既に表現されているものは、
表現した人の世界観。
問われるのは、常に、
それを見る人の世界観。
作品を見ることは、
自分を見ることだ。
2013年 3月23日 雲の多い快晴。微風強し。
土曜日は本来出勤の日だ。今日は土曜日なのだが、有給休暇をとった。
先週金曜、山形から僕の好きなH保育園の年長連中がバスで来て、元気一杯、一日、美術館探検と粘土作りのワークショップをしていった。今週木曜、古川のT保育園の今年卒園の人達が来て、美術館探検と粘土作りのワークショップをし、お土産の粘土をウンウンひきずりながら帰った。翌金曜、仙台の昔から知っているK保育園の年長の人達と、充分に時間をかけたフルコースの美術館探検(だけ)のワークショップ。
性能の良い人間の幼体達(ずうっと笑いながら、うるさくて、走って、泣いて、喧嘩できるということだ)と、本当のワークショップをすると、やや老人の僕はもの凄く集中し、それを悟られないように動くテンションの高い活動をしてしまうので、心理的には数歳若返るが物理的にはもの凄く疲れる。彼らが帰ると、知らないうちに居眠り(気絶とも言う)をしてしまっている。
で、今日は特に予約がなかったし、夕方4時からNPOの理事会があったのと、庭の手入れをお願いしているH浦さんから、新たなシンボルツリー(家を新築した時に植えた白樺は、虫にやられて枯れてしまった)を、山の植木屋に見に行かないかというお誘いがあったので、良い機会だと休みを取った。
朝遅く起き、来年度からすることになったMK大の美術理論の非常勤講師の書類を書きハンコを押してポストに入れに行ったり、ペレットストーブの手入れを少し丁寧にしつつ、携帯でメールを何件か書いていたりしたら、アッという間に待ち合わせの時間になってしまい、カングーで松森まで出かけ、彼女と落ち合って二軒程植木屋を回る。最初シャラが良いのではないかという話だったのだが、実物を見て植木屋の人と相談し、桂の木にすることにした。
その後、昨年から頼まれて参加している美術系NPO理事会に出席。昨年度の会計や活動の報告は僕にはほとんど発言する部分はない。その後今年度の活動をどうするかをみんなで話し合うのだが、ほとんどの活動がメディアの露出度を基に作られ話されているようで何ともいずい。メディアは誰かが作っているから、その作っている人(本当ならジャーナリスト)の概念を超えることは、あまりない。だから、本当のジャーナリストは絶えなる点検と勉強がいるのだけれど、最近の日本のそれは、僕にはどうもがっかりすることが多い。そういう人達が取り上げてくれるような活動(しかも、それをワークショップという名称でやろうというのだ)を何の疑問も持たずに最初から考える活動は、そこに参加する人達にとってどういう生活をもたらすのか心配になる。僕は老人性鬱に陥り始めているのだろうか。
ワークショップを計画する人に、その始めのメモのあたりから相談に乗って、それの目的と参加する人と、本来有るべきワークショップの形と動きを見失なわないようにしつつ、オリジナルな活動の形を考えて行こうね、という話しをしたつもりだったが、それまでの彼等が話した活動の内容で、既に老人性興奮が始まっていて、僕の発言はきつくおっかない口調になってしまった。やや反省。ええい、でもこういうところがトッショリの良いところなんだいと、開き直る。
個人の表現と学校で鍛えられた美術。教える教育と相談に乗る教育。教育の主体がどちらに有るかの自覚。内にある世界観と既にそこにある世界。いやはや相談に乗るのは大変だ。