2009年 6月26日 今年初めての暑い一日。でも美術館は完全空調。絵には良いけど体に悪い。

今週始め、美術館に出たら高松城の絵はがきが来ていた。僕の友達でお城の絵はがきくれる人はあまりいない。差出人は、O崎君だ。ええと、誰だO崎って?彼はO寺君だった。名字が変わっていたのだ。僕の記憶にあるのはまだチビだった少年のO寺なのだが、今はもうすっかり大人になっていて、四国高松で、歯医者さんをやっているという。いやはや、嬉しいねえ、こういうはがきは。

彼が、友人のO橋と美術館に来ていたのは、川向の小学校の5年生だった頃からで、だいぶ頻繁に、まだ始まったばかりですいていた美術館の創作室で、様々、本当に様々な工作(粘土の団子作りから廃材の家ー中は漫画図書館ーから、本当に動く小さいバイクまで)を、僕と一緒に楽しんだ仲間だった。アアそうだ、夏休みに、本物の丸木舟を彫ったのも、君たちではなかっただろうか。出来上がったそれをみんなで北庭の池に運んで行って乗ってすぐ転覆したので、調べて、竹でアウトリガーを付けた。あの頃、毎日凄く面白かったねえ。
実は最近、ここから先の文章が続かない。去年度まで、僕は、美術館の教育普及部のひとりのスタッフで、ほぼ全面的に実践家で過ごして来た。今年度から、僕の肩書きは管理職の末端になり、未だうまく言えないのだが、どうも守備範囲が少しだけだが、しかしこれまであまり注意していなかった方向に変わって来ているようなのだ。
昔、長い間美術教師をして来た組合系の先生が美術館に教育部長として回って来て、それまで彼は決して管理職になんかならないぞと強く考えて来ていたのに、その当時の美術館の上司と話をして宗旨を変え、ここから出るときには校長先生として移動し、その後なかなか善い学校を作っていった。自分の想いを社会化するために、今の世の中でできることをリアルに考える。もう先は見えているのだし。
長い間、管理職になるというのは、僕の年代では様々ネガティブな方向のみ語られることが、周りの美術家の仲間では多かった。でも、そういうことがあった辺りから、意識的にみんなの代表になって公共での仕事を(しかも教育について)考えることを僕は始めてみた。そして年齢が来て、順番にそういう立場で様々な決定をしなければいけなくなる。実際にやってみると、僕には本当にそういう経験が足りない(または全くない)ということに気付かされる。そしてそんなことは言ってはいられないことが多い。
話し合いの中で使われる一つ一つの言葉が持つ意味をこれまた一つ一つ調整していく必要。その上で、ある事柄をどっちの方向に決めて行くのかを、みんなで、不公平にならないように決めて行く。やってみると、みんなに公平になんて決していくはずはないことが明るみに出てくることが多いのだが、では、そういうことはわかった上で、どっちに決めるのか。いやはや、なかなか大変な毎日だ。でも、こういうことをこういうふうに書くことができる程には、世の中は変わって来たのだということも実感できる毎日。ほんの数年前までなら、僕が今感じている事柄は、もっとずうっと前の段階でしないで済ませていたことも多いわけだから。
そんな毎日の中に、突然、20数年前の小学生がはがきをくれたりすると、僕はふと我に返って、今の自分はあの時とどのように変わり、どのように同じでいようとしているのかを無理矢理点検できてありがたい。様々なストレスの中で、僕は、まだ変わらずに、なにかを続けて来ているだろうか。悩みつつ、考え続けようと思う。

2009年 6月23日 こんな水色の空をしばらくぶりで見た。気持ち良く晴れた午後。白い雲が浮かぶ乾いた空。

僕は、脳内出血を巡る三種類の薬と前立腺の薬を一つ、毎朝飲んでいる。その他に、同じ時間に幾つかのサプリメントを食べる。血管を柔らかくするエキスと、腸内細菌を補強する粉。書くと凄い量みたいだな。でも、ま、これらは、今のところ明らかに僕には効いている。そして最終的には水だ。アルカリ水素補強電解水。
