山の中に、大きい石が1個ある。

森の中に、周りと関係なくある。

大きいと寂しくないのか。


2024年 2月29日

乾いた冬の空気。でも、少し歩くとうっすら汗。

2024年 3月 1日

冷たい春の空気。でも、うっすらと細かい雨。


今週になってから、毎日用事があって連日1万5千歩程歩いてしまっている。ずうっとそうなら文句はないのだが、先週のように出歩かない日が続くと、家の中だけ1日二百五十歩となってしまうのが残念だ。僕は歩くのは苦にしない。

前に、移動するのが好きだと書いたことがあったように思う。手段を問わず移動するのが好きだ。だから前は、沖縄で集中講義があれば、喜び勇んで飛行機に乗り、浜松でお話を頼まれたりすると、仙台港発名古屋港着ー約丸1日ーのフェリーで出かけ、帰りは常磐線の特急で東京から仙台までー確か4時間ほどかかったのではないかー帰ってきたりしていた。沖縄には、なんとか船で行くことはできないかと考えていたが、未だ実現していない。


詳しく考えると、こういうふうに、僕はどこかに行くではなく、移動すること自体が好きなのだ。だから、歩くと同様に、電車に乗ることが好きなのであって、電車や鉄道が好きなのでは、多分、ない。電車に乗って、窓の外を風景が流れていくのを見ているのが好きだ。思えばほんの少し前まで、僕たちの移動はほぼ全部歩いての移動だった。だから、そのことを自覚しながら、ちょっとその辺を歩き回ると、だいたい100年前の人達が見ていた景色を今でも体験することができる、ように思う。


僕はお爺さんなので、定期的に病院に行き、薬を処方してもらう。毎朝晩、手のひらに小山ができるほどの薬を飲んでいる。思えば、見た目は元気で脳天気な爺さんのようだが、冷静に考えれば、2000年に入って以来、脳内出血で頭蓋を開け、心筋梗塞で、手首血管から器具を通して心臓の裏表に3個のステントを埋め、前立腺肥大検査の数値で何回か癌検査を受け、逆流性食道炎で血を吐いて、口から胃の出口までと、肛門から小腸までの大腸全部(ということは小腸を除く腹の中全部ということだが)をカメラで詳しく検査された、という経歴を持つ。

詳しく書き出してみると、この前行きつけの病院で、「齋さんって、本当は基本、安静にしていなければいけない人なんですよ。」と言われたことに納得がいく。ううむ。


今日は僕の最初の孫の高校の卒業式だ。本当に、僕はもう、十分に長く生きたのではないか。





 ほら、向こうに見える。

あれは人が積んだものか?

葉が影を作っている。

2024年02月21日

透明度の高い空気の中を、細かく硬い雪が降る。


昨日の午後、榴岡公園の脇で、ある打ち合わせをするので出席してと言う連絡があった。これ幸いと早めに出て、駅東をうろつくことにした。あの辺は僕の中学校の学区だったし、高校への通学路でもあったから、懐かしい。仙石線が、まだ地上を走っていた頃のこと(ああ、僕はよく知っている)を、榴岡小学校の3年生の人達が研究したのを、駅東交流センターで展示していると新聞で読んだので、まずそこに行って見よう。ううむ、これが大変だった。


駅東には、榴岡小学校児童館での活動などで駅から小学校までは、直行で何回か行っていたし、宮城野原へ向かう広い通りのマンションには親戚が住んでいる。だから、ま、昔と同じに歩いていけばなんとかなるだろうと軽く出かけた。それは、間違いだった。僕の知っている通りの奥は、僕の知らない世界になっていた。

まず、ほぼすべての道が歩道付きの、広く直行するものになっていた。その道に面して新しく高いマンションが立っていてそれらの間に大きな(たぶんそのマンションの地主さんか?)個人の住宅があり、そうして何故か、多くの、様々な、古い、平屋の食堂。呆然としながら僕は、その中の食堂の一つでタンメンを食った。


広く直行する新しい道は、頻繁にクルリとループする細い道を含む。たぶん、新たに(たぶん、無理やり)区画整理をするときには、様々な、そうしなければいけない理由が起こるのだろう、と思うくらい。

