出来立ての葉っぱが

形になろうとする。

私は、

形になっているか。


2024年 4月21日

全てがぼんやりと暖かい。

すこうし、動く空気。



視覚表現を生業としている若い友人から手紙が来た。少し前に書いた僕のブログで、京都出身の人が普通にいう京都の空間認識と、僕=東北人の空間認識との違いを、もう少し詳しく述べよ。

偶然だが、ほぼ同じ時期に、暫く前から京都に住んでいる別の絵を描く友人(福島出身)が、最近、思う、京都にいる自分の有り様の思う所を述べ、これをめぐり齋が思うところを述べよ。

どうしたんだ、baby! 急に春になってしまったので、みんな突然絶好調になってきたんじゃないかと、思ってしまった。でも有難い。とにかく最近、前立腺肥大防止のための薬を継続服用しているためかどうかは定かではないが、集中力が著しく低下している。記憶力は低下していないが、必要な時に必要な人の名前だけだけが思い出せない。何はともあれ、いい機会だ、考えてみよう。


その各々の答えを考えるより、まず、最近僕が強く思うのは、まず、私は、一人でここに居るという自覚のようなものが、世間ではすごく薄くなっているのではないかということだ。どうせ人は一人で居るのだから、誰か知らない人が決めたり気づいたりして組み立てられた「その人」のようにあらねばならないことは、ひとつも無い。僕ー貴方が自覚して居る人は、そちらではなく、こちらの内側に(だけ)いる。


僕はここ(今住んでいる場所=昔齋胞夫さんー僕の父親ー家があった)で生まれて、数年だけ、極端に空間の違うNewYorkにいたことがあるだけで、あとはずうっとここ=岩沼の竹駒神社のそばにいる。そのことについて親に感謝こそすれ、全く問題は無いと思っている。

何年か日本国外にいたことがある人は、僕の周りにたくさんいる。外に出てみて、分かったことはたくさんあって、今の僕の在り方に強く影響を与えている。良いとか悪いとかを超えて在り方の基本になる部分で。でも、そうで無い人もいる。いいとか悪いとかでなく、外に出ても変わらないということは、その時既に、自己が固まっていたということなのか。僕にはわからない。


人は、自分の生まれた所ではない場所にいくと、そこを拠点にあっちこっち周りを見て歩く。僕もそうするが、自分がいるところを中心に少しずつ広げながら螺旋状に周りを見ていくことが多い。最初は歩いて。徐々に必要に応じて交通機関で。これまで会った人で、こういうふうに自分の個々ー此処を自覚している人は、あまりいなかった。いや、ほとんどいなかった。私は此処に、こうして居るという自覚から始まる存在感=個々は、結構面白いと思うのだが。みんなはすぐ周りを広く見て歩く。名所旧跡のような。此処を自覚することは、自己を肯定的に自覚することではないか。いや正しく言えば、そうやっているときは自覚がなかった。単におっかながりだったのかも。でも、そういうふうに自己を拡大していくのは、面白かった。NeuYoerkでも仙台でも、京都でも。その他。出かけて行った様々な所でも。

今、出かけて行った様々な場所と書いてから、孫から借りている小学生の地図帳を開いてみたら、僕は日本では、だいぶあちらこちらに行ったことがあるのだなあと思った。そういうことを基本にして、京都のことを思い出してみよう。


京都御所の前のホテルに泊まって、毎朝御所の前の砂利の広場を歩いて横切って鴨川を渡り、暫く北上して白川通にある大学で、幼児教育と美術教育の話をしに通ったことがある。今になって例の孫から借りた地図を見ると、道すがら、幾つも見るべき神社やお寺が連なって!いる。でも、私は毎日キョロキョロしながらではあったが、特にそれらをみようとはしないで、ただ空気を嗅ぎながら歩いていたように思う。

