見るのは自分。

自分に見えないものは

世界には無いもの。

見えるものだけが在るもの。


2020年10月8日  寒い空気。小雨。


10月になると、何回か子供との活動が始まってくるので、時間が取れるうちにと、9月末に秋田の大湯環状列石を見に行った。縄文期の遺跡は、身近にも何箇所かあるが、青森の三内丸山遺跡を訪れた時の記憶は深く僕の意識に何かをもたらした。そうか東北に生まれたということはこういう自覚を感じるということだったのかというような。でもその時はなにか誇らしく暖かい感じであることは自覚できたが、そんなに明快なものではなかったと思う。


だいぶ経ってから機会があって北九州に行くことがあり、時間をとって吉野ヶ里遺跡に1日ブラブラといた。そこは堀と丸太を立てた城壁に囲まれた堅固なお城だった。戦うのが前提にあるやる気満々の村だった。

丸山三内で感じたものが何だったのかはっきりと心に出てきた。そうか、僕は縄文の人達から始まってここにいるのだなあというような。どこの遺跡でも、たいてい建物のような目に見えるものを作っている。縄文期なら竪穴住居という風に。


1980年代、ある事情で仙台から弘前まで125ccのモーターサイクルを運ぶということになり、僕がその仕事を引き受けた。その当時東北自動車道があったかどうか覚えていないが、 どちらにしろ、125cc では、ずうっと下道を行くしか無い。その車がラフロード仕様であったことをいいことに、僕は主に未舗装の道を選んで山沿いに弘前まで行ったと記憶している。特別にそこを見ようとしていたわけではなかったが、もうすぐ弘前につくというあたりの林の中の原っぱに、その平たい遺跡はこじんまりと突然あった。


今年の夏休み中に、今は大人数になった家族と一緒に丸山三内遺跡をもう一度 見に行こうと計画していたが、様々な理由が重なってできなかった。最近僕は、何回も書いている通り、近くの里山を巡り歩くのを喜びとしている。標高は低いが、戦国時代以来の名前の付いた峠をいくつも超えて4里5里と自動車の音が聞こえる雑木林の中を歩いていると、この道を踏み分け道にしてくれた人々がすぐ前の木の裏側を歩いているような気がしてきて面白い。物でなくそういう気配が「見られる」遺跡として、環状列石は最適ではないかと突然思ったのだ。今は、高速道が隅々まで走っているので、大湯環状列石は思ったよりすぐ目の前に現れた。


地図で確かめた時は、インターチェンジを降りてから細い山道のようなところを、ウロウロ探し回っていくのかと思っていたのだが、今は何も見ずに道路標識だけを頼りに行っても広い道を通って、施設のビジターセンター駐車場に着く。ううむ、この前来たのは、ほぼ40年ほど前だったのだ。今、ここは世界遺産になろうとしている。

天気がすごく良かったので、秋の青空のもと、広い原っぱに栗の林が点在し、その合間に、多くの石が丸く四角く敷き詰められ並べられている。見学する前に呆然としばらくウロウロする。ブラブラする。いやはや困ったもんだなあ。ここには見えるように周りを囲む堀はなく、丸太を隙間なく立て並べた防御塀も無い。ただぼんやりと呆然と原っぱがある。この風景の有り様が、僕たちの存在の基本なのではなかったのでは無いかという当たりを心に留めておきたい。



最近になって美術館教育をめぐって思うこと3

◽️図工から美術へ

だいぶ前に死んでしまった僕の母(大正15年生まれ)は、美術の抽象作品について、「勉強しないとわかんないものだ」と言っていた。テレビのクイズ番組でいい成績を取れるのが、勉強ができるということでは無い。


人間にしか気付けないことを一見無駄に見えても、真面目に深く考える時に使うために、僕たちは小さい頃から勉強をする。自分が知っていることしか見えないからだ。そこの当たりを知っていれば、多分問題無く人生は進んでいく(ように思う)。前半が図工を学ぶ理由で、後半が、美術を学ぶ理由だ。


