ここに居るって、

どう言うことだ。

僕は、わかっているのか。

ここって、宇宙の、ここだぜ。


2024年 7月15日

昨日は山形にいた。太陽の光が、ここより近い。

僕の家の裏には、小さな川/堀が流れている。僕が知っているその川の名前は屋根川。今は何と言うのだろう。千と千尋に出てきたような立派な神様の名前でなくていいから、でも、昔近所の子供たちが裸で一年中遊んでいた時のような名前、ついているといいのだが。線路の向こうに広がる田圃の排水溝から始まって、と言うことはその上を囲む千貫山の水源を集めて、この下の五間堀に繋がる。今はすっかりコンクリートで固められていて、滅多なことでは水が溢れるようなことはない。でも、僕が(多分)10歳になる前は、割としょっちゅう氾濫していた記憶がある。洪水で、家の周りが水浸しになっている写真も残っている。小さい僕と弟のH記君が水浸しの道路の上に突き出している昔の実家の門柱に困ったような、しかし何か嬉しそうな顔をして、寄り添って立っている。


僕は、今、1階の僕の古いフランス車をしまってあるガレージの隣に付いている、設計図上は倉庫となっている小さな部屋に、作り付けのベッドを作り、そこに寝ている。そこを見た僕の古くからの友人が、少し照れたような笑いを見せながら、「寝台列車だな。」といったことを、誇りと共に、思い出す。昨日、山形に住む小3の孫に、おじいちゃんの寝台列車みたいなベッドの話をしたら、寝台列車って何?と真剣に聞かれて、夏休みに見にきなさいと話したところだ。

とは言え、その10歳以前の屋根川だったら、今、僕が寝ている1階にある作り付けの寝台だったら、僕は、ある朝、ふと気付くと、水の底にいたりするのだろうか。なぜかワクワクする。


ふと気付くと、普段の僕の生活は、ものすごく定型化していて、僕以外の人が、僕の生活に代わりに入ってきても、ほぼ問題なく毎日の生活を送れるのではないかと思える。


2階に住んでいる人たちは、みんな働いたり、学校に行っているから、彼らがすっかり出るまで、邪魔にならないよう、計画されている活動などで決まった時間までに出なければいけない時を除いて、僕は1階のその僕の寝台で寝ている。ま、普通は朝8時まで。

最近、8時に一旦起きるのだがが、その後再びベッドに戻ってバタリ、気がつくと、もう9時。ということが多い。ま、おじいさんなのだから、しょうがない。


とにかく起きて、2階に行って着替えをし、食堂で朝飯を食べる。特に何かない限り、朝食はいつも同じ。アメリカの普通のカフェにあるのと同じ、大型の円筒形のコーヒーマグにたっぷり牛乳を入れたコーヒー(カフェオレではなく)に、息子手作りのカンパーニュを極薄く切ったやつ1枚。軽く焼いたそれにオリーブオイルとザータルをかけ、蜂蜜。できたら丸森耕野産のやつ。カフェオレボウル1杯の手作りヨーグルトにその時あるジャムをかける。今なら、庭に生えている枇杷の実ジャム。食べながら、老眼鏡をかけて、河北新報を隅々読む。だいたい、8時に始まれば、9時前にはご馳走様。

読み替えすと、確かに定型化はしているが、なんかうるさそう。代わりに入り込むのには覚悟がいりそうだ。


紙の新聞をとうして世界を感じることは、僕にとって割と大切なことなのではないか、と最近思っている。決まった一社の新聞を、宣伝を含めて、隅々読むだけで、同時に世界を見渡すことが出来るように思える。そのためには、一つのことを巡って、常にその全く反対の考えを見渡してみるような心構えが必要だが。今の世の中は、SNSやYouTubuを始め、みる気がなくても、雑多な小さい情報が全方向から入って来る。


小さい頃、基礎教育で習った具体的な社会は、最近、根底からひっくり返るような発見が続き、驚くが、僕らが知っている、いわゆる民主主義社会は、ほぼ僕が学習した範囲の中で右往左往しているように見える。こんな酷いことはみんなすまいと思っていたことは、やはりする人がでてきた。多分、生き方の中における経済が占める部分が、ひどく大きなウエイトを占めるようになってしまったからだろう。清貧などと言う言葉は、もうだいぶ前から日本語の中から消えてしまった。消えたことそのものではなくその言葉を無くしてしまった方向で社会の全ての動きが拡大でなく収束してしまったことが失敗だったように思う。


裏の小さい川の名前が、いまだにあることを祈りたい。


 歩き続ける。

歩くと、前に進む。

歩かなければ、そこに居る。

進むと、居る。


2024年 7月 3日


まだ暖かい。少しずつ気温は上がるという予想。高曇り。


僕は7月10日生まれ。そして、いよいよ今年も7月だ。今月と来月は、特に忙しい日は無い。というより、僕を気にしてくれている人たちが、忙しくならないようにしてくれている。去年の8月9月に、何回か気絶したからね。ありがたい。


