのものを見よう。美術の先生ってみんな絵を描くのが上手なんだろうか?そうじゃないなら何が上手なの? 絵の嫌いな人も、美術を学ぶ理由は何?。
3 今の彼らの一人一人の「体験」を人間としての「経験」に積み重ねる手伝いが美術にはできる。
 私の感動は私の感動で、その感動は伝えられない。でも、感動というモノがあるということ、そしてその感覚はこうすれば磨くことができる、は、伝えられる。
4 描けるのは頭の中に見えるモノだけ、を自覚できる大人になろう。
 絵を描くとき、よく観察しても実際に描くとき見るのは紙。でも描くことができる。描くとき見ているのは、目の外ではなくあなたの頭の中。あなたの頭には、どのぐらい「描くことができる物」が「見える」?という視点の獲得。
 ほとんど全ての領域にわたって美術の基本は個人にある。最も大切なこの基本を踏まえて美術館と学校との関連を考えた活動を組み立て、開館以来様々実践してきた結果、現在当館で行われている団体としての学校とともにする活動は10歳以上の人たちとする「美術探検」と10歳以下の人たちに対する「美術館探検」という、両方とも鑑賞を中心とした活動にまとまってきている。
 どこの美術館であっても、見た目がどうであろうと、美術館でできることは鑑賞しかない。
「美術探検」。これまで、鑑賞は「美術作品」の読みとりを中心に行われてきたが、美術館は、沢山の全て異なる作品が展示してあるので、個々の作品を見てどうこうするよりも、全体として「美術」そのものを見たり学んだりすることに使いやすい。美術作品から美術を見る/知ることに切り替えたとたん、鑑賞は受け身の学習から、個人が各自の体験を存分に使って積極的に作品の中に探検に出かける「表現」になる。
 ただし、それは、頭の中に充分日常的な知識が詰まっていることが前提になる。日常の常識で一杯な毎日の中に、美術作品によって非日常がするりと入ってきて、ふと自分の今日までを振り返る。自分の個人的な体験の点検と再組み立てが起こって、これまでの世界が広がる。各自の世界観が知らないうちに拡大される喜びが、美術を鑑賞する楽しさと目的である。
 一方ここが、探検を10歳で区切る理由になる。10歳とは生まれてから120ヶ月ということでもある。まだほとんどの見るモノ聞くコトが初めてのものやことで、毎日は未だ非日常に満ちている。そこで、10歳以下の人たちには、今「見えている」モノやことを、意識的に「見ている」ものやことにする練習がおこなわれ、それが「美術館探検」と呼ばれる。
 美術館探検を雑に見学してしまった人は、これは施設見学だと思うだろう。それにしては、無駄なお話が長く頻繁に有る。丁寧に見ればすぐ気付くことができるが、この探検は館の施設全体を使った「鑑賞の練習」なのである。何なのかわからない部屋の扉を開ける前に、みんなで怒られたときを「想像して」対処の仕方を考え練習し、換気扇吸い込み口で風の音を「見つけ」暗い中をそっと覗く。普段は開けられないスプリンクラー制御弁室を「見つからないように」開けてみて中が部屋になっていることに驚く。「ノックして」開けてもらった扉の仲が台所になっていていい匂いをかぐ。そういう見学のついでに常設展示室にも入って床に腰を下ろし、33歳(お母さんと同じ歳であることに気付く)の女の人が描いたという、絵の具を無駄使いして描いた絵(大人になると無駄使いしても良いのだろうか、でも、僕のお母さんはしない。本当に?)を見る。ここまでやって裏庭にでると初めて、身の回りにある葉っぱや蜘蛛の巣やドングリ林を注意深く見ると面白いことに、自ら気付くことができる人になり始める。美術は、小さい人たちに、このように使われる。
 このような鑑賞活動の上に、先生達との打ち合わせを経て幾つかの造形的な活動が年齢を問わず展開されることもある。ただしそれらは注意深く美術の味付けが強化される。全員でできることと個人に任せられるところが分けられる。作品を作ることは、大変個人的な作業なので、全員で決まった時間内に行うと様々な問題が起きる。各自の好きなモノを作るのは個人でするとき/来たときに回され、たとえば「粘土を作る」や「板を作る」など、人間としてはごく基本的な作業が、鑑賞を意識した視点の基に実施される。
 時間が充分にとれることは最低の条件で、そのうえでその団体がこれまでの授業でどの様な方向に進んできているかによって細部は異なるが、主に材料軸にそった活動が組み立てられる。創作室で頻度高く行われている「粘土作り」と「粘土出し」は、おおむね、次のようなものである。
 「粘土作り」は、粉の粘土を床に出し、水を少しずつ混ぜて粘土を作るだけの作業。各々の作業に充分な時間をかけ、主に素材の手触りの変化を楽しみながら全身泥だらけになり、粘土ができたら終了。大量の水を床に流して全員でする掃除を含め粘土に対する各自の想いを一気に親密にする作業。
 一方そのようにして作られ、作った人のお土産にならずに残った約3トンの粘土は、創作室の粘土槽に蓄えられ、そこから多量の粘土を全員で力をあわせて床に運び出す作業に使われる。最初に、クラスで一番身長の高い人より高い山を、みんなで出した粘土で作り、その山を使って(倒して)その時の思いつきで決まる何か大きなモノ(島、滑り台付き山、プール、岩風呂等)を作ってしまう。これが「粘土出し」と呼ばれる。この活動も、最後は多量の水と共に清掃をし、粘土に対する親密感を深める活動となる。
 鑑賞を意識した視点とは、1−現実をリアルに認識する。(現実)2−それを一般化し、(物語化)3−世界観に広げ、(歴史的分類)4−世界観の差による広がりに思いをはせ、(概念化)5−全てを踏まえて、自分は今どこにいるかを自分以外に発信する(表現)。というような、DBAEやステージ理論などをふまえた一般的な鑑賞の展開の考え方を基礎に持つというような意味である。
 活動は、団体によって異なるが、だいたいは、このような方向で進められることが多い。どちらにしても、最初は、相談から始まり、大まかに美術館でできることやしていることが話され、その段階の質疑応答を経て、いっぺん学校に持ち帰り、教育の目標、滞在可能時間や移動手段、サポート体制などについて検討され、再びどこまでできるかとやるかが美術館側と検討され、実施されることになる。

071103 秋の青空、乾いた空気の白い雲。

 明日で日展の100年という展覧会が終わるので、ここ数日の展示室のこみようは大変なものだ。終了間際に入場者は一気に増える。今週はついでに、県下児童造形展示会が県民ギャラリーで開かれていて、近くの仙台市博物館では東北大の至宝展。駐車場は予備も含めて開いたとたん満車。その数の割には、展示室の混みようは思ったほどではない。広瀬川に芋煮に行く人は、車をおいていかないようにということか?美術館の教育普及部も、しばらく忙しい日が続いている。

 幾つかの美術館の教育担当者から、問い合わせが立て続けにあった。だいぶ長くやってきた子供のワークショップの点検をしたい。予算の時期だが「美術館なんでも相談」なんてわけわからん活動をしているお宅はどの様にお金を取っているのか。そもそも、それはなに?とか、結構大切っぽい相談。それを電話で済ませようとするところと、来てみないと言うところと、来てと言うところと。
 電話や、手紙だけでしかわからないのでなんとも言えないが、この夏の大原美術館で呼ばれて以来、何か、本質からの意見が求められ始めている感じがする。もちろん、みんなは、僕が言うようなことは十分知っている。なにしろ相手は、僕が話に使っていることを書いた人たちだったりするのだから。ワークショップとは何か。子供とは何か。教育とは何か。そして美術とは何か。ほとんどの答は、既に誰かがどこかで、書いている。具体的な場面での使い方のイメージの点検。常識を拡大するヒント。で、僕の常識も既に常識。健全な人格の形成を目指す教育の根本目標は、その健全さを常に点検することを含む。こういうこととは関係なく、新しく生まれた人たちは元気一杯、美術館に来て美術館探検をして美術探検をする。で、僕も、こういうことは関係なく、毎回新しい知識を頭に、これまでの常識を組み替え直して、元気一杯彼らとお話をする。毎日ヘトヘトだけれど、でもたぶん疲れてはいないんだろうなあ。

10月19日 雲の畝を通して青い空が見える明るい日。でも、通勤には襟巻きが必要だ。

 4日に、7月以来更新していなかったという話を書いてからブログを呼び出して読んでみたら、8月にも9月にも幾つか文章を書いていたのだった。こっちのiBookシェルで下書きをしてメモリースティックであっちのパワーブックに移して登録とかやっているので、後で通して読むと何だかわからないことを書いてしまうことになる。勘弁ね。

 思わぬところで美味しいコーヒーを飲む機会があって、嬉しく楽しく飲み始めたら、そこの人が、ここには「お父さんのひとりごと」置いてあるんですよと出してきて見せてくれた。ちゃんとプラスティックのカバーが掛けてあってまだしっかりと原形を保っていた。僕のところにももう一冊しかなくて、それはすぐ手の届くところに置いてはあるのだけれど、そんなに頻繁に手に取って読んでいると言うものではない。しばらくぶりで、パラパラとめくって、幾つかを読んでみて、そして、のめりこんだ。このエッセイ面白いね。自分で言ってもしょうがないが、つい、次は次はと読んでしまって、時間のたつのを忘れてしまった。生きの良い時代というのが、人間にはあるのだなあ。お爺さんになったので、もうこういうのはいいだろうなんてタカをくくっていると、子どもと一緒に生きるって、そういうものではないでしょうなんてことが書いてあったりする。いやはや。いつも、真剣に襟が正されているかどうか、点検しないとだめだなあ。胞夫さんと明美さんと毎日えっちらおっちら生活して、少し「もううんざりだぜ」と思い始めていたところにこの文。書いてるのが若い頃の自分だと思うと、遠くから明るく暖かい光をさしのべてくれているようで、何だか少し肩の 力が抜けた。こういう文、書いておいて良かったなあ。ということは、自分の子供はもちろんこれら沢山の子ども達と一緒に生活できて良かったなあということか、ついでにお母さんとも。こういう結果、今、自分はここにこうしていることになったんだ。