見えているものを見えるように描いてみる。そうすることで、自分が見えているものは知っているものになることが確認できる。小さい頃に様々見える(見えない)物を見えるように描く練習をするのは大切だ。上手い人と下手な人は、何がどうなのでそうなのだろう。見えるものを上手く描くのは主に、(丁寧な)運動神経(の使い方)なのだが、見えるものやことを言葉にできるかも問われる。言葉は人によって違うということも含めて。そう考えて、まだ小さい人たちの描くものを見ると、その人の、そしてそれを見る人の見えている世界(世界観)が見えてくる。僕が知っている範囲では、これまで、グチャグチャと絵を描く人はいない。その時その人はそういう風に世界(自分の外側)を見ているのだ。

抽象的な事物について自覚しようがしまいが、歳をとるにつれて世の中は複雑になっていく。そういう世界が自覚できれば、描けるものは具体的な事物を超えて表現されていく。20世紀初頭に抽象画という描き方が発明されるまで、人間には抽象画はなかったのだということを自覚したい。近代がみんなに自覚されるまで、多分、僕たちに抽象画は必要なかったのだ。という物(世界)の味方。


そういう自覚で学校での図工美術の時間を点検してみると、なんだか無駄な時間を過ごしてきていなかったか点検したくなる。図工はまだいいとしても、美術はどうだろうか。

美術館は美術だけをする。図工はあるのか無いのか、点検するだけでも面白いはずだ。


始めた時は気づいていなかったように思うが、美術館に創作室というワークショップを作った時、僕は無意識にそういうことを、始めていたように思う。




 違和感の点検。

点検の深さ。

自覚すべき自己。


2020年 9月13日   多分秋の風。湿気の多い空気。


この前、思えばしばらくぶり(今年の夏はことのほか暑かった)で、亘理山元の潮風トレイルに行った。常磐線亘理駅で降り、亘理中裏から入って、閑居山夜討峠黒森山を経て、四方山まで。

10時に家を出て、岩沼駅から電車に乗り、亘理駅から歩いて里山に入り、3里ほど歩いて里に下り、浜吉田駅から電車で帰宅。四方山下、吉田の里に下りてからが遠い浜吉田駅に行く間に雨に降られたが、それも含めて基本的に快適な長い散歩。

このまま山下の深山までとも思ったが、左足薬指のマメが少し痛くなったのを理由に今日は帰ろう、にした。様々な発見があり、新たに歩きたい所も増えた。近場は本当に面白く深い。


最近になって美術館教育をめぐって思うこと 2

⬜︎違和感のあり方

今になると解るが、当時も今も、僕にとって「生きる」は、「美術家として生きる」ということで、雇われた仕事をいわゆる社会的な意味での仕事と理解できていなかった(今も)のではないかと思う。その当時僕の上司だった人たち(大学以来のT/Kさんや、その当時の責任者のS/Tさん等)が、いかに僕をフォロウしていてくれたかを理解するのは、ズウッと後になってからだ。


若い人からの質問で、制作者としての自分と美術館教育担当者としての自分は、どのように分けているのですかというものがあったが、今になって思えば、僕は特に考えていなかったのだろうと思う。その当時に書いたものの中にも、「作品を作るのと同じ!に、コンセプトを整理してシンプルにし、それに伴う活動は、できるだけダイレクトに」としたのを覚えている。これは、宮教大でしつこく叩き込まれた美術制作のコツだ。


僕の美術館での教育活動は、最初から(図工でなく)美術(制作)教育だったのだ。そうすると、それは、個人の確立を目指すから、目標は各個人に戻って、日本の学校的な意味での統一された目標ははっきり見えてこない。

その当時から日本の教育現場に現れてきたいわゆる「ワークショップ」は、僕にとってはニューヨークで僕の居たブルックリン美術館付属美術学校での授業そのままだったので、何の抵抗もなくそういうものだろうと思っていた。ちょうどその頃何回かヨーロッパやアメリカから、美術館教育や、ワークショップの専門家が来て、話を聞く機会があった。美術館教育の人たちと一緒にその話を聞いたのだが、その後の懇談会や、話し合いで、僕が感じたのは、違和感だった。

そこで、敏感な人なら気づくべきだったのだろう。そのころ、そういう会合で、「齋君は、最後に面倒臭い発言をして、まとまりかけた話を元に戻してしまってばかりいる」と言われることがあった。その問題はそんなに簡単に簡便に要領よく話せるものではないというあたりを、僕は話したかったのだろう(と今なら思う)。美術をめぐる話は、簡単に言えるものではない。そうであるなら作品なんか作らないで済む。という活動。