何回もフラフラと、そいうループする通りを歩いていると、その行き詰りのあたりに突然ぽっと小さい神社が、大抵は小さい公園と共に、まるで裸で出てくる。この辺にはこんなに神社があったのかと感心するほど出てくる。榴岡天満宮がある小山(榴ヶ岡)の裾だからだろうか。昔からこの辺にはこんなに神社があったのか。昔この辺りの鉄砲町や、二十人街を歩いていた頃は、こんなに神社があったという記憶はない。出てきたのかなあ。こういうの本当に面白い。こういうのが普通にできて、やってしまって、ほとんどの人が文句も言わず(僕も含め)お参りしている。日本。


ちなみに、僕に、特定の神はいない。でも、日本人をやっている。まず人間だが、何故か日本に生まれ日本人になり、最近は意識的に日本人ををやっている。しようがない。そうすると、特定の神はいないが、ゾッとする感じは頻繁に起こる。お爺さんになってからは、一層、頻繁に起こるようになった。

だから、神社はお参りするが、例の形式的なお参りは意識的にしない。あれは、神様なんて本当はいないと信じている人が為る物だ。ゾッとできる人は、帽子をとって、「やあ、きましたよ、今日は」と、心の中で話しかける。誰にかはわからないが話しかける。それだけ。それでここまできた。


ということを知らず知らず考えてしまうほど神社があった。なんだかやたら近代的に変わってしまった街にある無数(でもないか)の神社。本当は、これだけで、売り物になるんじゃないか。










 僕はここに居る。

向こうに見える青は、

おお、宇宙ではないか。

僕はここに居る。

2024年 2月19日

寒いのに、生暖かい?空気。それが、庭の木を揺らしている。


基本的に僕は、一日ぼうっと一人で時間を過ごしているのだが、時々昔から知り合いの若い人が寄ってくれることがある。ありがたい。想えば、僕が会いに行きたい僕より古い人たちは、もう、皆んな亡くなってしまった。

この前来たS君は様々話したあとに、僕が昔書いた「大きな羊の見つけ方」は、まだありますか?と聞いてきた。この本はネットでは、まだ探すことができるとのことだったが、彼が見つけたときは7千円だかしたそうで、僕のところに尋ねてきた。ううむ、すまぬ、あります。自費出版だから税込1000円、今、400冊くらいまだ手元にあるのではないかな。

本当に時々だが、僕も今だにこの本を読む。読むたびに、訂正したり、変えたりしたくなるところが出てくる。でも、こういう本(文章)は、たぶんそれをやっていたらいつまでも終わらないのだということはわかる様になった。この手の本はそれが出た時の世界なのだ。世界は刻々と移る。最近は字の如く刻々と移る。


周りの世界を鑑賞するとき、古い人が若い人(達)と出来ることは、「そこに見えることをめぐって世界を掻き回すために共有できる世界まで戻ること」である。

前に、沖縄だったか九州だったかで、博物館教育の講義をしていたとき、たしか奄美大島だかの博物館の学芸員が、「最近島で古い日本の貨幣(和銅開宝?の様な)が見つかったんですが、この凄さをどう言うふうに、今度来る島の5年生に話したらいいでしょう」と質問して来たことを思い出す。

まず考えるべきは、5年生と共有できる世界はどのあたりだろうか、である。しかも、奄美大島?の。もし彼がその島に住んでいて、小学生の親だったら、彼はすでに答えを持っている。

無知を恐れず言えば、何気なくやっているが、貨幣を使って経済=世界?が動くと言うこと自体が、実は、ものすごいビックリなのであって、そこさえ気付ければ古い貨幣が見つかったことの深さ広さは、一つの知識が増えることを大きく超えて深まる。と言うふうに。


ここから始めれば、博物館の存在意義を含む、これまでの物をとっておく意義ーなどと言うより単に面白さでいいと思うが、私たちが今ここにこうしていることができる広い肯定感に対する喜びの様な物を感じられる。こう言うあたりが小さい人達と一緒にする博物館教育の面白さだと思う。


 日本の歴史は、

長く深く限定的なので、

たぶんほとんどの人は

親戚なのではないか。


2024年 2月15日

空気は冷たい様なのだが、気温は暖かい。変な感じ。高曇り。


いろんな処で美味しいものを食べる機会があり、手持ちの現金を使ってしまったので朝一で銀行に行った。ただ、今日は年金支給日なので、混んでいた。

僕も、今や純粋な年金生活者なので、そのまま静かに帰って来て、今これを書いている。お金は午後に下そう。


給料生活者だった頃は、さまざまな理由で77Bに口座をもっていたが、退職したので、家から下駄履いて30秒のところに在る、相双五城信用組合(この漢字を書くのに暫くかかった。福島の相馬市と双葉郡とにあった銀行と、宮城県大河原の五城銀行とが、震災後に合併してできた信用組合の銀行だ)に、口座を2つ作った。作ってから暫くになるが、いまだに誕生日になるとお祝いの湯呑みが届く。

