2010年 1月26日  乾いた冷たい空気。雲のきれいな晴。

一日何かかにかしていて、なかなかブログの更新にまで至らない。金沢の整理を続けよう。


16日の朝8時半に、ほうほうの態で金沢にたどり着く。でも電車の中のグリーン席で結構眠ったので、体力的にはそんなに疲れてはいない感じだった。美術館が予約してくれていたホテルはちゃんと待っていてくれて、そのままチェックイン。シャワーを浴び下着を替える。体がかゆい。10時から美術館会議室で、シンポジウムの参加者や同時通訳の人たちとの打ち合わせ。今回はフランス語への通訳。いやはや。そのまま午後1時から基調演説が始まって、3時過ぎから美術館教育の現状を巡るシンポジウム。

基調演説はスエーデンの現代美術館の副館長の女性で、僕と同年代の人。いたって地味(シック?)な服装なのに、左右の足の外側と内側で色の違うストッキング。ううむ、やるな。近代までの美術と、現代の美術の断絶をきちんと自覚した上で、しかしその美術としての連続性について、私たちは考えなければいけない。で、うちではね、、、ちょっと大変。という話だったと、僕は理解した。続いてポンピドウ(仏)での教育活動の現状のお話。各自20分でお願いという打ち合わせだったのに、彼は1時間半ほどフランス語をしゃべり続ける。誰も止めない。なんなのこれは?そんなに面白い話ではないと思ったのは僕だけか?どう考えても(と言ってもフランス語の同時通訳を通してだが)美術館側の知識と情報を一方的に流し込むのを教育と言っているようにしか聞こえない。聴いている途中で、とてもいたたまれなくなって席を立ち、トイレに行って心を鎮めてから、しばらく後ろの方で立って聞いていた。これって、1990年以前の日本の話ではないのか?あとで、きちんと文章に起こされた内容をチェックしなければ。

続いて僕の順だったので、開口一番「私は学芸員が嫌いだ」から始めてしまった。美術館であるかどうかを問わず、教育の主体は、常に受ける側にあり、こっち側が知っていることは当然だからさておき、まず受け手側の状況から出て来る相談/質問から、教育は始まるのではないか。そういう考え方って、フランスの市民革命から始まったはずだったのに。なんて事を絶叫。でもピッタリ20分で終了。その次、パリ郊外の共産党政権!の街で始まった現代美術館建設!とそこでの教育中心!の活動の展開の紹介。そうだ、共産党って前衛だったのだ。最後に国立国際美術館での教育活動の紹介。こう見ると、僕だけ浮いてるな。まとめのテープ起こしの文章の添削校正がすでに思いやられる。あっという間に「シンポジウム」終了。会場とのやりとりなし。これってなんなの?

夕方から、美術館のレストランで懇親会。スエーデンの彼女とめちゃくちゃ英語で会話。頭が固まる。使っている概念の説明だけで時間が過ぎる。舌も固まる。

2010年 1月21日  生暖かい湿った空気の朝。空と雲はいい感じ。

再び更新が途切れてしまった。体は大丈夫。忙しい毎日を送っている。ただ,何がなぜ忙しいのかをうまく説明できないのがストレスだ。で、さしあたっての報告。月曜に,金沢から帰って来た。考える事の多い旅だった。何回かに分けて整理しよう。


金沢市にある21世紀美術館での美術教育シンポジウム(1月16、17日)に呼ばれた。教育普及活動の現状に付いてお話をしてくださいとのリクエストだ。16日が僕の出番の日だったので、一応15日に移動の予定を立て、切符もそろえた。ただ,何か予感がして行きの指定席はそろえたが,帰りは状況を見て金沢で買おうと思った。なにしろ,最も聞きたい話が並んでいるのは17日だったし。しかし様々な状況を考えると16日にお話をしたら,17日に帰ってくる方が僕の体にはいいのではないか、のつもりだった。そして18日月曜一日休んで19日からまた活動。17日にどこにいるかは金沢の様子を見て決めよう。

15日の午前中,常盤木学園高校の3年生260名+が「初めて」美術館に来てくれる事になった。美術担当教員の努力だった。こういうのこそが美術館教育普及部の仕事です。当然部をあげて丁寧に対応する、というのが午前中。時間に余裕があったので歩いて駅に出て午後1時半過ぎのMaxやまびこで大宮へ。乗り換えて上越新幹線で越後湯沢。さてここからドラマが始まる。いや始まらない!か?