そのあと別の人に呼ばれ、何かの話をしに行ったのだが、そのときは偶然にも紅葉の季節と重なり、ホテルがなくて、ずうっと山奥の貴船神社のその奥の宿屋に泊まることになった。それがどういうことなのか、その当時(多分今でも)分かってはいなかった。そのおおよその状況を夜に聞いて、僕を呼んでくれた人がひどく恐縮していたのを覚えている。恐縮する状況を聞いて、なぜか嬉しくなり、次の朝、朝飯を断る程早く起きて、貴船神社の鳥居を潜って出立し、まだ朝靄がたなびく鞍馬山裏口から入り、話では牛若丸が烏天狗と剣術の稽古をしていたという太い杉林の中を清々しく歩いて、裏口方向から神社に出て参拝し、叡山電鉄に乗って、京都駅に戻り、なんだかやけに充実した実感のうちに京都を経って、その日のうちに仙台まで帰ってきたのではなかったか。叡山鉄道沿いの普通の家の屋根の上に猿の群れがいて柿を食っていたのを覚えている。さて僕の京都は、こういうものだ。


今僕は、自分の家から西にすぐ見える岩沼の千貫山によく登る。と言っても標高は多分200メーターも無いから、散歩といった方が良い。頂を踏み分け道が通っていて、ところどころに大きい石がある。思わぬところに古い小さな石碑が立っている。表面に刻まれた文字は、もう読めないし、読まない方が良いようにも思える。昔誰かがこれを担いで登ってきて此処に置いた。此処には、今でも烏天狗がいるかもしれない。京都には、京都の人が恐縮するようなところに泊まって、朝誰も起きてこない頃に誰もいない方法で歩き回らないと、感じられない鴉天狗。何がどうと言うこともなく、僕が、偶然に基本的蝦夷の国に生まれたことの喜び。此処まで書いてく るのに費やした時間への喜び、いやはや。








 今いる所。

昔からある所。

私は、繋がっているか。


2024月 3月31日

乾いた冷たい暖かさの空気。上着を1枚脱いだ。


どうも僕が気にしているところは、それを気にするのは僕の何処なのだろうという事のようなのだ。あることを気にする事の理由は、みんな違う、当たり前だ。だから、違う事の理由を気にしても始まらない。なぜその事をそのように考えてしまうのかについて、考えている。能天気だ。


普段そのようなことをぼんやりと考えて歩いているので、すごく実践的な質問をされると、なんかつまらない返事をしてしまう。そうして、しばらくしてその問いに関して僕が考えている正しい答えを思いつく。その時、質問した人はすでに何処かに行ってしまっている。最近は、その元々の質問を忘れてしまうので、困る。でも、忘れることは、僕にとって忘れて良いことなのだろうから、忘れてしまう事にしている。


 4月 4日  明らかに空気が暖かい。しかしすっきりしない薄曇りの青空。


24年の4月、令和6年。なんか慣れない。僕の最初の孫は、4月から公務員が始まる。毎日朝早く出かけて行く。僕は公務員定年退職者。さて。


今朝、暫く前に連絡の葉書が来ていた、駅前にあるいつもの歯医者に、定例のいつもの健診と掃除に行った。僕は、だいぶ前から1日1回、夜の風呂に入る前にしか歯磨きをしない。3分間電動歯ブラシ。でも、ここ暫く毎回虫歯なし、ちゃんと磨いてますね、と言われるだけ。ううむ。何がどうなっているのだろう。すぐ終わっても、まだ11時前。駅前のいつもの喫茶店で、何時もの珈琲1杯。飲み終わってもまだ、昼飯には早い。


駅前の公衆トイレで小便をしていたら、目の前の明かり取り窓のガラスの上を、小さい虫が登って行った。僕にはすべすべのガラスに見えても、この虫には手掛かり足掛かりが見える程度には凸凹なのだろう。

多分、この虫には自我などという自覚は無いだろうから、何か僕には思いもよらない状況/判断で、この目の前の凸凹をよじ登っていく事にしたのだろう。こういう状況の判断の積み重ねで、今、この世界のこの瞬間が出来上がっている。この世界中のこの瞬間のこの状況は、多分、僕が自覚しているこの状況だけ。あとは、この小さい虫のあるという一生懸命さのようなもの(僕が思っている)だけが見ええる。オシッコをしながら、その虫と僕の間に、何かが起こった。と、僕は思っていた。自覚するって、本当に大変な事なんだなあ。ひょっとすると、この世の全ての生き物には人間にはわからない、各自の自我があって、見える全ての生き物は、すべて自覚的にその方向に動いているのだと面白いのだが。あの小さな虫も。