先週末、サプリメントの一つがなくなり始めたので、昨日月曜の休みの日、町中の薬品店に、買いに出かけた。

認知症だと診断されてすぐ申し込んでおいたおかげで、胞夫さんが近々グループホームに引っ越せることになった。部屋を下見に行って(大変良い角部屋だった)寸法を測り、どのような部屋にするか考えた。彼自身は、もうすっかりそういうことに対しての興味をうしなってしまっているので、かってに様々考え、これまで彼の周りにあったものを少し持って行って使うことにした。
さしあたって、朝一番で、母の使っていた古い仙台ダンスを一竿、持って行った。家で、小間物入れや食器入れとして使っていたのの中身をすっかり出し、引き出しを全部抜いて枠だけ運び込む。枠だけでも仙台ダンスを運び込むと、一気に個人の部屋らしくなる(と思うのは僕だけか)。ベッドがあって、トイレが各部屋に付いていて、押し入れがあり、思い出の古いタンスと、あとは簡単で座り心地の良いディレクターズチエア。東と北側にある大きい窓から広い田圃と、飛行場から離陸してグイグイ昇って行く旅客機が見える。僕が住みたいなあ。そのあと、入れる所がなくなった小物類をしまっておくための方法を探しに、幾つかの店を巡るうちに時間が来る。
自転車で駅に行き、電車で長町に降り、地下鉄に乗り換えて勾当台まで出て、歩いて県庁裏の生D薬局に寄り、いつものサプリメントを買う。普段歩かない裏側の路地をつなぎながら北六番町の農学部の前まで歩く。さらに東に曲がって北六小の近くのいつもの食堂まで歩き、ユックリ美味しい昼食。時間的に、混んでいた人たちがちょうどみんな帰って、僕ひとりになって食事の感じ。
食後、しばらく文庫のミステリーを読んでから食堂を出て、ユックリ歩いて通町の二輪工房Sまで。特に買うものもないのだけれど、活動を巡る雑談をして北仙台駅にたどり着き、うまい電車が無かったので、再び地下鉄で仙台駅まで戻り、ちょうどぴったりあった電車で家に帰る。沖縄で買った新しいビルケンシュトックのサンダルでずうっと歩く。ぎりぎり雨に降られずに一日過ぎる。あそことここでお茶を飲めると、最高の一日だったかもしれないが、充分に充実した休日。できるだけ早く、無印かニトリで食器棚を買って、外に出ているものをしまおうと思う。

2009年 6月14日 肌寒い、高曇り。薄手長袖ネルシャツにフライフィッシング用ジャケットで出勤。

先週の水曜日に、水泳をした。考えていた感じと少し違う実感。様々なものを、様々な所から修正しはじめないといけないようだ。6年前(もうそんなにたってしまったのか)脳内出血をする前まで、僕は週に1回毎木曜、市営の屋内プールで水泳をしていた。そして月曜の休日ごとに、なにがしかの運動。近くの里山や、蔵王のお釜の周りなんかを駆け足で回るとか、モーターサイクルを駆って林の中の道なき道を駆け抜けるとか、大きな倉庫の壁一面に作られた人工の壁でフリークライミングとか、マウンテンバイクで新しい団地の回りの未舗装路を走り下って、逆風をついて漕ぎ戻るとか、なんかそんな、今書いてるだけで心浮き立つ体を動かす遊び。そう言う活動の合間にする週一回の水泳だったので、それは、15分準備体操をして1時間ゆっくり休まず泳ぎ15分整理体操をして上がりというものだった。今にして思えば、そういう基本の毎日の生活の合間に、美術館での仕事をしていたのだなあ。その頃、水泳パンツ一丁で水の中に体を投げ出すのは、気持ちいいことの筆頭だった。6年ぶりにやった水泳はだいぶ違っていた。