銀行の大小は、深く考えると、さまざま僕の知っている範囲を超える問題があるのだろうが、自分の家から下駄履いてすぐ行けるところにあるシステムを僕は使いたい。ガラス戸を引き開けて、頼んでおいた雑誌を取りに行く本屋さんと同じ様に。


考えるに僕は鑑賞の専門家だ。ここ50年程は、主に美術を中心とした鑑賞をして来たが、最近(70歳少し前頃から)は、意識して、見えるもの全般に鑑賞の対象を広げる様にしている。ふと眼に止まったものに、何か気を引かれ、ついじっくり見る。そうして、鑑みて賞賛する。


『鑑みる』のだから、見る側に照らし合わせるものがないといけない。日本では、「ね、だから勉強しないとダメなのよ、」となりがちだ。ま、とにかく鑑みて、そうして「賞賛する」。

だが、どちらにしろ、そこに見えるものを認識するには、人間はそれまで知っていることだけを使ってそれを知る以外ない。お母さんから生まれて目を開け、見えることをわかって以来、「見えるもの」はその時自分の知っていることだけを組み合わせて自分のものにしていく。

生まれて、目の見え始めた小さい人を見ているとそれはよくわかる。よく見ていると、もしかすると、人間の子供は大人がまだ見えないと言っている時期でも、僕ら(大人)が見えると意識しているのとは違う形と方法で認識はして、観ているのではないかと思うことがある。僕たちは地球上に生きる相当にうまく出来た生き物なので、たぶん、自分にはまだわかっていない能力が/も在るのではなかろうか。そ言うことも鑑みながら、賞賛する。


だが、物を見ることは、誰でもしている事だから、鑑賞の専門家だと張り切って言うほどのことでもない。ただ、ふと立ち止まって、今見ているなと自覚してしまうと、暫く深くそっち側に行ってしまうので、面白い。

お日様から来ている光。

山の頂上にある石。

この山が山になったので、

この石が石になったのか。

2024年 2月13日

雲ひとつない青空。15度まで気温が上がるという予報。

空気は乾いている。


夜布団に入ってラジオをつけると、面白いことを話していて、ううむこれは覚えておかねば!と思ったところまでは記憶にあるのだが、どうも、すぐに寝てしまっている様なのだ、その後の記憶がない。


毎月13日は、僕の趣味(戦車模型作り)の雑誌が出る日だ。仙台に出なくてもよくなった日から、僕は地元の昔(僕が生まれる前)からある本屋さんに、その(特殊な)雑誌を取り寄せてもらうことにした。たぶん、こういうことをしてもらうと、(今の複雑な流通機構の中の最端末にあるであろう)その本屋さんには、僕の知らない範囲で、さまざま迷惑をかけているのではないか、心配だ。


とは言え、今日の様にすごく天気の良い、暖かい冬の日、ぶらぶらと、昔の宿場町岩沼の、昔からの商店街の旧国道4号線に沿った、線が引かれただけの歩道の端ををゆっくり歩いて、ガラスの引き戸を開けて入る本屋さんに行って、そこのオカミさんと少し世間話をしながら、僕の昔からの趣味の戦車模型の雑誌、最新号を受け取り、そのまま駅前まで歩いて行く。そうして、いつも行く喫茶店で、今受け取って来た雑誌を読みながら、ランチ定食のスパゲッティーを食い、美味いコーヒーで締め、970円を払い、できるだけゆっくり歩いて帰宅。


こう言うことを一人でしている間、僕が見ている物、嗅いでいる空気、浴びている太陽。前に書いた本を読んで自分のものに成っている分の自己。ありがたいことだ。

 


 光が当たっている。

ずうっと向こうのお日様から、

この光は来た。

そして今ここにいる。

2024年  2月 8日  

底冷えのする、深い曇り。冷たい寒さではない。


暫く前、僕のおかみさんがある朝突然死んだので、東京に住んでいた娘一家が僕の家に引っ越してきてくれたのは7年前のことだ。だから、その時小学校1年生になった人が今年の4月から中学生になる。で、今、家の中の再調整が始まっている。


