昨日16キロ歩いた。

でも別の基準では4里。
大したことはない。



2020年5月28日
乾いた空気。温度は高い。

最近昔の人のように歩いていくのが気になっている。でもスタートまでは電車。
主にしているのは、そんな事なので、話が切れ切れになる。すまぬ。

さて、4月29日からの朝刊に8回続いた宮城県美術館常設展作品の解説だが、僕は一応切り抜いておいた。多分今では、様々な方法で、切り抜いたりしていなくても後から見ることができるのだろうと思う。それを期待する。
もしそれができなくても、5月18日からは美術館が始まるので、実際に常設展を見に行けばいい。常設展だけを見るなら大人一人300円。基本的に特別な所/時を除いて、美術館で見るべきは常設展。大抵、時間に関するコストパフォーマンスは極めて安い。

紙面では、作品一つづつの解説をしているが、美術館に展示してある作品を見るときの最も面白いところは、これらが全部一緒に飾ってあるというところだ。作品の研究は学芸部学芸員諸氏にお願いしている普及部の学芸員は、ここからが仕事になる。比べて見るのだ。
せっかくカンディンスキーから!収集が始まっているのに、今回の作品の中に完全な抽象画が1点しかないのはちょっと残念?だが、2点ずつ8回全部で16点の作品をざっと続けて見てみると、いやはや凄いですね、バラバラ具合が。こんな感じに、全く統一性のない多種の作品を飾ってある家は、(美術館でもない限り)ないのではないか。ね、美術館でないと見られないのよ、こんなに広い範囲で多種多様な作品をきちんとまとめて見られるのは。普通、何かの好みで統一されてあるのが、いい趣味ですねということになる。では美術館は好みで統一されていないのか?

1回目が人物画なので、まずそこから見ていこう。そこからと言っても、だから、一つづつ見て行くということではない。
今回の16点のうち、人の顔(気配?)がわかるのは15点もある。風景画の中にも人が見える。本画と下書きの人は同じ人なのか?詳しく見ると、人が描いていないのは純粋に菅野さんの抽象画1点だけなのではないか?抽象画には人が見えないのかどうかについては、機会があったら後で詳しく考えてみよう。美術って、要するに人を描く/作ることだったのか?
下書きも含め、15点に描いて(作って)ある人がこんなに全部違う。どれが上手い人の描き方なの?全部上手い人の描き方なの?描いてあるものやことを、指示されたとうりに見るのではなく、意識的に自分で見る。そうするとわかるが、改めて自分で見ると、自分の知っている事しか
見る時には使えないことがわかる。今回の特集のように見ることを通して新しいことを知ることは面白いが、普通何気なく初めての対象を見る時に使えるのは、自分の知っていることだけだったのだ。もちろんそのために勉強をするわけだが、普通にものを見るときの勉強(練習)は美術に負うところがお大いにあると僕は考えている。初めての対象を自分で見るために、美術は、学校で小さい時から教えられる。

16作品のうち15点に人物が描いてある。見つけられた?西洋画、日本(東洋)画、彫刻、イラスト、版画。表現方法の分類だけでも多種多様。すべて丁寧に?描きこんである?けれど、すべて違う描き/作り方。あまり字を読まずに(美術だからね)、自分の中で古い順に並べ替えてみよう。小学校3年生までだったらどれを一番古いにするだろう。5年生ならどうだろう。中学生以上ならどうだろう。60歳以上なら?75歳以上なら?そしてあなたなら?というより、どういう完成を目指して作者は描いて/作っているのだろう。そこまで来たら初めて少し、作品にまつわる字を読む。解説はまだ読まない。

1909年って何時代だっけ、太平洋戦争は始まっていた?では1927年は?1930年は27年に近い。30年のあと36年にはたった6年の差で、こういう彫刻をつくる人がいた。同じ彫刻でも、戦争が終わった56年には、大工さんをつくる人が出る。とはいえ、それらの元になった西洋では、1893年にこういう絵を描く人がパリにいて、1914年になるとこういう人が出てきて、1900年代-20世紀に入った途端、カンディンスキーが、これらの制作を始める。そして、そのあたり、日本では最初に見た1909年の人の顔が描かれた。

