この前の石の側に、

この石はある。

明治26年、ここは

メインストエリート

だったのか。

2025年 6月12日

高曇。梅雨入り前の

湿った空気の重い風。


毎日快適な生活を続けている、と思っていた。単に偶然が上手く続いていただけだ。先週金曜日、しばらくぶりの春のノッツオを山形寒河江の慈恩寺でした。山形市に住んでいる人が音頭を取って、僕を呼んでくれた。

朝ゆっくりの岩沼始発に座って乗り、仙台始発の仙山線に座って乗り、山形駅から始発の左沢線に座って乗り、寒河江で降りて駅前から寒河江観光協会のワンコインタクシー=500円で慈恩寺へ。ううむ、書いてみるとまるで大名旅行のようで、恥ずかしいが、事実だからしょうがない。この日は、何年ぶりだかのフルご開帳の日で、慈恩寺の持っている全ての国宝の仏像が、観られた。僕の仲間も含め、そこかしこで拝んでいる人たちが沢山いた。


僕は、神様はいると思っている。心から深く、いるだろうと思う。なので、心から、仏像は拝まない。神様が、其処から見えてくるのを待つ。


僕はそんなに深くではないが、様々な方法で人体を立体化する技術の勉強をした。だから、硬い木を削って滑らかに神様の如くに造形する技術を、心から尊敬する。この像を作った人が、ここまで作れた時のその人の心持ちを想うに静かに涙が湧き出てくる。涙が湧き出てくるのを静かに待つ。

確か室町時代以前は、まずノコギリは影も形もない。日本刀を作る技術だけがあった。鑿の切れ味は、ものすごく良かったに違い無い。それに、研ぎ味も。斧、鉈、鉞と、小刀で、これらは作られている。たぶんほぼ柾目の大木だけで、これらは作られているに違いない。たぶん、そもそもの素材の木が美しかったのだろう。

森の中で、これから、神様を創り出そうとするための木を選んでいる彫刻家のことを想う。その選ばれた木が、千年を経て今、僕の前にある。其処にあるだけで、すでに充分神様なのに、静かに目を伏せて、僕を観ている。僕は観られて大丈夫に生きて来ているか、とつい自問してしまうというようなことを延々と繰り返す。

そのような一日を過ごした翌日、朝早くからいつもの児童館の人たちと、坪沼の八幡様の裏の森で、一日活動をした。昨日の次の日だから、僕は充実して活動を行った、でも、誰も、そんな事は知らない。自分で2CVを運転して朝から出かけ、夕方。コタコタで帰って来た。

日曜日の夕方はなんでもなかったのだけれど、夜から調子が下がり始め、月曜日からは、完全に風邪っぴき。一日完全に寝込んだ。しかし、その週の水曜日は、3ヶ月に1回の前立腺肥大の検診と治療が、長町の私立病院で予約済み。暫くぶりで引いた風邪はだいぶよくはなって来たが、マスクをして急いで出かけ、3ヶ月分の処方箋をもらって帰宅。そういうふうな深く静かな週末だった。



 これは鬼石。

とある山の中にある。

誰かが、ずうっと昔、

ここに持って来て、

置いて行った、と僕は思う。


2025年 5月27日

厚い雲の高曇。暑くなく寒くなく。


昨日、石巻の和渕という所に、星真子さんの彫刻展を見に行った。

何回も言っているが、僕はあまり美術展を観に行かない。作品を取り巻く様々なことが僕を美術展に惹きつける。石巻の和渕字和渕町鈴寛ギャラリー。星さんすまぬ。彼女の作品よりこのギャラリーの有り様=住所が、僕を強く惹きつけた。石巻のJR駅前を中心とする石巻の街に行くのが僕は好きだ、なんの用事がなくても、時々行って北上川淵で海鮮丼を食べ、小牛田経由で帰って来たりする。

そして、石巻市は、僕が知っているより、やたら広いことも知っている。石巻にいる僕の友人が元住んでいた所は、ここがと思う様な場所だったが、石巻市だった。岩沼市に生まれて以来ずうっと住んでいる僕には思いもかけない様な広さで、石巻市はある。


