具体的であればあるほど
それは僕の話なので、
僕以外の人には、
役に立たない。

そういう話の中で、
私たちは社会を組み立てる。

2017年11月17日
薄曇り。無風の冷たい空気。

しばらく更新しない/できないでいた。最近作文の注文が幾つかあって、珍しく集中して物を考え、まとめた。そういう作業は、既に僕には慣れないことになっていて、時間がかかった。それらはどこかのパンフレットのような雑誌に載るのだが、少し書き足してこのブログにも残しておこうと思う。

一つは、そあとの庭の人たちの企画によって、仙台市内の児童館の人たちと僕がやっていることの実況中継(記録)だ。美術館でやっていた頃なら、美術館探検本物と呼ばれることになっただろう。美術をそこでその人たちと一緒に使うとはどういうことか、の具体的な展開記録だ。こういう動き方がワークショップというものだ。

おう、既に、僕の芸術的な表現はこういう形になりつつあるのかもしれないな。


さて、小さい人たちと様々な活動をやる時のコツは、きっちりと隙間なく計画を立てることではない。「何をするのか」の覚悟のようなものだけを単純明快に決めておくことだ。

例えば今回、仙台市内のある児童館の人達と、郊外にある古い神社の裏の森で「倒れるぞう!」をする。林の中にある、本物の檜の木をみんなで切り倒してみる! ね!面白そうでしょう? そこに来た人たちと「丁寧に」相談しながらそれを体験する。今回来る人は児童館に来ている小学1年生15人、2年生5人、3年生3人、4年生2人。職員4人。全体の割合はオスの方が多い。下草刈っていない林の中に入るのみんな初めて。僕が事前に知っているのはそのくらいだ。

まず最初に林の中に踏み分け道を作りながら、ゆっくり一回り。途中で、草の中でしゃがんでみたりしながら、(職員を含めた)その人たちの「普通の林の中での反応」を(僕が)観察する。それで、午前中の1時間半は終了し昼御飯。一緒に食べて、反応を見る。食後、切ることのできる木のある林に移動し、どれを切るか探す。本物は太くて大変だし、様々な理由から、(事前に、間伐材なら切ってもいいよと神主さんから許可をもらっている)時間中に切れそうな太さの木をみんなで(実は僕が)選ぶ。とはいえ、林の中にある木はどれを選んでも梢は見えないぐらい高い。みんなでよく見ながら、あそこ(梢)がここ(地面)まで倒れてくることを想像する。何人か(全員である必要はない)の女子!が、ここにいては危ないことに気づく。
4年生は、僕が木を切る手伝い。1年生は倒れる方向にロープを引っ張り、2年生も一緒に引っ張りながら1年生が倒れて来る木に踏み潰されないように見張る。3年生は4年生と2年生の連絡をする。という「(本格的)打ち合わせ」を林の中でする。この前はそこでちょっとふざける男子がいて僕に怒られ泣き出してしまったが、泣いても僕は真面目に怒り続け、本気にならないと死ぬぞと言い続ける。みんな本気になる。こうなれば人間の幼体はなんでもできる。多分本当はこれをしたかったのかな。泣いても、ふざけられないことはふざけられない、死ぬからね。
4年生を肩車して切り倒す木のできるだけ高いところにロープを結ぶ。これ(直径10センチほどの木に太いロープを回してきつく結ぶ)ができない4年生(男子。大抵、女子が代わりにしてくれる)が多くなってきているのが気にかかるが、なんとか結ぶ。ずうっと遠くで、1、2年生がロープを引き始める。3年生がまだ引かないように言う。僕が倒れる側に斧で切れ目を入れ、鋸で反対側を切り始める。お爺さん(僕のことね)はすぐに疲れて、4年生に交代。僕は少し離れて、全体の様子を見る。さっき怒られた人を見つけておく。何人も代わりながら、大人(職員)も混じって切り、1、2年生は引っ張り、倒す。最後のあたりはみんなで耳を澄ましメキメキときたら事前に決めておいた方向に飛び退いて逃げる。ね、面白そうでしょう?いや何回やっても、本当に毎回面白い。倒れた後はみんなで枝を切り落とし、何本かに切り分け、はしごを作って木登りをしたり、丸太を薄く切ってお土産を作ったりしていると帰る時間が来る。もちろん誰もやめないが、最近はすぐに林の中が薄暗くなってくるので、熊が出る前に帰ることにする(と言ってやめる、大人の都合では止め(られ)ない。