10月4日 明るい秋の青空の見える曇り空。昨晩衣装棚の中身を衣替えした。

 もう齋は死んでしまったのではないかと、みんな思っていなかった?今見たらこの前の更新が7月末ではないか。この前の更新からここまでのやたら暑かった今年の夏、私は簡単なブログの更新をする暇も作れ/らないような生活をして過ごしていた。
 この夏一番大きく変わったのは僕の父の胞夫さんでアルツハイマーがだいぶ進んできた。たぶん、アルツハイマーを巡るブログは沢山あるにちがいない。そのぐらい、一緒に生活して観察していると、人間が考えたり、記憶したりする事ってこういうことだったのかという発見が沢山起こる。彼をめぐる様々な毎日は、機会があったら別に書こう。さしあたって、ここまでの日々の報告。

 胞夫さんの毎日が調子悪くなるにつれ、それに反比例するかのごとく(昔、精神分裂症といわれていた)統合失調症のカミサンは調子が良くなって、幻聴を抑える薬はそのままだが、安定剤はやめてみることになった。もちろんそれ自体はありがたいことで嬉しいのだが、もともと私は女の人なんだという、昭和26年生まれの教育を基礎的に強く受けた、五人姉妹末っ子の彼女は、様々な家事を思い出したように不定期てくれるようになった。ただしそうなると、彼女の地の部分が出てきてしまい、細かい毎日の生活を巡ってやっと組み立てが安定してきていた僕のやり方とのズレが沢山出てきて(なにしろ彼女の調子の悪いほとんどの日常は、僕のリズムで家事が進められているわけだから)、その後始末のようなことが結構大変になる。休みがそれらの修正に使われて、何だか休んだ気がしない。なんて言うような心持ちで生活しているので、ブログの更新まで気が回らない悪循環が起きていた。でも、これって「悪」循環なのか?
 慌てないで、ゆっくり、なんて日頃言っている自分のやり方を、きちんと(この「きちんと」って言うのがまずいけないのだが)点検しなおすいい機会なのだということに気づくのにしばらくかかる。で、気付いてしまってからも、そっちのペースに、これまでのやり方を少しずつ変えていくのに又しばらくかかる。やっぱりこれは悪循環か?
 そうこうしているうちに、胞夫さんが「ショートステイ」というお泊まり介護を使えることがわかって、1週間程施設に泊まってみる練習を始めた。月から金までは毎日デイサービスに連れて行ってもらい、土日はヘルパーさんに来てもらって、話し相手をしてもらいながら昼ご飯を作ってもらう。時々1週間お泊まり。お泊まりの間にカミサンとの毎日の修正。ところが9月から法律が変わり土日のヘルパーさんが来れなくなってしまった。すると齋正弘家では、自分で自主的に動か/けない人は土日はお昼抜きになってしまう。胞夫さんは自分のポケットマネーでどこかの食堂に食いに出かけ飢えをしのぎ始めた、ようだ(未確認、又は確認不可能)。でも、これはアルツハイマーの人にとっては悪いことではないと、僕は考えている。まわりの人は少し大変なことが増えるけど。これは「悪」循環ではないな。
 美術館での毎日は、今年の11月末から来年の10月まで約1年間続く「宮城県美術館25年目空調設備大改修工事休館」に向けてあわただしく過ぎた。僕たちの教育普及部には直接の忙しさはないけれど、休館前の大規模な展覧会があるので、それを巡っての活動があった。仙台市内の図工研有志の先生達との個人的な活動(美術の勉強会)も何回か行った。
 美術は大変個人的な行為なので、美術館で行われる教育活動の基本は個人におかれる、というのが僕の考えている美術館教育の立場だ。ここに視点を置いて様々な美術を巡る教育的な配慮をともなう活動を考えてみると、これまでの美術館(だけではなく美術全体の)教育活動の矛盾が見えてくる。でも、これまでのようなことをやらないとすると、何をすればいいのかの先が見えてこないのでみんな躊躇しているかのように思える。「でも、そこにこそみんなの脳みそを絞ったアイディアを期待したい」とかいう考えを巡って、図工研有志の人たちと何回か長いメールのやりとりなんかもあった。美術は個人が基本なのだという視点から見ると、夏の「日本彫刻の近代(モダンエイジ イン ジャパニーズ・スカルプチャー−日本彫刻の中に見る/ある近代ね)」と、秋の「日展100年(文展・帝展・日展の100年−文部省(国)は(書画骨董の画ではなく西洋から来た)美術をこうしたいと思っていたのだな)」は、なかなか見応えのある展覧会で、なるほど、日本では、近代ってここいらあたりから、こういうふうに、こっちの方に来たわけね、というみかたでみればううむなるほどと納得できる作品群だった。私たちは、これからどっちに、どの様に行こうとしているのか。おじいさんの悩みは深い。機会があったらこれらについても、別に書きたい。
 8月の最終土日を挟んだ、24日から28日まで、僕は岡山県にいた。25から27日まで倉敷の大原美術館で開かれていた「チルドレン・アート・ミュージアム(略称チルミュ)」という、子供を対象とした夏休みの企画にオブザーバーとして呼ばれたのだ。毎日体温を越す温度の空気の中にいて、いろいろな動きや作品をじっと見ているという至福の時間だった。27日、和室の講堂で、大原美術館の数十名の美術館実習生を含む100名ほどの人たち、と子供と美術館教育の実践方法を巡るシンポジウム。パネラー3人は、偶然というか必然というか昭和25,26,27年生まれの人。僕以外女性。何かを象徴しているのか?
 この夏の美術館での活動と大原美術館での活動を通して「ワークショップ」という言葉の使われ方、というよりその概念の、僕の概念との違いの大きさに愕然とするところがあった。みんなの言ってる「ワークショップ」って「講座」や「授業」とどう違うんだという感じ。この辺の修正はもうあきらめた方が良いのかもしれない。だからこそ、せめて自分の活動の時は、注意深くワークショップになるように、組み立てよう。
 2ヶ月分を書こうとすると(今書いてわかったが、結構中身濃いね)この辺で、疲れてしまった。あたりまえだな。さしあたり、今日はこの辺で終了。できるだけ、短い期間で更新するようにしたい。

9月 4日 天候は夏のままだが、空気は秋。空も秋。

 今日は休みだったのだが、明日からは又忙しい毎日が始まる。結構ゆったり、できるだけ自分のペースを保ちたいと考えてはいるのだが、何しろ基本は公務員なので、そんなことは言っていられなくて、何やかにや毎日手一杯だ。それでも足りなくて、休みの日に、呼ばれたり、呼んだりなんかしているので、ブログはさっぱり動かない。今日は、暫くぶりに休みらしい休みの一日だった。朝からまず、洗濯機を2回回しながら、思う存分掃除をした。

 ダイソン(うちの電気掃除機ね)のたまっていた埃を捨てて洗ってきれいにして、その上でまず掃除機かけ。続いて風呂の残り湯で雑巾がけ。同時に便器掃除。で、最終的に風呂掃除。そうこうしているうちにデイサービスの人が、父親を迎えに来たので、ちょっと立ち話をした上で、連れて行ってもらう。父親は、もうにこにこで行ってきます。ああそうだ、父親はこのところすっかり認知症がすすんで、下着から全部そろえておいた上で、一緒に見ていないと新しい清潔なものを着なくなっている(一応裸にはなるのだが、新しくきれいなものは使わないでしまっておいて、それまで着ていたものを又着てしまう)ので一緒に若干無理矢理着替えさせて、汗くさくなった下着は洗濯に出し(これも目を離すと、こっそり押入に持っていってしまう。正弘(一般的な男子という意味)が洗濯できるはずがない(又はさせてはいけない)と思っているようなのだ)、ついでに押入をのぞいたら洗っていないズボンやジャンパーやワイシャツが丸めて押し込んであったので引っ張り出し、それで洗濯が2回になったのだった。その間に介護関係の打ち合わせの電話2回。最近調子の良いかみさんにゴミ出しを頼み、階段だけで良いから掃き掃除してねと頼み、そのあたりで、彼女はタバコ買いに行ってくると出かけてしまう。でもそれが、彼女が調子良いと言うことなのだ。
 きっちりと雑巾をゆすいで絞りながら、リビングと階段を雑巾がけ。Tシャツの胸が汗で濡れる。汚くなった雑巾用の風呂の残り湯を外の側溝に流しながら、何本かの庭の雑草(僕の庭では基本的にこの世に雑草はないことになっているので、僕の庭はこの時期草原なのだが、構成上いらない草が時々でる)を抜き、どんぐりの木の根本におく。少しは栄養になるだろうか。ええと、そのあと、CDをかけながらお湯を沸かして、少し前に年上のガールフレンドにもらったマンゴーティーをいれ、やっと一息ついた。これで、6時半に起きたのにもう11時半。「今昔庵」という岩沼の山際にある昔風の野菜中心の食事が出来る食堂に昼飯を食いに行こうと思ったけれど、いつもこういうときに限ってするすると出現するかみさんが出てきたので「昼飯どうする」と聞いたら、「サンドゥイッチを作る」と言うではありませんか。すばらしい。彼女相当調子良いと思う。でもよく聞いたら、ゆで卵のマヨネーズあえを食パンに挟むだけということがわかったので、トマトとキュウリのスライスとツナ缶を挟むのと手間はあんまり変わらないと主張して、それを用意してもらう間、大学の同級生だった渡辺恵美子さんさんに焼いてもらっている僕用のバケットを冷凍からレンジで戻して半分に開いて、パンの用意をする。ついでにお湯を沸かして、ミルクキャラメル味の焙じ茶を入れる。これ結構おいしかったです。このパンはしっかりとある程度固いのでよくかんで食べた。
 さて、これで、お掃除は終了。気温何度ぐらいなのだろう、空は高く青く風はなく、蝉が鳴いて、蚊が飛び回る夏の昼。こういうときは船漕ぎだ。エクスプレスの屋根にカヌーを縛り付け、誘ったら、かみさんも行くというので助手席に乗せ、行ったことがないけれど、まあ、行けば何とかなるかと、阿武隈川に向けて出かけた。
 4号線を南下して柴田町に入り、白石川を渡る橋の少し手前の信号で左に折れ、阿武隈川の堤防を越えて河原におりる。川に沿って河口に向かって暫く戻ると、槻木大橋の下あたりに川におりる桟橋が作ってある。昔「小山の渡し」という渡し船の船着き場があったあたりだ。車から船を降ろし乗る準備をしてから、車の影に折りたたみベンチを出しかみさんはここ。僕は漕ぎ出した。漕ぎ出し場所は砂のスロープになっていて小さい魚が群れになっておよいでいるのが見える。川は流れがあるし、このあたりは川幅が広くて風もあって、小心者の僕には怖い。でもかみさんは、にこにこすてきすてきとタバコ飲みながら手を振っていたりする。何回か防波堤の陰の静かな面を行ったり来たりして体を慣らしてから、思い切って流れの方にこぎだしてみた。8月の半ば、友人が誘ってくれて、広瀬川の郷六の下で初めて川で漕ぐ機会があったのだが、あのときの方が大変だった。向こう岸はずうっと向こうで、体の周りは風と水だけがぐいぐい流れていって何とも気持ちが良い。なんてぼんやりしていると、すぐに風と流れで船はどっか勝手に動いていってしまう。いやはやと漕ぎ続け。調子に乗って浅瀬に乗り上げたりしながら暫く漕いで岸に戻った。なんと3時半。好きなことをしているとあっという間に時間は過ぎる。再び船を車に縛り付け、家に帰って後始末をするともう4時過ぎで父親が帰ってきた。陽はまだ高い。西日が当たる2階の部屋の南に面したガラス戸を大きく開けて風を入れ、先週倉敷の大原美術館に行ったときに倉敷の本屋で見つけて買ってきたSFを,あぐらをかいて読む。なんだか今日は抜群に機嫌の良いかみさんが焙じ茶を入れてきてくれる。一体今日はどうしちゃったんだろう。5時過ぎると、父親はもう夕飯を食べたくなってまだかまだかと騒ぎ始める。今日は僕の連休の最後の日だから、夜は藤浪町の台湾料理屋に食いに行こう。だから5時半まで待っててね。少し暗くなってきた頃、みんなでエクスプレスに乗り込んでいつも行く台湾料理屋に八宝菜定食を食いに行く。こういうときかみさんは、五目焼きそば。ゆっくり食べ終えて、鳥の海の方をぐるりと回って帰宅。で、これを今、書いている。ううむ、理想的な一日だった。さて、明日から、又元気に働こう。

