地上30センチの世界と、
地上175センチの世界。
見える世界の違い。
見える同じ世界。
2024年 9月 9日
乾いた空気の風。暫くぶりに窓を開け放つ。
9月になると、アメリカンフットボールが始まる。その準備ー見る側のーで、暫く忙し?かった。朝起きて外に出てみると、突然、空気が秋になっていた。先週末まで、すっかり窓を閉めて、外からの空気を遮断して機械調整していた家の中の空気の温度が、数日前から突然自然調節になった。
先日、ちょっと用事があって、美術館にいた頃書いた文章を読み返した。ううむ、何だかこねくり回した文だった。でも、あの頃は、こう書かざるを得なかったのだとなあという事は今、わかる。僕は、他人の考えを大きく広く読んで、そこから道筋を見つけていく人では、根本的にないようだ。まず、ざっと大きく広場を見渡して、自分の行く道をとにかく決めて踏み出してしまう方法の人だったのだ。
で、今、世界は、こうなっている。多分、あの当時、僕は、ちょっと困った変な人だったのだろう。そして多分、今も。ま、それはしょうがない。人は、自分の知っていることしか知らないし、それだけを使ってものを見、判断する、今の、僕も。
僕は、ほぼ毎日、朝食の後続けて河北新報朝刊を読む。毎朝、いやになる程世界中で問題が起こっている。ううむ、これは、美術教育のうちの鑑賞教育が、上手くなされていなかったからではないかと、思う。そこに見える物を、丁寧によく見て、深く広く、自分のこれまでを総動員して見る。基本的に鑑みて、賞賛するように、観る。そういう時、基本的に、僕は、いつも一人だ。一人だが、人間としての全てだ。そこに居る、みんなが、人間としての、全ての、一人なのだ。いいとも、僕は、もうお爺さんなので、ものすごく楽天的なのだ。
おととい、しばらくぶりで、坪沼の神社の森で、市内の児童館の低学年の人達と半日活動をした。小さい人達とワークショップをする時、今回の人数は20人弱だったけれど、僕にとっては、一人一人が20人居る、だ。
その活動が上手くいく時は、20人が一気に集中する。団体でも、僕が見ているのは、その一人。その一人と、僕が深く一緒にしていることが、上手くいっている時は、それがみんなに伝わる。それをしたくない人にも、一緒にして居る事は伝わる、かのようだ。ある年齢まで、人間は、本当にすごい霊長類だ。このように自我も意識されると良いのだが。
ただ最近では、そういう活動をすると、僕は次の日起き上がれない。今日は、もう何日か過ぎた日の朝なのだが、朝飯食ってから、もう一度寝て、今起きて来たところだ、いやはや。