その年(たとえば1930年)は何であったかというのは、各自自分に合わせて何か思い出すことを思い出せばいいだけのことだ。個人で絵を見ることは試験ではない。僕は、この前突然死んでしまった僕の美術のお師匠さんが生まれたのが昭和一桁で、1930何年かだったなあということを思い出した。そして僕は1951年生まれだ。そこから思い出せることをかき集めて、僕の世界を作る。そしてそれをかき集めてその世界を作っていた世界を鑑みる。基本的に世界はみんなこんなに違うのだ。

ええと、みんな時々忘れているように僕には思えるのでここであえて言うが、極端にわかりやすく言えば、明治時代まで私たちの国は基本的には鎖国をしていて、絵といったら日本画しかなかったことを忘れないようにしたい。又沖縄を除く僕たちの国には城壁を持った街(という西洋的な概念)がなかったので、城下町には西洋的な意味での広場がなく、道端の記念碑は石碑で主に字が彫ってあり、英雄の騎馬像ができたのは明治時代以降。だから日本人の本能に訴える彫刻とは仏像か根付のことで神様関係以外では細々した細工物のことだった。ほぼ毎日たっぷりとお湯を張ったお風呂に入っていて、基本混浴のお風呂屋が普通にあり、ほぼ全員農業に関わっていたから、男女を問わず道端で立ち小便をしていた。そういう社会文化のところに、ほぼ突然西洋という見たこともないところから近代というものの見方(世界の自覚の仕方)が入ってきて、その(主にキリスト教を基本にした世界の)近代という見方でものを見ないと世界人でなくなることになった。
ほとんど、いやはややっていらんないぜというなか、相当の変わり者と(多分)見られていた私たちの先輩の美術家が、これらの西洋絵画や彫刻を作り、これまた(多分)変わり者と思われていたその当時の先走りの文化関係の人たちがそ/これらを残しておいてくれた。
それを今、僕たちは、鑑みて賞賛(鑑賞)している。

ということは、5回目の大きなカブをみんなで抜いているような絵の描き方(線で形をなぞって色を塗り、背景は無視)が僕たちの国では主流で、2回目の2枚の風景画のような描き方は、絵を描く時には誰の頭にも思いも浮かばなかったということだ。
基本的に僕たちは背景を描かない。色の重なりではなく、線で、物の形をとる=見る。西洋では、上手に絵を描くいうことはもともとそういうものの見方ではなかったので、日本から新たな絵の書き方(本当は瀬戸物の包み紙だったらしい)が入ってきたとき、西洋の人たちは大爆発でみんな驚いた。あまりに違っていたので、相当決心して心を決めた人たちが、7回目の絵のようなポスターや絵を描いた。今、僕らが斬新なデザインのポスターに心が奪われるようにこれら日本の絵は、みんなの心を打った。なんだ好きに描けば良いんじゃん。ここまでだって、西洋の人はみんな好きに描いていたと思っていたのに、好きに描くって、もっと好きに出来たのだった。そして僕たちの国でも。それが、日本の西洋画の始まり方だったのではないか?

今回示された絵画の中で一番古いのは2回目にあった高橋由一の絵で、1881年に描かれた。そのほぼ10年後、パリでは7回目にあったロートレックのポスターが描かれていた。7回目のポスターと2回目の県庁入り口の絵がこんな風に違うのは、何がどうしてどうなったからなのかについて、各自つじつま合わせをしてみる。声に出さなければ、誰にも聞こえないから正しいかどうかは気にしなくていい。その時にどのくらい使えるネタが自分の記憶装置に入っているかが問われる。そのために、学校でつまんない(とその時は思っていた)勉強をしていたのだ。誤解、深読み、思い込み。美術に関わる時、学校で習うような学習ネタを、どのようにその人がしまっていたかが問われる。
誤解、深読み、思い込み。それがどのように肯定的に使用されるかで、その人の世界観の開放値が問われる。同じ物や事を見ても、観るのは各自なので、そこから各自にしまい込まれることは各自が違うほどに違う。絵を鑑賞するという行為は、この辺が一番面白いのではないか。




近代の意識。

私がここにいると
私が自覚すること。


2020年5月18日
曇り。うすら寒い湿った空気。

さて、4月29日からの朝刊に8回続いた宮城県美術館常設展作品の解説だが、僕は一応切り抜いておいた。多分今では、様々な方法で、切り抜いたりしていなくても後から見ることができるのだろうと思う。それを期待する。
もしそれができなくても、5月18日からは美術館が始まるので、実際に常設展を見に行けばいい。常設展だけを見るなら大人一人300円。基本的に特別な所/時を除いて、美術館で見るべきは常設展。大抵、時間に関するコストパフォーマンスは極めて安い。

