既に知っていること。

そこから、

想像すること。

それこそ、未来。

2020年 9月7日  台風が来ているが快晴。気温の高い湿った空気。


この文章は2007年に登録された(ということがわかった)iMacで書いている。これまで、この機械は動きが遅くなってきて、僕のキーボード操作にすらついてこれなくなって、もう買い替えだと思っていた。だが様々あって、義理の息子にちょっと問題を言って見てもらったら、実は、もう一方のMcBookの方にこそ問題があって、そちらを、最新のiPadに変えた。今練習中。これ(電脳ときちんと付き合う)をやるとよくわかるのだが、僕は、自分で決めて、自分の頭で、やりたい人のようなのだ。僕もそのうち辞書を引くように電脳に聞けるようになるのだろうか?本能的に嫌だなと言っている自分を意識する毎日。ここに書いた出来事は、僕が理解している範囲内でまとめていて、本当は、もっと物凄いことになっているのだが、それを書き始めるとそれだけで終わってしまうので割愛。iMacは至って、元気なのだった。


さて、最近、日本の遠くに住む若い友人から美術、美術館、美術館教育をめぐる質問のメールが来るようになった。答えるのは簡単だ。ものすごく基本的な質問だからだ。で、それらに答えていて考えたのだが、そうか、この辺りについて、これまで、僕はものすごくとばして話をしていたなということに気づいた。しばらくその質問に沿って、思うところを書いておいておこうと思う。


最近になって美術館教育をめぐって思うこと

⬜︎違和感をめぐって

最初MAM(宮城県美術館)に雇われた頃、まず日本中の美術館の教育関係施設とシステムを見て回った。

宮城教育大学美術科を卒業して、そのままニューヨークに渡り、3年間現代美術を勉強して、もうアメリカに住もうと決めて、子供もできて最後の顔見せに帰ってきた時だった。

近いところから遠いところまで(しかし全部国内)見て回ったが、みんななかなかよくやっていた。僕は、基本実に素直な良い子供だったのだ。ただ、何か全体な違和感が消えなかった。そしてその時は、その違和感が何なのかを考える気もなかった。さて、この違和感は何なのだろう。今なら点検できそうなきがする。


そういう基本を胸に、僕は、MAMの教育の方向を具体的な活動にしていった。

だから始めた最初の形は、ごく普通の他の(県立)美術館で行われているものとそんなに変わらないものだった(と思う)。多分一番他と違っていたところは、地元作家が美術館を制作から鑑賞まで、様々使いに来てくれるような気を遣っていたところではなかったか。美術館の制作(創作)室=ワークショップは、作家が制作するのを援助できるレベルで考えていた。図工室ではなく、作家用工房。基本、創作活動は、個人が個人のペースで個人的にする。でも、そんな中で、大きいバンドソウや、電気溶接や、何やかにやがそのひと時だけ必要になる時がある。木を削った作業をしている時の最後の台を作る時。基本的に生花の制作なのだが、いわゆるオブジェと呼ばれる、様々な素材を組み合わせる時。制作には、最後まで単一の素材で終わるということはない時も多い。そういう時、地元の美術の可能性を助ける、地元の美術館は何をどうすればいいのか。学校で学ぶ(習うでなく)のでなく、制作としての美術への視点。その辺りをもそもそ考えて(言い訳て)いた。まだ、僕は、強く制作者だった。