唯一決まっているのは、木を切ること。あとはそこをみんなで目指して、その時必要な作業を様々組み立てていく。ある目標を皆んなで力を合わせて履行するが、決められた成就を目指すのではないということを、リーダーが深く自覚していればいい。単純明快な目標だけを決め、細かい計画は立てず、成就を/は目指さず、経過を重視し楽しむ自覚と覚悟。

見た目は学校の授業とほとんど同じだが、関わる子供達の目は、始める前と後では全く違ってくる。その目がみんな違った目になることに大人が気付けるといいのだが。



僕は僕。

初めから、ずうっと最後まで。

これだけはどうしようもない。
人はもともとすごく寂しいのだ。

2017年  9月 18日    
台風一過の快晴。
暖かい乾いた強い風。 

ここのところしばらく、他の人とこちらから積極的に関わるのを意識的にほっておいている。
しばらく前に、岩沼に自主的なデッサンクロッキーの会があるのを知って、今、僕は「そこにある見えるもの」を「本当に見たい」のかの確認に出かけてみたことがあるのだが、普通そこにある「ものを見る」という練習は、あまり一般的ではないようで、僕には結構面白かったのだが、一緒にやる人たちとはあんまり打ち解けなかった。みんなの中でやるためにはみんなとある程度は話し合わなくてはいけないわけで、そういうのを面倒臭がっている自分にちょっとびっくりした。僕は仕事として「美術の教育普及」をしてきていたのだな。結構好きだと思っていたのだが、。ああそれで、僕は、早く退職生活に入りたかったのかな。

ここのところしばらく、日常の報告をしていなかったのだが、何もせずぼやっと過ごしていたわけでは(残念ながら)なく、結構な頻度で、誰か他の人がプロデュースした子供との活動にかり出されていた。そうすると最近は、実際に今から活動が始まる、または始まっている時に、様々な、思いもかけないことが起こってくる。あれをしてはいけない、これをしてくれ、これをああしてそれをこうして、というような大人の都合(そうではないという理由も含めて)の申し入れ。
小さい人たちと一緒に、あることを、そのためにこうする、ということは打ち合わせ済みなのに。そして、もうその人たちとしっかり逢っているというのに。全体的にはうまくいってはいるのだが、ちょっと、何だろう、うんざり。いったい僕たちは、どちらの方向を、誰と、何のために、見て?いる?のか。
ほとんどの小さい人たちとの活動は、大人がそうしたいことをそうさせる作業ではない。そういう大人の思いを(たいてい)常に超える?ので小さい人たちとの活動は、大人にとっても面白い作業になるのだ。しばらく書いていないと、自分でも何だか重い文になってしまうような気がして嫌だが、しょうがない。

最近はほぼ毎週土曜日に仙台市坪沼八幡神社辺りに出かけて、市内の児童館の人たち一回30名ぐらいと1日遊んでいる。ここでは、本当に「(木が)倒れるぞう」ができるので嬉しい。そうすると、僕の小さい人たちとの付き合い方が、普段彼らと付き合っている館の指導員の人たちと大きく違っていて、かつ、小さい人たちは、みんな僕の話の方を一生懸命聞く、または、全く気にしないでうまく動いてくれるので、指導している大人の人たちが困る。で、その人たちに研修をしてくれないかと声がかかることになる。
合間を縫って、岩沼の家に友達が家族で遊びに来る。ちょうど良い時期が重なって、歯医者さんから点検の時期ですよという連絡ハガキが届いたので予約を取りに行く。東京に行ってしまった若い友人から、仙台に置いてある僕が譲った古いマウンテンバイク(ゲーリーフィッシャーのCR-7)が、動かなくなったようなので見てもらえないかという連絡が入る。1日目歩いて軽く見に行って撃沈。2日目バイクに少し工具を持って行ってほぼ動くようになるも完成せず。3日目車に工具を山盛り積んでいって完成。自転車修理は今の僕にとって美術制作だ。そこにあるそれでしかないもの。