紙面では、作品一つづつの解説をしているが、美術館に展示してある作品を見るときの最も面白いところは、これらが全部一緒に飾ってあるというところだ。作品の研究は学芸部学芸員諸氏にお願いしている普及部の学芸員は、ここからが仕事になる。比べて見るのだ。
せっかくカンディンスキーから!収集が始まっているのに、今回の作品の中に完全な抽象画が1点しかないのはちょっと残念?だが、2点ずつ8回全部で16点の作品をざっと続けて見てみると、いやはや凄いですね、バラバラ具合が。こんな感じに、全く統一性のない多種の作品を飾ってある家は、(美術館でもない限り)ないのではないか。ね、美術館でないと見られないのよ、こんなに広い範囲で多種多様な作品をきちんとまとめて見られるのは。普通、何かの好みで統一されてあるのが、いい趣味ですねということになる。では美術館は好みで統一されていないのか?

1回目が人物画なので、まずそこから見ていこう。そこからと言っても、だから、一つづつ見て行くということではない。
今回の16点のうち、人の顔(気配?)がわかるのは15点もある。風景画の中にも人が見える。本画と下書きの人は同じ人なのか?詳しく見ると、人が描いていないのは純粋に菅野さんの抽象画1点だけなのではないか?抽象画には人が見えないのかどうかについては、機会があったら後で詳しく考えてみよう。美術って、要するに人を描く/作ることだったのか?
下書きも含め、15点に描いて(作って)ある人がこんなに全部違う。どれが上手い人の描き方なの?全部上手い人の描き方なの?描いてあるものやことを、指示されたとうりに見るのではなく、意識的に自分で見る。
そうするとわかるが、改めて自分で見ると、自分の知っている事しか、見る時には使えないことがわかる。今回の特集のように見ることを通して新しいことを知ることは面白いが、普通何気なく初めての対象を見る時に使えるのは、自分の知っていることだけだったのだ。もちろんそのために勉強をするわけだが、普通にものを見るときの勉強(練習)は美術に負うところがお大いにあると僕は考えている。初めての対象を自分で見るために、美術は、学校で小さい時から教えられる。

16作品のうち15点に人物が描いてある。見つけられた?西洋画、日本(東洋)画、彫刻、イラスト、版画。表現方法の分類だけでも多種多様。すべて丁寧に?描きこんである?けれど、すべて違う描き/作り方。あまり字を読まずに(美術だからね)、自分の中で古い順に並べ替えてみよう。小学校3年生までだったらどれを一番古いにするだろう。5年生ならどうだろう。中学生以上ならどうだろう。60歳以上なら?75歳以上なら?そしてあなたなら?というより、どういう完成を目指して作者は描いて/作っているのだろう。そこまで来たら初めて少し、作品にまつわる字を読む。解説はまだ読まない。

1909年って何時代だっけ、太平洋戦争は始まっていた?では1927年は?1930年は27年に近い。30年のあと36年にはたった6年の差で、こういう彫刻をつくる人がいた。同じ彫刻でも、戦争が終わった56年には、大工さんをつくる人が出る。とはいえ、それらの元になった西洋では、1893年にこういう絵を描く人がパリにいて、1914年になるとこういう人が出てきて、1900年代-20世紀に入った途端、カンディンスキーが、これらの制作を始める。そして、そのあたり、日本では前に見た1909年の人の顔が描かれた。

ええと、みんな時々忘れているように僕には思えるので、ここであえて言うが、極端にわかりやすく言えば、明治時代まで私たちの国は基本的には鎖国をしていて、絵といったら日本画しかなかったことを忘れないようにしたい。又沖縄を除く僕たちの国には城壁を持った街(という西洋的な概念)がなかったので、城下町には西洋的な意味での広場がなく、道端の記念碑は石碑で主に字が彫ってあり、英雄の騎馬像ができたのは明治時代以降。だから日本人の本能に訴える彫刻とは仏像か根付のことで神様関係以外では細々した細工物のことだった。ほぼ毎日たっぷりとお湯を張ったお風呂に入っていて、基本混浴のお風呂屋が普通にあり、ほぼ全員農業に関わっていたから、男女を問わず道端で立ち小便をしていた。そういう社会文化のところに、ほぼ突然西洋という見たこともないところから近代というものの見方(世界の自覚の仕方)が入ってきて、その(主にキリスト教を基本にした世界の)近代という見方でものを見ないと人でなくなることになった。
ほとんど、いやはややっていらんないぜというなか、相当の変わり者と(多分)見られていた私たちの先輩の美術家が、これらの西洋絵画や彫刻を作り、これまた(多分)変わり者と思われていたその当時の先走りの文化関係の人たちがそれらを残しておいてくれた。それを今、僕たちは、鑑みて賞賛(鑑賞)している。



