そこに見える物を、
丁寧に、注意深く、よく見る。

見えた物からだけ、私の世界が形創られる。

世界を自覚するには、
見える物を増やすしか無い。



2012年10月19日
快晴。乾いた涼しい空気。

この前更新してからだいぶたったような気がしていたが、まだ2週間程すぎただけだ。でも、毎日いろんな事があった毎日だった。これは書かなくてはあれも書こうとその時は思うのだが、文章にならない。実際の生活が忙しく充実して?過ぎて行き、夜になって、早く寝ないと明日起きられないぞとバタンと寝てしまう毎日。
忘れないうちにこの前の中新田に電車で行った話を書いておこう。四国に行った話はいつになったら書けるのだろうか。

5日は、第一金曜日で、9月から始まった僕のお話会の第3回目。来る人がだいぶ限定されて-と言う事はだいぶ減って、という事だが-きた。最初第1回目、近代の理解が僕達の生活の全体に及ぼす/している視点について話し、次にその視点に気付いたために見えて来る/来た子供の視点の変化とその見方。そして今回3回目、大人がそこに見える対象の捉え方/理解の仕方の順番/深め方を、美術からみるとどういう風に考えられるのかというお話。こういう風に書いてくると、なんだか難しい事を話してたんだなあと思う。「何話してんだか良く解らないのだが、たぶんそのうち気付くんだろうと思って聞いている」という感想を書いた人がいたが、そうだったのかと今になって思う。

7日日曜、だいぶ前に連絡があった中新田の自動車屋に、車検とオイル漏れの止まらないエンジン点検をしてもらっていた、僕の大好きなシトロエン2CVを受け取りに行く。誰かに中新田まで車で送ってもらおうと様々やってみたのだけれど、今回なぜかみんな忙しかったので、車は無し。良い機会だから電車で西古川まで出て、そこから歩いて中新田まで行くことにした。これは/が正解だった。

日曜日だから朝の通勤電車はすいてるだろうと思ったのは間違いだった。明日は体育の日なのだ。8時前に仙台駅から乗った小牛田行きの電車は、松島駅まで、ランニングの格好をした老若男女で乗り降りできないくらい満員。利府でスイーツマラソンが有るのは知っていたが、あの人達は何だったんだろう。まさか松島から利府まで走って行ったのではあるまいとは思うのだが。東北線松島駅で全員降りる。松島マラソンだったの?そのあとは、数えるほどの人だけが残って小牛田まで。小牛田で陸羽東線に乗り換え。この線の車両は片一方が一列の座席で、ゆっくり窓の外を眺めながら行ける。数えるほどの乗客で、何処にでも好きな所に座りほうだい。窓からの眺めを楽しみながら、今度はここ(陸前谷地とか)に来て見ようとか乗っていたら、古川駅で再び体育着の若者大集団が乗って来た。たすきをかけているのが何人かいて、彼らは古川学園中学校の人達で、30キロを歩きとおす会に出かけるところなのがわかる。突然再び超満員。いやはや。とは言え、30キロ強歩(競歩ではなく)は、僕が仙台一高に入った年から始まった行事で、僕等のあれが宮城県では最初だったはずだ。その結果がここにある。でも出発時間遅いんじゃないか?もう10時すぎてるぜ。僕等の時は朝6時スタートで、連坊の校舎から遠回りして秋保温泉岩沼屋まで35キロ。二女高前一番通過を争う人達も居たなあと、懐かしく思い出す。ただ、小牛田から電車はワンマンカーになっていて、そうすると、降り口は運転士の後だけではなかったか?ちょっとあせって(何しろ、西古川は古川を出て2駅目なのだ)子供達をかき分けながら移動を開始するも、今回はちゃんと車掌さんが乗っているので大丈夫、すべてのドアが開くのだった。西古川下車。跨線橋のある立派な、しかし無人駅。駅前の集落は普通の街で、バス停なども有り、みんなが住んでいた頃(今でも住んでいるのだろうが)は普通に昭和の街並だったのだろうが、今はやたら寂れた感じのする街になっていた。誰もいない、駅前広場。店のような建物が道路に面して列んでは居るのだが、だいぶ前から店はやっていない感じの町並み。すぐに田圃。ずうっとむこうを古川からの国道が走っているのが見える。駅からの道を途中で曲がり刈入れの終わった田圃の中の道を選んで、そっちの方(国道の方)へなんとなく行く。途中の農家の中庭で遊んでいた、まだおしめとれていないぐらいの小さい人が、珍しい物見つけたという感じに、僕の方にダアーッと走って来て、慌てたお母さんに抱きとめられたりする。
道路沿いのホーマックを眺めつつ便所を借りたりしながら、中新田町に入り、目的の中新田自動車に到着。何処がどうなっていたのでどうだったのかの実物を使った詳しい説明を聞き、驚愕。本当はもう全く使い物にならないところだった古い車を、基本的な整備はもちろん、接着剤や何やかにや(詳しくは特に秘密)を使って、動くようにしてくれていたのが、今回の完全徹底オーバーホールで判明。覚悟していたのの四分の一の代金を払う。中新田だとは言え(差別発言)、なぜこんなに安いのだ?とは言え、ここ何回かの車検は僕の知らない所でもの凄く手を入れてくれていた後藤さんというメカニックの努力の賜物だったのだ、という事がシミジミわかった。しばらくぶりで再び戻った、新車の時のエンジン音に包まれて幸せのうちに、途中で蕎麦を食いつつ、何事もなく帰宅。
次の日は体育の日の休日で、なんと岩沼小学校4年2組の同窓会が有る。

