2010年 10月15日  厚い雲の一日。暑くなく寒くなく過ぎる。


昨日の木曜日が三回目の1週間だったから、胞夫さんが死んで22日が過ぎた。人が死ぬと、その後始末はまだまだ終わらない。今日も今まで、登記と貯金の解約との手続きの、書類書き、書類確認集め、ハンコ押し、その全体の点検なんかをしていた。これらの書類を郵送してそれが全部大丈夫ですよとなって次の手続きが始まるらしい。ゆるゆる、しかし素早くやって行くしかない。
胞夫さんの遺品を整理していると、遺品以外の家の様々な物者の整理もだいぶあるなあという事に気付く。途中からそっちが始まってしまって、本来の仕事がいつまでも終わらない。出来るだけ早く両親の物は象徴的なレベルに整理してしまって、自分の生活の形をもう一度点検する活動を始めたい。大変広い意味と深さで、僕の両親の好みは僕の生活の形に影響を与えていて(当たり前だけれど)さて、彼らがすっかりいなくなった今、僕は何をどう決める人になるのか興味津々だ。何か変わると良いなあ。

201010月 2日  快晴。乾いた涼しい空気。日差し強し。


まだしなくてはいけない事務的な作業が結構残っている。でも、今日はもう週末で市役所などの公共機関や銀行なんかは動いていない。ここいらで、胞夫さんが死んだ事を巡って体験できた出来事をまとめておこうと思う。

母親の栄子さんが脳内出血で死んで7年が経っている。9月24日金曜日、僕が病院に着いた時、看護婦(あえて師ではなく)さん達が死んでいる胞夫さんの身体を拭いてくれていた。その間に、廊下で弟と打ち合わせをして、彼女が死んだ時とほぼ同じような葬式にする事を決める。
栄子さんの時にもお願いした、町内のO友葬儀社に電話し、遺体を家に運んでもらう。僕の家は、畳のない家なので、若干右往左往があったけれど、素早く胞夫さんのベッドを解体し、床に布団を敷いて安置。用意した布団から足が出る。おお、お父さんって背高かったんだったなあ。子供の頃駅に傘を持って迎えに行った時、遠くからすぐ見つけられたなあ、なんて事を思う。ここからは葬儀社が様々具体的に動いてくれて、僕の気持ちをどんどん現実から離して行ってくれる。ありがたい。弟達が来たり、近くに住む、極近い親戚の人たちが来る。それからここが岩沼のいい所だが、町内会の隣組の人たちからの枕元に飾るための花が届く。喪主である僕はなんだか現実感がない。葬儀社の人に言われてお寺に電話したのは午後8時過ぎだったろうか、何か用事があったらしく誰も出ず、留守番電話を経て話がついたのは10時頃だった。今日は遅いので明日朝相談に行く事になる。

25日の朝一番でお寺に行きお坊さんと相談、その席から火葬場などに電話をしたり、何やかにやで、27日午後お葬式が決まる。死んで3日目の26日は友引なのだそうだ。僕としては月曜の方が美術館休みなので都合がいいというような事を思う。でも、だから普通の人は来づらいだろうなあと、少し思う。そこから逆算して26日2時に火葬、という事は26日1時から枕経と言う最後のお別れをしてその日の夜6時から通夜、というような事が決まる。午後から納棺。今回は栄子さんの時にはいなかった納棺師という人が来てほとんどパフォーマンスとよべるようなイベントを見せてくれた。お棺に納まって静かに寝ているかのような彼の顔は、まるで僕にそっくりで、でも、こんなに安らかな感じじゃまだないな、とやや反省。夜が更けてからすぐ下の弟が来てお別れの尺八を三曲吹く。涙は出ないけれど静かに沁みとおる音色が、深く自分の心深くを解放してくれる。ありがたい。

26日火葬。通夜。何しろ、今日は竹駒神社の秋祭りの日で朝から花火が上がり、山車の囃子が、町中に満ちている。そういうわけで弟達をはじめとする親戚は、子供達を含め何やかにや仕事や行事。隣組の人達の手を借りて様々なお供え物を火葬場に運ぶ。出棺の時に家の前の道を神輿と山車が通り過ぎる。なんか良いなあ、こういう出方。火葬場で、火が入っている間ずうっと外にいて空を観ていた。やたらな青空。遠くにお囃子の音。

27日深い曇。11時にバスが迎えに来てお骨や写真や位牌を持ってお寺に行く。もうこの時点では、位牌がその人になっている。美術館から普及部のみんなが来ていた。栄子さんのとき、僕は告別式のお礼の言葉で号泣したのだけれど、胞夫さんの時は泣かずに話せた。親が死んで、感じ考える事は、母親でも父親でも、そんなに違うものではない。でも、悲しさは違うように思う。お母さんの時はなんだか凄く悲しかったけれど、お父さんの時は悲しいというより納得に近い感じだ。とにかく僕は泣かずに彼の死を見続け、葬式を終えた。そしてここまでは、実は一番簡単な部分だったのだ。