見るのは自分。

自分に見えないものは

世界には無いもの。

見えるものだけが在るもの。


2020年10月8日  寒い空気。小雨。


10月になると、何回か子供との活動が始まってくるので、時間が取れるうちにと、9月末に秋田の大湯環状列石を見に行った。縄文期の遺跡は、身近にも何箇所かあるが、青森の三内丸山遺跡を訪れた時の記憶は深く僕の意識に何かをもたらした。そうか東北に生まれたということはこういう自覚を感じるということだったのかというような。でもその時はなにか誇らしく暖かい感じであることは自覚できたが、そんなに明快なものではなかったと思う。


だいぶ経ってから機会があって北九州に行くことがあり、時間をとって吉野ヶ里遺跡に1日ブラブラといた。そこは堀と丸太を立てた城壁に囲まれた堅固なお城だった。戦うのが前提にあるやる気満々の村だった。

丸山三内で感じたものが何だったのかはっきりと心に出てきた。そうか、僕は縄文の人達から始まってここにいるのだなあというような。どこの遺跡でも、たいてい建物のような目に見えるものを作っている。縄文期なら竪穴住居という風に。


1980年代、ある事情で仙台から弘前まで125ccのモーターサイクルを運ぶということになり、僕がその仕事を引き受けた。その当時東北自動車道があったかどうか覚えていないが、 どちらにしろ、125cc では、ずうっと下道を行くしか無い。その車がラフロード仕様であったことをいいことに、僕は主に未舗装の道を選んで山沿いに弘前まで行ったと記憶している。特別にそこを見ようとしていたわけではなかったが、もうすぐ弘前につくというあたりの林の中の原っぱに、その平たい遺跡はこじんまりと突然あった。


今年の夏休み中に、今は大人数になった家族と一緒に丸山三内遺跡をもう一度 見に行こうと計画していたが、様々な理由が重なってできなかった。最近僕は、何回も書いている通り、近くの里山を巡り歩くのを喜びとしている。標高は低いが、戦国時代以来の名前の付いた峠をいくつも超えて4里5里と自動車の音が聞こえる雑木林の中を歩いていると、この道を踏み分け道にしてくれた人々がすぐ前の木の裏側を歩いているような気がしてきて面白い。物でなくそういう気配が「見られる」遺跡として、環状列石は最適ではないかと突然思ったのだ。今は、高速道が隅々まで走っているので、大湯環状列石は思ったよりすぐ目の前に現れた。


地図で確かめた時は、インターチェンジを降りてから細い山道のようなところを、ウロウロ探し回っていくのかと思っていたのだが、今は何も見ずに道路標識だけを頼りに行っても広い道を通って、施設のビジターセンター駐車場に着く。ううむ、この前来たのは、ほぼ40年ほど前だったのだ。今、ここは世界遺産になろうとしている。

天気がすごく良かったので、秋の青空のもと、広い原っぱに栗の林が点在し、その合間に、多くの石が丸く四角く敷き詰められ並べられている。見学する前に呆然としばらくウロウロする。ブラブラする。いやはや困ったもんだなあ。ここには見えるように周りを囲む堀はなく、丸太を隙間なく立て並べた防御塀も無い。ただぼんやりと呆然と原っぱがある。この風景の有り様が、僕たちの存在の基本なのではなかったのでは無いかという当たりを心に留めておきたい。



最近になって美術館教育をめぐって思うこと3

◽️図工から美術へ

だいぶ前に死んでしまった僕の母(大正15年生まれ)は、美術の抽象作品について、「勉強しないとわかんないものだ」と言っていた。テレビのクイズ番組でいい成績を取れるのが、勉強ができるということでは無い。


人間にしか気付けないことを一見無駄に見えても、真面目に深く考える時に使うために、僕たちは小さい頃から勉強をする。自分が知っていることしか見えないからだ。そこの当たりを知っていれば、多分問題無く人生は進んでいく(ように思う)。前半が図工を学ぶ理由で、後半が、美術を学ぶ理由だ。


見えているものを見えるように描いてみる。そうすることで、自分が見えているものは知っているものになることが確認できる。小さい頃に様々見える(見えない)物を見えるように描く練習をするのは大切だ。上手い人と下手な人は、何がどうなのでそうなのだろう。見えるものを上手く描くのは主に、(丁寧な)運動神経(の使い方)なのだが、見えるものやことを言葉にできるかも問われる。言葉は人によって違うということも含めて。そう考えて、まだ小さい人たちの描くものを見ると、その人の、そしてそれを見る人の見えている世界(世界観)が見えてくる。僕が知っている範囲では、これまで、グチャグチャと絵を描く人はいない。その時その人はそういう風に世界(自分の外側)を見ているのだ。

抽象的な事物について自覚しようがしまいが、歳をとるにつれて世の中は複雑になっていく。そういう世界が自覚できれば、描けるものは具体的な事物を超えて表現されていく。20世紀初頭に抽象画という描き方が発明されるまで、人間には抽象画はなかったのだということを自覚したい。近代がみんなに自覚されるまで、多分、僕たちに抽象画は必要なかったのだ。という物(世界)の味方。