ま、とにかく、そういうようなわけで、石巻に住んでいる大学の時からの友人に電話した。彫刻家でもある彼女も、星さんのことは知っていたが、和渕の鈴寛ギャラリーは知らなかった。時間を合わせて、石巻駅前で落ち合った。そうして彼女の車でギャラリーに連れて行ってもらった(それ以外の方法はほぼ不可能)のだが、其処に行く道はうまく説明出来ない。ところどころ見たことのある景色の場所を通ったのは記憶にあるが、また自分で行けと言われても困る。帰宅してから宮城県道路地図で確かめてみたのだが、確信が持てなかった。僕の持っている道路地図が古いこともあるだろうが、3桁国道から逸れて、前谷地に入り込む、辺りまでは言える、という所だ。とにかくその道筋自体が美術的鑑賞だった。嬉しい。


なんだか様々言って来たが、和渕は、星さんのアトリエがある所で、其処を開放する展示だった。ううむ。大きい作品を継続して作る美術家は、そのありよう自体が、日本では、実に美術的な作品なのだと深く実感させられた。特に立体作品は場所を取る。僕たちの国では、街の広場は、日本庭園という方向に、空間が収束してきた歴史を持つからなあ。


僕は、昔から、美術家は世界の仕組みの中では一次産業に携わる人のことであると言ってきた。ほぼ何もないところから、自分自身だけで作品を生み出す人。米を作る農業の人に、米屋さんがあるように、美術作品も、同じ様にギャラリーという米屋で最終的に販売されなければいけない。美術家とはそういう物を作る仕事の人の事だ。星さんの作品は大きい石のものもあり、綺麗に磨き上げられたイタリア産のピンクの大理石を見るにつけ、誰か買って自分の庭に飾っておけば良いのにと思う。


 神社の裏には、

ほぼ不動尊が居る。

ここにも、居る。

この空間を巡る、

深く広いお話。


2025年 5月22日

小糠雨。暖かい。


今日は、朝から、槻木の外れにある個人住宅のギャラリーに、ある彫刻家の展覧会を見に行く。


その予定で天気のいい昨日、朝から。モーターサイクルで下見に出た。日本の郊外の街のそのまた外れだから、小さいモーターサイクルが、一番機能的。オープンは今日なので、昨日は下見。最近、ほとんど外出をしていないから、道順や、その場所を巡る記憶がとても曖昧になっていてーま、歳のせいも、大いにあるだろうがー事前に記憶を確実にしておきたいのだ。記憶はほぼ大丈夫だった。

ほぼ、というのは、場所的には正しかったのだが、前に其処を探している時、ここで、向かいのおじさんに怒られたはずのおじさんの家がなかったり、路のツキあたりだった筈の道が普通の道だったり、間違ってはいないが違うイメージだった。


とにかくここをこういけば着く事は確認した。そのあとグルウッと回り道をして帰宅。途中で食ったラーメンがまずかった、珍しい。今日、雨があがったら、まず石油を満タンにして、出かけよう。


 心から、ほとんどのことは

どうでも良いことの様に思う。

どうでも良いという事は、

ほとんど良い事だ!という事だ。

2025年 5月18日

強く暖かい、乾いた空気。微風。


だいぶ書かずに来てしまった。児童館との活動が始まったり、歯医者に呼ばれたりはしたが、特に困ったこともなく、時間が過ぎている。


昨日から、星真子さんの彫刻の展覧会が石巻で始まっているはずだ。来週は児童館との活動がない週なので、石巻の友人と見に行こうと思っている。一人で行くのには困らないのだが、今回の展示は、彼女のアトリエを含む広範囲の様なので、石巻に住む友人を誘って、見逃しなく充分に見たいと思っている。とは言え、なんだかぼやっとしていたら、時間が過ぎた。ううむ、充分に歳をとって来ている。


暫くこのブログを書かないでいると、誰かが、そっと生き死にを確認に来ることがあるので、特に書くこともないのだが、少し書いておく。


 僕と、僕以外。

僕はそのうち無くなるが、

ここは、

暫くここに居る。

2025年 5月4日

ここ暫く、毎日高曇。


高曇りの空から、時々夏の陽射しがさす。毎日ほぼ何もせずボオッと生きている。心から人ごみが苦手なので、この時期は、ほぼずうっと家にいる。


夕方犬と散歩に出る。最近は長い散歩に出る=なる。阿武隈橋の脇から堤防に出て、ずうっと西に向かい、常磐線にぶつかって下に降り、おお、ここは本当にしばらくぶりだの、食堂オオヒトの脇を通り、土屋先生の作品を道路から暫く眺め、製紙工場に入る引き込み線を渡って直ぐ左に折れ、4号線下のトンネルを潜って産業道路を通って帰宅。