6月10日水曜の仕事帰り、途中にある今泉清掃工場に付属してある市営プールに寄った。なつかしかった。水着や様々な用具1式は持って行ったが、水泳帽は受付の前の自動販売機で、一番簡単な白いやつを600円で買った。まず一回やってみて調子良くて続けそうだったら、気に入るやつを探しに行こう。ロッカールームで裸になって着替えをしたら窓に何か映っていた。僕は、いつでも何処でもすぐに裸になれるような心構えにしておきたいと日頃考えている/た。でも、ガラスに映ったものにはちょっと動揺した。ううむ、だいぶ格好悪くなってるなあ。お風呂に入るみたいにスッパダカになると、あんまり気にならなかったのだが、水泳パンツなんかはいて立っていると、体全体にしまりがなくなっているのが隠しようもなくなる。ちょっと動揺。かつ、準備体操のしかたを忘れてしまっていた。ストレッチの何処をどういう風にしたいのかが、多分イメージできなくなっているのだ。順番ややり方なんか知らなくても、自分の体の何処をどのように動かしたいのかがきちんとイメージできれば、準備運動は自然に始められる。そういうことが頭に浮かんでこなかった。しょうがないのでユックリするラジオ体操みたいなものでごまかす。胸にうっすら汗をかく。プールサイドにおりて、シャワーを浴びる。コースサイドにある階段(梯子でなく)を使ってゆっくり水に入る。ついニコニコしてしまう。ウワー嬉しいなあ。うっ、こんなに水って重かったっけ。水に体が沈んで行くにしたがって、水が重い。壁にそってゆっくり歩く。まっすぐ進まない。波に体が流される。まっすぐ歩いているつもりなのにふらふら進んでしまう。水中で軽く抜き手の様に手を動かしながら直進する。何往復かして体の調子を見る。大丈夫だな。スタートの壁を蹴って両手を頭の上に伸ばし、水中に体を投げ出す。これが気持ちいいんだよねと、体は期待していた。何と、これがそうではなかった。体が、水の中にスッと水平に浮かんだ感じがしない。腹筋だろうか、腰が決まっていないのだ。ううむ、だいぶ、筋肉が落ちてしまっているのだなあ。これからしばらく、毎週水泳続けよう。
と書いてすぐ1週間過ぎてしまい、今日再びプールに行ったら、今日から28日まで、メインテナンス休館だというではないか。この振り上げた拳は何処へおろせばいいのだろう。

2009年 6月 5日 本格的な曇り空。そして本格的に寒い。

沖縄珍道中の続き。コザ編。前に書いたような様々な出来事を経て、結局僕は、胡屋でバスを降りた。手元にあったものすごく簡単なコザの地図で、僕が行きたい悠記さんたちの家は胡屋で降りるのが最も近そうだと判断したからだ。コザ十字路はそこからまだ3つ程先の停留所だった。そっちにもちょっと心引かれるが、今回は断念。沖縄は元々が島なので僕が考えているよりはるかに狭いのだ。那覇とコザは隣同士の感じ。那覇から途切れなく続く(切れている所は基地)家々の先にいつの間にかコザはあった。



バスを降りて少し戻った所に大きな十字路があり(後に、ここが胡屋十字路であることが判明)、建物は低い。福島というより、白石や古川の駅前通りの感じ。十字路に面した建物の壁にある標識には、ここが胡屋2丁目9番地であると書いてある。すばらしい、僕が行きたいのは胡屋2丁目7番地。なんて言うのは(何回も言うが)あてにしてはいけない。ここは沖縄だぜ。少し!迷って歩き回って結局行き付けず(ブロックをたどって9番、8番と来ているのに、次のブロックが6番になってしまってどうしても7番のブロックが見つからない)携帯電話をかけ、道に出て来てもらって(ええっ!この細い三角のはじっこが7かよ、だった)、やっと悠記さんと再会。コザはまだ昔の沖縄が(那覇よりは)遺っている感じで、歩いている人も少ない。とは言え、彼らの家は、あそこにあったんでは、ちょっと見つかんないねという所だった。道の奥の路地を回ってその奥の右側、開けちゃいけない感じの鉄扉開いた奥。仙台に住む妹と感じがよくにた場所と家だったのでにんまりしてしまう。齋さんちの人って自然にこういう所に隠れ?住むんだねえ。一息入れて、すぐお散歩に出る。軽い現状視察。入れ墨(タトゥー)屋さんと刺繍(ワッペン)屋さんが気になるけれど、どちらも、今の僕にはすぐどうこうというものではない。退職したら入れ墨してみようかなあ。でもそうすると、ほとんどの日本の温泉には入れなくなってしまうのだろうか。というようなことを考えながら、一応、入れるとしたらこれかななどとウインドウショッピング。コザの基本的な店はアメリカの兵隊たちの文化に敏感に反応しているので、全体として今はヒップホップで、あんまり僕の好みとは合わない所が多かった。サープラス屋さんには、訓練用の小銃(重さだけ同じで無可動)なんかもおいてあり(非売品)、ちょっと触っていいですか。
