2010年 5月25日  雨。強く弱く朝から執拗に。薄寒。

胞夫さんが再びモノを食わなくなった。水も飲まないので、脱水症状になり一気に動きが鈍くなる。そうすると、僕の携帯に施設の看護士の人から連絡が入る。何か食べさえすれば、基本的な体力はあるので、元気に生活が出来るのだから、胃瘻(いろう)を着けましょうと言う。胃に着ける瘻管。身体の外から前もって手術で胃に管を通しておく。食べられなくなったらそこから水や流動食を流し込む。さあてなあ。ここしばらく考えていた。


まず第一段階は、行きつけの病院の看護婦さんに出張して来てもらって、点滴で結構多量の生理食塩水を補給してもらった。一気に顔に赤みがさし会話も始まり、さっきまで死にそうに見えた人とは別人になる。水は凄い。簡単なものだが食事もするようになった。しばらくこれでもった。

その胞夫さんの小康状態の合間をぬって、5月11日から16日、僕は長女の齋悠記との親子展である「さいさいてん」を仙台市内の画廊で行った事は前に書いた。様々な問題を勘案してここだけが空いていたのだ。ということは9日搬入展示から17日搬出後始末まで、何やかにや気ぜわしく過ごしたということだ。


一方今週の木曜日から1週間程、僕は昨年末の心筋梗塞ステント挿入手術6ヶ月経過状況検査のため入院することになっていた。そういう状況があることは胞夫さんの施設の人には伝えておいた。

今回来た新たな電話は、いよいよ胞夫さんの血管は様々な問題が重なって来て、点滴が出来なくなって来たというものだった。僕が入院する前になんとか方向を見つけたいと言う。最終的に胃瘻を着けることに決定。様々な手続きや付き添いは、今回初めて弟達に回してみる。なんとか動きそうだ。まずやってみなければ次は始まらない。そうすることで元気になるならそちらに行ってみようとは思う。彼本人はどう考えているのかはわからない。そういうことを話さない人だった。おっかながりだったのだろうと思う。

ただ僕はそうしないようにみんなに言っておくかあるいはアルツハイマーになったりするかもしれないから、何かに書き付けておこうと思う。


今の胞夫さんのようになったら、僕は静かに死にたい。身体にはパイプを着けないこと。


こういうときは様々なことが次々に起こることになっていて、明美さんの主治医から電話があって、最近薬をとりにこないけれど大丈夫か?ううむ、ある事情で、最近凄く大丈夫なのだ。昨日、二人で雨の中、長い間お世話になった精神科の病院に行って、僕らは今のままで充分満足していることを話し、正式に精神安定剤中止。美術館の活動も連休が明けて様々重なって忙しくなり始め、良く言えば充実した毎日が忙しく過ぎている。本当の所ちょっと休みたいな。あ、一週間入院するんだった。早く入院しよう。

2010年 5月18日  朝は薄い雲のある快晴。風涼やか。

先週展覧会。「さいさいてん」。上の娘と親子展。毎回,彼女は作家として充実してきていて,ややたじたじ気味に出品。ま,年齢的に当然だと,自主的に納得。昨日の月曜日は,絵を買ってくれた人の家にそれを運んでいったりして過ぎる。実質的には昨日で終了。ずうっと天気がよくて良かった。


一方,しばらく連絡がなくて安心していた胞夫さんが,再び食べなくなってきたとの連絡。施設の人はなんとかすぐに胃瘻を付けたいと思っているようなのだが,さてどうしようかなあ。しばらく悩みそうだ。また「2CVの車検が迫りましたよ」という連絡が来たと同時に「2CVチャールストンが出たけどいらない?」という連絡。僕としては車体だけなら欲しいんだけどと話したら,相談に乗ると言うでは有りませんか。これも様々な決断を素早くしなければいけない。


一見まったく違う事のように思えるが,僕個人としてはほぼ同じ状況に思える。両方ともしばらく放っておけば自然に何とかなるというモノではない。最近書いているように「神をも恐れず,自分で決める」を自然にしなければいけない状況。歳を取って様々な事の仕組みがわかってくると,こういう事は実に大変だ。でも,あまり先を考えすぎず,その時その場所での想いを大切に,様々決断をしようと思う。