なので、自分で動く予定が連日始まる。昨日はしばらくぶりで床屋に行き、髭をどうするかで床屋の人としばらく鏡の前で悩んだ。僕が行く床屋は生まれて以来ずうっと同じ。ニューヨークに居た時は明美さんに切ってもらっていた。日本に帰ってすぐ美術館に雇ってもらい落合にある県の宿舎に入った。髪を切る時は落合から電車で岩沼まで出かけた。だから、本当に床屋は、そこしか知らない。古くからの街の中心にある。あ、昔は、だ。今は駅前に新らしくできたマンションの1階に移った。


昔あった所は、岩沼が宿場町だった頃の、奥州街道に面した長屋の中の店だった。道路に面した表が店で、裏と二階が、住居。両隣は何だったろうか、何かの店であったことは確かなのだが、思い出せない。そこは建て替えられてしまった、長屋門だけが(多分)歴史的記念物として残っている。こっちの方向に書き始めるととめどなくそっちに行ってしまうので、今日はここまで。


問題は髭だ。僕の髪は癖っ毛だ。そうすると、髭も癖っ毛になる。顎髭をできたら3千尺まで下に伸ばしたいのだが、ほんの5センチ伸びると右に曲がり始める。ううむ。とはいえ、こんなことで深く悩んでも、どうなると言うことでもない。少し右を切ってそのまま。その後、向かいの喫茶店でパスタと珈琲。歩いて帰宅。要するに、日本の宮城県の岩沼で静かに暮らすと言うことは、こういう毎日が静かに流れていくということだ。


この日は、家に帰ってから、前にもらってきてあった、蔵王古道のパンフレットをじっくり見直した。蔵王古道は、だいぶ前に、若い友人のMr.Ameeと途中まで登ったことがあったが、完登ならず。刈田岳から大黒天まで降りたことはあるが、何しろ、エコーラインをぬって、最新式の道の脇をものすごく古典的な登山道を登って行くのは、心踊る体験だった。めげずにゆっくり又行ってみようと思う。とはいえ、最近は何処に行っても何やら混んでいて、めげずにゆっくりと言う概念そのものがもう希薄な概念なのかと、思う。


 この星の上にいること。

僕と僕以外の、みんな。

生きていることの自覚。

その全てが死ぬとしても。


2024年06月24日

空気は涼しいのだが、気温は高い。ものすごい高曇り。これまでの人生で、あんまり経験したことが無い気候。最近こういうのが多くなっている。


何はともあれ、昨日は日曜日だったが、ふと気付いて目を覚ましたら、午前10時を過ぎていた。その日も、午後早くに、古い友人が訪ねてくる予定がある。やや慌て気味に起き出し、遅い朝飯を食う。とにかく、何はともあれ、この23日日曜日でこの何だか忙しいの続く毎日は終わりだ。


この時期、毎週土曜日に坪沼で、午後から児童館の人たちと森の中で活動をし、夕方夕飯を食べつつ小さい提灯を作り、午後8時過ぎに、みんなで真っ暗闇の中をその小さな提灯だけを頼りに森の裏の小川の辺りに移動し、蛍の群を見て帰る活動をする。


今月に入ってそれが毎週(4回)続き、その間を縫って、月末の今週は、木曜に就園前の小さい人たち-3歳以前ーと、児童館園庭全面を使って、まずタープをみんなで張り、その下を中心に水を流して川を作り、池を作り、ま、全体としては水、泥遊びなのだが、公式名称砂遊び。

次の日金曜は、朝から、昔からの友人の、大人の人たちと仙台駅発仙山線と左沢線を経由して、寒河江の慈恩寺散策。予定の蕎麦屋はなぜか臨時休業。いや、こういうのこそ心躍りますね。新しくできた慈恩寺テラスで蕎麦を食いー何つったって山形ですからねー、僕の好きな慈恩香という線香を買って、バスで帰仙。

そして土曜日に児童館の人たちと夜まで活動をし、昨日の日曜、僕が宮城県美にいた時の同僚だった学芸員のW君らが、美術館教育をめぐる質問にやって来た。ここに来て、さまざまなことがわかって来て、多くの自覚されれるべきだった(僕の中で)日本の美術館をめぐる問題を巡って、しばらく検討討議。あっという間に時間が過ぎた。

問題が起きたら、まず原点に戻る!が一番早い解決方法だと、僕は思っているのだが、どうも最近は「そもそも」論は敬遠されているようで、という辺りを巡って、原点を求める討論。脳みそ疲労が自覚できるようだった。思えば、最近こういうあたりの脳みその使い方からはだいぶ離れていたのだなあ。いやはや。でも面白かった。流石に、これだと今日月曜日はだまって10時まで寝てしまった、というわけだ。


さて、今週、6月の最終週は、特に何も予定は無く、僕が今の家を作った時、メインの家具(食卓とその椅子とか)を作ってくれた余目の工芸木工家桑原君らのグループ展が、山形市内でやっているという案内が来ていたので、それをゆっくり散歩がてら見に行こうと、考えていた。最終週!おう、爺さんには、そんな自由はない。最終週は、基本、病院に行く週なのだ。僕は脳内出血後の治療中の患者。後、月1回鍼灸の先生の友人に全体の調子を見てもらう。その他。ま、とにかくそういうしなければいけないことの合間を縫って、今週は山形に、工芸展を見に行って、蕎麦を食いつつ少し散歩をしに行こう。


