鎌倉時代より前に
生きていた人たち。
一人でそこにいる時に
思い出す人たち。
そこに居ることの点検。
2018年5月2日
肌寒い曇り。でも乾いた空気。
沖縄県にいる上の娘が、沖縄市で個展をした。沖縄県立芸術大学に入る前から沖縄にいて、卒業後、東京や仙台では何回か展覧会をしているのに、沖縄での個展は卒展以外では初めて(のはず)。今回は絵の展示と一緒に、下地作りからの制作も公開した。ほぼ毎日、その日の絵の変化が、フェイスブックに載った。
そこに見える小さな写真が伝える、そのものすごく優しいものの見方を基に、劇的に葛藤する、毎日毎日の心の有り様の描き方(捻り出し方)に、僕は驚愕した。
高校の時に描いた最初の絵以来、彼女の描く表現は、自然に心からのその時その時の彼女で、彼女の表現を見ると、僕の表現がいかに意識的で非本質的なものか思い知らされる。なぜ、表現が僕たちの社会に必要なのかを、彼女の絵を見るたびに考え、自分の頭の中の世界を点検する。僕の遺伝子が彼女の中にあることが誇らしく嬉しい。
しばらく前に、気仙沼の陶芸家斎藤さんの窯のある山に行って、昔僕が作っていた作品を見る機会があった。彼が、僕の良い作品を持っていてくれる。また、岩沼で少し長い散歩をしていると、僕の彫刻の先生であるM.T氏の具象の作品に会うことがある。当然長い間働いていた宮城県美術館でも様々な作品を見た。気にしていなくても、様々な表現家が、常に様々な表現を様々な形で毎日発表しているという情報が身の回りに溢れる。僕たちの世界には、まだそれでももっと表現が必要なんだろうか。20世紀を経た上での表現。
としても、今、そこにいる心の(様々な意味での)肯定的な持ちようとその溢れ出し方を記しておくことの大切さを、彼女の制作の公開は僕に心強く教えてくれた。描かれていないかのような空間の下に、塗り込められた様々の深さと広さ。