良く見て描く。

注意深く、丁寧に、善く見て。

描くは書く。言葉を!




2012年10月 5日 高曇り。乾いた空気。

アッという間に日がすぎる。この前書いた/更新したのはそんなに前じゃないよなと思っていると、イヤハヤその間にあった事を書くのが面倒になるほど、毎日充実した(色々なんだか面倒な事があるという事だ)日がたっている。

東山魁夷展が始まった。僕はあんまり好きでない作品。そあとの庭で金曜夜始めたお話会で、「そもそも風景画ってなんなんでしょうねえ?」という質問があったので気にしていた。様々理屈は知っている。違うな、理屈は聞いているだな。とにかくあまり好きではない態度でざっと見た。しかし、できるだけ先入観を持たず好き嫌いを無視して、いつものようにざっと見た。ううむ、この白い馬のリアルさは何なんだろうという印象が残った。
ちょうどその日、地下の県民ギャラリー(一般用貸出し展示場)で、県芸術協会絵画部公募展の入選作展示をやっていた。展示場を2つ使って沢山の作品が展示され、仲間や絵画教室の生徒とおぼしき年配の女性達が、そこここに固まって、様々な会話をしていた。奥行きの捉え方が上手だねとか、心情の描き込みがとか、なかなか専門家っぽい話しの内容が漏れ聞こえて来る。でもね、全体としては、素人っぽくて下手だなあと、僕は感じた。描き込んである上手な絵は、もちろん何枚かあったけれど、全体としては、下手だなあという印象。なぜだろう?
そのまま1階の常設展に行った。いつもの常設。州ノ内コレクションのや、萬鉄五郎の風景/春も飾ってある。描き方としては雑で下手なものも多い。言ってしまえば、これらはあの公募展に出したら落選するだろう。でも、全体としては上手いなあと感じる。なぜだろう。
で、もう一度東山魁夷展を見に行った。すまぬ、僕は職員なので何回でも出たり入ったりできるのだ。展示室をブラブラ歩きながら閃いたのは、ううむ、「彼は見て描いてないんだな!」という事だった。

いろんな所で何回も言っているとおり、絵を描く時は対象を見て描いているのではない。絵を描いている時、描いている人は自分の頭の中の世界を見ている。自分の頭の中に世界があることをわかっていて、それの見たい所隅々まで見られるかどうか、絵を描くとき問われるのはその辺りなのだ。そういうふうに思ってみると、下手な絵は見て描いてしまっている。絵を描いているとき、頭の中の(本当はそれ(だけ)を見なければいけない)世界/映像が曖昧になって現実を見てしまうと、そこには見える物しかない世界が見える。見える物しかない世界とは、見える側だけある世界だ。そこにある山や森の裏側は裏側だから見えない世界。頭の中の世界には、裏側はない。いや有るけれど、裏側がある事を「知っている」ので、見えない所にも世界は続いている。頭の中の世界は世界観という世界なので、先天性全盲で、生まれてから一回も世界を視覚的に見た事がなくても、上下左右前後、踏みしめる大地を地球に生きる人間なら誰でも感じることができる。みんなの心を打つ風景画を描く人は、自分の頭の中にある風景が描ける人だったのではないか。

そこに見える風景ではなく、そこで彼が見た風景を見ないでかける人。彼は最初から頭の中に見える風景を描いているので、そこには深い森しか描いてないように見えるけれど、その森の裏にある草原や山や、その上に広がる空や、山の裏側の街や、何やかにやが全部ある世界が見えている。でも、しょうがない、描く紙がこの大きさしかないなので、枠で切り取ったその森を描くほかなかったのだ。元々頭の中の森だから、そこに出てくる白い馬は、居たとか居無いとかと関係なく元々から本物としてそこに居たのだ。僕が感じたリアルさはそこから醸し出されたのだろう。善い風景画は、たぶん、作品を囲む額縁の外側を/も描いてある絵なのかもしれない。ワー凄い!と声をあげてしまう世界は、たいてい常に、額縁の外側に有る。

なんて言うような事を考えて、さて、8時間かけて台風の四国に電車で行ったという話しは、ね、次の話しでしょ?という毎日。