そういう自覚で学校での図工美術の時間を点検してみると、なんだか無駄な時間を過ごしてきていなかったか点検したくなる。図工はまだいいとしても、美術はどうだろうか。

美術館は美術だけをする。図工はあるのか無いのか、点検するだけでも面白いはずだ。


始めた時は気づいていなかったように思うが、美術館に創作室というワークショップを作った時、僕は無意識にそういうことを、始めていたように思う。




 違和感の点検。

点検の深さ。

自覚すべき自己。


2020年 9月13日   多分秋の風。湿気の多い空気。


この前、思えばしばらくぶり(今年の夏はことのほか暑かった)で、亘理山元の潮風トレイルに行った。常磐線亘理駅で降り、亘理中裏から入って、閑居山夜討峠黒森山を経て、四方山まで。

10時に家を出て、岩沼駅から電車に乗り、亘理駅から歩いて里山に入り、3里ほど歩いて里に下り、浜吉田駅から電車で帰宅。四方山下、吉田の里に下りてからが遠い浜吉田駅に行く間に雨に降られたが、それも含めて基本的に快適な長い散歩。

このまま山下の深山までとも思ったが、左足薬指のマメが少し痛くなったのを理由に今日は帰ろう、にした。様々な発見があり、新たに歩きたい所も増えた。近場は本当に面白く深い。


最近になって美術館教育をめぐって思うこと 2

⬜︎違和感のあり方

今になると解るが、当時も今も、僕にとって「生きる」は、「美術家として生きる」ということで、雇われた仕事をいわゆる社会的な意味での仕事と理解できていなかった(今も)のではないかと思う。その当時僕の上司だった人たち(大学以来のT/Kさんや、その当時の責任者のS/Tさん等)が、いかに僕をフォロウしていてくれたかを理解するのは、ズウッと後になってからだ。


若い人からの質問で、制作者としての自分と美術館教育担当者としての自分は、どのように分けているのですかというものがあったが、今になって思えば、僕は特に考えていなかったのだろうと思う。その当時に書いたものの中にも、「作品を作るのと同じ!に、コンセプトを整理してシンプルにし、それに伴う活動は、できるだけダイレクトに」としたのを覚えている。これは、宮教大でしつこく叩き込まれた美術制作のコツだ。


僕の美術館での教育活動は、最初から(図工でなく)美術(制作)教育だったのだ。そうすると、それは、個人の確立を目指すから、目標は各個人に戻って、日本の学校的な意味での統一された目標ははっきり見えてこない。

その当時から日本の教育現場に現れてきたいわゆる「ワークショップ」は、僕にとってはニューヨークで僕の居たブルックリン美術館付属美術学校での授業そのままだったので、何の抵抗もなくそういうものだろうと思っていた。ちょうどその頃何回かヨーロッパやアメリカから、美術館教育や、ワークショップの専門家が来て、話を聞く機会があった。美術館教育の人たちと一緒にその話を聞いたのだが、その後の懇談会や、話し合いで、僕が感じたのは、違和感だった。

そこで、敏感な人なら気づくべきだったのだろう。そのころ、そういう会合で、「齋君は、最後に面倒臭い発言をして、まとまりかけた話を元に戻してしまってばかりいる」と言われることがあった。その問題はそんなに簡単に簡便に要領よく話せるものではないというあたりを、僕は話したかったのだろう(と今なら思う)。美術をめぐる話は、簡単に言えるものではない。そうであるなら作品なんか作らないで済む。という活動。










既に知っていること。

そこから、

想像すること。

それこそ、未来。

2020年 9月7日  台風が来ているが快晴。気温の高い湿った空気。


この文章は2007年に登録された(ということがわかった)iMacで書いている。これまで、この機械は動きが遅くなってきて、僕のキーボード操作にすらついてこれなくなって、もう買い替えだと思っていた。だが様々あって、義理の息子にちょっと問題を言って見てもらったら、実は、もう一方のMcBookの方にこそ問題があって、そちらを、最新のiPadに変えた。今練習中。これ(電脳ときちんと付き合う)をやるとよくわかるのだが、僕は、自分で決めて、自分の頭で、やりたい人のようなのだ。僕もそのうち辞書を引くように電脳に聞けるようになるのだろうか?本能的に嫌だなと言っている自分を意識する毎日。ここに書いた出来事は、僕が理解している範囲内でまとめていて、本当は、もっと物凄いことになっているのだが、それを書き始めるとそれだけで終わってしまうので割愛。iMacは至って、元気なのだった。


さて、最近、日本の遠くに住む若い友人から美術、美術館、美術館教育をめぐる質問のメールが来るようになった。答えるのは簡単だ。ものすごく基本的な質問だからだ。で、それらに答えていて考えたのだが、そうか、この辺りについて、これまで、僕はものすごくとばして話をしていたなということに気づいた。しばらくその質問に沿って、思うところを書いておいておこうと思う。