というようなことを、仕事を辞めてから変えた小さい手帳に書き込むと、9月のページは真っ赤(僕は大切な予定を赤いペンで書き込む)になってしまう。

なぜか秋分の日あたりだけがすっぽり空いていた。その日スポーツランドSUGOで全日本スーパーフォーミュラが開催されるようなので見に行こうと思って調べたら1日6500円+駐車料金だったので年金生活者としてはややびびって、静かにこの文章を書いているという次第。体力が落ちていくなあ。







私がここにこうして居る。

そのこと自体が、
大変なことなのだ、
という自覚。

嬉しい。



2017年 6月24日      
 高曇。 底冷えを感じる暖かい空気。

山形寒河江の親戚から届いた一箱の桜んぼうへのお礼のハガキを今出してきた。毎年この時期になると美味しいさくらんぼが届くのだが、同時にこの時期僕は何やかにや活動が重なってきて、家にいる時間が不規則になる。明美さんがいるときも同じだったのだが、今年は、彼女が確実にいなくなってしまったので、親戚は僕がいる時間を確認してきた。彼女がいるときも、明美さんは昼寝ていることが多くて、状況は同じようなものだったのだが(僕が帰ってきてから宅急便に電話して、再配達してもらった)、今年は、確実に僕しかいないので、彼らは時間を聞いてきた。しみじみ、昼に寝ている彼女のことを考えた。今、彼女が寝ていた場所で、僕がこの文を書いている。

この1ヶ月、毎日何やかにや仕事をしている。自分がしたいことは少しで、あとは頼まれ仕事、美術館にいた時から引きずっている様々な活動など。公務員の仕事が身についてしまっているので、なかなか謝金を取る/もらう間合いがわからない。本当のボランティア。間違うと命を失う志願兵。ううむ、それでいいか。

美術館の事務方から、失業保険をもらうための書類が一袋届いた。次の仕事を滞りなく探し、採用されるための手続きに必要な様々な書類。僕は、相当貧乏になったとしても、もう誰かに雇われて継続的な雇われ仕事をする気にはなれないので、仕事探しの書類はほっておいて、早くゴミ箱に捨てようと思っていた。若い友人が遊びに来た時、この捨てようとしていた書類のことを話したら、あなたは長い間公務員で給料から様々天引きをされていたはずだから、そのままほっておいてはいけないと言われた。非常勤で食いつないでいる彼らに言われると、僕は少し萎縮する。ううむ、僕は本当に社会性?がないんだなあ。
書類をよく読み、様々書き込み、写真と書類を用意し、なんと面倒臭いんだろうと嘆きながら、朝一で仙台駅東口のハローワークに行った。みんなに聞くとすごく待つというので、8時半少し前に着くように行ったのだ。3人くらいの人が既にいた。ガードマンの人が大変丁寧だった。職員の人たちもみんな丁寧だった。でも、僕はもうこれ以上働く気はないのですということを伝えた。もう充分働いた。1週間後にもう一度来なさいと言われ行くと、すぐに呼ばれて、これが最終振り込みですという金額の入ったヒラヒラの小さい書類を渡され、終了。形式的にでも仕事を探しているんですという素振りをするのだそうだが、もういいよ。で、終了。なんていう活動。