書き出してみると、いやはやだなあ。でも多分、これはこれで、なかなか良いのだろうと思う。


 自分がここに居る、自覚。

自分が見える範囲は、そこだけだ。

本当は、ずうっと広いのに。


2024年 6月12日

朝から暖かい。微風が吹いている。


昨日は、案内状が届いてからすぐに予定していた通り、朝から塩釜のビルドフルーガスに、写真展を見に行った。11時半前に本塩釜駅に着いて、そのまま古い港町にある展示場に行こうと歩き始めた。凄くいい天気。

そこで気付いた、まだ11時半少し前ではないか。そこで駅からまだ離れていないところで回れ右。仙石線のガード下にあるマグロ専門店へ。しばらく前までは、いつ行っても席につけたのだが、最近はいつ行っても、行列。ここしばらく食っていない。この時間なら、と行ってみたら、空いていた。カウンターに座る。マグロ丼、嬉しい。隣に、僕と同じ年頃のお爺さんがいて、この時間でないと最近はダメなんですよと言うような話しをしながら食う。嬉しい。その後だいぶ見た目は変わったが、大体は昔のままの道をーなので、一部分迷子ーゆっくり気持ち良く歩いてギャラリー着。嬉しい。僕は退職後、ほとんど、美術系展覧会に行かない。勿論好きなものは見にいくわけで、単なる偏屈だな。


今回の表現は、自分(作家)が決めたー写したイメージを何回も同じ印画紙に重ねて焼き付けていく技法ーたぶん。何にしろ、この表現は、見る側の存在意識を問う。何回も重ねて焼き付けていくから、部分的には真っ黒くなる。深く重なった黒の向こうには具体的に選択された「ある状況」がある。う、これは、齋悠記の絵と同じものの見え方なのではないか。黒と白の違いはあるがーと言うような事を感じ、考えながら鑑賞。面白いなあ。歳同じぐらいか?同じぐらいの大きさの子供がいて。ううむ、読みの広がりが、、、。ここまで来てこの広がり。生きてくのって面白いなあ。お爺さん生活も捨てたものではない。

こう言う、表現が具体と抽象の境目をウロウロしたからには、続けて塩釜にある、杉村惇の絵を見ると面白いだろうと、終えてから、塩釜公民館に行く気で外に出て、山の方に歩き始めた。そうしたら、天気の良い海の匂いがした。ううむ。


すべて大幅に変更。すぐ前の港に行ってみると、直ぐ、13時発松島行きの観光船があった。券を買って、船で松島へ。いつ以来だろう。この時間、塩釜から松島に向かう乗客はガラガラで、大きな観光船に僕を入れて客3名。途中ですれ違った塩釜に向かう同じような船はほぼ全部満員だったから、みんな帰る時間だったんだね。船の一番前の席で、右、左、松島湾観光を堪能して瑞巌寺前の桟橋到着。こちらは降りるの3人で、乗る側は、長蛇の列。松島の街中も、あちらこちらほぼ全て満員。すごい観光の季節だったの?僕は何も観光はせず、そのままJR松島海岸駅に直行。帰宅。

帰りの仙石線のしばらくぶりの景色とか色々あるが、それはまた別の話だ。間違いなく、面白く充実した1日だった。





私はここにいる。

私が自覚する、私。

私しか知らない事。

自覚する私を、自覚したい。

2024年 6月10日

中途半端な高曇り。生暖かい微風。


ふと気付くと今日はもう月曜日だ。先週の土曜日、児童館の人たちと森の中で1日遊んで過ごした。全員小学3年生で19名、女子5名。ここまで聞いて、大体どういうイメージが湧くかで、その人の立つ位置がわかる。


僕は終戦直後の昭和の男子の爺さんなので、小3女子5名、お、今日はいろいろできるぞ、と思う人。というような活動=遊びを森の中で1日中、心からしたので、次の日はノロノロ起きて、ふと気づいたら今日は月曜日の朝だった。あの人たちは面白いなあ。みんな元気に良い大人になってくれるといいなあ、と心から思う。あの人達を、あの状況で見ると、人間は大丈夫だと思うのだが、2CVで帰宅してテレヴィジョンで見る人間の先はそんなに長く無いように思える。


今月は後2回、児童館の人達と夜にホタルを見る活動と、就学前の小さい人達と砂遊びをする活動が1回ある。倒れないようにしなければ。ま、とかなんとか言っていても、気づいた時は無意識に気を失っているのだが。

というようなことを確認するため、日程表を見ていたら、ううむ、小さい人達との砂遊び(午前中)の次の日金曜は、昔からの友人達と、山形の山寺でお寺を使わないのっつおの活動をし、その次の日の土曜は夕方児童館の人たちとホタルを見る会をし、日曜の午後美術館で働いていた時の同僚が、何か質問をしに来る予定(午後)が入っていた。なんてことだ、後の日はずうっと空いているのに、そこにだけ、なぜか集まってしまっていた。

うん、どうせ僕はいつも暇なんだよとかなんか上手い事を言ってよく確認をせずに予定を入れていったんんだな。僕のようなルーズな本格的年金生活者には、こういうことがーたまにー起こる。ありがたいことだ。