最近になって美術館教育をめぐって思うこと

⬜︎違和感をめぐって

最初MAM(宮城県美術館)に雇われた頃、まず日本中の美術館の教育関係施設とシステムを見て回った。

宮城教育大学美術科を卒業して、そのままニューヨークに渡り、3年間現代美術を勉強して、もうアメリカに住もうと決めて、子供もできて最後の顔見せに帰ってきた時だった。

近いところから遠いところまで(しかし全部国内)見て回ったが、みんななかなかよくやっていた。僕は、基本実に素直な良い子供だったのだ。ただ、何か全体な違和感が消えなかった。そしてその時は、その違和感が何なのかを考える気もなかった。さて、この違和感は何なのだろう。今なら点検できそうなきがする。


そういう基本を胸に、僕は、MAMの教育の方向を具体的な活動にしていった。

だから始めた最初の形は、ごく普通の他の(県立)美術館で行われているものとそんなに変わらないものだった(と思う)。多分一番他と違っていたところは、地元作家が美術館を制作から鑑賞まで、様々使いに来てくれるような気を遣っていたところではなかったか。美術館の制作(創作)室=ワークショップは、作家が制作するのを援助できるレベルで考えていた。図工室ではなく、作家用工房。基本、創作活動は、個人が個人のペースで個人的にする。でも、そんな中で、大きいバンドソウや、電気溶接や、何やかにやがそのひと時だけ必要になる時がある。木を削った作業をしている時の最後の台を作る時。基本的に生花の制作なのだが、いわゆるオブジェと呼ばれる、様々な素材を組み合わせる時。制作には、最後まで単一の素材で終わるということはない時も多い。そういう時、地元の美術の可能性を助ける、地元の美術館は何をどうすればいいのか。学校で学ぶ(習うでなく)のでなく、制作としての美術への視点。その辺りをもそもそ考えて(言い訳て)いた。まだ、僕は、強く制作者だった。





意識していないと、
違和感に気づかない。

違和感を点検する。

自分はそういう人だったのだ。



2020年 7月 8日
夜明け、目が覚める程の降雨。
気温高し。

退職以降、意識的に社会とは積極的な関係は持たないと心に決めているので、普段は、不要不急なことしかしていない。

朝、出勤登校する人たちが出てから、新聞受けの朝刊をとって2階のキッチンに行くと、義理の息子のD作が珈琲とヨーグルトを用意してくれている。
マグ1杯の珈琲に小岩井乳業の大きい瓶牛乳を少し入れてレンジにかけ温め直している間に、彼が作った自家製のカンパーニュを薄く切った1枚に、これまた彼のお手製の庭の枇杷の木になった実から作ったジャムをつけたものと、ヨーグルトに友人にもらった梅シロップをかけたものをカップ1杯準備し、老眼鏡にメガネをかけ直して新聞を隅々まで読みながらゆっくりよく噛んで朝飯。さて、今日は何しようかな?という毎日。

愛用の長い木の杖を持って岩沼駅まで歩き、常磐線の電車で近くの駅まで行って、そこから歩いて山(と言っても高さ190mとかだが)に登り、尾根を伝って一つ先の駅に近いところに降りて、知らない新しい駅で、ゆっくり/ぼんやり電車を待ち、帰宅。
最近、子供達から、何処かかわけのわからない所で倒れても見つけられるように、GPS機能のついた携帯電話にしてと言われたりしている。

どうも、こういうのが、最近の僕のある表現になってきていて、物を作ることには、意欲があまりわかない。

つい素直に書いてみたけれど、読み返すとなんとも恥ずかしい。恥ずかしいと書くのが、なんとも昭和的だなあとは思う。でも、心あるうちに、一生懸命毎日美術を行動してきた結果、こういう風に歳をとって、一応毎日楽しく生きていると思えているのだから仕方ない。
歳をとった人間がきちんと生きるというのはどういうことなのか、一人で考えている。


まず、一人でよく考える。

その逆を考える。

その上で、一人で決める。

2020年 7月 7日
蒸し暑い曇り。

この前書いてから、美術館を巡る文をもう少し書いていたのだが、時間が、僕の感じと全く離れて進んでいる感じなので、 ちょっと休む。美術館を巡っては、前に書いた文から、新たに(僕にとっては)見えてきた考えを別にまとめたい。その間に起こったこと。

しばらく前に、昔からの友人のO林君が大病から社会復帰してきた。彼は100日間ほど入院して大手術をし、退院したら、身体障害1級になってしまっていたのですよと、電話の向こうで軽く話していた。これは軽い話ではない。でも、そういう人なのだ。
昔からの、ということは、一緒にモーターサイクルで遊んだり、自転車で走り回ったりというあたりからということだ。復帰後、うまく自動車を運転できなくなったので、何か余っているモーターサイクルはないですかと電話してきた。ううむ、最近は歩き回ることが多くなって、あまり乗っていないホンダのクロスカブなら貸せるよ。でも、車ダメなら、モーターサイクルはもっとダメなんじゃない? でもとにかく使ってもらうことになった。問題は、彼は今、石巻の実家にいることだ。持ってってあげなければいけない。面白そう。