それにしても、土屋先生の裸婦の作品が、岩沼に少なくとも2体あるのは何故なのか。そして、そのうちの1体が飾ってある、市役所で聞いても、誰も何も分からない=知らないのは、何故なのか。


とは言え、公共に展示されている美術作品は、そもそもそういうものなのか。教育大を出て美術館職員を経験してきた爺さんとしては、なんとも、一体どうしたもんなの?である。前に、仙台市内にある彫刻を見る会に呼ばれて、お話をしたことがあったが、最近は、トントその様な話を/も聞かない。


ま、そもそも、美術作品なんか、各自好きに見れば良いわけで、それをめぐる話なんて、どうでもいいわけだが、ここ、この歳になると、作品そのものをめぐるお話ではなく、何故それがその様に其処にあるのかということを誰も知らないという、まるで、ミステリー物語の様な鑑賞というのを楽しめる。いやはや。今更だが、美術は、そういうものだったのだ。


地球の上に居る。

其処は宇宙の極一部だ。

自覚し自戒したい。


2025年 4月24日

高曇りの空から、薄陽がさす。生暖かい。


先週の水曜日の昼前に、昔の友達の京子ちゃんから、今、(小学校の3年生の時の同級会をやってるるから)竹駒神社の新しいお休み所に来れる?という電話があった。ううむ。もうこの歳になれば、ほとんど、今急がしいからいけないということは無くなるから、急いで靴を履いて出かけた。ありがたい。


暫く前、小学校の時の友達だったみんなで、僕の家に来て、その話が出て、その時は僕の家に来て良いよと言ってあったのだが、そうは言っても、突然人の家に行って、みんなでお茶を飲むというのはどうかと、それは思うよな。思わないのは僕だけだろう、多分。そういうわけで今日、電話が来た。


僕の家から竹駒神社までは歩いて5分もかからない。新しくできたお休み所の端っこのテーブルに、女の人達が4人いて、サイくんここここと手を振っていた。でも、暫くぶりに会っても、すぐに誰が誰かわかるもんなんだなあと、不思議な気がした。突然皆んな小学校3年生。

ウエイトレスが、メニュウを持って来て、僕は軽い昼飯を頼んだ。その後、駐車場の北側の喫茶店に席を移して、暫く皆んなで珈琲を飲んだ。


僕は、こういう時の話題に疎い。思えば、岩沼小学校を出ると、そのまま僕は母の出身校であった仙台の五橋中学校に行き、その後仙台一高、宮城教育大学と、ずうっと仙台に(列車や)汽車通学をしており、大学を出るとすぐニュウヨークに(生まれて初めて乗った飛行機が、ニュウヨーク行きーホノルル、ロサンゼルス経由ーだった)行き、帰国するとこれまたそのまま直ぐ宮城県美術館で働き、だったから、地元のみんなとは本当に暫くご無沙汰だったのだ。

こういうふうに改めて書き出すと、一体、僕は何をしていたのだろう、ま、確かにとにかくずうっと、僕には息注ぐ間も無く面白い毎日ではあったのだが。でも、皆んなと共通する話題は本当にほぼ皆無。大体こういうふうに振り返ることが、思えばほぼ初めて。いやはや。そうか、そういう人生だったのだ。 

 

もう常に

杖をついて歩いても、

普通な歳になったのだ。

良い杖もあるし。

2025年 4月19日

暖かい乾いた空気。枝の先が少し動くのが見える風。


昨日、本当にしばらくぶりに仙台に出た。展覧会を見、駅前の本屋を回り、帰宅。展覧会は、@SARP。駅から、全て徒歩。1万4千歩プラス。


SARPに行く時は何回行っても、何故か道を間違う。火星の庭の向かいから北に曲がるのはまちがわないのに、その先があとで考えると何故そう行くのか分からないのだが、あっちこっちで曲がり、何故か素直に辿り着けない。今回も、早坂輪業本店が出て来て、これはすごく間違ってると自覚し、入り口まで戻った。