去年のことがあるので、今年の7月8月は、僕はそういう活動から外されている。本当にありがたい。そして7月にはまた誕生日が来て(当たり前だが)もう一つ歳をとる。本当にありがたい。

 

深呼吸をする。

酸素が体に満ちる。

酸素は燃えている。

6月 3日

ほの暖かい、軽い風の日。多分、岩沼だけだな。


今月は毎週土曜、児童館との活動がある。坪沼八幡宮の神社の森と、児童館の園庭でと。で、確かそのうちの何回かは、午後遅くに集まって、夜遅くにホタルを見る会だったかな?最近は、ホタルを見るって、何?と言うところから始めなければならない。

前は、蛍の専門家がやってきて、説明してくれたのだけれど、ううむ、それは、美術館で、作品の前に学芸員を最初から呼び出してしまうことと同じだった。みんな聞くけど、そのまま出ていくのね。何が面白いのだろう、に関しては、何もお話ししない。で。最近は、僕が最初にお話。あえて、再び、話すが、僕は、鑑賞の専門家なんである。ううむ、困ったもんだ。鑑賞はこう言うふうにどこでも、いつでも、必要だ。


こういう活動は、例えば、朝10時から子供達が来る。僕は遅くとも9時には着いていたい。だからその日は、ラジオ体操が始まる時間に起こしてもらう。お爺さんになると、何事もーゆっくりやっている気は毛頭無いのだがー時間がかかる。今日はこうやってああやるから、この靴下を履いて、このベルトにするとか。あ、ベルト変えなきゃ。そして新たに二つのいつもはつけていないナイフホルダーを通して、云々。あっと言う間に時間が過ぎる。若い頃と同じことをしているのに。

ま、それはいい。とにかく、何はともあれ、坪沼八幡の裏の駐車場に、9時ちょっとすぎに、着く。車の後ろに折りたたみの椅子を出してそこで、スパイク付きのゴム長靴に履き替える。やっとほっとして、頭を上げると、おう、今日はなんといい天気ではないか。で、ぼうっとしばらく椅子に座って、周りの山を眺める。眺め続ける。これを言いたかったのだ。ワークショップは。こういうふうに始まる。そういう余裕を作るのが、ファシリテーターの本業なのだと思う。


坪沼は、辺り一面を市民農園に貸し出している。指導付市民農園というのだそうだが、僕らもお世話になっている、土地の優秀な農家の人たちが、様々な農作業のアドバイスをしてくれる。だから。僕が着く頃には、時期によっては、広い駐車場がいっぱいになるくらい、人が集まる。で、一斉に畑に散っていき、農作業を始める。僕だけ、ぼやっと折りたたみ椅子に座って、山を眺め、空を仰ぐ。これどうなんでしょうねえ。


今までは、何も思わなかったのだが、この前の、もの凄く天気のいい土曜の朝、ふと、日本の美術教育のやる方向が見えた気がした。真摯に農作業をするのはいい。これこそが、日本が世界に誇れる文化ではある。でも、終わったら、さっさと帰る前にー帰って、何かすることが決まっているのだろうがーちょっと、周りを眺めてみたらいいのではないか。こんなに素敵な場所なのだし。何か話にならない、無駄なことを一つ。たった一つ。そうか、僕は、そういうことをここでしていたのだったのか。ひとつどころではなく。




 

基本は、移動する、か?

移動するを、観ている。

私は、観ているので、

嬉しく楽しい。

2024年 5月23日

生暖かい空気。風が重い。


昨日、2CVを中新田の自動車屋に自走で運び込み、車検を取るために置いてきた。中新田自動車は、いつも、相談に乗ってもらっている会社で、ここしばらく車検はここにお願いしている。帰りは。代車のホンダ。ハイブリッド。その落差。一日おいて、今日、用事があって少し長い間乗った。

もうすっかり、人間と機械の関係は変わってしまったのだな。運転が楽しいではなく、運転は車の一部だった。


僕は、鑑賞教育の専門家だ。最近いつもその辺りの説明が難しい。美術の専門家?美術鑑賞?鑑賞教育?美術教育?ね、いやはやでしょう?各々の守備範囲が、広く、混乱し、そこに学校教育との混乱がかぶさってくる。

もう、すでに、誰かがどこかでその辺りの踏まえ方を書いて/まとめているかもしれない。特にいつも聞き耳を立てているわけでは無いので、最近の美術鑑賞教育をめぐる、この辺りの基礎的なあり方をめぐっては、毎回少し混乱する。

昨日今日、完全アナログから、完全デジタルへの、一人の人間が有無を言わさず通り抜けるときに起こる軽い動揺。これは人間だから可能なのであって、いや、待てよ、発達した機械の方がよりうまく適応するのか?この辺り、僕の中ではほぼ同等に思えて、より深く広く混乱する。


今日は、もう5月30日になった。

途中で1回嵐の前触れが通りすぎ、今日は気温が上がってきた。


月末は、病院に行く予定が立て込む。23日にこの記事を書いて以降、ほぼ毎日行きつけの様々な病院に行って、一月分ー所によっては三ヶ月分ーの薬をもらう。毎日元気そうに暮らしているが、さまざまな症状を薬で抑えている。この時期に何時も様々思う。

