どんな教育活動でも、
本当は受ける側に
その主体がある。

なのでその活動は常に
並列で見ることから始まる。




2013年 7月27日
ぼんやり暖かい湿った空気。
時々雨になる厚い曇。

ついこの前亡くなってしまった友人の石彫家菅野直子さんは、長い間角田の大蔵山を作業場にして石を彫っていた。大蔵山は古くから伊達冠石を掘り出す所で山田石材が管理している。伊達冠石は元々大きな卵形で赤土の中から掘り出され、回りを切り取って墓石などに使われている。宮城県南の黒い墓石のほとんどは、実はこの石ではなかったのだろうか。そのぐらい長い間この石は普通に墓石として使われてきた。

表面が一皮だけ赤く中身は真っ黒い硬い石。山を掘ると、中から赤くて丸い石がゴロゴロと出て来る。石を採ってそのままにしておくとそこはただの赤土の空き地になって、山は壊れて荒れていく。20世紀の終わり頃、僕とほぼ同じ年齢の山D正Hさんが社長になって、このままではいけないと山の再生をすることにした。山をただ元通りにするのではなく、全国からよんだ何人かの若い彫刻家と組んで様々な事業を絡めた再生を始めたのだ。赤土の広い空き地は基本的に牧草地になったり、様々な石を使った広範囲の造作物があちこちに建ったりできたりした。東欧からよんだ石組み職人による石の壁ができ、それを使った建物もできた。一時は頻繁にイベントや活動が組まれ、朝から夜遅くまで様々な時間と空間に起こる面白いことを体験しに、僕はそこに出かけた。何しろ空がくっきりと広く、西には蔵王の屏風が見渡せる。夜、星を見るのには最適だったし、草原に響くモンゴルの人がうなるホーミーなんか他では聞けない音だった。

バブルが終わって21世紀に入ったあたりから、そういういわゆる「ムダな動き」は様々な状況が重なって動きがにぶくなっていき、人の入れ替えなどもあり、僕はしばらく大倉山に行かなくなってしまった。何しろ、ちょっと遠い。

先週日曜日、ちょっと相談があって、いつも庭を見てもらっているH浦さんに来てもらった。庭の整備をしながら、彼女が質問をしてきた。僕の庭には、直子さんの石彫が少しあり、伊達冠石のかけらもあちこちに敷いてある。で、「この石は何なんですか?」という質問に答えながら、僕は本当にしばらくぶりで、大蔵山のことを、懐かしく肯定的に強く、思い出した。前置きが長いな。

どうやって大蔵山に行くのかを、僕は少し忘れていた。一時期、胞夫さんや子供達と行っていた場所で、目をつぶってもとは言わないが、全く自然に様々な方法と方向から行っていたはずなのに、地図上にそこを見つけるのに少し手こずった。大蔵山というのは、国土地理院の地図では見つけられなくて、GoogleMapを使って確認した。でも、確かにそこだったか。そこまでの道のイメージがよみがえらない。で、この前の雨のしょぼ降る火曜日、一緒に行くという明美さんをカングーに乗せて行ってみた。

まず東側からのアプローチ。船岡から手代木沼脇の農免道路を丸森に向い、斗蔵山への古い県道に入る。軽自動車用の道。所々整備された二車線が現れる。白石蔵王駅から来る別の県道と作るT字路を過ぎたらあと少しだ。ここまで来れば思い出す。イメージはよみがえってきた。山田石材現場へは道標がある。未舗装の登り。途中に昔は無かったしゃれた建築物があって、そこは山田石材のデザインセンターだった。もっと登る。霧が流れる原っぱが出てきて、そこが来たことがある大蔵山のメインステージだった。山田石材、大蔵山、山堂。やや遠いが、もっと色々使いたくなる状況が未だそこにあった。
帰りは山を降りたら少し戻って、県道24号線と150号線のT字路を白石蔵王駅の方にとり、とにかく真直ぐ進めば、直通で国道4号線に出られる。道路沿いの店で白石温麺を食って帰宅。これが西側からのアプローチ。こっちからの方が距離的に遠いが早い。