ううむ、そうしたら、すぐそこだった。こういうのをつい楽しんでいる自分を自覚する。これがいけないな。何回も、案内状の地図を見たのだが、何故か自分の見たい所は、その地図からは少し外れている。この辺りは、もう目を瞑っても分かるはずなのに、これが、歳をとって来たということなのだろう。


若い人がする視覚表現は極力何も考えずに対面する様にする。そうして一回りしてから、一枚ずつ読んでいく。そんなにたくさんの表現を見ているわけではないが、自分以外の人の表現を読むのは、大変だ。読むからだろうか。でも、まあ、それも他人の表現を見る楽しみだ。当たり前か。他人の表現を見ながら、自分の表現に思いをはせる。枝の先を軽く揺るがす様な表現。問題は、こっち側の揺るぎ様な訳だから、揺らいでいる枝の自覚は、その枝にしか分からない。いやはや、嫌な客だ。なんてことを思いながら歩く。


今日も、そういう意味では、良い天気だ。







 自分で決める。

自分で決めた、と思っていた。

ひょっとすると、

それ自体が、間違っていた?

2025年 4月15日

微風。高曇。


最近、車での遠出をしていないので、僕の和蝋燭のスペアが心細くなってきた。

これまで、和蝋燭は、山形の鶴岡、致道博物館に今年の日本刀新作展をみに行ったついでに、鶴岡旧市内に古くからある和蝋燭店でまとめ買いをしていた。山形の鶴岡まで出かけて、日本刀をじっくり見学し、そのあと昼飯を食いながら、古くからの鶴岡の街並みをふらふら散歩し、ついでに蝋燭を買ってくる。新作展はたいてい秋にあったはずだが、昨年はいかなかった。何故だったろう?長い距離を走るための自動車が、無かったからか。僕の古い2CVで行くのに、僕は何も心配は無いのだけれど、一緒に乗って行ってくれる人が、どうも不安な様なのだ。休み休みゆっくり行けば、そんなに問題はないと思うんだが、そうも言っていられないほどに、僕の2CVの見た目は「きている」様だ。

ああ、それから、日本刀の新作展が、昨年は、僕の家のすぐ側の竹駒神社でもあったことが大きい。何はともあれ、昨年は、地元に、静かにいた。そうして、僕の和蝋燭のスペアが切れ始めた。ううむ。


こういうふうにして、僕も、僕の父親の胞夫(えなお)さんを老人化させていっていたのだろう、と、今、深く思う。老人化はこうして深く潜行する。


 見えると、観える。

知っっているものだけが、

観える。

観えるもので、世界は

できている。

2025年 4月10日

高曇。無風のほの暖かい空気。


最近ふと思い出したのだが、1970年代の後半、3年半ニューヨークに住み、最初の娘も生まれ、自動車の免許も取得できそうになり、家を立てる土地=ニューヨーク市郊外の森の下見もし、もう、日本にもお別れだという心持ちになっていた。では最後に、両親に娘を見せに行って、後はアメリカ人になるだけ。そういう決心で、ごく小さい娘を抱いて、かみさんと一時!帰国した。1979年何月だったろう。こんなに道路、狭かったっけ、というのが最初の感想だった。すぐ帰るつもりだったので、荷物もほとんど開かなかった。


そうして、確か帰国3日目に、宮城教育大学に、同じ様な心積りで挨拶に行ったのだ。最初に、なぜか、三井先生の研究室に行った。

そうしたら、帰国の挨拶もそこそこに、ああ、齋くん、良いとこに来てくれたという話になり、ちょうど今、宮城県で美術館を建てる話があり、君、ニューヨークの美術館にいたんでしょう?ということになった。何回か、様々な質問に、はい、と言った記憶はあるが、詳しいことは記憶に無い。何回か、公式な試験を受けた。そういう試験は、暫くご無沙汰だったから、へんな感じだった。そういう手続を経て、あっという間に、アメリカに帰る方向は無くなり、そのまま両親の家に転がり込んで、様々な手続きをし、日本に戻ってしまった。ううむ。今、無理矢理思い出してみると、なんとも、凄まじい。

何しろちょっとした帰国のつもりだったから、着る物もお金も何もなく、最初の頃は、ほとんどカーディガンか何かで面接試験などに出かけていた。しょうがないので、胸だけは張って行った。どうだったんだろうねえ。両親も、心配だったろうと今は思うが、こういうのが、アメリカ風なのだろうと思っていたのだろうか。今となっては、二人とも死んでしまったので、聞く術もない。


