7月31日 夏の太陽なのに、空気は寒い。その上、エアコンが効いている。

  いま、iBookシェルで書き始めたのだが、この前、何をアップしたかをすっかり忘れていて、さしあたり、新たに書きたいことをまとめよう。美術の授業2は、時間ができ次第報告を続けるつもりだ。

 ブログを更新していない間に、もちろんあたりまえだが、書ききれないほどいろいろなことが身の回りに起こった。六月一杯で、僕のいる美術館の中に開館以来あったブックショップが閉店した。ブックショップだったので、最終的に様々な本が残る。本は再販制があるので版元に返せるのだが、返す前に一応点検しますかと言われて見てみたら、いやはや、残っていた(売れなかった)本の中に僕の好みの本が相当数入っていた。こういうふうに自分の読みたい本がそろって書棚にある本屋は、この後そうそう存在しないだろうから、本当は全部引き取りたかったが、残念、今はそういう環境にいないので、その中から何冊かだけ購入した。

 

買った本の中に、若い頃の片岡義男が書いたサーフィンを巡るエッセイ集があって、普通なら遊びに分類される活動を、ライフスタイルにすることについての文を、しばらくぶりに読んだ。三十代から四十代にかけて僕は熱心にこの手の文を読んでいた。強い共感を持って読んでいた。今、僕は、そういうライフスタイルを持っているか?若い片岡義男がいう、(サーフィンはどうも特別なような気も強くするが)ライフスタイルとしての遊び、又は、遊びのようなライフスタイルは、僕にとっては美術なのだろうか?美術作品制作なのだろうか?いや、それとも子供との活動なのだろうか?僕は、もう今から波乗りをやってみようとは思わない。でも、話には今でも深い共感と納得を感じる。僕にとってのライフスタイルとしてのサーフィンは、なんだったのだろう。それとも、サーフィンをライフスタイルにするという考え方の点検(あんたは大丈夫なのね、というような)を僕はするべきなのかもしれないとか考えて、何だか妙に焦った。これをきっかけに、何冊か昔読んで取っておいてある本を読み返した。丸山健二とか司馬遼太郎とか、様々なアクションミステリー系の作家とか。
 で、今のところ結論は、「違う、焦ったのではない」。脳が活性化した、ということだ、に落ちついている。なにしろ、脳内出血以来、僕の体は、あのころとまったく違う仕組みと方法で動いている。
 15年ほど前、一緒にモーターサイクルのならしにつき合ったり、僕に影響されて彼女が買ったシトロエン2CVを乗り回したりした、若い女の友だち(今は二人の女の子のお母さんになっていた)から、新たに手に入れた2CVの修理を巡るツーリングに誘われた。しばらくぶりで会った彼女の第一声は「齋さん、肉食ってる?」だった。瞬間、何だか動揺してしどろもどろの答になってしまった。僕は、基本的にミートイーターでありたいと未だに思っているのだなあ。こういうときに、本当の体の尻尾がちらりとでてくる。なんか要するに、彼女が知っているちょっと前の私と比べて、なんか、今の齋さんは、脂ぎって光っていないと言うことのようだった。昔の俺はそういうふうに見えていたのか。そうだなあ、豚カツ大好きで、ハンバーガーはダブルでって言う人だったものなあ。子供との活動の合間に、チョコレートとコカコーラで、糖分補給して、一日3回、同じ活動をやるの2日間連続とかやってたものなあ。その結果が、2003年の脳みそ大爆発だった。
 冷静に振り返れば、今、僕は、ほとんど、ヴェジタリアンだ。時々、肉や卵のかけらや、思い立って、意識的に白米に美味しい取れたて卵かけご飯なんか食べてしまうが、普通は、玄米飯に、野菜たくさんのみそ汁に、温野菜と納豆なんて食事になっている。何も困ることは、今のところ起こっていない。何が替わっただろう。「ま、いいか」とささやくことが多くなった。明らかに、実際にするセックスに対する興味は減った。初めから競争について考えない。一人一人とか、バラバラとかの方が落ちつく。仕事や活動のスピードが知らないうちにゆっくりになっている。体を敏感に動かすために、ジョギングや水泳をしたりするよりは、通勤を徒歩に変える方を選ぶ。今述べたうちの幾つかは、前からの僕の資質のような部分もあるが、そういうことを意識せずにするようになった。でも、遊びをライフスタイルにすることについては、今のように生活が変わってもなんの問題もおこらない。焦ったってしょうがないぜ、というあたりが、そういうライフスタイルを実際にするときの大切なところではないか。
 ここのところ、イスラムを生活の中心に置いて生活している人たちの考え方や実際の生活についてを述べたエッセイを様々読んでいるのだが、生活の中に、宗教が深く関係していると言うことは、その人自身が、常に自分を自覚せざるを得ないと言うことでもあって、自分を気にするということは、他人を気にするということに深くつながっていく。小さい人たちとの活動をしているとき、子供の目線でとか軽く言う人がいるが、年齢に関係なく相手の目線を考えれば、様々な問題に、新たな展開が広がると思うことが多い。 
 先生達との研修会で段ボールを使った、具体的な教育実践の活動を、リクエストがあって行った。やる気のあふれる先生達で、何か学校ではできないモノをという意気込みで始まった。ようしそれではと、学校では、けっして出ないような課題を出してみたのだけれど、始まると、教科書にある方法と、方向で終始してしまう。常識の中で聞くと、せっかく常識を越えようと出された非常識な課題も、常識の中で閉じる。常識を越えるための思いつき/踏みだしは、できるだけ広く大きい常識的な知識の集合の中にのみ、実はある(上野千鶴子の指摘)ってこういうことだったのか。どうしてもうまく言葉では伝えきれなくて、最後に、手を出してしまう。それだって、僕のオリジナルではなくて、デビット・ナッシュをていねいに見ていれば気が付くまね。あれがこれにつながるということに気付くためには、何か練習がいるのだろう。それを考えるのが私の仕事か。
というような毎日を送っていると、どうも、電脳の時間の進み方と離れていてしまって、何回も書いているように、更新の優先順位は後回しになっていくのだ。