お散歩には最適の気温と天気の一日

 朝から、聖愛幼稚園年長16名+先生2+記録1名の、お別れ遠足で私の自主活動。
 10時に美術館に来て、できるだけ広瀬川沿いに歩いて、愛宕大橋のそばの幼稚園まで帰るという、「本当の探検」の遠足。

 こういうのは、誰でもできるというものではない、ことになっている。この幼稚園は、美術館開館当初から来てくれていて、私のいわゆる実験練習につき合ってくれている先生と、子供達。そのため、他の園は、使用者が増えてきた最近では、1園1年齢(年長だけとか)にしているところ、年少から、毎年1回で3年続けて来てもらって、成長にともなう変化などの観察ができる、という人たち。もう齋さんとそのやり方にになじんでいる。
 いわゆる、先生的な下見、下準備は無し。本当に、みんなで危険を「顧みながら」(顧みないで、ではなく)、探検で進んでいく練習。子供だけでなく、大人も。
 大人が、たぶんここで盛り上がって、とか、道々の活動を心づもりしていても、実際には、違うことが起こる。今回は、道路の横断だった。
 評定河原橋の北西の袂から、本当は歩いちゃいけない(今回の遠足は、この辺の練習をかねる)坂を上って橋に上がると、車道のガードレールのこっち側西側に出る。歩道は、反対側東側にしかない。交通量多め。横断歩道無し。16人を、まずガードレールの内側に、ギュウギュウ集め、「ここはやばいぜ」と、言い聞かす。ほぼ5人ずつ、抱き上げて(これがうれしいらしい)ガードレールを越させ、車道側のガードレールにへばりつかせる。で、大人が、両方向を見やり車の切れ目を見つけて、ほんとうは、全然大丈夫なのだが、「今だ、行けー」とやる。子供達、大きなリックを背負って、必死に向こう岸目指して走る。これを3回繰り返すと、全員横断終了。
 子供たちによると、これが、今回の探検の「本物の部分」だった。河原の大きい玉石の道を木の枝をよけながら進む、とか、穴蔵神社の暗い杉木立の踏み分け道を通って、知らないお墓の隣に出る、とか、おたまや幼稚園の人たちに塀の外からこんにちわするとか、では、全くなく、むりやり自分で道路を横切る。これが、大探検。もう、みんなどきどきニコニコなの。次の人達に「がんばれー」って言うことも忘れて、真剣に息をのんでみている。そうだ、これこそ探検だねえ。
 子供の目線で見るということは、本当に注意していないと、大人の想いとは、このようにずれてくる。彼らが、自分でする事、できるようになることの練習に、手間暇惜しまずつき合う。子供も、大人も、その方が遙かに簡単で充実するのに。そして、そこの所、お互い自覚できると、本当は、こんなこと誰でも(たぶん、人間なら)できるのだ。

02月11日曇でも小さい青空もあった

ほぼ一日、永岡さんという人のインタビュウを受ける。保育者養成についてを巡る考えの展開。体験を経験に変える練習について、詳しく検討。

 体験はみんな異なる、というのが、まず基本。なぜか、学校関係の人は、同じ体験は、みんな同じ経験と思っているみたい。各自の体験を確認し、それを総合的に見つめ直してその経験として、大枠の中に記憶する、って作業を丁寧にする。このあたりが、教育なのではないか。とすると、保育者を作るための教育では、どのようなことをすればいいのだろう。そう考えてみると、カリキュラムが、変わってくる。これまでやっていた授業も微妙に変わってくる。

晴 すごい青空

 「お父さんのひとりごと」を出版してから、だいぶたった。今、読み返すと、何か、違う齋正弘がそこにいて、訳知り顔にご託を並べているように思える。あの本を出して以降、何があったかを書き始めようとして、ま、いいかな、と思う。なんかいろいろなことがあった。あたりまえだ。何年たったのだろう。いろいろなことがあったので、もちろん、僕は少し変わった。少し、大人になったと書こうとして、うふふ、恥ずかしい、と思えるようになった、というのが正しい感じだ。「お父さんのひとりごと2」を書き始めようと思う。今度は、このような形で考えをまとめていく。


とはいえ、今、僕はどこにいるかは明らかにしておいた方がいい。この文は、宮城県岩沼市の自宅で書いている。2005年の4月から、実家のあったところに新たに家を建てて、長年住んだ県の官舎から移った。子供たちは、いよいよ、まったくいない。かわりにかみさんと、僕の父と一緒に暮らしている。82歳の人と暮らすと、暮らすことで起こる様々な事柄の方向が変わる。考えが向かう方向は、無限ではなく有限だったのだという感じが、明らかになる。前より気づき、考え、反省することが増えた。僕も、気を抜けば、こうなるのだという見本と、毎日をともにする。僕自身も、本物のおじいさんになったし。