 歩きながら見る。

見ながら歩く。

何かが、その両方を

繋げている。

2024年 3月21日

気持ち良い、乾いた空気。やや風強し。


来週月曜日が月末の様々な支払いの引き落とし日なので、今朝銀行を一回りして手続きをしてきた。県美術館を退職して以来、メインバンクを自宅のすぐ脇にある相双五条信用組合という小さな銀行に移した。それまでは給料の振り込みなどのために77銀行メインだったが、生活をできるだけシンプルにするため、移動する手続きが酷く面倒なところ以外は、出来るだけそこに移した。市税支払いや年金受け取りも相双五条。


毎月末、必要な金額をメインの小さい銀行から現金で引き落とし、ポケットに入れて、歩いて77銀行岩沼支店まで持って行って、振り込んでおく。電脳で自動振込するためのカードも持ってはいるが、バカにできないお金がかかるので、その分自分で散歩しながら移動する。その帰りにその移動分のお金で、駅前で昼飯を食ったり、昔からある和菓子屋で大福を買ったりする。僕は僕のためだけに時間を使ってよくなったので、面倒な事や物を楽しむことにお金を使いたい。表面的に面倒そうなことは、実に奥深く豊かな物や事を含んでいて、鑑賞の奥義はこういう所にこそ使い所があるように、思える。こじつけだが。


春分の日の前日、ということは火曜日。今僕がメインで使っているカップ類を作ってくれた陶芸家が、福島市で展覧会を開いている案内が届いていたので、これ幸いと出かけた。展覧会もだが、福島市を見に。山形市も好きだが、福島市も好きだ。電車で岩沼から白石まで。白石に着くと到着ホームの向かい側に数分差で、福島行きが待っている。白石から先は、車ではよく来るが、電車から見る風景は、又面白い。越河、貝田。おおそうだった。

東北線福島駅で降りて、駅東側に出る。本当に久し振りなはずだが、なぜか既視感が強い。山形駅前?

メインの通りへの駅からの出方/繋がり方?知っているような、初めてのような、ま、でも、だいたい行けば着くだろう。と、歩いて、着いた。オオマチギャラリー。雰囲気のある展示場。作家がいて、暫くお話。火曜日は町全体が定休日なのだった。昼飯を求めつつ、ウロウロしながら駅に戻る。帰りは駅弁を下げて、阿武隈急行に乗る。ボックス席が空いてなくて、街を出るまで、弁当はお預け。阿武急は、好きだ。福島県内の風景と、宮城県に入ってからの落差。阿武隈川の流れ。空いていることをいい事に、あっちこっち席を移動しながら景色を見る。数日前(蜂蜜買いに行った日)に道を間違えて右往左往していたあたりを、川のこっち側から懐かしく?見る。ああ、こういうふうに道路工事していたのか。なんだかずいぶん歩いたような気分で帰宅。





 目はレンズなので、

見えるものは全て見える。

見えてはいるが、

見えないものも沢山ある。



2024年 3月16日

暖かい空気。気持ち良い風。


蜂蜜を買いにいく話しだった。去年、最後に行った時に、山形の蜂蜜屋で薬草蜂蜜の大きい瓶を4本買っておいた。これで、今年の冬は乗り切れるはずだった。そして、そういうことは、そう上手くはいかない。最後の1本の残りが少なくなってきた。


3月になったので、慎重にいけば、朝日町まで買いに行けるかなと考えていた。とにかくそう上手くはいかない。蜂蜜は無くなってしまった。近くの農協の直売所で、丸森の蜂蜜を売っていた記憶がある。差し当たって、それを繋ぎに、と思った。丸森までは、車で一走りだ。で、友人のKに車(彼女のは軽だ)を出してもらって、一緒に丸森に蜂蜜を買いに行くことにした。


まず齋理屋敷の向かいにある丸森物産館で丸森の蜂蜜を1瓶買った。よくみると、それは丸森耕野の蜂蜜だった。時間がまだあったので、その蜂蜜屋さんに行ってみることにした。丸森は広く、山と、森だ。ということに、後で気付く。でも、ものすごく面白かった。


先ず耕野の町民センターを目指す。物産館で広い道ずうっと行けば着くから、と聞いた。耕野は、昔の踏分け山道が未だに生きている。基本、そういう道は人の家に着く。それぐらい家がまばら。そういう未舗装系の道を縦横無尽に舗装された新しい(名前のついた)幹線道路が横切る。昔からある道は、基本的に昔からの神社を結ぶ。それらは全て山道を伝うから、道は、狭く急。どれが広い道なの?オートマチックの車のギアはローに入ってうなりを上げる。ほとんど人家がないので、人に道を聞くこともままならない。いやあ、面白そうでしょう!