僕の甥は、もう高校生で、陸上競技をやっている。中距離走。いい機会なので、ものすごくしばらくぶりに高校総体の県南予選と、県総体を見に行った。宮城野原の仙台市競技場と、利府の県競技場。様々な仕組みが良く分かっていない(僕が知っているのは今から45年も!前のやり方)ので、宮城野原には8時に入って、1日炎天下の芝生に寝転んで、高校生が準備し、走り回り、飛び、跳ね、投げ、それを見たり応援するのを、つぶさに望遠鏡で見ていた。不審者だな。でもつかまらなかった。その代わり、ひどい日焼け。ほぼ全ての高校が共学になっているのは、なんだか慣れない。皆んななんだか仲良しに見える。高校生ってあんなに仲良しなの? 競歩があるのが慣れない。面白いけど。ゴールテープがないのが嫌だ。テープ切んないと、勝った気しないんじゃないの? とかなんとか、嫌いだと言いつつ1日見ていた。全く飽きず、気がついたら最後まで見ていたのだった。見るのが僕の仕事になっていたのだなあとしみじみ思う。他人が一生懸命運動しているのをきちんと見る楽しみ。

僕の甥の彼は3年生で、800メートルを良い成績で県大会に進んだので、利府も見に行った。県大会はさすがに全県下からくるので大きく、2日間行った。同じように面白かったが、全県になると数少ない女子校からの選手が出てくる。共学校の女子と女子校の女子との違いが、面白かった。付き合い始めたばかりの頃の白百合女子高の明美さんを見るような白百合の選手が後ろの方を一生懸命走っているのを見て、少し涙が出たりするのが嬉しかった。それから各校の若い先輩連中が見にくる。親だけでなく、僕のような年取った先輩連中も見にくる。そういう人たちを見るのも面白かった。みんな元気そうで格好いい人たちだった。僕はどうか。やや反省。本当は電車とバスを使って、利府の競技場まで見に行きたかったのだが、甥の親(僕の弟)が、それは無理だというので彼らの車で行った。行って確認したが、無理ではないが、すごく大変なのは本当だった。本数も足りない。県や市や大会本部はもっと公共交通機関であそこに行きやすいようにするべきではないかと思う。アメリカが、パリ協定から離脱するかどうかということより、こういうことをきちんとして、皆んな自動車を使わないで行けますよとアナウンスすることのほうが大切だと思うがなあ。

僕の下の娘の家族は、調布に住んでいる。3人子供がいて下の男の子は、青空保育園という大きい公園で保育をするグループに通っている。前からそこを見に行きたいと思っていたのが、6月の初めに実現した。前の日に三鷹のジブリ美術館に行って、その次の日保育活動を見た。ジブリは興味深かったが、アニメを実物にするのは、イメージが固定されてしまうという、アニメ最大のやばいところを固定してしまうので、僕のようなおじいさんにはあんまり面白くなかった。僕が彼らの作ったアニメの世界から受けたイメージの方が、常に、そこにある固定された映像よりリアルだということを気付かされただけだった。次の日1日、自由に広い公園で遊びまわる子供達と一緒にいた方が、はるかにリアルについて考えることができた、ように思う。


あれ? 結構好きにやってるなあと、ここまで書いてきて思っている。こういう生活の合間を縫って、そあとの庭でやっていた児童館の人たちとの活動や、山形の保育所の人たちとの美術館探検、視覚障害の人たちとの美術探検などが入ってきた。好き嫌いとは別に、一つの活動をすると、その後2日くらい回復にかかるようになってきたので、時間が過ぎるのが早いのかなあ。on,off両方の自転車に乗り、モーターサイクルを動かし、2VCに触り、散歩をし、いやはや、何をしてるんだろう、ああそうだ、鶴岡まで、新作日本刀展を見に行ったし。結構良い毎日を僕は過ごしているということか。


誤解、深読み、思い込み。

面白い毎日は、
こういう風にしてできていく。





2017年 5月20日
快晴。乾いた熱い空気。

この前、ラスコー展を見てきて以来、大地の子エイラを再び読み始めてしまった。普段は忘れているが、読み始めると、次の文章が浮かんできて、僕はほぼ暗記するくらいこの本を読んでいるんだなとわかってくる。僕が、こうしてここにいることが出来る、これまでの人間の遺伝子的な歴史が、一気に普段ぼんやりと生きている自分を、襲って、否、揺すってくる感じ。