それ以外の日は何も考えず、できるだけ1日1個何かをしながら普通に暮らす。江戸時代の落語に出てくる御隠居さんの暮らし方が、僕の理想なのだが、僕はあんなに人品が整っていない。ま、できるだけできるように生活を整えよう。

美術は、日本では表現ー出る方だけが注目されがちだが、全く同じ強さで、観る方も大切だ。それに気付けたことは、僕にとって美術館に居たことの利点だ。むしろ僕にとって、美術は観る事だ。expressionよりimpression常に主体はこちらにある。梨木香歩の裏庭を再び読み始めている。



 


 とんでもない所に

とんでもない岩がある。

まだ行ったことは無い。

でもそれはそこにある。

僕は知っている。

2024年 5月16日

ゆるい空気。だが肌寒い。


今日はもう月半ばを過ぎた。端午の節句がすぎて以来、毎日何かしなければいけない事がある日が続いた。ま、たいしたことでは無いのだが。


蒸気機関のことだ。僕が蒸気機関の基本的な動きかたの仕組みを知ったのは、最近だ。

確か僕が通った基礎教育学校では教えてもらったことは無い。蒸気機関という仕組みがワットという人によって発明されて、社会の近代化に大きく貢献したことは学んだ。でも確かそのすぐ後に続けて習ったのは、ガソリンエンジンについてだったように記憶している。中学校の技術家庭科だった。思えば僕は、中学校から汽車通学だったのに。


僕は、Gゲージの汽車の模型を裏庭で走らせるのを楽しみにしている。Gゲージは線路の幅が45ミリの鉄道模型で、日本ではやや大きいので、やっている人はあまりいない。秋保の湯元にある里センターの中で走っている秋保電鉄の模型が確かGゲージだったはずだ。

普通日本で鉄道模型と言うと、今は9ミリゲージの事を指すことが多くなった。そのスケールの蒸気機関車の大きさ(太さ)は、9歳の人の小指ほどの物で、その中にぎっしりモーターが詰まっている。携帯電話のバイブレーター用だ。このモーターができたので、9ミリゲージは爆発的に増えたのではないか。だから勿論、物凄く小さいから、続けて使うと加熱して、すぐ壊れる。その点Gゲージの模型はその5倍の大きさだ。線路さえ引ければ東京までだって続けて走らせることができる。ま、どうでもいい事だが。


天気のいい日に僕の小さな裏庭に線路を引く。その上を、僕の持っているドイツ製の小さな蒸気機関車の模型を「残念だが、電気」で走らせる。前回話したように、線路をひくのは、この程度の小さな電動機関車でも、結構な大仕事だ。ちょっとした事で連結器が外れるし、脱線する。結局、僕はダイシンで一番小さな砂利を何袋か買って来て、線路の下の何ヶ所かに敷いている。ずうっと全線砂利を敷くのが一番なのだが、財布が許さない。ううむ、いつになったら蒸気機関の話になるのだろう。何しろとにかく、蒸気機関を動かすのは、さまざま周りが大変だと言う事だ。さて。


僕は、内燃機関は、何となく爆発で動いていると思っていた。硬い密閉された筒の頭のところで、強い爆発が起こり、その一方的な力が、さまざまなコントロールされた動きに変わって、回転や前進になると言うような。

蒸気機関は違う。行くと戻る両方を蒸気の力で行う。爆発の一方方向ではなかった。

筒の中に蒸気を入れて、ピストンを押す。うまい具合に(これがすごい)小さい弁を作っておいてピストンが最後まで行ったら、空いた側に出所は同じ蒸気を吹き込んで今度はピストンを反対側に押す。押し引き両方を、同じ釜の蒸気で行う。何だかしばらく呆然とするほどのショックでしたね。ここでやめとけば良かったのに。ここまででも、この後の世界にさまざま問題起こしてるのに、でもまだ、地球の上での生き物の仕業は感じられて、さまざま問題が起こっても、何とかできるように思えた。地球上の生き物の大発明!だったのに。


いつから、僕らの技術は、僕らの手を大きく離れていくのだろう。この先、原子力まで行き着くのに、何がどう、人間の中で変わったのか。それとも、湯気を巡っては、何も変わっていないのか。湯気に気づいたことがそもそもだったのか。火を見つけた事よりも。ううむ。


蒸気機関(車)の模型は、こう言う事を僕に思い起こさせる。僕が、日に焼けながら線路を敷いている脇で、蒸気機関車(SLですね)の模型の運転準備が始まる。まず、紙や細技を燃やしてを種火を作る。小さい(模型だから)薪を入れる。薪の火が十分に落ち着いたら、ピカピカの石炭を砕いたものを加える。おっとその前に水を十分にボイラーに入れておかなければいけない。石炭以上に火力の強い物を燃やすと、模型を作るときに使う各種の鑞が溶けるのだという。だからコークスなどは使えず、石炭。


メーターを見て蒸気の圧力をチェックし、汽笛を鳴らして蒸気を確認。シリンダーに蒸気を送り、ゆっくり動かす。あ、勿論全ての動きを始める前に、潤滑部の確認。全てが水と蒸気と深く関わっているから、油性潤滑物を全部に吹きかけるなんてことはできない、あれはグリース、ここは油、そこはCRCで大丈夫。その上でのユックリ動かす。ね、面白いでしょう?