やっと人が見えた人家を見つけ、そこにいたおじさんーと言っても、僕の方がずうっと年寄りなのだがーに聞いたのが間違いだった。この道の先のT字路を右に曲がって、まっすぐ行けば着くよ、云々。とは言え、道が、そもそも蛇のように細く、くにゃくにゃなのがT字路になる。ここT字路なの? ここで曲がっていいの? こういう道を右に曲がるとどうなるか。暫く行ってからまた別れるところが出てくる。ううむ。一体ここはどこだろう、になる。軽で来てよかった。軽でないと行けないのだった。日本の昔の道路は、軽で作ってある。

本当は、わかったふりしないで、言われた通りに舗装された太い道を、遠周りを気にせず巡っていけば、町民センターの前に出るのだった。そこで、やっと、地域の「紙の」地図が手に入った。そこで、山の上にあると教えられた蜂蜜屋さんのあり場所を聞く。で、外に出ると、蜂蜜屋さんコチラという大きな看板。それ以降は、曲がり角毎にその看板。いやはや。みんな来ていて、そして、多分、苦労してんだな。


何はともあれ、丸森耕野の石塚蜂蜜園に到着。そこにはそこの周りにある花の蜂蜜があった。ここは丸森だから、先ず柿、そして蕎麦。確かにそれらの花は知っている。でも、柿の花からここにある瓶いっぱい分の蜜を蜂は集めて来るのだ。いやはや。取り敢えず、その柿と蕎麦の蜂蜜を買った。その後、先ずはともあれ、そこで話を聞きつついくつかの蜂蜜を購入し、直行で国道349号に出て(と思って)帰宅。

と思ったら、いつしか福島県に入っていて、慌ててUターン、とかいう話は、また、別の話だ。何はともあれ、再び三度、面白い行き当たりバッ旅であった。今度は2CVで蜂蜜を買いに行こう。もう少し暖かくなったら。うまく曲がれるかなあ。




 だいぶ昔に、

ここを見つけた人がいる。

その頃道は無かっただろう。

でも、水は流れていた。

2024年 3月15日

暖かい空気。風時々強し。


N ewYorkから帰って来て以来、簡単なので、僕の朝飯はパンと珈琲だ。もう帰って来てから50年も経つから、様々思うところや、必然などが重なって来てはいるが、基本は同じだ。

今/今朝の朝食は義理の息子が作ってくれるカンパーニュを薄く切ったやつ1枚。それに、火星の庭で買っているパレスチナオリーブオイルをかけて、ザータルを振り、蜂蜜をかける。白磁の縁の厚いおおきめのマグに入れた珈琲に牛乳を入れたやつ。同じ仕様の大きめのお椀に彼が毎日少しずつ牛乳を足して作ってくれるプレーンヨーグルト。それに基本的には苺ジャムと蜂蜜をかける。これらを老眼鏡をかけて、ゆっくり河北新報を読みながら食べる。もうだいぶ長い間こういうことになっているので、書き出すと、なんだかうるさい爺さんの大変な朝の始まりのように見えるが、パンと蜂蜜と、珈琲さえあればあとは、特に問題はない。なので、先日蜂蜜を買いに出かけた。


普段、僕は山形の朝日町にある蜂蜜屋にそれを買いにいく。特にそこでなければいけないというわけではない。もともと山形の裏側を細々走り回るのが好きで、モーターサイクルがメインの移動手段の頃からあっちこっちぶらついていた。でも、その頃は蜂蜜はそんなに食っていなかった。蜂蜜を食うようになったのは、美術館で働き始めて暫くしてからだ。今思い出す主たる問題は、朝僕の女将さんにあまり面倒をかけずに、自分でさっさと作って食ってしまうということだったのではないかと思う。で、ある時最上川の岸辺を走っていた時にそばを食おうと立ち寄った街で、蜂蜜を買った。それ以来色々なところで、機会があれば蜂蜜を買った。様々食べてみた後、僕が好きな蜂蜜は、朝日町のある養蜂園で売っている薬草の蜂蜜というのに落ち着いて来た。