最終的に沖縄こどもの国という動物園とチルドレンズーミュージアムが一緒になったような所にたどり着く。沖縄唯一の動物園は、山の谷間を下りながら見て行く。オオアリクイや、コアラなんかもいるけっこうしっかりした動物園だった。ワニと蛇の種類の多さ、象やキリンの人なつっこさ。ヤギの飼い方。それにも増して、表に出ている(来館者に見えるようにいる)飼育係の多さ。3頭いた像おのおのにそれぞれ係の人がついていて、彼らと何やら親密な話をしている。たいてい動物園に飼われている動物たちは、みんなノイローゼになっていることが多いけれど、ここの動物たちは比較的元気そうなのが多かった。チンパンジーはうろうろせず、虎は僕の方をきちんとにらみ、像は愛嬌よく鼻を上げた。チルドレンズミュージアムは、霊山の延長線上にあって、様々な意味で難しい所だな。カリフォルニアのエクスプラトリウム?のコンセプトを研究してそこから自分で考えて始めれば、日本人はもっとオリジナリティーの高いこういうものを(善し悪しで無く)作れると思うのだが。どうも何かが納得できない自分がいる。
悠記や、同居人のKZはこの日普通通りの仕事の日だから、午後からはほとんど僕ひとりでコザのメインストリート?をユックリ歩き回る。5時前に帰って、風通しのいい板の間で軽くお昼(夕方か)寝をしていた。ほんとになんだか気持ちいいね。いつの間にかしっかり寝てしまって、みんながゴソゴソ帰って来たので起きる。遅めの(沖縄では普通の)夕食はなぜか鍋。こんなに食うの?という量の野菜が、どんどんなくなる。そうか、岩沼の家はもうすっかり老人の家だったのだなあと改めて実感。つられて食べ過ぎないように白菜を食べる。肉も少しまわしてもらって食べる。ついどんどん食べる。
彼らは街の中に住んでいるのだけれど、汲取式外便所に、シャワーだけの風呂場。沖縄の若者の家としては普通。両方とも、手作りで適当に(ここ大切)でも丁寧に改装してあって、快適。彼らは両人とも僕よりやや小柄なので、僕にはちょっと引っかかる所がある広さと高さなのだが、そのタイト感がへんに落ち着く。おじいさんの僕は夜に起きておしっこにいくのだが、それ自体が探検みたいだ。外に出るためのビーサン(ビーチサンダルね)がもうヘタリにヘタっていて、うまく足の指が入らない。つい笑ってしまう。暗闇の中、懐中電灯をたよりに(もちろん裸電球が一つ下がっているのだが)家の中を移動し外に出る。みんな寝てるのだから、できるだけ静かに行こうと思うのだが、何しろ床自体がそこいらへんから集めて来た(多分)廃材の組み合わせだから、歩くたびに盛大な音が出る。本物のうぐいすばりなのだ。結局普通に行くのが一番早く静か。朝までしっかり熟睡。ああそういえば、歯磨くの忘れちゃったけど、ま、いいか。
土曜日。朝普通に起きて着替えをし、簡単だけれど美味しいサンドウイッチの朝飯をみんなで食べ、悠記のダイハツミラで水族館に向かう。美ゅら海水族館。地元の人たちしかわからない近道を通って高速道路に乗り、どんどん北上。
途中のアイスクリン売りとか、塀の中のアメリカとか、塀の外のジャングルとか、ジャングルなのに立ち枯れる松の木とか、本土と同じ、しかし色の違う砂利取り山とか、満ち潮のマングローブとか全部省略して、海洋博跡国立公園に着いたことにしよう。そうでないとしばらく、この話が続いてしまう。