8月21日 夏の一日。今年は蝉が一晩中鳴いている。腹を冷やさない工夫がいる。

8月18日からが、僕の今年の夏休みだ。休みとはいえ、既にいくつか予定は入っていて、毎日が既に何か心忙しい。このブログも、いったいいつ更新したんだったか、、、。ま、そういうことは気にしないで、書こう。一応、今日から、何もしないでいられる時間が手に入った。今日は、気になっていた今年の大学での美術の授業のまとめ、第2回。

 7月の半ば?に、この授業の始まりのあたりを報告した。今回は、最初のナイフを使う様々な作業を終了したあたりから始まる。これまでと同じように、何か決められたフォームで絵を描かされたり、子供をだます工作のやり方を無理矢理やらされると思っていたのとはどうも違うようだぞと気づき始めた学生は、いよいようまい絵を描く練習が始まると聞いて、絵を描くのが好きな人も、嫌いな人も、様々に緊張している。
第4回目 塗りつぶしと、写し絵。
 各自にB5のコピー用紙を渡す。芯を出した好きな鉛筆(今回は折らないから、ほんとに好きなやつもってきて大丈夫だよ、とことわった)を用意し、紙の中央に、一辺が自分の人差し指ほどの長さの四角形を描く。確認する。なぜ確認がいるかというと、ここまでですでに様々な動揺と混乱が起きるからだ。これだけの指示に、自分で決めなければいけないことが結構たくさん含まれている。「人差し指の長さって、何センチですか?」「四角って何ですか」「紙の中央ってどこのことですか」。基本的に、このような指示は、彼らにとっては曖昧な指示なのだ。自分で決めなさい。私に「ここが中央なんだな」と聞かれたときに「はいここです」と言えば良いんだよ。言えるところがあなたの中央。決められない人は、周りの人を見て「適当に」考える。紙の中央に、自分の人差し指の長さが一辺の四角形を描くだけだ。描いたね。さてでは、まず、上手な絵を描く練習、初めの課題。
 課題1「四角の中央に小さい丸を描いて、塗りつぶす。」
 小さい丸は、もう、混乱無く描けるようになってきた。むしろ、わざとみんなと違うような大きさで描く人も出てくる。それを塗りつぶす。小さい丸なので、みんな真っ黒に塗りつぶす。ただ、今年度は、この段階で、すごく小さい丸の中を極ざっとまだらに塗って終了という人がいて、僕に、「これが塗りつぶすか?」と聞かれて、周りを見て、描き足す人が何人かでた。鉛筆で、小さく真っ黒に塗ること自体が初めてだったのだろうか。全員が、真っ黒に鉛色に光った丸を描いたのを確認した上で、
 課題2「では、その周りも同じ様に全部塗りつぶしなさい。つまり、塗りつぶした四角を作る。」
 もうあまり動揺は起こらない。全員、黙々と、または盛んに私語を交わしつつ始まる。しかし、暫くするとほとんど私語はなくなり鉛筆の紙をこする音だけになる。紙が黒鉛の黒で波打つようになるほど塗りつぶした人が四分の一ほどになった時点でいっぺん作業を中止し、各自にコピー用紙と同じ大きさのトレーシングペーパーを配る。
 課題3「トレーシングペーパーを通して見える下の塗りつぶした形を見えるとおりに写す。写すときはマッキーの極細を使うこと。」
 大混乱が起こる。1,全員一緒でなく進むこと。2,塗りつぶしたのだから何も見えないのに、何を写せというのか。
 絵を描くというような美術の表現実践は、ものすごく個人差がある作業なので、みんなが同じ時間で一斉に同じことをするなどということはそもそもできないことなのだ。前のナイフを使う授業でも話したはずだが、課題で、作って提出を求められるものは、今期の全授業終了時までに提出すればよい。完成作品の上手下手は、本当に問わない。ただ、あなたが、僕の出した課題を、確実に終えたと思うまでやること。ただそれも決めるのはあなたで、嘘ついてもわかるのはあなただけだ、ということも指示には含まれている。
 だから、課題だけは確実に聴かなければいけないが(メモしておけばいいし、わかんなくなったら、僕に聞けばいい。そのために、僕は毎週出てきている)みんなに遅れることは、この授業ではそんなに悪いことではない。むしろ、他の人の成果を見ながら、自分の作業を更新できる方が上手いやり方だ。あわてないで、各自確実に塗りつぶしなさい。
 さて、塗りつぶし終わったと思った人は次の作業に進む。塗りつぶしたのだから何も見えないはずだ。その通り。でも私の指示は、見えるとおりに写せ。塗りつぶした四角を見えるとおりに見る。まず色が違うので四角形の周りが見える。ギザギザ、まっ直ぐ、ちょっと曲がって、ほら様々に見える。周りの線が見えたら、四角の中にも、様々なものが見えてこないだろうか。線の濃淡、それによって起こる面の濃淡、光によって起こる様々な状況、折れ目、ここまでやっても塗り残っている小さい部分、それらを、素直に見えるとおりマジックで写し取っていく。一つ、一本、見え始めれば様々な形が見えてくる。形が見えてくると言うことは、それが連なって何かが見えているのだ。そこが「そうなっているはずだ、だからこう見えるはず」で見るのではなく、そこにあることを見えるとおりに見る。描いてしまうことによって確認し、確認することによって新たに見えてくるものを描く。何かを思いきって変えないと見えない世界。でも、それを変えてしまえば広がる別世界。見えるだけ思う存分線で描く。もう何も見えなくなるまで描く。
 課題4「下の塗りつぶしをはずし、写した線描を基にマッキーを使って色を付ける。最低でも3色以上の色を使い、塗るよりどころは、「格好良く」。」
 塗りつぶしを写した線画は、ほとんど抽象画のようになり、かつあたりまえだが全員違ったものになる。下に置いてあった初めの塗りつぶしをはずすと、その画面はより強く抽象形化する。そこに見える形を基にして(ということは、線と関係ない所を使っても良いと言うことだ)、着色する。各自が「格好良い」と思うように(こういう色合いの服なら買う、または決して買わない)色を塗る。もう塗れなくなるまで塗る。しかし、マッキーというマジックインクを使うため、ほぼ一回しか色はつけられない。マッキーを使う理由は、思い切って、しかし一回きりで、色や形を書き込んでいかざるをえなくするためだ。自分で決めて、それを肯定的に納得しつつ仕事を進める。この作業は、ほとんどの人が時間中に終了しないことが多いが、今年は比較的時間内に、または少し授業後粘って、僕がいる間に提出する人が目立った。手際よく精神を集中してそうなったと言うよりは、呆然と、問題を深く追求する前にするりと逃げたという感じの方が強く感じられた。
 準備「次の時間も同じ用意。ただし、鉛筆は使わない、マッキーだけ持ってきなさい。」
第5回目 写し絵、実践。
 前の回の活動を通して、私たちは、見ていると思っていたことが、実際には何を見ていたのだったかについて練習した。見えているものを見えるように見ることは、意識的に自分の見ていると思っている脳みそをコントロールできないと、見ていると思っているものを見えていると思いこんで見ることになってしまう。塗りつぶしから形を見つけた私たちは、いよいよ具体的なものに向かう。
 各自に、証明書用に撮った、ベージュの壁の前に立つ私の腰から上の写真を、B5に拡大したカラーコピーを渡す。同時に同じ大きさのトレーシングペーパーも配る。
 課題1「私の写真の写し絵をしなさい。ただし、トレーシングペーパーの下に見えるものすべてを見えるとうり全部写すつもりで描くこと。」
 前回塗りつぶしを写す活動をしているので、今回は、簡単だ。見えるもの=色の境目をてきぱきと写していく。全員ある程度形が見えてきたなというあたりで、色の境目を描いていることを指摘し意識する。その上で、色の境目は、同じ色だと思って見ている、顔の中や、服の色、背景の中にもあることを話し、今回は見えるものをすべて写すんだったことを確認する。直ぐ気付く人と、暫くかかる人がでる。普段よく見ている(と思っている)ものなので、かえって、切り替えがむずかしいのかもしれない。線だけでなぞっていくと、見えている(と思っている)ものとかけ離れていくのも、関係があるかもしれない。意識できる色の違いをできるだけ細かく線で確定していく。少なくともほとんどの人が顔を描き終えたあたりで、次の指示。
 課題2「下の写真を左右好きな方に約15度傾け、そのまま見えるとおり写し続けなさい。
 要するに、それまで描いていたものと関係なく、絵を少し傾けて、見えるとおり描き(写し)続けなさい、という指示。直ぐできる人と、強い抵抗を表す人と、様々だが、こんな機会でもないとできない体験だから、やってみよう。授業でする作業は、授業でないとできない体験でもある。前にも書いたが、これを入れないと、絵を描く作業は運動神経の差となって現れてしまう。途中で、思わぬ変化を与えることによって、普通に上手い下手が判断できない状態のまま作業は続く。
 課題3「線描は、塗りつぶしの時と同様に、描かれた線を基に3色以上のカラーマッキーによって「格好良く」彩色して提出。」
 ここまでやった上で、美術館に行って、「美術探検」(10歳以上の人に対する鑑賞)と「美術館探検」(10歳以下の人に対する鑑賞)を経験する。又長くなってきた。今回はまずここまで。授業も、ここまでが第1クールで、基礎的な概念の点検。次からはそれを使って様々な体験をしてみる。
 
