2011年10月4 晴。乾いた空気。秋。


9月の末にやっと遅い夏休みが何日か連続で取れた。

僕は特に夕日に思い入れがあるわけではないし、センチメンタルだったりロマンティックであたりするわけではないと、自分では思っている。でも、最近の僕達の国の状況から始まる、地球全体に対する人間の在り様について、何か違和感を感じている自分が、何か宇宙全体を見渡す機会を探していた。
で、やっと機会ができたので、夕日を見に日本海に出かけた。ああ、もちろん本当は酒田大松屋でのおいしい昼飯と、家具を作っている若い友人の新潟県新発田市での個展を見るという名目はあった(そしてそのそれぞれは充分に満足でき楽しんだ)のだけれど。

夕方、海が見える6階の部屋の大きな窓から、長い間、海に沈む太陽を眺めた。

あの白く光る小さい玉が、僕らすべてのもと(元/基/素)なのだという想いが深くわいた。比べてみたが、沈む間際の太陽は、伸ばした手の先につまんだ10円玉よりはるかに小さいのだった。

あそこで今も起こっている原子の爆発から僕達のすべてが始まったのだ。始まって、ここまで来てしまったのだ。もう充分なのではないか。すべてのものやことが便利になった。便利になるということはどういうことだったのだろう。何がどうなると、どのように便利になるのだろう。ほとんどの便利はもう充分なのではないか。

もし、もっと便利にならなければいけないと人間が考えるのなら、もう地球は、人間がそこにいる必要がないくらい便利!になってしまった所まで来ているように、僕には思える。今の便利はそこまで来ているのではないか。

もし、人間が地球の上での便利を考える事ができるのなら、太陽がしていることは太陽に任せ、地球の上で生きる自分が、しなければいけないことをきちんとやればいいことに気付ける。そういう状態は不便というものではなく、普通というものではないか。普通以上を自分でやってしまう生き物を、地球は求めていないのではないか。

これは年寄りの意見に違いない。でも、年寄りはこういうことに気付けるので年寄りなのだ。たぶんどこかで教育が失敗したことに僕らは気付かなかったのだ。自分の今のコピーを作るのではなく、その時々に、人間として自分で考えることのできる人間を作るための教育こそ必要とされている/たのに。

反省するおじいさんの想いは深い。反省は後悔とは違うことを、これからの人間に見たい。