こう言うのは、なんか地球上の生き物がやってるように感じられる。弓で獲物を取る延長上にある力。さまざまな意味で。原子力も同じなのかなあ。しばらく深く考えることができた。







 思いもよらぬことは、

多分無い。

考えていなかったことは、

無数にある。

困ったもんだ。

2024年 5月 6日

空気自体がほの暖かい。その空気が風になって、遠くにプロペラ機が飛んでいる。


昨日は一日快晴の子供の日(端午の節句)で、僕は、岩沼の花トピアという施設で実施されたライブスチームロコモテイヴ(SL)走行会(乗車体験会)の手伝いを1日していた。


この時期もちろんゴールデンウイークという事もあるが、金蛇神社の入り口にある花トピアのあたりは1日ものすごい渋滞になる。芍薬と牡丹とフジが今年は同時に満開になったので、それらの花が有名な金蛇神社は、それだけで超渋滞なところでの実施。なので、朝早く(と言っても7時半過ぎだが)ここ暫く動かしていなかったハンターカブ(小さいモーターサイクル)で出かけた。


公園の奥の広い丸い花壇の周りにレールを敷く。模型とはいえ、本物の蒸気機関車だから本物と同じような気配り。そうしないと、割と簡単に脱線する。何しろやっている人達が元「国鉄」のOBだったりするので、一緒にいて話を聞いて言われたとうり作業をさせてもらうだけで、面白い。運転係と保守整備の係。こり方が専門的。模型とはいえ、蒸気機関車は小さくても1台70キロ程もあるので、機関車とテンダー(石炭積んでるやつね)を別々のコンテナに積んではこんんで来る。

線路は、本当は本物と同じに砂利を敷いて水平を出したいのだが、場所借りているわけだからそうもいかず、アスファルトの上に直線と曲線を混ぜて何とか大きな丸を作り、そこから1ヶ所分岐して行き、その先に各自が持ってきた分岐をつけて各自のヤードを作っていく。線路を引いてから、小さく切ったベニヤ板を、所々に挟んで水平を出していく。え、そこに挟むの?うん、そこ少しカントいるからね。いやはや。

そうしてやっとそこに各自の持ってきた模型の機関車を下ろしていく。持ち主はみんなハイエースのような大きなバンで東北中からやって来る。こんなふうに思う存分動かせる機会はそんなにないから、今回は岩沼花トピアでと連絡が行くと、ほぼ東北中からやって来る(ように、僕には見える)。前日近くのホテルや何かに泊まっている人も多いという。いやはや。


バンの中は、運転席の後ろから荷物室一杯に、プラパイプで棚が組んであり、そこの一番下にレールが敷いてあって、そこに機関車やその他諸々の汽車関係、何しろ蒸気機関車は本物だって大変なのに、彼らのは模型だからもう一つ余計に大変。小さく割った乾いた木の板、それを漬ける灯油、ガスバーナー。あ、もちろん最初に捩ったティッシュ。だいたい本物の縮尺で作っているから、石炭をくべる口の大きさが小さい。その大きさに合わせた(物凄く)小さい十能。そのようなものが山のように積んである。これは何と聞き始めると長くなるからできるだけ聞かないようにする。ほとんど、その人の工夫が施してある。そういう物が積み重なって、ついに石炭。いや、その前に、信じられないほどの水。こういう物が機関車以外のところに積んであるから、車の中に泊まるというようなことは考えられない。ここは、線路のそばに、花用の水の蛇口があるので良いんですよと、嬉しそうに話す。もっと話すことはあるが、先に話を進めよう。まだ、機関車には火すら入っていない。いやはや。


もちろん僕は模型好きだ。としても、ここにいて一日真っ赤に日焼けしながら、手伝いだけをしていても心豊かに、一日楽しくいられるのは、僕の専攻が美術だからではないか。よく見て、自分の知っていることに戻し、知っていることを膨らませる楽しみ。これだから爺さん生活はやめられない。続く。



 出来立ての葉っぱが

形になろうとする。

私は、

形になっているか。


2024年 4月21日

全てがぼんやりと暖かい。

すこうし、動く空気。



視覚表現を生業としている若い友人から手紙が来た。少し前に書いた僕のブログで、京都出身の人が普通にいう京都の空間認識と、僕=東北人の空間認識との違いを、もう少し詳しく述べよ。

偶然だが、ほぼ同じ時期に、暫く前から京都に住んでいる別の絵を描く友人(福島出身)が、最近、思う、京都にいる自分の有り様の思う所を述べ、これをめぐり齋が思うところを述べよ。

どうしたんだ、baby! 急に春になってしまったので、みんな突然絶好調になってきたんじゃないかと、思ってしまった。でも有難い。とにかく最近、前立腺肥大防止のための薬を継続服用しているためかどうかは定かではないが、集中力が著しく低下している。記憶力は低下していないが、必要な時に必要な人の名前だけだけが思い出せない。何はともあれ、いい機会だ、考えてみよう。