ある意味、そういうふうにして、宮城県美術館は、僕の中では始まった。


僕が今、ここにいる。

これまでも、ここに居た。

でも、その自覚が、

ごく希薄だった。 


4月 6日

ホワホワとした高曇り。

暫くぶりに、床屋へ行くことにした。僕が生まれた時、母親の栄子さんが連れて行ってくれたのは、中ん町にあった伊藤床屋だった。


もちろん、僕は赤ん坊だったので、その事を覚えてはいない。でも、その後、ついこの前までずうっと同じ床屋だった。僕は、中学生の時から仙台に通っていたが、ずうっと自宅に居た。社会に出てからは、家を出て仙台に住んでいたけれど、大学を出るまで、自宅にいた。そして、仙台に住んでいた時も、床屋に行く時は、岩沼に帰って来ていた。


大学を出た後、ニュウヨークに暫く住んでいたこともあったが、その時はおかみさんの明美さんに切ってもらっていた。その頃の写真を見ると、ものすごく(髪で)頭のでかい僕が写っている。僕の髪はすごい癖っ毛で、なんだかあっちこっち勝手に伸びていくので、切るの大変だったろうと思う。で、とにかく生まれた時から、ずうっと床屋は伊藤床屋。


伊藤床屋ももちろん代替わりをして、最初の頃のお父さんから、その息子さんになった。彼は僕より10歳ぐらい年上だったが、ガンになってしまいこの前亡くなった。その後、彼のオカミさんさんが変わって僕の髪を切ってくれていた。そして、しばらくぶりに伊藤床屋に出かけたら、シャッターが降りていて、廃業します、という貼り紙。


最後に行った時、彼らの息子さんが手伝っていたので、ああ、次からは息子さんがやってくれるのだなと、なんとなく思っていたのだが、その気配一切無し。廃業してしまった。されてしまった。ううむ。


僕の髪の毛は、最近、薄い。禿げている。自分には見えない後ろ側だけ、少し普通にある(ようだ)。

髪の毛ない人の床屋って、難しいのではないか、と、僕は思っている/思う。ほぼ無い、より、やや有る方が、より難しいのではないか。ま、書いて(読んで)わかる様に、僕はちょっと、深く動揺した。


歳をとると、周りが先に死んでいく時がある。言い方がへんだが、様々なところで書いている?とうり、僕は長生きをする気は無い。だから、長生きをするための運動や体操や、サプリメントや、何やかにやはしない。だが最近、周りのぼくより若い人が亡くなっていく。どこか、ある境目があって、そこを超えると、一気に、周りの人が亡くなっていくのだろうか。ううむ、こういう歳のとり方が有るのだな。


何はともあれ、生まれてからの床屋が廃業してしまったので、僕は、新たに床屋を見つけなければいけなくなった。ううむ。唸ってばかりだ。


犬のゴローと夕方の散歩をする道筋に、新しい床屋がある。僕の家から、3回角を曲がると着く。なんのきっかけもないけれど、行ってみた。

髪の毛より、髭や何やかにや、顔を剃ってもらいたかった。僕とほぼ同じ年頃の男の人がやっていた。先客がいた。いつもの文庫本を持って行ったので、それを読みながら少し待って、やってもらった。特にどうということはないので、これからは、そこにいくことになるだろう。

この歳になっても、新しいことが起こって、ごくなんでもないことに様々楽しみながら、生き続けていくのだろう。


 僕にとって、

こういう所が、

日本の神様の、

いる所。


2025年 3月25日

暖かい空気の高曇り。微風。


本当に暫くぶりに、カブ(小さなモーターサイクル)のエンジンを掛けた。最新式のバッテリーが、もうすっかりダメになってしまうほど、エンジンを掛けていなかったのだ。なんとかエンジンを動かし続けるようにして、行きつけのホンダに持って行き、調整してもらった。新たにバッテリーを取ってもらい、連絡が来たら、再び持っていく。いやはや。車の方も、同じ様な状況にある。最近は、岩沼の街の中なら、そうとう遠くまで、すぐに歩いて行ってしまうので、こうなった。いやはや。でも、まあ、ギリギリのところで、全滅は免れ、全ての道具は息を吹き返した。これだけ、好きに趣味に生きてきたのだから、道具をうまく活かしておくことに、もっと気をつけようと思う。