岩沼から新たにできた貞山堀沿いの堤防の上を北上。名取の空港線の下を過ぎて県道10号と合流。名取川を超えてから北は、震災後僕の行っていないエリアだ。物の位置や名前は、昔モーターサイクルで走りまわっていた場所なのでよく知っているのだが、目に見えるものは、全く異なる、高さや広さや、出来具合が、全く変わっている。
七北田川を越えたら、すぐ左折して東道路をくぐり、そのまま直進できるようになっていた。45号線、仙石線、東北線、新幹線などをいつ横切ったか気づかないまま大きな橋でまとめて超えていく。道はそのまま利府街道につながる。僕が脳内出血を直してもらった仙台東脳神経外科病院が左手に見えるT字路で左へ、もう岩切なのだ。そのまま昔の利府街道を直進して、東道路の松島海岸インターチェンジで海岸側に曲がる。西行戻りの松への十字路を左に曲がって古い温泉のある(昔は)山道を愛宕駅の方に進む。風景(ということは道路)がほとんど僕の知っている記憶とは変わっていて、何回も来たことがある道なのに、新しいところを走っている感じ。
東北線愛宕駅の南でガードをくぐり45号線に出る。そのまま奥松島道路に乗るつもりなのだが、今回は45号線を左に曲がって、高城町の裏からその道に出る。で、こういう時は何故か工事とかしていることになっていて、今回も素直には出られず、何とか出る。出ても、本当にしばらくぶりで、かつ道路も新しくなっているわけだから、この道が僕の知っている奥松島道路だと確信が持てるまで、しばらくかかる。
鳴瀬川を渡る橋に出るため、野蒜の突き当たりまでは行かず、新しくできた野蒜駅の方に曲がる。この辺の山も、昔はモーターサイクルでよく走り回っていたところのはずだが、もう全く見当がつかなくなっている。
橋を渡ったらすぐ見える右手の田んぼの中の道へ降りて、航空自衛隊松島基地の海岸側のダートを石巻工業港まで行き、そこから電話するという目論見だったが、全く変わっていて、だいたい田んぼの中の道にダイレクトに降りられない。少し小野の街の中を戻り、成瀬川堤防から田んぼの中の舗装路に入り、右往左往しながら、基地の45号線側にある広くかさ上げされた道を地図を確認しながら(と言っても僕の持っている2018年の地図には書いてない道ばかりなのだが)知らないうちに日和山の麓までたどり着く。いや、電話して場所を確認したら着いていた、が正しい。そこから先は昔のままで、やや動揺しながら、昔の方法?で到着。いやあ、面白かった。だいたい道わかったから、今度は車で来れるな。



昨日16キロ歩いた。

でも別の基準では4里。
大したことはない。



2020年5月28日
乾いた空気。温度は高い。

最近昔の人のように歩いていくのが気になっている。でもスタートまでは電車。
主にしているのは、そんな事なので、話が切れ切れになる。すまぬ。

さて、4月29日からの朝刊に8回続いた宮城県美術館常設展作品の解説だが、僕は一応切り抜いておいた。多分今では、様々な方法で、切り抜いたりしていなくても後から見ることができるのだろうと思う。それを期待する。
もしそれができなくても、5月18日からは美術館が始まるので、実際に常設展を見に行けばいい。常設展だけを見るなら大人一人300円。基本的に特別な所/時を除いて、美術館で見るべきは常設展。大抵、時間に関するコストパフォーマンスは極めて安い。

紙面では、作品一つづつの解説をしているが、美術館に展示してある作品を見るときの最も面白いところは、これらが全部一緒に飾ってあるというところだ。作品の研究は学芸部学芸員諸氏にお願いしている普及部の学芸員は、ここからが仕事になる。比べて見るのだ。
せっかくカンディンスキーから!収集が始まっているのに、今回の作品の中に完全な抽象画が1点しかないのはちょっと残念?だが、2点ずつ8回全部で16点の作品をざっと続けて見てみると、いやはや凄いですね、バラバラ具合が。こんな感じに、全く統一性のない多種の作品を飾ってある家は、(美術館でもない限り)ないのではないか。ね、美術館でないと見られないのよ、こんなに広い範囲で多種多様な作品をきちんとまとめて見られるのは。普通、何かの好みで統一されてあるのが、いい趣味ですねということになる。では美術館は好みで統一されていないのか?

1回目が人物画なので、まずそこから見ていこう。そこからと言っても、だから、一つづつ見て行くということではない。
今回の16点のうち、人の顔(気配?)がわかるのは15点もある。風景画の中にも人が見える。本画と下書きの人は同じ人なのか?詳しく見ると、人が描いていないのは純粋に菅野さんの抽象画1点だけなのではないか?抽象画には人が見えないのかどうかについては、機会があったら後で詳しく考えてみよう。美術って、要するに人を描く/作ることだったのか?
下書きも含め、15点に描いて(作って)ある人がこんなに全部違う。どれが上手い人の描き方なの?全部上手い人の描き方なの?描いてあるものやことを、指示されたとうりに見るのではなく、意識的に自分で見る。そうするとわかるが、改めて自分で見ると、自分の知っている事しか
見る時には使えないことがわかる。今回の特集のように見ることを通して新しいことを知ることは面白いが、普通何気なく初めての対象を見る時に使えるのは、自分の知っていることだけだったのだ。もちろんそのために勉強をするわけだが、普通にものを見るときの勉強(練習)は美術に負うところがお大いにあると僕は考えている。初めての対象を自分で見るために、美術は、学校で小さい時から教えられる。

