知っている事は、

自分の理解できること。

理解を超えるためには、

ビックリする事。

2024年 10月1日

なんと!乾いた、涼しい風。20度は越えている秋の気温。


僕は、長い間、美術の中でも鑑賞に特化した事柄について考えて、実行して来たので、今のように、呆然と毎日を過ごすことになっても、特に何も困った事は起こらない。今そこに見えることを噛み締めて、味わえる=鑑賞できるからだ。一人で今いるそこで、見えるものやことをじっくり噛み締め、ううんと、どう言ったら良いのだろう、味わう。鑑みる。だから、朝新聞を読むのに時間がかかる。こちらにあることのみが見える。


できることなら、僕は時間を潰すために、表現を使いたくない。とは言え、よく考えると、表現ほど、何だか訳のわからない物に積極的に時間を使っていると言えるものも無い。外に向けて表現することだけでなく、自己の内部に向けて表現される表現。ううむ、でも、それは、表現か?自分以外に見えない表現は表現か?というとうなことを考え始めたら、ちょっと何かの病気かとも、思ってしまう。そういう上での、特に困った事はない、なのだ。ううむ、困ったものだ。


しばらく前まで。僕も、時間が空き次第、何か、訳のわからない物を作り出していた。ある時期から、できるだけ、訳のわかる物を形にする事はしない様に注意していたが、どうしても、形にしてしまうと、見たことのある何かになってしまう。地球上に生きる人間なので、しょうがないと言えばしょうがない。仕様がない。今、音楽を聴きながらこれを書いているのだが、聴覚表現は、最近どうなっているのだろう。



という様なことを書いたからではないのだが、ごく個人的な友人からしばらくぶりの突然なハガキが来て、9月末から宮城県芸術協会展が始まるので、見にこないかというお知らせだった。僕は、普段、美術表現だけの展覧会は、基本、見に行かないことにしているのだが、これは個人的な相談に近い物だったので、恐る恐る?、しばらくぶりの、美術展を見に出かけた。


ううむ。最近は、これまで書いて来た様な、美術とは何かとか、表現することの行き先とか、そういう事は、あまり話題に登らなくなっているのだろうか。僕は最近制作をしていないので、どうにでも言えるのだが、全体に表現技術が下手なのが目立った。技術は下手でも、技術とは別な領域で訴えてくるものが美術にはあった様に思っていたのだが、それも、なかった。技術を別にしても、美術が訴えてくるものは感じられなかった。一体どうしちゃったのだ。僕が年取ったからで、昔僕が製作していた頃、その時の70歳の人たちは、同じ様にもどかしく見ていたのだろうか。

今回見たのは、彫刻展で、これで終わりにするはずだったのだが、あまりの衝撃で、次の絵画展も、見に来てみることにした。そのくらい、今の表現の必然について大きな動揺を、僕は受けた。そもそもそれは、何だったのかと言うような、ものすごく基本的な始まり方が、もう忘れられ始めているのか。いやはや。