僕の家から関東平野(西側分水嶺の斜面を含む)までは,まったくの冬晴れで,県境の山の稜線を除いては雪のかけらも見えなかった。雲だって青空にポクポク千切れ雲が浮かぶ至って平和な冬空だった。その稜線に雪を抱く山々の向こう側の空も何事もなく平穏に見えた。県境の長いトンネルに入り「おお,ここを抜けると雪国だった、が始まるんだな」なんて気楽な事を考えていた。トンネルの暗闇の中にお知らせの放送がながれる。「えー,かねて(上野を出て以来何回かこの情報は流されていたようだ)お知らせのとおり、この先越後湯沢からのほくほく線は,雪のため大幅な遅れが出ています。(僕には初耳)この新幹線と接続するハクタカ18号は今日は運休です。詳しくは駅員にお尋ねください。」 僕の持っている指定席はもちろんハクタカ18号。呆然と動揺しているうちに,トンネルを抜けた。そこは雪国だった。だいたい空の雲がまったく灰色の厚い曇り。景色真っ白。白の凸凹で景色が見える。小雪横殴り。

とりあえず駅に降りる、そんなに寒いわけではないが,湿った冷たい空気。一応,新幹線のプラットホームからほくほく線へと移動。乗り換え口で駅員さんたちが説明をしてくれる。でもそんなに緊張しているようではない。淡々と事務をこなしている感じ。跨線橋の通路には既に沢山の人がたむろしていて,盛んにみんな携帯電話をどこかにかけている。ハクタカの到着ホームに降りる(階段は降りられたのだ)とそこは大混雑。まだ12号が来ていないという。12号から18号までの人たちがみんなホームにいるのだった。大大混雑。一応こういう時のために指定席を取ったわけだからと思って,みどりの窓口に行って聞いてみる。もちろん18号は運休で,他のハクタカの指定席は売り切れ。指定席券に払い戻し証明ゴム判をぺたりと押され,どうしても金沢に行きたいのなら来た電車の自由席で行くほかないことが判明。お金は到着駅で払い戻してもらってね、だった。シオシオとホームに戻り,自由席の方に行ってみると,行けない。もう列んでいるも何もあったものではない人人人。列ぶも何も人が壁になっていて、自由席乗り口に行けないのだった。今回はバックパックもでかいし。やや途方に暮れる。と、そのとき突然脈絡なしに「グリーン』という言葉がひらめいた。呆然と途方に暮れると、何か違う事が始まる。

急いで(もう結構うろたえてます。バックパック重いし)もう一度みどりの窓口に戻り,さっきと同じお姉さんに,「グリーン席は空いてませんか」と聞いてみた。彼女は改めて調べてくれて,ハクタカ12号のグリーン席が,あと1つだけ!空いている事を見つけてくれた。即購入。買いますと言ってから値段を聞いて少し(本当はだいぶ)動揺した。グリーンって,こんなに高かったの?指定席との差額は四千七百何十円だったろうか、5千円出しておつりはコインがぱらぱらと少し。指定席は通常の切符に5百円だか出せば良かったんじゃないの? というようなことをぶつぶつ言う間もなく、払い戻し証明ゴム印付き指定席券はここで没収。とは言え,とにかく座っていく場所は確保された。今回も危機一髪,最後のチャンスだった。しかも1号車3番窓!側。ここ誰も買わなかったの?自慢するわけではないが(しなくてよいが)これまで私はJRかどうかを問わずグリーン車に乗った事はない、これからもたぶんないだろう(と思う)。