 

7月31日 夏の太陽なのに、空気は寒い。その上、エアコンが効いている。

  いま、iBookシェルで書き始めたのだが、この前、何をアップしたかをすっかり忘れていて、さしあたり、新たに書きたいことをまとめよう。美術の授業2は、時間ができ次第報告を続けるつもりだ。

 ブログを更新していない間に、もちろんあたりまえだが、書ききれないほどいろいろなことが身の回りに起こった。六月一杯で、僕のいる美術館の中に開館以来あったブックショップが閉店した。ブックショップだったので、最終的に様々な本が残る。本は再販制があるので版元に返せるのだが、返す前に一応点検しますかと言われて見てみたら、いやはや、残っていた(売れなかった)本の中に僕の好みの本が相当数入っていた。こういうふうに自分の読みたい本がそろって書棚にある本屋は、この後そうそう存在しないだろうから、本当は全部引き取りたかったが、残念、今はそういう環境にいないので、その中から何冊かだけ購入した。

 

買った本の中に、若い頃の片岡義男が書いたサーフィンを巡るエッセイ集があって、普通なら遊びに分類される活動を、ライフスタイルにすることについての文を、しばらくぶりに読んだ。三十代から四十代にかけて僕は熱心にこの手の文を読んでいた。強い共感を持って読んでいた。今、僕は、そういうライフスタイルを持っているか?若い片岡義男がいう、(サーフィンはどうも特別なような気も強くするが)ライフスタイルとしての遊び、又は、遊びのようなライフスタイルは、僕にとっては美術なのだろうか?美術作品制作なのだろうか?いや、それとも子供との活動なのだろうか?僕は、もう今から波乗りをやってみようとは思わない。でも、話には今でも深い共感と納得を感じる。僕にとってのライフスタイルとしてのサーフィンは、なんだったのだろう。それとも、サーフィンをライフスタイルにするという考え方の点検(あんたは大丈夫なのね、というような)を僕はするべきなのかもしれないとか考えて、何だか妙に焦った。これをきっかけに、何冊か昔読んで取っておいてある本を読み返した。丸山健二とか司馬遼太郎とか、様々なアクションミステリー系の作家とか。
 で、今のところ結論は、「違う、焦ったのではない」。脳が活性化した、ということだ、に落ちついている。なにしろ、脳内出血以来、僕の体は、あのころとまったく違う仕組みと方法で動いている。
 15年ほど前、一緒にモーターサイクルのならしにつき合ったり、僕に影響されて彼女が買ったシトロエン2CVを乗り回したりした、若い女の友だち(今は二人の女の子のお母さんになっていた)から、新たに手に入れた2CVの修理を巡るツーリングに誘われた。しばらくぶりで会った彼女の第一声は「齋さん、肉食ってる?」だった。瞬間、何だか動揺してしどろもどろの答になってしまった。僕は、基本的にミートイーターでありたいと未だに思っているのだなあ。こういうときに、本当の体の尻尾がちらりとでてくる。なんか要するに、彼女が知っているちょっと前の私と比べて、なんか、今の齋さんは、脂ぎって光っていないと言うことのようだった。昔の俺はそういうふうに見えていたのか。そうだなあ、豚カツ大好きで、ハンバーガーはダブルでって言う人だったものなあ。子供との活動の合間に、チョコレートとコカコーラで、糖分補給して、一日3回、同じ活動をやるの2日間連続とかやってたものなあ。その結果が、2003年の脳みそ大爆発だった。
 冷静に振り返れば、今、僕は、ほとんど、ヴェジタリアンだ。時々、肉や卵のかけらや、思い立って、意識的に白米に美味しい取れたて卵かけご飯なんか食べてしまうが、普通は、玄米飯に、野菜たくさんのみそ汁に、温野菜と納豆なんて食事になっている。何も困ることは、今のところ起こっていない。何が替わっただろう。「ま、いいか」とささやくことが多くなった。明らかに、実際にするセックスに対する興味は減った。初めから競争について考えない。一人一人とか、バラバラとかの方が落ちつく。仕事や活動のスピードが知らないうちにゆっくりになっている。体を敏感に動かすために、ジョギングや水泳をしたりするよりは、通勤を徒歩に変える方を選ぶ。今述べたうちの幾つかは、前からの僕の資質のような部分もあるが、そういうことを意識せずにするようになった。でも、遊びをライフスタイルにすることについては、今のように生活が変わってもなんの問題もおこらない。焦ったってしょうがないぜ、というあたりが、そういうライフスタイルを実際にするときの大切なところではないか。
 ここのところ、イスラムを生活の中心に置いて生活している人たちの考え方や実際の生活についてを述べたエッセイを様々読んでいるのだが、生活の中に、宗教が深く関係していると言うことは、その人自身が、常に自分を自覚せざるを得ないと言うことでもあって、自分を気にするということは、他人を気にするということに深くつながっていく。小さい人たちとの活動をしているとき、子供の目線でとか軽く言う人がいるが、年齢に関係なく相手の目線を考えれば、様々な問題に、新たな展開が広がると思うことが多い。 
 先生達との研修会で段ボールを使った、具体的な教育実践の活動を、リクエストがあって行った。やる気のあふれる先生達で、何か学校ではできないモノをという意気込みで始まった。ようしそれではと、学校では、けっして出ないような課題を出してみたのだけれど、始まると、教科書にある方法と、方向で終始してしまう。常識の中で聞くと、せっかく常識を越えようと出された非常識な課題も、常識の中で閉じる。常識を越えるための思いつき/踏みだしは、できるだけ広く大きい常識的な知識の集合の中にのみ、実はある(上野千鶴子の指摘)ってこういうことだったのか。どうしてもうまく言葉では伝えきれなくて、最後に、手を出してしまう。それだって、僕のオリジナルではなくて、デビット・ナッシュをていねいに見ていれば気が付くまね。あれがこれにつながるということに気付くためには、何か練習がいるのだろう。それを考えるのが私の仕事か。
というような毎日を送っていると、どうも、電脳の時間の進み方と離れていてしまって、何回も書いているように、更新の優先順位は後回しになっていくのだ。

07,06,14 今日までは夏の晴れ。少し前、僕は衣替えをした。

 今年も4月から仙台市内某女子大学保育科「基礎技能(図工)」の授業が半期間始まって、毎週月曜日(私の定例休日。休みの日に先生をする)が何やかや忙しい。今年は何をやっているのか、全15回の授業を順次公開しよう。昨年、授業の流れを一日分のブログにまとめたらすごく長い文になってしまったので、今年は、何回かに分けて書こうと思う。もちろん、去年と重複している内容だが、今年は今年で、私も1年歳をとったが受ける人も又今年の人なので、同じことをしても、ほとんど違うことのように私には感じられる。単に物忘れが進んでいるだけなのだろうか。授業は毎週月曜日の5時限目、16時20分から17時50分まで。月曜は休みになることが多いので、半期15回分の時間を確保するのがまず大変だ。本年度は、4月23日の月曜から開始された。

