一人でいることの
何でもなさとかっこよさ。
その自覚から始まる
あなたと私。
そうなれば
私は既にあなたでもある。
2013年 7月9日
薄く青空の見える曇。湿気った動かない空気。
明日は62歳の誕生日だ。それで先週自動車免許証の書き換えに行ってきた。これまで何も考えることなく七北田のセンターで書き換えをしてきていたが、今回は意識的に仙南免許センターに行くことにした。小雨模様の日、余裕を持って家を出て、初めての道だったが8時ぐらいには着いた。僕の前に待っていた人は二人。決してガラガラではないが、全体に余裕のある込み具合。今回はブルー免許なので、1時間講習。今回もうまくニコッとできなかった写真の免許証。
少し前に、図書館から借りてきた片岡義男の小説を読んで動揺したことを書いた。それでその後しばらく、家に残しておいた彼の論評やエッセイ、ハードカバーの小説を読んだ。赤い背のカバーの角川文庫は、全册持っていたのだが、脳内出血復帰以来、整理して古本屋に売ってしまった。高校生以来彼の書く話は僕の言葉に深く影響を与えていたが、2000年を超えたあたりでもういいだろうという気がしたのだと思う。
新たに読んだお話はすべて面白かった。孤立することは清々しく肯定的で、近代の個人はすべて、まず私は一人だという所からだけ始まるのだった。ううむ忘れていた。僕はもっと意味のある言葉を話そうとしていたはずではなかったか。少なくとも、「よろしく」「頑張る」「うん」というような日本語では全く普通の言葉は意識的に使わないようにしていたはずだったのに。たぶん普及部長になったあたりからこれらの日本語を無意識に使うようになって、僕の孤立した個人としての集中力は急激に低下したのではないか。これらの日本語を無意識に使えるようにならないと部長にはなれなかったのだと、今になってわかる。僕は角の取れた日本の大人になったのだ。集中力と覚悟。みんなに伝えるべき物の見方を、もう一度自覚的に書き始めてみようかと思い始めた。