知っていることを確認することは

学ではない。

思いもよらぬことを知る

喜びが学ぶ。

2021年 2月23日

冬の青空。風少し強い。


この前の日曜に、沖縄県芸大でやった博物館教育論集中講義の成績表を郵便で送った。今年が年齢的には最終年だったのだが、この事情なので、沖縄には行かず、電脳経由。始めるまでが物理的に大変で、始まってからも不思議な状況。様々な人達に助けてもらって2日間、1日(8時半~5時半)、電脳の前に座り詰め。一応出席はしてるが、提出された課題を読むと、話は聞いていなかったんだなと思われる人も少しいた。とは言え、少し肩の荷が下りた。

次は、今週金曜、山形市に電車で行って、ハンディキャップの人たちの制作活動に関わっているT田さんの紹介で、芸工大の先生と対談をする。障害のある人たちの表現をめぐって(のはず)。対談というより、行ってまず話を聞く。

3月になると、中旬(10~12日)に愛知県豊田市美術館で、美術館教育の実践をめぐるお話をする。もう何も急ぐ事情は無いので、名古屋には少し早めに船で行くことにした。3日間話をして、帰りも船。ここまで過ぎれば、だいたい今年度の活動は終了。あ、そのあと急いで確定申告だ。全部終われば、気候も良くなるだろうから、又里山彷徨を始められる。


僕は、特に何も無い日はほぼ1日NHKのラジオを聞いている。今の日本の常識がどのあたりにあるのかがわかる。この時期、日本の教育をめぐっての話をよく聞く。日本では=NHKでは、教育は学校教育のことだ。なので=それは受験の乗り越え方のことだ。もちろん分かりやすくするため、話を端折ってはいるが、誰も、立派な大人になるためだとは言わない。立派な大人は、全員ほぼ異なる人なのだとも、言わない。全員異なる人(達)なので、話し合いが必要なのだ。ものすごく雑に言って、そのためのデモクラシーなのではなかったか。


この前、エッセイを書いてから、ずいぶん時が経ってしまった。生き方が、だいぶんと美術的になってきたようで、見ることすべてが毎回面白い。面白いと思ったことを反芻しながら繰り返し考えていると、最近は3日ぐらいはあっという間に過ぎる。いやはや。何回も言うが、見るは、常に自分の側にあるので、その基礎になる様々なことやものが、自覚されれば、同じものを見ても、毎回深さがどんどん広がっていく。自覚されるということは、良く知っているということでは無い。良く知らないことが自覚されるということも含まれる。いやはや。こういうのが、歳をとるということなのではなかったか。文章を書いているより、気になることを気になるままに見にいく方がずっと面白いに決まっているのだ。