僕の家の内装は、構造材や壁のベニア材むき出しのままなので、新たに部屋を作ったり何やかにや作り込むのを自分でやるのに困ることはない。僕の義理の息子(娘の夫)は思いついたことを具体的な形にする事に長けているので、どんどん新たな(人を含めた)収納場所が増えてくる。だが、我が家全体の蔵書はやたら多い。そして本=紙は重い。ううむ。とはいえ、唸っていても作業は進む。


今、僕の机の上には、昔読んでいて、年取ったらまた読もうと思っていた本が(少し)山積みになっている。彼らのテリトリーの本棚にあった僕の本がこちらに移って来たのだ。大丈夫、このぐらいは、まだ僕の部屋に収納できる。

片岡義男、池澤夏樹、丸山健二、椎名誠、影山民夫、梨木香歩、少しの司馬遼太郎と中沢新一。ここまできて周りを見渡すと、僕は、ほとんどこの人たちと共に大人に成って来たのだなあという感慨が深い。

ニューヨークに行く時に一緒に持って行った高橋克己全集。そこで長女を産むことになったとき日本からT先生等が航空便で送ってくれた日本語のスポック博士の育児書。それと、AAミルンのプーくまさんのグループ。本当にこんなもんだから、僕の部屋の周りの本棚に全部収まる。もちろん、整理する前につい読み始めてしまう問題は、大きい。


さて、昼近くなって来たので、今から角田にオムライスを食いにいこう。この人たちのライフスタイルが僕の中で混然と統一されて、僕の人生が作られている。なかなか良いんんじゃないの。






表現する事自体を自覚する。

表現の広さを自覚する。

内側に広がる見えるもの。

2024年 2月3日  

今日は土曜日なので、1日外に出ない予定。夕方の犬との散歩も、誰かに代わってもらおう。晴れている。


この前、北仙台駅前待ち合わせで、古い友達のKと、暫くぶりの行き当たりばっ旅をした。電車で普段降りない駅に降りる。でも思えば、美術館で働いていた頃は、ここは通勤で下車する駅だった。ここから美術館までと、仙台駅から美術館までの距離はほぼ同じなのだ。


北仙台駅には感じの良い小さな「待合室」がある。南に面した大きな窓から駅前が広く見えるので、待ち合わせ場所の郵便局も見える。

こういう気分の良い雰囲気の小さい部屋には、そこに住んでいる様な人がいるものだが、ここにもいて、携帯電話を耳に当てたままずうっと誰かが出るのを待っている。そのほか何人かいる人は、電車を待っている人(たぶん)で、出たり入ったりしている。


外が見える場所(椅子)は、最初ふさがっていたので、最初は駅の外に立っていたが、暫くして空いたので室内に入った。耳に電話を当てていた人は、暫くしてつながった様で、はっきりした声で話し始めた。もちろんこちらに聞く気はないのだが、そういうところで電話を耳に当てている人はそういう生活が普通の人なのだろうから、普通の声で電話の向こうの人と相談を始めた。個人情報をめぐる、そこで聞いた物語についてはこれ以上書かないが、ううむ、いかに僕は普通に幸運に幸福なのかをめぐって、暫く深く考えた。

こういう事があるので、打ち合わせや予約予定なしの、行き当たりばったりの世界は捨て難い。


暫く後、そこから、彼女の小さい銀色の車に乗って、昔、落合に住んでいた頃みんなでよくいった街道沿いのトンカツ屋により、いまだ(たぶんコロナ禍を乗り越えて)繁盛していたその店で、カキフライ定食(牡蠣だけのはなくて海鮮フライだったが)を食べたりしながら、しばらくぶりの道をできるだけ選んで、家に帰った。


あそこに行こう、ではなく、あっちの方に行くかだけで動き始めて、出会す旅。本当は昔の人の様に徒歩だと、もっと面白いのだろうが、でも、まあ、予定のない動きかたは、予定にない動きがそちらから始まって、受け止める心さえ開いていれば、いつも面白い世界が見える。



  



突然電話が来て、友達が近くに来ているという。

嬉しい。

春が来始めたな。

 2024年1月31日

乾いた、冷たい、微風。


この週末、アメリカでは、フットボールの各リーグチャンピオンシップゲームが行われていて、今では日本でも生中継される。彼の国は広いので、時間帯が3つもあるから、同じ時間開始でも、東海岸と西海岸とでは、ほぼ一緒に実況できる。なので、僕は、朝4時から午後3時過ぎまで、テレビの前に居座ることになる。せっかく書き始めたのに、一時文章が止まってしまった言い訳。