昨日、気になっていた様々なことが、一応今日まで出来ることは一段落したので、今日こそはと、丸森耕野の「スローバブックス」発見にクロスカブに乗って出かけた。これまで何回か出かけて、見つからなかったのだ。今回は、電話で連絡もとり、すごく小さいとはいえ、メールで、地図も送ってもらい、快晴のもと出発。

途中は省くが、今回もやっぱり一回ではうまくいかず、だいぶ山奥に入ってから、諦めて直接電話して、最後の修正をしてもらって、難なく?到着。あのあたりの脇道は大抵個人の家への入り口なので、ご迷惑をかけてしまうのだ。スローバは、極私立図書館と、古本屋が一緒になったような店で、昔は蚕飼ってましたという古い木の家を少し改造して感じのいい夫婦が住んでいる。
まず、ざっと本を見せてもらったが、方向は物語の本が若干少ないのをのぞけば、僕の蔵書とほとんど同じような内容。
なので、珈琲をいっぱいもらって、持って行ったエイラの本を、広縁に座布団を敷いて読みふけった。いやはや。昼少し前だったので、お昼一緒にどうですかと誘われたのは覚えているが、なんて答えたんだか思い出せないくらい集中して読み続けた。全く静かで、良い空気が流れ、自分がここにいることを忘れるくらいいい時間が過ぎていく。どこか遠くで、彼らがお話している声が聞こえる。初め座って読んでいたのは覚えているが、気付いたら縁側に座布団を敷いて、寝そべって読んでいた。いやはや。帰りに古本を2冊買った。仙台より、安い感じがした。そんなことはないのかな。


日が傾く前に帰ってきた。いい1日だった。そこに住むのではなく、そこに行きたいところにこういう風なところを知っていることが僕の財産なんだなあと、心から思える1日だった。あ、そういえばしばらく青根の木村さんちに行ってなかったなと今思い出した。この次は青根の沢で水遊びだ。


そこにあるものは
絶えず変化していく。

だから、
両方から考えるを意識する。


2017年 4月29日  
乾いた暖かい空気。風弱く晴れ。

昨日、多賀城の歴史博物館に、ラスコー展を見に行った。シニアの入場料で買ったチケットを見ると、本来の名称は「ザ ケイヴ ペインティング オブ ジ アイス エイジ」。ジーン アウル 著「大地の子 エイラ」の愛読者としては、本来の名称の方がより見える世界が広がると思うのだが、日本名は「世界遺産ラスコー展 クロマニョン人が残した洞窟壁画」。ううむ。

名前がそう着くと、そこにある全体も、その名前を補強するがのごとくになってしまう。展示物の間にある解説。展示物を理解させるための様々な道具が目ざす方向。展示物の間にいて話しかけてくる解説係の人たち。それらが、一斉に向かっている方向。僕たちの国では、本当はなんていう名前なんだろうと確認する人すらあまりいない。この展覧会も、本当の名前で言いたかったことと、日本の誰かがつけた名前の間のズレが、僕には残念だった。

あのさあ、この絵が描かれるより前、世界には絵画という表現はなかったんだぜ! 描いてあるということ自体!が、見るべきところ!  世界中の人間の中で、当時としては相当優秀なその人が、今の僕たちの3歳ぐらいの意識だった時代。やってる本人は全く気付かないままに「意識するという自覚」の全てが始まった時代。

目に見えているものを描いてみるという意識。上手い!とか凄い!とか言う前に、そもそも見ているものを見えるものにしてしまおうという意識。意識的に描くのは地球上では今の所我々だけで、描くことで意識され、そのことによって広がり確定された我々の世界観は、ついに、今のここまで来てしまった。その最初のところは、こんな風だったのだというのをこそ、今だからこそ、見たい。

もう1日経って、今日は終日、パレオを着てぼんやりと過ごしていたのだが、それでも、書き始めると、とりとめなく興奮してくる。
ものを見る時に我を忘れず、知らずに見せられている時には誰かが見たものを見ているのだということを意識できるように生きていきたい。まず、この両方とも普段全くできていないことを自覚したい。