16作品のうち15点に人物が描いてある。見つけられた?西洋画、日本(東洋)画、彫刻、イラスト、版画。表現方法の分類だけでも多種多様。すべて丁寧に?描きこんである?けれど、すべて違う描き/作り方。あまり字を読まずに(美術だからね)、自分の中で古い順に並べ替えてみよう。小学校3年生までだったらどれを一番古いにするだろう。5年生ならどうだろう。中学生以上ならどうだろう。60歳以上なら?75歳以上なら?そしてあなたなら?というより、どういう完成を目指して作者は描いて/作っているのだろう。そこまで来たら初めて少し、作品にまつわる字を読む。解説はまだ読まない。

1909年って何時代だっけ、太平洋戦争は始まっていた?では1927年は?1930年は27年に近い。30年のあと36年にはたった6年の差で、こういう彫刻をつくる人がいた。同じ彫刻でも、戦争が終わった56年には、大工さんをつくる人が出る。とはいえ、それらの元になった西洋では、1893年にこういう絵を描く人がパリにいて、1914年になるとこういう人が出てきて、1900年代-20世紀に入った途端、カンディンスキーが、これらの制作を始める。そして、そのあたり、日本では最初に見た1909年の人の顔が描かれた。

その年(たとえば1930年)は何であったかというのは、各自自分に合わせて何か思い出すことを思い出せばいいだけのことだ。個人で絵を見ることは試験ではない。僕は、この前突然死んでしまった僕の美術のお師匠さんが生まれたのが昭和一桁で、1930何年かだったなあということを思い出した。そして僕は1951年生まれだ。そこから思い出せることをかき集めて、僕の世界を作る。そしてそれをかき集めてその世界を作っていた世界を鑑みる。基本的に世界はみんなこんなに違うのだ。

ええと、みんな時々忘れているように僕には思えるのでここであえて言うが、極端にわかりやすく言えば、明治時代まで私たちの国は基本的には鎖国をしていて、絵といったら日本画しかなかったことを忘れないようにしたい。又沖縄を除く僕たちの国には城壁を持った街(という西洋的な概念)がなかったので、城下町には西洋的な意味での広場がなく、道端の記念碑は石碑で主に字が彫ってあり、英雄の騎馬像ができたのは明治時代以降。だから日本人の本能に訴える彫刻とは仏像か根付のことで神様関係以外では細々した細工物のことだった。ほぼ毎日たっぷりとお湯を張ったお風呂に入っていて、基本混浴のお風呂屋が普通にあり、ほぼ全員農業に関わっていたから、男女を問わず道端で立ち小便をしていた。そういう社会文化のところに、ほぼ突然西洋という見たこともないところから近代というものの見方(世界の自覚の仕方)が入ってきて、その(主にキリスト教を基本にした世界の)近代という見方でものを見ないと世界人でなくなることになった。
ほとんど、いやはややっていらんないぜというなか、相当の変わり者と(多分)見られていた私たちの先輩の美術家が、これらの西洋絵画や彫刻を作り、これまた(多分)変わり者と思われていたその当時の先走りの文化関係の人たちがそ/これらを残しておいてくれた。
それを今、僕たちは、鑑みて賞賛(鑑賞)している。

ということは、5回目の大きなカブをみんなで抜いているような絵の描き方(線で形をなぞって色を塗り、背景は無視)が僕たちの国では主流で、2回目の2枚の風景画のような描き方は、絵を描く時には誰の頭にも思いも浮かばなかったということだ。
基本的に僕たちは背景を描かない。色の重なりではなく、線で、物の形をとる=見る。西洋では、上手に絵を描くいうことはもともとそういうものの見方ではなかったので、日本から新たな絵の書き方(本当は瀬戸物の包み紙だったらしい)が入ってきたとき、西洋の人たちは大爆発でみんな驚いた。あまりに違っていたので、相当決心して心を決めた人たちが、7回目の絵のようなポスターや絵を描いた。今、僕らが斬新なデザインのポスターに心が奪われるようにこれら日本の絵は、みんなの心を打った。なんだ好きに描けば良いんじゃん。ここまでだって、西洋の人はみんな好きに描いていたと思っていたのに、好きに描くって、もっと好きに出来たのだった。そして僕たちの国でも。それが、日本の西洋画の始まり方だったのではないか?

今回示された絵画の中で一番古いのは2回目にあった高橋由一の絵で、1881年に描かれた。そのほぼ10年後、パリでは7回目にあったロートレックのポスターが描かれていた。7回目のポスターと2回目の県庁入り口の絵がこんな風に違うのは、何がどうしてどうなったからなのかについて、各自つじつま合わせをしてみる。声に出さなければ、誰にも聞こえないから正しいかどうかは気にしなくていい。その時にどのくらい使えるネタが自分の記憶装置に入っているかが問われる。そのために、学校でつまんない(とその時は思っていた)勉強をしていたのだ。誤解、深読み、思い込み。美術に関わる時、学校で習うような学習ネタを、どのようにその人がしまっていたかが問われる。
誤解、深読み、思い込み。それがどのように肯定的に使用されるかで、その人の世界観の開放値が問われる。同じ物や事を見ても、観るのは各自なので、そこから各自にしまい込まれることは各自が違うほどに違う。絵を鑑賞するという行為は、この辺が一番面白いのではないか。