公園は、大変に広いものだった。最初に見えたのはバベルの塔。あれは何だと聞いたら、植物園の一部だという。そこは、公園の東のはじっこなのだった。東端から入ると植物園入り口。そこからしばらく、本当にしばらく、立派な道路を行った西のはじっこに水族館側の入り口があった。入場料はなし。隅々まで人工的に作られた巨大な公園にはいる。凄い大きな建物の水族館。建物に入るときに大人は一人1800円かかる。ほとんどの部分は、これまでどこかで見たことのあるものだったが、大水槽だけはここに来てみることができる体験だった。2匹(頭?)のジンベイザメと5匹のマンタ。それらを下のトンネルから見上げることができる。横から見ているときには(多分光の屈折のせいで)納得のいく大きさだったのだが、床に寝そべって見上げている視界に横からズズウーッとせり出して来て、いつまでもせり出し続ける感じ。普及部の創作室が一辺12メートルだから、彼らはそれを超える。そう、あの天井を超える大きさのものがズズウーッと浮かんで進んで行き、空からの光を遮って行く。昨日、像をすぐそばで見ていやはやと思ったのだけれど、海ん中はそれどころではない。なんなのあの大きさは。しばらく声と息をのんで、少しなれないかなあと思って寝そべって見ていたのだけれど、何回回って来ても新たに驚いて、怖い。この感じは、やっぱり、怖いだと思うなあ。ということがわかったので先に進む。
とにかくデカイの感嘆の後、外に出てごく軽く昼飯を食って、ココナッツジュースを飲んで、ウミガメの様々やイルカのショウを見る。建物の外はこういうのも含めて基本的に無料。天気快調。気持ち良い海風。この後若い人たちと別れて、ひとりで沖縄の古い建物を集めたエリアと、海洋博の時に収集された世界のカヌーの展示を充分に楽しむ。沖縄の古い建物群には、これから僕の庭を造って行くときの(内側にも外側にも)深いヒントが(やはりすでに)あった。そして木造の大きいカヌー達も。時空(とき)の彼方を過ぎる空船(ふね)。外側に広がる、僕の内側の広がり方。しばらくほとんどボオーっと古い船の側で過ごす時間。海岸から沖に向かって直角に漕ぎだす意識(勇気とかではなく)は、僕にも未だにあるのだろうか。
帰りは、下道をくねくねと通って帰る。途中道の駅によって、やっぱりあれだけカヌー見ちゃったんだからね、と海んちゅ用のクバ笠(本格仕様)を、持って帰る時の困難を無視して、買う。コザに戻り、土曜でほとんどの店が閉まっているのをかいくぐって、本格沖縄そばを食う。歯を磨いて寝る。この夜も快眠。
最終日、僕はKZの軽トラックで空港まで送ってもらって、再び窓の外を見ながら仙台に戻り霧雨の岩沼に着いた。那覇は26度で、岩沼は16度だった。でも、今日はここまでにしよう。機会があったら、最後の日の飛行機について、また。

2009年 6月 3日 今日からアロハシャツにしたのに、薄ら寒い高曇り。

5月の末が、様々な振替休日をかき集めた僕の今年の黄金週間。一週間の休みが取れたが、そのうち4日間沖縄にいた。沖縄は今梅雨なのに、僕のいた間は気持ちよく晴れた。仙台にいる間は、いつもの休日のように結構慌ただしく毎日が過ぎたが、沖縄は相変わらずの沖縄だった。ノンビリユックリボヤボヤと、しかしアッという間の気の置けない毎日。



思えば飛行機に乗るのが、この前沖縄に行って以来だから、数年ぶりだった。今回は是非にと、空港アクセス線を使って電車で仙台空港へ。大きいリックサックを背負って、いつもの通勤自転車で少しよろけながら岩沼駅まで行き、名取で乗り換え、立って周りを眺めながら空港へ。高いところから見る名取のショッピングセンターのあたりを確認しながら楽しむ。ここまですべてスイカ定期でピッ!おまけに航空券も、読み取り機にかざしてピッ!で終了。なんだかつまんないなあ、と思っていたらその後が大変だった。