ついこの前、美術鑑賞をめぐるテレヴィジョンの収録があって呼び出され、しばらくぶりで美術館に行った。その内容はとても大切なもので、僕など、ううむ、報道はもうここまできたのかと、感心するばかりだった。ただ、良い番組であればあるほど、そこに見える映像は、その番組のディレクターの「作品」なわけで、そこに写っているものはすべて、(美術作品風に言えば)ディレクターによって計算されそこにそう置かれたた絵の具。僕も、そこにそうあるかのごとくにいる一捻りされた絵の具としてそこにいた。公務員から足を洗ってまだ1ヶ月も経っていないのに、僕にはすごくいずかった。私は、まだ、ものを見たいのか? 意識的な見る作業を。まず体操だな。




一人で何もしないでいる
こんなに贅沢なことはない。

沖縄の鰹節を
これから削ろうと思う。



2017年 4月15日    
 暖かい空気。雲の多い晴れ。

昨日、これまでは仙台の駅前西駐輪場に置いてあった自転車、キャノンデールバッドボーイを岩沼に持ってきた。バッドボーイはもともと持っていた街乗り用の小さい車輪のフーリガンというバイクの代わりにしていたもので、普通の26インチサイズ。
街乗り用だったから、ママチャリと同じにシングルギヤ。今度は岩沼を中心に舗装路を乗り回すつもりなので、北仙台の二輪工房佐藤で、ディレーラー(変速機)をつけて外装多段ギヤにしてもらおうと見てもらったら、それ用の穴が開いてなくて、様々相談の上、内装変速機をつけてもらった。内装11段変速。内装変速機は、鉄の塊だから、やたら重いのが致命的な欠点だ。自転車は、エンジンが自分だから、1グラムでも軽いのが大切なのはわかった上で、しかし、今まで見たことないほど格好いいので、変えた。もちろん、途中で試乗した時、僕が思っていたより、圧倒的に軽快だったのもあったのだが。
玄関を入った、ペレットストーブの向かいにサイクルスタンドを立てて、これまで持っていたイエティのマウンテンバイクと2台、上下にしまって(飾って)おけるようにした。あとは、乗って体を鍛えるだけ。


4月から、僕は毎日が日曜日になったはずなのだが、まだ何やかにやあって毎日忙しく過ぎていく。明美さんのこともあるし。彼女がいなくなって、毎日の動きは、少し変わった。生活の全てがこれまでより小さく少なくなった。なのに、これまでと同じように作り消費してしまう。その変化の練習の期間なんだなあと思う。食べるものって、ほんの少しでいいのだ。これまでは、活動が十分にできるようにエネルギーを補充していた。もうそんなにエネルギーは消費しない。少しお腹が空いているくらいで十分生きていける。洗濯や掃除も、毎日やるのは様々な部分が夫無駄使いになる。とはいえ、小汚くはなりたくない。少しずつ丁寧に点検しながらやりたいことからやっていこう。

自分で考えて、自分で決める。

そういう風にして、喪に服す。

自分で決めたのだから、
色々言われてもしょうがない。


2017年 3月14日    
冷たい雨、朝から。気温は春。

大学の後期の授業を一つ、火曜日の朝に僕は持っている。1月24日はその火曜日だった。9時からの授業に間に合うためには朝5時に起き、7時に家を出る。5時に起きて2階のキッチンに行くと、風呂場の扉が閉まったままになていた。そういえば、毎日の小遣いと薬をいつもと同じに明美さんの部屋に届けた時、彼女は部屋にいなかったなあと思いながら、「僕はもう行くよ」と声をかけたが、何の物音もしないので、ちょっと風呂場の扉を開けて中を覗いてみた。