70歳を過ぎてからは、1日一個の活動ということにしているので、こんなにテレビを見た日は、後は休みということになる。


大学に入って本格的に美術を始めた頃、先生達に何回も言われ、今も強く心に残っている事は、概念で作らないー観ないという事だった。とはいえ、僕たちは、概念がなくては自分の世界を理解できない。自己認識を含む世界は、自分の脳にある概念の積み重ねでできている。

でも、これは僕の今の概念だと自覚してそこに今ある物を見ると、ある境界に気付いた途端、世界がぱあっと広がってくる。歳をとってくると、その世界もその概念の内側でしかないという事がわかってくるが、限定された内側ということさえ気づければ、日々の生活は深くー楽しくなる。


ウイークデイの夕方、一緒にいる柴犬と未舗装の田圃道へ散歩に行くのが僕の日課だが、彼が自覚している自我?と、僕が考えている自我との異差を気に留めて歩いて行く。気にしていなくても、彼には彼の世界があって、気になるところで納得する様に行動しながら歩いて行く。地面から30センチ以下の高さの視点。僕の何倍かの匂いと音の、広さと深さによる世界。君は今何を観ているのだろう。君が今いる世界は、どんな広がりと深さを持った形なのだろう。


同じ様に、例えば杉村淳という明治の末に生まれ、油絵の具で西洋画を描いてきたーということは自分の身の回りを観てきたー概念化してきた男子の表現を観る。彼のいたー観た世界の拡がりとと深さ。犬と比べるとは何事かではなく、柴犬と比べる広がりと深さ。


こういうのが、僕が、例えば杉村淳美術館で楽しんでいる状況なのではないかしら。


学ぶ事は。自分の知らないことを知る事だ。


だが、多分、自分が知っている事だけ、知る事が出来る。


新たなことを知ることは、命懸けの冒険に近い。


2024年 1月24日    

最近ではこのくらいの風は無風ということになるのだろうという風の日。気持ちよく雲の浮かぶ青空。風が強くなってきた。


僕は昭和26年生まれの、普通の日本人なので、小学校から学校に通い(僕が小さい頃、僕の家では幼稚園に行くというのは少し贅沢だったーのだと思う)中学高校と順番に進み、受験がどうのこうのとやたら騒ぐ時代に入る直前に大学に滑り込んだ。それら基礎教育的な学校ではずっと図工は好きで得意だったし、本を読むのは苦にしなかったので、画集を含むたくさんの本を読んだり見たりした記憶がある。

だが。思えば大学に行くまで、日本画をめぐるお話は聞いた事がなかった。僕が行った大学は教育大学だったので、美術を専攻しても、入学時西洋画と日本画のどちらかに専攻が分かれるという事はなかった。絵画と彫刻は4年の卒業制作時に分かれたが。


ただ僕は何も意識しなくても日本語を流暢に喋る日本人なので、いつの時代の、どんな日本画を見ても、あまり動揺した記憶はない。だが日本人でない人間の描いた平面絵画ー表現では、何回かこの人は何見てんだ!と動揺した記憶はある。

ということを自覚できただけでも、教育大で美術を専攻したかいはあった様に、今は思う。


塩釜の杉村惇美術館で、彼の作品を見た時の基本にあるのは、そういう目を自覚した僕の平面絵画を見る脳だ。

もう具象表現は終わって、これからの絵画は抽象だと世界中で言われ始めた頃の日本の具象表現家としての杉村を今見ると、だから、すごく面白い。多分今だから、誰にでも面白い。独りよがりだと言うことを自覚しながら見ることを含めて面白い。面白いと言う事は、各自のそっち側に各々広がる世界がどんどん広がっていくことを感じると言うことかもしれない。


行っている事がどんどんわからなくなってきているなあ。でも良いのだ。こう言うのが、とっしょり(年寄り)の戯言というものなのだ。






 

 2024年 1月23日 変にほの暖かい湿った空気。風強し。

しばらくこのブログをアップしていなかった。その間に、基本的なシステムがより(皆んなに)使いやすくなってしまっていて、僕には見覚えのないものになってしまっていた。多分、今の普通の日本人には、そうなっても、様々いじっていれば、ああこうなるのね、という程度の変化なのだろうが、僕がやると、一度にドット全て消えて行くような状況が垣間見えたので、今回はこれまでの最初にあった訳のわからない写真は無い。

暫く作文をしていなかった。最近、集中力が著しく落ちているのが、自覚できている。

まず、前立腺が肥大してきて排尿のコントロールがうまくいかなくなった。僕の父親も、退職してから同じような状況になったことを知っているので、僕は自発的に病院に行き、その肥大を抑える薬を飲むことになった。