第1回 こんにちは。授業の目標と流れ、評価の基準。
 この授業でやる美術(内容は意識的に美術だ。直接的な図工の練習は時間がないのでできない)の目標は、貴女の美的センスを養うことではない。貴女のセンスは貴女が何とかするほかない。保育科の基礎技能で、美術図工をやる目的は、美術図工はどのように保育に使えるのか/使うのかを理解することだ。この授業でやることを、そのまま子供とやるのではなく、なぜこの体験が子供との活動に必要になるのかを考えながら練習しよう。小さい人たちが表現する物や事は、私たちがなにげなくそうしているものと少し違う。生まれてまだ日が浅いので、彼らが見聞きするモノは、ほとんど初めてのことばかりといってよい。そのビックリをどのような形で、脳に整理保存記憶するか。そこに大人はどのように関わればいいか。そういうことを理解するための手がかりが、貴女達が別の授業で受けている「幼児の発達」や「青少年心理」だったのだ。それらで学んだ理論の具体的な実践確認がこの授業だと思ってよい。
 さて、この授業枠は実技なので体育と同じように出席が重視される。 毎回の授業の終了時紙を渡すから、その日の授業の感想と質問疑問、及び名前と出席番号を書いて提出。その紙が出席確認になる。全部の授業の終了後、ある題でエッセイ(リポートでなく)を書いてもらい、それも評価の対象になる。というような話をして終了。
 この次の時間には、各自ナイフを一本持って/無い人は買って、来るように。家族と住んでいる人は、まずお父さんに聞いてみなさい。たぶん彼は一本ぐらい持っているかもしれない。実は、ナイフは街中で売っている。新たに買わなければ行けない人は、どこで売っているのか気にしながら街を歩いてみること。そういうのも、この授業の課題の一部。
第2回 ナイフで削る 1。小さい板を削る。
 必ず何人か(たぶん意識的に?)ナイフを持ってこない人がいるので、僕は、美術館にあるモノや僕のコレクションの中から、何本か良いナイフを持っていき、まずそれをみんなに見せ、次ぎに各自持ってきたナイフも幾つか取り上げて、そのナイフにまつわる話を聞きながらナイフの鑑賞をする。
 さて、各自ナイフはそろった。何か削ろう。せっかくナイフあるんだからね。何を削れば良いと思う?机や立木に、相合い傘を彫ろうとか言う人は、最近はまったくいない。もっとも、いまどきの机は、トップがデコラ(何だか知ってる?もの凄く懐かしい「日本語」。米国ではフォーマイカと呼んでいて、最初聞いたとき僕は何だか分かんなかった。そして、デコラも商品名であることを知った)なので、ちょっとやそっとでは傷すら付かないし、相合い傘を彫れるほどしっかりした立木は、現在改築中のこの大学では、まだあまりなかったりするのだが。
 では、そのへんに何か彫ったり削ったりできるモノを探しに行ってみよう。「そのへん」に「何か」探しに行く、という行為自体が初めての人たちが、驚くほど多い。身の回りの物との関わり方。「もったいないキャンペーン」の前に、何かもっと基本的な視点の変換練習が必要になっているように、思う。キャンパス内を、削れるモノを探して見て歩く。修道院の前に小さな松の林があり、枯れた枝がたくさん落ちている。
 指示「親指ほどの太さの枝を各自5本選び、地面に突き刺して並べて立てなさい」。
 その時に、自分が思ってもいなかった言葉を聞くと、人間は、すぐには何を言われたのかわからなくなる。だから、この場合、何回か促さないと、何も起こらない。えっ?今の私に言われたの?という感じ。話を聞いていた人も、聞いていなかった人も、同じに動揺する。むしろ聞いていなかった人たちの方が立ち直りは早い。なぜ、枝を立てるのかを、自分に納得させるのにも時間がかかる。
 立てるためにはどうしても枝に触らなければいけないので、触ってみると初めて、枝の固さや、腐れ具合や、虫の付き具合や、曲がり方による重さの感じや、その他様々な具体的な情報が自分の中に取り込まれる。さて、そうして、この枝を削るんだという具体的な実感がわくはずなのだが、どうかな。こっちとしては沸いてほしいのだが。
 どのような枝が削りやすいのだろう。考えて、適当な長さの枝を、各自一本決める。適当というのは、貴女が適当だと思った長さ。貴女が削るのだから、貴女が決めて良いし、貴女以外は決められない。
 課題「その枯れ枝から小さな板を削って提出」。
 小さいは、貴女が小さいというのは、こういうモノだと決めた大きさ。板は、貴女は知っているよね。こういうのが板だ。だからそういうモノの小さいのを提出。提出するとき、僕が「これが小さい、板なんだな?」と聞くから、その時に「そうです、これが小さい板です。何か問題がありますか?」と言いかえせるようにしておけばいいだけ。
 教室に戻って、作業開始。次の時間は、好きな鉛筆を一本と、今日のナイフを、持ってくること。
 今年度、特徴的に出てきたのは、もの凄く小さい、ほとんど親指の爪大の小さい板を提出した人が結構いたこと。だから、この授業の終了時に提出する人が数人出現。初めての現象だ。誰か一人やって、なるほどと思った人が結構いたのか(カンニングや、人のまねをすることは、この授業では、奨励される)と思うが、わからない。削るの面白がる人も、普通にいたが、その作業が自分にとって面白いかとか興味があるかとかの点検の前に、課題はとにかく手っ取り早く片づけてしまうことを肯定する人も、確実に増えているのだろう。
第3回 ナイフで削る 2。ウエルカム芯さん。
 今年度は、この日の授業の後5月の連休に入ってしまってしばらく授業が飛ぶ。そのため例年の流れとは少し変えて、ここまでで削る作業をまとめ、基礎技能図工の授業第一クールを終了する。
 毎時間、授業の始めにその前の授業での出席票への記入文から大切な質問を幾つか選んで思う存分答えることにしている。質問者の特定はせず、何気ない質問や感想からそこに含まれる背景の広さまで考え、各自の体験を経験化し普遍化できるかというあたりを見失なわないように答えることにしている。たいてい、それだけで、始めの30分ほどは過ぎてしまい、その後の30〜40分が実技、残りの20分で、感想と質問(今日の授業の振り返り)を書いて提出して終了という流れになっている。そのため、制作課題の提出はあんまり焦んないで、前期が終了する前までに提出で良いからねということになっているのだ。
 今日の作業。まず持ってきた自分の好きな鉛筆を取り出し、手で二つに折ってみなさい。
 教室全体から非難抵抗の声が挙がる。好きなモノを折る、壊すとこういう気持ちなのね、をきちんと感じながら実行。鉛筆は、実はすごく簡単に折れてしまうモノなのだ。さて、そこからその鉛筆の木の部分を削って、芯だけを取り出す。出てきた芯は、「ウエルカム、芯さん」という状態で提出。というのが課題。
課題「芯だけを削りだし、ウエルカム芯さんの状態で提出」。
 芯だけって、どういうことですか?ウエルカムってどういうことですか?鉛筆の、木の部分を全部削って芯だけにしてそれを提出。ただそのまま出されると扱いに困るので、出てきた芯は、貴女の好きな鉛筆の芯なのだから「やあ良く出てきてくれたねえ、ウエルカム」という気持ちが分かるような形(たとえばラッピングとか)で提出ということ。慌てず、連休中の空いた時間を全部芯出しにあてる気持ちで削ってみてください。
 連休明けの第4回目はいよいよ上手い絵を描く練習を始めるが、画材は僕が準備するので、みんなは鉛筆を一本持ってくるだけでいい。紙と鉛筆さえあれば絵は描けるのさ。

07,05,22 本来なら外に遊びに行くための天気。空気の乾いた高曇り。

 4月28日に、カヌーが届いたことは報告したのだったろうか。青いプラスティックの一人乗りのカヌー。
 今、宮城県美の常設展に、宮脇愛子の「作品3−2−62」という絵画が展示してある。これは、1,5㍍×2㍍ほどの平面上に、一本のチューブから一気に、中に入っている全部の絵の具をひねり出した縦長のビチャッを、横に規則正しく並べて乾かしただけの作品なのだが、ただその数がざっと200ぐらいあって、その平面一杯、上から下まで、横ぎっちり並んでいる。何を描いたかとか、何をあらわしているのかという疑問や感想の前に、正しくは、まず「ひやーっ、勿体ない!」と叫んでしまうのが、昭和生まれとしては普通の反応なのではないか。絵の具1本300円としても200本だと6万円。6万円手元にあったとき、絵の具を200本買って、その全てを一気にピュッと順番に絞り出して乾かし、それを作品にするという作業を宮脇さんはした、という軌跡をここに見ることができる。作品横のキャプション(題名符)から割り出すに、彼女がこれをした(描いた?)のは1962年で、33歳だった。1962年は東京オリンピックの2年前で、ということは僕は小学5年ぐらいで、もう生意気にすっかり物心が着いていたから、あのころの日本の毎日を思い出すことができる。今の日本になる始まりの最初のように思える毎日だった。そのまま進んで1970年に、大阪万博につながる毎日だった。26歳から今いる宮城県美術館に関わり始めたから、33歳は開館2年目かそこらで、僕の毎日は、怒濤のように教育実践を始めた頃だ。ああいう時代に、そういう年齢の宮脇さんは、こういう作品を、ある量のお金をかけて、制作した。
 もちろんお金の価値は、その時とはもの凄く違ってしまって、あの頃の6万円は今だと60万円かもしれないけれど、6万円ほどの思わぬお金が手元に出現した、2007年に生きる、55歳男子の僕は、絵の具を200本買って200回ビチャッとはしないで、静かに青いカヌーを買った。これでよかったのだろうか。これでよかったのだ。