書いてみると、僕は、あまり食い物に好みはないと思っていたのだが、なんだろう、食い物そのものに好みはなく、なんでも出されたものを美味しくいただけるが、自分で食うものは、好きで奥までわかるものを食べたいと思っているようだ。いやはや。ま、お爺さんなんだし、このくらいは良いか。

 

私が知っている物や事。

私が感じている物や事。

それらがそこに在る。

ことになっている。

2024年 3月 8日  

少し暖かい冷たい空気、小雪が降り、積もっっている。

2024年 3月11日

空気の冷たい快晴。風は柔らかく感じる。


昨日、今年の確定申告を終えた。それで、ここ暫く、少し静かだったのだ。

電脳を使うようになって以来、作業が物凄く簡便になったことは実感している。だが、様々細かな作業をし、ステイプラーで纏めたレシートや領収証を計算し、その合計を検算し、役場(市役所)の年末調整相談会場(毎年市役所最上階大会議室)に持って行って、(多分)税務課の若い人に少しー暫く前までは、だいぶんに長く詳しい、だったー説明をしながら、電脳機で打ち込んでもらう。いやはや。今年は,11時半から始まって昼前に帰ってきた。帰りに駅前で昼飯を食べ珈琲を1杯飲んだ。


その道みち、僕の知っている、博物館はなぜ必要かー人間はなぜ博物館を作ったのかーについての想いを点検していたのだが、それは点検であって、でも、社会は相変わらずそんなに、何も変わっていないのだった。いやはや。


土曜日に、東北大学で公開の東洋美術の講演会があったので聞きに出かけた。

僕は偶然に日本人に生まれ育ち、日本での世界が普通のこととして子供から大人になった。実はものすごく偶然で、かつありがたいことだのだ。大きくなって様々知ることがあって、今のこの日本の有り様の、ある意味、(あえて)良質な異常性について、時々考え込む。そんな事もあって、いそいそと聞きに出かけた。思えば、僕たちは、基礎教育で日本の美術についてほとんど何も学ばずに卒業する。

極端に言えば、明治になって、学校教育が始まり、美術という日本語が発明!されて以来、僕(たち)の知って、使っている美術は、西洋美術を基本に展開された。思えば、極端にまとめれば、それ以前の日本の美術は、背景全部に金箔を貼っただけでよしとする(できる)平面表現と、仏像と根付けしかない立体表現だけで、縄文以来の表現文化を凌いできたと言っているように、僕には思えれる。または、そう言えるバックボーンを持てる国がある。嬉しいが、どうなのかなあ。

でも、大学の美術史の人たちが扱っている美術の範囲は、文献で確認できる範囲と深さなのであって、僕が基本的に気にしているところとは少しーしかし本質的にー異なっているようだった。それは当然のことだな。


いまだ僕にはよく分からないのだが、日本での、美術と図工との異差はもう誰も、気にしていないのだろうか。または、その問題はすでに深くみんなに理解されてしまっているー多分僕が気にしている部分とはかけ離れた部分でーのだろうか。それとも、今回の問題とはかけ離れた部意だったのだろうか。

とはいえ、僕の問題とは別に、お話はとても興味深いもので、日本での空間や時間の認識の仕方と、私たち日本人の、宗教ー神道と仏教ーの認識の仕方と表現の仕方の融通無碍な、しかし一体感。ううむ、まだ知らないことがたくさんあるなあと思えるものだった。

特に、お話をした先生の一人が、京都出身の方で、僕ら東北人と、物凄く(勉強することができるかどうかとは異なるほど深い部分で)違う空間認識を基礎に話してますよと言ったことに、驚いた。またそれを実感でき得るような、京都の寺院のありようの空間認識の話しだった。

僕も、昔何日か京都に居た経験があるが、あの時感じた不思議な高揚感!?は、そういうことだったのかと納得した。ううむ、日本の表現は、こういう事も含めて、こうなっている/たのか。

