2009年 1月 24日 湿っぽく冷たい空気の日。あ、雪が降ってきた。

就任宣誓のような簡単な文章でも、人の後については同じに話せないのに、自分の意見は、何も見ずにいくらでも簡潔に美しく話せる人がアメリカの大統領になった。宣誓をドジっちゃう人を、あの国は大統領に選ぶ。でも、そういう人は、自分の意見を堂々と話す。アメリカはまだもう少しそこにいてほしい。なのに、僕のブログの更新は遅々として進まない。あまり関係はないけれど、困ったものだ。さてこの前はどこまで書いたのだったろうか。



12月21日で、美術館は年末年始の休館に入った。エアコンを新しくしたので、少し動かした後の微調整を含めたメインテナンスが必要なのだ。これまでだと「しめた」とすっかり休んでしまっていたのだが、今年は胞夫さんの病院などで使って有給休暇の残りがもうあまりないのだ。それに、部長になってもプレイングマネジャーでの活動が続き、美術館全体への目配りなどそっちのけだったツケが回ってきて、美術館は休みなのに職員は出ている日に、お客さんとは直接関係のない仕事が残っている。そうこうしているうちに、27日の夜、父方の叔母さんが老衰で死んだ。92歳。29日は母親の命日で、その間の28日に海岸で毎年恒例の焚火。うまい具合に風が味方してくれて機嫌のいい焚火。叔母さんは29日火葬、30日葬儀。よくわからないのだが、ここ数年で葬式はいたく簡便化していて、葬儀の後にお祓いをしてもらって、正月は普通通りしてかまわないのだそうだ。お焼香も各自線香1本だった。そしてそのお祓いで始まったお正月は、毎日いろいろな駅伝をテレビで見て過ごした。一方12月から歯医者にまじめに通って、なりかけの虫歯の治療を含め、歯垢を落とし手入れした。1月の10日から美術館ではファイニンガー展。仕事始め5日から、12月以来の館が休んでいる間にやる事務仕事をかたずけていたのでそのあおりを受け、本当は10日から13日まで連休だったのだけれど、10日は開会式を巡る様々な用事(何しろ12月21日以来なので、相談したい人がもう並んで待っている感じなのだ)、11日は家で胞夫さんの多量の洗濯。12日は、茨城大学博物館学の学生のために美術館探検の実施とそれを巡る質疑応答のため美術館へ。13日は、お願いだから休ませてとぼんやり過ごして(と言いつつ本当は山元町の深山に今年のシーズンのための偵察に出かけ、つい頂上までトレッキングしてしまった。何しろ抜群の天気だったのだ)、14日は朝から、東京の羽村市の小学校の先生たちに呼ばれて、青梅市の一つ手前の駅から歩いて30分ほどの武蔵野小学校に出かけ、子供たちとやる鑑賞のお話と質疑応答をして日帰り。15日は、午前中宮城教育大学の現代的課題解決科目群とか言うS見先生クラスの人たちと公共の社会教育施設を使った芸術的な活動の実践練習。午後はK木保育所の年長4名と、粘土作りから始まる半ズボンとTシャツでやる活動。夜鍼灸。ここで体のバランス戻しておかないと続かない。16日は3年前から予約されていた、市内障害児福祉施設職員のための、「幼児期の造形相談」研修。この辺で終わりかと思っていると、17日は、ファイニンガー展にまつわる大人の図工「ファイニンガーの空」ーキュビズムで見る空ーのワークショップ。それでやっと次の日は休むぞと思っていたら電話が来て、浜松の美術館の人が秋田に来た帰りによって活動を見たいのだがというリクエスト。ううむ、それでは出てこないとなあ。ということになったら、それじゃあ、その日はみんな出てきているから、夜に普及部の新年会をやりましょうということになって、9時まで活発な活動。烏龍茶で鍋をつつく。いや、書いていて疲れてきた。でも、これで終わりではない。19日は月曜で、休みの日なのだが、この日は朝から予約してあって、仙台東脳神経外科に出かけMRAの検査を受ける。ま、静かに機械の中に動かず寝ていれば良いだけなのだが、その後、できた写真を先生と一緒に見て説明を受け話を聞く。すると、もう昼頃になっていて、ヤバいぜこれはと言いつつその日はその後なんとか眠る。なぜかというと、次の日20日は宮城県美術館に、日本中から若手の学芸員が集合して美術館連絡協議会学芸員のための美術館教育研修というのが始まるのだ。20日は昼から美術探検と質疑応答。夜懇親会。21日はそれを受けて朝から美術館探検と質疑応答。また、これがやめないんだな、質問を。みんな一生懸命なので、一生懸命対応する。21日午後1時過ぎ終了。というより飛行機の時間が来てしまって無理矢理帰る。そして、22日、やっと普通の(そんなに忙しくない)一日が来た。ふううううう。凄いね。ちょっと休みなさすぎだな。昨日23日はしばらくぶりに何もない休みだったので、胞夫さんを施設に迎えに行って、一緒に脳神経内科とただの内科をゆっくり回って薬をもらい、台湾料理の昼飯を食った。お父さんはもうすっかり子供のような笑顔になっている。胞夫さんにとって、僕は彼のお兄さんということになっていて、玄関前につけた車から病院の入り口までの間の距離で、車をバックで駐車場に入れてくる間に隣の病院に行ってしまったり、耳も遠くなって話もうまく噛み合ないけれど、ふと思えば孫の希野(3歳)と一緒にいるより彼といる方が、僕は本当は気楽なのではないのかなあ。当たり前だよなあ、お父さんだものね。