胞夫さんが再びモノを食わなくなった。水も飲まないので、脱水症状になり一気に動きが鈍くなる。そうすると、僕の携帯に施設の看護士の人から連絡が入る。何か食べさえすれば、基本的な体力はあるので、元気に生活が出来るのだから、胃瘻(いろう)を着けましょうと言う。胃に着ける瘻管。身体の外から前もって手術で胃に管を通しておく。食べられなくなったらそこから水や流動食を流し込む。さあてなあ。ここしばらく考えていた。
まず第一段階は、行きつけの病院の看護婦さんに出張して来てもらって、点滴で結構多量の生理食塩水を補給してもらった。一気に顔に赤みがさし会話も始まり、さっきまで死にそうに見えた人とは別人になる。水は凄い。簡単なものだが食事もするようになった。しばらくこれでもった。
その胞夫さんの小康状態の合間をぬって、5月11日から16日、僕は長女の齋悠記との親子展である「さいさいてん」を仙台市内の画廊で行った事は前に書いた。様々な問題を勘案してここだけが空いていたのだ。ということは9日搬入展示から17日搬出後始末まで、何やかにや気ぜわしく過ごしたということだ。
一方今週の木曜日から1週間程、僕は昨年末の心筋梗塞ステント挿入手術6ヶ月経過状況検査のため入院することになっていた。そういう状況があることは胞夫さんの施設の人には伝えておいた。
今回来た新たな電話は、いよいよ胞夫さんの血管は様々な問題が重なって来て、点滴が出来なくなって来たというものだった。僕が入院する前になんとか方向を見つけたいと言う。最終的に胃瘻を着けることに決定。様々な手続きや付き添いは、今回初めて弟達に回してみる。なんとか動きそうだ。まずやってみなければ次は始まらない。そうすることで元気になるならそちらに行ってみようとは思う。彼本人はどう考えているのかはわからない。そういうことを話さない人だった。おっかながりだったのだろうと思う。
ただ僕はそうしないようにみんなに言っておくかあるいはアルツハイマーになったりするかもしれないから、何かに書き付けておこうと思う。
今の胞夫さんのようになったら、僕は静かに死にたい。身体にはパイプを着けないこと。
こういうときは様々なことが次々に起こることになっていて、明美さんの主治医から電話があって、最近薬をとりにこないけれど大丈夫か?ううむ、ある事情で、最近凄く大丈夫なのだ。昨日、二人で雨の中、長い間お世話になった精神科の病院に行って、僕らは今のままで充分満足していることを話し、正式に精神安定剤中止。美術館の活動も連休が明けて様々重なって忙しくなり始め、良く言えば充実した毎日が忙しく過ぎている。本当の所ちょっと休みたいな。あ、一週間入院するんだった。早く入院しよう。