様々なことが心配だが、

今となっては
一つ一つ真摯に丁寧に、
生きていくしかない。

2020年5月13日
暖かい空気。ものすごく風が強く吹く。

僕の知っている20世紀では当たり前だったものやことが、今、僕が知っているものやことの世界では、なんだか不安定なものやことに変わってきているようだ。

21世紀に入って10年を過ぎた頃から、僕は僕個人の思考の中に占める電脳の割合に違和感を覚える自分を感じ始めた。生活が便利になることと、自分の生活が豊かになる感じは同じではない。同時にそれは、僕に、もう自分の知っている表現技法では、表現しきれない社会が始まっているのだなあと思わせた。
そしてそれを実感するような表現や行動を、例えば僕の子供たち(いや、孫たちか)が普通に始めていて、僕の表現家としての活動を少し縮めていた。書いてみて分かるが、僕は少し何かにうんざりし始めていたのだろうと思う。

2020年4月に入って世界が一気に収縮し始め、美術館も休館になった。そうしたらK新報朝刊に美術館常設展示物から毎回2点選んで、一人の学芸員が少し解説文を寄せるという企画が始まった。
あえて、一応書いておくが、学芸員とは、普通、学芸部の学芸員を指す。8回続き。今日(5月6日)で一応終了。現在常設展に使える収集品は多分5千点ぐらいあるはずで、2×8、16点で終わりは、ちょっともったいない。学芸員も、僕がいた頃はもっといたはずなのだが、今はもう8人しかいなくなったのかな。それだとしても、宮城県美術館には学芸部と並行して(教育)普及部が開館当初からあって、教育担当の学芸員が最初からいた(ことになっている)。
学芸部の学芸員は美術作品を公費で収拾するための調査研究が主な仕事で、だからもちろん今回の新聞の解説文のようなお話はスラスラといつでもできなければいけない。で、多分、日本中の相当の数の人たちが、美術館に飾ってある絵の解説は、このようなものだと思っていて、そのほとんどの人が、私は美術にあまり関心がないので、読まなかったり、ざっと目を通しておしまいになっていたりする。そうではないと本当にいいのだけれど、これまでの僕の経験ではそうなっていた。
あえて、一応改めて書いておくが、僕は、みんなのために働いていた(ほぼ35+4年の)間ずうっと、公立の美術館の普及部の(教育担当)学芸員だった。と、自分では思っている。教育担当学芸員は、日本以外の国では普通にあるのだが、日本では、学芸員という概念が何かすごく特別になっていて、研究者と学芸員は何がどう違うのかというようなことについて、軽く話してくれる人がいない。または、例えば、美術館にいる学芸員は、大学で美術を研究している人と、どこがどう違うのかを小学5年生にわかるように説明してくれる人がいない。話がどんどんずれていく。僕にはとても大切なことに思えるのだが、この辺りを博物館学博物館教育論でやっていることを聞いたことがあまりない。

教育は、日本では未だに強固に学校で(のみ)行われているかのように僕には見える。だからこそ、美術館などで行われる教育的な活動(社会教育)は、近代を過ぎた個人にとってはかけがいのないほど大切な教育に思える。
流れる水のように、すでに知っている多量の知識のプールから、まだ知らないことの多い個人の知識のプールに知識を流し込んでやるのは、あるところまでは必要なことで、わかりやすく言えば、学校での教育の仕事の本質はここにある。
だが、僕が美術館でわかった、個人が自立するという本質に目覚めた近代以降の世界では、個人のための教育はこの後に始まる。

あることをめぐって知らなかったことを知識として増やししまっておくことは一種の快感だ。けれど、それら知っていることを組み合わせ推測して世界を広げることこそ、それら知識を増やす目的だったのではないか。それができるようにきっかけを見つけるやり方を増やす方法を増やしておくことこそ、教育の目的だったのではないか。普通教育の中に表現系の、全く個人の資質に関わる教科が含まれている理由は、これらが、その活動の練習に最も簡単かつ直接関わることができるからだったのではないか。