今は夏で草の茂り具合がすごいから、いやはや大変に見えるが、時期と天候が合えば、大蔵山の使い方は様々広範囲に考えられるように思う。しばらく気にかけて行こうと思った。






教育の主体は
常に受ける側にある。

その人がしたいことの
相談に乗る。=教育。



2013年 7月16日  曇り。乾いた涼しい空気。無風。

明日、仙台市泉区K茂小に図工の授業をしに行く約束がある。というブログを、今、仙台宮城インター脇にある、そあとの庭で書いている。今日は火曜日で、毎月第2と第3火曜日、僕はそあとの庭で「何でも相談」を開いている。ほぼ毎回児童館での様々なワークショップの相談がある。いつも具体的な相談なので毎回快調。

この前の日曜、公務員になったばかりの頃に住んでいた、向山にある私立幼稚園の父親会に呼ばれて朝8時から回りの森の探索。9月に父母会主催の活動をするので相談に乗ってくれというリクエスト。始め美術館に来るための相談だったが、せっかくだから自分達の身の回りで探検をということにして、それへの回答。しばらく(20年ぐらいか?)ぶりに県中央児童館下の林(森?)に男子5人で入る。踏み分け道は一応全部点検し、メインロードから枝分かれする高校や小学校へのルートも見て回る。道は僕がいた頃と同じままだった。だが彼等は、中央児童館(現在建物立ち入り禁止)を含め、ほぼすべてのエリアが全く初めてなのだった。天気がすごくよかったので、木漏れ日凄まじく、苔むした廃墟?もあり、全くトトロともののけの世界。僕も含め全員声もない程に感動。何もしないで、丁寧なお散歩をするだけでいいよねとなる。10時頃に終了。せっかくなので、しばらく来ていなかった、野草園、大年寺山を廻って帰宅。どちらも、記憶していた物よりぐっと近代化されていて、動揺。東北大植物園にも行ってみなければと思う。帰り道、今年初めての冷やし中華を食う。夜に、連絡していた友人が残っていたオフロードバイクを取りにきた。これで、今、僕の家にモーターサイクルが1台もない状態になった。特に何ということはないのだが、なぜか心もとない不思議な感じ。新たなカブは9月に来ると連絡あり。しばらくこの心細さを楽しもう。

一人でいることの
何でもなさとかっこよさ。

その自覚から始まる
あなたと私。

そうなれば
私は既にあなたでもある。


2013年 7月9日 
薄く青空の見える曇。湿気った動かない空気。

明日は62歳の誕生日だ。それで先週自動車免許証の書き換えに行ってきた。これまで何も考えることなく七北田のセンターで書き換えをしてきていたが、今回は意識的に仙南免許センターに行くことにした。小雨模様の日、余裕を持って家を出て、初めての道だったが8時ぐらいには着いた。僕の前に待っていた人は二人。決してガラガラではないが、全体に余裕のある込み具合。今回はブルー免許なので、1時間講習。今回もうまくニコッとできなかった写真の免許証。

少し前に、図書館から借りてきた片岡義男の小説を読んで動揺したことを書いた。それでその後しばらく、家に残しておいた彼の論評やエッセイ、ハードカバーの小説を読んだ。赤い背のカバーの角川文庫は、全册持っていたのだが、脳内出血復帰以来、整理して古本屋に売ってしまった。高校生以来彼の書く話は僕の言葉に深く影響を与えていたが、2000年を超えたあたりでもういいだろうという気がしたのだと思う。

新たに読んだお話はすべて面白かった。孤立することは清々しく肯定的で、近代の個人はすべて、まず私は一人だという所からだけ始まるのだった。ううむ忘れていた。僕はもっと意味のある言葉を話そうとしていたはずではなかったか。少なくとも、「よろしく」「頑張る」「うん」というような日本語では全く普通の言葉は意識的に使わないようにしていたはずだったのに。たぶん普及部長になったあたりからこれらの日本語を無意識に使うようになって、僕の孤立した個人としての集中力は急激に低下したのではないか。これらの日本語を無意識に使えるようにならないと部長にはなれなかったのだと、今になってわかる。僕は角の取れた日本の大人になったのだ。集中力と覚悟。みんなに伝えるべき物の見方を、もう一度自覚的に書き始めてみようかと思い始めた。