様々なことが心配だが、

今となっては
一つ一つ真摯に丁寧に、
生きていくしかない。

2020年5月13日
暖かい空気。ものすごく風が強く吹く。

僕の知っている20世紀では当たり前だったものやことが、今、僕が知っているものやことの世界では、なんだか不安定なものやことに変わってきているようだ。

21世紀に入って10年を過ぎた頃から、僕は僕個人の思考の中に占める電脳の割合に違和感を覚える自分を感じ始めた。生活が便利になることと、自分の生活が豊かになる感じは同じではない。同時にそれは、僕に、もう自分の知っている表現技法では、表現しきれない社会が始まっているのだなあと思わせた。
そしてそれを実感するような表現や行動を、例えば僕の子供たち(いや、孫たちか)が普通に始めていて、僕の表現家としての活動を少し縮めていた。書いてみて分かるが、僕は少し何かにうんざりし始めていたのだろうと思う。

2020年4月に入って世界が一気に収縮し始め、美術館も休館になった。そうしたらK新報朝刊に美術館常設展示物から毎回2点選んで、一人の学芸員が少し解説文を寄せるという企画が始まった。
あえて、一応書いておくが、学芸員とは、普通、学芸部の学芸員を指す。8回続き。今日(5月6日)で一応終了。現在常設展に使える収集品は多分5千点ぐらいあるはずで、2×8、16点で終わりは、ちょっともったいない。学芸員も、僕がいた頃はもっといたはずなのだが、今はもう8人しかいなくなったのかな。それだとしても、宮城県美術館には学芸部と並行して(教育)普及部が開館当初からあって、教育担当の学芸員が最初からいた(ことになっている)。
学芸部の学芸員は美術作品を公費で収拾するための調査研究が主な仕事で、だからもちろん今回の新聞の解説文のようなお話はスラスラといつでもできなければいけない。で、多分、日本中の相当の数の人たちが、美術館に飾ってある絵の解説は、このようなものだと思っていて、そのほとんどの人が、私は美術にあまり関心がないので、読まなかったり、ざっと目を通しておしまいになっていたりする。そうではないと本当にいいのだけれど、これまでの僕の経験ではそうなっていた。
あえて、一応改めて書いておくが、僕は、みんなのために働いていた(ほぼ35+4年の)間ずうっと、公立の美術館の普及部の(教育担当)学芸員だった。と、自分では思っている。教育担当学芸員は、日本以外の国では普通にあるのだが、日本では、学芸員という概念が何かすごく特別になっていて、研究者と学芸員は何がどう違うのかというようなことについて、軽く話してくれる人がいない。または、例えば、美術館にいる学芸員は、大学で美術を研究している人と、どこがどう違うのかを小学5年生にわかるように説明してくれる人がいない。話がどんどんずれていく。僕にはとても大切なことに思えるのだが、この辺りを博物館学博物館教育論でやっていることを聞いたことがあまりない。

教育は、日本では未だに強固に学校で(のみ)行われているかのように僕には見える。だからこそ、美術館などで行われる教育的な活動(社会教育)は、近代を過ぎた個人にとってはかけがいのないほど大切な教育に思える。
流れる水のように、すでに知っている多量の知識のプールから、まだ知らないことの多い個人の知識のプールに知識を流し込んでやるのは、あるところまでは必要なことで、わかりやすく言えば、学校での教育の仕事の本質はここにある。
だが、僕が美術館でわかった、個人が自立するという本質に目覚めた近代以降の世界では、個人のための教育はこの後に始まる。

あることをめぐって知らなかったことを知識として増やししまっておくことは一種の快感だ。けれど、それら知っていることを組み合わせ推測して世界を広げることこそ、それら知識を増やす目的だったのではないか。それができるようにきっかけを見つけるやり方を増やす方法を増やしておくことこそ、教育の目的だったのではないか。普通教育の中に表現系の、全く個人の資質に関わる教科が含まれている理由は、これらが、その活動の練習に最も簡単かつ直接関わることができるからだったのではないか。