いつも飛行機に乗る時、僕はたくさんの危険な刃物を持っている人である事が判明する。なので、今回は、前もって、レザーマンの多機能ナイフは腰のケースから出してデイパックにしまって手荷物検査を通しておいた。もう一方の腰に下げてあるラギョールのポケットナイフは短い刃なので、これまでは搭乗待合室に入る機内持ち込み物検査のところで機内預かりをお願いすれば通過できた。これができなくなっていた。検査用にポケットから出したすべてのあれやこれや(僕の場合異様に多い)を再びゴソゴソと所定の位置に仕舞って、最初のチケットカウンターに戻り、刃の長さに関係なく刃物類、金属円筒物(懐中電灯ね)などを小さい段ボール箱に仕舞ってもらって封印して手荷物扱いにしてもらい、再度搭乗待ち合い入り口に行って、残っている金属検査機に引っかかりそうな品々をトレイに山盛り!に乗せ、でも、これでも、一回で通過できないんだよなあ。僕はこういうのけっこう楽しみで、できるだけ協力的な態度で臨むから、係のお姐さんたちが気の毒がって、何か体の中に金属入っていませんかとか聞いてくるのだが、今は入っていない。ベルトのバックルでもなくいよいよ裸になるかと思ったが、丸い輪っかにとっての着いた小型金属探知機で体中なで回され、腰につけて何も入っていないナイフやスポットライトのケースなども全部再度開けて検査された上で、一応合格。何だったんだろう。
飛行機に乗る時、僕はできるだけ窓際の席をお願いする。外を見ずして乗り物に乗る意味があるだろうか、まして飛行機においておや。今回行きは主翼の少し後ろの列のA席。フラップやエルロンの動くのが見える。嬉しい。飛び上がると結構な曇り。雲を抜けて高空にでると、下はずうっと白く光る雲の海。所々に入道雲。見飽きない。前の時は、ラジオを聞いたり、機内誌を読んだり、そのクロスワードパズルを考えたり、何やかにやしていた記憶があったけれど、今回は、本当にしばらくぶりの飛行なので、窓の外をあっちこっち(といっても雲と空の近い遠いだけなのだが)見ているだけで時間は過ぎ、再び雲に入って一気に薄暗くなって、視界が開けると、おもっていたより遥かに日差しの強い那覇空港だった。あんなに厚く日差しを遮る雲だったはずなのに、地上はいくつかの雲が青い空にポワポワ浮かぶだけの天候だった。不思議。沖縄に住んでいる娘の悠記が出口に来ていた。
その日は、那覇のホテル泊だったので、荷物を置いてから彼女と国際通りをあっちこっち。どんどん東京化は進んでいて、道路も拡張され、だいぶ様相は変わってはいるが、大体のところは前に来た時の記憶で動ける。かねて目標のビルケンシュトック那覇直営店で、ちゃんと店員さんに相談に乗ってもらってアテネを買う。仙台には相談に乗ってくれる店員のいるビルケンの店がなくなってしまった。その次はサープラスショップ巡りだが、ここ数年でその手の店は一気に減ったとの事で、僕がひいきにしていた店(米国だけでなく世界中の軍用流出品を扱っていた)もなくなっていた。僕の方も、欲しいものはもうだいぶ補充できてしまっているので、そうそうに切り上げ。公設市場をひやかしながらうねうねと通り過ぎ、裏手の感じのいいカフェでお茶。沖縄のこういう店は、基本的にガランという感じにしか席を作っていない(要するに席数が少ないのだ)のでしばらく居ても気持ちいい。かつ、相当感じ良いのにすいている。というより込んでいるのを見た事がない。そう思って考えると、ハンバーガーショップとかは混んでいる。僕が混んでいる店に行かないだけか。夕方、首里の福久屋で彼女の友人(同級生)二人も混じって4人で沖縄家庭料理のうまいのを、話をしながらユックリ食う。明日はバスで沖縄市(旧コザ)に行くんだと行ったら、友人のひとりが、それなら28番に乗れば良いとキッパリ教えてくれた。ありがたい。しかしこれは沖縄流混乱のハシリだった事が後にわかる。その他良い質問があって、つい美術館での活動のような話をしてしまい、やや反省しながらホテルに戻って、天気予報も見ずに寝る。