その各々の答えを考えるより、まず、最近僕が強く思うのは、まず、私は、一人でここに居るという自覚のようなものが、世間ではすごく薄くなっているのではないかということだ。どうせ人は一人で居るのだから、誰か知らない人が決めたり気づいたりして組み立てられた「その人」のようにあらねばならないことは、ひとつも無い。僕ー貴方が自覚して居る人は、そちらではなく、こちらの内側に(だけ)いる。


僕はここ(今住んでいる場所=昔齋胞夫さんー僕の父親ー家があった)で生まれて、数年だけ、極端に空間の違うNewYorkにいたことがあるだけで、あとはずうっとここ=岩沼の竹駒神社のそばにいる。そのことについて親に感謝こそすれ、全く問題は無いと思っている。

何年か日本国外にいたことがある人は、僕の周りにたくさんいる。外に出てみて、分かったことはたくさんあって、今の僕の在り方に強く影響を与えている。良いとか悪いとかを超えて在り方の基本になる部分で。でも、そうで無い人もいる。いいとか悪いとかでなく、外に出ても変わらないということは、その時既に、自己が固まっていたということなのか。僕にはわからない。


人は、自分の生まれた所ではない場所にいくと、そこを拠点にあっちこっち周りを見て歩く。僕もそうするが、自分がいるところを中心に少しずつ広げながら螺旋状に周りを見ていくことが多い。最初は歩いて。徐々に必要に応じて交通機関で。これまで会った人で、こういうふうに自分の個々ー此処を自覚している人は、あまりいなかった。いや、ほとんどいなかった。私は此処に、こうして居るという自覚から始まる存在感=個々は、結構面白いと思うのだが。みんなはすぐ周りを広く見て歩く。名所旧跡のような。此処を自覚することは、自己を肯定的に自覚することではないか。いや正しく言えば、そうやっているときは自覚がなかった。単におっかながりだったのかも。でも、そういうふうに自己を拡大していくのは、面白かった。NeuYoerkでも仙台でも、京都でも。その他。出かけて行った様々な所でも。

今、出かけて行った様々な場所と書いてから、孫から借りている小学生の地図帳を開いてみたら、僕は日本では、だいぶあちらこちらに行ったことがあるのだなあと思った。そういうことを基本にして、京都のことを思い出してみよう。


京都御所の前のホテルに泊まって、毎朝御所の前の砂利の広場を歩いて横切って鴨川を渡り、暫く北上して白川通にある大学で、幼児教育と美術教育の話をしに通ったことがある。今になって例の孫から借りた地図を見ると、道すがら、幾つも見るべき神社やお寺が連なって!いる。でも、私は毎日キョロキョロしながらではあったが、特にそれらをみようとはしないで、ただ空気を嗅ぎながら歩いていたように思う。

そのあと別の人に呼ばれ、何かの話をしに行ったのだが、そのときは偶然にも紅葉の季節と重なり、ホテルがなくて、ずうっと山奥の貴船神社のその奥の宿屋に泊まることになった。それがどういうことなのか、その当時(多分今でも)分かってはいなかった。そのおおよその状況を夜に聞いて、僕を呼んでくれた人がひどく恐縮していたのを覚えている。恐縮する状況を聞いて、なぜか嬉しくなり、次の朝、朝飯を断る程早く起きて、貴船神社の鳥居を潜って出立し、まだ朝靄がたなびく鞍馬山裏口から入り、話では牛若丸が烏天狗と剣術の稽古をしていたという太い杉林の中を清々しく歩いて、裏口方向から神社に出て参拝し、叡山電鉄に乗って、京都駅に戻り、なんだかやけに充実した実感のうちに京都を経って、その日のうちに仙台まで帰ってきたのではなかったか。叡山鉄道沿いの普通の家の屋根の上に猿の群れがいて柿を食っていたのを覚えている。さて僕の京都は、こういうものだ。


今僕は、自分の家から西にすぐ見える岩沼の千貫山によく登る。と言っても標高は多分200メーターも無いから、散歩といった方が良い。頂を踏み分け道が通っていて、ところどころに大きい石がある。思わぬところに古い小さな石碑が立っている。表面に刻まれた文字は、もう読めないし、読まない方が良いようにも思える。昔誰かがこれを担いで登ってきて此処に置いた。此処には、今でも烏天狗がいるかもしれない。京都には、京都の人が恐縮するようなところに泊まって、朝誰も起きてこない頃に誰もいない方法で歩き回らないと、感じられない鴉天狗。何がどうと言うこともなく、僕が、偶然に基本的蝦夷の国に生まれたことの喜び。此処まで書いてく るのに費やした時間への喜び、いやはや。








 今いる所。

昔からある所。

私は、繋がっているか。


2024月 3月31日

乾いた冷たい暖かさの空気。上着を1枚脱いだ。


どうも僕が気にしているところは、それを気にするのは僕の何処なのだろうという事のようなのだ。あることを気にする事の理由は、みんな違う、当たり前だ。だから、違う事の理由を気にしても始まらない。なぜその事をそのように考えてしまうのかについて、考えている。能天気だ。