ほとんどのところに歩いて出かけるとはいえ、最近では、時々、全く思わぬところで、ころりと転ぶことがある。僕は体に気を使わない事をモットーにしているので、その代わり、できるだけ、気を使って動くことにしている。他人にどう思われようが、手すりの近くで階段を使うし、自分の速度で移動する。腰を伸ばし胸を張る。そういうふうにしていて、ころりと転ぶ。ううむ、困った事になってきたものだ。


2025年3月31日

冷たい空気の高曇り。微風。


僕宛に、時々DVDの注文カタログが届く。もうそろそろDVDとは何かという様な文を書かなければいけなくなるのかもしれないが、ま。それはいいとして、僕は時々そのカタログから、注文をする。なので、切れずに、カタログが届くのだろう。とは言え、最近はほとんど注文することはなくなっていた。今回は、注文した。昔テレヴィでやっていた、ラットパトロール完全版DVD11枚セット。これ、もう廃盤になるのだろうなあ。一応、持っておこうと注文することにした。コンバットと、ラットパトロールがあれば、僕の若い頃のテレヴィ番組コレクションは万全となるだろう。届くのが楽しみだ。




 人は地球上の生き物なので、

生まれたからにはいつか死ぬ。

当たり前だから、

きちんと生きていたい。

2025年 3月19日

暖かい高曇、小雨。


僕は公共の美術館での公務員を退職して、思えば10年を超え、その後、様々、定期的な給料を貰う仕事をやめてからに限っても、ほぼ10年になったのではないか。今は、ほぼ正しい年金生活者だ。


という様な事から書き始めたのも、その公務員として、最も油の乗っていた頃に書いた教育をめぐる文章を巡って、いくつかの質問が来た。最近の僕の社会状況を知るルートは、ごく限られ、ある意味、偏向した方向の窓口になっている様に思えるところがあるので、今更、なんだかな、と思ったのだが、質問は、教育をめぐる、基礎的根本的な部分を巡る物の様に思えたので、自分の頭の体操のために、考えてみた。


とは言え、いまだに、なぜ、基礎教育で表現系(音楽、体育、美術)の授業をするのか?とか、自立した個人を目ざすとは、何か?、とか、なんだか最も最初に答えを明らかにされなければいけない様な問題が、どうも意識的かの様に後回しにされている様に思うのは、僕がどこかおかしいからだろうか。


 多分此処も、

昔はメインストリートだったのだ。

今は、誰もいない。


2025年 3月14日

高い、青空。ただし強風。芽吹き始めた木々の葉っぱが、日の光を強く照り返しながら、ざわめいている。


毎年、この時期、金蛇神社入り口にある花トピアの大花壇の周りにレールを敷いて、模型の蒸気機関車を走らせる催しがある。

しばらく前から、そのレールを敷く手伝いに参加させてもらっている。ということはどこかに書いた。この前、違う用事で花トピアの前を通ったら、駐車場が工事車両でいっぱいになっており、花トピアは大改修工事に入っていた。ううむ。ま、変更なり中止なりの連絡は無いから、今のところ行くつもりでいよう。車でなく、モーターサイクルで行くのが良いかな。


昨日は13日で、岩沼の渡籐書店に頼んでいるA.M.という雑誌を受け取りに行く日だった。

小学校入り口前にある本屋で本を受け取り、そのまま少し先に少し歩いて、相傳商店で岩沼名物奈良漬け(僕はこれが好物で、ご飯と味噌汁とこれがあれば、だいたいいいのだ)の特用を買い、向かいのかめやで季節の柚子饅頭を二つ買い(おまけで、竹駒饅頭も入れてくれた)というようないつもの買い物をした。裏道の桜小路をゆっくり歩いて市役所まで戻り、市役所の向かいの気に入っているコーヒのうまい小さなカフェでコーヒーのLサイズを1杯飲みながら買ってきた雑誌をすみずみまで読む。至福の時。

時間が来たので、サンドウイッチランチを追加、珈琲ももう一杯。いやはや。もう今年の確定申告も済んだから、定年退職年金生活者なんて、特別に用事の無い日はこういうことになる。あとは帰宅して、夕方、犬との散歩。