次の日普通に起き、少しヨガの呼吸法などをして息を整え、全く普通のホテルのバイキング朝飯を和風中心でおかずは洋風にしっかり食べて移動の準備をし、フロントにチェックアウトのため寄る。そこで確認のため、沖縄市へは28番のバスでしたよねえと聞いてしまったのが混乱の始まりだった。聞いた年配のホテルマンは、キッパリと「いや、27番です。この前行って来たばっかりだから間違いはありません。」と言うんだな。バス停は国際通り、ホテルの前の松尾バスターミナルで待っていればよい。でも一応那覇バスターミナルに聞いてみましょう。すると時間が時間だから(と本土から来た人ー僕の事ねーは考えた)電話は当然混んでいてなかなか繋がらない。その間に別のアロハシャツのお兄さんが時刻表で調べてくれて、那覇からでるバスには二つのルートがあって、松尾は通らないのもある事が判明。番号も、やっぱり28番かもしれないと言い始める。「ええと、すみません、ありがとうございました。那覇のバスターミナルは歩いてちょっとの所ですから、まずそっちに行ってみます。」まだ、どっちが正しいかについてけっこう真剣に検討しているフロントの人々にお礼を言って、僕は荷物を担いで急いで外に出た。なんかこういうの嬉しいねえ。沖縄に来た感じがビンビンするねえ。
那覇国際通りを南に下がりその行き止まりにある那覇バスターミナルに歩いて行く。10分もかからない。広い駐車場みたいなコンクリートの広場を囲んで2階建ての建物が昔の飛行場のように並ぶターミナルにつく。普通、こういう所にはメインインフォメーションがあって、僕のような旅行者のまず最初の相談に乗ってくれるものだと思っている(そのため、来てみたんですが)人にとって、ここはそういう常識は通用しない事を思い知らされる。たぶんメインエントランスに着いたのだと、僕は未だに思っているのだが、周りをウロウロしてみても、そこにはなんの表示も見つけられないのだった。せめてこのターミナルの配置図だけでもと思ったがそれもない。南の湿気った空気に表面にカビが生え、バスの排気ガスで薄黒く汚れたコンクリートの古く長い建物があって広いバスプールを挟んだ反対側にこれまた長い簡単な屋根のついたプラットホーム。建物の所々にドアがあり、その前に、那覇、沖縄、東海、琉球などのバス会社の名前の看板が出ているだけ。いやはや、東南アジアだねえ。金曜日なのに時間が早いせいか(後で聞いた所によると、那覇はすべてが12時から始まるという事だった)歩いている人もいない。こういう時はどうしたらいいのだろう。一番近くにあった、定期券定期バス券売り場と表示の出ている東海バスの小さなガラス窓をのぞいたら、お姉さんが中にいた。「すみません、コザに行きたいんですけど、どこで聞いたらいいでしょう。」お姉さんはややあわてたような感じで「ここは定期券売り場なので隣の那覇バスで聞いてちょうだい。」と言う。那覇以外の町に行くんだけど、那覇バスなんだ。アアそうか、仙台市営だって昔は岩沼まで来てたもんなあ、などと考えながら、お礼を言ってその窓口から左にだいぶはなれた所にある那覇バス会社と書かれた鉄サッシ波ガラスドアを開ける。けっこう重い。中は広い部屋だった。はいった所にカウンターがあって、そこで切符とか売ってるみたい。若いお姉さんがひとり。「あのう、コザにバスで行こうと思うんですけど、相談に乗ってもらえますか?」。おっと、この人日本語通じないのかな、という反応を彼女は見せた。一瞬、目が泳いだのだ。こういう時はどうしたらいいのだろう、再び。深呼吸をしてもう一度ユックリ言ってみようと思ったら、部屋の隅から何かがドッと走って来た。最初に聞いたあの小窓の中のお姉さんだった。同じ部屋だったのだ。広い部屋のあっちはじに小窓があって、こっちはじがカウンター。走って来て息を切らしながら言うには「コザに行くんだったら琉球バスに聞くといいよ」だった。いやあ、話の内容がだいぶ違ってるけど、僕がここまで歩いてくる間に思い出したんだね。もうこうなったらどこまでだって驚かずに行くぞと、心を決めて、外に出て琉球バスを探す。大体こういうときに限って、その会社は建物のずうっとはじっこにあるんだな。