 4月28日。その日は振り替え休みの日で、朝から良い天気の日だった。午前中、たのんでいたアウトドアショップでカヌーを受け取り、店の人たちと相談して釜房ダム湖で進水式をすることにした。近くでは、初心者はあの辺が適当ですよと勧められたのだ。下の娘達と一緒に、車の屋根に船を縛り付けて(全長が15㎝、全高が3㎝長くて、微妙に車の中に入らないのだ。)そのまま釜房湖に行ってみた。僕が記憶の中で知っている釜房湖は、湖畔の茶店の裏に砂地の岸が現れていて、そこからゆっくり水に入れるはずだった。でも、今は、農繁期。ダムに水は満々とたまっていて、確かに茶店の裏から湖面にはおりられるけれど、コンクリートのスロープの下にうち寄せられた木の枝を中心としたゴミの間から突然水面に出るほかないのだった。一人で湖面に漕ぎ出すと言うことがいかほどのことかということは、漕ぎ出してみないとわからない。
 船を波打ち際と直角に置き、その前半分を水に入れ、自分は真ん中に着席して、反動を付けズリズリと前に進む。すっかり水に浮かないと、カヌーはただの重い余計な体の一部でしかない。で、すっかり水に浮いたとたん、それは、水の上に実に不安定にユラユラ漂っている体の一部になる。地面に着いているときと、浮いたときのこの落差。今まで、経験したことのない状況。あっ、転んでも手が付けないんだ。自転車やモーターサイクルに初めて乗って、走り始めたときと、爽快感や緊張感はほとんど同じだが、「気持ちよくおっかない」部分が違う感じ。転んでも手が付けない。自分の意志で転べるけれど、でも、だから転ばないぞとは思えない。転ばないようにできる自分と実際に転ぶ自分の間で、話し合いをしながら行動を決めていくような、もどかしい感じ。
 本で読んだことを反芻しながら、まずパドルを動かしてみる。掻くのではなく、反対側を押し出すように、右、左、右、左。真っ直ぐ進まない、聞いたとおりパドリングしてるのに。普通右のオールを掻いたら反対の左に曲がるはずなのに、右を掻くと右に曲がっていくのだ。でも、体(腰)は左に曲がると思ってそっちに曲がりやすいようにひねり始めているのに、船は右に曲がっていく。体と進路が逆だ。あわてはしないが、やや動揺気味に「こういうところで慌てるのが最も危ないのだ」などと思いつつ、右を掻くともっと右に曲がる。なんてことを繰り返しつつ、ふと気が付くと、おう!何と言うことだろう!、私は岸から遙か!離れた!、広い!湖水の真ん中に!(ほんとは岸からほんのちょっとだけ離れたところ)いるではないか。もう、目鼻も見えないぐらい離れた岸辺では、娘達が笑って手を振っている。逆に言えば、まだ目鼻の場所がわかるほどしか離れていないということなのだが。でも、周りは、もう波とうねりの渦巻く大海原に見える。そこまで、夢中できたので意識していなかったが、船が安定するように、岸にうちよせる波に対して直角に進んできてしまっていたので、岸から、こんなに!離れた!真ん中まで来てしまったのだ。ここでなんとかUターンして岸に戻らないと、私は、進水式にして遭難式と言うことになってしまうのではないだろうか。
 私は急いで船を回し始めた。すると、当然、船は、波と並行になる。湖水の真ん中で横波を受けるということがどういう感じなのかは、横波を受けてみなければわからない。別に湖水の真ん中でなくても(実際にそうなのだが)、横波を受けるのはあんまり気持ちのいいものではない。なんて、今は書けるけれど、その時は「やばい、ここで沈む!」と一瞬本当に思った。いろいろなことを知らない人生は、本当に何でもないことが劇的に面白いのだ。
 そもそもなぜ、僕が左に曲がりたかったかというと、船の進路の右側に、水が少ないときは岸辺に生えている大きな柳の木が、今は、満水なので梢だけ水面に出ているところがあったためだ。カヌーで、そのての木の茂みに挟まれこんでしまったときの大変さは、本でも、話でもけっこう聞いていたので、事前に避けようと思ってのことだった。真っ直ぐ進むことさえままならないのだから、これは賢明な選択といえるだろう。でも、船は右に進んでいく。波は横波だ。私はどうしたものかと、ちょっと何もしないで、船が進むに任せてみた。要するに、簡単に言うと、途方にくれた。すると、船は、惰性と波と風を受けて、くるりと、岸を向くのだった。そういうことなのだ。人生は私の思うとおりだけにはいかないのだ。私は、再びパドリングを開始した。
 到着の接岸に又ひと騒動あった。そもそも、この時期のゴミでゴチャゴチャしている岸辺で接岸できる所はすごく限られていて、そこに舳先を付けるための細かいオールさばきは、私の習得している技術(というほどの物でもないが)では少し手に余った。最後は、舳先に縛ってあった細いロープを岸に投げて引っ張って寄せてもらったのだが、どうしても最後は、水の中におりなければいけないのだ。でも僕は、普通の靴を履いたまま船に乗ってしまっていたのだった。ザブザブ、ポタポタ。まったく、最初に考えればわかるだろうって、ちゃんとサンダル持ってきてあったのに。
 美術の作品を作るという活動は、今の僕にとっては、たとえばこういう形で過ぎていく。

07,05,05 朝は、高曇りの気持ちのよい始まり。上着を着てきたが、今脱いだ。

 またしても、一ヶ月の更新ご無沙汰になった。幾つかのメモは書き始めているのだが、メモリースティックを再び洗濯してしまったりして、なんだかコンセントレーションできないできてしまった。体調は普通なのだが、こういうときが様々危ない。一応、メモリースティックに入れずに、電脳に残っていた4月の分は公開しておいた。

 認知症になってしまった父親と、精神障害がある妻と、毎日普通に生活しようとすると、いわゆる普通の生活での空き時間というモノがなくなってくる。起こってくることの処理を計画を立てないでかたづけにかかって、次々家事や書類書き(ハンディキャップの人が二人いると、この時期、様々な証明書の更新が必要になってくる)や問い合わせ(いったい、それにはどのような添付書類が必要で、それはどこで発行しているのかとか)などをしていると、休日は本当にあっという間に過ぎていく。役所関係は、土日ぴったり休みだし。で、そういう日々の中で本当に無理矢理時間をこじ開けて遊ぶ時間をひねり出し、いざ出発しようとすると、お気に入りの自動車(シトロエン2CV)のエンジンがかからなったり、やっとのもおもいでかかるようにして(毎晩帰宅後少しずついじって、何週間かかっただろう)、ガソリンを満タンにしに行くと、ガソリンタンクからガソリンが漏れたり、いやはや、ちょっと勘弁してよで、この一ヶ月は過ぎた。毎日、充実して過ぎては行っているのだが、何か今、僕、運気下がってる時期なんじゃないだろうかと思えてくる。
 基本的にはそのようなむっつりした毎日を過ごしつつ、4月20日過ぎ、頭蓋骨を開けて以来毎年の恒例にしている「県民の森にサクラを見に行く」を今年もやった。やることができた、しみじみ嬉しい。人出を避け、休みを会わせて出かけると、今年はほとんど葉桜見物だったけれど、一日、ゆっくりお散歩をし、おいしいものを食べて過ごした。森のサクラやその他の木々草々に、枯れているモノがいつもより多かったような気がしたのが、気にしすぎなら良いのだが。それから、前に書いたかもしれないが、お正月にたのんでいたカヌーが、4月末にいよいよ届いた。青い、レジャー用の、一人乗りの、プラスチック製のカヌー。17㎏。
 去年乗ろうと思って、もう少し暑くなってからとかぐずぐずしていたら、暑くならないまま冬になってしまって、機会を逸した。そのため、今年は、お正月からはりきって予約してしまった。岩沼に移って阿武隈川が近くなり、橋の上から景色を眺めて、ぜひ、川下りとかの川遊びをしたいものだと思ったのがきっかけだ。だから、初めは折り畳みの船を買って、電車で上流まで行き、そこから阿武隈川下りのルートで下ってくるのをもくろんでいた。やる気になって、川の縁までおりていって見て「ちょっとこりゃ、気軽にやると死ぬな」と思った。橋の上から見たときは、鏡のように平らでゆったりとした水に見えたのに、そばで見ると、阿武隈川はごうごうと波を立てて流れ、向こう岸は霞んで見えないほど遠いのだった。いやはや見るのが専門とか言っているくせに、なんという軽薄な見方だったのだろう。で、前から覗いていたアウトドア屋の「悠々館」で相談をし、冷静に自分の状況と使い方を考えてみて、この船にした。計画どうりでなかったのは、僕の運搬用の車の中につめると思っていたのが、どうしても少し(あと5㎝とか)はみ出し、最終的には屋根に縛り付けて運ぶことになったことぐらい。何回か乗って、未だ真っ直ぐ進む練習中だけれど、水の上に一人で浮かぶことによって起こることについては、この後、何回か書くことになるだろう。
 しかしこうなると、今の私の人生にとって最大の問題は、2CVのガソリン漏れだ、というのは、けっこう、いい人生送ってんじゃないかということなのだろうか。どこがむっつりなんだ?本当か?

07,04,25 しのしのと細い雨、朝から。でも、もう手袋はいらないな。

 今年も、某女子大保育科での授業が始まった。去年あたりから、カリキュラムは固定され始めてきたが、もちろん、毎年違う人たちなので、今年は今年。また少しずつ今年の報告をしようと思う。年度が替わって人が動き、来る人行く人、感慨深いモノがある。

 このブログからとべる「お父さんのひとりごと」は、本来自費出版の小さな本で、出版とほぼ同時に売り切れてしまった。売り切れた後から、私もほしいという人が沢山出てきたので、ブログで公開することにした。なにしろ、僕の手元にも、使い込んだのが2冊しかない。その内の程度の良い方の一冊を、前に借りていって読んだ人が返してくれたときにありがとうと作ってくれた専用の皮袋に入れて、ぜひ読んでもらいたいと思った新米のお母さんに貸したのだが、返ってこない。そういえば、あの本、返ってこないなと気になってから考えると、今回貸したその人は、美術館によく来ていた人で顔はすぐ思い出せるのだが、名前をはじめとして、どこの何の誰なのか、まったく僕は知らないのだった。何と言うことだ。又思えば、彼女は、国家公務員宿舎に住んでいると言っていた。おう、と言うとは、もしかすると、この春の人事異動で、転勤してしまったということも考えられるではないか。本の運命ということについて、僕は、西の(公務員宿舎は、美術館の西隣なのだ)空を見上げながら、しみじみするのだった。今年の夏、大原美術館に行く用事ができそうなのだが、倉敷の古本屋であの本に巡り会ったりしたりしないものかなあ。そういう時って、どんな感じなんだろう。頭の中の世界は、どうでもいいような、しかし波瀾万丈の方向に、広がっていくのだった。

'07.04. 03 曇り。雲が厚い。空気は春の風。

 いよいよ一ヶ月更新無しの事態が出現した、などと人ごとのごとく書き出そう。
 iPodを手に入れて、僕の電脳生活が(様々な意味で)いかに活性化したかについては、前に述べた。そのうわさのiPodシャッフルを、フリースのポケットに入れたまま洗濯してしまった。活性化したなどと言ってはいてもその程度の思いいれなのだった。洗濯物が乾いても、白いスティックは静かなままだ、あたりまえだけど。僕は、やっぱりこういう生活ではないのだと再びみたび思う。で、メモリースティックが消滅してしまったので、それを理由に、電脳間の文章のやりとりが少し滞っていたら、あっという間に時間が過ぎた、というのが更新の遅れていた言い訳の、まず1。