 僕は人なので、

手の指は、親指が離れている。

だいぶ長い時間をかけて、

こうなった。

思えば不思議なことだ。


2025年  3月  1日

今朝、昔からの友人から電話があって、3月22日の朝から、模型の蒸気機関車を動かすためのレール敷設を、今年も、岩沼の花トピアでする旨の連絡があった。模型とはいえ、本物の蒸気機関車を動かすには、ごく普通に本物の線路を敷かないとすぐ脱線してしまう。花トピアでは下に砂利を敷かないので、水平を出すのが本当に大変なのだ。

本当に蒸気で機関を動かすには、中にギッシリパイプの詰まった機密の高い鉄の太いパイプの中に、水をこれまたギッシリ詰め、様々な方法で火を炊いてその水を沸騰させ、それを使ってシリンダーの中のピストンを行き来させる。僕は自動車のエンジンから入ったので、一つの爆発を使って、ピストンを押し下げるだけで済んでいたのだが、まず最初の機械=蒸気機関は、行き来、両方をきちんと力=蒸気力を使って動かしていた。行き来なので、ピストンは少なくとも2ついる。とにかく動くまでの話が面白く、興味深い。


3月10日

高い、青空。乾いたほの温かい空気。

今、確定申告を終えて、市役所の向かいのカフェで、サンドウイッチと珈琲の昼飯を食って帰ってきたとこ。ふうう。思えば大したことではないのだが、一応、ふううとなるのは何故なんだろう。

 計算が基本的に苦手なところに、年取って、全体を見渡すときに様々ウロウロしてしまうようになったことが重なってきたようなのだな。とにかく、ま、次の作業に移れる。しばらくこの文章から離れていたのは、その為だ。

この前のブログについている写真は、僕がいつもいる場所から北側を見たところだ。奥に水色に写っているのが、僕の古い自動車、絵に描いたようにアナログ駆動の、シトロエン2CVだ。

左手に光っているのはペレットストーヴ。この家を新しく作る時、ぜひ薪ストーヴを入れたいと画策したが、隣の家との隙間が足りず諦めていた。そうしたら、同じような考えで、ペレットを炊くストーヴがあるという事を知って、様々実験しながら、今のこのシステムに落ち着いた。寒くなると、この炎の前に布の折りたたみ椅子を置き、それに座って、池波正太郎の小説を読む。ううむ、偏った生活だ。でも、もう良いのだ。そうして夕方、犬と散歩に出かける。ううむ、偏った生活だ。でも、それで良いのだ。今日も、そろそろ、散歩に出掛けよう。



 彼の後からついて行く。

彼の世界。

私の世界。

同じモノの筈なのに、

異なった世界。

2025年  2月23日

厚いモクモクした雲の切れ間に、ものすごく青い空。乾いた冷たい空気。


これまでは、しばらく人と話さないでいると、この文章を書くことが多かった。ここしばらく文章が途切れていたのは、そうではない状況だったという事だ。

しばらく前から2月24日に、話を聞きに昔の友人が来る事は決まっていた。そして2月は、静かに確定申告のためのレシートの計算をしている月のはずだった。今年は、そうはならなかった。未だに計算は始まってもいない。


これまでも、時々、昔からの友人が家に来て、ペレットストーブの火の前で、取り止めのない様々なことを話す事はあった。もう、だいぶ長い間生きてきたのだから、当たり前だ。

昔からの、という事は、どうしても趣味のことを巡ってということが多くなる。そういえば、あまり美術をめぐる人はこない。


2月19日に石巻に来て、全くそれと同じような対談を、公開でしませんかという話が、O林君から来た。ううむ、どうなの?ま、とにかく、時間はあるのだから、断る理由はない。彼のリクエストに沿って、持っているアメリカ軍の軍用ライフル銃(あ、もちろん、モデルガンですよ)をケースに入れたヤツ(これが、本当に重い。こんなに重かったのか。)を背負って、朝から東北仙石線に乗って石巻(しばらくぶりだ)に出かけた。そうして、本当にとりとめのない様々な話を午後いっぱいした。