普段そのようなことをぼんやりと考えて歩いているので、すごく実践的な質問をされると、なんかつまらない返事をしてしまう。そうして、しばらくしてその問いに関して僕が考えている正しい答えを思いつく。その時、質問した人はすでに何処かに行ってしまっている。最近は、その元々の質問を忘れてしまうので、困る。でも、忘れることは、僕にとって忘れて良いことなのだろうから、忘れてしまう事にしている。


 4月 4日  明らかに空気が暖かい。しかしすっきりしない薄曇りの青空。


24年の4月、令和6年。なんか慣れない。僕の最初の孫は、4月から公務員が始まる。毎日朝早く出かけて行く。僕は公務員定年退職者。さて。


今朝、暫く前に連絡の葉書が来ていた、駅前にあるいつもの歯医者に、定例のいつもの健診と掃除に行った。僕は、だいぶ前から1日1回、夜の風呂に入る前にしか歯磨きをしない。3分間電動歯ブラシ。でも、ここ暫く毎回虫歯なし、ちゃんと磨いてますね、と言われるだけ。ううむ。何がどうなっているのだろう。すぐ終わっても、まだ11時前。駅前のいつもの喫茶店で、何時もの珈琲1杯。飲み終わってもまだ、昼飯には早い。


駅前の公衆トイレで小便をしていたら、目の前の明かり取り窓のガラスの上を、小さい虫が登って行った。僕にはすべすべのガラスに見えても、この虫には手掛かり足掛かりが見える程度には凸凹なのだろう。

多分、この虫には自我などという自覚は無いだろうから、何か僕には思いもよらない状況/判断で、この目の前の凸凹をよじ登っていく事にしたのだろう。こういう状況の判断の積み重ねで、今、この世界のこの瞬間が出来上がっている。この世界中のこの瞬間のこの状況は、多分、僕が自覚しているこの状況だけ。あとは、この小さい虫のあるという一生懸命さのようなもの(僕が思っている)だけが見ええる。オシッコをしながら、その虫と僕の間に、何かが起こった。と、僕は思っていた。自覚するって、本当に大変な事なんだなあ。ひょっとすると、この世の全ての生き物には人間にはわからない、各自の自我があって、見える全ての生き物は、すべて自覚的にその方向に動いているのだと面白いのだが。あの小さな虫も。













 歩きながら見る。

見ながら歩く。

何かが、その両方を

繋げている。

2024年 3月21日

気持ち良い、乾いた空気。やや風強し。


来週月曜日が月末の様々な支払いの引き落とし日なので、今朝銀行を一回りして手続きをしてきた。県美術館を退職して以来、メインバンクを自宅のすぐ脇にある相双五条信用組合という小さな銀行に移した。それまでは給料の振り込みなどのために77銀行メインだったが、生活をできるだけシンプルにするため、移動する手続きが酷く面倒なところ以外は、出来るだけそこに移した。市税支払いや年金受け取りも相双五条。


毎月末、必要な金額をメインの小さい銀行から現金で引き落とし、ポケットに入れて、歩いて77銀行岩沼支店まで持って行って、振り込んでおく。電脳で自動振込するためのカードも持ってはいるが、バカにできないお金がかかるので、その分自分で散歩しながら移動する。その帰りにその移動分のお金で、駅前で昼飯を食ったり、昔からある和菓子屋で大福を買ったりする。僕は僕のためだけに時間を使ってよくなったので、面倒な事や物を楽しむことにお金を使いたい。表面的に面倒そうなことは、実に奥深く豊かな物や事を含んでいて、鑑賞の奥義はこういう所にこそ使い所があるように、思える。こじつけだが。


春分の日の前日、ということは火曜日。今僕がメインで使っているカップ類を作ってくれた陶芸家が、福島市で展覧会を開いている案内が届いていたので、これ幸いと出かけた。展覧会もだが、福島市を見に。山形市も好きだが、福島市も好きだ。電車で岩沼から白石まで。白石に着くと到着ホームの向かい側に数分差で、福島行きが待っている。白石から先は、車ではよく来るが、電車から見る風景は、又面白い。越河、貝田。おおそうだった。

東北線福島駅で降りて、駅東側に出る。本当に久し振りなはずだが、なぜか既視感が強い。山形駅前?

メインの通りへの駅からの出方/繋がり方?知っているような、初めてのような、ま、でも、だいたい行けば着くだろう。と、歩いて、着いた。オオマチギャラリー。雰囲気のある展示場。作家がいて、暫くお話。火曜日は町全体が定休日なのだった。昼飯を求めつつ、ウロウロしながら駅に戻る。帰りは駅弁を下げて、阿武隈急行に乗る。ボックス席が空いてなくて、街を出るまで、弁当はお預け。阿武急は、好きだ。福島県内の風景と、宮城県に入ってからの落差。阿武隈川の流れ。空いていることをいい事に、あっちこっち席を移動しながら景色を見る。数日前(蜂蜜買いに行った日)に道を間違えて右往左往していたあたりを、川のこっち側から懐かしく?見る。ああ、こういうふうに道路工事していたのか。なんだかずいぶん歩いたような気分で帰宅。