一番先頭のグリーン車乗り場に行ってみると,あの自由席の混雑は嘘だったのというくらいに人がいない。数えられる程の人がきちんと一列に降りしきる(列車の先頭あたりまではプラットホームの屋根が来ていないのだった)雪の中列んで立っていた。今回まさかこうなるとは思っていなかったけれど,どうなっても大丈夫なように来てきた冬用重装備上着のフードをかぶり列に付いた。雪はひどくではないがシンシンと降っている。ホームの上で既に30センチを超えていて,列車が走っているレールも雪に埋まって見えないのだった。ちなみにこのとき既に16時半頃。本来の予定では19時半頃金沢着。

しばらくすると(楽勝で立って待っていられた時間)ハクタカ12号入線。粛々と乗車。この列車のグリーン車入り口は後ろに一個なので,3番A席に行くにはずうっと前まで歩く。グリーン車の椅子って片側2列、反対側1列の大きいソファ!なのにビックリ。この電車だけ?乗るまではガラガラだと思っていたのだけれど,乗り込んでみたら結構混んでいて先に進むのが一苦労。なんとか前から3列めにたどり着くと,そこはもうみんな座っているのだった。12号1番3列A席を確認。そこに座っていた僕と同じぐらいの歳に見えた男の人に聞いてみると,彼の切符は12号ではない列車の3番A席なのだった。これは12号なのですという事を話して変わってもらう。私はそんなに無理矢理自我を押し通す人にはならないようにしているのだが,すまぬ,今回は背に腹は代えられぬ。その辺りは何か大学のゼミのグループだったらしく,僕がお願いすると,周りから様々な手が差し伸べられて,いつの間にか軽く収まってしまった。かつ,彼等は様々な情報機器を持っていてしばらくするとどこかにホテルがとれたらしくドッと降りていってしまった。何はともあれ腰を落ち着ける。乗り込んだばかりの時は結構込み合っていたグリーン車だったが「この電車はとにかくこのまま出発して確実に金沢までは行きます。でも今のところ今日中には動けないからね』というアナンスが流れると,だいぶ決心を変える人たちが出て来た。この状況をみんなに携帯のメールで連絡(僕はこれに凄く時間がかかる)をして,ふと顔を上げると,グリーン車の中はだいぶガランとしてきていた。時間を見るともう8時ぐらいになっている。体の内側に様々な障害を持っている僕は,夕食後に幾つかの薬を飲まなければいけない。まず列車を降りてホームのキオスクに行き,クリームパンと暖かいコーンスープ+チョコレートを買い、席に戻ってバックパックの底から持参の水の入った1ℓのペットボトルを出す。書くと何の事はない普通の動きなのだが,こういう状況でやるのはなんだかがくっと大変。ほうほうのていで薬を飲み,便所にいって列んで用をたし、席に戻って背もたれを倒し体に上着をかけもう寝る体制に入る。

夜中12時頃、雪かき作業衣のままのおじさんが二人来て各自に手作り風おにぎり2個と冷たいままのペットボトル入りお茶を配る。雪かきをしているがしたとたんにドサッと積もってなかなかはかどらない。今人手を増やしてやっているというような話を聞く。後しばらくかかるとの情報。食べた後こちらは再び寝る。ガクッと列車が動いたので目が覚め,時間を見ると1時40分過ぎだった。動き出せば後は進むのだった。時々停まっていたようだが僕はほとんど寝ていた。ウツラウツラではなくちゃんと記憶が切れて眠っていた。起きた時,列車は黒部辺りで,夜明けの黒部山地が美しく感じる余裕。金沢駅には16日朝8時30分過ぎに着いた。15日朝7時に岩沼の帰宅を出てここまで丸1日ちょっとの旅だった。

