2010年 1月 3日  快晴の一日。でも一日家の中にいた。


今日は一歩も外に出なかった。一日は朝から実業団駅伝。二日三日は箱根駅伝で,そのテレビを見るので最近の年始は終わる。

午後から散歩に行こうと,朝のうちは考えていたのだが,昼を過ぎて駅伝がゴールすると、先生たちから頼まれている原稿の事が気になって、つい電脳を開いてしまい,そのまま午後は文章を書いたり削ったりで過ぎた。

それらの間をぬって、洗濯機を動かし,洗濯物を干し,昨日干したのを取り込み,掃除機をかけ、ゲームをちょっとし,洗い桶に入ったままだった食器の洗い物をしながら,夕飯にインドカレーを作った。昨日までは,いろいろ明美さんに頼んでいたのだが,彼女に頼んでいると,ご飯ーといっても餅を焼くだけなのだがー作ってあとはそのままだったりして、かえってストレスがたまるので,今日はできるだけ自分でしてしまった。すると彼女は気にしてなんだろうが、まったくいいタイミングで出てきて、そこまでやっているこっちとはまったく関係なく自分のやり方で手伝い始めるので、最終的にはかえって邪魔になってイライラし,部屋から出て来なくていいよ,という事になってしまう。

彼女が一緒にいてくれるので,僕は様々な意味で鍛えられる。


頼まれた文章を書くために、書類バサミをひっくり返していたら,昔書いた文が出てきた。「私は、嫌いだ。」 という題だ。


 私は、基本的に美術家でいたいと思っているので、原則的にみんなと同じ、というのが嫌いだ。

 小さい人たちが美術館に来て、いざ活動を始めようという時に、廊下に整列し、声を合わせて「おはよう、ございます!」と変なアクセントで怒鳴るような挨拶をする事がある。

こういうのが、私は嫌いだ。

 そもそも、子供時代の団体活動というものは、一人一人違うということを理解するために行われるべきモノで、まず初めに団体があって、そのシステムに順応する練習をする事が目的では決してない。人は一人一人違ってこそ団体の意義がある。

 授業で「鑑賞」をしたいので、美術館に行きます、という先生が多い。名画で鑑賞という、そういう考えも。私は嫌いだ。

 鑑賞の目的は、対象を注意深く丁寧に見ることで、私がここにいる喜びを見ることなのだ、というようなごく当たり前の目的を考えれば、名画がある必要はほとんどない。まず、校長室にある寄贈された絵を見に行こう。それを各自が楽しんで見られなければ、何を見たって、何も始まらない。

名画なんか、私は嫌いだ。

 乱暴に言えば、基本的に美術だということは、原則的にみんなと違うということだ。美術をやるということは、みんなと違うことができるということだ。だからこそ、それを学校で教育しているのだ、ということを、私たちは忘れないようにしたい。


こういう事言われても,今の学校の先生たちは困るだろうなあと思うけれど,今だからこそ書いておいた方がいいかなあと思って,少し変えて今書いている文章の中で使う事にした。

正月に下の弟が来て「今年は独り善がりになりやすく、孤立しないように注意すべき、という運勢だよ」と言っていたけれど,早速これの事かと思う。

でも,何時死ぬかわからない方が心配な自分としては,孤立しようがしまいが言える機会に言っておくしかないよなあと,開き直っていく事にしよう。