風呂桶の中に彼女は裸のまま横になっていた。まるで、風呂に入ったまま寝ているように見えた。あ、そのまま寝てたら、溺れてしまうよ、と頭を起こそうと動かしたら、びくともしなかった。頭だけでなく、体全体が一つの塊になっているように感じた。これは僕一人ではどうにもならないと瞬時に心から思えた。どうにかしなければいけない、まず救急車とすぐに思ったけれど、こういう時に限って、携帯電話は1回の僕の寝室に置いてあったりする。階段で転ばないようにと意識しながら寝室に降りて、消防署に電話しながら階段を上る。まず救急車をお願いした。電話した途端、まるでそこまで来ていたかのようにすぐ救急車のサイレンが聞こえ家の前で止まった。ように、僕には思えた。

彼女を風呂桶から出すのに、救急車の運転の人も来てもらって、たいそうな力仕事になった。この後の検視で、彼女は前日23日の午後10時頃死んだのではないかとわかった。約7時間経った死後硬直は、ほぼ固まった一かたまりの粘土のように硬い。こういう風になった人は、救急車の搬送の範囲を超えるので、お巡りさんが来た。不審死なので警察が確認することになる。6時過ぎに警察の検死官のお医者さんが来て様々医学的な検査をし、解剖はしないと僕が決めたので、齋明美さんの死亡は2017年1月24日午前7時頃確定された。僕はまだパジャマのままだった。

こういう風にして彼女は死んでしまった。1月26日に火葬し、今は骨になっている。

もう1ヶ月をはるかに超えているのに、彼女が死んだことを巡る様々な手続きが、いまだに続いている。形式的な葬式をしなかったし、お知らせはごく内輪だけにしたので、かえって、新たに知った人が、ぽちぽちといつまでも線香をあげにくる。僕の感じでは、むしろその空いた時間をぬって、確定申告をし、沖縄の大学に博物館教育の集中講義をしに行き、3月いっぱいは公務員の仕事に出勤し、その他のNPO関係の活動をし、4月からの年金生活になった時のための自転車の整備をし、テント類の整備点検をし、でも、全体的に体力が落ちてきているので、腰や膝の補強に気を配り、明美さんがいた時と変わらないはずなのに、やっぱり増えたように思う家事を自分でし、弁当を作る。なかなか前のように自分の時間が取れなくなったなあと思うことで、じわりと彼女がいなくなったのだということを感じる。まだ、あの時のドサクサが強く続いていて、なかなか涙が出てこないのが少し悲しい。





自分であるということは、
誰とも似ていない
ということだ。

誰とも似ていない
ということは、
日本では普通、
変な人だと言われる
ということだ。


2017年 1月  6日      
いい白い雲の浮かぶ晴。乾いたすっきり冷たい空気。

今年度は夏にメインテナンス休館をしているので、宮城県美術館は1月は5日でお休み終了。でも僕は今日は休んで家にいる。今年1日は起きたらすでに社会人対抗駅伝のテレビが始まっていて、そこから簡単に餅を食いながら1日テレビ観戦。2日は箱根駅伝。朝早く起きたのに、パジャマのまま1日観戦。3日も朝から駅伝。昨日の反省?からきちんと着替えをして洗濯などもし、きちんと観戦。例年の通り、駅伝終了後、続けてライスボウル。夜風呂に入った時に体重を測ったら、予定通り?2キロ体重が増えていた。なので、昨日は昼前からいつもの里山に長い散歩に出た。

家から歩いて出て、線路の西に広がる田んぼの中の道を突っ切り山裾を南に廻って、大日堂裏から昔のゴミ焼き場への道を登り、尾根に着く前に舗装路から山道に曲がり旧道を尾根道に。深山山頂で一休みしたのち、道沿いにグリーンピア蔵王展望台まで出る。そこからぐるっと幾つかの展望台を回って、下山。ちょうど巡回バスが来たのだが、思ったより体調精神共に快調だったので、そのまま家まで歩いて帰る。書くと結構歩いたように思えるが、多分数キロ。でも気持ちよかった。今日も思ったより筋肉痛もない。準備/整理体操、というより柔軟体操を常に普通にやるようにしようと思う。

休みに入って、片岡義男の「言葉をめぐる本」をまた読み直している。自立した個人でいるということを日本語で行う自覚の覚悟を忘れないようにしなくては。またはそうしている自分の変化を受容できる自分を見つめる力を自覚するか。