2010年 5月 5日  乾いた快晴。夏は来ぬ。

しばらく書かないでいるうちにもう5月5日だ。気持ちのいい事があったので書いておきたい。

さる2日、トコトン(仙台市内図工系小学校教員自主研修実践団体)の人たちとの今年度最初のノッツオ。ノッツオは「野走」で,仙台弁で適当でいい加減な力の抜けた状況の物やコトのこと。「ノッツオをこく」というふうに使う。今回は「仙南こんなんでいいの?散歩」をこいてきた。何の事はない,いつもここで書いている亘理山元空間野外博物館の幾つかのスポットをみんなでゆっくり歩いたというだけの事なのだが,みんなで行ったのにまったく疲れなかったという、夢のような気持ちのいい一日だった。


まず基本的にお日様は機嫌良く一日中照り,乾いたそよ風が絶えず吹き渡り,鳥は鳴き、花咲き乱れ,遠くに潮騒の音が通奏低音で聞こえ、人にはほとんど会わずに未舗装の道の真ん中を広がって歩き,でも会う人たちはみんな「こんにちは」と素朴なアクセントの挨拶を交わし,少しでも気になる物やコトがあると立ち止まり,見て聞いて嗅いで感じ、怒られそうな事はとにかくやってみて見つからず,幾つかある公衆便所は汚れていず,昼飯はちょうどおなかがすいてきた頃にうまいピザ屋が有り,そこのパスタとピザとアイスクリームがこれまた結構うまく,こんなにカロリー取っちゃっていいのかと思っても大丈夫なくらい歩き回ってるし、人の家を覗き込めば,みんな美しい花やすごい立ち木のある庭や面白いウインドディスプレーを見る事ができ,ものすごく古い木に挨拶する事ができ、ついでに樹齢600年700年というそれらの木の幾つかにはベタベタ触ったり乗っかったりでき,もうこれでお腹いっぱいとなってから新鮮で安い野菜をお土産に買い、最後にポラーノ(近所の私設公民館的カフェ)でお茶飲みながらまとめのお話ができたという、今になってあらためて書いてみるとちょっと恥ずかしくなるくらいの、ゆるゆるポワポワの時間を持つ事ができた。いやはや、みんな普段の行いが抜群にいい人たちだったんだねえ、としか思えない。


さて次は夏の川遊びだ。

2010年 5月 4日  鬱陶しい感じの暑い初夏。空は明るい曇りだが。

四月の終わり頃、その時宮城県美術館の県民ギャラリーでやっていた「本間秀一展」をどう見ましたかと聞かれた。即答しかねた。ちょうどその時,詩人秋亜綺羅が送って来てくれたココア共和国という本についていた彼が詩の朗読をしているDVDを見ていた。僕自身も5月11日から始まる齋悠記との二人展に向けて,作品の仕上げ/まとめをしている。本間、秋、齋。この3人は同学年だ。深く想う所がある。


僕の作品を含めて,彼等の作品を初めて見た時はなかなか良いインパクトを受けた。もう30年程前になる。そのときはすべてが前衛だった。という事は、ショックはあったが社会に普通に受け入れられる物ではなかったという事だ。それ以来我々は、その各々の立場で,様々表現を続けて来た。各々の生活が有り,各々の状況があった。

たぶんあの頃の最初の作品を表す事ができた時に,僕たちはその表現のスタイルが自分達にとっても、ものすごく新鮮だったのだと今になると思う。それはその時代のその時のその人を通してしか出て来ない表現だったのだろう。そしてそれはたぶん,すべての純粋な表現に共通する物なのだという事が今はわかる。社会はほぼ30年を経て彼等に追いついて来る/来た。僕たちの表現は、未だその各々の個人の最初の高揚を失ってはいないとこれらの作品を見て思う。でも,社会が追いついてくる。では,30年前に今を表現した僕たちは、現在の社会を追い越しているのだろうか。そういう事はできない事を,その間生活を重ねて来た僕は知っている。そういう事はできないのではなく,しなかったので,今の生活をしているのだ。


僕は,結構今の生活が好きだ。考えもなくダラダラと好きなのではなく,選択し行動して、そうしようとしてそうしている今の生活が好きだ。今,少し離れて(そういう事ができるようになった)これらの作品を見ると,感慨深い物が有る。それらは今や,一つも前衛ではなくなっている。社会に受け入れられているとはいわないが,そんなに奇異な物ではなくなっていて,友達だってけこういるし(前衛には友達ができにくい),そもそも僕たちが友達だ。

今回の作品を見ると彼等は,しかし,汗を振りまき,つばを飛ばして,脇目もふらず作品を発表し続ける/ている、ように見える。ぼくにはすでに、そこに懐かしい未来が少し見える。嬉しいけれど,少し悲しい。この感じは、美術館にいる僕だけに特別な事なのだろうか。萩堂貝塚再発掘調査を知ってしまっている僕は少し力を抜こうと思う。抜けるかなあ。