僕が深く影響を受けた大学の美術の先生達はしかし、長野と、秋田の出身だった。今お話ができるのだったら、もっと広く深いお話しができたのだろうなあ。彼らは、もうだいぶ前に亡くなってしまった。そうか、文化はこういうふうに深まって広がっていくのだなあ。そういう、こういうことのために、美術館(博物館)は、なくてはならないものなのだ。僕が今、ここにいる事の肯定感。








































 ここまで家から歩いてきた。

奥に見えるのは蔵王。

裏側は山形。そして日本海。

2024年 3月 8日  

少し暖かい冷たい空気、小雪が降り、積もっっている。


昨日、今年の確定申告を終えた。それで、ここ暫く、少し静かだったのだ。

電脳を使うようになって以来、作業が物凄く簡便になったことは実感している。だが、様々細かな作業をし、ステイプラーで纏めたレシートや領収証を計算し、その合計を検算し、役場(市役所)の年末調整相談会場(毎年市役所最上階大会議室)に持って行って、(多分)税務課の若い人に少しー暫く前までは、だいぶんに長く詳しい、だったー説明をしながら、電脳機で打ち込んでもらう。いやはや。今年は,11時半から始まって昼前に帰ってきた。帰りに駅前で昼飯を食べ珈琲を1杯飲んだ。


その道みち、僕の知っている、博物館はなぜ必要かー人間はなぜ博物館を作ったのかーについての想いを点検していたのだが、それは点検であって、でも、社会は相変わらずそんなに、何も変わっていないのだった。いやはや。

 

山の中に、大きい石が1個ある。

森の中に、周りと関係なくある。

大きいと寂しくないのか。


2024年 2月29日

乾いた冬の空気。でも、少し歩くとうっすら汗。

2024年 3月 1日

冷たい春の空気。でも、うっすらと細かい雨。


今週になってから、毎日用事があって連日1万5千歩程歩いてしまっている。ずうっとそうなら文句はないのだが、先週のように出歩かない日が続くと、家の中だけ1日二百五十歩となってしまうのが残念だ。僕は歩くのは苦にしない。

前に、移動するのが好きだと書いたことがあったように思う。手段を問わず移動するのが好きだ。だから前は、沖縄で集中講義があれば、喜び勇んで飛行機に乗り、浜松でお話を頼まれたりすると、仙台港発名古屋港着ー約丸1日ーのフェリーで出かけ、帰りは常磐線の特急で東京から仙台までー確か4時間ほどかかったのではないかー帰ってきたりしていた。沖縄には、なんとか船で行くことはできないかと考えていたが、未だ実現していない。


詳しく考えると、こういうふうに、僕はどこかに行くではなく、移動すること自体が好きなのだ。だから、歩くと同様に、電車に乗ることが好きなのであって、電車や鉄道が好きなのでは、多分、ない。電車に乗って、窓の外を風景が流れていくのを見ているのが好きだ。思えばほんの少し前まで、僕たちの移動はほぼ全部歩いての移動だった。だから、そのことを自覚しながら、ちょっとその辺を歩き回ると、だいたい100年前の人達が見ていた景色を今でも体験することができる、ように思う。


僕はお爺さんなので、定期的に病院に行き、薬を処方してもらう。毎朝晩、手のひらに小山ができるほどの薬を飲んでいる。思えば、見た目は元気で脳天気な爺さんのようだが、冷静に考えれば、2000年に入って以来、脳内出血で頭蓋を開け、心筋梗塞で、手首血管から器具を通して心臓の裏表に3個のステントを埋め、前立腺肥大検査の数値で何回か癌検査を受け、逆流性食道炎で血を吐いて、口から胃の出口までと、肛門から小腸までの大腸全部(ということは小腸を除く腹の中全部ということだが)をカメラで詳しく検査された、という経歴を持つ。

詳しく書き出してみると、この前行きつけの病院で、「齋さんって、本当は基本、安静にしていなければいけない人なんですよ。」と言われたことに納得がいく。ううむ。


今日は僕の最初の孫の高校の卒業式だ。本当に、僕はもう、十分に長く生きたのではないか。





 ほら、向こうに見える。

あれは人が積んだものか?