近代の意識。

私がここにいると
私が自覚すること。


2020年5月18日
曇り。うすら寒い湿った空気。

さて、4月29日からの朝刊に8回続いた宮城県美術館常設展作品の解説だが、僕は一応切り抜いておいた。多分今では、様々な方法で、切り抜いたりしていなくても後から見ることができるのだろうと思う。それを期待する。
もしそれができなくても、5月18日からは美術館が始まるので、実際に常設展を見に行けばいい。常設展だけを見るなら大人一人300円。基本的に特別な所/時を除いて、美術館で見るべきは常設展。大抵、時間に関するコストパフォーマンスは極めて安い。

紙面では、作品一つづつの解説をしているが、美術館に展示してある作品を見るときの最も面白いところは、これらが全部一緒に飾ってあるというところだ。作品の研究は学芸部学芸員諸氏にお願いしている普及部の学芸員は、ここからが仕事になる。比べて見るのだ。
せっかくカンディンスキーから!収集が始まっているのに、今回の作品の中に完全な抽象画が1点しかないのはちょっと残念?だが、2点ずつ8回全部で16点の作品をざっと続けて見てみると、いやはや凄いですね、バラバラ具合が。こんな感じに、全く統一性のない多種の作品を飾ってある家は、(美術館でもない限り)ないのではないか。ね、美術館でないと見られないのよ、こんなに広い範囲で多種多様な作品をきちんとまとめて見られるのは。普通、何かの好みで統一されてあるのが、いい趣味ですねということになる。では美術館は好みで統一されていないのか?

1回目が人物画なので、まずそこから見ていこう。そこからと言っても、だから、一つづつ見て行くということではない。
今回の16点のうち、人の顔(気配?)がわかるのは15点もある。風景画の中にも人が見える。本画と下書きの人は同じ人なのか?詳しく見ると、人が描いていないのは純粋に菅野さんの抽象画1点だけなのではないか?抽象画には人が見えないのかどうかについては、機会があったら後で詳しく考えてみよう。美術って、要するに人を描く/作ることだったのか?
下書きも含め、15点に描いて(作って)ある人がこんなに全部違う。どれが上手い人の描き方なの?全部上手い人の描き方なの?描いてあるものやことを、指示されたとうりに見るのではなく、意識的に自分で見る。
そうするとわかるが、改めて自分で見ると、自分の知っている事しか、見る時には使えないことがわかる。今回の特集のように見ることを通して新しいことを知ることは面白いが、普通何気なく初めての対象を見る時に使えるのは、自分の知っていることだけだったのだ。もちろんそのために勉強をするわけだが、普通にものを見るときの勉強(練習)は美術に負うところがお大いにあると僕は考えている。初めての対象を自分で見るために、美術は、学校で小さい時から教えられる。

16作品のうち15点に人物が描いてある。見つけられた?西洋画、日本(東洋)画、彫刻、イラスト、版画。表現方法の分類だけでも多種多様。すべて丁寧に?描きこんである?けれど、すべて違う描き/作り方。あまり字を読まずに(美術だからね)、自分の中で古い順に並べ替えてみよう。小学校3年生までだったらどれを一番古いにするだろう。5年生ならどうだろう。中学生以上ならどうだろう。60歳以上なら?75歳以上なら?そしてあなたなら?というより、どういう完成を目指して作者は描いて/作っているのだろう。そこまで来たら初めて少し、作品にまつわる字を読む。解説はまだ読まない。

1909年って何時代だっけ、太平洋戦争は始まっていた?では1927年は?1930年は27年に近い。30年のあと36年にはたった6年の差で、こういう彫刻をつくる人がいた。同じ彫刻でも、戦争が終わった56年には、大工さんをつくる人が出る。とはいえ、それらの元になった西洋では、1893年にこういう絵を描く人がパリにいて、1914年になるとこういう人が出てきて、1900年代-20世紀に入った途端、カンディンスキーが、これらの制作を始める。そして、そのあたり、日本では前に見た1909年の人の顔が描かれた。

ええと、みんな時々忘れているように僕には思えるので、ここであえて言うが、極端にわかりやすく言えば、明治時代まで私たちの国は基本的には鎖国をしていて、絵といったら日本画しかなかったことを忘れないようにしたい。又沖縄を除く僕たちの国には城壁を持った街(という西洋的な概念)がなかったので、城下町には西洋的な意味での広場がなく、道端の記念碑は石碑で主に字が彫ってあり、英雄の騎馬像ができたのは明治時代以降。だから日本人の本能に訴える彫刻とは仏像か根付のことで神様関係以外では細々した細工物のことだった。ほぼ毎日たっぷりとお湯を張ったお風呂に入っていて、基本混浴のお風呂屋が普通にあり、ほぼ全員農業に関わっていたから、男女を問わず道端で立ち小便をしていた。そういう社会文化のところに、ほぼ突然西洋という見たこともないところから近代というものの見方(世界の自覚の仕方)が入ってきて、その(主にキリスト教を基本にした世界の)近代という見方でものを見ないと人でなくなることになった。
ほとんど、いやはややっていらんないぜというなか、相当の変わり者と(多分)見られていた私たちの先輩の美術家が、これらの西洋絵画や彫刻を作り、これまた(多分)変わり者と思われていたその当時の先走りの文化関係の人たちがそれらを残しておいてくれた。それを今、僕たちは、鑑みて賞賛(鑑賞)している。