2010年 1月 3日  快晴の一日。でも一日家の中にいた。


今日は一歩も外に出なかった。一日は朝から実業団駅伝。二日三日は箱根駅伝で,そのテレビを見るので最近の年始は終わる。

午後から散歩に行こうと,朝のうちは考えていたのだが,昼を過ぎて駅伝がゴールすると、先生たちから頼まれている原稿の事が気になって、つい電脳を開いてしまい,そのまま午後は文章を書いたり削ったりで過ぎた。

それらの間をぬって、洗濯機を動かし,洗濯物を干し,昨日干したのを取り込み,掃除機をかけ、ゲームをちょっとし,洗い桶に入ったままだった食器の洗い物をしながら,夕飯にインドカレーを作った。昨日までは,いろいろ明美さんに頼んでいたのだが,彼女に頼んでいると,ご飯ーといっても餅を焼くだけなのだがー作ってあとはそのままだったりして、かえってストレスがたまるので,今日はできるだけ自分でしてしまった。すると彼女は気にしてなんだろうが、まったくいいタイミングで出てきて、そこまでやっているこっちとはまったく関係なく自分のやり方で手伝い始めるので、最終的にはかえって邪魔になってイライラし,部屋から出て来なくていいよ,という事になってしまう。

彼女が一緒にいてくれるので,僕は様々な意味で鍛えられる。


頼まれた文章を書くために、書類バサミをひっくり返していたら,昔書いた文が出てきた。「私は、嫌いだ。」 という題だ。


 私は、基本的に美術家でいたいと思っているので、原則的にみんなと同じ、というのが嫌いだ。

 小さい人たちが美術館に来て、いざ活動を始めようという時に、廊下に整列し、声を合わせて「おはよう、ございます!」と変なアクセントで怒鳴るような挨拶をする事がある。

こういうのが、私は嫌いだ。

 そもそも、子供時代の団体活動というものは、一人一人違うということを理解するために行われるべきモノで、まず初めに団体があって、そのシステムに順応する練習をする事が目的では決してない。人は一人一人違ってこそ団体の意義がある。

 授業で「鑑賞」をしたいので、美術館に行きます、という先生が多い。名画で鑑賞という、そういう考えも。私は嫌いだ。

 鑑賞の目的は、対象を注意深く丁寧に見ることで、私がここにいる喜びを見ることなのだ、というようなごく当たり前の目的を考えれば、名画がある必要はほとんどない。まず、校長室にある寄贈された絵を見に行こう。それを各自が楽しんで見られなければ、何を見たって、何も始まらない。

名画なんか、私は嫌いだ。

 乱暴に言えば、基本的に美術だということは、原則的にみんなと違うということだ。美術をやるということは、みんなと違うことができるということだ。だからこそ、それを学校で教育しているのだ、ということを、私たちは忘れないようにしたい。


こういう事言われても,今の学校の先生たちは困るだろうなあと思うけれど,今だからこそ書いておいた方がいいかなあと思って,少し変えて今書いている文章の中で使う事にした。

正月に下の弟が来て「今年は独り善がりになりやすく、孤立しないように注意すべき、という運勢だよ」と言っていたけれど,早速これの事かと思う。

でも,何時死ぬかわからない方が心配な自分としては,孤立しようがしまいが言える機会に言っておくしかないよなあと,開き直っていく事にしよう。


2010年 1月 1日  空気の引き締まった快晴。夕方小雪。


さて10年が始まった。ここ数年、僕には様々大変なことが起こっているが、だいぶ慣れてきた感じがする。

外見的には様々マイナスなことも多いように見えるけれど、自分中心に考えればマイナスなどということはなくて、そういうことが起こったことの積み重ねで、今の自分ができている。今年もまたいろいろ起こるだろうが、波風立ってこその人生だと口ずさみながら、乗り切っていこうと思う。

一方ここ数日、秋の造形大会のまとめをしていて、昔の自分で書いた文章などを読んでいる。もう大体のことは言ってきたのだなあ。で、自分はきちんと美術家しているのかの点検を始めようかとも思う。