 言い訳2、時間がすぎているなあと思っている間何もしないでいたわけではなく、急激に進んでいく父親の認知症を巡って、毎月曜何かしら介護関係の作業(機会があったら別に書くが、結構な書類仕事が、物理的な作業の他に必要なのだ)をしていて気の安まる時間が減り、ブログの更新の優先性はずっと後回しになった。  
 言い訳3、私の前立腺の調子は、だいぶ前から悪くなっていて病院にかかっていたのだが、そこで調べてもらっていた血液中の癌マーカーの値が少しずつ上昇してきて、癌センターでちゃんと調べてもらって下さいといわれ、調べてもらった。僕は、別口で、脳内出血予防の薬(血液を固まりにくくする)も飲んでいるから、このような検査が入ると、二つの別々な病院を行き来しながら薬の調整やらなにやらが必要で、普通より時間がかかる。時間をかけて調べたが、一応今回はセーフ。今のところね、の断りつき。
 言い訳4、あんまり公表したくないのだが、2月末に、僕の寝ている部屋で、極小規模なガス爆発を起こしてしまった。急に寒くなった夜に、いつもなら電気ストーブだけで寝るのに、ふと思いついて、風呂に入っている間、ベッドの枕元で水を沸かしておけば、もっとホンワカと寝られるのではないかと考え、キャンピングコンロで小さくお湯を焚いてみたのだ。火を着けて2階に上がり(家の風呂は2階にある)、ちょっとブログの更新をしていたら、突然階下で「ボン!」と来て、何かの崩れる音がした。風呂にはいるところだったので、半分裸でおりていってみると、少し焦げたにおいがしているが、見た目は、あまり変わったところはなかった。でも、寒い。外の空気が直に入ってきている感じ。電気をつけてよく見ると、ガラス戸が吹き飛び、パーティションがレールからぶら下がっている。いやはや。極小規模でも爆発は爆発で、2重ガラスのガラス引き戸(これが結構な重さなのだ)が何枚かサッシを引きちぎって吹き飛び、ガレージに使っている部分の大きなつり下げ式スライドパーティーションが外れ、ガレージのシャッターそのものも、レールを外れて外に大きくふくらんだ。これって、小規模か?という疑問がわくかもしれないが、実に幸運なことに、被害は今述べた部分に集中的に現れただけで、そこだけは見た目すごいことになっているのだが、それ以外の、部屋の中にあった物などはまったく無事だったのだ、僕の体も含めて。どう考えても、基本的には僕の初歩的なミスで、ほんのちょっと、運命が悪戯をしようという気を起こしていたら、僕は、今、ここにいられなかった。ゾーッ。
 ついているときは重なるもので、少し前に、地震保険の掛け替えで火災や家財に対する保険を掛け替え整理していたところだったのですぐ連絡し、保険の人が、工務店の人より早く来てくれて、(もちろん、一番最初に駆けつけてくれたのは、設計者の大林君で、何と言ったらいいのだろう、私は感動した。彼が、てきぱきと最初の段取りを付けてくれたのだ)お金の方は何とかなり、家自体も、建てたばかりだから工務店の人がすぐ来てくれて様々手配してくれたし、何よりも、そもそもの建物自体が、この程度(内圧で、シャッターが外側にひしゃげてしまう程度)の爆発では、壁や屋根はびくともしないのだということが実証されたのが嬉しかった。ま、嬉しがってもしょうがないのだが、、。これの損害の確定、修理の確定発注、準備作業で、一ヶ月はみるみる過ぎた。作業はなかなか始まらず、そういうときに限って寒い毎日が続き、私は、2階の部屋に避難した。実際の作業は、始まればあっという間の集中半日ですんでしまったのには驚いた。
 言い訳5、そうこうしているうちに、乗っている車(ルノーエクスプレスの方)のエンジンの調子が悪くなりルノー仙台に入院。その入院退院で手一杯な頃、なぜか美術館の人事異動の送別会。ったく、忙しいんだからさあ、とも言っていられないし。なのに、こういうときに限って、料理の出てくるのが遅い。その日の次の日に、子供達と粘土作りのワークショップがしばらくぶりにあるんで、それでなくても気が急いてるって言うのに。ほんとにもう、って、こういうのは、言い訳と関係ないな。
 何はともあれ、年度末と重なったからなのだろうけれど、これら様々な事件は、全て、何がなんだかわからないほどの交通渋滞とともに行われた。何という一ヶ月だったのだろう。何日か、お休みの日はもちろんあったのだが、とてもブログを更新しようという精神的なゆとりにたどり着けなかった。今思い出しながら書いていても、肩が凝ってくる。
 三月になると、さすがに、美術館に来る団体は少なくなる。そして来年度に向けた様々な活動の打ち合わせが始まってくる。それらにまつわる準備の一つとして、自分や、他人の書いた文章を読み返したり、探し出して読んだり、考えたりする毎日が続いている。
 朝起きて、今日は電車の中で何を読んでいこうかなと考えて、本や書き物を選び、上着のポケットに入れる。読むために遠近両用の眼鏡にして、通勤する。どっちにしたって、電車に乗っている時間は20分かそこらだから、本を持っていったって少し読めるだけで、実は、考える方が長いのだ。僕は、駅から歩いて美術館にかようのでほぼ45分歩く。歩きながら考えるのが僕は好きだ。歩きながら一人で考えると、頭の中の世界の広がりようは勝手気ままで、何か、僕はずうっと遠くまで出かけてしまうようなのだ。朝、美術館についたとたん「齋さん、なんか今日既に疲れてない?」と言われてしまったりする。今、ここに書いたような、動揺の毎日のせいもあるが、一方、自分の立っている位置を、じわりと確認する作業も、深く僕を動かしている。という日が何日か続いている。その割に、僕の頭は、ここからはずうっと遠くに出かけているようで、その日に使える身近な決断は何も考えられていなかったりする。全体として春が来ているのだろう。

’07 02 25 青い空の天辺まで高気圧に違いない様な快晴。風は冷たいけれど。

 長い間更新していなかった言い訳と、最近の状況。ブログが変わらないと、僕は何もしていないことになるらしいことへの恐怖。1月の末に更新して以来、しばらく書かなかった。というより書けなかった。電脳を横目で見ながら気にしてはいたのだが、ちょっと待っててね、という感じで時間は過ぎた。2,3日の感じが2,3週間になっている恐怖。


 2月4日に、愛媛県美術館で、「対話を使って行う博物館教育」のシンポジウムがあり、オブザーバーで出席。2日までと、6日から、宮城県美術館での活動が既に予定されていて、3日と5日、一日で、宮城仙台−愛媛松山を往復することになった。最も魅力的な行き方は、広島呉の大和ミュージアムから瀬戸内海を船、という手があったのだが、その他も含めて様々検討の結果、地上を走っていくとどうしても時間的に無理が出てしまい、しょうがない、大阪伊丹乗り換えの空路で移動。せっかくだから、仙台−伊丹は小型ジェット、瀬戸内海はプロペラ機にして、天気も大変良かったので様々楽しんだ。松山は、仙台から比べれば規模は小さい。しかし、人間にとっては大変適切な大きさの街で、市電が一周し、真ん中にお城の山のあるなかなか散歩しがいのある街だった。なにしろ、飛行場から歩いて(4,5㎞)町の中心部まで出られるのだ。仙台で言えば、長町モールあたりに飛行場があって、北仙台あたりが道後温泉。一番町4丁目市役所県庁あたりに、青葉山があって頂上にお城、という感じ。ね、散歩したくなるでしょう?そういうところにすむ人たちと、美術館の使い方使われ方の話し合いをする。なかなか、真剣で、考えるところの多い状況でした。この会を巡る報告はどこかできちんと別にしなければいけないだろう。
 で、帰ってきてすぐ翌日。石巻万石浦小学校のPTA社会学級に呼ばれて「移動美術探検」。呼ばれれば、僕、「美術」の話しにどこにでも行きます。朝早く、自分の車に、レプリカの絵を積み込んで仙台東道路、三陸道を経て移動。30名ほどのお母さん達を対象に午前中1時間半お話。彼女たちの期待したものと、僕のお話は、最初一瞬すれ違って、みんなの顔に動揺と諦めが走るのだけれど、それは一瞬のことで、後は、生活の中で「使う」美術のお話だから、むしろ集中してしまって、お話やめるの大変な感じになってしまう。でも、どうだったのかなあ、初めから、ある常識の中で僕の話を聞いている人には、つらかったのではないのかなあ。常識を点検して(無理矢理)拡大しましょうという内容だったからね。おもしろがる人にはおもしろかったかもしれないが、「やっぱり絵、見るのって難しいのよねえ」と言いたいために来た人にはつまんなかったかも。簡単に見る方法のわかりやすく日常的な話だったからね。
 というようなことを、毎日しこしこやっていたら、10日になった。この日は、2月の第二土曜日で、ということは、定例の自由参加の美術館探検(宮城県美術館独自の考えによる、10歳以下の人たちに対する美術鑑賞の活動)のある日だった。たいていの場合、この定例の日に自由参加で集まってくる人は、2,3人、多くて10人ぐらいなのだが、この日は、なんと大小併せて、30人ほど来てしまった。あっけにとられる私。2月初め、宮城県美術館のことが新聞に出たらしいんだな。そこで、子供の活動をしていると書いてあったらしいんだな。するとこうなるんだな。みんな来てくれるのは大変嬉しいけれど、連れてこられた(来たなら良いけど)子供はどうなのかなあ。参加者が多ければいいという活動ではないので、ちょっと困った。でも、もちろんこっちの活動にすぐ気づいて、のってきてくれる少し大きい子供たちもいて、なんとか終了。又、もう少し少人数で、個別に相談に来ていいんだよ、という宣伝を子供たちに、した。
 そうこうしているうちに、埼玉県美術館の教育担当学芸員が、春休みに美術館教育を中心に組む予定の展覧会に、みんなの所で工夫したワークシートや活動の様子を募集しますという呼びかけをネット上で始めて、これに、全国美術館会議に参加している美術館からたくさん参加協力が寄せられ、盛り上がりはじめた。
 2月の初めに愛媛の美術館でみんなの話を聞いて以来、僕は、なんか、ちょっと違うんじゃないかなあの気持ちが心に引っかかっていた。これまでの常識のフィールドで、これまでのやり方を修正強化しようとしても、これまでやってきた結果、こうなってしまった今の状況は変えられないし、変わらない。だから、そもそもの常識のフィールドの点検から始めるやり方を、これからは考え出されなければ、これまで築き上げてきた状況は急激に崩壊していくしかないんじゃないか。今までだってそうだったのだから、子供の感性や情操を造形を通してはぐくむのが美術の授業の存在意義だなんてことだけを繰り返し言っていたのでは、義務教育から美術図工はなくなってしまうし、お金がなくなったという理由だけで、生活の中から美術館はなくなってしまうだろう。美術の授業が算数の授業におきかわり、美術館をやめて、地下鉄が掘られれば、日本は、科学立国の国として世界の中で強く生き延びていけることになるのだ。僕には本当にみんなそう考えているに違いないとしか思えない。これまで、それらが、なぜ義務教育や、社会の中に必要なのかの理由付けは、あまりにお粗末だったのではないか。日本の大人は、義務教育の中で、ということは、好き嫌いを問わず、国民全員が、若いうちに、美術音楽体育を勉強しなければいけない(義務としてまで)ことの理由を真剣に考えていなかったのではないか。危機的な状況が人生の中に起こったとき、常識の外から、常識の再点検を、ごく常識的にできる力(芸術作品を鑑賞する時の基本的な姿勢ね)を養うためにこそ、基礎的な教育の中に美術音楽体育のような、表現系の授業があったのではなかったか。その人が生き延びるためこそ、それらは、強力な人生のためのエンジンとして働く。
 ちょうど、シンポジウムの報告原稿用に、このようなこととか考えていたので、この盛り上がりはいったい何なんだと思ってしまった。
 ここに、毎日の私の生活がオーバーラップする。こんなことを考えることとは関係なく、私の毎日も過ぎていく。いやはや。