様々なことが心配だが、

今となっては
一つ一つ真摯に丁寧に、
生きていくしかない。

2020年5月13日
暖かい空気。ものすごく風が強く吹く。

僕の知っている20世紀では当たり前だったものやことが、今、僕が知っているものやことの世界では、なんだか不安定なものやことに変わってきているようだ。

21世紀に入って10年を過ぎた頃から、僕は僕個人の思考の中に占める電脳の割合に違和感を覚える自分を感じ始めた。生活が便利になることと、自分の生活が豊かになる感じは同じではない。同時にそれは、僕に、もう自分の知っている表現技法では、表現しきれない社会が始まっているのだなあと思わせた。
そしてそれを実感するような表現や行動を、例えば僕の子供たち(いや、孫たちか)が普通に始めていて、僕の表現家としての活動を少し縮めていた。書いてみて分かるが、僕は少し何かにうんざりし始めていたのだろうと思う。

2020年4月に入って世界が一気に収縮し始め、美術館も休館になった。そうしたらK新報朝刊に美術館常設展示物から毎回2点選んで、一人の学芸員が少し解説文を寄せるという企画が始まった。
あえて、一応書いておくが、学芸員とは、普通、学芸部の学芸員を指す。8回続き。今日(5月6日)で一応終了。現在常設展に使える収集品は多分5千点ぐらいあるはずで、2×8、16点で終わりは、ちょっともったいない。学芸員も、僕がいた頃はもっといたはずなのだが、今はもう8人しかいなくなったのかな。それだとしても、宮城県美術館には学芸部と並行して(教育)普及部が開館当初からあって、教育担当の学芸員が最初からいた(ことになっている)。
学芸部の学芸員は美術作品を公費で収拾するための調査研究が主な仕事で、だからもちろん今回の新聞の解説文のようなお話はスラスラといつでもできなければいけない。で、多分、日本中の相当の数の人たちが、美術館に飾ってある絵の解説は、このようなものだと思っていて、そのほとんどの人が、私は美術にあまり関心がないので、読まなかったり、ざっと目を通しておしまいになっていたりする。そうではないと本当にいいのだけれど、これまでの僕の経験ではそうなっていた。
あえて、一応改めて書いておくが、僕は、みんなのために働いていた(ほぼ35+4年の)間ずうっと、公立の美術館の普及部の(教育担当)学芸員だった。と、自分では思っている。教育担当学芸員は、日本以外の国では普通にあるのだが、日本では、学芸員という概念が何かすごく特別になっていて、研究者と学芸員は何がどう違うのかというようなことについて、軽く話してくれる人がいない。または、例えば、美術館にいる学芸員は、大学で美術を研究している人と、どこがどう違うのかを小学5年生にわかるように説明してくれる人がいない。話がどんどんずれていく。僕にはとても大切なことに思えるのだが、この辺りを博物館学博物館教育論でやっていることを聞いたことがあまりない。

教育は、日本では未だに強固に学校で(のみ)行われているかのように僕には見える。だからこそ、美術館などで行われる教育的な活動(社会教育)は、近代を過ぎた個人にとってはかけがいのないほど大切な教育に思える。
流れる水のように、すでに知っている多量の知識のプールから、まだ知らないことの多い個人の知識のプールに知識を流し込んでやるのは、あるところまでは必要なことで、わかりやすく言えば、学校での教育の仕事の本質はここにある。
だが、僕が美術館でわかった、個人が自立するという本質に目覚めた近代以降の世界では、個人のための教育はこの後に始まる。

あることをめぐって知らなかったことを知識として増やししまっておくことは一種の快感だ。けれど、それら知っていることを組み合わせ推測して世界を広げることこそ、それら知識を増やす目的だったのではないか。それができるようにきっかけを見つけるやり方を増やす方法を増やしておくことこそ、教育の目的だったのではないか。普通教育の中に表現系の、全く個人の資質に関わる教科が含まれている理由は、これらが、その活動の練習に最も簡単かつ直接関わることができるからだったのではないか。

毎日気づくことがある。
なんと恥ずかしい
毎日だったのか。

これからも
気づき恥ずかしがる
毎日なのだろう。


2020年 3月22日  
生暖かい湿った空気。
無風。深い曇。ひやっとする体感気温。

昨日は快晴で、その前の日のような強い風も吹いていなかった。そこでだいぶ前から誘っていた、家族全員(柴犬ゴロー含む)をピカソに乗せて移動し、車を槻木南端の山神社駐車場に駐め、神社にこんにちはをしてから、歩いて滝沢不動に行き、戻る途中、白く光る蔵王連峰を満開の梅?桜?の木の下で眺めながら昼飯を食い、元気の戻ったところでそこから山道を東に辿って岩沼の深山190メートルに登り、そこから引き返して駐車場に戻って帰宅。面白かった。