その薬はよく効いて、それまでの症状ー例えば頻尿とかーは、だいぶ良くなった。ただ、なにしろ基本は前立腺だから、多分、その薬がよく効いていると言うことは、僕の男性ホルモンを充分にコントロールしているという事と無関係では無いだろう。様々薬が効いてきて、まず感じられたことは、体調はさておきー何はともれあれ毎日の生活は快調だー様々な場面での集中力が長く続かず、なんとなく散漫になってきているということだった。特に何処か身体の調子が悪いと言うようなことは無いのだが、それに加え基礎的な総合的体力、特に純粋な筋力が目に見えて落ちてきている。

とはいえ、僕はだいぶ前から「典型的な(昔の日本の)老人」というものになりたいと思って来たので、最近様々社会で話されているような「元気で100歳まで手も掛からず生き延びるというような人」になる気は全く無い。70歳にもなって、元気に仙台マラソンに出て3時間以内完走なんてことは「今更」したくない。それをしなければいけない時期に、十分してきたような気が、僕はしている。

別に悪気があって言うわけでは全く無いのは当然だが、若い頃、後先考えずに、一生懸命その時の自分の仕事を心から楽しんでして来れば、歳取ってきたら、それなりにポンコツになってくるのは当然なのではないかしら。総合体力的には、その方が、僕には格好良く見える。

様々言うことは出来るだろうが、それでなくとも、どっちにしても、何はともあれ、世の中の動きと僕の頭の動きの同調具合は、だいぶずれてきている事は、否応なしに自覚している。


この前、僕の孫である小学6年生のクラスに行って「何故中学生になると図工がなくなって同じ科目が美術になるのか?または、同じなのか?」と言うような事を巡って90分話をする機会があったが、彼らの目の集中具合を見ていると、わかる、と言うことは理解すると言うことではなくて、そこの時間をどれだけ共感するかと言うことなのだなあと、そういえば、昔美術館にいて、小さい人達と鑑賞をめぐって一緒にいた時のことを思い出したりしていた。とは言え、ある年齢までの人間は、いまだそんなに大きく変わってはいないようで少し嬉しい。こういうのが少しも現実がわかっていないということでは無いといいのだが。

で、実感的にわかるのだが、その分、その人の一つの動きに込められた、それによって表現される世界の広がりは、明らかに若く体が動いていた時とは桁違いに、広く深く読める/見えるようになってくる。ううむ、僕がそうした時/頃の僕の父親の胞夫さんも、同じように見えていたのだろうか?歳をとると言うのは、そう言う位置に自分が成って行くと言うことだったのか? もしそうなら、いやはや、様々すまぬことであったなあと、今、思う。遅いか?いや。決して遅く無いと、おじいさんの僕は思う。

ならば尚更、出来るだけ静かに、毎日自分の手だけから見える範囲をじっくり見てこれからも過ごしたいものだ。



何故、今までこのように静かにしていたのに、突然書き始めたのかというと、この前の日曜日に塩釜の杉村惇美術館に行き、そこでやっていた美術館教育の集まりに様々な状況が重なって参加してしまったことが原因だ。ううむ、こういうふうに、僕のやっていた事は繋がって行くのだなあ。そもそも何故そうなったかというと、本当は塩釜神社博物館の新年刀展を見に行ったのだ。その帰り、せっかくきたのだから杉村先生に会っていこうかなと思い寄ってみたのだ。僕は彼が宮教大で先生をしていた時の最後の教え子だ。僕の美術をめぐるものの考え方は、彼をはじめとする、あの当時の教育大の先生方に強い影響を受けている。

そこでは、対話型鑑賞という活動をしていた。活動を仕切る人(達)は(僕の見る限り)4人くらいいて、参加者は、僕を入れて3人だった。


ううむ、個人の平面の作品を収蔵している美術館で、鑑賞を行うということは、要するに何をどうする事なのだろう。そしてそれは、全体のその(見る)人の中で、何をどうするつもりの行為なのだろうというような、ものすごく基本になる点は、最近はほとんど点検されていない様だった。もしそれらが点検され検討されているとしたら、最近の学校教育などでよく感じられる(多分ものすごい偏見であることを期待するが)、すでに決まってしまっていて当たり障りのないない波風たた(て)ない結論に知らないうちに持っていく教育がここにも来ている事が想われた。これ偏見ですよねえ。