’07 01 27 天気予報では雨が降るらしい、しかし快晴の暖かい朝。

「テレビがデジタルになると、何が変わるの?」という質問があって、ふと考えてみたら、実は、結構怖いことになるのではないかとなったので、書き留めておきたい。

 家を新しくしたとき、良い機会だったので「テレヴィジョンはしばらく無し」と言うことにしてみた。
 でも、今や、映像で情報を得られないと、日常生活が真面目に危険という事態が起こるということが間もなく判明したのと、なんのことはない、見たい番組が(テレヴ受像器が来たので急に)様々でてきて、やっぱりなにかテレヴィジョンのような物を一つ買うことにした。で、いろいろ調べたり、見に行って聞いたりして、エイゾウという会社のフォリスというTVのような形をしたものを買った。それには地上デジタル放送の受信機も組み込まれていた。だから、すでに私の家には地上デジタル放送受信機がある。で、何が変わるの?何か変わった?なのである。
 さて、私は携帯電話を持っている。まだ、ソフトバンクがJフォーンという名前だった頃に、古い友だちがその代理店かなんかを始めて、彼の薦めで面白半分で安く手に入れたのが始まりだった。その後、脳内出血を起こしていつ緊急事態連絡状況が起こるか分からないと言うことになって「いつも必ず持っていなさいよ」になった。だから結長い間携帯電話保持者をやっているのだが、その間機種変更をしたのは、Jフォーンからヴォーダフォンになったとき(契約変更のついで)と、入院していたとき便所に落としてしまって再起不能になったときの2回だけで、最近「齋さんの携帯なんかかっこ良いっすね」と、時々若い人に言われることがあるけれど、なに、単に古いスタイルだということだけだったりする。私の携帯は、電話と、時々メールのためだけに使われている。あ、最近少し写真機。
 私はこのブログで、コンピュータを巡る私のどたばた状況を公開してきたが、ああいう風に電脳とつきあっている私は、携帯とは電話としてつきあう。というより、としてしかつきあえない(が正しい言い方かな)。ついでに言えば、私の家のNTTから(いまだに、確か)借りているダイアル式黒電話も、いつの間にか、黒い本体に幾つかの緑色の極小点滅電球のついた小さな箱を経由して電話線がつながっていた。その箱からは何本かの枝分かれ線が出ていて、今これを書いている電脳や、何とそのフォリスTVにもつながっていたりする。でも、もちろん、私の電脳は、そのほとんどがワードプロセッサとして機能し、フォリスはテレヴィジョンである。携帯電話が電話である(でしかない)という生活は、地上デジタルは、写りの良い(確かにまるで違うものだと思うくらい画像はきれいなのだが)テレヴィである、という生活につながっている。
 個人用電脳を筆頭として、携帯電話やテレヴィジョンや普通の電話や洗濯機やお風呂や冷蔵庫や台所周りやその他諸々ほとんど全ての生活用品や、そして自動車に至る、新しい生活用品を縦横無尽に使いこなした生活を送っている人から見たら、この状況は「なんともなあ(溜息)」の生活であるのだろう。
 電脳が関わって築き上げてくれた、豊かで便利(と言われているよう)な今の生活は、しかし、僕には、過剰に効率的で、抜いてはいけないところまで手抜きが可能になった生活、のように見える。効率よく、機械でできるところは機械にしてもらう生活は、全然やぶさかではないけれど、過剰って言うのと、手をかけなければいけないことっていうあたりには、注意しておきたいと、僕は強く思う。楽して速くやっては「いけない部分」が(動物としての)私たちの生活にはある。電脳系日用品がすべてそうだとは言わないが、何かどうも相当大切な部分が、豊かで便利になったおかげで、既に消えてしまっているように、美術館に来る小さい子供達と一緒に、木ぎれからクワガタムシを作る活動をしていたりすると思えてくる。
 クワガタムシ(外国にいる、紫なんとかという、大きなクワガタなのだそうだ)の絵を、彼は描いてきた。それを本物みたいに作る。まず美術館のスタッフにお願いして、彼が描いてきた小さい鉛筆画を彼の言う言うところの「ほんとはすごく大きいんだよ」の大きさまで拡大コピーをしてもらう。大きくなると、なんだか、本物っぽくなくなることが多いけれど、本当の大きさになると、こんなふうに見えるのだ。さて、その一方で、なんか胴体と足になる物を探す。そのへんをうろついて、胴体や足になりそうな物を拾ってくる。昔の子供(僕のことね)にとっては、胸躍る活動時間だ。「そのへんから、拾ってくる」。みんなはどう?拡大コピーを使う(のにためらいはないがしかし、今述べたような電脳生活を送っている)僕は、でも、そのへんをうろうろしながら、なんか面白い物を拾ってくるのが(血沸き胸躍るほど)大好きだ。今回来た子供達は、ゲームだけしていれば文句ない子供達では、全くなかったのだがしかし、「何で作るの?」という問に対する、僕の「何かそのへん探しに行くか」という答えに、ポカンとした顔を見せた。何を使って、どのように造るかは、既に決まっていて、それは大人が教えてくれる(のを待っていればいい)ものなのだ。
 大げさかもしれないことは重々承知の上で、しかし、デジタルテレヴィを、無意識に使い始めると言うことは、子供をこのような生活に導くことに大きく回り道だがつながっていないか。つながっていないと良いのだが。 

2007年 1月 8日 雲が異様にかっこいい、寒い日。

 クリスマスのあたりから基本的には休みだったのに、やっと今日あたりブログを更新している。公開すべきことは、いくつかある。

 隣の達(とおる)君が12月25日に死んだ。53才だった。くも膜下出血で、僕にとっては突然だった。葬式で、泣きながら弔辞を読んだ友人代表の話を聞くにつけ、この年代でこの状況は、過労死だとしか言いようがない。でも、なんだか、死ぬぐらい一生懸命仕事してたんだなあ、と様々な思いを込めて感心した。小学生だった頃、僕より少し下の学年だったけれど僕の弟たちと同年代だったから、いろいろ遊んだ思い出がある。人は、突然に必ず死ぬものなんだと言うことはここ数年で、重々身にしみているが、しかし、こういう風にも起こるのだなあ、と再び心に来る。26,27日はお葬式。町内会の隣組だから、僕も町内の人たちと一緒に、参列者の受付などする。こういう風に、葬式をするのだなあ、されてしまうのだなあと、しみじみ心に来る。
 でも、28日は、ダークスーツと白いワイシャツをクリーニングに出した後、いつもの美術系の仲間と、毎年恒例の「たき火」。@阿武隈川河口の砂州。昼から、みんなで流木を集めて大きな高いオブジェを造り、4時半、暗くなったところで点火。8時前には燃え尽きて終了。僕は今年は(も?)意識的にあんまり働かずに、凧揚げなんかしていた。天気はすごく良くて、気持ちよかった。そんなに寒くなかったし。
 29日。今年の年末年始の最大のイヴェント「お母さん、沖縄で正月を過ごす作戦」開始。沖縄市に住む上の娘が画策して、かみさんを一人、沖縄に呼んでくれた。彼女がひとりで飛行機に乗るのは、僕を追いかけてニュウヨークに来たとき以来のはずで、緊張するも、今は安心楽々システムとか言うものがあって、飛行機会社のお姉さんたちがこっちの手からあっちの手までとぎれなく面倒を見てくれるのだった。
 で、29日から1月の3日まで、認知症の進んだ親父だけと一緒に、毎日を過ごす経験をした。12月中は、毎日掃除をし、正月に入ってからは、毎日餅を食って、テレビで駅伝とアメリカンフットボールを見て過ごした。僕の家は竹駒神社の10軒程隣なので、天気の良い年の正月は家の外に出られない。人でいっぱいになるのだ。この自分の父と一緒に過ごす経験は、なかなか深くおもしろいものだった。僕も、明らかにこうなるのだ。なんか好きなことを、もっと、ちゃんと、しておきたいなと、強く思った。このことは機会があったら、少しずつ又別に書こうと思う。でも、好きなことって、何のことだろう。ちゃんとって、どうすることなんだろう。
 3日に彼女が帰ってきたので、夕飯の支度とか、少ししてもらえるようになっって時間が出来た。でも、熱心な人たちは至る所にいて、5日に、小学校の先生たちの「図工の授業法」自主研修会に呼ばれていたのだ。子供たちのいない学校の図工室で、半ズボンにTシャツで粘土作りの講習。なぜか図工室は、北窓からの採光が描写に良いとかで、校舎の北側にあるのだ。水、凍るってば。いやはやよくやるよ。だが一方で、こんなことが出来る世の中になっては来ているのだと、深く感激。20世紀中には出来なかった。
 義務教育の図工美術の時間は表面上さんざんなことになってきてはいるが、そのためにかえって、では、何をどうすれば良いんだろうと、みんな真剣になってきているのだ。「造形でなく美術直接」という意識は、しかし、これまでの教授法では伝えにくい概念と活動なので、しばらく時間はかかるだろうが、誰かうまい方法をひねり出してくれるまで、しつこく話し、しつこく実践を見せていくしかない。
 しかし、相変わらずなんだかわかったようなことをつらつら書いているなあ。あんまり心配とかしないで、やりたいことを楽しくやることが大切なのかなあ。それが、実践につながるのかなあ。なんかそのあたりで、今年は、行きそうだな。