葉が影を作っている。

2024年02月21日

透明度の高い空気の中を、細かく硬い雪が降る。


昨日の午後、榴岡公園の脇で、ある打ち合わせをするので出席してと言う連絡があった。これ幸いと早めに出て、駅東をうろつくことにした。あの辺は僕の中学校の学区だったし、高校への通学路でもあったから、懐かしい。仙石線が、まだ地上を走っていた頃のこと(ああ、僕はよく知っている)を、榴岡小学校の3年生の人達が研究したのを、駅東交流センターで展示していると新聞で読んだので、まずそこに行って見よう。ううむ、これが大変だった。


駅東には、榴岡小学校児童館での活動などで駅から小学校までは、直行で何回か行っていたし、宮城野原へ向かう広い通りのマンションには親戚が住んでいる。だから、ま、昔と同じに歩いていけばなんとかなるだろうと軽く出かけた。それは、間違いだった。僕の知っている通りの奥は、僕の知らない世界になっていた。

まず、ほぼすべての道が歩道付きの、広く直行するものになっていた。その道に面して新しく高いマンションが立っていてそれらの間に大きな(たぶんそのマンションの地主さんか?)個人の住宅があり、そうして何故か、多くの、様々な、古い、平屋の食堂。呆然としながら僕は、その中の食堂の一つでタンメンを食った。


広く直行する新しい道は、頻繁にクルリとループする細い道を含む。たぶん、新たに(たぶん、無理やり)区画整理をするときには、様々な、そうしなければいけない理由が起こるのだろう、と思うくらい。

何回もフラフラと、そいうループする通りを歩いていると、その行き詰りのあたりに突然ぽっと小さい神社が、大抵は小さい公園と共に、まるで裸で出てくる。この辺にはこんなに神社があったのかと感心するほど出てくる。榴岡天満宮がある小山(榴ヶ岡)の裾だからだろうか。昔からこの辺にはこんなに神社があったのか。昔この辺りの鉄砲町や、二十人街を歩いていた頃は、こんなに神社があったという記憶はない。出てきたのかなあ。こういうの本当に面白い。こういうのが普通にできて、やってしまって、ほとんどの人が文句も言わず(僕も含め)お参りしている。日本。


ちなみに、僕に、特定の神はいない。でも、日本人をやっている。まず人間だが、何故か日本に生まれ日本人になり、最近は意識的に日本人ををやっている。しようがない。そうすると、特定の神はいないが、ゾッとする感じは頻繁に起こる。お爺さんになってからは、一層、頻繁に起こるようになった。

だから、神社はお参りするが、例の形式的なお参りは意識的にしない。あれは、神様なんて本当はいないと信じている人が為る物だ。ゾッとできる人は、帽子をとって、「やあ、きましたよ、今日は」と、心の中で話しかける。誰にかはわからないが話しかける。それだけ。それでここまできた。


ということを知らず知らず考えてしまうほど神社があった。なんだかやたら近代的に変わってしまった街にある無数(でもないか)の神社。本当は、これだけで、売り物になるんじゃないか。










 僕はここに居る。

向こうに見える青は、

おお、宇宙ではないか。

僕はここに居る。

2024年 2月19日

寒いのに、生暖かい?空気。それが、庭の木を揺らしている。


基本的に僕は、一日ぼうっと一人で時間を過ごしているのだが、時々昔から知り合いの若い人が寄ってくれることがある。ありがたい。想えば、僕が会いに行きたい僕より古い人たちは、もう、皆んな亡くなってしまった。

この前来たS君は様々話したあとに、僕が昔書いた「大きな羊の見つけ方」は、まだありますか?と聞いてきた。この本はネットでは、まだ探すことができるとのことだったが、彼が見つけたときは7千円だかしたそうで、僕のところに尋ねてきた。ううむ、すまぬ、あります。自費出版だから税込1000円、今、400冊くらいまだ手元にあるのではないかな。

本当に時々だが、僕も今だにこの本を読む。読むたびに、訂正したり、変えたりしたくなるところが出てくる。でも、こういう本(文章)は、たぶんそれをやっていたらいつまでも終わらないのだということはわかる様になった。この手の本はそれが出た時の世界なのだ。世界は刻々と移る。最近は字の如く刻々と移る。