それとは、全く別に、17日、昔からの友人に招かれて、彼女の家に行き、昼飯をご馳走になった。21日は、紅子としばらくぶりに亘理の荒浜に行き、古道具屋を回ったり海鮮丼を食ったりし、昨日22日は三越(本当は藤崎だった)で、好物の赤福を売るというので、朝から出かけ、帰ってきたら、小学校の時の同級生の京子ちゃんが来て、懐かしい話をし、またみんなで来るからと、帰って行った。彼女らとは、小5、6年の時、ミッキータイムズと言う名のガリバン摺学級新聞を発行していた間柄で、いやはや、一体どうしちゃったのだろう。でも、楽しみだ。


先週までは、家の人意外とは、ほとんど人と話をせず、犬と毎日決まった少しの散歩をし、1週間千円ほどで、生活していたのに、今週になったら、毎日電車で出かけ、誰かと長い話をし、帰って来ると、歩数計は、毎日1万歩を超えていたりする。面白いなあ、とにかく自分が何もしなくても、世界は。フラフラ動いていく。長く生きるってこう言うことだったのか。


 これだけ使かったのだから、

そろそろ、ヘタるのも、

当たり前だ。

2025年1月20


乾いた冷たい空気。高曇り。

雲の切れ目から覗く、落ちていく夕日がゾッとするほど美しい。


アメリカンフットボールが、佳境に入って来ているので、空いた時間は、ほぼテレヴィを見ている。今年も、思いもかけないチームががんばっていて、目が離せない。アメリカからの実況は、時差で、日本では朝10時ぐらいから始まる。向こうは冬時間の夜だ。相撲も始まったし。

それ以外は、ほぼ毎日、決まったルーティン。時々、街に粕漬けを買いに行ったり、頼んである本を、街に1軒だけある本屋に取りに行ったり。何はともあれ、早く暖かくならないかな。僕は7月生まれだ。


犬とほぼ毎日夕方散歩をする。彼とのルートも、ほぼ毎日同じで、僕は困らない。そうしていると、ごくたまに、犬が今日はこっちに行きましょうという時がある。そういう時は逆らわないで、いつもとは違う方向に行く。おお、この辺りは最近はこうなっていたのかと思ったり、思いがけなく阿武隈川の堤防の上に出て、思いがけない程、美しい夕日の沈む場面に出会ったりする。思いがけない場面は、毎日思ったとうりにしか動いていないからこそ起こる。探していないだけ、驚きは大きい。驚ける様にしておきたい。


ごく時々、昔書いた本を巡って、質問をしてくる人がいる。有難い。それがないと僕は、1年間でも、誰とも会話せずにすごすのではないか。あ、家の人たちとは少しお話をしないといけないから、誰ともというわけにはいかないな。でも、そのくらい話をしないでいると、自分の考えをうまくまとめて話せなくなってくる気がしてくる。頭の中が勝手に進みすぎて、出てくる言葉としてまとまらなくなる。質問した人が帰ってから、あれも、これもあったと、支離滅裂に動揺する。どうも、僕は、質問に答える人で、ある問題をめぐってまとまった話をする人ではないのかも知れない。逃げ口上だな。


家の柴犬と散歩をしていると、突然不思議な世界に踏み込んでしまう時がある。彼の中の骨組みがやたら意識的に鮮明に見えてくる。それらが包み込んでいる内臓も見えてくる。僕も、ほぼ同じに出来ていて、でも足2本で立って、リードを握りながら、彼の後ろを歩いている。地球上にあって、僕が見ることのできるもの全ては、そこにそうしてある/いる事は証明され理解されていることになっている。見える見えないに関わらず、そこに在る物や事はそこに居る。突然、それらがそこにそうしていることが全部、ものすごく不思議に思えてくる。地球が地球になって以来、だいぶ時間がかかったにせよ、そこにそれがそうして居る、在る。うまい具合にそういう形になって、その様に。その中に、僕もまざっている。


ふと気付けば、木綿の下着に、石油から作った繊維の防寒下着を着、石油から作ったフリースと、ジャケットを重ね、靴なんか履いて。毛皮以外は裸の体を、ふわふわの肉球だけの裸の4本足で、僕と同じ地面の上を元気に歩いている、僕の体とほとんど同じ作りの少し小さい生き物を、紐でひきながら、僕は、歩いている。夕空を見上げて、美しいなんて、言ったりしている。とにかく、ここまで来たことを、広く自覚したい。