予防接種はすんだ。涼しくなったので、再び里山へ。
2021年 9月4日 涼しい、曇り。
様々な活動が、延期や、中止になっている。僕の小さい人たちとの活動も。5月に家族用のミニバンが、6丁の目の交差点の前で突然壊れた。ま、約20万キロにならんとしていたのだから、満足だ。とは言え、予想外の出費があり、収入源だった、活動も軒並み延期で、基本年金生活者としては、今、手元不如意。
そういうときに、遠くの美術館にいる若い友人から、美術館教育を巡る質問がきた。そこでも、学芸員たちを中心に美術館教育を熱心にしているのだが、何かしっくりこないという。なぜですか?さて、
博物館ー今回は美術館ーにおける、教育普及をめぐっては、はじめにいくつか確認しておかなければいけないことがあります。
①社会教育と学校教育の、教育全体の中での「各館の」立ち位置の自覚
②美術と図工の違いの自覚
これらがうまく検討され討論ーまたは話し合いーがなされれば、貴女の問題ーまたは違和感ーは無くなるのではないか。それは、貴女の思っているようになるということではなく、違和感がなくなるということだけなのだが。
「教育する、される」ということと、個人が「美術化される、なる」ということの微妙な違いを、いかに楽しく自覚するかというあたりに、「美術館での教育の存在の意義」があります。これが、学校教育の中での図工では、なかなかしにくいので、美術館教育での美術教育のダイナミックな面白さが出てくるのです。
まず自覚しなければいけないのは、公共の美術館にある基本的な美術作品の収集は「美術の収集」で、「うまく描いてあるものの収集」ではないということです。美術館に来たら、「うわあ、これ下手だあ。」と言ってよいのです。「これ、絵の具の無駄遣いではないの?」と言ってよいのです。それをみんなで言える(う)ために、あんなに様々な異なる種類の作品が、まとめて並べて飾ってあるのです。
みんな同じにうまく見えるときは、制作年をチェックしましょう。そしてその時期に何がうまいと言われていたか考えましょう。というようなことができると面白い(深い)のです。
冷静に考えれば、個人の家で、美術館のように絵を飾ってあるところはありません。玄関に飾ってあるのと、応接間に飾ってあるのと、階段の踊り場にあるのと、台所にあるのと、出口にあるのとが、こんなにも違うようにできることが、公共の美術館の公共たる所以なのです。先に「公立の」と断ったのはそのためです。個人の館(家)では、そうではありません。入り口から出口まで、統一された美意識を、これでもかと展示して構わないのです。
美術館でやるべき(美術)教育が、なんとなく見えてきたでしょうか?学校では、短期間に、知るべきことをある程度まで均一に知ることが目的です。社会教育では、そうして知ったことを使って、個人を個人化することを目的にします。
ということが自覚されていれば、あとは各館のやり方なのです。その舘のそういうことが、なんとも納得がいかない人は、どこが納得いかないか細かく見つけるしかありません。もしかすると単に話し方が気に入らないということなのかもしれません。僕がここまで話してきたことそのものを点検しようとしている舘なのかもしれません。
新たな知識を教え知らしめようとだけするのは、まるで学校で、社会教育でそうするときは、それによって何がどのように、個人に還元されるかを意識的に公開すべきです。でも、今の日本の教育環境では、そのこと自体を自覚できないようにしているのかもしれません。
美術家は、その時のその自分の自覚をできるだけ直接視覚表現にするのが仕事です。それを広範囲に受け止めるのには、美術とはそういう為になされているものなのだという大きな自覚が受け止める方になければいけません。そのためにも、美術館はあります。企画する方になぜ美術館があるのかという自覚が強くあれば、ここまで話してきたことは概ねなされているでしょう。
これまでにも、近代についてや、何やかやについての質問がきた。作家が学芸員をすると、研究者から学芸員になった人たちと、少しずれる。 特に美術館では?なのだろうか。でも、自然歴史系の博物館でも、うまくいっているところとそうでないところは、あった。学校教育と社会教育の自覚のズレは、大きいように思う。また、少しずつ書いていこう。