周りの世界を鑑賞するとき、古い人が若い人(達)と出来ることは、「そこに見えることをめぐって世界を掻き回すために共有できる世界まで戻ること」である。

前に、沖縄だったか九州だったかで、博物館教育の講義をしていたとき、たしか奄美大島だかの博物館の学芸員が、「最近島で古い日本の貨幣(和銅開宝?の様な)が見つかったんですが、この凄さをどう言うふうに、今度来る島の5年生に話したらいいでしょう」と質問して来たことを思い出す。

まず考えるべきは、5年生と共有できる世界はどのあたりだろうか、である。しかも、奄美大島?の。もし彼がその島に住んでいて、小学生の親だったら、彼はすでに答えを持っている。

無知を恐れず言えば、何気なくやっているが、貨幣を使って経済=世界?が動くと言うこと自体が、実は、ものすごいビックリなのであって、そこさえ気付ければ古い貨幣が見つかったことの深さ広さは、一つの知識が増えることを大きく超えて深まる。と言うふうに。


ここから始めれば、博物館の存在意義を含む、これまでの物をとっておく意義ーなどと言うより単に面白さでいいと思うが、私たちが今ここにこうしていることができる広い肯定感に対する喜びの様な物を感じられる。こう言うあたりが小さい人達と一緒にする博物館教育の面白さだと思う。


 日本の歴史は、

長く深く限定的なので、

たぶんほとんどの人は

親戚なのではないか。


2024年 2月15日

空気は冷たい様なのだが、気温は暖かい。変な感じ。高曇り。


いろんな処で美味しいものを食べる機会があり、手持ちの現金を使ってしまったので朝一で銀行に行った。ただ、今日は年金支給日なので、混んでいた。

僕も、今や純粋な年金生活者なので、そのまま静かに帰って来て、今これを書いている。お金は午後に下そう。


給料生活者だった頃は、さまざまな理由で77Bに口座をもっていたが、退職したので、家から下駄履いて30秒のところに在る、相双五城信用組合(この漢字を書くのに暫くかかった。福島の相馬市と双葉郡とにあった銀行と、宮城県大河原の五城銀行とが、震災後に合併してできた信用組合の銀行だ)に、口座を2つ作った。作ってから暫くになるが、いまだに誕生日になるとお祝いの湯呑みが届く。

銀行の大小は、深く考えると、さまざま僕の知っている範囲を超える問題があるのだろうが、自分の家から下駄履いてすぐ行けるところにあるシステムを僕は使いたい。ガラス戸を引き開けて、頼んでおいた雑誌を取りに行く本屋さんと同じ様に。


考えるに僕は鑑賞の専門家だ。ここ50年程は、主に美術を中心とした鑑賞をして来たが、最近(70歳少し前頃から)は、意識して、見えるもの全般に鑑賞の対象を広げる様にしている。ふと眼に止まったものに、何か気を引かれ、ついじっくり見る。そうして、鑑みて賞賛する。


『鑑みる』のだから、見る側に照らし合わせるものがないといけない。日本では、「ね、だから勉強しないとダメなのよ、」となりがちだ。ま、とにかく鑑みて、そうして「賞賛する」。

だが、どちらにしろ、そこに見えるものを認識するには、人間はそれまで知っていることだけを使ってそれを知る以外ない。お母さんから生まれて目を開け、見えることをわかって以来、「見えるもの」はその時自分の知っていることだけを組み合わせて自分のものにしていく。

生まれて、目の見え始めた小さい人を見ているとそれはよくわかる。よく見ていると、もしかすると、人間の子供は大人がまだ見えないと言っている時期でも、僕ら(大人)が見えると意識しているのとは違う形と方法で認識はして、観ているのではないかと思うことがある。僕たちは地球上に生きる相当にうまく出来た生き物なので、たぶん、自分にはまだわかっていない能力が/も在るのではなかろうか。そ言うことも鑑みながら、賞賛する。


だが、物を見ることは、誰でもしている事だから、鑑賞の専門家だと張り切って言うほどのことでもない。ただ、ふと立ち止まって、今見ているなと自覚してしまうと、暫く深くそっち側に行ってしまうので、面白い。