僕にとっては、ここ1週間のうち3回目のハイキング。槻木のこの辺り、正しくはなんという地名なのか調べていないのだが、いつ来ても気持ちの良い土地柄で少し時間が出来た時にはよく来る。一人で来る時は大抵小さなモーターサイクルで来て駐車場においてはいたのだが、一の鳥居から駐車場までの細く荒れた上りの山道が、3ナンバーのピカソにはギリギリに思えたので控えていたのだ。この前出会った地元の人に車で行っていいのよと聞いて、今日は敢行。実際に敢行すると、ピカソによる4輪トライアルのようなもので、僕は面白かったけれど、車と、それに乗っている人たちには単なる恐怖だけだったのではなかったか、という上り下り。

2020年 4月19日  肌に感じる温度は冷たいのだが、空気そのものは生暖かい春。深い曇り空。

この前は槻木側から深山に登り、再び山神社に戻って、帰宅。最後、みんなが車に乗り込む直前にゴローが逃げて少し騒動だったけれど、ま、面白かったねで済んだ。そのあと、今度は岩沼側から深山に登り、頂上でお湯を沸かして、ラーメンを作り、それとおにぎりで早めの昼飯を食って千貫山経由で車まで戻り帰宅。

で、今回は、岩沼側から深山頂上まで登り、そこから少し槻木側に降りて昔の細い山道に出て南下。鬼石の上の道を通って杉林の中を山神社社務所まで下り、県道脇の広場で、昼飯を食い、来た道を戻って再び車まで戻るというコースを目指した。僕以外の人たちは快調にして順調。
僕は深山山頂まではなんでもなかったのだが、路が下りになり始めたら、右足が膝の少し上のあたりを中心に震え始め、継続して下れ(歩け)なくなってしまった。で、昼飯後、僕とゴローとD作だけ山裾を大きく回って、岩沼側の登り口に戻ることになった。大変おじいさんらしい面倒のかけ方の見本。
少し風が寒いと、日当たりのいい裏庭の木のベンチに犬と座って1日お話の本を読んでいて、ろくな運動をせず、イメージだけは元気な時のままなのだから当然の報い。こういう時に限って、3本も持っているサポータータイツを履いてこないでいたりする。

僕は退職後、存在そのものが不要不急で居たいと心がけているので、このような状況になると少し困る。普段歩き回っているところを再び歩く。普段も誰とも合わないが、ここに来ても相変わらず誰とも会わない。みんな何してるのかなあ。というような毎日だ。



人が一人で居ること。
その自覚が、
近代になったということだ。

その上でこそ
話し合いが始まる。


2020年 2月 1日
快晴。冷たい風。流れる白い雲。

2月3日に仙台から飛行機で那覇に移動し、4日から3日間沖縄県立芸大で博物館教育論の集中講義。3日間1時限90分の講義を1日5回。3日間で計15回。

早く起きて、朝7時からのホテルのバイキング朝飯を食い、8時40分の授業開始までに、ホテルのある国際通りからモノレールで首里まで移動し、終点の駅から少し歩いて大学まで行き、30人の新しい学生に3日間話をする。
1日話だけの日もあるけれど、何回かのワークショップの実践と、講義の仕上げとして沖縄県立美術館で美術探検と美術館探検の実践。この実践をすると、ああこれまでの怒涛のような話はこういうことだったのかと、みんな安心する。この実践までは、どんどん学生の不安が溜まって行くのが、こちらにも伝わってきてつらい。という活動。ほとんどアドレナリンの力だけでやっつけてしまうのは、美術館にいた頃と変わらない。
1月の後半はずうっとこのための勉強。そういう時に重なって、振込みのお金が口座に足りませんよというお知らせや、大学の時大変世話になったT先生が突然亡くなってしまったり、何やカニやの事件が起きて動揺する。思えば、今年は年賀状の返事を書かないでしまった。なにしろこの時期、基本的に僕はアメリカンフットボールを見続けているわけだし。

12月の半ば、FM名取という地域ラジオ局から呼ばれてラジオ番組で美術を巡るお話をした。本当は美術館を巡ってのお話を聞きたかったのかもしれないが、時間が決まっているのでそこまでたどり着けなかった。なぜか同じ頃NHKからも電話があって、毎夕方にある5時だっちゃという番組でお話ししないかという相談。これも美術館を巡って。でも、みんな、ここ10年ぐらいの県高校美術展見続けていないでしょう?基本的にそのぐらいしてないと、宮城県の美術の有り様について意見を言うのって、うまくわかんないと僕は思う。
だけど、とはいえ、最近はもう美術って図工と深く同じになってきていることすら点検されなくなってきたので、俺はもう一人で静かにあっちこっち見て回る方が忙しくなっているんだよなあ。時々、もれきく他の国の美術の流れを聞くにつけ、僕たちの国では、僕の知っている美術はますます端っこの方に行ってしまっているようで、もういわゆる展覧会は見たくないことの方がが多いなあ。
4、5歳の若い人間が一生懸命何かしている姿とか、新たに家族になった5歳の柴犬と田んぼの中の広い砂利道を山の方まで歩き回るとか、世界というものが常に見る側にあることの楽しさを味わって点検し直すような生活の方が僕には忙しくて面白い。