メインの建物の本当にはじっこに琉球バスはあった。ドアを開けると、ここは男の人たちだけがいた。一番年配の人が用件を聞いてくれて、でも彼はよくわかんなくて、つなぎを来た若いお兄さんにコザ行きのバスを調べるように言ってくれる。「90番と23番!で、両方とも!8時35分発」であることがわかる。僕の腕時計は8時30分を少し超え始めていた。だから、ここで、90番!23番!、27/28はどこにいってしまったんだ!とか、両方とも同じ時刻発!とかに、いちいち動揺感動している暇はない。乗り場はさっき見た、反対側にかすんでいるプラットホームにあるという。何しろ那覇で琉球!バスに乗って、那覇でない!コザまで行くのだから、そんなに遠くはないと言ったって、仙台から古川ぐらいははなれているに違いないと思っている本土から来たなれない旅行者(僕のことね)は、バスに乗る前におしっこをしてとか、何か水分を買ってとか思うよね。しかしもう時刻は35分なのだった。こういう時のために、僕の時計はたいてい2分進んで表示してある。しかし、ここまで、このような状況で進んで来て、走っていってそのバスに乗るのは、正しくこの旅行の本質に合致するのだろうか。要するに、もうこうなったら、あんまり焦ってもしょうがないよねえの悟り状態に僕はなっていた。バスプールを横切るただ地面の上にペンキで線を引いた横断歩道を横切り、プラットホームの上にあった便所により(ちょっとホッとした)、その前にある自動販売機で小さいお茶を買い、さて、23番乗り場はどこかな。それまで、僕は、乗り場は番号順に並んでいるのだろうと思っていた。ならば、23番と90番はひどくはなれているだろう。仙台で言えば、23番は駅前のバスプールにあって、90番は電力ビルの前とかさ。で、同時刻発車だから、90番はこの際あきらめよう。那覇は違っていた。便所から出た所が23番で、その隣!が90番だったのだ。いやはや。23番は誰も何もいなかったが、90番のバスは既に来ていた。けっこう大型の観光バスのような車だった。ますます、遠くまで行くんだ、みたいな気分になる。さっそく乗り込んで空いていた一番前の、観光バスなら車掌さんが座るためのような独りがけの席に座る。昨晩悠記に言われていたので、運転手さんに「胡屋十字路通りますか」と聞く。彼は静かにうなずいた。おっと整理券をとるんだったね。やや時間が過ぎてバスは出発した。23番は誰も何も来ないままだった。こういうことをいちいち気にしていては、沖縄では話は先に進まない。いやはやとにかく僕はバスに乗ってコザをめざして出発した。沖縄いいねえ、ほんとに心からなんだかニコニコしてくる。
バスは普通の定期路線バスのように街角ごとに停留所に泊まりながら国際通りを抜け、郊外の国道330号線に出た。沖縄の郊外の変貌はもの凄い。那覇を出て以来、ずうっとニュータウンの団地とショッピングセンターが続く。この辺りで、僕の席の上に、停留所の名前が順番に書いてある表示に気付いた。幾つかの大きな停留所の間に二つか三つ程の名前が書いてある。まだ、凄く遠くまで行くと信じている僕は、この程度の停留所の数でコザに着くはずはないと思っていて、たぶんこの名前の間により小さい停留所がたくさんあるに違いないと思っていた。でも、注意していると、どうも書かれている名前の停留所にしか停まらないようなのだ。コザって結構近くなのかもしれない。そう思って表の前の方まで名前をチェックしてみると、胡屋十字路なんて停留所はない。でも胡屋という停留所の少し先にコザ十字路という名前があった。運転手さんは、胡屋とコザと聞き間違えたのではなかろうか。どうも、沖縄は、僕の中にある様々な定規を修正しながら考えないといけないようだ。でも、いざとなったら歩いてい行けばいいんだな、もう同じ島の中にいるのだし、荷物はリュックサック一つだし。いやあ面白くなって来ましたねえ。
ええと、ふと気付いたら今日は既に5日です。でも、やっと那覇をバスで出た所までしか書いていない。いっぺんここで止めよう。中身の濃い4日間はとにかく無事すぎて、僕は仙台に戻り、社会復帰して毎日元気に美術館に通う生活に戻った。昨日、お父さんのひとりごと2版の校正が上がって来た。なんだか、僕は波の上に不安定に振り落とされないように一生懸命乗っていて、足の下の波が僕を乗せて勝手にガンガン動いているような感じ。せめて、波がどっちに進むのか注意していようと思う。